「考へて見ると不思議なものぢやありませんか。ね、親分」
八五郎はいきなり妙なことを言ひ出すのでした。明神下の錢形平次の家の晝下がり、
「全く不思議だよ。晝飯が濟んだばかりの腹へ、よくもさう
平次は八五郎の話をはぐらかして、感に堪へた顏をするのでした。
「そんな話ぢやありませんよ。あつしの不思議がつて居るのは、江戸中の人間が腹の中で、いろんな事を考へて居るのが、若しこの眼で見えるものなら、さぞ面白からうと言つたやうなことで||」
「あの
「まア、そんなことで」
八五郎は
「安心しなよ、お前のことなんか考へちや居ないから」
「有難い仕合せで、へツ」
「誰が何を考へてゐるか、一向わからないところが面白いのさ。こいつが皆んな眼に見えたひにや、大變なことになるぜ、||第一こちとらの稼業は上がつたりさ」
「大の男の腹の中が、哀れな戀心で一パイで、可愛らしい娘が喰ひ氣で張りきつて、立派な御武家の腹の中が金慾でピカピカして居るなんざ、面白いでせうね」
「言ふことが馬鹿々々しいな。さう言ふお前の腹の中には、一體何があるんだ」
「戸棚の中の大福餅ですよ、||
「呆れた野郎だ、||お靜、大福餅を出してやつてしまひな。そいつは見込まれたものだ、他の者が喰ふと、八五郎の
「へツ、へツ、さすがに錢形の親分は天眼通で」
八五郎は底が拔けたやうに笑つて居ります。
これは
「親分、大變ツ」
其處へ飛び込んで來たのは、平次の子分の八五郎の又子分の下つ引の又六といふ、陽當りの良くない三十男でした。ノツポの八五郎と
「何んだ、又六ぢやないか、何が大變なんだ」
八五郎はそれでも一かど親分顏をして、縁側へ長んがい顎を持出します。
「御數寄屋橋から息も
「恐ろしく長い息だな」
「無駄を言はずに、話を聽け、八」
「へエ」
平次に叱られて八五郎は間伸びな
「御數奇屋橋の御呉服所
「さうか、御苦勞々々々、笹野樣のお言葉ぢや行かなきやなるまい」
平次に取つては年來の知己でもあり、恩人でもある、吟味與力の笹野新三郎が、事件がむづかしいと見て、又六を神田まで走らせたのでせう。
平次と八五郎と又六は直ぐ樣數寄屋橋まで
三島屋祐玄といふのは、一石橋を架けたといふ後藤縫殿助を筆頭に、七軒の公儀御用を勤むる御呉服所のうちの一軒で、言ふ迄もなく士分の扱ひを受け、公儀御手當の外に、莫大な利分をあげて、豪勢な暮しをして居る家柄だつたのです。
「おや、錢形の親分。親分が來て下されば安心で」
その豪勢な店口に迎へてくれたのは、番頭の幸七でした。五十年輩の氣むづかさうな男ですが、その代り三島屋に三十七八年も奉公し、この店から自分の葬ひを出して貰ふつもりで居る、支配人です。
幸七の後ろには、好い男の手代良助、
番頭に案内されて、先づ主人祐玄の殺された部屋に通つて見ると、これは
亡くなつた主人の祐玄は、女房に死に別れた淋しさを忘れるために、一日の半分は此處へ引込んで、お茶を立てたり、物の本を讀んだり、まことに
梯子段は母屋の方から續く廊下を經てたつた一つ、その
「此處に私が頑張つて居りますので、夜中に二階の主人の部屋へ變な者が行ける筈はないのですが||」
幸七が以ての外の顏をするのも無理のないことです。二階の取つ付きは長四疊で、その次が主人の部屋の六疊になります。中は一應取片付けてありますが、檢屍が濟んだばかりで、新しい蒲團の上へ、主人の死體はそのまゝ横たへられ、形ばかりの香花を供へて、若い伜の祐之助と、娘のお菊が
部屋の木口や調度は、御數寄屋好みで
伜祐之助と娘お菊は、默禮して後ろへ引下がると、入れ換つて平次は死體の側に進みました。
六十年配の洗練された老人の顏は、苦惱に
「紐はあつた筈だが||」
「これでございます||今朝見付けた時は、主人の身體はもう冷たくなつて居りましたが、兎も角一應の介抱をいたしました。その時首からその紐を解かうといたしましたが、
番頭の幸七はさう言つて、結び目のところで切つた眞田紐を見せました。
「これは誰の紐か、わかるだらうか」
「へエ、手代の良助が、前掛の紐にするつもりで、取つて置いたのでさうで||」
幸七はいかにも言ひ
「外に變つたことは?」
「これも申上げ
幸七は言ひ
「言はずに濟むことではあるまい。主人の下手人を逃がしたらどうする」
平次は容赦のならぬ調子になります。
「
「その多賀といふ方の部屋は?」
「店の裏の四疊半で、此處からは大分離れて居ります」
「主人と昨夜逢つてでも居るのか」
「飛んでもない。用心棒代りの掛り人には違ひありませんが、お身持が宜しくないので、近頃は主人とも面白くないことになり、いづれはお引取り頂くやうな話になつて居りました」
番頭の幸七は言ひ難いと言ひながら、進んで
「外には主人を怨むものは?」
平次の問ひは定石的です。
「そんなものは有る筈もございません。公儀御用は勤めて居りますが、まことに物のわかつた主人で、町内でも評判でございました」
「それほどの人でも、掛り人の多賀とかいふ人と仲たがひをしたではないか」
「それはもう、怨む者の勝手で、||例へば下男の權三などは、遠縁の血のつながりを言ひ立てて、どうかすると主人に突つかゝつて居ります」
「それはどういふ男だ」
「主人の
「その男は此處に居るだらうな」
「庭の隅の物置||と申しても先々代の主人が隱居所に使つたところで、其處を一と間だけ片付けて住んで居ります。今は丁度お寺へ使ひに參つて居りますが||」
幸七は齒に衣着せない男でした。奉公
「ところで、昨夜のことを
平次は話題を變へました。幸七の無遠慮な言葉に少し當てられた樣子です。
「主人はいつものやうに宵のうち早目に二階へ引取り、お松さんの世話で寢酒を一合||それは毎晩のことでございます。主人はお酒は好きですが弱い方で、一合くらゐやるとぐつすり眠られると申して居りました」
「お松さんといふのは?」
「主人の
「そのお松さんが二階から降りたのは」
「
この姪が人氣者らしく、番頭の幸七までが妙に
平次は立上がつて部屋の内外を調べました。床も天井も異状がなく、押入には少しばかりの道具と蒲團があるだけ、戸締りは案外呑氣ですが、此處から曲者の入つた樣子はありません。といふのは、洒落れた
四枚の雨戸は今朝、死體を發見した姪のお松が開けた時、何んの異状もなかつたといふと、殘るは北側の腰高窓だけですが、此處へ登るには、
「窓の外には大きな
八五郎はうさんな鼻を窓から出して見ました。
「庇が
「へエ」
八五郎は外へ飛び出しましたが、間もなくつまゝれたやうな顏をして戻つて來ました。
「どうだ八、でつかい足跡でもあるか」
「北側は
「こりや飛んだむづかしいことになりさうだよ。兎も角皆んなに合つて見よう」
平次も
「ちよいと」
梯子段の下の、薄暗い物蔭から、そつと平次に聲を掛けた者がありました。八五郎と又六は庭へ飛び出し、番頭の幸七は二階へ殘つて、平次たつた一人になつた折を狙つた相手でせう。
「||」
默つて振り返ると、白い顏が滑るやうに平次の側へ、
「お願ひですから、番頭さんの言ふことを本當になさらないで下さい。權三さんは叔父さんを怨んでなんか居ませんし、一本調子なところはあつても根が氣の良い人です。番頭さんは、自分が時々突つ掛かられるので、あんな事を言ひますが||お願ひですから、どうぞ||」
少しおど/\して居りますが、二十五六のそれは良い年増でした。
「お前は、お松さんとか言つたネ」
「え、お願ひですから」
お松はさう言つて、次の問ひも待たずに、ヒラリと逃げてしまひました。地味な
梯子段の下は番頭の部屋で、たつた三疊の入口が階子段の方に向いて、まるで關所のやうに見えるのが注意を
「ちよいと待つた。若い衆、お前は、權三とかいふんだね」
「へエ、よく御存じで」
尻切
「ちよいと聽き度いが、お前は身代と身柄を、此處の主人||亡くなつた大叔父さんに預けられて居るさうだね」
「へエ、あの番頭が、そんな事を申したのでせう。身代と言へば
「でも、いくらか見當はつくだらう」
「地所と家作が少々、それに金が||世帶を仕舞つた時の殘りが、五六百兩あると聞いて居りますが、本當の
「何時からそれを預けてあるんだ」
「五年前、親父が死んだ時の遺言でございました。||今ぢやもう私はあんなものを當てにはして居りません」
「主人||と言つてもお前には大叔父だが、その主人はお前によくしてくれたのか」
「善いも惡いもありやしません。五年といふ長い間、この
「お松さんとか言つたが、ありやお前と何にか掛り合ひでもあるのか」
「へツ、
こんな
「
平次の最後の問ひは露骨でした。
「あの物置の中の自分の寢床にもぐつて居りました。たつた一人で、誰もそれを見て居たわけぢやありませんが」
權三は苦笑ひするのです。
伜の祐之助は十八、まだ親の慈悲の蔭に、平凡な良い息子として育つて居るだけ、その妹のお菊は十五の小娘で、父親の命を
手代の良助は二十八。これは典型的なお
「主人はことのほか眼を掛けて下さいました。來年はお禮奉公も濟みますので、||いよ/\
「店を持つなら、
平次は唐突な問ひを
「へエ、それが、その」
「お松さんに、うるさく附き纒つて居るといふではないか」
「飛んでもない、親分さん。あれは飛んだ固い女で」
さてはこの色男奴、覺えがあるのだな||と言つた顏をする八五郎を押へるやうに、平次。
「お前は
「へエ、へエ」
八五郎は不服らしく立去ります。
「ところで、主人の首には、お前の眞田紐が卷きつけてあつたが、それは知つて居るだらうな」
「へエ、その事でございます。私も一時はびつくりいたしましたが、繩にも紐にも不自由があるわけはございません。本當に人でも殺さうと言ふものが、自分の持物と知れ渡つて居る、眞田紐などを持出すでせうか」
良助は
「俺も一度はさう思つたが、||一方ではさう思はせるやうに、わざと自分の持物で、大それた事をする
「親分、じよ、冗談で。私は氣が小さいのですから、どうぞ
良助はまさに追ひ詰められた鼠です。
「その男が氣が小さいか小さくないか、お松に訊いて見るが宜い。あのか弱いのを
ヌツと顏を出したのは、浪人多賀小三郎。
その頃の大町人が掛り人といふ名義で養ひ、
「多賀さんでせうね」
「その通りだ。多賀小三郎、昔の身分を言つても仕樣があるまい。今は三島屋の奉公人同樣、變な野郎が來ると長いのを
三十五六の青髯、存分に虚無的で、人を
「主人との仲が惡かつたやうに聽きましたが、近頃はどうでした」
「いや、少しばかり勝負事に手を出したのが、頑固な主人の氣に入らなかつたのだ。
「昨夜はどうなさいました」
「お濠端の居酒屋で、一パイきめて歸つたのが
「煙草入が梯子の下に落ちて居ましたが、ありや多賀さんのださうで||」
「嫌な事を言ふなよ。なア、平次親分。人でも殺さうといふ曲者は、どんな
妙な論理ですが、考へて見るとそれは、手代の良助の論理を一歩進めただけのことです。
「多賀さんの考へで、主人を殺しさうなのは誰でせう。家中の者には違ひないのですが||第一、外から入つた樣子は少しもないのは御承知の通りで」
平次はこの虚無的な浪人者の口から遠慮のないことが聽き度かつたのです。
「番頭の幸七かな」
「え?」
「ありや
多賀小三郎も齒に
小僧の庄吉は白雲頭の何んにもわからず、平次は最後に家中の人と人の關係、近所の噂、わけても番頭幸七の溜めつ振り、手代良助の身持、浪人多賀小三郎の懷ろ具合などを、八五郎と又六に調べさせて、自分は一と先づ歸る外はなかつたのです。
それから三島屋
八日目の朝でした。
「親分、變なことになりましたぜ」
飛び込んで來たのはガラツ八の八五郎です。
「何が變なんだ」
「昨日は三島屋の初七日でせう。親類中が集まつて、
「思ふよ、||それがどうした」
「先づ三島屋の
「當り前だ。先を急いでくれ」
「娘のお菊は良縁があつて嫁入りする時、持參金が千兩||大したものですね、あのきりやうで一と箱の持參だ」
「少し若過ぎるよ。たつた十五ぢやお前の年の半分だ」
「あつしが貰はうなんて言やしまん[#「しまん」はママ]、||それから、番頭の幸七は思ふ
「それから?」
「それからが大變で||
「?」
「それを聽いて驚いたのは番頭の幸七でしたが、もつと驚いたのはあの下男の權三でした。尻切
「そんな事もあるだらうな」
「それきりぢやまだお話になりません」
「まだ話があるのか」
「それからが大變で」
「早くぶちまけな、何があつたんだ」
「小舟町の佐吉親分が、前から
「フーム」
「幸七は溜め込んでゐることは確かで、伊勢町に妾を
八五郎の報告は重大でしたが、
「待て/\、それぢや幸七は下手人ぢやないぜ」
「へエ?」
平次は妙なことを言ふのです。
「下手人が梯子の下に寢て居て、夜中に誰も二階へ行つた者はないなどと言ひ張るのも變だし、すぐ知れる筈の妾の家へ、千兩近い金を隱して置くのも呑氣過ぎやしないか」
「さう言へばさうですね」
「よし/\、もう一度俺が行つて見よう」
平次はもう一度、徹底的に調べて見る氣になつたのです。
三丁目の三島屋は主人の死んだ時にも
「錢形の親分さん、||番頭さんは縛られて行きましたが、今度は私が狙はれさうで、氣味が惡くてなりません。どうぞお調べ下すつて本當の下手人を擧げて下さい」
奧へ通る平次の後ろから、クドクド
「錢形の親分さん、番頭は可哀想ですよ。ありや、慾が深いだけで、人なんか殺せる人間ぢやありませんよ」
「お前は何にか思ひ當ることがある樣子だな」
「飛んでもない、私に何がわかるものですか。それよりこの間のお調べに見落しがなかつたか、もう一度二階の窓のあたりを調べ直して下さい。小舟町の佐吉親分ぢや、
權三はお仕舞を獨言にして、クルリと背を向けるとスタスタと庭から出て行つてしまひました。
平次は何やら考へて居りましたが、思ひ直した樣子で二階へ登つて行きます。
「親分、イヤな野郎ですね。變な
八五郎はその後に續きました。
「掛けられた謎は解かなきやなるまいよ」
二階の二つの部屋は、よく
北窓||三尺四方ほどの小窓は閉したまゝですが、これは上の
平次は念のために、ガタピシさせ乍ら小さい二枚の雨戸を外して見ました。
「あツ」
さすがの平次が、立ち
朽ちかけた板庇の上、人が踏めば一とたまりもなく落ちるか、落ちない迄も
平次が驚いたのは、そればかりではありません。板庇の上、窓とスレスレのあたりに、頭の上へ伸びた青桐の大枝から、一本の丈夫さうな綱が、これを傳はつて降りましたと言はぬばかりに、フラフラと垂れて居るではありませんか。
「曲者は此處から入つて主人を殺したのですね」
「その通りだよ、俺はそれに氣が付かなかつたのだ。青桐の根のあたりに足跡がなかつたので
曲者はこの板一枚を利用して、土藏の軒下の乾いたところから、青桐の根まで近づき、青桐の上にその板と綱を持つて
「流しの泥棒か何んかでせうか」
八五郎も尤らしく頭を
「いや、この家の中のことをよく心得たものだ。それに何んにも盜られたものがない、主人の部屋には、かなりの金が置いてあつた筈だ」
「すると」
「待て/\、さう先を急いぢやいけない。||その
「へエ」
八五郎は手を
「その手拭が誰のか、聽いて來るんだ」
八五郎は手拭を持つて飛んで行きましたが、間もなく勝誇つた聲をあげて戻つて來ました。
「あの下男の權三の手拭ですよ。家中で知らない者はありません」
「||」
「この前見た時は、板も綱も、手拭もなかつたでせう。本當の下手人が、權三を罪に落す氣で、こんな細工をして見せたんぢやありませんか」
八五郎は又先を潜ります。
「いや、曲者は權三を罪に落す氣なら、外にいくらでも
「すると」
「主人の遺言を讀んで、權三はひどく泣いて居たと言つたな」
「へエ、大の男のあんなに泣くのを、あつしは見たこともありません」
「その權三がさつき、この仕掛を知つて居るやうな口振りだつたな」
「いやな謎を掛ける奴だと思ひましたよ」
「その權三が何處に居る、見付けて來い」
「へエ」
八五郎と又六は飛びましたが、その時はもう權三の姿は何處にも見えなかつたのです。店中の者に訊くと、
「權三はつい今したがた、何處かへ行きましたよ。
こんな話で口が揃ひます。
「しまつた。八、手配を頼むぞ、||何にか持つて行つたか? 何、
平次は夢中になつて號令して居ります。
× × ×
果して權三とお松の死體は五日目に永代の土手に上がりました。五日の間二人は此世の歡樂を極め、五年越し祕めた戀を爆發的に味はひ盡して、その絶頂から死へと一足飛びにしたのでせう。
一件落着の後、八五郎の問ふがまゝに平次は説明してやりました。
「權三は叔父の祐玄を怨んで居たのだ。五年越し辛棒に辛棒して居るのに、預けた家も地所も金も返さず、その上許嫁のお松まで取上げて、良助に
「||」
「ところが、初七日の遺言の披露で叔父の並々でない心持、自分のためを思つてしてくれた大恩がわかつて、根が正直者な男だけに、居ても立つても居られなくなつた。その上番頭の幸七が縛られたのを見て、自首して出る氣になつたが、まだ命に未練があるのと、一つは俺をからかひたくなつて、あんな細工をして見せたのだらう。あれでも自分が下手人と判らなければ、そのまゝ口を
平次は斯う繪解きをしてくれるのでした。
「親分、人の心が不思議だと言つたのは嘘ぢやありませんね」
「お前が大福餅を
「でも好きな同士で、三日でも五日でも、存分に暮したんだから、惡くありませんね」
「馬鹿だな。お前なんざ、無事で長生きする方が
「甘く見ちやいけません」
「||」
ちよいと