「親分、良い
「馬鹿野郎」
錢形平次は思はず一
「でも、あんな可愛らしいのはちよいと神田中にもありませんよ、あつしが知らないくらゐだから。餘つ程遠くから來たに違げえねえと思ふんだが||」
「
「それで路地を飛び出した樣子が、ひどくあわててゐたから、親分のところへ來て、うんと
「待つてくれ。脅かしもどうもしないよ、
「誰です、それは」
「この邊をちよい/\歩く糊賣の婆アだよ」
「嫌になるなア、あつしの言ふのは、十八九の、ポチヤポチヤした」
「わかつたよ、色白で
親分、子分の話は、何處まで行つても果てしがありません。
「その人なら、お勝口へ[#「お勝口へ」はママ]來ましたよ」
隣りの部屋から
「何んだ、お前が承知してゐたのか。それならそれと早く言へばよいのに」
「でも、何んにも言はずに歸つてしまつたんですもの。私はびつくりして追つ掛けて見ましたが、八五郎さんが向うから路地へ入つて來るのが見えたんで、あわてて戻つてしまひました。私まだ、變な
朝の支度がおくれて、お靜はまだ髮も直さず、帶もよくは締めてはゐなかつたのです。
「仕樣がねえなア||本當に何んにも言はなかつたのか」
平次は大きな舌打ちをしましたが、帶ひろどいて、若い娘を追つ掛けなかつたお靜のたしなみまでは小言も言へません。
「人の影が射したんで、覗いて見ると、戸袋の
「で?」
「水下駄を突つかけて側へ行かうとするといきなり逃げ出すんですもの、私はもう」
お靜はやるせなく胸を抱くのです。
「八の
平次も苦笑ひをする外はありません。
困り拔いたことがあつて、若い娘が江戸一番の御用聞、錢形平次の智慧を借りに來たが、いざとなると言ひそびれるか脅えるかして、あわてて逃げ出してしまつた例は、今までの經驗でも、二度や三度ではありません。
それを自分の手落ちにして、ひどく
この小事件は、やがて思ひも寄らぬ大事件に結びつき、八五郎の形容したアノー姫が平次の前へ、大きくクローズアツプされる日が來ました。それから四、五日。
五月二十八日は兩國の川開き、この日から始まつて八月二十八日まで、兩國橋を中心に、大川の水の上が、江戸の歡樂の中心になるのです。
わけても五月二十八日の夜は、涼み船は川を埋め、兩岸には涼みの
橋の上を行くのは貧しい人、上見て通れと
わけても平右衞門町の佐渡屋||金の
水の上の使用は、今も昔も、やかましく取締られたのですが、でも、
「わーツ」
この人數を載せたまゝ、涼み櫓の半分が夜の眞黒な水の中へ、グワラグワラグワラと崩れ落ちたのです。
川一パイの涼み船は、この恐ろしい事實を眺めながら、それも仕掛け花火の一とこまのやうな
「それツ」
「助けてやれ」
近くの船は、一瞬の後には、佐渡屋の櫓の下に集まります。
錢形平次と八五郎は、この晩、町方の
暫らくは恐ろしい混亂が續き、花火の打揚げも中止されましたが、佐渡屋の裏木戸を開けて、狹い庭へ濡れたの、濡れないの、半死半生の、いろ/\掻き集めて勘定して見ると、櫓の上から水に落ちたのは、端つこの方にゐた女主人のお兼を始めとして十三人、あとの三十人あまりは、崩れ殘つた櫓の部分にゐたのと、柱や横木につかまつて難を
行方不明になつたのは、先づ死んだものと思はなければならず、それは佐渡屋の家の者では、小僧の倉松がたゞ一人、外に若い藝子が一人、この死骸は翌る日になつて永代近くからあがりました。
半死半生なのは、佐渡屋の妹娘のお
「錢形の親分さん、あつしはこの涼み
五十男||正直で
「それは良いことに氣がついた。八、提灯を持つて來てくれ」
平次はこの藤次郎と名乘る男に案内させて半分
「こいつが獨りで落ちたとなると、
藤次郎は八五郎の手から提灯を借りて、急所々々を照して見せるのです。
半分落ち殘つた
「最初からこの繩をきつて置いたのかな」
平次は訊きました。
「最初から繩をきつちや、十人と登らないうちに落ちてしまひます。多分最初は急所々々の結び目十ヶ所くらゐへ、チヨイチヨイ刄物を入れて置き、潮時を見て、川へ乘出した一番端つこの、大事な繩を二三ヶ所きつたのでせう||四十何人と乘つてゐるんだから、これは一とたまりもありませんや」
藤次郎は、そのやり方の
「憎い野郎ですね、親分。そんな
八五郎は義憤に
「危ないよ、八。俺達まで川へ落ちたところで、物笑ひになるだけだ||尤も、俺も
平次もひどく興奮して居りました。誰が犧牲者になるかわからないやうな殺人計畫は、その目的は何んであらうと、全く許し難いやうな氣がするのです。
家の中は、大變な騷ぎでしたが、どうにかかうにか、歸す人は歸し、休ませるものは休ませ、一段落になつたところで、平次は番頭の彌八に引逢はされました。
四十前後の平凡そのものと言つた男、少し
「大變なことだつたな、番頭さん」
「へエ、飛んだことになりまして、誠に相濟みません。災難には違ひありませんが、何んとお詫びを申上げてよいやら」
などとモゾモゾしてゐる人間です。尤もこの騷ぎの中に處して、
名前は妙に優しく聞えますが、背が低くて、横幅が廣くて、顏は? ||平次も八五郎もこの男の人相には壓倒されました。先刻から奉公人達や近所の衆が『鬼の
お能の面に『


「あれは?」
平次はその後ろ姿を指さしました。
「養子の品吉さんでございます」
「縁邊の者とか、當家に義理のあるあひだとか?」
あまりに怪奇な養子の顏に、平次もフトそんな引つ掛りでも||と考へたのです。
「いえ、先代の主人が見込んで、養子に迎へましたが、お孃さんが若いので、まだ婚禮はして居りません」
「年は?」
「二十四になります」
「大層働き者らしいな」
「へエ、それはもう」
番頭の口邊には、ほのかに微笑が浮んだふうでした。
「ところで、番頭さんはあの騷ぎの時何處にゐたんだ」
「家の中に居りました」
「あの時家の中にゐたのは番頭さんだけか」
「いえ、下女のお六も居りましたやうで」
これ以上は、この
「親分、あれを」
不意に八五郎は平次の袖を引きました。
「何んだえ」
「あの娘ですよ。この間明神下の親分のお勝手口から姿を隱したのは」
娘は噂されてゐるのを知つてか、知らいでか、お茶と
「番頭さん、あの娘は?」
「親類から預つて居ります。お夏と申しますが、年は十九の
「大層なきりやうぢやないか」
「へ、世間ではよくさう仰しやいますが」
「ちよいと、あの娘に訊きたいことがある。呼んでくれないか」
「へえ」
番頭の彌八が立去ると、間もなく先刻の娘は唐紙をそつと開けて、滑るやうにフハリと入つて來ました。八五郎がどんなにでつかい鼻をクンクンさせたところで、
「お前は先刻何處にゐたんだ」
平次の問ひは殘酷なほど露骨でした。
「後ろの方に居りました。
娘はさう言つて靜かに顏をあげます。ニコリともしませんが、いかにも非凡な可愛らしさです。
「お前は四五日前、明神下の俺の家へ來たさうだな」
「||」
「お勝手から歸つたのは、あれはどういふわけだ」
「||」
「どんな用事があつたのだ」
平次は少し疊みかけました。が、
「私は、あの私は、參りません」
お夏は眞直に顏を擧げて、かうキツパリと言ひきるのです。
女主人のお兼は、少し水を呑んで胸が惡いといふだけ、元氣よく怒鳴り散らして居ります。四十二三の立派な
「親分、御苦勞樣。小僧の倉松と藝子が一人見つからないさうですが||でもこれだけで濟んだのは、皆さんのお蔭でした」
さう言つて、さすがに眼を伏せるのです。
「飛んだ災難||と言ひたいが、實は内儀さん、あの
「親分、
氣丈らしい内儀も、あまりのことに
「
「まア、そんなことが」
「誰が一體、佐渡屋の者を皆殺しにしようと
平次はグイグイと突つ込むのです。
「そんな者があるわけはないぢやありませんか。人を怨むにしても、程があるのに」
「その通り、人を怨むにも程がある。四十人も水の中へ落して、誰が死ぬかわからないやうな細工をするのは、あんまり無法で勘辨ならないぢやありませんか」
「親分、是非それを見付けて、
お兼は意氣込みます。が、その話は大した參考にはなりません。佐渡屋は兩替淺草組世話役で、
「奉公人達は?」
「皆、信用がおけます。
「養子の品吉は?」
「私の
お兼は年を取つてもさすがに女でした。
「お夏とか言つた、あの娘は」
「あれは良い娘ですが、少し氣の知れないところがあつて」
これもまた、全面的には、女主人に好まれてゐない樣子でした。
「親分、大變なものを見つけましたよ」
八五郎でした。暫らく姿を見せないと思ふうちに、何處で何をしてゐたか、縁側から怒鳴るのです。
「何んだえ、相變らず騷々しいな」
「
「どれ/\」
手に取つて見ると、
「これは、誰の道具でせう」
平次は改めてその剃刀を女主人に見せました。
「品吉の剃刀ですよ。あの人は
「||」
「呼びませうか?」
「いや、あつしが參ります」
平次は起つて、店の方へ||。
廊下の暗がりで、ハタと逢つたのは、十七八のこれもまた美しい娘でした。後で佐渡屋の總領娘で、品吉と
平次の顏を見ると、ハツと立ち
「八、もう一人岡惚れの人別帳に書き入れが増えたらう」
「驚いたね、どうも。色は淺黒いがキリリとした良い娘ですね、あんなに綺麗なのが揃つてゐちや、涼み
八五郎の不作法な冗談が、不思議な
四十何人の者を、無差別に大川の水に陷ち込ませようとした、恐ろしい曲者、その思ひやりのない、鬼畜の
「死んだのは小僧一人に藝子一人だ。曲者が
平次が日頃になく
「で、見當でもついたんですか、親分」
八五郎は
「一向見當がつかないから
「どんなことをやらかしやいゝんで?」
「お前はあの時
「それをどうするんです」
平次の企畫の馬鹿々々しさに、八五郎は眼を丸くしました。
「
「やつて見ませう」
「ちよいと待つてくれ、八。この
平次はほつ立て尻になる八五郎を呼び留めました。
「へえ、驚きましたよ。そいつが頭の上に落ちた時は、もう少しで鼻の頭を
「水際から何間くらゐ離れてゐた」
「一間そこ/\でせうね。
「すると、落ちた櫓の
「そんなことになるでせうね」
繩をきつて水に落したのは、剃刀の引つ掛つてゐた松の枝から、二間も離れてゐるといふことに、何やら重大な
八五郎と別れた平次は、店にゐる養子の品吉を、隣りの小部屋に
「さて、これだけの騷ぎは、
「||」
品吉は少しばかりけゞんな顏になつて、ヂツと平次の口許を見つめます。『鬼の面』とはまことによく言つた形容で、この
「ところが、よく調べて見ると、あの水の上に突き出した
「矢張りさうでしたか、私もそんなことではないかと思ひましたよ。
品吉の表情は一
「その繩をきつたのは、この
平次は懷ろ紙の間に狹んであつた剃刀を、品吉の前に突き出しました。
「それは私の剃刀ですが、何處にありました?」
品吉はさすがにギヨツとした樣子です。
「庭の松の枝に引掛つてゐたといふよ。八五郎の頭の上へ落ちて來て、危なくあの長い
平次はこんな緊張時にも、つまらぬ作を入れて、一人ニヤリとするのです。
「危ないことで」
品吉は世間並に挨拶をしましたが、餘程驚いてゐる樣子は隱せません。
「この剃刀がお前のだとなると、厄介なことになるが」
平次は氣を引いて見ます。
「飛んでもない、私がそんなことをするわけはございません。若し私がやつたものなら、自分の剃刀を使ふ筈もなく、その大事な證據を、その場へ捨てて來るやうな馬鹿なことはしないと思ひますが」
「物事には表と裏とあり、
平次の調子は意地惡くさへ聽えますが、それは品吉の
「でも、親分。私はこの通りのひどい
品吉は一生懸命の智慧を振り絞るのでした。
平次は
二番目娘のお信は散々水を呑んだらしく、町内の本道(内科醫)と母親と、姉のお絹の介抱を受けて、まだ起き上がる力もなく、床の上で
子供らしさの拔けきれない十四の娘には、恩も怨みもある筈はなく、
「この娘は
と母親が代つて説明するのを、うなづきながら聽いてゐるだけでした。
「その時、
平次は問ひました。十數ヶ所の繩をきるためには、一ヶ所に留まつては居られないわけです。
「お夏は、お
「與之助は?」
「あれは變りもので、旦那衆のやうな心持でゐたんです。酒の酌や、御馳走の世話や、お客樣への
「内儀さんは?」
「私はお信の後ろに居りました。その少し後ろにお絹がゐたやうで大きな花火が揚がつて、皆んな夢中になつて上を見あげた時、
「お孃さんの怪我は?」
「怪我といふほどのことではなかつたやうで、あつと思つた時はもう
母親にこんなことを言はれると、お絹は驚いてその後ろに姿を隱しました。この名ある御用聞から、
お絹は始終うつ向いて、默り込んで居りますが、それは町娘らしい、お
平次はそこをよい加減にきりあげて、店の二階の奉公人達の部屋に寢てゐる、
「あ、錢形の親分さん、相濟みません。こんなところへ、私はもう大丈夫なんで||」
さう言つて起き上がつたのは、手代の直次郎でした。それは二十七八の好い男で、出ししやくれた生白い顏も、男にしてはニヤケ過ぎますが、その代りお世辭がよくて、商賣上手で、佐渡屋の先代から
「水をひどく呑んだやうに聞いたが」
「呑みましたよ。大川の水なんてものは、あまり結構なもんぢやありませんね、||
「ところで、與之助は?」
「御免下さい。まだ變な心持で」
これは横になつたまゝ、少し
錢形平次も、これが精一杯の調べでした。これ以上の細かいことは、少し息を拔いて、八方から情報を集める外はなかつたのです。
それから三日目。
八五郎が持つて來た、その晩の
「人間といふものは、不思議なものですね」
そのお團子を並べたやうに四十餘りの丸を書いて、それに八五郎一流の
「道話の先生のやうなことを言ふぢやないか、何が一體不思議なんだ、||鼻の下に口のあるのが不思議でならねえなんて無駄は御免だよ」
平次は落着き拂つて、その丸々の配置を研究して居ります。
「あの騷ぎの後で自分の傍にすわつてゐた人間の名前を思ひ出せねえといふのは、隨分間拔けな話ぢやありませんか。四十何人は皆んな親類縁者と町内の衆で、顏を知らないのは一人もゐなかつた筈ですよ」
「そんなものかも知れないよ。でも、それだけわかつて居れば結構さ。棧敷の前の兩端は、與之助に死んだ小僧の倉松か、その間はお信と近所の若い者、後ろは母親とお絹、それに藝子が二人、品吉と直次郎とお夏は席がなくて、あちこち泳いでゐる||」
「その後ろは」
「その後ろは知らない人間ばかりだ。近所の衆などは先づ
「すると、
「此處には顏を出してゐないが、番頭の彌八だつて、怪しくないとは言へないよ。繩は前からきつて置いたかも知れず、あの番頭はヌラリ、クラリとして喰へないところがあるから、何を狙つてゐるか、一寸氣の知れないところがあるだらう」
「それぢや、これから飛んで行つて」
「擧げて來ようといふのか、そいつは止してくれ。怪しいのを一々縛つちや際限もないことだ。それより番頭の彌八と、養子の品吉と、
「それならわかつてますよ」
「どうわかつてゐるんだ」
「彌八は少しくらゐは溜めてゐるし、手代直次郎は、男つ振りが好いから、あちこちでチヤホヤされて借金だらけ。與之助は一番正直さうな顏をしてゐるが、全く氣の知れない人間で、品吉と來たら、日本一の堅造ですよ」
「お前は片付けるのが早い、物事はさう手取早くキメつけちやいけないよ。一番太い奴は、一番正直さうな頭をするものだ」
「へエ」
「オヤ、誰か來た樣子ぢやないか、路地の中へ驅け込んで
「||」
目配せ一つで、八五郎はバネ仕掛けのやうに飛び上がりました。障子をサツと開けると、
「お助け||私、私は、もう」
上がり
「どうした、佐渡屋に變つたことでもあつたのか」
平次も思はず腰を浮かせました。お夏の樣子は、それほど突き詰めた、物々しいものだつたのです。
「皆んな殺されるかも知れません」
「何?」
「
「やられたのは?」
「私とお六さんは、お勝手をしてゐたので、助かりました。直次郎さんは帳場が忙しくて、朝飯がおくれたので助かりましたが||」
「あとは||」
「
「他に使ひの者もあつたことだらうが、お前が此處へ來たのは?」
平次はそれが不思議でならなかつたのです。十九の娘が、髮を振り亂し、
「私は縛られさうだつたんです。石原の利助親分のところの子分衆が多勢乘り込んで來て、毒を呑まない私と直次郎さんが怪しいと、蔭で
お夏は日頃の冷たさをかなぐり棄てて、平次の膝に
平次の女房のお靜は、この綺麗な娘の顏を、遠くの方から覗いて居りましたが、思はず、
「あ、この人ですよ。この間お勝手口まで來て、逃げてしまつたのは」
と平次の後ろから囁くのでした。
「よし/\、解つてゐる。お前は
「||」
お靜は自分のはしたない態度にハツと氣がついた樣子で、逃げるやうに隣りの部屋に姿を隱してしまひました。
「お夏さん、佐渡屋へ乘り込んで行つて、次第に寄つてはお前を助けてやらないものでもないが、その前に一つ、この間此處のお勝手口を
「||」
お夏は顏を擧げました。根のゆるんだ髮が首筋に冠さつて、
「それを、お前に訊くと||私は行つた覺えはないと言つた筈だ」
「濟みません、親分。私は怖かつたんです」
「怖いだけか」
「え、||私は二人の人が、相談してゐるのを聽きました。
「誰がそんなことを言つたのだ」
「誰が言つたか、少しもわかりません」
「男か、女か」
「それも解らなかつたんです、||顏だけでも見て置けばよいのを、私はあんまり怖くなつて、逃げてしまひました。萬一見つけられでもしたら、私が第一番に殺されるやうな氣がしたんです」
「それで?」
「私は此處まで飛んで來ました。でもいざとなると、親分に會つて、夢のやうな話をしたばかりに、後でどんな
お夏は惱ましさうでした。が、その言葉には妙に眞劍味が
「後で知らないと言つたのは?」
「あの家は、何處の壁にも耳があります。うつかりしたことを言ふと、それを聽かれて、どんな目に逢はされるかもわかりません」
さう言ひながらも、あの冷靜そのもののやうなお夏が、恐怖やら緊張やらに
「さア、出かけよう||と言つたところで、その
平次は女房を呼んで、お夏の髮形から、
明神下から平右衞門町まで、女の足では急いで四半刻はかゝります。その間平次と八五郎は、お夏を中に挾んで、何くれとなく話を手繰り出しました。
「いろ/\訊きたいが、今度は隱さずに話してくれるだらうな」
「えゝ」
「例へば、お前の身許だ。佐渡屋とはどんな係り合ひになつてゐるんだ」
「私は先々代の
「大分遠いな」
「
そんな遠い血のつながりでは、先づお夏には佐渡屋の
「與之助は?」
「あの人は
「直次郎と品吉は血のつながりはないと言つたな||ところで、娘のお絹さんは、養子の品吉と一緒になるのを、嫌がつてゐるやうなことはないのか」
「あんまり氣が進まない樣子です。でも」
「でも?」
「品吉さんは良い人です」
「それぢや、お絹さんに言ひ寄る者でもあるんだらう」
「え、與之助さんも、直次郎どんも」
お夏はかう言つてほのかに顏を染めました。
「お前にも縁談の口はあることだらうと思ふが||」
「私なんかに、||
お夏は眼を伏せました。長い
「でも、お前のきりやうなら、隨分うるさく言ふ者もあるだらう」
お夏は默つてしまひました。後ろに
「あれ、もう參りました」
お夏は救はれたやうに顏を擧げました。其處はもう
佐渡屋は無氣味に鎭まり返つて奉公人達は
一歩踏み込んだ平次は、ハツとしたのも無理もありません。線香の匂ひがプーンと、風に
「あ、錢形の親分」
飛んで出たのは、石原の利助の子分達でした。
「矢張りいけなかつたのか」
「内儀さんが、半
由良松に取つては、内儀が死んだことよりも、明神下の錢形平次が早くも嗅ぎつけて、此處へ現はれたのが不思議でたまらなかつたのです。
「お夏さんが馳けつけてくれて、此處まで引つ張り出されたよ」
「そのお夏は何處にゐます」
「俺と一緒に戻つた筈だが」
「あの
由良松と喜三郎は、飛び出しさうにするのです。
「待つてくれ。お夏がどうしたといふのだ」
平次は兎も角もそれを引留めて、話の筋を通させようとするのです。
「今朝の味噌汁に、馬が五六匹殺せる程の
「たつたそれだけのことか」
「たつたそれだけで澤山ぢやありませんか。ね、親分」
氣の早さうな喜三郎は少しおくれるのです。親分の石原の利助の昔の競爭相手で、利助が中風で動けなくなつてから、利助の娘の、出戻りのお品を助けて、ツイ錢形平次が蔭に
「自分の拵へた味噌汁に毒を仕込んで、自分だけ
平次は眞劍にそんなことを考へてゐるのでせう。頬を押へた十手の白磨きが、窓から入る青葉の陽に反映して、温かさうに光るのも、妙に惱ましいシーンでした。
「若い女に
八五郎は助け舟見たいに、長んがい顎を突き出すのでした。
「それにしても、あの娘には、佐渡屋の家中の者を皆殺しにするわけはないぢやないか」
先々代の
「それがあるとしたらどうです。錢形の親分」
由良松は低い鼻を
「わけがある? あの娘に?」
「あの娘||お夏といふのは、佐渡屋とどんな引つ掛りになつてゐるか、親分は知つてゐなさるでせうね」
「先々代の姪の子で十歳の時この家へ引取られたとか言つたが||」
「十歳の時引取られたのは本當ですが、お夏は先々代の姪の子なんかぢやなくて、あれは三年前に亡くなつた佐渡屋の主人源左衞門の
由良松の低い鼻が又うごめきます。
「本當かえ、それは?」
「十年前に佐渡屋源左衞門の
それは思ひも寄らぬ事實でした。平次もまさに、開いた口が
「それを、誰が話したのだ」
「番頭の彌八ですよ。店中でこの
「それをどうして彌八が、今更、打明ける氣になつたのだ」
平次は彌八に問ひかけるやうな調子で、由良松に問ひ寄るのです。
「そいつを教へてはならない内儀が
「張合ひがない?」
「彌八はそれをネタに、亡くなつた先代の主人源左衞門から、しこたま貰つてゐた樣子です」
かう聽くと、お夏は妾腹ながら、三人娘の一番の姉で、運よく行けば佐渡屋の跡取りにもなれるわけで、内儀のお兼を始め、二人の異腹の妹を殺す動機は充分にあるわけです。
「でもあの娘は」
八五郎は長んがい
奧の一と間には、線香の匂ひを
「飛んだことだな、番頭さん」
平次が入つて行くと、
「いやもう、お話にもなりません。誰の
經机の上を飾りながら、彌八の聲は少し濡れます。
「一體どうしてこんなことになつたんだ」
平次は佛樣へお線香をあげて、彌八の方に向き直りました。味噌汁に仕込んだ、
「三度の食事は皆んな一緒に頂くのが佐渡屋の家風で、お勝手の隣りの板の間に、内儀さん始め奉公人まで並んで頂戴いたします。尤も内儀さんやお孃さん方は座布團を敷きますが、私どもは板の間に坐つたまゝで」
「||」
「煙草が過ぎるので、味噌汁のお好きな内儀さんは、二杯も代へて召上がつたやうで、||それがいけなかつたのでございませう。お孃樣のお絹樣も半分くらゐは召上がりましたが、お信樣はお嫌ひで、親御さんに
彌八は事細かに報告しますが、これだけでは毒が何處から入つたのか見當もつきません。
「味噌汁はお夏が
平次は下女のお六に訊ねました。
「お勝手は私と二人つきりですから、よく知つて居ります。あの人は味噌汁を拵へて自分で運んで皆さんに上げました。その間一寸も眼を離さなかつた筈ですし、お勝手へ入つて來た人は一人もありません」
下女のお六の言葉は恐ろしく嚴重で、少しの
三十二三の、一度や二度は縁づきもしたことのある女、奉公
「では、念のために、お勝手を見せてくれないか」
「へエ、どうぞ」
お六は先に立つて、平次と八五郎を案内しました。少し薄暗い造りですが、大きな流しや、荒い格子や、磨き拔かれた釜や鍋や、よくきれさうな
「此處でかう||」
とお六は味噌汁を作る手順まで説明してくれました。
「その味噌汁の殘りは何處にあるんだ」
平次に取つてはそれは唯一の手掛りでした。
「石原の子分衆もそれを訊きましたが、皆んな
「鍋は?」
「ざつと洗つてしまひましたが」
「何んといふことをするのだ」
平次は地團太を踏みたい心持でしたが、この確り者らしいくせに、そんなことになると、全く想像力を持たない下女を相手に、今更腹を立てたところでどうにもなりません。
「味噌の小出しの
「
「それは良かつた」
平次はせめてもホツとした樣子です。
「親分、大變なことが」
石原の
「どうした、由良松
「お夏は親分と一緒に此處へ歸つたと言ひましたね」
「一緒に戻つたよ。明神下から、八五郎と三人で話をしながら」
「それが見えないんです」
「何?」
「店先でチラと見たやうですが、それつきり、何處へ行つたか、姿を隱してしまひました」
「姿を隱した?」
「さうとでも思はなきや、表にも裏にも、自分の部屋にもゐませんよ」
「フーム」
平次は
「あの娘が自分から姿を隱す筈はねえ。誰かに
八五郎は口を容れました。お夏の||少し冷たくはあるが、あの透き通るやうな綺麗さに
「そいつは八方に手を廻して搜さなきや。八、お前も手傳つて、この
平次も少し
「それぢや||」
飛んで行く八五郎の後ろ姿を見送りながら平次は、
「戸棚の味噌の
さり氣なく由良松に訊ねました。
「味噌の小出しの瓶には、毒はなかつたといひますよ」
由良松は『それ見たことか』と言ひさうです。瓶の味噌に毒がなければ、矢張りお夏か手から鍋へ入れられたことになるのです。
「有難う、||いよ/\むづかしくなつたが、お夏を搜すのが第一だ。頼むぜ」
平次は妙に身内の引緊まるやうな心持でした。この無慈悲な大量
お六に訊くと、姉娘のお絹は、今しがたスヤスヤと寢てゐるといふことだし、店二階に休んでゐる與之助もまだ元氣が恢復せず、直次郎は寺へ使ひに行つて、
「飛んだお手數をかけまして」
淋しさうに、店番をしてゐる品吉は、平次の姿を見ると、丁寧に挨拶しました。
二十四とか聞きましたが、それにしてはまた、なんといふ變つた男でせう。

「お氣の毒だね、||ところで、誰が一體、佐渡屋を皆殺しにする氣になるだらう」
「わかりませんよ、親分」
平次が帳場格子の前にしやがむと、品吉は

「お夏が見えなくなつたさうだが、何處か心當りはないだらうか」
「あの人には
「||」
「それに、この間から變な眼で見られたり、今朝なんかは、縛られかけたりして、本當に氣の毒でした。お夏さんはそんな人ぢやございませんよ。可哀想に」
品吉はつく/″\さう言ふのでした。
「ところで、佐渡屋の後はどうなることだらうな」
平次は脈を引きます。
「私は養子といふことになつて居りますが、まだ家督を相續したわけでなく、亡くなつた
品吉は立派なことを言ふのでした。亡くなつた内儀が、品吉の人柄を褒めながら、決して氣に入つてゐなかつたのは、それは顏や形のせゐであつたにしても、平次もよく知つて居ります。しかし、かう立派なことを言ふのが、品吉の本心かどうか、其處までは平次の眼も屆きません。
「あツ、大變ツ。皆んな來て下さい。お孃樣が、お孃樣が||」
それは下女のお六の聲でした。家中の者が
それは姉娘のお絹の部屋でした。見ると縁側へ四つん這ひになつたお六は、精一杯の聲を張り上げて、川向うへ聽えるほどわめいてゐるではありませんか。
「どうした、どうした」
彌八は一つ置いて手前の部屋||佛樣のところから飛んで來ました。それに續いて品吉と、平次。
「お孃樣が、あれ」
見ると味噌汁の毒にやられたお絹、||それは一應手當が濟んで、靜かに眠つてゐる筈のお絹は、床から拔け出し加減に、
人々があまりのことに
「早く醫者を、早く」
それを聽くと品吉は、
「どうしました、お孃さん」
「首筋をやられた。急所は
平次は側にあつた手拭を取つて傷口を押へ自分の膝を枕にさせて、
「誰が、一體誰が、そんなことをしました。お孃さん」
番頭の彌八は横から覗きました。が、今朝の毒にやられた上、この重傷を受けて、お絹は口をきく氣力もなく、この美しい娘の命が油の盡きた
不思議な美しを持つた娘||お
「お孃さん、相手は、相手は?」
平次もたまりかねて、自分の膝の上に死んで行く娘の耳に張り上げました。
「||をんな||」
僅に答へたお絹、それは本當に精一杯の努力だつたでせう。やがてもう一度眼を開くと、
「||みづ、||水を||」
かすかに口を動かして、そのまゝ息は絶えてしまつたのです。
見ると枕から二尺ほど離れて、この娘の首筋を刺したらしい、
「どうしたんです。お孃さんは」
「何んかあつたんですか、お孃さんに」
裏から飛び込んで來たのは、寺へ使ひに行つた筈の手代の直次郎です。
「親分、憎いぢやありませんか。どんな野郎が、これほどの
八五郎は唇を噛んだり、腕を叩いたり、眼をしばたゝいたりするのです。若くて美しい娘の死骸を見ると、何時でも義憤に燃える八五郎ですが、今度の事件||佐渡屋に
「相手はあせり出したよ。あせると一つづつ
平次は、八五郎へと言ふよりは、お絹の痛々しい死顏と、それを
「證據? 何處にそんなものが撒いてあるんです」
「あわてるな八。その邊をキヨロキヨロ見廻したところで、證據が轉がつてゐるわけぢやない、||ところで、その窓だ。曲者はその窓から入つて、うと/\してゐるお孃さんの首筋を刺し、もとの窓から逃け出した[#「逃け出した」はママ]に違ひあるまい。隣りの部屋には多勢の人がゐたし、縁側は行止りだ、||お前はその窓から外へ出て、ざつと見渡してくれないか」
「親分は?」
「お醫者が見えたやうだ。俺はその話を聽きたい」
平次の説明をぼんのくぼに聽いて、八五郎は、窓からヒラリと飛び降りました。言ふまでもなく
それと入れ違ひに入つて來たのは、町内の本道(内科醫)で、順庵といふ坊主顏でした。
「何んといふことだ。半日のうちに、二人目が殺されるといふのは?」
佐渡屋と
「これはいけない、
藥箱にも及ばず、風の如く引揚げて行くのです。
「ちよいと先生」
平次はそれを追つて、
「錢形の親分か、厄介なことだな」
坊主頭は振り返つて物々しい顏になります。
「まるで眼鼻がつきません。先生がお氣づきのことがあつたら||」
「氣の毒だが何んにもない、あのお絹さんといふ娘御は良い娘だつたが、惜しいことをしたよ。傷は首筋を一と突き。心得のある手口だが、一分か五厘の違ひでも急所を
順庵はさすがに良いことに氣がついて居ります。頸動脈を刺して、聲を立てさせないためには、容易ならぬ計畫があるべき筈です。
「有難うございました。良いことを伺ひました。ところでもう一つ、今朝の味噌汁には
「石見銀山といふのは
「お孃さんは放つて置いても助からなかつたでせうか」
「いや、お孃さんと與之助は至つて輕かつた。與之助などは、ひどく吐いた後はケロリとしてゐる、青くなつて寢てゐるのは、
それだけのことを言ひ殘して、順庵はせか/\と歸つて行くのです。
平次はそのまゝ庭下駄を突つかけて、家の外廻りを半分裏庭の方へ出ました。
「親分、大變なものを見つけましたよ」
お勝手口の方から八五郎が、何やら赤い着物を持つて飛んで來るのです。
「何んだえ、それは?」
「女の寢卷ですよ、||裏の縁側の
「フーム」
「この寢卷の背中から後ろ
八五郎は少しばかり
「どれ/\」
平次はその寢卷を受取つて、一應調べました。
「ね、親分、その通り」
「すると、お夏は、俺達と一緒に此處へ歸つて來てから、あわてて寢卷と着換へて、お絹の部屋に忍び込み、後ろ向になつてお絹を刺したといふのか」
「何んです? 親分」
「あわてるなよ、八。又一つ曲者は證據を殘して行つてくれたよ、||それは、この下手人は、お夏ではないといふことだ」
「へエ、それであつしも安心しましたよ。あの娘をお
「還俗?」
「十手捕繩返上といふ文句が長過ぎて威勢が惡いから、あつしの思ひつきですよ」
「
さう言ひながらも平次は、この血染の寢卷を隱すことの出來ない、八五郎の正直さをよく知つてゐるのでした。
「外に變つたことはないのか」
「庭がジメジメしてゐるので、足跡は澤山ありますがね、あつしの
又こんなことを言ふ八五郎です。
「おや、あれは
平次が指さすと、八五郎は默つてお勝手口へ飛んで行き、五十男の練達な感じのする鳶頭の藤次郎をつれて來ました。
「おや、錢形の親分さん。御苦勞樣で、佐渡屋さんも大變なことでしたね」
藤次郎はお店の
「これで、花火見物の
「へエ」
藤次郎は禮を言つたものか、どうか、返事に戸惑つた姿です。
「少し訊きたいことがあるが||外でもない、佐渡屋を皆殺しにしたいほど怨んでゐる者があるだらうか」
「飛んでもない、そんな
「もう一つ、佐渡屋の跡取りは誰になるだらう。親類方や店の者は、
「そんな立ち入つたことは、あつしにわかる道理はございませんが、はたから見たところでは、御養子の品吉さんか、二番目のお孃さんの、お信さんあたりが相續することになりませう。尤も||」
「?」
「あの掛り人のお夏さんが、先代の旦那の隱し子で、お絹さんお信さんの姉さんに當るといふことも、御當人のお夏さんの外に、二三人知つてゐる方もありますが」
「鳶頭もそれを知つてゐたのか」
「へ、へ、
「それは驚いたな」
「尤も、いざとなると、お夏さんが跡取りでは、親類方が承知しないかもわかりません」
「養子の品吉の評判はどうだ」
「亡くなつた大旦那は、日本一の目きゝでしたよ、あんな結構な養子は江戸中にも二人とはありますまい」
「大層肩を入れるんだね」
「あの顏では、喰ひつきは惡うございます、『鬼の面』とはよくつけた
「女には、受けが良い方かな」
「女に持てる顏ぢやございませんよ。現に内儀などは、品吉さんの人柄をほめながらも、好きにはなれなかつたやうで||大きい聲では申上げられませんが、中年の女の方は、思ひの外きりやう好みですね」
藤次郎はかう言つてニヤリとするのです。
「お絹さんは?」
「お孃さんはまだ十八で、たいした考へもなかつたでせう。お信さんとお夏さんは品吉さん
「奉公人達は」
「直次郎どんは、馬鹿にしてゐました。男つ振りの好い人間から見ると
などと藤次郎は手を揉みます。
「有難う。飛んだ役に立つたよ、
平次は藤次郎と別れて、もう一度曲者が忍び込んだと思ふ窓のあたりへ引返しました。
「どうだ、八。お孃さんを刺した曲者は、この窓から忍び込んだには違ひないが、此處へ來るには、皆んな見張つてゐる座敷の前を通つて、庭からグルリと廻るか、でなければ、裏木戸を入つて、明けつ放しのお勝手口の前を通ることになるが、お前は何方だと思ふ」
平次は新しい問ひを投げかけました。
「何方も出來さうもありませんね。お勝手には下女のお六が頑張つてゐるが、あの女は野良猫一匹だつて
「すると?」
「曲者は大地から湧いたか、空から降つたか、
「庇は渡れないよ。上の部屋と言つても、少し方角は違つてゐるが、兎も角、五六間先の二階の部屋には、與之助がウンウン
「すれと矢つ張り、大地から湧いたか、天から降つたか||」
「止さないか、馬鹿々々しい」
「親分には下手人の見當がついてゐるんでせう」
「まだわからないよ、||ところでお夏には親類とか友達とか、
「へエ、そんなことなら」
八五郎は大呑込みで飛んで行きましたが、その報告も、凡そ掴みどころのないものでした。
「あの娘の母親は名古屋者だつたさうで、江戸には親類も何んにもありませんね。それにあのお夏といふ娘はまた變り者で、友達らしい友達も
それを聽きながら平次は默つて考へ込んでしまひました。
此處まで行詰まると、平次も一應は投げ出す外はなかつたのです。
「八、後を頼むぜ。俺は家へ歸つて一と休みして考へるから」
「心細いなア、親分」
そんなことを言つたところで、思ひ留らせるわけにも行きません。
「直次郎に氣をつけろ」
「あの男が怪しいんですか。大川へ落ちてもたいして水を呑まなかつたり、味噌汁の時は帳場にゐたり、お孃さんが殺された時は、お寺へ行つて居り、妙に運が良いくせに、ソハソハしてゐますが」
「そんなことぢやないよ。兎も角、見張つてゐさへすりやよい」
平次は
其處には平次の戀女房のお靜が、いつものやうに、若さと美しさを發散させながら、更衣時の仕事に忙しく立ち働いてゐるのでした。
「お靜」
「ハイ」
「ちよいと來てくれ」
平次は默つて家の中へ入ると、火のない長火鉢の向うに坐つて、
「まア、お前さん、どうなすつたの」
「お前は、俺に隱してゐることがある筈だな」
「えツ」
「
「まア、お前さん、そんなに腹を立てて」
お靜は
お靜の
「腹を立てるわけぢやない。本當のことを言つて貰ひたいのだよ。お前はまさか、この俺を困らせるつもりで、餘計な細工をする筈はない」
「あの人は、||私は殺されるかも知れない、たつた二日でも三日でもよいからかくまつて下さいつて、泣きながら戻つて來たんです。そして親分は平右衞門町の佐渡屋にゐなさるが、佐渡屋に又間違ひがあつたやうだから、今日も遲くまでは歸りがないでせう||つて」
「それを何處へお前はやつたんだ」
「いづれお前さんが戻つたら打ち開けてお話するつもりでした。あの人は濱町の私の母さんの家にゐる筈です」
「よし/\泣かなくたつて宜い。お前が引受けてくれなきや、あの娘は何處へ飛んだかわからない。
「まア」
お靜は大急ぎで涙を拭いて、ホツとする下から、持前の微笑が湧くのです。
「ホイ、今
さう言はれるうちに、お靜は手早く支度を整へるのでした。年に一度も夫と表に外へ出ることのないお靜には、こんな
「お夏さん、飛んだ人騷がせぢやないか。此處にゐると氣がつかなきや、江戸中を搜し廻るところさ」
濱町の路地の裏、仕立物などをして、細々と暮してゐるお靜の母親の家の一と間に、平次はかう佐渡屋の掛り人のお夏に相對しました。
「濟みません。あの家へ入ると、私は本當に殺されるやうな氣がしたんです。殺されないまでも、石原の子分衆に、繩を打たれて恥かしい
「誰が一體お夏さんの命を狙つてゐるのだ」
「それがわからないから逃げたんです」
「では訊くが、お前が、佐渡屋の先代の隱し子だといふことは、誰と誰が知つてゐるんだ」
「皆んな薄々は知つて居ります。亡くなつた内儀さんと、お絹さん、お信さんの外は」
「すると、佐渡屋の家督を狙ふ者の
「?」
「品吉をどう思ふ||あの男に怪しい素振りはないか」
「飛んでもない親分。廣い江戸中にも、あんな良い人はありません」
お夏は敢然として頭を振りあげるのでした。言葉數は多くありませんが、その抗議には宗教的な熱心さがあつたのです。
平次は『娘の新しい角度』を見せられたような氣がして、フト身内の
「でも、殺されたお孃さんのお絹さんは、品吉を嫌つてゐたといふではないか」
「それは、若い女の心を見通せない人の言ふことです。お孃さんは、よそ/\しく見せてゐて、心の中では品吉が好きで/\ならなかつたのです」
それもまた平次に取つては、若い女の心の不思議な角度でした。
「今朝、味噌汁を拵へるとき、お夏さんは小出しの
平次は妙な方へ問ひを持つて行きました。
「いえ、||戸棚の中の小出しの瓶の上に、杓子に一と
「あ、それだ」
平次は飛び上がるほど驚きました。朝の味噌汁の中に、猛毒を仕込むためには、それが一番手輕で間違ひのない方法で、それをお六の親切と解し、
かうわかつて見ると、お夏の手を經ず味噌汁の中に
醫者の順庵のところに立寄つて、何やら訊いた平次は、一氣に佐渡屋の店に飛び込みました。もう家の中は薄暗くなりかけて、二つのお
「お、親分、よい
「誰が直次郎を縛れと言つたんだ」
「へエ、ありや
「當り前だ。今度は直次郎が殺される番だつたのさ。まア宜い、直次郎も許せない奴だ、||ところでお六をつれて來い」
「あの女が、まさか」
「人を見ると、一々下手人にするのはよくねえ道樂だ。お六に搜して貰ひたいものがあるんだよ」
「へエ」
やがて八五郎に
「
「へエ?」
「奉公人達の洗濯はお前が洗つてやるんだらう。何處へ溜めて置くんだ」
「それなら
お六は平次と八五郎を案内して行つて、梯子段の下から、大きな籠を引つ張り出しました。暫らくその中をあさつてゐた平次、間もなく味噌汁臭い
「こいつは誰の前掛けだ」
「與之助どんので」
「しめた、八、お前は裏庭へ廻れ。大急ぎだ、鳥が飛ぶぞ」
八五郎が庭へ飛び降りると同時に、平次は梯子段から二階に飛び上がりました。が、其處に
「野郎ツ、神妙にしやがれツ」
庭の方から八五郎の聲でした。窓から見下ろすと、薄暗くなつた裏庭の眞ん中で、與之助と八五郎は組んづほぐれつ
× × ×
「あの與之助の野郎が下手人とは驚きましたね。何んだつて、あんなことをしたんでせう」
歸る途々、八五郎はまた平次に繪解きをせがみます。
「佐渡屋を乘つ取る氣でやつたのさ。その上お絹が心の中では『鬼の面』の品吉に
「一人でやつた仕事ですか、あの
「直次郎に手傳はせたのだよ、||お夏が聽いたといふ『佐渡屋の者を根絶やしにする』と言つた相談は、あの二人さ。棧敷を落して自分達も水に入り、お絹だけを助けるつもりでやつた仕事だらう。二人とも泳ぎは達者だが、お絹は水へ落ちなかつたし、小僧と藝子を殺しただけで、お仕舞ひになつてしまつた||憎い奴等ぢやないか」
「味噌汁は?」
「前の晩、與之助がお勝手へ忍び込んで、味噌をいゝ加減
「いよ/\以て
「與之助は味噌汁なんか呑みやしないのさ。呑んだと見せて前掛けに吸はせ、何にかイヤなものでも喰べて、
「それから」
「自分の寢てゐる二階から
「どうして親分は、與之助とわかつたんです」
「
「なる程ね」
「味噌汁に毒を入れたのも、あの味噌汁にあてられた一人に違ひないと俺は思つたよ。お絹を殺せるのは、どう細工をしても、二階から
「へエ?」
「直次郎はお絹に小當りに當つたが、ひどく嫌はれた腹立ち
「へエ、驚きましたね。それで品吉は?」
「あれは江戸一番の良い男さ。いづれお夏と一緒になつて佐渡屋を繼ぐことだらう。顏を見ると『鬼の面』だが、心持は佛樣だ。お夏のやうな賢こい娘が、夢中になるわけだよ、||八ももう少し男が惡いと、女の子が夢中になるんだが、生憎男が好過ぎた」
平次女は又話を八五郎へ持つて行きます。
「へツ、生憎、お夏のやうな綺麗で利口な娘がゐませんよ。へツ」
八五郎は何んとも形容のしやうのない