錢形平次が門口の雪をせつせと拂つてゐると、犬つころのやうに雪を蹴上げて飛んで來たのは、ガラツ八の八五郎でした。
「親分、お早やう」
「何んだ、八か。大層あわててゐるぢやないか」
「あわてるわけぢやないが、初雪が五寸も積つちや、ヂツとしてゐる氣になりませんよ。雪見と
さう言ふ八五郎は、頬冠りに薄寒さうな
「大層風流なことを言ふが、小遣でもふんだんにあるのか」
「その方は相變らずなんで」
「心細い野郎だな。空ツ
「へツへツ」
「いやな笑ひやうだな、雪見に行かうてエ場所はどこだ」
「山谷ですよ」
「山谷?」
「山谷の
「向島とか、湯島とか、明神樣の境内なら解つてゐるが、墓と寺だらけな山谷へ雪を見に行く奴はあるめえ、||そんなことを言つて、又
「圖星ツ、さすがに錢形の親分、エライ」
八五郎はポンと横手を打つたりするのです。
「馬鹿野郎、人樣が見て笑つてるぢやないか。往來へ向いて手なんか叩いて」
「實はね親分、山谷の寮に不思議な殺しがあつたんで」
「あの邊のことなら、三輪の
「任せちや置けねえことがあるんですよ。殺されたのは吉原の佐野喜の主人彌八ですがね」
「あ、
「多過ぎるなら文句はねエが、三輪の親分は、たつた一人選りに選つて
「えツ」
田圃の勝太郎は、まだ二十七八の若い男で、もとは八五郎の下つ引をしてゐたのを、手に職があるのに、岡つ引志願でもあるまいと、今から二年前、平次が仲間に
「妹のお粂が飛んで來て、今朝三輪の親分が踏込んで、兄さんを縛つて行つたが、兄が昨夜一と足も外へ出なかつたことは、一つ屋根の下に寢てゐたこの私がよく知つてゐる。夫婦約束までした嬉し野が燒け死んでから、兄さんはひどく佐野喜の主人夫婦を
「何んだ、そんなことなら早くさう言やいゝのに」
「それに三輪の親分だが、||殺しが知れてから半刻經たないうちに
「そんなことはどうでも構はない、出かけようか八。お靜、羽織を出しな」
「有難い」
八五郎はすつかり有頂天になつて、平次の先に立つて犬つころのやうに雪道を飛びました。
山谷の東禪寺横、田圃と墓地を左右に見て、二三軒の寮と少しばかりのしもた屋が建つてをりました。その中で一番洒落たのが佐野喜の寮で、左手は奉公人達が息拔きに來る
錢形が來るといふ前觸れがあつたものか、番頭の萬次郎は心得て門口まで迎へます。
「御苦勞樣で御座います。親分さん」
「三輪の萬七兄哥が念入りに調べたさうだが、後學のために、俺もちよいと見て置きたい。佛樣はどこだえ」
「へエ||、御檢屍の御役人樣方がこの雪でまだお見えになりませんので、そのまゝにしてあります。どうぞ此方へ||」
萬次郎は先に立つて、狹いが確りした
「フーム」
二階はたつた一と間、唐紙の中へ入つた平次は思はず眼を見張りました。六疊の半分をひたして血の海、その眞ん中に贅澤な床を敷いて、主人の彌八は殺されてゐたのです。
「こんな恐しいことになりました。親分さん方」
番頭は部屋の隅にヘタヘタと坐つて、死骸から眼を外らせます。あまりの凄まじさに、正視出來ない樣子です。
「主人はこの家に一人ゐるのか」
「いえ、お鶴といふ子供が一人、手廻りの用事を足して、この家に泊つてをります。夜が明けると、あちらの
番頭の話を聽き乍ら、平次は念入りにその邊を調べました。主人は寢込んだまゝ、一刀の下にやられたらしく、脇差が喉を
「大變な力だね、親分」
八五郎は一寸その
「まさか
と平次。
「何んともありませんよ」
金具には髮の毛ほどの疵もないところを見ると、矢張り馬乘りになつて力任せに突き通したものでせう。
「青梅綿の蒲團を二枚通すのはえらい力だな」
「こいつは天狗でなきや怨靈ですぜ、親分」
「馬鹿なことを言ふな」
さうでなくてさへ、この春の火事には、延燒して來る火の手を眺め乍ら、大金の掛つてゐる十幾人の
「戸締りは念入りだな」
「へエ||、主人は大層やかましく、申しました」
と萬次郎。
平次は立つて雨戸の工合を見ましたが、何んの變化もありません。
その隣との間の雪の上に、たつた一箇所小さい穴のあるのは、上から物を放つたか、鳥が餌を探しにおりたのでせう。
「脇差は誰のだい」
「主人の品で御座います。用心棒の代りに、この二階の床の間に置いてあつた筈で」
さう説明されるとなんの手掛りにもなりません。
「昨夜主人の樣子に變つたことはなかつたのか」
「へエ||、別段變つたことも御座いませんでした」
「主人はちよい/\
用心堅固に口を
「滅多に參りません」
「それはどういふわけだ、もう少し
「お神さんがこの夏この寮で亡くなつてから、あまり良い心持がなさいませんやうで、一度もいらつしやいませんでしたが、近頃ひどく疲れたから、せめて二三日休みたいと仰しやつて、昨日久し振りでお出でになりました。私はお供をして參りましたやうなわけで、へエ」
「お神さんも、變死したのではなかつたかい」
平次は佐野喜のお神さんが、春の火事で燒け死んだ
「へエ||」
「それを詳しく聽かうぢやないか。ね番頭さん、お前さんは大層用心してゐるやうだが、前後の
「へツ」
萬次郎は膽を潰しました。疑ひは眞つ直ぐに自分を指してゐることに氣が付いたのです。
「どうだ、隱し立てなんかせずに知つてゐることは皆んな話して見ちや」
「申します、親分さん、||お神さんは、この夏の末
「その時は誰が一緒だつたんだ」
「私は參りません。離屋の方に下女のお吉と下男の音松が泊り、この寮には矢張り小女のお鶴がをりました」
「
「間違ひは御座いません。三輪の親分さんも、御檢屍のお役人樣方もさう仰しやいました」
「そのお鶴といふのに逢つて見よう」
「呼んで參りませうか」
「いや階下へ行かう」
平次とガラツ八は、狹い
「皆んなに暫くの間、向うへ行つて貰はうか」
その人數を別棟の方に追ひやつて、平次は小女のお鶴を呼出しました。
「お前はお鶴といふんだね」
「へエ」
「怖くなかつたかい」
「||」
平次の調子があまりに穩かなのと、その言葉の奧に優しく慰はる響があるので、お鶴はびつくりして顏を擧げました。お鶴の想像してゐた御用聞といふ
十四五にもなるでせうか、なんとなく目鼻立の惡くない方ですが、發育不良らしく痩せ衰へた上
「お前の親許はどこだ、||幾つで何年奉公してゐる」
平次は一ぺんに三つの問ひを投げかけました。
「川崎在で御座います。二年前十三の時、十九になる姉と二人で奉公に參りました」
お鶴の答への要領のよさ。
「姉はどうした」
「この春の火事で亡くなりました」
「さうか」
泣き出しさうなお鶴の顏を、平次は憐れ深く見やりました。多分姉妹二人、よく/\の事情で
「姉が死んで口惜しいと思はないのか」
「口惜しいと思ひました||でも」
弱くて若い女の子に、それがどうなるものでせう。お鶴は口惜しさも涙も隱さうともせず、
「兩親はないのか」
「父親は五年前に亡くなり、母親は病身で親類の家に厄介になつてをります」
平次はすつかり考へ込んでしまひました。この日蔭で干し固めたやうな少女には、彌八を殺す動機がないとは言へません。
「主人はお前によくしてくれたのか」
「||」
「給料はいくらだ」
「||」
お鶴は默つて頭を振りました。因業佐野喜は決して結構な主人でなかつたことはよく解ります。
「昨夜皆んな
「お吉さんが引揚げたのは
「それつきり寢てしまつたのか」
「は、いえ、
「どこの按摩で、何んといふ」
「玉姫の多の市といふ人で、よくこの邊を流して歩きます。御主人樣が晝のうちに往來で逢つて約束なすつたさうで、
「
「遲いからもう止さうと斷りましたが、多の市さんは
「二階へ上がつたのか」
「いえ、階下の八疊で一寸揉んで貰ひました」
「歸つたのは?」
「直ぐ歸りました。
「それから」
「御主人は二階へ行つてお休みになりましたし、私は階下で、何時ものやうに休みました」
「二階へは
「油が無駄だからと仰しやつて、何時でも直ぐ消します」
佐野喜の主人ともあらうものが、有明の種油を惜しむといふのは、一寸常人に思ひ及ばないことです。
「昨夜主人は酒を呑まなかつたのか」
「晩の御飯のとき二合位召し上りました」
「そんなことでよからう。ところで今朝の樣子を話してくれ」
平次は話頭を輕く轉じました。
「朝起きて見ると、お勝手口の戸が開いてゐて、外には大きな足跡が付いてゐました」
「確に戸は開いてゐたに違ひあるまいな」
「え、||寒い風が吹込んでゐました」
「八、雪の降り出したのは、何刻頃だえ」
平次は八五郎を
「
「降り止んだのは」
「大降りだつた割りに早く
「すると、下手人は
「え」
「お勝手口は締め忘れたのか、それとも外からコジ開けたのか」
「三輪の親分さんは、
お鶴がさう言ふ迄もなく、お勝手の雨戸にも敷居にも、大きな傷のあることは、その間に家中を嗅ぎ廻つてゐる、ガラツ八もよく
續いて下女のお吉を呼んで調べましたが、大した役に立ちさうなこともありません。
「何んにも知りましねエよ。今朝お鶴さんに騷ぎ出されて、びつくりして飛んで行つただ」
三十二三のお吉は働くのと溜める外には興味のありさうもない、恐しく頑丈な
佐野喜へ奉公に來て六年目、
「主人を怨んでる者があるだらう。お前の知つてるだけの名前を言つて見な」
「皆んな怨んでるだ。私は給料が少くて仕事が多いし、番頭さんは朝から晩までガミガミ言はれるし、音松爺さんは六十八になるが、國へ歸して貰へさうもないし、お鶴は姉の
お吉は水仕事で太くなつた指を折つて、かう勘定するのです。全く際限がありません。
「近頃主人にひどく叱られた者はないのか」
「毎日目の玉の飛び出るほど叱られるから、慣れつこになつて驚かないだよ」
「今朝の騷ぎの時お鶴が
「いえ、大きな聲をしたから驚いて駈け付けただ」
「お前が行く時、雪の上に足跡があつたかい」
「あつたやうだよ」
それ以上はこの女の
「店中は兎も角、世間の人が皆んな主人を怨んでゐるわけぢやあるまい」
「さうだよ」
「一人くらゐは怨まない者もあるだらう」
「お隣の幸右衞門親方だけは、ひどく有難がつてゐるよ」
「それはどういうわけだ」
「娘のお歌さんの親許
お吉の話によると、植木屋幸右衞門はもと鳥越で大きく暮して居たが、惡い人間に引つ掛つて
「その幸右衞門は來てゐるのか」
「第一番に飛んで來て、いろ/\手傳つてゐたが、先刻歸つたやうで」
その次に平次は、下男の音松に逢つて見ました。それはもう六十八といふ老人で、腰も曲り、齒も殘らず
給料の前借があるので、主人がなか/\川越在の田舍へ歸してくれないのが不平のやうですが、それを除けば大した文句もないらしく、結局小女のお鶴とたつた二人で、滅多に人の來ない寮の番人をしてゐるのが、反つて氣樂さうでもあります。
朝からのことを一と通り話させると、
「いや驚きましたよ。何しろ私共のゐるところからこの
「第一番にどんなことをした」
平次は爺やの耳元で聲を張上げました。
「町役人とお店と醫者へ行かなきやならないから、先づ隣の幸右衞門さんのところへ飛んで行つて手傳ひを頼みました」
「幸右衞門はまだ起きてなかつたのか」
「
「幸右衞門の家から出るか入るかした足跡はなかつたのか」
平次の氣の廻ること||、ガラツ八はそれを聽き乍ら
「雪の中の一軒家のやうに、犬つころ一匹側へ寄つた足跡もねエ。五寸以上の雪だから、たつた五六間歩くのに、足駄がめり込んで弱つたね」
意味もなく語り續ける音松老人の言葉は、植木屋幸右衞門を遠く嫌疑の外へ追ひ出して了ひます。
「往來から直ぐこの寮へ來た足跡はなかつたのか」
「ありませんよ。
音松の説明は、全く他の者||例へば勝太郎のやうなものでも、寮へ來ることの可能を證據立てます。
「お勝手にあつた足跡は足駄か草履か、それとも||」
「そこまで判らねえ、でも何んか齒の跡が見えたやうに思ふが||」
はなはだ
平次とガラツ八は、隣の植木屋幸右衞門の家へ顏を出しました。
「親方、飛んだ迷惑だネ」
平次はお世辭ものです。何にか昔馴染の家へ遊びにでも來たやうな心置きなさ||。
「へエ||、錢形の親分さんださうで、御苦勞樣で」
「俺の來ることが大層早く判つたんだね」
「お鶴坊がさう言つて教へてくれましたよ。江戸で高名な錢形の親分さんがいらつしやると||」
「ハツハツ、そいつは丁寧過ぎて謝つた。ところで親方、昨夜は何んにも物音を聞かなかつたかえ」
「何んにも知りませんよ。あれ程の騷ぎがあつたんだから五間と離れない私の家へ聞えない筈はないんですが、一杯飮んで寢たのと、大雪のせゐでせう。雪の降る晩といふものは、不思議に物音が聞えないものですね。同じ屋根の下でも階下に寢てゐたお鶴坊が知らないくらゐですから」
靜かな調子と重厚な感じの物腰が、この中老人をひどく穩かにします。中老人と言つても佐野喜の主人と同年配の、精々四十七八でせうか、もとはよく暮したといふのが本當らしく言葉の調子にも、身のこなしにも、何んとなく品格の匂ふ人柄でした。
「ところでお前さんたつた一人で暮してゐなさるのかい」
「へエ||、惡い月日の下に生れましたよ。女房に死なれた翌る年、
幸右衞門は長い眉を垂れました。この上もなく靜かですが、動亂する心の中の悲しみは平次にもよく解ります。
「佐野喜を怨む筋はなかつたのかい」
「最初は良い心持ではございませんでした。納得して金に
「成程な」
「それから、お隣に住むやうになつて、寮へいらつしやるたび毎に、何彼につけてお世話になりました。うまい物があれば屆けて下すつたり、良い醫者があるとわざ/\差向けて下すつたり、でも壽命のないものはどうすることも出來ません。長い間
娘のことといふと夢中になるらしい幸右衞門は、相手の身分の忙しいのも構はず、すつかり自分の述懷に
平次はそんなことで打ち切つて、
「この家の二階から、寮の二階を見せて貰ひたいが||」
「へエ、どうぞ」
自分で先に立つて二階に上がると、幸右衞門は窓を開けて何んのこだはりもなく平次に見せました。
窓と窓との間は三間あまり、飛付くことなど思ひも寄らず、締めきつて大雪が降つてゐたから、向うの物音が聞えなかつたといふのも無理のないことです。
「八、向うの窓へ物干竿か、丸太を渡して歩けるかい」
平次は冗談らしく窓の下に立てかけた、植木の突つかひ棒にする商賣用の丸太を指しました。
「御免蒙りませう、三足と歩かないうちにグラリと行きますよ。それに、丸太は二三十あるが、向うの窓に屆くやうな長いのは一本もないし、一パイ雪を被つて、引つこ拔いて使つたあともありませんぜ」
「物の
平次は後に立つて、酢つぱい顏をしてゐる幸右衞門を
それから念のため家の中と外廻り、隣との關係を見せて貰つて、外へ出ると、
「ところで八、あの番頭の身持と店中の評判を訊いて來てくれ」
平次はいきなりこんなことを言ひます。
「あの番頭は蟲の好かない野郎ぢやありませんか、あれが臭いんでせう」
「そんなことは追つて解るよ、||それから玉姫の多の市といふ
「それだけで?」
「それで澤山だ||俺は三輪の兄哥に逢つて訊きたいことがある。頼むよ八」
「合點」
八五郎は
番所へ顏を出すと、三輪の萬七とお
「お、錢形の。兄哥が來たといふ話は聽いたが、とんだ無駄足で氣の毒だつたな」
萬七の鼻は
「樣子を見に來たんだが、||矢張り勝の野郎が下手人だつたのかい」
「まだ白状はしねえが、お
「證據があるんだから文句は言はせねえ
「刻限は」
「雪がチラリホラリ降り出した頃だといふから、
「草履?」
「眞新しい麻裏だよ。||雪の降る前に飛出して、大降りになつてから歸つたんだらう」
「そいつは飛んだ間違ひだ、もう一度念入りに調べ直してくれ。下手人は勝の野郎ぢやないよ、兄哥」
と平次。
「何んだと、錢形の、||まさか俺の手柄にケチを付ける心算ぢやあるまい」
「飛んでもない」
「それぢや手を引いて貰はうか。勝は八五郎の下つ引だつたから、錢形の息は掛つてるだらうが、證據のあるものを放つて置くわけには行かねエ」
三輪の萬七は
「證據?」
「勝は夫婦約束までした嬉し野が燒け死んでから、ひどく佐野喜を怨んで、折があつたら仇を討つてやると、友達中に觸れ廻り、腹卷には何時も
「殺した道具は脇差だぜ」
平次もさすがにムツとした樣子です。
「手當り次第にやつたのさ、匕首よりは脇差の方が都合がいゝ」
「眞つ暗な二階で、よくそんな贅澤な道具を見付けたことだ。||ね、三輪の。俺は兄哥と張り合ひに來たんぢやねエ。どう考へても勝の野郎のしたことぢやないから、ツイ飛込んでお節介をしたまでのことだ。お願ひだからもう一度調べ直してくれ」
平次はもう一度下手に出る氣になつたのです。が、三輪の萬七は子分のお神樂の清吉の見てゐる前もあり、さう簡單には打ち解けさうもなかつたのです。
「存分に調べたよ、この上調べやうのないところまで調べたよ。それで勝をしよつ引いたが何うしたんだ」
「彌八が殺されたのはどう考へても
「それから曉方過ぎまでゐたとしたらどうだ」
「あの大雪の中に一と晩立つてゐたのか」
「寮の中にゐる
萬七は
「それに、下手人の殘した足跡は、足駄か高下駄だが、勝は草履をはいてゐたといふぢやないか」
「
「まアいゝ、兄哥の言ふのが皆んな本當として、||人を殺しに行く者が、夜泣
「膽の据つた野郎だ。呆れ返つてゐるよ」
これでは手のつけやうがありません。平次は尻尾を卷いて引退るより外はなかつたのです。
「さう言はずに兄哥」
「氣の毒だが勝は口書を取つてお係りに引渡すばかりになつてゐるんだ。助けたかつたら、眞物の下手人を擧げて來るがいゝ。錢形のお手際を拜見しようぢやないか」
萬七は子分の清吉を顧みてニヤリとしながら、
平次は悄然として外に出ました。八五郎の面目のために勝太郎を救ふ工夫は容易につきさうもありません。
田圃の勝床を覗いて見ると妹のお
「あ、錢形の親分さん」
「お粂、氣の毒だなア」
「親分さん、兄さんは矢張り||」
「むつかしいなア」
「どうしませう、私」
お粂は手放しで泣き出すのです。十九か精々二十歳でせうが、勝氣らしい下町娘も、たつた一人の兄が、人殺しの下手人で縛られてはひとたまりもありません。
「お前がなまじつか隱し立てしたのが惡かつたんだ。潔白なものなら何も細工などをすることはない、||勝は矢張り昨夜山谷へ行つたんだらう」
「え」
お粂はようやくうなづきました。
「歸つて來たのは何時だ」
「雪が降り出してから||
「亥刻半(十一時)前に歸つたことが判れば、勝は下手人ぢやない。證據があるか」
「私が||」
「お前では證人にならない。誰か知つてる者はないのか」
「さア」
お粂はハタと困つた樣子です。
それからいろ/\と訊ねてみましたが、勝太郎を救ふやうな手掛りは一つもありません。この上は、三輪の萬七が挑戰したやうに、勝太郎以外の下手人を縛つて突き出す外はなかつたのです。
「親分、今歸りましたよ。あ、腹が滅つた」
ノソリと歸つて來た八五郎は、火鉢の側へ
「色氣のない野郎だな、頼んだ仕事の方はどうだ」
「上々吉ですよ、その代り腹が減つたの減らねえの||」
「何がその代りだ」
「助けると思つて先づ五六杯詰め込まして下さい。頼みますよ」
八五郎の望に任せて、お靜は膳を
「何しろ、あれから働きづくめで、水を呑む隙もねエ」
「能書はそれくらゐにして、どんなことがあつたんだ」
「佐野喜へ行つて、番頭の萬次郎のことを訊くと、いやもう滅茶々々。奉公人共は主人の惡いところは、皆んな番頭の入れ智慧だと思ひ込んでゐやがる」
「で?」
「店の金だつて、どれだけくすねてゐるか解つたものぢやありません。萬次郎の荷物を調べて見ると、盜み溜めたらしい金が何んと三百兩も隱してあるんだから驚くでせう」
「それから何うした」
「どんな顏をするか見てやらうと、荷物をもとのまゝにして、山谷の寮から萬次郎を呼び返して見ましたよ。すると」
「||」
「店へ歸るといきなり、用事を拵へて自分の部屋へ入り、くすねて置いた三百兩のうち二百兩まで持ち出して、店の金箱へ返すぢやありませんか。
ガラツ八もなか/\うまいことに氣が付きます。
「それから何うした」
「下つ引を呼びよせて、萬次郎を見張らせ、あつしは玉姫の多の市のところへ行きましたよ。すると恐しい働き者で陽のあるうちから留守だ。仕方がないから行く先々を搜し廻つて、按摩の笛の音をしるべに、やうやく
「無駄が多いなア、多の市は何んと言つた」
「何んにも言やしません。あの家は年に二三度づつお神さんを揉みに行つたきりで、主人を揉んだのは昨夜が始めてださうで、お神さんは療治代の十二文の外に一文もくれたことがないが、主人はさすがに豪儀だ、默つて二百くれたといふことで||」
「それつきりか」
「へエ」
「佐野喜が
「これから行くんですか、親分」
「まだ日が暮れたばかりだ。できることなら、勝の野郎を番所へ泊めたくねえ。お前は疲れてゐるなら、こゝで吉左右を待つがいゝ」
平次は手早く仕度をして立ち上がります。
「冗談でせう、あつしが行かなかつた日にや勝の野郎に濟まねエ」
ガラツ八は熱い番茶をガブリとやると、口の中に火傷をし
按摩の多の市を搜すのは、全く容易の業ではありませんでした。やうやく田町を流してゐるのを突き留めて、
「佐野喜の主人は酒を呑んでゐなかつたのかい」
と平次。
「へエ、酒の氣もありませんでしたよ」
多の市の答へは先づ豫想外です。
「何にかものを言つたらう」
「何んにも言はないから少し向つ腹が立ちましたよ。世の中には無愛想な人間もあるものだが、あんなのはありません。尤も二百も祝儀を出しや、石地藏を揉んだつて腹は立ちませんがね」
「あのお鶴といふ小さい娘が取次いだのかい」
「へエ」
「療治の間主人は眠つてでもゐたのかい」
「飛んでもない、心臟が惡い樣子で、大變な
「外に何にか不思議に思つたことはないのか。揉んでゐて何にか物音が聞えるとか、他の人間の氣はひがするとか」
「さう言へば、佐野喜の主人ともあらうものが、お召物がひどく粗末でしたよ」
「それつきりか」
「もう一つ、あの人はもと職人か百姓をしたことがあるでせうか、手がひどく荒れてゐましたが」
「フーム」
平次は深々とうなづきをした。
「來いツ八」
「どこへ行くんで、親分」
「
「番頭の萬次郎ですか」
「いや、主人を殺すくらゐな奴が、後ろ暗いことをしてゐる筈はない。||お前に店へ呼び戻されてからあわてて錢箱へ二百兩返すやうぢや、あの番頭は惡い奴だが人殺しはしなかつた」
「ぢや誰です、親分」
「今に判る」
平次とガラツ八が山谷へ行つた時は、寮はお通夜でゴタゴタしてをりました。
「八、提灯を用意して來い」
「へエ||」
離屋へ行つて提灯を借りて來ると平次は八五郎とたつた二人で植木屋の幸右衞門の家へそつと入つて行つたのです。
「何をするんで、親分」
「探す物があるんだ」
「||」
平次はいきなり二階へ入ると、窓の張出しと
「これだ」
平次は勝ち
「鋸屑ぢやありませんか」
「さうだよ、もう一つ搜すものがある」
階下へ降りて念入りに搜し廻ると、縁の下へ深く投り込んだ切口の新らしい二間ばかりの丸太が四本。
「占めたツ、もう大丈夫」
喜び勇む平次の眼の前に、何時どこから入つて來たのか、植木屋幸右衞門が、しよんぼりと立つてゐるではありませんか。
「恐れ入りました、親分さん。勝さんが縛られたと聞いて自首して出る
ヘタヘタと崩折れると、兩手を後ろに廻してうな垂れるのです。
「幸右衞門、||何んだつてもう少し早く名乘つて出なかつたんだ」
「一言も御座いません。命が惜しかつたのです、||親分さん、||この私でなく、若い者の命が||」
「よし/\、神妙の至りだ。お上にも御慈悲がある、||ところで、何んだつて、彌八を殺す氣になつたんだ」
「今朝申上げたのはあれは、皆んな
「||」
「さうなると、助からない病人の世話をして
さう語り續けるうちに、幸右衞門は燃え上がる忿怒のやり場もなく、唇を噛み、拳を握つて、はふり落ちる涙を横撫でに拂ふのでした。
「この夏お神さんの死んだのは||お前のせゐではあるまいな」
と平次。
「あれは全くの自害で御座います。寮へ來て、あの窓から私の家の二階を見ると、さすがに娘に濟まないと思つたのでせう。夜中にフラフラと死ぬ氣になつた樣子です。||娘の怨みだつたかもわかりません。||ところが主人の彌八は益々丈夫で、三人も
幸右衞門の憤激は果てしもありません。
「で、昨夜、雪の降る前に寮に忍び込み、彌八が醉つて寢たのを見すまして、二階で刺したのだらう。||歸らうとすると按摩の多の市が來た。斷つても
「||」
平次の描いて行く事件の段取りは、實際と
「歸らうとしたが、丁度大雪が降つてゐて、足跡を隱しやうがない。幸ひお前が手掛けた寮の植木の突つかひ棒にする長い丸太が、寮の二階窓の下に立てかけてあつたのを思ひ出し、そこから丸太の尖につかまつて、三間も離れてゐる自分の家の二階の窓まで飛付いた。危い離れ
「||」
平次の推量の素晴らしさ、幸右衞門は自分のした事を復習されて、たゞ呆氣に取られるばかりです。
「自分の家の二階へ歸つたが、四間以上もある丸太をそのまゝにして置くと忽ち露見する。お前はそれを二階へ引入れて、四つに切り落し、縁の下に投り込んで素知らぬ顏をしてゐた。二階から二階へ丸太で橋を
「恐れ入りました親分さん。その通りに違ひ御座いません」
幸右衞門は板敷の上へ兩手を突きます。
「ところで、雪の降る前にお前を
「それは親分さん、勘辨してやつて下さい。姉を燒殺された上、自分は牛馬のやうにこき使はれてゐる可哀想な娘です。娘の母親は遠い親類の厄介になつて、生きるに生きられず、死ぬに死なれぬ目に逢つてゐると、この間も手紙が來たのを見て、私も貰ひ泣きをしました。||あの娘はたゞ戸を締めて、足跡をつけただけです。たつた十五になつたばかりの娘が、姉の
幸右衞門は幾度も/\顏を床に摺り付けました。
「よし/\、何んにも知らなかつたことにしよう。それから、俺に縛られたんぢや、お前の命を助けやうはない。見え隱れに八をつけてやるから、直ぐ番所へ駈け込み
「有數う御座います。親分さん、神とも佛とも、||」
五十近い幸右衞門は恥も體面も忘れて大泣きに泣き入るのです。
隣の寮のお通夜の經は
それを聽いたガラツ八の八五郎は、薄暗いところに引込んで、やたらと拳固で涙を拭くばかりでした。
平次の手柄に代へて幸右衞門は、佐野喜の主人の段々の不都合が知れて、下手人ながら江戸追放といふ輕い