「親分、日本橋の騷ぎを御存じですかえ」
「知らないよ。
平次は氣のない顏をして、自分の膝つ小僧を抱いたまゝ、縁側から初秋の
八月になつて、少し凉風が立ち初めると、人間共も本心を取戻したか、御用はびつくりするほど
お勝手では、カタコトと、お仕舞やら三度の食事の支度やら、女房のお靜の氣はひは絶える折もなく、平次の閑居は貧乏臭くはあるにしても、まことに
其處へ時折子分の八五郎が、
「晒し物には違げえねえが、それが大變なんで」
八五郎はネタの出し惜みでもするやうに、長んがい顎を撫で廻します
日本橋の晒し場には、心中の片割れから
それは兎も角、八五郎の報告は奇つ怪を極めました。
日本橋の東詰の晒し場、この間まで相對死の片割れの、不景氣なお
お上のしたことでない證據は、日本橋の橋番所でも知らず、その上日本橋の晒し物は、近頃殆んど生きた人間に限られ、死骸の晒し物などは幾年もないことで、わけても死骸の傷は、脇腹を深々とゑぐられ、更に
鋸引の極刑は今頃||平次が盛んに活躍して居る頃||は絶えてないことですが、古老の昔語りには殘つて居り、主殺し親殺しなどといふ無道の極惡人に對しては、君臣制度や家族制度の保護のために、多分に封建的な政略の意味も含めて、これが實際に行はれて居たことは言ふまでもないことでした。
最初は極刑を受くる者の全身を箱に入れ、或は半身を土中に埋めて、通行人をして、望む者があれば、
最初は鋸も竹製であつたらしく、後にはそれが金の鋸になり、更に首を引く望み手も少なくなつたものか、單に處刑者の首に傷をつけて、側に置いた鋸に血を塗るだけに止まり、更に下つては、形式的に鋸を側に置くだけになつたと物の本に書いてあります。
切支丹宗徒は
「そいつはイヤな惡戲ぢやないか。晒された人の身許がわかつたのか」
八五郎の報告が終るのを待ち兼ねて、平次は訊ねました。
「晒し物を見付けたのは夜の白々明け。四半刻と經たないうちに身許がわかつて、一應お役人立ち會ひの上、引取つて行きましたよ」
「誰だえ」
「誰だと思ひます、親分」
八五郎は自分の話の奇拔さに陶醉して、すつかり持たせ振るのです。
「止せやい、馬鹿々々しい。俺とお前でないことは確かだ。それとも、江戸中の人間の名前を並べて見ようか」
「へツ、それには及びませんがね、江戸一番の無事な人間||殺されさうもない人間が殺されて居るんだから||親分だつて驚きますよ」
「驚くよ、驚きや宜いんだらう」
「通り三丁目の
「何? あの一代に江戸で何番といふ
「こいつはびつくりするでせう」
「あんな評判の良い人がね。誰が一體そんな事をしたのだ」
「それがわからないから、あつしが錢形の親分のところへ來たぢやありませんか」
「よし、お前に負けた。あの邊は繩張り外だが出かけて見よう」
「そら來た、
八五郎は平次を引張り出すのが役目だつたのです。
平次と八五郎が、通り三丁目の翁屋に着いたのはもう晝近い時分でした。前代未聞の事件で、騷ぎが
かゝる際にも取つて付けたやうなお世辭を言ふ、番頭の市助に案内されて、平次と八五郎はその人混みの中を、奧へと通りました。縁側の端つこに
奧の八疊、かなり豪勢な部屋に、主人小左衞門の死骸は、清められたまゝ贅澤過ぎるくらゐな床の上に寢かしてありました。佛の前には
平次は
傷は左脇腹を、袷の上からひどくゑぐられたもので、何んかの
「袖は縫はれてゐませんね」
八五郎は側から口を出しました。
「良いところへ氣が付いた、||まるで手を擧げて、此處を刺してくれと言つたやうぢやないか」
平次は珍らしく八五郎を褒めて、斯う
「飛んだことでしたな、御新造」
平次は一とわたり死體の調べが濟むと、振り返つて、神妙に
年の頃は三十そこ/\、美しいといふよりは、確りした女でした。小柄で色白で、
「有難うございました。||私はもう途方に暮れてしまひましたよ、親分」
お春はさう言つて、痛々しいほど
「ところで御主人が昨夜出かけたのは?」
「まだ薄明るい頃でした。鎌倉町の津々井樣へ、久し振りで
「で?」
「長くなりさうだからと、供をして行つた小僧の留吉を先に歸し、少し醉つて、津々井樣を出たのは、
「それで、
「
お春はその時の驚きを思ひ出したらしく、大きく
「脇差か何にかを用意はしなかつたんで?」
「紙入止めの脇差を一本差して居りました。もとが武家だつたので、一本でも差さないと腰がきまらないからと申して居りました」
「その脇差は?」
「何處へ行つたか見えません」
「身體は丈夫だつたことでせうな」
「至つて丈夫でしたが、唯、二三年前から輕い中風の氣味で、左の腕と足が重いやうだと申し、氣をつけて見ると、少し
妾お春の答へは何んの
「御主人を
「そんなものはある筈もございません。御存じの通り、人樣にはよくしてやるのが主人の流儀で||」
さう言はれると、平次はまさに一言もありませんでした。翁屋小左衞門は、短かい間に一と
「武藝のたしなみは?」
「自慢をして居りました。||でも昔二本差したことのある殿方は、どなたも腕自慢を遊ばすやうで」
お春の頬は僅かに
お春の話によると、翁屋小左衞門はもと總州關宿七萬三千石、牧野
小左衞門の商才は、翁屋の主人になると益々冴えて、この二十年間に翁屋の身上を、三倍五倍にしたと言はれて居ります。もとは裏廻りのさゝやかな小間物屋でしたが、土地と家作を買ひため、その上廻した金が利子を産んで、何時の間にやら表通りに堂々たる店を張り、昔ながらの小間物屋の
伜の松次郎は二十四歳、これは先代小左衞門の忘れ形見で、殺された小左衞門とは
逞しい繼父の小左衞門に似ず、
「若旦那は昨夜何處に居なすつた」
平次はこのニヤケ男に
「風邪氣味で、私の部屋に引込んで休んで居りました」
「時刻は?」
「
「誰も一緒に居た者はなかつたことだらうな」
「へエ、いつも部屋へ引込めば私一人で」
「部屋は?」
「向うの端になつて居りますが」
平次はそれ以上は追及しませんでした。が八五郎に眼配せすると、心得た八五郎は何處かへ飛んで行つたことは言ふまでもありません。
娘のお袖といふのは十八、これは遠縁の親類から貰つた養ひ娘で、行く/\は、松次郎と一緒にして、翁屋を繼がせようといふのが小左衞門の腹らしく見えましたが、お袖があまりに若過ぎ、内氣過ぎて、遊び好きの若旦那松次郎の相手は勤まらなかつたらしく、二人は何時までも他人で、若旦那の松次郎は羽を伸ばして遊び
尤も、お袖は大した美人ではなく、目鼻立が整つて居るといふだけで、
縁側へ出ると、若い小意氣な男が庭のあたりをウロウロして居ります。手代の久治と言つて二十八、これは平次の調べの模樣を、よそながら立ち聽くつもりだつたかもわかりません。
「お前は?」
「久治と申します。へエ、奉公人で」
「翁屋の身寄りではあるまいな」
「唯の奉公人で長い間お世話になつて居ります。十五六年になりますが」
長い間のお
「主人はどんな人だつた」
「良い方でございました。世間の評判通り、慈悲深くて、思ひやりがあつて」
「それほど、わけのわかつた主人が、
「私は身寄りも何んにもなく、年季が過ぎても進んで此處に奉公して居たのでございます。暖簾でもわけてやらうと言ふお話もありましたが、私の方から辭退して居りました。その邊のことは番頭さんにお訊き下さればよくわかります」
恐らくそれは本當のことでせう。久治の態度には、
番頭の市助は四十五六の物の
「若旦那の部屋といふのは?」
「此處でございます」
突き出したやうに建て増した、新しい四疊半を市助は指します。
「此處へ獨りで休んで居ると、勝手な時、夜でも夜中でも外へ出られるわけだな」
「||」
市助は默つてしまひました。平次の問ひに含まれた重大な意味に
「あれは?」
平次は氣を變へて、翁屋の裏に建て連ねた五六軒の長屋を指しました。
「亡くなつた旦那の御親切で、古いお知合でお困りの方をお入れ申して居ります」
「それは奇特なことだな||どんな人が入つて居るんだ」
翁屋小左衞門が慈悲人情を
「大抵は町内の困つた方々でございますが、中には昔主人がお侍だつた頃の
「例へば?」
「麻井大七郎樣の御子樣方で、幸之進樣に、お加奈樣など」
「その方にちよいと會つて行かう」
平次は木戸を開けて裏の路地へ出ると、早速その突き當りの長屋の前に立つて居りました。
「御免下さい」
「||」
美しい娘の姿がチラと見えましたが、平次を見ると少しあわて氣味に、バタバタと次の間へ入つて、入れ代つて、二十三四の若い男が立ちはだかるやうに入口に立ちました。
「何にか御用かな」
若い男の肩は少し
「麻井幸之進樣でせうな」
相手は尾羽打枯らして居りますが、明かに武家とわかつて居るので、平次は少し丁寧になりました。
「左樣」
「翁小左衞門樣とは昔からの御
「關宿で、父が同役であつたよ」
「御親父樣は?」
「二十年前人手にかゝつて相果てたといふことだ。||その場に居合せて、早速の敵を討つてくれたのが、
平次は默つてその先を
「そのため、碓氷殿は、朋輩を刄傷したかどで永の暇。麻井家には何んの御とがめもなく當時五歳の拙者は叔父の後見で跡目を相續することになつた。
「||」
「亡父の怨みの相手、石崎一族の
「ところで、仕官の御心當りは?」
「幸ひ、申分のない口があつた。西國のさる大々名の御見出しだ。九月にでもなれば御目見得の運びになる筈」
「それはお目出度いことで」
平次は一應のお祝ひを言ふのでした。
「もうそれで宜いのか」
と麻井幸之進。
「麻井樣、御妹樣から一寸お話を
「左樣か。これよ、加奈」
「ハイ」
妹の加奈は逃げも隱れもならず、恐る/\顏を出しました。丸ぽちやの、お品の良い二十歳くらゐの娘です。
「お孃樣、變なことを伺ひますが隱さずに仰しやつて下さい」
「ハイ」
「あのお兄樣は、昨夜、一と晩何處へもお出掛けはなかつたでせうな」
「ハイ」
お加奈は
「どうも有難うございました。飛んだお邪魔で」
平次はもう、この上訊くこともありません。
「親分いろ/\面白い事がわかりましたよ」
八五郎はフオツクス・トロツトの足取りで戻つて來ました。非常に得意になつて居る證據です。
「先づ
「申分なし。日本一の貞女で、江戸一番の賢い女で、女の癖にケチでなくて」
「女の癖にケチでないはひどからう」
「親分ところの姐さんは別ですが」
「言譯には及ばないよ」
「あんな町内受けの良い妾は神武以來ですね」
「言ふことが
「權現樣御入國以來と言つても宜い」
「それから?」
「それに比べて、若旦那の松次郎は、||あれは大變な野郎ですよ。おしやれで高慢で、道樂が強くて親不孝で」
「まるで八五郎見てえだ」
「冗談ぢやありませんよ」
「殺された義理の父親小左衞門との仲は?」
「犬と猿だつたさうで。あんな結構な旦那を殺したのは、あのニキビ野郎に違げえねえと專ら近所の噂ですよ。ちよいと
「いや、まだ證據はない||尤もあの若旦那の部屋から、夜は何處へでも人知れず拔け出せることは確かだ」
「新右衞門町の小唄の師匠お
「何んだえ、ひどく改まつて」
「あの翁屋の裏の長屋に居る、若い浪人者兄妹に會ひましたか」
「會つたよ。それがどうしたんだ」
「あの兄の方の幸之進とか言ふのが、翁屋の主人には海山の恩を受けて居るから、下手人がわかつたら、繩を打たせる前に、きつと斬つてやる、||と言つてゐるさうですよ」
「成程、そいつは厄介だな。外に聽き込んだことはないか」
「まアそんなところですね」
「手代久治の身持はどうだ」
「大
「何んだえ、その大箆棒といふのは」
「ちよいと良い男でせう。翁屋の手代だ、金廻りだつて惡くない筈でさ。それがまるつきり遊ばないんですつて」
「言ふことが變だな。遊ばない人間が大箆棒なら、俺だつて大箆棒だぜ」
「お靜姐さんといふものが付いてまさあ、江戸一番の貞女だ」
「止さないか、人聽きの惡い。ところで遊ばないのが大箆棒なら遊ぶのは何んだ」
「大馬鹿野郎で」
「どつちにしても助からねえな、||お前なんざどつちの
「
「自分でさう極めて居るんだから世話アねえ。ところでその大箆棒の話だが、久治は何にか大望でもあるのか」
「白雲頭の頃から翁屋に奉公して、親爺は間違ひもなく中氣で死んでゐるから、親の敵を狙つてゐる筈はありませんよ。それに
「大箆棒と大馬鹿野郎と一人で兼ねて居るとして、番頭の市助はどうだ」
平次は話題を變へました。
「あれは大間拔けですよ。||尤も取り込むことは名人で、若旦那が道樂をしようが、手代の久治が皮肉を言はうが、一向お構ひなしでせつせと自分の
「それぢや、大間拔けでもあるめえ」
「その金を内々で八分に
「博奕打や相場師や||大きく儲ける人間は金づかひが綺麗で、バラ
「主人の金を取り込めば、氣も大きくなりますよ」
八五郎と一かど
「親分、これから先は何をやらかしや宜いんで」
「サア」
「もう打つだけの手を打つてしまつたやうですね。歸りませうか」
八五郎はもう諦らめた事を言ふのです。
「いや、出來るだけの證據を集めて置き度い。差當り新右衞門町の小唄の師匠のところへ行つて見ようか」
「あの師匠が何んか知つて居るでせうか」
「若旦那の松次郎が、昨夜師匠のところへ行つたか行かないか、それを訊き度いのだよ」
「行つたといふにきまつて居るぢやありませんか。本當に行つたのなら、誰だつて行つたと言ふし、行かないにしても、若旦那に言ひ
八五郎は心得たことを言ふのです。が、直ぐ鼻の先の新右衞門町の、小唄の師匠お里榮の家の、御神燈の下に立つた平次と八五郎は、見事にこの豫想を裏切られてしまつたのです。
「若旦那は||昨夜、
そんな事を言つて、洗ひ髮の
平次は師匠のうちを飛び出すと、
「どうだえ、八。變なことになつたぢやないか」
「何が變で? 親分」
「あの女は若旦那を
「すると、矢つ張り若旦那が下手人でせうか」
「いや、あの若旦那は、本當に風邪を引いて昨夜は宵寢をして居たかも知れないよ。親殺しでもしようといふ惡黨が、下手人の疑ひを受けた時の逃げ路くらゐは拵へて居るのが當り前だ」
「そんなもんですかね」
「もう一度
平次はひどく張りきつて居ります。
「翁屋で何を搜すんです?」
「まだ會つてねえ人間が一人二人居るだらう」
「下女のお鐵に、小僧の留吉くらゐのものですね」
「それその通り二人も居るぢやないか」
平次と八五郎が翁屋のお勝手から顏を出すと、其處には下女のお鐵が、店から奧への騷ぎも知らぬ顏に、せつせと晝のお仕舞などをして居りました。
「お鐵さんと言つたね。||忙しいことだらう」
平次はさり氣ない調子で聲を掛けました。二十七八、どうかしたらもう少しとつて居るかも知れません。蒼黒い顏をした
「何んか御用ですかね、親分さん」
お鐵は濡れた手を拭き/\お勝手口へ顏を出しました。
「つまらない事を一つ二つ訊き度いのさ。お前なら知つてる筈なんだが」
「へエ?」
「番頭の市助どんが、何百兩といふ金を廻して居る樣子だ。
「飛んでもない親分さん。私は年に二兩こつきりで」
「だから||」
「あれは御新造さんから、そつともらつて居るんですよ」
「御新造のお春さんからか、||番頭さんとは年が違ひ過ぎるぜ」
「あら、そんな色つぽい話ぢやありませんよ。口留め料ですよ」
「口留め料?」
「何んか、動きの取れない證據をつかんで居る樣子ですよ」
「證據?」
「時々御新造に喰ひ下がつて居るところを見ますよ。||尤も、その
お鐵は慾の深いことを言ふのでした。
「それから、もう一つ訊き度いが、殺された主人と、一番仲の惡かつたのは誰だ」
「若旦那樣ですよ」
お鐵の答へは至つて簡明です。
「主人と仲の好かつたのは?」
「さア、お孃さんか知ら、||それとも、お長屋の麻井幸之進樣か知ら、||麻井樣とは親子のやうでしたよ。旦那樣が左足が少し惡かつたので、縁側から降りる時なんか、御新造樣かお孃さんか、でなければ、麻井樣が肩をお貸ししてあげることになつて居りました。||番頭さんや久治どんでは、
お鐵の話はなか/\に行屆きます。
「有難う、お蔭でいろ/\の事がわかつたよ。それからもう一つ、これでお仕舞だが、
「え、私と若旦那の外は、皆んな一度づつ外へ出ました。番頭さんと久治どんは、鎌倉町の津々井樣まで二度も行きましたし、留吉どんとお隣りの麻井樣は、日本橋からお濠端へ出て、江戸橋の方まで廻つて見たと言つて居ました」
「御新造は?」
「一番心配して、遲くまで外に居たやうです」
それはさもありさうなことでした。
「サアわからねえ。これはどう言ふことになるんです、親分」
八五郎はたうとう
「だん/\わかつて來るぢやないか。それ見ろ、誰か飛んで來るぜ」
平次は早くも、土地の下つ引が二人、此方へ飛んで來るのを見付けました。
「親分、血だらけの
「何處にあつたんだ?」
「
「誰の差料だ」
「殺された主人が昨夜差して居た脇差に間違ひありません」
「
「鞘は見えませんが、何處か下水へでも抛り込んだことでせう||それからもう一つ」
「||」
「
「目印でもあつたのか」
「番頭さんが來てさう言ふんだから間違ひないでせう」
報告がをはると、二人の下つ引は日本橋へ引揚げて行きます。
「聽いたか、八」
「聽いた筈ですがね? それがどういふことになるんです」
「下手人の正體が段々わかつて來るといふことさ。||ところでもう一と働き」
「何をやるんです」
「西御丸下の牧野備後守樣御上屋敷だ」
平次や八五郎に取つては、大名屋敷はこの上もない厄介な場所でしたが、藩主備後守は幸ひ總州關宿に在國で、江戸屋敷は、わけのわかつた、小意氣な御留守居金山主膳が承つて居て、話は思ひの外簡單に
今から二十年前、關宿藩から追はれた、
「いや、あれは氣の毒なことであつた。御城下で家中の士三人の果し合があり、麻井大七郎なる者は、石崎
「碓氷貞之助樣は、石崎求馬樣と麻井大七郎樣を討つたのでせうか、それとも、どちらか一人だけ討つたのでせうか」
平次は押して訊ねました。
「それも最初はわかり兼ねた。碓氷貞之助が二人を討つたとも言はれ、麻井大七郎を討つたとも言はれたが、後に二人の傷を調べた上果し合ひを密かに見て居た者もあつて、麻井大七郎が石崎求馬に討たれ、碓氷貞之助がその石崎求馬を討つて、親友麻井大七郎の敵を討つたものと相わかつた」
「それは確かでせうか、一つ間違ふと大變なことになりますが」
「間違ひはない。碓氷貞之助は手槍を持つて居たし、兩刀には血の跡もなかつた。||ところで討たれた二人の内、麻井大七郎は刀で斬られて居り、石崎求馬は槍で突かれて死んでゐた」
「どうしてそれを?」
「碓氷貞之助殿は、氣の毒なことに殿の御覺えが目出度過ぎて、
武家の體面に
「さア大急ぎだ。||來い八」
「何處へ行くんです」
「翁屋へ引返すのだよ。||くたびれたか」
「
「下手人はわかつて居るのだよ。後でうんと喰はせてやる、來い」
「さう言はれるとシヤンとなるから不思議ですね」
無駄を言ひながら、通り三丁目の裏へ入つたのは、もう夕暮近い頃でした。
平次は翁屋を横に見て、その裏の長屋に、麻井幸之進の家を叩きました。
「誰だ。あ、平次親分か。又來たのか」
内職をして居たらしい麻井幸之進は、あわてて取片付けると、無愛想な調子で平次を迎へたのです。
「折入つてのお話がありますが||」
「よし、承らう。これ加奈、暫らく翁屋へ手傳ひにでも行くが宜い」
妹が邪魔になると思つたのか、お加奈を外へ出してやると、幸之進は改めて平次に對しました。
世辭も愛嬌もありませんが、腕は相當にあるらしく、如何にも良い青年武士です。
やがて二人の座が定まると、平次は靜かに話し出しました。關宿の城下に起つた、二十年前の三人侍の果し合ひの一
「||」
それを聽く麻井幸之進の顏色が、次第に眞つ蒼に變つて、額に
「これは牧野備後守樣江戸御留守居、金山主膳樣の打ちあけ話で、一厘一
「||」
「その大恩人を殺した下手人を、御存じならば、打ち明けて下さるのが、二十年前に亡くなられた御父上への大孝。昨夜人手に掛つて死んだ、翁屋小左衞門樣へも、何よりの報恩と思ひますが、如何でせう」
平次は詰め寄るのでした。
「||」
麻井幸之進は、深々とうな垂れてしまひました。脂汗は益々繁く、無念の唇はキリリと血の出るほど噛みしめられます。
「打ち明けて下さらなければ、萬已むを得ません。私は私の役目柄、繩打つて引立てることになりますが||」
「待つた、待つてくれ平次殿。如何にも打ち明けよう。いや、翁屋小左衞門殿を
「||」
「たつた一と晩待つてくれぬか平次殿。麻井幸之進、命を投げ出してのお頼みだ」
麻井幸之進は、兩刀を遙かの方に投げやると、疊に額を埋めて平次を拜むのです。
「拜んぢやいけません。麻井樣、||御尤もな御頼みではありますが、それでは?」
「いや、萬一の間違ひに
「飛んでもない、そんな事」
平次は手を振つてそれを
「サア、大變ツ、親分」
翌る日の朝、八五郎が持込んで來た大變は近頃珍らしく猛烈なものでした。
「何んだ、八」
「何んだぢやありませんよ。大變も大變、
「わかつて居るよ。あの若い浪人者の麻井幸之進といふ人が、腹でも切つたんだらう」
「あツ、親分はそれを知つて居たんですか」
「知つて居たわけぢやないが、生きて居れば今日は縛らなきやならないのさ」
平次はそんな事まで考へて居たのです。
「たゞ腹を切つただけぢやありませんよ。昨日の朝翁屋小左衞門の死骸を
「そいつは念入りだな。翁屋小左衞門を、親の敵と思ひ込んで斬つたお
「その上、まだ驚くことがありますよ」
「何んだえ」
「腹を切つた麻井幸之進は、自分の前へ
「えツ」
「こいつは親分も目が屆かないでせう」
「誰の生首だ」
「翁屋の
「あつ、矢つ張り、さうか」
平次も
× × ×
女の生首を前に置いて、腹を切つた若い武家の噂は、八方に飛んでその前日、同じ日本橋の晒し場に、
事件が
「妾のお春は惡い女さ。手代の久治と仲がよくなつたが、二人共恐ろしく利口だから、用心に用心をして誰にも氣取られなかつた。が、たつた一人、二人の仲の臭いことを嗅ぎつけ、動かぬ證據を握つて居る番頭の市助の口は、慾が深いから金をやつて封じ、不義の
「
「だが、小左衞門はもと武家の出で、少し
「||」
「幸之進は前後の考へもなく、當の敵の妾の言ふことだから、そのまゝ信用して小左衞門を討つ氣になつたが、丁度その時、長い間の望みが叶つて仕官の道が開けて居るので、今頃敵討騷ぎを起しても、相手が強いから萬一返り討ちになつてはつまらないし、もう一つは仕官の口がフイになるのも恐ろしかつたので、鎌倉町から歸るところを待ち受け、親切らしく持ちかけて、足の不自由な小左衞門の左の腕を自分の肩に掛けさせ、邪魔になる小左衞門の脇差を預ることにして、その脇差を拔いて脇腹へ突つ込んだ」
「||」
「一とたまりもあるわけはない。||小左衞門の死骸の袖にも腕にも刄物の跡のなかつたのはその爲だ」
「
「場所は日本橋近かつたので、幸之進は死骸を
「へエ、恐ろしく考へたものですね」
「お春といふ女は恐ろしい女だよ、||だがあんまり細工過ぎたのと、あの晩松次郎は間違ひもなく風邪の氣味で自分の部屋に
「へエ、どんなわけで」
「翁屋小左衞門が、安心して脇差を預けた上、左手で相手の肩に
「成程ね」
「お春に
「あの妹娘のお加奈はどうなつたでせう」
「翁屋の養ひ娘、お袖とは仲よしだから、いづれ引取られることだらう。翁屋は番頭も手代も
平次は言ひ了つて、靜かに煙草をすふのでした。これはさすがの錢形平次にも、全部へは眼の屆き兼ねるほどの事件だつたのです。