江戸八百八丁が、たつた四半
「わツ、たまらねえ。何處かかう
一陣の
「あツ、待ちなよ。そのなりで家の中へ入られちやたまらない||大丈夫、
平次は乾いた手拭を持つて來て、ザツと八五郎の身體を拭かせ、お靜が待つて來た
全く焦げつきさうな大雷鳴でした。さうしてゐるうちにも、縱横に街々を斷ち割る稻光り、後から後からと、雷鳴の波状攻撃は、あらゆる地上の物を
「驚きましたよ。あつしはもうやられるものと思ひ込んで、四つん
「間拔けだからな、自分の臍を覗いて見る
掛け合ひ話の馬鹿々々しさに、お靜はお勝手へ逃げ込んで、腹を抱へて笑ひを殺してゐます。
よいあんばいに雷鳴も遠退いて、ブチまけるやうな雨だけが、未練がましく町の屋並を
「それにしても大變なことでしたね。御存じの通り、あつしは雷鳴樣は嫌ひでせう」
「||雷鳴は鳴る時だけ樣をつけ||とね、雷鳴を好きだといふ
「散々見られましたよ。何しろ明日は神田祭だ、
「江戸
「兎も角も、そのでつかいのが、グワラグワラドシンと來ると、舞臺にゐた六七人の踊り子が、||ワツ
「罰の當つた野郎だ」
「そのまゝ鳴り續けてくれたら、あつしは三年も我慢する氣でゐましたよ、||ところが續いてあの大夕立でせう。ブチまけるやうにどつと來ると、女の子はあつしの首つ玉より自分の
「
「空つぽの舞臺で、大の男が濡れ鼠になるのも氣がきかねえから、川越へをする氣分で、雨の中を掻きわけ/\、四つん這ひになつて此處まで
「何が面白くて、空模樣に構はず、手踊りの舞臺にねばつてゐたんだ」
「六七人の女の子が、いきなりあつしの首つ玉にかじりつきさうな空合ひでしたよ」
「馬鹿な」
「それは嘘だが、喧嘩があつたんですよ、||女と女の大
「それは手踊り番組か」
「なアに、實は小唄の師匠のお園と、踊の師匠のお
「そいつも江戸
「飛んでもない、あんなのは
「何んだえ、水が入るとは」
「あの大夕立ですよ。天道樣だつて、あんなキナ臭い喧嘩は見ちやゐられませんよ」
八五郎の説明は、面白
「そんな大喧嘩を始めるには、深いワケがあるだらう。言葉の行き違ひと言つた、手輕なことぢやあるまい」
「良い年増と年増の喧嘩だ。食物の
「男のことか」
「圖星、さすがは錢形の親分」
「馬鹿にしちやいけねえ」
「
「で?」
八五郎の話術に引入れられて、平次も少しばかり興が動いたやうです。
「それからグワラグワラドンの、六七人あつしの首つ玉にかじりついて匂はせの、大夕立と來たわけで、敵も味方も何處へ散つたか。あとは四つん這ひの、借着の
こんな調子で筋を語る八五郎でした。
昔の江戸は、非常に雷鳴の多いところで、甲州盆地や、上州の平野で育てられた雲の
電氣事業の發達は、雷鳴や夕立を非常に少なくしたことは、
その雷鳴や夕立は、どんなに一般人の恐怖と尊崇の的であつたか、寶井其角が『
八五郎が踊り舞臺の女の喧嘩の話を、面白可笑しく續けてゐるうちに、大夕立も
「あれ、八五郎さん、まだお歸りぢやないでせうね。今お
モゾモゾと腰をあげかける八五郎に、お靜は聲を掛けました。
「へエ、一杯御馳走して下さるんですか」
「不思議さうな顏をするなよ。俺のところだつて年中粉煙草ばかりが御馳走ぢやない||明日は年に一度の明神樣の御祭りだ」
平次は
「明神樣の宵祭か||一升
八五郎は鼻水を横なぐりに拭いて、盃を頂くのです。この涙もろい男は、どうかしたらもう
でも、二つ三つ傾けると、
「親分、ちよいと來て下さい」
入口の格子を叩いたのは、顏見知りの隣り町の
「何んだ、何があつたんだ」
平次は盃を置いて中腰になつて居ります。小三郎の穩かな調子のうちにはガラツ八の『大變』以上の緊迫したものを感じさせるのです。
「横町の
「横町の師匠?」
この邊は師匠だらけ、生花、茶の湯から、手踊り、小唄、琴、三味線、尺八まで軒を並べてゐるので、平次も一寸迷つたのです。
「小唄の師匠||江戸屋園吉のお園さんで」
「お園さんが殺された?」
八五郎は横から口を出しました。少しホロリと來てをります。
「さうなんです、親分」
「お園が||?
「氣が立つてゐて、首でも
「兎も角、行つて見ることだ」
平次は手早く支度をすると、夕立の上がつたばかりの街へ、足駄のまゝ飛び出しました。それに續いたのは、借着のまゝの八五郎と、投げ節の小三郎。
明日の神田祭を控へて、九月十四日の明神下||御臺所町、同朋町から金澤町へかけては、全く
前夜の宵宮も、一種の情緒を持つた賑はひで、江戸でなければならぬ面白さでしたが、その日は生憎の大夕立で出足を
「此處ですよ」
小三郎は小唄お園の家へ案内し、格子の前で立ち
入口の格子の横手は少しばかりの空地で其處には手踊りの師匠、坂東
「御免よ」
平次と八五郎は、その中へ入りました。
「ま、親分さん方」
出迎へたのは五十五六の老母、それは殺されたお園の養ひ親で、お
「師匠が、||氣の毒だつたね」
「親分、どうしませう。私はもう木から落ちた猿で」
お槇は日頃の因業さをかなぐり捨てて、ひどく打ち
たつた三間の小さい家、その一番奧の六疊に、殺された師匠のお園が、血だらけの死體を横たへてゐるのでした。
平次と八五郎の姿を見ると、弟子達も近所の衆も、遠慮して縁側に立去り、凄慘な死の姿が、
「こいつはひどい」
八五郎は
死顏には、さしたる苦惱もなく、お園の美しさは、血の洗禮も奪ふ由はありません。引締つたクリーム色の肌、美しい生え際、大きい眼は見開いてをりますが、それは極めて無心な死の苦惱のないもので、ほのかに開いた唇から、眞珠色の白い齒の見えるのも、妙な
胸は少しはだけて、乳のふくらみのほの見えるのも、踏みはだけたらしい股に、血潮に染んで大きい
「師匠が一人でゐたのか」
あれほどの殺しを||いかに大夕立の中と言つても、隣りの部屋の者が知らない筈はありません。
「大變な見暮でした。あんまり怖いので、お弟子さん方も歸つてしまひ、私もお隣りの菓子屋さんへ行つて、夕立の止むまで無駄話をしてをりました。外の雷鳴より、内の雷鳴の方が怖かつたんです」
母親のお
お園の美しさと、その激しいヒステリーの
「縁側は開いてゐたんだね」
平次は重ねて訊きました。
「あの
腹を立てると起きてはゐられない女||その激しいヒステリー性の怒りの發作が、この女を殺させる原因になつたのかも知れません。
「刄物は?」
平次は
「雨がやんでから、御近所の子供衆がこれを拾つて來ました。庭に捨ててあつたんださうです」
母親は四つ折の手拭に疊み込んだ
「||」
手に取つて見ると、よく光つてをりますが、泥と夕立に洗はれながらも、
「こいつは誰のだ。持主はわかつてゐるだらう」
平次は物の氣はひに後ろを掛り向きました。其處には、平次と一緒に來た『投げ節の小三郎』が、眞つ蒼になつて突つ立つてゐるのです。
「||」
「お前のだらう」
「先刻踊り舞臺の樂屋へ忘れて來たんです||あつしぢやありませんよ。師匠を殺したのは」
小三郎は、柄にもなく、タガが
「親分、妙なものが來ましたぜ」
八五郎が
「誰だえ?」
「喧嘩の相手、踊りの師匠のお組が、お
八五郎は存分に面白さうです。この男の守り本尊の
「町内附き合ひだもの、お悔みにも來るだらうよ」
平次はたいして氣にもしない樣子ですが、入口の方では、ヒソヒソと聲を忍ばせながらも風雲の唯ならぬものを感じさせます。
「でも、お前さんからお悔みを言つて貰ふ筋合ひはありませんよ」
それは母親のお
「私は惡うございました。師匠とつまらない喧嘩なんかして。でも、もと/\つまらないことなんで、日頃仲の好かつた師匠が死んだと聞くと、ぢつとしてはゐられなかつたんですもの、せめて、佛樣の前で、一と言詫びを言はして下さいな、おつ母さん」
お組の聲はすつかり
「おつ母さんなんて、言つて貰ひたかアありませんよ。
「でも」
「さア、歸つて下さい。大夕立が來なきや、舞臺の上で、お前さんが掴み殺したかも知れないぢやないか」
母親のお槇は、
「八、放つて置くと、又何が始まるかわからない。お前が口をきいて、お組師匠を隣りの部屋まで通して貰ふがよい」
平次は見兼ねて仲裁案を出しました。それから一と揉みの後、八五郎のとぼけた調子が、どうにか母親を
「師匠、大層な
平次は近々と膝を寄せました。
「でも、私と喧嘩をして、間もなく死んだと聽いて、私はもう、ゐても起つてもゐられなかつたんですもの」
お組は顏を擧げました。
殺されたお園より一つ二つ若くて、三十前後と聽きましたが、磨き拔かれた肌の美しさや、よく整つた顏立ちは、どう見ても二十四五としか見えず、お園のやゝブロークンな道具立ての魅力に
「何んだつて又、女だてらに掴み合ひの喧嘩なんかしたんだ」
平次は靜かに言ひ進みました。
「お隣りの空地へ、踊り舞臺を拵へるのに、お園さんに挨拶をしないのが惡かつたんです||でも、懇意づくで、つい後で斷はればよからうと思つたのが、師匠の氣に入らなかつたのでせう」
「それつきりか」
「あとは、髮へさはつたとか、變な眼で見たとか、||女同士の喧嘩の種は、
お組はさり氣なく言つて、ほろ苦く笑ふのです。
「
八五郎は横合ひから口を出しました。相手が何人であらうと、これを言はずにはゐられない八五郎です。
「飛んでもない、八五郎親分」
「いや、平野屋の若旦那を奪り合つて、事毎に
「ひと頃は、そんなこともありました。でも近頃平野屋の若旦那は、許嫁のお孃さんと、いよ/\祝言することに決り、お園さんが執つこく
「||」
「平野屋の若旦那と仲の好いのは私の方で、そんなことで殺されるなら私の方が殺されなきやなりません」
お組はかうはつきり言ひきるのです。
「それに||」
お組は尚ほも續けました。
「私は雷鳴が大嫌ひで、鳴り出すともう生きた空もありません。家へ歸ると雨戸を締めきつて
お組はさう言つて、自分の雷鳴嫌ひを證明してくれる相手を搜すやうに、そつと
「氣色が惡いぞ師匠。誰もお前さんが、お園師匠を殺したとは言やしない」
平次はさり氣ない調子でした。
「それで安心しましたよ。嘘だと思ふなら、私の家へ行つて訊いて見て下さい。あの大夕立の間、私はもう死んだもののやうになつて寢てゐたんですもの」
「お前の家といふのは、此處から遠い筈ぢやないか。よく濡れずに驅けて行つたことだな」
「表から廻れば遠いやうでも、路地を拔けて、大家さんの家の
お組の報告は
「ところで、師匠には心當りがあるだらう。お園を怨んでゐる者は誰だ」
「第一番は投げ節の親分」
お組はそつと四方を見ました。
「それから?」
「御浪人の
「お園を追ひ廻してゐるといふ噂があつたな」
「平野屋の若旦那は、お園さんを怨んではゐないが、邪魔にはしてゐましたよ。尤も
「そんなことかな」
「お新さんだつて、お圓さんだつて、お園さんを怨んでゐないとは限りません。町内の若い男を皆んな手なづけて、
お組はチラリと
「何んだとえ、狼の遠吠で惡かつたね。さう言ふお前こそ、
母親のお
「もうよい、佛樣の前だ。お互に喧嘩はたしなむことだ」
平次はもう一度、この女同士||老いたると若い者との喧嘩を引分けなければならなかつたのです。
「親分」
何處かを
「何んだ八」
「變なことを聽き込みましたよ」
「?」
「あの大夕立の眞ツ最中に、平野屋の若旦那の金之助が、お園に會ひに來たらしく、濡れ鼠になつて、此處から歸つて行つたのを見た者がありますよ」
「そいつは手掛りだ。一寸平野屋まで行つて見よう」
「あつしも」
「待ちなよ、お前には用事がある」
平次は八五郎の耳へ、何やら囁やきました。
「成る程そいつは良い考へだ」
八五郎は話を半分聽いて飛んで行きます。
「師匠。折角此處へ來たんだ、お袋と仲直りをした上、暫らく手傳つて、佛樣の始末をして行くがよい。あのまゝぢや
平次は隣りの部屋の死體を痛々しく振り返るのでした。
「私もそのつもりで參りました。おつ母さんさへ承知して下されば」
お組はいそ/\と立上がりました。生前の深刻な戀敵、ツイ先刻掴み合ひの喧嘩までした仲ですが、生死の境を
「あれは?」
夕明りの中にしよんぼり立つてゐる十七、八の娘、町の一角を、ほの/″\と明るくしたやうな、それは言ふに言はれぬ
「お園の内弟子で、お菊といふ娘ですよ。ちよいと良いでせう親分」
八五郎は小戻りして教へてくれます。こと
「お前はお組の家へ行つてくれ。急ぐんだ、あの女が歸る前に||」
平次は家の中にゐるお組に氣を兼ねて、八五郎の道草をたしなめます。
「お菊坊の口を開けさせることなら、あつしの方が心得てますよ、親分」
「わかつたよ||俺は
「へエ」
八五郎が未練らしく姿を隱すと、平次は改めてお菊の前へ||精一杯さり氣ない顏で立ちました。
「お前にちよいと訊きたいことがあるが」
お菊は顏を擧げました。隣り町に住んでゐて、錢形平次の顏も知つてをり、その評判も心得てをりますが、名ある御用聞にかう聲を掛けられると、十八娘の心臟が高鳴るらしく、道具の細々とした顏が引締つて、可愛らしい唇がをのゝきます。
この臆病らしい小娘から、筋の通つた話を引出すのは、平次にしても容易ならぬ手數でしたが、でも、散々
「そのうちで、師匠が一番好きだつたのは誰だえ?」
「若旦那の金之助さんでせうか知ら、||小三郎さんはよくいらつしやるけど、嫌はれてばかり。歸ると鹽を
などとお菊は
「御浪人の阿星右太五郎樣は、もう四十過ぎの年配ぢやないか」
隣り町に住んでゐる
「あの阿星右太五郎樣の一人息子の
平次もそれは薄々聽かないではありませんでしたが、お菊の口から改めて聽かされると、お園の死と何にかしら、一脈の關係がありさうにも思へるのです。
「お前はあの
「お向うの店先に雨宿りをしてゐました。お師匠さんが怖かつたんですもの、||大變な見幕で」
お組と掴み合ひの喧嘩をした後の
「お向うの唐物屋の店先から、お師匠さんの家はよく見えるわけだな」
「表の格子のところはよく見えます」
「誰か來たことだらうと思ふが||」
「阿星右太五郎樣が格子を開けかけましたが、思ひ直した樣子で、木戸をあけて裏へ廻り、暫らくして出て來ました||まだ雨が降る前で、ひどく雷鳴が鳴つてゐました」
「傘はさしてゐたのか」
「お師匠さんの家を出るとザーツと降つて來たので、阿星さんは傘をさして、大急ぎで歸つた樣子です」
「それから」
「若旦那の金之助さんが、格子から入つて暫らくして出て來ました。これは傘も何んにもなく、ひどい風をして、濡れ鼠になつて歸つて行きました」
「それつきりか」
「三人目は小三郎さんで||これは雨が
お菊は表情的な眼を大きく開いて、びつくりして見せるのです。
「唐物屋の店に、その時誰もゐなかつたのか」
「大變な
「外に何んにも見えなかつたのか」
「雨がひどかつたんですもの。でも、どしや降りの中で||」
お菊の眼は、空を仰ぐやうに、
「何があつたんだ」
「私の眼の迷ひかも知れないんですもの」
お菊はぞつと自分の胸を掻い抱くやうに、それつきり口を
「どんなものを見たんだ」
平次は重ねて訊きました。が、娘の閉ぢた口を開かせることは、平次の智慧でも、十手捕繩でも出來ることではありません。
「變だと思ふことがあつたら、そつと俺に話してくれ。今でなくてもよい、明日でも、明後日でも、氣が向いたら。それにお前は、何んだつてこんなところに立つてゐるんだ」
若い娘が、何時までも門口に立つてゐる不自然さに平次は氣がつきました。
「だつて、私、
十八娘のデリケートな神經は、血だらけな死骸に
平次は其處から直ぐ、金澤町の平野屋へ行つたことは云ふまでもありません。今までに調べたところでは、お園を殺し得る機會を持つた者は、浪人阿星右太五郎でもなければ、平野屋の若旦那金之助でもなければ、投げ節の小三郎の外にはないことになります。
平野屋は地主で家作持で、
どちらも、金が目當てだつたことは言ふ迄もありませんが、それでも、お園とお組が、掴み合ひの大
色白で、
母親のお早は持て餘した揚句、親類中での褒めものの娘、お夏といふ十九になるのを娘分にして貰ひ受け、
お夏は可憐で
「若旦那はゐるかえ」
平次が店からヌツと入ると、出會ひ頭の可愛らしい娘が、ヒラリと奧へ姿を隱してしまひました。金之助の許嫁、お夏といふのでせう。
素よりチラリと見ただけですが、これは實に、
「おや、錢形の親分。まア、どうぞ」
などと、お夏と入れ替りに出て來た、若旦那金之助は如才がありません。
「あつしの用向きはお察しだらうが。ね、若旦那」
隣り町の附き合ひで、十手捕繩の手前はあるにしても、平次にも少しは遠慮があります。
「へエ」
「お前さんは、あの大雨の中で、ヅブ濡れになつて、お園の家へ行き、間もなく雨の中へ飛び出したといふことだが||」
「其處ですよ、錢形の親分||乾いたものと着換へて、さて落着いて考へて見ると、默つてゐた私が惡かつたと思ひます。矢つ張りこれは、錢形の親分にでも申し上げて、良い智慧を拜借するのが本當だつた||と
「それは? どういふわけで?」
「私は、お園の死骸を見て、驚いて飛び出したのですよ」
平次は默つて先を
「始めから順序を立てて申しませう||私はあの時明神樣へ行つてをりました。空模樣が
「||」
平次は默つて先を
「聲を掛けても返事はないし、少し心配になりましたので、ザツと入口の
金之助はその時の凄まじさを思ひ出したらしく、ゴクリと
「お園は血だらけになつて死んでゐるぢやありませんか。その時はもう夢中で、息が通つてゐるかどうか、見定める暇もありません。薄情なやうですが、追つ驅けられるやうな心持で、大雨の中に飛び出し、無我夢中で家に戻りましたが」
「お園の寢てゐるのを、部屋の外から覗いたのだね」
「さうなんです。唐紙を開けると、たつた一と眼であの姿が見えました」
「部屋へも入らず、向う側の||雨戸の開いてゐた縁側へも廻らなかつたことだらうな」
「それどころではございません。一と眼見て、四つん這ひになるやうにして、もとの入口へ歸りました」
「どうしてそれを今まで人に話さなかつたんだ」
「私は
若旦那金之助はその時のことを思ひ出すと、齒の根も合はない心持になるのでした。
「曲者は裏の方の縁側から入つて、後ろ向きになつて寢てゐるお園を刺し殺し、もとの縁側から外へ出てゐる。お前さんは入口の格子を開けて入つて、廊下から唐紙を開けて、中の死骸を見、
「||」
「裏と表の二つの足跡は、部屋の入口から死骸のところまでで縁が切れてゐる。お前さんは表から入つて表から出たことは、見てゐた者があつて確かだから、お園を殺したのは、外の者といふことになるのだ。疊の上をひどく濡らした足跡が、お前さんの命を救つてくれたよ、若旦那」
平次は自分へ言ひ聽かせるやうに、かう言ひきるのでした。
「私の言ふことに間違ひはありません。ね、親分。もう一度行つて見て下さいな」
若旦那金之助は重荷をおろした心持でひどくはしやぐのです。
「いや、そんなことに見落しがあるものか||一應は見て置いたが、いづれ
「あわててゐたんで、何んにも見ませんよ。でも、
それは
「ところで、若旦那は、お園とお組と、二人の師匠にチヤホヤされてゐたといふことだが」
「面目次第もございません」
「今でも何にか、あの二人に引つ掛りがあつたのかな」
「私はもう、あんな女達に掛り合ふのを
「それが、どうしてお園のところへ寄る氣になつたのだ」
「雨宿りで、場所の選り嫌ひは言つてゐられませんでした。それに、お園は恐ろしく雷鳴が嫌ひだつたので、フト覗いてやらうといふ氣になつたのです」
「お組は?」
「あれは、雷鳴を好きではなかつたにしてもお園ほどは怖がらなかつたやうで」
「すると、若旦那は、あの二人の女と手を切つてゐたのか」
「いえ、改めて手を切るとなると、又一と騷ぎですから、別にさう言つたわけではありません」
蛇の半殺しで、愚圖々々に二人の女から遠ざかつて、良い子にならうといふ金之助の態度に、
遊びくたびれ若旦那の金之助は、二人の年増女に遠ざかつて、あの新鮮で清潔で
平次は平野屋をきり上げて、店口から出ようとして、何心なく振り返りました。
次は、同じ金澤町の浪人、阿星右太五郎の家へ||と思ひましたが、フト八五郎のことが氣になつて、もう一度お臺所町に引返して、お組の家を覗いて見る氣になりました。
お園の家とは隣り路地の背中合せで、急造の舞臺はその間に
「ブルブル畜生奴、ひどいことをしやがる」
飛び出して來た八五郎と、鉢合せしたやうにハタと逢ひました。
「どうした、八」
「どうもかうもありやしませんよ。この通り」
八五郎の
「夕立は半刻も前に上がつた筈だが||」
「水をブツ掛けられたんですよ。飛んでもねえ女だ。犬がつるんだんぢやねえ、やい」
「其處で
「親分に言ひつけられた通り、お組の留守を狙つてあの家へ忍び込んで見ましたよ。あの女の家の中に、夕立でヅブ濡れになつた着物があれば、先づ間違ひもなく、お園殺しの
「あつたか」
「ありませんよ。濡れた
「そいつは
「笑ひごとぢやありませんよ。頭から水をブツかけられて御覽なさい」
「怒るな、八||それからどうした」
「あつしと氣がつくと、あら八五郎親分、濟まなかつたわねえ||と來やがる。その後が尚ほいけねえ||私にそつと會ひたいなら會ひたいと、さう言つて下さればよいのに、まさか八五郎親分が風呂場に隱れてゐると氣がつかないから水なんかブツかけたぢやありませんか||なんて人を喰つた女ぢやありませんか」
「でも、お組の家に、濡れた着物が一枚もないとわかれば、それで宜いのだよ。あの大夕立の中で、お園を殺して逃げた者は、間違ひもなくズブ濡れになつてゐる筈だ」
「尤も、
「それくらゐのことはあるだらう」
「あの歳で、
などと、又他愛もない掛け合ひになりさうです。
「ところで、喧嘩の後でお組は、何處を通つて自分の家へ歸つたんだ」
「あの女が言つてる通り、路地の突き當りの木戸を開けて、大家の
八五郎の答へは水も漏らしません。
八五郎の肩の濡れは、立ち話のうちに大分乾いてしまひました。
二人は豫定の順序を踏んで、もう一度金澤町に取つて返し、浪人者、阿星右太五郎の家を訪ねたのです。
「錢形の親分か||いや先刻から待つてゐたよ。いづれ親分が來るだらうと思つてな」
有徳の浪人
何處でどう金を溜めたのか、阿星右太五郎はなか/\の富を
四十五六||充分に圓熟した肉體と智慧の持主らしく、如才ないくせに、いかにも尤もらしい阿星右太五郎でした。
「打ち開けてお話下さいますか、阿星樣」
平次はひどく下手に、掛引なしに持ちかけました。
「それはもう錢形の親分。あの女が死んでしまへば、誰
「何を仰しやりたいので? 阿星樣」
「私は||何を隱さう、あの女を殺さうと思つてゐたのだよ」
「え?」
それは實に、錢形平次も豫期しない言葉でした。後ろで聽いてゐる八五郎の口が、
「驚くだらう、錢形の親分、||口惜しいことに、誰かが先を潜つてあの女を殺してしまつた||私はこんな手持無沙汰な心持になつたことはない」
阿星右太五郎はこんな途方もないことを、
「それはまた、どういふわけです、阿星樣」
「聽いてくれ。私には、たつた一人の伜があつた。右之助と言つてな、先づ十人にも
「||」
「どうせ株を買つた御家人だから、最初から良い役付を
「||」
「が、
「お氣の毒な」
平次もツイかう言はなければならなかつたのです。この上もなく
「父親の私に打ちあけてくれさへすれば、それは一應は小言を申したかも知れぬが、
「||」
「千万無量の怨みを包んで、私があの女に接近したのは、折を見て一刀の下に斬り捨てようためだが、折はあつても、
浪人阿星右太五郎の述懷は、想像も及ばぬ奇怪なものでしたが、その眞實性は、顏にも涙にも溢れるのでした。
いや、そればかりでなく、隣りの部屋で
阿星右太五郎が雨の寸前にお園の家を覗いたのは事實ですが、腹立ち
翌る朝になりました。昨日の夕立に洗はれた町の朝は、申分なく清々しく明けて、平次は井戸端で齒を磨いてゐると、
「あ、親分。た、大變ですぜ」
竹の木戸につかまつて、八五郎は張り上げるのです。
「何んだえ、相變らず騷々しい野郎だ」
「殺されましたよ。あの綺麗なのが||」
「誰だえ」
「お菊ですよ。お園の内弟子、あの可愛らしい娘が、昨夜のお通夜の後で、路地の奧で絞め殺されてゐるのを、今朝早く見付けて大騷ぎになり、あつしが見張らせて置いた下つ引の忠吉が飛んで來て教へてくれましたよ」
「成程、それは大變だ」
「ね、親分。こいつが大變でなかつた日にや」
「よし、わかつた」
平次は猿屋の
「寄るな/\見せ物ぢやねえ。あんまり見てゐると眼が
下つ引の忠告が精一杯骨を折つて、彌次馬を追つ拂つてゐる中へ、平次と八五郎が飛込びんだ[#「飛込びんだ」はママ]のです。
彌次馬が容易に動かないのも無理のないことでした。若くて可愛らしいお菊の死は痛々しくも色つぽく、眼にしみるやうなものを感じさせたのです。
「可哀想に、何にか掛けてやりやよいのに」
平次は死骸に近づくと、大手を擴げて、多勢の眼から、それを
露の深い路地、下水に半分身を落して、乙女の身體は
首に卷いたのは、眞新しい手拭、顏は痛々しく苦惱に
「八、此處に置くまでもあるめえ。家の中へ入れてやらう、手を貸せ」
平次は膝を折つて、娘の首にそつと腕を廻しました。
お菊の死骸は家の中へ
「親分、憎いぢやありませんか。こんな小娘に、怨みがある筈はないのに」
「お菊は何にか知つてゐたに違ひないよ。昨日の夕方、この家の入口で俺と會つた時、何にか言ひかけて急に口を
「すると、この娘を殺したのは、お園を殺した人間の
「先づ、さうきめて間違ひはあるまいよ」
平次の胸の中には、次第に下手人の假想圖が、はつきりと浮んで來る樣子です。
「ところで、親分。お菊を絞めた手拭は、投げ節の小三郎の持物とわかりましたよ」
「その小三郎が
「へエ」
八五郎は飛んで行くと、平次はその邊にゐる一人々々をつかまへて、昨夜のお
「半通夜で、お經が濟んで、ひとわたりお酒が出て、
お園の母親のお
「小三郎は?」
「何んか御用があるとかで、そは/\してをりましたが、
「その小三郎の側にすわつてゐたのは、誰と誰だつたか、覺えてゐるだらうな」
「若旦那の金之助さんと、お組さんの間に
「あの手拭を持つてゐるのに氣がついたことだらうな」
「
大きく『
「その手拭を、小三郎は持つて歸つたことだらうな」
「いえ、忘れて歸りました。座布團の側に落ちてゐたのを、お菊が見つけて後を追つ驅けたやうですが、もう見えなくなつてしまつたとやらで、そのまゝ持つて歸つて、入口の隅に置いたやうでしたが、それからどうなつたか、私も氣がつきませんでした」
母親がこれだけでも記憶してゐたのは見つけものでした。が、その上り
「それから?」
平次は糸をたぐるやうに、靜かにその後を
「小三郎さんが歸つたのは一番先で、それから皆さんが歸り、若旦那の金之助さんと、師匠のお組さんが一番後まで殘りましたが、それも歸つてしまつたのは、
母親のお
近所附き合ひで、お組もお園も平次はよく知つて居りますが、今から五六年前までは、この土地では先輩のお組は手踊りの師匠として鳴らし、多勢の弟子も取つて居りましたが、お園が此處へ移り住んで、小唄の師匠の看板を上げ、無用な競爭を
「ところで、錢形の親分さん」
「何んだえ、おつ母さん」
お槇は
「お菊は昨日、錢形の親分のことばかり申してをりましたよ」
「?」
相手は十七八の女の子、戀でも物好きでもない筈とわかつてゐるだけに、平次は變な氣持になりました。
「お菊は、
「||」
「きつと、何にか大變なことを知つてゐたに違ひありません。どうかしたら||」
「お園を殺した下手人を知つてゐたとでも言ふのか」
平次はさすがに氣が廻ります。
「これは私だけの考へですが、あの大夕立の時、娘が腹を立てて寄りつけないので、私はお隣りへ逃げて行き、お菊はお向うの唐物屋さんの店先で、雨の止むのを待つて居りました」
「?」
「私は少し耳が遠いので、雷鳴樣の外には何んにも聽きませんが、お菊は往來の向うから、何にか見るか聽くかしたに違ひないと思ふのです。それを、後の
お
「そんなこともあるだらうな」
平次は、それ以上のことまで考へてゐるのですが、
「でも、私は、見す/\娘を殺した相手がゐるのに、それをどうすることも出來ないやうでは、娘も行くところへ行けないと思ひまして||」
お槇は母親の
「まア、心配しない方がよからう。人を二人まで殺して、百まで生きてゐられる筈はない||ところで、お園を怨んでゐた者が、二人や三人はあつたやうだが」
「それは、あつたことでせう。あの通りの氣性者で、どうかすると、
「御浪人の
「さう言へば、夕立の來る前、お組さんと掴み合ひの喧嘩をしてゐたさうですが、||娘とあの人は敵同士のやうなものでした。近頃は若旦那の金之助さんのことで
そんなことは
「話は違ふが、今朝お菊の死んでゐるのを見つけたのは、お前さんだと言つたね」
「ハイ、格子を開けて、いつものやうに木戸を開けるつもりで外へ出ると、ツイ鼻の先にお菊が||可哀想に首に手拭を卷いたまゝ、下水に半分落ちて居りました」
「木戸は締つてゐたのだな、間違ひもなく」
「間違ひはございません。私がこの手で開けたのですから||」
「もう一つ、お菊の首を締めた手拭は、確かに小三郎のものだと言つたね」
「あんな變な
「その手拭を||」
「ゆふべ、小三郎さんが忘れて行つたのを、お菊は持つて追つ驅けましたが、追ひつき兼ねて、この上がり
入口の
これは
「どれ」
平次はお横の手から手拭を受取りました。切り立ての手拭ですが、いくらか
お菊の死骸の首に捲きついてゐたのは、同じ『鎌、輪、ぬ』の模樣ですが、それは死骸の首から
「今朝小三郎が來なかつたのか」
「まだ薄暗い時間に||私が木戸を開けに出て、お菊の死骸を見つけて大騷ぎをしてゐる時、一寸顏を見せましたが、||その邊をウロウロして直ぐ歸つてしまひました」
さう聞くと、若し小三郎が昨夜この手拭を忘れて行かなければ、お菊殺しの疑ひは、眞つ直ぐに手拭の持主の小三郎に
手拭を忘れて行つたばかりに小三郎は、この恐ろしい疑ひから
「親分、いろ/\面白いことがわかりましたよ」
そんな中へ、八五郎は飛んで來ました。
「大層早かつたぢやないか、何處を歩いて來たんだ」
「何處も歩きやしません、投げ節の小三郎に逢つて、一ぺんにわかつただけで」
「何が||?」
「第一に小三郎は
「それから?」
「これからが大變で、||
「誰がそんなことをしたといふのだ。誰にしてもグシヨ濡れになる筈だが||」
「曲者は
「?」
「大夕立に叩かれて、曲者の身體は
「小唄の師匠の[#「小唄の師匠の」はママ]お組が下手人だといふつもりか、お前は?」
「外にお園を殺しさうな人間はないぢやありませんか、||お組の家を搜しても、濡れた着物はなかつた筈で||裸體でやつたんですもの。三十になつたばかりの
八五郎は自分の首筋を撫でたり、肩を
「誰がそんなことを言つたんだ」
「專ら世間の噂ですよ」
「町内の人が皆んな口を開いて眺めてゐたわけぢやあるめえ。お前は口留めされたんだらう」
平次は早くも八五郎にこの話を吹つ込んだもののことを考へてゐる樣子です。
「お菊が向うの唐物屋の店先で、それを見てゐたんですよ」
「お菊が?」
「この家の前で、親分に話さうとしたが、奧にお組がゐるから||私は怖い||とか何んとか言つて、口を
「フーム」
「それを、娘の心の中に疊み兼ねて、昨日うつかり人に話してしまひ、それがお組の耳に入つて、昨夜この路地で殺されたんでせう」
「お菊を殺したのも、お組だといふのか」
「さうとしか思へませんよ。
「||」
「小三郎が忘れて行つた『鎌、輪、ぬ』の手拭を持出したのは、細工が過ぎて憎いぢやありませんか」
「だが、持てよ、八」
平次は漸く八五郎の
「あの大夕立の中を、裸體で屋根を渡つて來たにしては、昨日のお組の髮は、少しも濡れてはゐなかつたぜ」
「そこはそれ、風呂敷か何んか冠つて」
「風呂敷や手拭であの夕立が
「へエ?」
「若い女が、あの
「尤も若い女は、それ程でもない癖に、雷鳴嫌ひを見榮にしてゐますよ、||それに若旦那の金之助は言つたでせう、お園はひどく雷鳴は嫌ひだが、お組はそれ程でもないと、||ね、雷鳴嫌ひのお園さへ、横になつてツイうと/\とやつたくらゐですもの、お組が裸體で屋根を渡つたつて、雷鳴樣だつて面食らつて、臍は取りませんよ」
八五郎は大いに辯じますが、平次は默つて考へ込んでしまひました。
「そいつは一應面白さうだ。お組のところへ行つて臍が無事かどうか、訊いて見ようぢやないか」
平次はもうお園の家を出て路地に立つてをりました。袋路地の入口、一方は板塀で、踊り舞臺の足場が、塀の上へ高々と組みあげてありますが、此處からお組の家へ行くためには、路地の奧の木戸を開けて、
平次と八五郎が行つた時は、お組は一と息入れて、これから又お園の家へ出かけようといふ時でした。
何處かで祭の太鼓、まだ朝のうちだといふのに、
「あら、親分。何んか御用? こんなに早く」
などと、お組の磨き拔かれた顏は如才もない愛嬌がこぼれます。引締つた三十女、古典的な眼鼻立、お園のやうな不均整な顏の道具から來る魅力はありませんが、いかにも自尊心に
「何處かへ出かけるのか師匠」
「お園さんが死んでしまつて、あの踊り舞臺をどうしやうもありません。二年に一度の本祭で、皆んな張りきつてゐるし、娘達の支度も大變でせう、||お園さんのお母つさんと相談して、兎も角も恰好だけはつけることにしました。せめて今一日だけでも、あの舞臺で皆んなを踊らせれば死んだお園さんも
お組はホロリとするのです。
「掴み合ひの喧嘩までした師匠がねエ、たいした心掛けぢやないか」
「喧嘩は喧嘩、義理は義理ですよ」
「えらいな師匠。ところが、その氣持も知らないで、お組師匠がお園師匠を殺し、その上、それを知つてゐるお菊までも、絞め殺して口を
平次は到頭言ふべきことを言つてしまひました。
「まア、それは本當ですか、親分。誰がそんなことを||第一あの大夕立の中を||」
お組の仰天も見事でした。どんなに期待した驚きの
「あの大夕立の中を、お前は腰卷一つの
「まア、そんなことが||」
「お前の家に濡れた着物が一枚もなかつたと聽いて作者がそんなことを
「それで、あの時八五郎親分が、私の家の風呂場でウロウロしてゐたわけなんですね」
お組の眼はジロリと、平次の後ろに小さくなつてゐる八五郎を睨めました。
「まア、怒るな。八に風呂場を見るやうに言ひつけたのはこの俺だ」
「そんなことが出來るかどうか、考へても見て下さい。いくら大夕立の中だつて、眞つ晝間の屋根の上を、若い女が裸體で渡れるものかどうか、私はこれでも三十になつたばかり、まだ獨り者よ」
「それはわかつてゐる」
「第一、家の屋根と來たら、家主がケチでトントン
お組の爆發する
「わかつたよ、師匠。お前が怪しいと思へば、わざ/\やつて來て、こんなことを言やしない||ところで」
平次は一應
「お菊さんが殺された時だつて、私は若旦那の金之助さんと一緒に歸り、若旦那を此處へつれて來て||恥を言はなきやわからないけれど、
「それはもういゝ。が、一つだけ、小三郎が踊り舞臺の後ろの樂屋へ、
平次はお組の怒りをやり過して、新しい問ひを持出しました。
「見ましたよ。多勢ゐる前で、帶を締め直すんだとか言つて、不氣味な匕首を取出し、皆んなに見えるやうに
「お前は本當に雷鳴が嫌ひなのか」
「好きぢやないが、そんなに嫌ひでもありませんよ。でも、若い女が雷鳴が怖くないなんて、平氣な顏をしてゐると、色氣がなくて變ぢやありませんか」
こんな祕密までは、平次も氣がつきません。
「八、どうだ、見當はついたか」
お組の家を出ると、平次は面白さうに八五郎を振り返りました。
「驚きましたね、あの女が下手人ぢやないんですか」
「どうも、さうらしくないよ。お園の死骸の
「女の下手人が、自分の
「動かしながらつけた手形なら、指先の渦卷や、てのひらの筋の跡が消える筈ぢやないか」
「すると、どんなことになりませう」
「お前にお組が下手人に違ひないと教へたのは誰だ」
「小三郎ですよ、||
「そんなことだらうと思つた||おや、お園の家へ小三郎が來てゐるやうだ。お前は外で待つてゐてくれ。宜いか」
平次は何やら八五郎に囁やくと、路地の外へ出してやり、自分の手で木戸を閉めて、さて、お園の家の外から聲をかけるのでした。
「小三郎
「へエ? 錢形の親分ですか、ちよいと待つて下さい」
小三郎は殊勝らしく佛樣の前で線香などを上げてをりましたが、
「小三郎
「えツ?」
「お園を殺した下手人を、向うの唐物屋の店先からお菊が見てゐた、||それを俺に教へようとしたとき、俺の側にゐて眼顏でとめたのは、小三郎兄哥、||お前ぢやなかつたのか」
「||」
「お園の死骸の股にある血の手形は、まだ拭き取つてゐない筈だ。お前の手と比べて見ようか」
「親分。そんなことが、と、飛んでもない」
「お前がお通夜の席から歸つたのは
「||」
「自分の匕首を
「||」
「お菊を殺すために、手拭を二本用意し、一本をわざと忘れて出たのも巧い手だが、今朝早くお園の家を覗いて、忘れた方の手拭を持出さうとして見つからなかつたのは天罰だよ。手拭は入口の
平次の論告は
「野郎、神妙にせい」
其處に待機してゐた八五郎が、むんずと組みついたのです。
この捕物は少しばかり汗を掻かせましたが、それよりも神田祭の人出が宏大な彌次馬群になつて、十重二十重に路地を
× × ×
「でも念入りにイヤな野郎さ。女に嫌はれてそれを殺すのに、あんなに細工をするといふのは」
事件が落着してから、平次はツクヅク言ふのでした。
「でも、あの大夕立の中を、神田一番の綺麗な年増が
「馬鹿だなア」
「安やくざの小三郎が下手人ぢや、一向つまりませんね、親分」
「その代り、神田一番の結構な年増が、飛んだ
「そこで、あつしもこれから踊りの稽古でも始めようか知ら」
そんなことを言つて、長んがい