「親分、あツしもいよ/\來年は三十ですね」
錢形平次の子分、愛稱ガラツ八こと八五郎は、つく/″\こんなことを言つて、深刻な顏をするのでした。
「馬鹿だなア、松が取れたばかりぢやないか。そんなのは年の
平次は相變らずの調子で、相手になつてやりながら、この男のトボケた口から、江戸八百八町に起つた||あるひは起りつゝある、もろ/\の事件の匂ひを嗅ぎ出すのです。
「こちとらは、大したお
「相變らず間拔けな話だなア、どこの世界に八五郎に金などを貸すお茶人があるものか」
「有難い仕合せで。正月らしい心持にもならないかはり、首を
「ところで、來年三十になつたら、どんなことになるんだ」
平次は話の
「來年は三十、さ來年は三十一でせう」
「不思議なことに人間は一つづつ年を取るよ」
「三十に手が屆かうといふのに、女房になり手のないのは心細いぢやありませんか」
ようやく八五郎は結論に
お勝手の方で、その
「
「そんなわけぢやありませんがね」
「それぢや良い娘でも見付かつて、橋渡しをしてくれといふのか」
「娘なら親分に頼むまでもなく、小當りに當つて見るが、相手が人の女房ぢや手の出しやうがありません。これぞと思ふ女がみんな亭主持ちなんだから、世の中が嫌になるぢやありませんか」
八五郎は飛んでもないことを言ひ出して、大して悲觀する樣子もなく、ニヤリニヤリとするのです。
「馬鹿野郎、人の女房などに眼をつけやがつて、水をブツかけて掴み出すよ」
荒つぽいことを言ひながらも、平次はとぐろをほぐしさうもなく、
「眼をつけたわけぢやありません。まア聽いて下さいよ。この世の中にあんな良い女房があると思つただけで、あつしは生きてゐる張合ひが付きましたよ」
「この世の中には||大きく出やがつたな」
「鎌倉町の油問屋越前屋治兵衞の
「知らないよ。越前屋治兵衞は大した
平次は突つ放したやうに言ひます。
「大した女房ですよ」
「さうですつてね。綺麗で愛想がよくて、
お靜はお勝手から
「あつしも最初は唯のお内儀だと思ひましたよ。地味で控へ目で、一向目立たない女なんだが、近頃主人の治兵衞と
「恐ろしく思ひ込みやがつたな。氣をつけろ、相手は亭主持ちだ」
「その父親ほども年の違ふ亭主に、
「何んだ、褒めたり腹を立てたり」
「二十七八でせうかね。いゝ年増なんだが、娘のやうな若々しい肌と、柔かい聲をしてゐますよ。ろくに紅白粉もつけず、少しもおしやれなんかしないのに、身だしなみがよくて、何んかかうフンハリと花の匂ひのするやうな女ですよ」
「フム」
「無愛想で素つ氣なくて、
「いよ/\以つてお前とは附き合ひたくないよ。人の女房に惚れて、
「さうポンポン言つたものぢやありません。お蔭で私は大變なものを手に入れましたよ」
八五郎はそれが報告したかつたのです。
「何んだ、筋のある話を持ち込んで來たのか、早くブチまけてしまへばいゝのに」
平次は話が本題に入ると見ると、ようやくとぐろをほぐして、長火鉢の前にキチンとすわります。
「實は越前屋ではこの間から、變なことが續くんですよ」
「變なことといふと?」
「何んでもないが、妙に不氣味なことがあるんださうで、
「まるで
「あぶなくて叶はないから、時々來て見てくれといふ主人の頼みで、十日ばかり下手な碁を打ちに行つたやうなわけですよ」
「で、何にか變つたことでも見付けたのか」
「お内儀お
「それつきりか」
「へエ、今のところ、それつきりで」
「怒鳴る張合ひもないよ、お前は」
錢形平次も苦笑ひに
「親分、たうとう變なことになりましたぜ」
八五郎が飛び込んで來たのは、それから七八日經つた頃。藏開きも濟んで、昨日が
「なにが變なんだ」
平次も何やら待ち構へてゐたやうな心持になつてゐたのでせう。
「越前屋の娘||これは先妻の娘で、今の内儀とは
「こんな寒い時若い娘が月見をするのか。正月だぜ、八」
平次はこの言葉の裏から、早くも大きな
「あつしもさう思つて念を押しましたがね、物干臺から落ちたことは間違ひありませんよ。尤も、近所の噂では、何んでも隣りの小間物屋の伜とできてゐたんださうで、毎晩物干臺に登つちや、下屋根越しに隣りの物干臺の上の男と、笑つたり泣いたりしてゐたさうです。隣り同士のくせに親代々仲が惡くて、この縁談は
「まるで
平次はまだ氣乘りのしない樣子です。
「その手摺は
「それが本當なら、仕方があるまい」
平次はまだ動きさうもありません。
「飛んでもない、あの内儀がそんな
「綺麗で色氣のある女が善人とは限らないぜ」
「でもね、親分。繼母が
「恐ろしく肩を持つたものだ」
「それに、そんな大外れたことをして、萬一突き落された繼娘のお菊が、死ななかつたらどうします」
「待て/\、お前もなか/\良い智慧が出るやうになつたぞ」
「怪我をしただけで助かつたとしたら、繼母の惡事は一ぺんに露見するぢやありませんか。あの悧巧な内儀が、そんな馬鹿なことをする筈もなし、それに主人の治兵衞がそつと物蔭に呼んで、『女房のお加奈の肩を持つわけぢやないが、あの女は決してそんな惡いことのできる
八五郎の言葉には、いろ/\の
「よし行つてやらう。思ひの外、奧底のあることかも知れない」
平次は起ち上がりました。
「有難い、それであつしも、あの内儀へ義理が立ちますよ」
八五郎の甘さ、あの不思議な美しさを持つた内儀のためには、それも
平次と八五郎が鎌倉町の越前屋に驅け付けた時は、騷ぎはまさに絶頂でした。物干臺から落ちて死んだ、娘のお菊の死骸を挾んで、家の中の者が、源平二つに分れ、互ひに睨み合ひの形で、まだ佛樣の始末もせずにゐる有樣です。
「錢形の親分、御苦勞だね。だが、こいつは飛んだ無駄骨折かも知れないよ」
三河町の伊太松は皮肉な微笑を
「そいつは變ぢやないか、八五郎に言はせると、三河町の親分は内儀を下手人にして縛つたと聞いたが||」
平次は正直なところをブチまけました。伊太松といふ男は強氣で負け嫌ひであるにしても、性根は正直者で、腹の底では平次の
「縛る氣になつたのは本當だよ。ところがイザとなつて、飛んでもない横槍が入つた」
「ハテネ」
「物干臺で向ひ合つて、月の光に顏を
「成程、そいつは確かな證據だ」
「だがな、錢形の親分。惚れた同士が逢引の眞最中、男の眼の前で、物干から身を投げて死ぬ娘があるだらうか」
「間違つておちたんぢやないのかな。踏外すとか、
「間違つて落ちたのでない證據があるよ。兎も角現場を見てから、よい智慧を貸してくれ」
三河町の伊太松は、うさんな顏をして見送る越前屋の家族には眼もくれず、狹い中庭から入つて、お勝手の側の
そこは南向きの屋根の上で、狹いところに建て込んだ下町には、よくある風景ですが、高々と上げた物干臺は、地上ざつと三間あまり、上はほんの二た坪ほどの
手摺は
狹い
お菊と房太郎||家と家との關係で、添ふことの出來なかつた戀人同士が、こゝに登つて、五六間隔てたまゝ、寒い逢引を樂しんでゐたといふのは、まことに
物干の左右は屋根、後ろは登り口の梯子で、正面だけがきり立つたやうに屋根から乘り出し、そこから足を踏み外せば、間違ひもなく下に落ちますが、その眞下は柔かさうな土で、餘つ程どうかしなければ、命取りの場所にならうとは思はれません。
「この通りだ。間違つて落ちたのなら、下屋根の上か、南側の柔かい土の上だ、足を折るか腰を打つか、怪我はしてもまさか命に
三河町の伊太松は、先に立つて物干臺から降りると、狹い空地の前に建つてゐる、土藏の入口の段々||
「||この通り、物干の眞下からは二間以上も離れてゐる。御影石で疊み上げた土藏の入口の段の上に、眞つ逆樣に落ちて
伊太松は
||お菊は繼母に殺されたに違ひない。證據はいくらでもある。二人がどんなに仲が惡かつたか、お菊が死ねば、この越前屋の身上 は誰の手に入るか、たつたそれだけ申上げただけでも澤山だ。
手紙の文句はプツリときれてをりますが、その意味は邪念に充ちて、「こいつは誰が書いたのだ」
「
「越前屋の先の女房の母親で、死んだお菊の祖母さんだが、
「成程ね」
「どうだい、錢形の。これでも内儀を縛つたものだらうか」
伊太松は
「飛び入りの俺には、何んにもわかるわけはないよ、||このまゝ引揚げてもよいところだが、念のために、ひと通り店中の者に逢つて行かうよ||それから物置の中も見たいな」
「無駄だらうが、やつて見るがいゝ||こゝへ呼んで來ようか」
「いや、一應佛樣に線香でも上げてからにしよう」
平次は兎も角もと言つた輕い態度で家に入りました。
奧の六疊に取り込んで床の上に横たへたお菊の死骸は、まことに無殘なものでした。土藏の土臺石には、大した血の跡のなかつたのは、多い髮を浸して、
十七といふにしては、成熟しきつた肉體で、やゝ
身體にはどこにも怪我がないらしく、下半身にひどく泥の附いてゐるのが氣になりました。娘の死んでゐた土藏の入口は、かなりよく掃き清められて、こんなに泥の附く筈はないやうに思はれるのです。
平次はそれを一と通り見終ると、振り返つて縁側にゐる主人の治兵衞と、繼母のお
治兵衞は五十を遙かに越した老人ですが、
内儀のお加奈は、八五郎があんなに大騷ぎをして報告したのに、これはまた何んといふ平凡な素氣ない女でせう。年の頃は精々二十七八、夫の治兵衞に
それどころか、全體の氣分が恐ろしく冷たくて、雪で拵へた姉樣人形のやうに、近づき難いものをさへ感じさせるのでした。
死んだお菊のことを訊くと、主人の治兵衞は、
「獨りつ子で我儘をさせ過ぎましたが、お隣りの増屋さんとは先代からの仲違ひで御話などは以つての外と思ひ、こればかりは斷わり續け、間へ入つて口を利く者もありましたが、耳にもかけませんでした。それにどららも獨りつ子で、嫁にもやれず、
「||」
頑固な父親らしい調子でかう始めました。
「||でもこんなことになるくらゐなら、一緒にした方がよかつたかも知れません。物干の上で逢引しようとは、私も氣のつかなかつたことで、薄々は知つてゐたらしい奉公人達も、私の心持を兼ねて、言つてくれる者もなかつたのです」
「||」
「物干の手摺が腐つて危ないと言ふので、あれを取外したのは、四五日前でございます。明日にも新しいのを取付けてくれと、出入りの
さすがに父親らしい深刻な
お菊には外の縁談がなかつたか、追ひ廻してゐる男がなかつたか、特に仲の惡い者はなかつたかといふ問ひに對しては、
「お隣りの伜と惡い噂が立つてゐたので、外に縁談の口もなく、||手代の久助が親切にしてをりましたが、お菊は相手にもしなかつたやうです。お菊と仲の惡い者といつても||」
治兵衞は絶句したやうに口を
當のお加奈はその言葉を引取つて、
「何んの
この佛教的な割りきれない諦めのうちに、お加奈は長い間苦しい思ひをしたのでせう。正直にかうも言ひきつて、そつと涙を
平次はそれつきりで話を打ちきつて、輕く挨拶して起ち上がりました。店の方へ行くとそこには二人の手代||一人は久助といふ三十男で、これがお菊を追ひ廻したといふのでせう。
「昨夜は十五日でお得意廻りで遲くなり、小僧の寅松と一緒に
これは申分のない不在證明を持つてをります。
もう一人の丸吉といふのは、主人の遠縁に當る掛り人で、これは二十四五の恐ろしく丈夫さうな男、血色の良い、
「私は町内の藥湯へ行つて、歸つて來たばかりのところでした。裏木戸を入るとあの騷ぎで、顏の上からお菊さんが落ちて來なかつたのが不思議なくらゐで||」
冗談らしくさう言ふのです。裏の隱居部屋を覗くと、そこには先の女房の母親といふ、お冬婆さんが、主人の義弟で、店の支配をしてゐる四十男の治八郎をつかまへて、なにやらひそ/\話してをりました。恐らく仲の惡い後添ひのお加奈の
「おや、錢形の親分さん」
治八郎は起ち上がつて挨拶をします。
お冬婆さんは人相のよくない、邪惡な表情を持つた六十二三の老女で、相手を高名の御用聞と知ると、遠廻しながらかなり
「お菊は良い娘でしたよ。あの娘が、繼母をあんなに嫌つたんですもの、矢張り虫の知らせといふものでせうね。それに夫の治兵衞は二十幾つも年上で、いづれは嫁より先に死ぬことでせう。さうなると越前屋の何萬といふ大身代が、みんなあの女の手に轉げ込むぢやありませんか。どんな良い人だつて、憎い繼娘が邪魔になりますよ」
かう言つた調子で、あの三河町の伊太松の持つてゐる手紙と全く同じ意味のことを
「||あの人は怖い人ですよ、あんな綺麗な顏をして、虫も殺さないやうに取り濟してゐるけれども、腹の底では何を
と言つた恐ろしい毒舌です。さすがの平次も尻尾を卷いて逃げる外はありません。
裏口から外へ出ようとすると、
「あの、もし」
後ろから聲を掛ける者があります。振り返つて見ると、今まで隱居のお冬婆さんが、毒婦の見本のやうに噂してゐた、内儀のお加奈||淋しくも冷たい姿だつたのです。
「あつしに」
平次は靜かに振り返りました。三河町の伊太松は店に殘り、八五郎は少し遲れて向うからやつて來る樣子です。
「みんな聽きました。お母さんはあんなに私を憎んでをります」
「?」
「どうぞ、お察し下さい」
たつたそれだけでした。ほの白い顏を
それは實に、素晴らしい美しさでした。いや、美しさといふ言葉では盡しきれません。女の全身的に燃え立つた心の火、あるひは
H・G・ウエールズの書いた、火星の世界を覗く不思議なコーナーでも、かうまでは微妙で瞬間的で、
厚化粧で滿面の
が、
「や、親分、飛んだ待たせましたね。濟みません」
飛んで來た八五郎を
事件は併しこれだけで濟んだわけではありません。それから六日目、越前屋の主人治兵衞は、娘お菊の初七日の
三河町の伊太松も持て餘して、今度は進んで平次に助け舟を求めました。
「サア、大變、そんなことになるだらうと思つたが||」
日頃にない平次のあわてやうで、迎へに來た八五郎と一緒に、鎌倉町に飛んで行つたのは、まだ朝のうちでした。
「錢形の親分、今度は間違ひもなく殺しだ。自分の背中へ脇差を突つ立てて死ぬ人間はないからな」
伊太松はそんなことを言ひながら、いつぞや娘お菊の死骸を置いてあつた部屋に案内しました。
佛樣はまだ入棺どころか、ろくに清めもせず、僅かに床の上に轉がしてありましたが、後ろから一と突きに、心臟をやられた治兵衞の死骸は、凄まじくも
「丁度晩飯時でございました。初七日の逮夜で、親類方や御近所の方も見えるやうになつてをりましたが、主人は娘が死んだ物干の上で、逮夜の坊さんに一とくさり有難いお經でも上げて貰ひたいと、晝のうちから申してをりましたが、その下檢分のつもりでせう、暗くなつてから一人で物干へ登つて行きましたが、しばらく經つても下りて參りませんので、私が小僧の寅松に
「||」
主人の義弟||支配人の治八郎は説明するのです。
「その時店にゐたのは私と手代の久助と小僧の寅松の三人。お勝手では内儀のお加奈さんが下女のお徳を相手に、今夜の支度に忙しく、もう一人の手代の丸吉は、お寺へ使ひに行つてまだ歸らず、物干などへ行つて、主人の
「隣りの伜は?」
平次はフトそこに氣がつきました。
「一應疑つて見たが、困つたことにあの増屋の房太郎といふ伜は、お菊が死んでからがつかりして床に就いたつきりだよ」
伊太松は平次の疑ひの先をくゞつて、早くもそこまで手を廻してゐたのです。
「隱居は?」
「あの婆アは氣違ひのやうになつてゐるよ。又手紙だ、見てくれ」
平次は伊太松から渡された半紙一枚の手紙を開くと、相變ずの
繼娘を殺したあの女たうとう自分の夫まで殺してしまつた。私の言つたことには間違ひはあるまい||
と邪氣沸々たる「どうしたものだらう、錢形の親分」
三河町の伊太松は全く手を燒いた樣子です。
「昨夜逮夜の坊主の來た時刻は?」
「騷ぎがあつてから
治八郎は側から答へました。
「寺は近いのかな」
「ツイそこで||と申しましても、本郷五丁目の圓滿寺ですが||」
「丸吉は?」
「お寺樣と一緒でした。ひどく待たされたさうで||」
平次はチラと八五郎の顏を見ると、八五郎は早くも呑み込んで飛んで行きました。
それから物干臺に登つて見ましたが、
「瓦は古くなつて、北側は
平次は妙なことに氣が廻ります。
「手摺を換へた時、職人が屋根を渡つて歩きましたので」
治八郎はそれに註を入れました。
「いや、||職人はあんなに瓦を踏み荒す筈はない。それに||」
平次はそれつきり口を
もう一度家の中に入つて、内儀のお加奈にも逢ひましたが、
店にゐる久助と丸吉と寅松にも逢つて見ましたが、久助はひどくソハソハして、平次の問ひにろくな答へも出來ず、小僧の寅松は無關心で、何を訊いても要領を得ません。
丸吉は相變ず頑丈さうで、
丁度その時、八五郎は飛んで歸つて來ました。
「お寺で訊くと、昨夜の越前屋さんの逮夜は前からわかつてゐるから、支度をしてお使ひを待つてゐたくらゐだ||少しも使ひの方を待たせはしないと言つてゐますよ」
「よし、それで判つた。八、その野郎だ」
平次の指はこの時まで平然として、帳面なんか見てゐる遠縁の手代丸吉を指さすのでした。
「御用ツ」
それは恐ろしい爭ひでした。非凡の體力を持つた丸吉は二三度八五郎をハネ飛ばして、猛獸のやうに暴れましたが、伊太松が手を貸してようやく取つて押へたことは言ふまでもありません。
「丸吉の野郎がお寺へ迎へに行く前に、物干へ這ひ上がつて主人の治兵衞を殺し、素知らぬ顏で寺へ行つたのはわかりますが、お菊を殺したのはどうしたんです」
「わかつてゐるぢやないか」
その歸途、||
「少しもわかりませんよ、||昨夜は月がなかつたし、誰も見てはゐないから丸吉はノコノコ物干臺に這ひ上がつて主人を殺して下りたでせうが、七日前の晩は月が良かつたし、向うの物干臺で、合圖をしてゐた隣りの伜も、お菊の外には、物干に誰もゐなかつたと、はつきり言つてるぢやありませんか」
「その通りだよ」
「すると、あの時丸吉はどこにゐたんです」
「物干の下の
「へエ?」
「お菊の死骸は物干の下から二三間も離れてゐる土藏の石段の上にあつたらう」
「へエ」
「そんなに遠く飛ぶためには、突き飛ばされたのでなければ、飛び降りたことになるが、實はな八、||その時物干臺の上には
「へエ?」
「お菊がうつかりその罠の中へ足を入れた時、下から力任せに繩を引いたのだ。罠に足を入れたお菊は、
平次の説明は間然とするところもありません。
「それ程わかつてゐるくせに、親分はあの時丸吉を縛らなかつたので?」
「
平次の
「何んだつて丸吉はお菊と主人とを殺したんでせう」
「
「へエ?」
「お前でさへあの内儀に夢中になつたぢやないか、あれは恐ろしい女だ||自分では大した惡氣もなく、若い男がほんの少しの隙間から自分の心を覗かせれば、みんな夢中になることを知つて、丸吉にもチヨイチヨイその
「||」
あまりのことに八五郎は二の句がつげません。
「治兵衞は年の三十近くも違ふ若い女房を可愛がり過ぎた。丸吉は豚に眞珠を
「||」
「あんな女は恐ろしいよ。厚化粧で、色氣たつぷりで、誰にでも愛嬌をこぼす女は
「驚いたね、親分」
「お前だつて丸吉のやうにあの女の側にゐたらどんなことをやり出したかわかるまい」
「冗談で」
「女は思ひつきり見つともないか、精一杯馬鹿か||さう/\煮賣屋のお
カラカラと笑ふ平次です。自分の女房のお靜がどんなよい女振りかも忘れて。