八五郎は獨りで、向島へ行つた歸り、まだ陽は高いし、秋日和は快適だし、赤トンボに
「あつ」
八分通り船を埋めて出た乘合は、先を急ぐともなく總立ちになつたところ、見事な
「あれツ」
端つこに立つて居た八五郎は、側に居た若い女に
「あ、ぷ、ぷ」
八五郎は少しばかり水を呑んだかも知れません。が、胃の
川はもう淺くなつて居て、立てば精々膝つきり、命に別條のある筈もなかつたのですが、何分にも
「濟みません、親分。飛んだ粗相で」
相手が惡いと思つたか、船頭は鉢卷を取つて挨拶しました。
『||うぬがどぢのせゐぢやないか』と腹の中では思つたにしても、稼業柄ポンポン言ふことも出來なかつたのです。
「なアに、此方もうつかりして居たんだ。心配することはないよ」
八五郎は人の好い事を言ひながら、袖やら
明る過ぎるほどの晝過ぎの陽を受けて、それは實に
「親分、飛んだことをしてしまひました。私はまア、何うしませう」
八五郎の濡れた鼻は、何やら
「なアに、大したことはありませんよ。
などと、八五郎は他愛もありません。
それほど相手は美い女であり、素直な痛々しい態度でもありました。
ほの温かくて、秋の空氣の中に、溶け入るやうな白い頬の
「でも、それではお歸りになれません。私の家はツイ其處ですから、汚いところですけれども、一寸お立寄り下さいませんか」
女は惱ましさうでした。どんな理由があるにしても、男を誘ふ後ろめたさに、すつかりおど/\して、顏を擧げる氣力もないほど、打ちひしがれて居るのです。
「さうさせて貰ひませうか、ぢつとして居ると、風邪を引きさうで||」
八五郎は足踏をして見せました。
「用心なさいよ、親分。そいつは飛んだ命取りだ」
船頭は何方にも取れるやうなことを言つて、あらかた客で一杯になつた、歸り船の
「親分、お目に掛け度いくらゐでしたよ。その晩の持てたことといふものは」
翌る日の朝、八五郎は明神下の平次の家へやつて來ると、前の日の一
「それからどうしたんだ」
平次も少しばかり好奇心を動かした樣子です。
「その女に案内されて、今戸から花川戸まで歩きましたよ」
「あまり近くはねえな」
「何しろ濡れ鼠でせう。立てつ續けにクシヤミをしながら、道々の話の面白いことといふものは||」
「濡れ鼠の道行なんてのは新しいな。合の手にクシヤミの入る
「それが本當の濡れ事||」
「ふざけちやいけねえ、それからどうした」
「花川戸へ
八五郎は胸をくつろげて、トンと叩いて見せたりするのです。
「相手は何んだえ。圍ひ者か、お
「ところがヅブの素人で、獨り者と來て居るでせう。住んで居るのは、少し猫又見たいになつた、叔母さんといふ年寄りが一人だけ。こいつは
「妙に心得た年寄りだな」
「
「着物の乾きが早過ぎて困つたらう」
「へツ、まさに圖星で。親分もこの頃は滅切り意氣になりましたね」
「馬鹿にしちやいけねえ、||ところでその相手の女といふのは何んだ」
「お富さんといふんださうです。見掛けよりは年を取つて居て二十四」
「素姓は?」
「問はず語りに身の上話もしてくれましたよ。何んでも一度大家の若主人に見染められて、釣合はぬを承知の上で嫁入りをしたが、相手は思ひの外の大家だつたので、きりやう好みで無理に貰はれて行つた嫁は、
八五郎の話は少し
「ひどく
「それからが大變で、||すつかり醉つてしまつて、お
「いざ||と來たか、相變らずお
「お富の阿魔が、あつしの
「大層なことだな、お前は何時から侍になつたんだ」
「小尻||たつて刀の小尻ぢやありませんよ。懷中へねぢ込まうとした、十手の小尻で。着物を乾すとき、こいつは拔いて膝の側に置きましたよ。たしなみですね」
「良い心掛けだ」
「お富の言ふことには、||親分を泊めて上げ度いは山々だが、追ひ出され嫁の賣り喰ひ嫁の空つ尻嫁では、布團も枕も
「||」
「せめて、私が嫁入りする時、無理な工面で拵へた、二た組の布團と、一と通りの道具や着物があつたら、耻かしい思ひをせずに濟んだのに、
「お前まで泣くには及ばないよ」
「訊くとお富はもと柳橋で藝者をして居たんださうで。その時稼ぎ溜めた金で、精一杯の支度をして、一生に一度の晴の嫁入りをし、女の出世の行止りのやうに思つたのも束の間で、投り出されの、道具も衣裝も卷上げられの、明日の日は死ぬかも知れないといふ破目に
「で?」
「あつしは我慢がなり兼ねましたよ。
「お前は本當に乘込んだのか」
「乘込みましたよ」
「馬鹿野郎、十手はお上から預つたものだ、そんなところで見せびらかす奴があるものか」
平次は
「醉つて居たんですもの、勘辨して下さいよ。それにあつしは直ぐ歸つてしまつて、後の事は何んにも知りやしません」
「兎も角、もう少し
平次はこの話をもう少し檢討して見る氣になる樣子です。
「黒船町の三七の家でしたよ」
「金田屋三七か」
それはお上のブラツク・リストにも乘つてゐる惡者で、ボスでかれこれ屋で、海賊の三七とも言はれた、拔け荷扱ひの疑ひを持たれて居る、厄介な男だつたのです。
「お富が夜の往來に立停つて、||あの家ですが||と言つた時は、あつしもギヨツとしましたよ。金田屋三七を恐れるわけではありませんが、いかにも相手が惡いと思つたんです」
「で、どうしたのだ」
「思はず立ち淀むと、お富は引返して來て||親分に無理なことはお願ひしない、此處から、默つて歸つて下さい。その代り私の死骸が、大川に浮いたら、せめて線香の一本も||とさめ/″\と泣くぢやありませんか」
「餘つ程線香に
話を茶にしながらも、平次の熱心さは次第に加はります。
「さう言はれると、||左樣でございますかと引返すわけには行きません。此處まで來たんだから、兎も角も行つて見ようと言ふと、||嬉しい親分||と」
「あゝびつくりするぢやないか。
「お富がいきなりあつしの首つ玉に噛りつくんですもの、これくらゐ身を入れて話さなきや||」
八五郎は長んがい
「まア宜い、それからどうした」
「金田屋の子分共が二三人、店先で眼を
「成程ね」
「店に居て、
「フーム」
「それから四半刻ばかり、待てどくらせど奧へ入つたお富は出て來る樣子もなく、そのうちあつしも酒の醉はさめるし、馬鹿々々しくはなるし、いづれお富と三七は
「話はそれつきりか、八」
「それつきり、種も仕掛もありませんよ。そのまゝ向柳原の叔母の家へ歸つて、二階の萬年床に潜り込みましたが||ね」
「困つたことになつたよ八」
平次は何やら、氣になることがある樣子です。
「あつしも困つてしまひました。今朝起き出して見ると、叔母が、今朝
「||」
「見ると紙に包んで『八五郎親分さま』と書いてあるが、中を開けると小判が五枚。こいつは、何うしたものでせう、親分」
八五郎は半紙に包んだ五枚の小判を、平次の膝の前に押しやるのでした。
「いづれ、そんな事だらうと思つたよ。八、此方にも大變なことがあつたんだ」
「何んです、そつちの大變は?」
「早耳のお前が、宜い心持で
「?」
「昨夜、黒船町の金田屋三七が殺されたといふのだよ」
「えツ」
八五郎、こんなに驚いたことはありません。
「お前を誘つて、これから出かけようと言ふところへ、當人のお前が飛び込んで來て、長々と
「そんな事が、あるでせうか。昨夜、あの後で||」
八五郎は眼をパチパチさせるだけでした。
「現場は石原の子分衆が何んとか見張つて居るだらうが、兎も角出かけて見よう。お前の岡惚れのお富とかが、何にか變な掛り合ひになつて居るのかも知れない」
「へエ、驚きましたね。それは、どうも」
八五郎は小首を
黒船町の金田屋には、石原の子分衆が三四人、家の者を見張つて、貧乏
「錢形の親分、お待ち申して居りました」
石原の子分達は、救はれたやうな氣持で迎へてくれたことは言ふまでもありません。
「誰も現場へは入れなかつたことだらうな」
「一人も足踏させません。それ宜いあんべえに、金田屋の仲間は
成程さう言へば、さう云つたものかも知れません。利害で集散する人間が、岡つ引が陣を張つて居るところへ、飛び込んで來る筈もなかつたのです。
それでも
「子分達は?」
「熊吉、成太郎、
見ると若い成太郎、中年者の熊吉、年輩の酉藏の三人。寒々と
平次はそれを見渡して一寸躊躇しましたが、三人の男が、一緒に來た八五郎の顏を見て、變な眼付きで
中は場所柄にしては廣く、主人三七の部屋へ通るには、暫らく廊下を幾曲りかしなければなりません。
「此處ですよ」
石原の子分は、廊下に立つて薄暗い部屋を教へてくれました。
障子を開けると、中は贅澤な八疊で、絹夜具の中に、主人の三七の死骸は寢かされてあり、側には後に
骨細で華奢な癖に、妙に肉感的な女で、その病的な
主人の三七は三十七八の逞しい男で、青黒い惡血質らしい色艶や、白い齒を剥いた黒い齒ぐき、曲つた鼻筋、三角な
傷は左寄りの胸板を、斜上から鐵砲彈で射拔いたもの、恰度柱にもたれて、妾お辨の酌で、酒を呑んでゐるところをやられたもので、
「何んなことがあつたんだ。昨夜のことを
平次は
「お富さんが歸つた後でした、||近頃癖になつて居る寢酒をやるからと||」
「お富さんといふのは誰だえ」
「
「二人は時々會つて居るのか」
「いえ、滅多に來たことはありません。昨夜は久し振りでやつて來て、主人と何んか
「どんな話だ」
「私は、二人の話が始まると追つ拂はれて何んにも聽きやしません」
「お前のやうな女は、追つ拂はれて素直に引つ込むのかな」
「まア」
平次の聲は小さかつたのですが、お辨は早くも聞きとがめて、クワツとした樣子です。
「まア宜い||それからどうした」
平次は追究しようともせず、話の次を
「私はお勝手へ行つて、お酒の支度をして居ましたよ||嘘だと思ふなら、下女のお鐵に訊いて下さい。彌之助さんも知つて居る筈です。お富さんが來ると、主人は私達を側へ寄せ付けはしません」
「で?」
「お富さんが歸つた後で、お酒を持つて行くと、主人はヒドク不機嫌で、口小言をいひながら呑んで居ましたが、二本目から
「どんな冗談だ」
「お前なんかより、お富と一緒になつて居る方がよかつた||なんて、ひどいぢやありませんか、主人は酒が廻ると、いつでもそんな事を言ふんです。そして||あの女は働きがあるからお前のやうなお人形首の
お辨は、それが今でも
「||」
平次は默つて、この
「と、酒が始まつてから四半刻(三十分)も經つた頃でした。いきなり恐ろしい音がして、主人は
お辨はぞつと身を顫はせます。
「
「空から來たやうでもあり、庭から來たやうでもあり、見當なんか付きやしません」
「障子は締めて居たのか」
「薄寒いのに、開けつ放しで呑むのが癖でした」
「誰か主人を怨む者はあつたことだらう」
「それはもう、怨む者だらけで、良く言ふ者なんか、江戸中に一人もありやしません」
妾の口から
主人の弟分彌之助といふのは、二十三四の若い男ですが、青
「主人は何を稼業にして居たんだ」
「へエ、良からぬ事ばかりやつて居ましたよ、||尤も泥棒の上前ははねたが、自分では泥棒をやらなかつたやうで」
「お前もその仲間か」
「飛んでもない。私は死んだ最初の
「お富といふ女は、ありや何んだ」
「兄貴の二度目の配偶で||二年くらゐ一緒に居ました。良い女でしたが、悧口過ぎて兄貴では
「お富の荷物がまだ殘つて居るのか」
「ガラクタが少しくらゐ殘つて居るかも知れませんが、大した物はない筈で」
「お富と別れるとき手切金と言つたやうな
「やつたかも知れませんが、ケチな兄貴のことで、大したことはなかつたでせう。お富を追ひ出すとすぐ、外に圍つて居たお辨を、待つてましたと引摺り込んだくらゐですから」
「ところで、これから先金田屋はどうなるんだ」
「其處までは考へちや居ません。惡い事をして積んだ金が、死んだ後まで殘る筈はありません。勘定をして見たら、借金の方が多かつたといふことになりませんか」
ヌケヌケと彌之助は言ふのでした。それはお
「ところでもう一つ、金田屋は拔け荷を扱つて居ると、
「あまり見た事はありませんが、火繩筒がどうかすると、二梃や三梃は轉げて居ましたが」
火器の所持は徳川時代には非常にやかましく、入鐵砲出女といふ、關所の取締りがあつたくらゐで、無屆で鐵砲を所有することは、
「
「||」
「その頃、火繩の匂ひはしなかつたのか」
「いえ、家の中でそんな匂ひがすると、氣がつかない筈はありません。が、誰もそんなことを言つた者もありません」
火繩の燒ける匂ひを嗅げば、猛獸も逃げると言はれるくらゐで、家の中であんなものが燒けるのを住んで居る者が知らない筈もありません。
次に平次が會つた下女のお鐵は、三十前後のハキハキした女でした。給料の多いのが望みで、
「お富は
「飛んでもない、私は此處へ奉公に來て三年になりますが、舅や姑のなかつたことは、私が一番よく知つて居ますよ」
「すると?」
「唯の夫婦喧嘩ですよ、||尤もお富といふ人は大した女でして、綺麗で悧口で、腹が出來て居て、今のお辨さんなんか、それに比べると少しよく出來た泥人形のやうなものですね」
手當が惡いせゐか、妾お辨の評判は散々です。
「お富には、外に男がなかつたのか」
「あの人は悧口者で、藝者上がりでも
「お辨の方は?」
「お辨さんと來ては||主人の眼を忍んで子分の成太郎さんと手を握つたり、内證話をしたり、見ちや居られませんでしたよ。妾奉公する身だつて、女には違ひないでせう。女には女の
「||」
お鐵は默りこくつて居る平次にまで、賛成を強ひるのです。
「尤も、畜生の眞似をするのも無理はありませんよ。あのお辨さんといふ人は、面は綺麗だが、もとをたゞせば
お鐵の舌の
「それで、成太郎をけしかけて、主人を殺させたとでも言ふのか」
斯うでも言つて
「飛んでもない。松の木に這ひ上がつて、部屋の中で酒を飮んで居る主人を、鐵砲で狙ひ
「お富は昨夜、何んの用で此處へ來たか、お前は知つてるだらうな」
「どうせ金のことですよ」
「いくらか持つて行つた樣子かえ」
「其處まではわかりませんが」
「それつきりか」
「何んか、自分の荷物の中から持つて行く物があるとか言つて、納戸の二階へ入つて暫らくゴトゴトやつて居ました」
「其處からは?」
「主人の部屋は見通しですよ。お辨さんがデレデレして居るのを、散々見せられたことでせう」
お鐵は如何にもお辨が憎くてたまらない樣子です。
「ところで、主人殺しの下手人を、お前は誰だと思ふ」
平次は最後の問ひを持出しました。
「そんな事わかりやしません。でも、三人の子分達は、店で互に見張つて居たし、主人と一緒に居たのは、お辨さんだけぢやありませんか。お辨さんから訊いたらわかるでせう」
「彌之助は?」
「あの人は物の
お鐵の口の惡さの
店に居る三人の子分は、何を訊かれても、知らぬ存ぜぬの一點張りでした。
「昨夜は宵から店で、無駄話をして居りました。八五郎親分がもとのお神さんのお富さんと一緒に來たときは、隨分驚きましたが、親分から『お富を家の中へ入れちやならねえ』とやかましく言はれて居たにしても、八五郎親分に十手を見せられちや、嫌も應もありません。四半刻ほどすると八五郎親分が歸つて、それから少し經つと、お富さんも、歸りました。いつもの調子で、機嫌よく愛嬌を振り
年上の
「それから?」
「あつしは呼ばれて親分の部屋へ行きました。親分はお辨さんの酌で寢酒を始めたところで、||明日川崎へ行く用事を頼まれて引取りましたが、その後で熊吉と成太郎が小用に立つたやうで、それから暫らくすると、あの鐵砲の音でせう、お辨さんの悲鳴に驚いて飛んで行くと何も彼もお仕舞ひでしたよ」
「その時店に三人共顏が揃つて居たのだな」
「それは間違ひありません」
「外からこの中庭へ、人が忍び込めると思ふか」
平次は窓を開けて、狹い中庭を見廻しました。建物の袖が一パイに突つ張つて居る上、
「野良犬一匹入ることはありません」
弱い尻を持つものの悲しさで、戸閉りだけは法外に嚴重を極めます。
平次は一應家の中から外廻り、中庭の樣子など、念入りに調べましたが、外から曲者の入ることなどは、先づ想像されないことです。唯一つ、主人の部屋と廊下を
平次と八五郎は、その足で直ぐお富の隱れ住んでゐる花川戸に向ひました。
「此處ですよ親分」
八五郎が教へてくれたのは、成程ありふれた小さい二軒長屋。
「遠慮することはない、お前が先に立つて名乘りをあげるのだ」
平次に後から押されて、八五郎ひどくはにかみながら、格子を叩きましたが、中はひつそりとして、物の氣はひもありません。
「變ですよ、親分。鍵も掛けずに何處かへ出かけたのかな」
「お隣りなら居ませんよ。今朝夜が明けると追つ立てられるやうに引つ越して行きましたが」
隣りの達者さうなお神さんが、八五郎の前に腰を
「今朝? 何處へ引つ越したか、知りませんか」
「何んかわけがあるんでせう、言つてくれないんですもの。何んでも嫌な野郎がウロウロして怖いから大急ぎで引つ越すんだとか、あの叔母さんが言つて居ましたよ」
「へエ? いやな野郎がねエ」
八五郎の顏は見事に伸びます。
平次はお神さんに十手を見せて、家の中へ入りました。
「こいつは、大變だぜ、八」
中の凄じさは言語に絶します。八五郎が呑んだといふ酒の道具は言ふ迄もなく、七輪も
「搜したつて、ろくな形見はありやしないよ。行かうぜ、八」
「何處へ行くんです」
未練らしくその邊を眺めて居る八五郎を
「何んか見當がつきましたか」
「いや、まるで夜逃げだ。この樣子では、さぞ諸方へ不義理をしたことだらうな」
「飛んでもない。女世帶のくせに、酒屋の一番のお得意で、そりや勘定はきれいでしたよ。尤もお客の多いせゐもあつたやうですが」
「お客?」
「え、時々妙なお客が來ましたよ、||濡れ鼠のお客樣がね」
平次と八五郎は顏を見合せました。その濡れ鼠の客の一人が、此處に苦い顏をして居るのです。
「妙な客があるんだね」
「土左衞門でも拾つて來るんぢやありませんか知ら」
「その薄れ鼠の客は二度と重ねて來るのかえ」
「そんな事まではわかりませんが」
隣のお神さんの觀察も其處までは屆かない樣子です。
「面白くなつたぜ、八」
「これから何處へ行くんです」
「橋場の渡しだよ。船頭が飛んだ面白いことを知つて居るかも知れない」
「さうでせうか」
昨日八五郎が濡れ鼠で
「この男を知つてるかえ」
年輩の船頭をつかまへた平次は、八五郎を指しながら訊くと、
「へエ、あの女に川へ落された人でせう」
「あの女||といふと親方知つて居るかえ」
「知つて居ますとも、仲間であれを知らない奴はありやしません。||
「||」
「昨日の親分は
船頭の話を聽いた、八五郎の顏といふものは||。
「それを知つて居ながら、默つて居るのか」
平次は少し
「相濟みません。でも、あの女には怖い後ろ
船頭は薄笑つて相手にもしなかつたのです。全く八五郎などは例外中の例外で、大抵の旦那衆は、足を濡らすくらゐが精一杯だつたのでせう。
「八、ひどい事になるものだなア」
渡し場を離れると、平次はつく/″\言ふのでした。
「相濟みません、||でも、あつしは餘つ程持つて居ると思はれたんですね」
まだ
念のため、竹町の渡し場へも行つて見ましたが、此處も同じことで、
更に御厩河岸の渡し場の若い船頭は、
「こいつは内々ですがね、川へ突き落して、自分の家へ喰へ込んだ相手が、懷中が輕いと、一と晩で突き出してしまひ、懷中が重いと、
そんな事まで言つてくれるのでした。
渡し場を三つ歩いてゐるうちに、どうやら暮近くなりました。
「八、ちよいとその邊で腹を拵へようか」
「有難てえ、實はそいつを待つて居たんで」
駒形堂の近く、とある
何心なく
「八、あれを見ろ」
と指さすのです。
「あ、金田屋の弟の、彌之助ぢやありませんか」
「そつと後を
「女?」
「お富のところだよ」
「でも、もう飯が來ますぜ」
「安心しろ、お前の分も俺が食つてやる」
「へツ、情けねえことになるものだな」
八五郎は心を殘して飛び出す外はありません。
「居所をつき留めたら、下つ引を狩り集めて、眼を離しちやならねえよ」
「合點」
それでも八五郎は
事件はまさに緊張して來たのです。
それから四半刻の後、平次は八五郎の報告を金田屋で受取りました。
「親分、さすがに見通しだ。彌之助は矢つ張り、お富の巣へもぐり込みましたよ」
「場所は何處だ」
「ツイ其處、三間町の路地の奧で」
「見張つて居るだらうな」
「
「よし/\、それぢや石原の子分衆にも手傳つて貰つて、此處へ連れて來い。お富と彌之助とあの叔母と」
「縛るんでせう」
「いや、手荒なことをしちやならねえ。逃げ出さうとしたらその時は縛つても宜い」
「それぢや親分」
八五郎は石原の子分二人をつれて飛んで行きましたが、やがて半刻も經たないうちに、男女三人を追つ立てて、黒船町の金田屋へ引返して來たのです。
「あれ、八五郎親分。そんなにひどい事をしなくたつて宜いぢやありませんか」
お富は繩を打たれないばかり、八五郎に
「何を言やがる、
などと、人立ちがするのも氣に止めないほど、八五郎は興奮して居りました。
「あ、錢形の親分」
家へ入つて、
「お富、俺にはもう、何も彼もわかつたつもりだが、念のためお前を連れて來て、聽いて貰ひたかつたのさ。八、家中の者を皆んな集めてくれ」
「へエ」
やがて主人三七の死骸の前に、家中の者は
「さて、お富は、三つの渡しを
「||」
一座はシーンとしました。平次は一體何を言はうとするのでせう。
「十手を持つた八五郎に案内させて、近頃自分を寄せつけない金田屋に行き、主人の三七に、散々怨みを言つた上、納戸から自分の荷物を取出すと見せて、
「||」
それは實に恐る可き殺人方法でした。あまりの事に、物を言ふ者もなく、恐れ入つてうな垂れたお富の顏を見るばかりです。
「主人の三七は薄情で亂暴で、追ひ出した女房のお富に、怨まれるだけのワケがあつたことだらう。佛樣の前で惡口を言つちや濟まないが、これは世間で皆んな言つてることだ。||お富は投り出された上、自分の持つて居る物も金も取上げられた怨みを晴らすために、何時かは三七に思ひ知らせるつもりで、廊下の先の納戸の
「||」
それを聞かされる八五郎の面目なさ。
「八、あれを持つて來るが宜い」
平次は灯を擧げて、廊下を
やがて八五郎は、梁に縛つた鐵砲を取りおろして持つて來ました。
「これだ、覺えがないとは言ふまい||どうだお富」
平次の聲に應じて、
「恐れ入りました。親分、私にも言ひ分はありますが、鐵砲を仕掛けたのも私、その火皿に線香を立てたのも私に違ひありません」
お富は兩手を後ろに廻して、平次の前ににじり寄るのでした。
「待て/\お富、話はまだ皆んな濟んで居ないのだよ」
「?」
「お前は船から突き落した客をつれ込んで懷中の重いのは殺して金を奪つたといふ噂があるが、それは本當か」
「そんな、そんな非道なことはした覺えはありません。どうせ命のない私、今更隱し立てはしません。||それに私は色仕掛で金を取つた事もなく、お客の有金を皆んなさらつたわけではありません。||男の間拔けなのが面白く、ついやつた
それは恐らく本音でせう、どうせ
「よし/\、それが本當なら、お前を助けてやらう」
「?」
お富はその清麗な顏を擧げました。平次の言葉はあまりにも豫想外です。
「お前が、鐵砲の火皿に立てて行つた線香は、中程が
「えツ」
「それを、一から十まで見て居た者が二人あつたのだ。一人は主人の弟の彌之助、それを種にお前を
「||」
彌之助はハツと首を下げました。
「もう一人は||暫らく名は言ふまい||そつと不發の鐵砲を
「?」
「證據は澤山ある。欄間の障子は少し
「誰です、それは?」
八五郎はいきり立ちました。
「主人の三七とたつた二人でこの部屋に殘つて居た者、||
言葉の下から、
下手人のお辨を、石原の子分衆に任せて、八五郎と一緒に歸る平次は、
「お富も惡戲が過ぎたし、主人の命を狙つたのは許し難いが、あの女には妙に憎めないところがあるよ」
「あつしもさう思ひますよ」
「隅田川へ投り込まれてもか」
「へエ、飛んだ
「
「あの女には、愛嬌も惡戲つ氣も可愛氣もない。あるものは、滿々たる慾と色氣だけ||成太郎と一緒になりたさに、主人三七を殺したのはひどい女ですね。それに比べるとお富は||」
「まア、その氣で精々水へ突き落されることだ、||尤もお富もひどく氣の毒がつては居たがね」
「でもあんな女は、友達には面白いが、女房には御免ですね。三七の言ひ草ぢやないが、何んとなく凄いでせう」
さう言ふうちに二人は、明神下の平次の家||戀女房お靜が淋しく待つて居る