「親分、何んかかう胸のすくやうなことはありませんかね」
ガラツ八の八五郎は薄寒さうに
「胸のすく
「そいつはあやまりますよ、親分」
「馬鹿野郎、
「疊をあげるより、
「仕樣のねえ野郎だ。そんなに御用大事に思ふなら、俺の代理に鍛冶町の
「鍛冶町の紅屋に何があつたんです? 親分」
「紅屋の居候のやうな支配人のやうな
「それぢや親分、大掃除よりそつちの方を手傳ひますよ」
八五郎は言ひ捨てて飛び出しました。
× × ×
紅屋||と言つても、手廣く唐物袋物を
その支配人の彌惣が、今朝小僧の定吉が土藏を開けて見ると、思ひも寄らぬ長持の奧||、
ガラツ八の八五郎が行つた時は、一と足違ひに檢屍が濟んで、役人はもう歸つた後。鎌倉河岸の佐吉も歸り仕度をしてゐるところでした。
「お、八五郎
「大掃除で眞つ黒になつてゐますよ」
「それでよかつたよ。彌惣の死んだのは間違ひに決つたし、唐櫃の中の八千兩の小判を拜んだだけが役得見たいなものさ。||尤もこちとらのやうな貧乏人には眼の毒かも知れないが||」
氣の良い佐吉は、さう言つて笑ふのです。
「八千兩ですつて?」
ガラツ八はさすがに
「そいつを取出さうと、石の唐櫃の中へ首を入れたところを、突つかひ棒が
「へエ||」
さう聽いただけでも、何にかガラツ八には容易ならぬものの臭ひがするのでした。
「不斷やつとうの心得があるとか、
「そいつは後學のために、現場を見たいものですね、佐吉親分」
ガラツ八は押して頼みました。
「成程、さう言はれると面倒臭がつてゐちや濟まねえ。幸ひ現場はそのまゝにしてあるから、先づ死骸から見て行くがいゝ」
鎌倉河岸の佐吉はガラツ八を案内して、もう一度紅屋の奧へ引返しました。
店から住居を拔けると、裏は二た戸前の土藏と物置があつて、その間に彌惣父子の住んでゐる小さい家があります。
「どうして紅屋の先代が、あんな男を店へ入れたか、||死んだ者の惡口をいふわけぢやねえが、彌惣といふのは一と癖も二た癖もある男だつたよ」
五十男の佐吉は、平次には幾度も/\助けられてゐるので競爭意識を離れて、ガラツ八にかう話して聽かせるのでした。
彌惣の家は
「氣の毒だが、錢形の親分ところの八五郎兄哥が一寸拜んで行きたいと言ふから||」
佐吉が辯解しながら入ると、
「どうぞ、よく御覽下さいまし。私はどうも、親父が怪我や
さう言つて案内してくれたのは、死んだ彌惣の伜で、二十五になるといふ彌三郎でした。もとはどんな暮しをしたか判りませんが、商人には向きさうもない肌合ひの男で、少し取りのぼせてはゐながらも、言ふことはひどくキビキビしてをります。
「あ」
「ね、親分さん、あんまり
彌三郎は側から血走る眼で見上げます。
死骸は全く二た目と見られない
「氣の毒なことだつたな。||ところで、ほんの少し訊きたいことがあるが」
ガラツ八は平次仕込みにきり出しました。
「へ、どんなことでも訊いて下さい。親分さん。||私の口から言ふと變ですが、親父は石の唐櫃の蓋に挾まれて死ぬなんて、そんな間拔な人間ぢやありません」
「やつとうの心得があつたといふぢやないか」
と八五郎。
「自分では目録だと言つてゐましたが、少しは
彌三郎はそんなことを言ふのも少し得意さうでした。
「紅屋とは、どんな引つ掛りがあつたんだ。三年ほど前にこの家へ入つたといふ話だが」
ガラツ八は問ひ進みます。
「先代の旦那が若い時、
「土藏の石の
八五郎の問ひは方向を變へました。
「少しも知りません」
「父親は?」
「そりや、店の支配を頼まれたくらゐですから、知つてゐたでせう」
「昨夜家を拔け出して、土藏へ入つたことをお前は知つてゐた筈だと思ふが」
「氣がつきませんでしたよ。部屋が離れてゐる上、私は大寢坊で」
さう言はれると、それつきりのことです。
問題の土藏は小さい方の雜用藏で、そこには
しかも山のやうに積んだ雜物の奧、
覗くと中は幾千枚とも知れぬバラの小判、||その上に二つの千兩箱を載せて、土藏の薄暗い中にも、入口から射す光線を受けて、眞新しい
何んとはなしに寒氣がするやうな情景の中に、八五郎は精一杯の注意と、柄相應の威嚴とで調べを始めました。
「親分さん、御苦勞樣で||」
若主人の藤吉は役所から歸つたばかりの顏を出します。二十三といふにしては、ひどく若々しいのは、大
「こんなところに八千兩の大金を隱してあつたのは、誰と誰が知つてゐなすつた」
ガラツ八は始めました。
「亡くなつた父親と、私と、それから番頭の彦太郎だけでございます」
「番頭の彦太郎?」
「私でございます」
四十二三の
「死んだ彌惣は知らなかつたのか」
ガラツ八は突つ込みました。
「知る筈はございません。彌惣は昨今の者ですから」
若主人の藤吉はきつぱりと言ひきります。
「いえ、若旦那のお言葉ですが||親父は紅屋の支配人ですから知つてゐたに違ひないと思ひます。その證據には||」
「その證據には?」
八五郎は問ひ返しました。
「こゝへ來て唐櫃を開けたくらゐですから、知つてゐたに違ひありません」
さう言へば何んの變哲もありません。
「知つてゐて、やましいことがないのなら、夜更けにそつと入る筈はないと思ふが||」
「||」
八五郎の疑ひはその上へ行きました。
「八千兩の隱し場所を、人に知られたくなかつたんでせう」
彌三郎はこともなげに説き破ります。
「提灯があるやうだな」
側の空箱の上に置いた小田原提灯を、八五郎は取上げました。提灯は疊んで半分ほども使つた
「これは誰が持つて來たんだ」
「大方、昨夜彌惣が持ち込んだものでせう。店の
と藤吉。
「今朝死骸を見付けた小僧さんを呼んで貰ひたいが||」
「へエ||」
番頭の彦太郎が店の方へ行くと、間もなく十三くらゐの利發さうな小僧をつれて來ました。
「私でございますよ、親分」
「今朝の樣子を
「へエ||、いつものやうにお店から甲府の出店へ送る商賣物の荷造をする
「どんな鍵だ」
「鐵の大きな鍵ですよ。先の曲つた、太い柄の付いた」
「で、どうした」
「滅多にないことですが、仕方がないから若旦那に申上げて、神棚に載せてある、替へ鍵を拜借して開けました」
「その替へ鍵は滅多に使はないのだな」
「十年に一度使つたり五年に一度使つたり、滅多に持出しません」
若主人の藤吉は答へました。
「近頃は?」
「七八年使はなかつたやうです。神棚からおろした時は、大變な
「それから」
八五郎は小僧の定吉を
「替へ鍵で開けて入ると、平常使つてゐる鍵は、藏の中に
小僧の定吉はゴクリと固唾を呑みます。
「その蓋に挾まれてゐるのが、すぐ彌惣と判つたのか」
「え、朝つから見えないつて騷いでゐたんですもの。その着物も晝のまんまだし」
定吉は賢くも、いろ/\のことに氣が付くのです。
鎌倉河岸の佐吉を先頭に、皆んな土藏の外へゾロゾロと出た時、
「親分さん、||變なものに氣が付きませんか」
彌三郎は八五郎の耳に囁くのでした。
「何んだ」
「一寸來て見て下さい」
もとの土藏の中へ引き返すと、彌三郎は後の方にハネのけた唐櫃の蓋の下から、ほんの少しばかりはみ出してゐる品物を指さしてゐるのです。
「何んだ?」
「何んだか解りません。引出して見ませう」
「よし」
八五郎は手を掛けて引いて見ましたが、石の蓋があまり重かつたのと、はみ出してゐる品が、指が二本かゝるのが精一杯なので、力自慢でもこればかりはどうにもなりません。
「二人でやつたら、少しは動くかもわかりませんね」
「それぢや呼吸を揃へて動かして見よう。ひの、ふの、み||と」
八五郎と彌三郎と二人の力を併せて、ほんの少しばかり
「出ましたよ」
「何んだ懷中煙草入ぢやないか||
「||」
彌三郎は默り込んでしまひました。
「こいつは誰のだ、知つてるだらう」
「私からは申上げられません」
「何?」
八五郎は一寸氣色ばみましたが、思ひ直した樣子で、そのまゝ外へ出るとその邊に
「お前にしちや上できだよ」
錢形平次は八五郎の報告を聽きながら、すつかり考へ込みました。
「これがどんなことになるでせう、親分。彌惣は矢張り
八五郎は覺束なくも爪を噛みます。
「解つてゐるぢやないか、彌惣は間違ひもなく人に殺されたのさ」
「へエツ」
八五郎は仰天しました。自分が掻き集めて來た材料で、親分の平次は一體何を見拔いたのでせう。
「煙草入が落ちてゐたり、提灯が消えてゐたり、死んだ彌惣の細工でないことは解りきつてゐるぢやないか」
「?」
「先づ提灯のことを考へるがいゝ。彌惣が持込んだ提灯で外に誰も人がゐなかつたら、
「なーる」
「土藏の中で蝋燭はひとりで消える筈はないよ。半分も燃え殘つてゐるのは、誰か消した證據だ」
「へツ」
「彌惣がまさか提灯の蝋燭を吹き消して、それから石の唐櫃に首を突つ込んで死ぬ筈はあるまい」
「すると?」
「もう一人、人間がゐた筈だ。||彌惣の相棒かも知れない。彌惣が唐櫃の蓋に首を
「?」
「唐櫃の蓋は一人ぢや開きさうもない。尤も仕掛を考へ出せば別だ」
「あの蓋は、一人の力ぢやどんなことをしても動きませんよ。下敷になつた懷中煙草入を引出すのでさへ二人がかりでやつとでしたよ」
「その煙草入も面白いな」
平次は他のことを考へてゐる樣子です。
「彌惣と一緒に土藏の中へ入つたのは、煙草入の持主の若主人ぢやなかつたでせうか。彌惣と若主人は仲が惡かつたさうですよ」
「いや、そんな筈はあるまい。||若主人が彌惣と相棒になつて土藏の八千兩を夜更けに見に行く筈はない」
「彌惣に
と八五郎。
「脅かされて行つたか、||成程そんなこともあるだらうな。でも、昨夜のは若主人ぢやないよ」
「どういふわけです、親分?」
「夜更けに、
と平次。
「成程ね」
「だが、そんな重い石の蓋の下にあつたのはをかしいな。||今朝小僧が死骸を見付けたのは何刻だ」
「早かつたさうですよ。
「自慢の懷中煙草入を持つてゐる時刻ぢやないな」
「すると、どんなことになるでせう、親分」
「こいつは思つたより奧行が深いよ。もう一度引返して、死んだ彌惣と伜の彌三郎の素性。それから身持。紅屋の先代と彌惣の掛り合ひ、若主人藤吉と彌三郎の仲が惡くないか。||そんなことをよく聽き込んで來るがいゝ。俺も少し聽き出して來ることがある」
平次は仕度もそこ/\に出かけるのです。
それから半日、夕景近くなつてから、錢形平次と八五郎のガラツ八は、紅屋の店先でハタと逢ひました。物蔭に八五郎を呼んだ平次は、
「どうだ八」
「みんな解りましたよ」
「どんなことが?」
疊みかけて忙しさうに訊ねます。
「若主人の藤吉と、彌惣の伜の彌三郎が、番頭彦三郎の娘のお
「そんなこともあるだらうな。それから」
「亡くなつた先代の藤兵衞は、彌惣をひどく嫌つてゐたが、何にかわけがあつて、追ひ出すことも出來なかつたさうですよ。||彌惣と來たら、酒亂で我儘で贅澤で手の付けやうがなかつた||」
「無理もない。あの男は
「そんなことまで親分は知つてゐたんですか」
ガラツ八は驚きの中にも出し拔かれ氣味で、少しばかり不平さうでした。
「二人の調べが合ひさへすればそれでいゝのさ。それより明るいうちに、もう一度土藏の中を見せて貰はうか」
平次はガラツ八一人をつれて、土藏の中に入り込みました。幸ひ秋の西陽が入口から深々と射し込んで、晝前に八五郎が來た時よりは反つていろ/\の細かいところまでよく見えます。
現場は八五郎の報告通り、何んの變化もありませんが、平次は一生懸命土藏の中を探してゐるうち、たうとう長いのは一尺五寸ほどから短いのは五寸ほどまでの、頑丈な棒を五六本見付けました。多分土藏の修繕でもした時、
「八、懷中煙草入はこの蓋の下にあつたと言つたな」
「へエ、||二人掛りで引つ張り出すのが精一杯でしたよ」
「そいつを一人ではめ込む工夫があるんだ。その煙草入を借りて來てくれ。それから
「へエ、||」
八五郎は飛び出すと、間もなく潰れた煙草入と鎌倉河岸の佐吉とその子分を三人までつれて來ました。
「錢形の、何にか又嗅ぎ出したのかい」
佐吉はさう言ひながらも、他意のない笑顏を見せるやうな肌合ひの男でした。
「變なことがあるんだ。ちよいと手を貸してくんな」
平次も
「いゝとも」
「懷中煙草入は、場所柄に不似合ひな品だと思はないか、佐吉親分は?」
「さう思ふよ。だから彌惣が殺されたと聞いても、仲が惡かつた若主人を縛る氣にならなかつた」
「
平次は一尺五寸ほどの棒を、石の蓋の
「あツ」
「この通りだ。煙草入は若主人を怨む者が、後で差し込んだのさ。その證據は皆んな揃つてゐる。それから、この蓋を
それは骨の折れる仕事でしたが、力自慢の大の男が六人で、どうやらかうやら石の蓋を唐櫃の上へ載せました。蓋は少しの隙間もなく、ピタリと唐櫃の上に納まつて、二人や三人では、一寸も透かせさうもありません。人間が首を突つ込むほど開けるためには、どうしても三四人の力を
「これを一人で開けるのが仕掛けだつたんだ」
平次は
「あツ」
蓋はまさに三寸ほども口を開いたのです。素早く左手を働かせて、その隙間に短かい棒を挾んだ平次は、同じ作業を幾度か繰り返してゐるうちに、たうとう一番長い一尺五寸の棒を唐櫃と石の蓋の間の突つかひ棒にし、人間が上半身を入れて、樂々と千兩箱を取出せるほどの大きな口を開けさせてしまつたのです。
「こゝへ彌惣が首を入れた。彌惣ほどの者も唐櫃の中の小判に眼がくれて、突つかひ棒に附いてゐる眞田紐などには氣が付かなかつた」
さう言ひながら平次は、手頃の空箱を一つ、唐櫃の蓋の間に挾み、
「腕づくでは、彌惣をどうすることもできなかつた
言葉と共につゝかひ棒の紐を引くと、
「あツ」
ガラツ八も、佐吉も、佐吉の子分も思はず聲をあげました。突つかひ棒は苦もなく取れて、百貫近い石の蓋が落ちると、間に挾んだ木の小箱は、
「それをやつたのは誰だ、錢形の」
鎌倉河岸の佐吉は詰め寄ります。
「そこまでは考へなかつたよ。||下手人はこれから搜すんだが」
平次は深々と腕を組みました。赤い夕陽が土藏の中へ長々と這つて、まだ拭き清めもせぬ血潮の跡を不氣味に照らします。
それからガラツ八と佐吉は、下つ引を動員して調べ拔きましたが、彌惣を一番邪魔にしてゐさうな若主人の藤吉は、その晩持病の腹痛を起して、
こんな騷ぎがあつたと知つたら、石の蓋の下へ、骨を折つて懷中煙草入を差込む者もなかつたでせう。
日頃彌惣に
「すると一體、誰が彌惣を殺したんだ」
ガラツ八が不平らしく言ふのを、
「俺と一緒に來るがいゝ。
平次は、その晩遲くなつてから、八五郎と一緒に鍛冶町の裏の、さゝやかな家の、番頭の彦太郎を訪ねたのです。
「どなた樣でせう?」
灯を持つて、入口に迎へた娘お筆の、

「父さんは、ゐるかい」
「え」
「平次が來たと言つてくれ。||いや取次ぐまでもない、お前に少し訊きたいことがある」
「ハイ」
「この
「?」
平次の出した眞田紐の不氣味な謎が分らなかつたものか、お筆は大きい眼を見張りました。細面の大きい眼の、やさしい
「父さん、今晩は飮んでるかい」
「いえ、ちつとも」
「昨夜も飮まなかつたらう」
「え、||どうしてそんなことを」
「毎晩一合づつ飮むのを樂しみにしてゐることは、角の酒屋で聽いたが、昨夜と今晩は酒もうまくはなかつた筈だ」
お筆は何んと言つて取次いだものか、後ろの方を氣にしながら、途方にくれて入口に坐つてしまひました。
「彌惣は惡い奴だ。お上でも調べは付いてゐる、||紅屋へ入り込んで、主人や彦太郎を
平次は上がり
「若主人の代になると、彌惣の伜の彌三郎が、道樂を教へ込むのに骨を折つたが、若主人の藤吉はよくできた人間でどうしても惡い方に向かない。仕方がないから彌惣は、番頭の彦太郎を脅し||多分刄物くらゐは持出したことだらう。たうとう土藏へ案内させて、石の唐櫃まで開けさせた」
「まア、父さんが、そんなことを」
お筆は顏色を變へて立ちかけるのを、平次は靜かに留めながら續けました。
「俺の言ふことが違つてゐるなら、お前の父さん、||紅屋の番頭彦太郎は、隣の部屋で默つて聽いてはゐない筈だ。||いゝか、何がどうあらうとも、人を殺して許されるわけはない。俺は踏込んで、父さんを縛つて行くのはわけもないが、それではお上にも慈悲のかけやうがない。言はゞ忠義のためにしたことだ。十手捕繩を預つてはゐるが、俺にはどうも彦太郎が縛れない。||いゝか俺は教へるわけぢやないが、岡つ引に縛られる前に、八丁堀の組屋敷へ驅け込んで、笹野新三郎樣御役宅に自首して出るがいゝ。自首をするとよく/\の罪でも御手加減がある。死罪が遠島、遠島が
「||」
「ましてお前の父さんは、お主の家を思つてしたことだし、相手は兇状持だ。精々遠島か所拂ひ、極く/\輕いお
平次はそれが教へたかつたのです。娘のお筆も前後の事情を察したものか、唯もう泣き濡れて、顏を擧げる氣力もありません。
「親分さん、有難う御座います」
隣の部屋の彦太郎は泣き聲で續けました。
「確かにこの私、||彦太郎が下手人に違ひはありません。みす/\お主の仇と知りながら、訴へるほどの證據もなく、腕づくでは
「どつこい、障子を開けちやならねエ。お前の顏を見ると俺は縛らずには歸られないことになる。||そのまゝ裏口から、八丁堀へ駈け付けるのだ。いゝか」
平次は何も續けるのでした。
「||間違つても、俺の指圖だなんて言ふな。分つたか」
「親分さん、心殘りは、||この娘、お筆のことで御座います」
「心配するな。お筆は俺が引受けて、年内には紅屋に嫁入りさせてやる」
「有難い、親分さん。それぢや、お頼み申します」
「あれ、父さん、私も」
お筆はあわてて父の跡を追ひましたが、その顫へる肩は裏口に待機してゐた八五郎に押へられて、父親の彦太郎だけが、後ろを見返り/\路地の外へ遠ざかつて行きます。
× × ×
その後のことは言ふまでもありません。死んだ禰惣は
その間にお筆は、平次が親元になつて、紅屋に嫁入りし、煙草入細工をして、藤吉を
一件が落着してから、ガラツ八がいつもの調子で繪解きをせがむと、
「何んでもないよ。||提灯の
平次はかう言ふのでした。