「賤民」の研究は我が民衆史上、風俗史上、最も重要なる地位を占むるものの一つとして、今日の社会問題を観察する上にとっても、参考となすべきものが少くない。しかしながらその及ぶ範囲はすこぶる広汎に渉り、予が従来学界に発表したるものの如きは、いずれもこれが一部分の研究たるに過ぎず、しかもなお未だ研究されずして遺されたものまたすこぶる多く、今これを全般に渉って記述せんことは、到底この講座の容さるべきところではない。よってその詳述は、従来既に発表し、もしくは将来発表すべき部分的の諸研究に譲って、ここにはただ、かつて或る融和事業団体において講演せる草案をもととして、その足らざるを補い、なるべく広く多方面に渉って、その沿革を概説するに止めんとする。
まず第一に述ぶべきことは、いわゆる「賤民」の定義である。言うまでもなく「賤」は「良」に対するの称呼で、もし一般民衆を良賤の二つに分つとすれば、いわゆる良民以外は皆ことごとく賤民であるべき筈である。しかしながら、何を以てその境界とするかについては、時代によってもとより一様ではない。大宝令には五色の賤民の名目が掲げられて、良民との関係がかれこれ規定せられているが、それはその当時における国家の認めたところであって、事実はその以外に、なお賤民と目さるべき民衆が多かった筈である。またその法文は、実際上後世までも有効であった訳ではなく、ことに平安朝中頃以後には、大宝令にいわゆる賤民中の或る者が、その名称そのままに社会の上流にのぼり、かえって貴族的の地位を獲得したというようなこともあれば、従来良民として認められていた筈のものが、その名称そのままで社会のドン底に沈められ、賤者の待遇をしいられたようなこともある。また一旦落伍して世の賤しとする職業に従事し、賤者の待遇を受けていた程のものでも、後にはそれがその職業のままに、社会から一向賤しまれなくなったという類のものも少くない。したがって古今を一貫して、良賤の系統を区別して観察することは到底不可能である。要はただその当時の社会の見るところ、普通民の地位以下に置かれたものを「賤民」の範囲に収めるよりほかはない。普通民はすなわち良民で、平民である。平民以上のものはすなわち貴族で、それはもちろん今の問題外である。さればこの講座においては、貴族平民以外のものをすべて「いわゆる賤民」として、以下これを概説することとする。
いわゆる賤民の範囲を観察せんには、まずもってその対象たるべき良民の性質を観察することを必要とする。
大化の改新は従来の階級的社会組織を打破して、すべての民衆を同等の地位に置いたものの如く普通に考えられている。しかしながら事実は必ずしも
良男良女共所レ生子、配二其父一。若良男娶レ婢所レ生子、配二其母一。若良女嫁レ奴所レ生子、配二其父一。若両家奴婢所レ生子、配二其母一。若寺家仕丁之子者、如二良人法一。若別入二奴婢一者、如二奴婢法一。今克見二人為レ制之始一。
とある。ここに「賤」という文字はなきも、良人の法と奴婢の法とを相対して、いわゆる良賤の間に、判然たる区別の存在が示されているのである。そして「日本紀」には、「良男」をオオミタカラオノコ、「良女」をオオミタカラメノコ、「良人」をオオミタカラ、「奴」をオノコヤッコ、「婢」をメノコヤッコと傍訓してある。奴婢をヤッコということについては後に譲る。ここにはまず、良人をオオミタカラと呼ぶことについて観察したい。
オオミタカラの語、右の良人以外に、「百姓」「公民」などの訓にも用いられている。「政事要略」には、「大御財」の文字をあて、後のこれを解するもの、百姓すなわち農民は、食物を供給する大切なもので、すなわち天皇の「大御宝」であるという。崇神天皇の詔にも、「農は天下の大本なり」とあって、農民が国家の至宝であるには相違ないが、しかしそれが為に、これを天皇の大御宝と呼んだとは思われぬ。
案ずるに、オオミタカラは「
さらにこれと併せ考うべきことは、「百姓」という語がただちに農民を意味することとなり、漢字の「民」に当つるに「タミ」という邦語を以てしたことである。
本来「百姓」とは、あらゆる姓氏を有するものの総称で、その語にはもとより農民という意味はない。姓氏を有するものはすなわち公民で、賤民には姓氏がない。これは古代の戸籍を見れば明らかである。しかるにその百姓たる公民は、原則としてことごとく口分田の班給を得て、すべてが農民であったが為に、遂には百姓すなわちただちに農民ということになったに相違ない。後には農民以外の雑戸の徒も、解放せられて平民の仲間となり、農民以外の百姓も出来た筈ではあるが、それは第二次的意義の転化で、原則としては百姓すなわち農民であったのである。また「タミ」の語は、本来「田部」であったと解せられる。
果してしからば、しばらく貴族の問題を別として、一般民衆の間にあっては、農民のみが公民であり、その以外のものは、原則として賤民と見るべきものであった筈である。無論その賤という程度に相違があったとはいえども。
原則として公民すなわち農民のみが、良民すなわちオオミタカラであるとすれば、それ以外のものはすべて賤民であるべき筈であるけれども、前記大化の改新の詔にも、特に良男良女と
「奴婢」を「日本紀」にはヤッコと
いわゆる五色の賤民は、良民と通婚が許されぬばかりでなく、同じ賤民同士の仲間においても、お互いに当色の者同士のみが婚すべきことになっている。そしてその陵戸の問題はしばらく措き、官戸以下の四色の賤民にありては、通じては皆ヤッコとして、天皇直属の民ではない。天皇に対し奉ってはいずれも
家人、奴婢(官戸、官奴婢とも)は畢竟同じくヤッコであって、服装までも
かくの如く、いわゆる良民と賤民との間において、また賤民同士の間において、国法上厳重な差別が設けられてはあっても、それは単に境遇上のみの問題で、決して民族上の問題ではなかった。いわゆるヤッコとして全くその人格が認められなかった程のものでも、人そのものが賤しいのではない。良賤の別は全く境遇によって定められたもので、境遇が変れば賤民もただちに良民となりうる。大宝令の規定によれば、官奴婢は年六十六に達すれば優待して官戸となす、癈疾となった場合も同様であった。さらに年七十六に達すれば、解放して良民となし、願う所に貫籍することになっている。或いは臨時に、官奴婢を解放してただちに良民と為した場合も少くなかった。私の奴婢でも同様で、或いは主人の意志により、或いは相互の諒解により、或いは自ら
彼らは賤民の身分であっても、やはり田地の班給を受けて農業に従事した。普通良民は男子に田二段、女子に一段百二十歩ずつを受ける制で、官戸及び官奴婢はこれに同じく、家人及び私奴婢は、土地の寛狭に従ってその三分の一を供せられる。彼らは被使役者であっても、やはり食料を要するからである。
奴婢の起原には、征服せられた異民族、戦争の際に生じた捕虜などというような場合も想像せられ、現に征夷によって得た蝦夷の捕虜を、神饌として神社に寄付し、或いは奴隷として公卿に賜わったという実例もあった。されば時には実際上民族的差別を有するものがないとは言えないが、しかし原則としてその差別は民族によるものではない。同じ異民族でも、決してそのすべてが賤民として待遇せられたのではない。前記の場合の如きも、捕虜になったという境遇がしからしめたので、民族を異にするという為ではない。もっとも遠い遠い大昔には、秦民のすべてが諸国に分散して、臣連の為にその欲するままに駆使せられたと云う事実もあって、いわゆる
奴婢と並べて大宝令に、五色の賤民の一つとして数えられた唯一つの陵戸は、少しく性質の違ったものである。彼らはむしろ後に説明する雑戸とか、

因に云う、後世近畿地方にシュクと呼ばれた賤者階級の徒があった。解するものこれを以て守戸の後となし、余輩またかつてはその説に従ってみた事があったが、後に至って必ずしもそのしからざることを明らかにした。別項「シュク」の条下を見られたい。
「延喜」の諸陵寮式には、各陵墓についてそれぞれ陵戸守戸の数を記してある。身分は違っても同一職務に服したものであった。後いつとはなく諸陵寮の管理も廃し、陵墓多くはその所在を忘れられるようになっては、陵戸守戸の末路も不明になってしまった。
陵戸は大宝令に賤民の中に数えてあっても、もちろん奴婢の徒ではない。ただその身が穢れに触れるということから、特に賤民の籍に収められたもので、職業から見た性質上では、むしろ雑戸の部類に属すべきものだと解せられるが、その以外の一般の雑戸は貴族に属する部曲の民などとともに、良民とも賤民ともつかぬ、中間階級のものとして認められていた。いわゆるハシヒトの類で、それを文字に「間人」と書いた。或いはその文字のままにマヒト、または転じてマウトなどと呼んだこともある。良賤両者の中間に位置するということであろう。
大化以前の「間人」に関する具体的実例は、不幸にして古文献に見当らぬ。しかし姓氏及び人名として、しばしばそれがあらわれている。



ハセツカベはすなわち

大宝令に宮内省の被管土工司があり、土作瓦




ハセツカイは本来駆使に任ずる賤者の称で、「日本紀」に駈使奴をツカイビトヤッコとある通り、低級なる使用人の名称となっていたのである。そして泥工或いは


平安朝時代に、下賤の使用人をハシタオトコ、或いはハシタメと云う称があった。文字には「半男」または「半女」と書く。今も物の全からざることをハシタと云うのはこれであるが、その名称はけだしもと間人すなわちハシヒトから起ったものであると解する。ハシヒト
徳川時代になって、土佐では水呑百姓の類をモート(間人)と云って、もちろん賤民扱いはしないが、一人前の人格を認めなかった。阿波では同じく「間人」と書いてマニンと呼び、半人前の人格をしか認められなかった一階級があった。やはり水呑百姓の徒である。藩から賦課する課役役銀の如きも、普通の百姓の半額を負担させられたものであった。これすなわち身分上古えにいわゆるハシヒト、ハセツカベに相当するもので、良民と賤民との中間に位置したものである。
阿波ではまた、間人の同階級に
近畿地方では、俗にいわゆる番太或いは

古えにいわゆるハシヒト(間人)の範囲がどれだけのものを含んでいたかは明らかでないが、いわゆる
雑戸という名称はもと支那の語で、彼にあっては謀叛などによって国家に没収せられたものを以てこれに宛て、一種の賤民となっていたものである。したがって良民との通婚を許さなかった。我が大宝律では、雑戸が良民の子弟を養子とするを禁じているが、令に関する法家の解釈では、通婚は差支えないとある。これは一般的に雑戸を解放して、平民と同じくしたという天平十六年以後の実際を見て云ったことかと思われるが、ともかく我が国にあっては、同じく雑戸の名称を用いながらも、これを純粋の賤民とはせず、しかも一方では明らかにその卑品たることを指摘しているので、いわゆる間人の徒としてこれを待遇したものであったことが知られる。
彼らは工人その他の雑職人として、通例土地の班給にあずからなかったものらしく、「古事記」垂仁天皇条に、「
彼らは班田に入らず、農業に従事せぬが故に、農業を本とした我が国では、いわゆる
丙午、免二天下馬飼雑戸人等一。因勅曰、汝等今負姓、人之所レ恥也。所以原免 、同二於平民一。但既免之後、汝等手技如 不下伝二習上子孫一、子孫弥降二前姓一、欲レ従二卑品一。
とある。これは明治四年に穢多非人の称を廃したのと同じような美挙ではあったが、後者が「身分職業共に平民と同じくす」とあるのとは違って、身分は平民と同等になっても、職業はやはり従前のままをつがしめ、そしてもしその技を伝習せずんば、農業に従事せぬ彼らは次第に貧困に陥って、子孫ますます堕落すべきことを戒められたものであった。かくてここに農民ならぬ公民も出来た次第であるが、しかし世間のその職業に対する賤視観念はにわかに一変し難く、彼らは国家から折角平民と認められても、世間からは相変らず賤しめられる傾きがあるので、自然その職を
己巳、京畿諸国鉄工、銅工、金作、甲作、弓削、矢作、桙削、鞍作、鞍張等之雑戸、依二天平十六年二月十三日詔旨一、雖レ蒙二改姓一、不レ免二本業一。仍下二本貫一、尋二
天平十五年以前籍帳一、毎色差発、依レ旧使役。

とある。これによっていわゆる雑戸なるものの種類もわかり、またその職を名に負うところの姓が、人の恥ずるところであったことが知られる。しかしともかくもその身分は平民に同じくなったので、これより後は自然淘汰の理法によって、同じく雑戸であったものの中でも、その執るところの職業によっては、段々と身分が向上して、普通の平民とそう社会的地位に相違のないものになったのもあろうし、また職業によっては、相変らず賤視を免れないものもあった事と思われる。かの陵戸が、その性質上からは雑戸の一つであるべく思われるにかかわらず、大宝令では特に家人奴婢と伍して、賤民の中に数えられているのは、その職業が穢れに触れる為であったと解せられる事から考えても、いわゆる雑戸なるもののうちで、その職業の種類と、社会のこれを見る感じとによって、その行く末が種々の階級に分たれるべき事情が察せられよう。
大化の改新も一般民衆の根本的解放を見るに至らず、賤民及び間人の存在は、相変らず国法上に認められて、遂には奈良朝平安朝の貴族全盛の時代となった。その間に、間人の地位にいる雑戸は解放せられて、平民と同じ地位に置かれることとなったが、賤民の制は引続き国法上存在した筈である。しかるに時とともに貴族の勢力は向上して、その反対に平民の地位は段々下落し、両者の間の距離が甚だしくなるとともに、平民と賤民との距離が相近づいて来る。遂にはいわゆる賤民の制は破れて、その実、国法上からは賤民の身分にして、しかも実際上には社会的に貴族の地位を占め、平民はかえって新賤民となるというような、甚だしい混乱状態を生じて来た。
朝廷の大官を始めとして、貴族等ひとり専横を極め、荘園の名の下に天下の田園を
かくの如くにして地方政治は紊乱の極みに達し、生活に安んぜざる庶民階級の人々は、課役を避けて逃亡するものが多く、盗賊到る処に起っても、国司にはこれを鎮圧するだけの実力と誠意とがなく、人民は国家に依頼して、その生命財産の安全を保護してもらうことが出来なくなった。ここにおいていわゆる武士なるものが起って来るのである。微力のものは有力者の下に属して、その保護を受けねばならぬ。有力者は多くの部下を擁して、自ら護るの途に出る。その有力者もさらに一層有力なるものの部下に属して、自己の勢力の拡張を図る。ここに複雑したる主従関係が生じて来る。もちろん乱れたる世の事ではあり、国家の軍隊警察その用を為さぬ際であったから、彼らは自然武芸を錬磨して、自ら
既に主従関係が生じてみれば、その従者たるものはもちろん天皇直隷の国家の公民ではなく、実際上社会に勢力を有する程の身分であっても、国法の精神から云えば立派に
家人たる従者は、本来は常に主人の座右に侍して、その用を弁ずべき身分のもので、すなわち「
家人の地位は主人の地位とともに消長する。源頼朝天下の政権を掌握するに及んでは、国法上では賤民である筈の源氏の家人等は、事実は一国或いは数国の守護となり、或いは多くの公領荘園の地頭となり、いわゆる
しかしながら、これあるが為にすべての家人や侍の地位が、相率いて高くなったのではない。その主が失敗すれば、その家人や侍は一層堕落の境遇に置かれるのはやむをえなかった。勝者たる源氏の家人が勢力を得た陰には、敗者たる平氏の家人が没落したのは言うまでもない。主人の身分が高ければ、その家人の身分も高く、主人の身分が低ければその家人の身分も低い。徳川時代になっても、幕府直参の武士は「
平安朝における政治の紊乱が、令制の賤民を解放して、新たに武士という、名義上では賤民であっても、その実平民以上にいるような、奇態な新階級の勃興を見るに至ったが、それと同時に一方には、国法には認めていなかった浮浪民なる新賤民が、またはなはだ多く起って来た。
歴史上普通に賤民と云えば、ただちに大宝令の五色の賤民を数えて、ただそれだけが古代の賤民である如く考えられている。さらに深入りして考えるものでも、それに中間人たる雑戸の徒を加えるくらいである。しかしながら実際上我が古代において、貴族と良民と雑戸と、それ以外に大宝令に見えるいわゆる賤民とのみが、我が国土に生活した人類のすべてではなかった。令制上の賤民や雑戸は、たとい賤民だ雑戸だといわれても、やはり国家からその存在を認められた「賤しい民」で、それぞれ戸籍帳に載っているのであるが、そのほかにその実はなお或る種の人類が少からず生活していたのであった。すなわち戸籍帳に漏れた無籍者で、一定の居所をも有せず、国家の法律にも拘束せられず、生活の便宜を追うて各地に漂泊的生活をなしていたもので、いわゆる浮浪の徒である。これをウカレビトと云う。
浮浪民はおそらく人類の発生とともにあるべき筈で、その存在は古くから歴史にも見えていた。既に天智天皇八年に、「
或いは初めからその住居が僻遠であったが為に、その存在が世に知られずして、公民籍に編入せらるるの機会を得なかったものも、もちろん昔は随分多かった。今に至ってもなおその種のものが、時に発見されることがある。先年の国勢調査の際に、そんな事実のあったことがしばしば新聞に見えていた。彼らは従来国家から存在を認められず、何村の戸籍にも載っておらず、児童はもちろん小学校教育をも受けず、村民は兵役の義務にも服せず、もちろん一銭の租税をも納めないで、全くの別世界であった。この類のことは実は太古からあったもので、古く既に
大江匡房の「
傀儡子とは支那の言葉で、本来は傀儡すなわち木偶を弄して人目を楽しましめるもののことであるが、邦語ではこれを「クグツ」と云い、もと必ずしも人形舞わしとは限らないものであった。彼らは一所不定の浮浪民で、水草を逐うて便宜の地に小屋住まいをする。男は弓馬に長じて、狩猟を本職とし、また剣舞、弄玉、人形舞わし、手品、軽業というような技芸を演じて、人の耳目を楽しましめる。またその婦女は、粉粧をこらして淫を
いずれにしてもこれらはみな社会の落伍者である。落伍者はいつの世にも必ず生じて来るもので、その代りに、その中の或る者は、浮浪の境界から脱して立派な身分になるものもある。つまり新陳代謝が行われて、古い賤者が消えて行って、新しい賤者が起って来るのである。
かく新陳代謝が行われる中にも、平安朝の中頃以後に輩出した浮浪民は、令制の賤民の代りに生じた新賤民の起原をなしたもので、その顛末は我が賤民史上最も注目すべきものである。しかもそれが「聖の御代」とまで言われた延喜の頃から、既に甚だしくなっていたのには驚かざるをえぬ。
「延喜式」に「濫僧屠者」の語があり、下賀茂すなわち賀茂
ここに濫僧とは、当時の文章博士三善清行の「意見封事」に、当時の人民課役を避けんが為に、私に髪を剃り、

しかし浮浪民だ、無籍者だと言われながらも、ともかくも一定の住所を有して郷里の家庭に住むことの出来たものは、これを賤民と称するにはやや妥当を欠くの感があるが、それ以外に郷里にいることも出来ず、逃亡して他郷に浮浪漂泊の生活をなすという、一層堕落の底に落ち込んだものが多かったのは言うまでもない。彼らは法師姿であるが故に、いわゆる樹下石上を家となし、身を雲水に任して頭陀の生活をなす修行者に交って、乞食として生活するの道を求めたであろう。これすなわちいわゆる
濫僧の徒は古くこれを「非人」或いは「非人法師」と云った。この場合の「人」とは広く「人類」という意味ではなく、狭く「日本人」という義である。すなわち非人とは、帝国の臣民に非ずと云う程の義であるが、鎌倉時代にはこれをその文字通りに解して、人間以外すなわち畜生仲間というような、極めて同情のない説明をした場合もないではない。かの日蓮聖人が、自ら「
最も古く非人の名称の物に見えている著しい例証は、かの
非人は食物の生産者ではない、故に彼らは何らかの方法で食を生産者から乞わねばならぬ。すなわち「乞食」である。もっとも厳格なる意味から云えば、施主の供養に生きる如法の僧侶の如きもやはり乞食で、弘法大師の「三教指帰」には、自己を仏教の代表者とし、これを「仮名乞児」と
非人乞食は、原則としては同時に浮浪民である筈である。もちろん浮浪民であると云っても、そのすべてが常に一定の居所なく、各地に浮浪してのみいるのではない。中には永く一所に定住して、浮浪民の村落を作り、長者の統率の下に自治の境界に安んじている場合もある。また国家として永くこれを度外視し、その自治にのみ放任する訳には行かず、浮浪人の戸籍を作って、一定の課役を賦課し、また飢饉の際の如きは、土民浪人ともにこれを救助したというような場合もあるが、それでもなお彼らは、やはり国家なり、社会なりから、浮浪民の名称を以て呼ばれている。一旦浮浪民と身分が極まれば、或る特別なる事情がないかぎり、公民籍には編入せられず、いつまでも浮浪民として認められたのであった。
かくの如きものは、もちろん賤民と呼ばるべきものではなく、中には新たに戸に編せられて公民の資格を得る場合もあり、
この以外に事実浮浪的生活をなしている漁夫狩人の徒ももちろん多かった。漁民の中には、近い頃までなお漂泊的の習慣を存し、他から特殊的待遇を受けていたものもある。その海岸に定住して漁村をなしているものの中には、早く戸籍に編入せられて、公民の資格を得ていたものも少くなかったが、大体として奈良朝頃まで、なおこれを乞食と呼んだらしく、「万葉集」の歌に「乞食の詠」というのが二首あって、一つは漁師の歌、一つは狩人の歌を収めてあるのである。彼らは獣肉魚肉を里人に供給し、無条件に食を乞うのではない。しかし元来農業を以て本位とする我が国においては、これらの肉類は食料とは云わなかった。少くも奈良朝頃の日本民族は、もはや獣肉魚肉のみによって生きて行く事は出来なかった。生きるには必ず農民の作った五穀に依り、獣肉魚肉は副食物の原料たるに過ぎなかった。したがって漁師とか狩人とかは、やはり農民から食を乞う方の側の人で、すなわち乞食と目せられたものと解せられる。副食物はオサイである。オサイは「お添え」の義で、食物に添えて喰うものたるに過ぎない。農民のみが食物の供給者であり、国費を支弁する納税者である以上、それのみが公民であって、その以外の者は、たとい相当の代償を払っても、食物をこれに乞う以上乞食と言われても致し方がなかったのであろう。漁家の子たる日蓮聖人が、「畜生の身なり」と言われたのも、全くこの意味からであったと解せられる。
俳優或いは人形舞わし、その他の遊芸者を、古く河原乞食と云った。「河原」ということは後に説明する。これを乞食といったのは、右の乞食の意味を示しているのである。彼らはもとホカイビトの徒であった。ホカイビトはすなわち「
その一例として、右に述べた西の宮の傀儡師は、最も適切なる由来を有している。摂津西の宮の付近には、もと「産所」という部落があった。これは後に説明するところの「散所」の義で、浮浪民の住みついた所である。その住民は西の宮の百大夫を祖神と仰ぎ、ホカイをなすにも、西の宮の
この西の宮の人形舞わしが、後に淡路の国府付近に移って、ここに大発展をなした。その地を三条というのは、文字は変っているがやはり散所の義であろう。或いはここにももと散所の者がいて、それが西の宮の散所の芸当を伝えたのかもしれぬ。この人形舞わしは、西の宮では早く亡びたが、淡路にては大発達を遂げて、一時は人形座の数が四十にも及び、後には十八座となり、今もなお五六座は遺っていて、全国を興行してまわっているという。やはり一種の旅芸人と云うべきものである。
これはただ具体的の一例を述べたに過ぎないが、ホカイ人は、かく一方では人形舞わし専門の遊芸者となったと同時に、一方では神を慰めるための神楽にも発達した。西の宮の傀儡師も、やはりもとは夷神の神慮を慰める為だったとも云っているが、これは人形の方に発達し、神楽は手先の芸当の方に発達した。神楽と云っても、
このほか東京近在の
かくの如き遊芸者は、それぞれ相当の技芸を演じて人の耳目を喜ばしめ、その代償として食を求めるのであるけれども、やはり乞食と呼ばれていたのであった。
濫僧は非人法師として、身を雲水に委して乞食生活をなすに好都合であったであろうが、多数の濫僧が輩出しては、もはやこれのみによって活きる事は出来ぬ。勢い何らかの職業に従事せねばならぬ。ここにおいて彼らは多く繁華なる都会に流れつき、都人によって職を求めんとする。或いは村落に寄生して、村人によって生活の道を講ずる。
当時にあって職業の最も求め易かるべき繁華な場合は、第一に指を京都に屈すべく、次には奈良であったであろう。その選んだ職業としては、第一に市民の為に労働して、その日その日を送って行くという、今日のいわゆる自由労働者や、
かくの如くにして彼らは相当の職業を得て、一所に定住するに至っても、本来浮浪民である。今日の如き手軽に宿泊する木賃宿の如き設備のなかった時代にあっては、彼らは便宜空地を求めて、小屋住まいをせざるをえなかった。京都では主として賀茂川の河原に小屋掛けをして、いわゆる河原者と呼ばれていた。或いは東山の坂、ことに清水坂に最も多く集まった。清水坂は東海道の要路に当り、自然に往来の人が多く、生活するには便宜が多かったのである。これを坂の者と呼んだ。奈良では奈良坂の坂の者が最も有名であった。その他各地の村落都邑に住みついたものは、いずれもその町外れや村外れの空地に小屋住まいをした。これを普通に散所の者と云う。これは主として
落伍者はいつの時代にも生ずる。大正十二年の関東大震火災によって、一度に生じた多数の罹災者の中には、もしこれが古代に起ったのであったならば、おそらく多くの非人が生じたのであったに相違ない。徳川時代にも、落伍者が多く京都や、江戸、大坂等の、大都会に集まった。それを京都では、悲田院の長屋に収容して、その中で年寄と称する役員を置いて取り締らせたが、これをすべて非人と呼んでいた。もちろん彼らとて、無償で養ってもらったのではない。労働しうるものにはそれぞれ適当なる職を与えて、生活の道を講じさせたのであったが、それでもやはり彼らは非人と呼ばれていたのである。その職業の主なるものは、京都の町の警察事務、監獄事務で、そのほかに遊芸、雑工業、井戸掘り等にも従事した。昔の浮浪民と同じ道を歩んだのである。
京都における悲田院の非人の数は年とともに段々増加して、当初の粟田口付近の一箇所のみに収容し難くなり、他に五箇所の収容所を設けて、いわゆる
浮浪民が社寺或いは村落都邑に付属して、種々の職業に流れて行ったことは、既に簡単に概説したところであるが、その社寺に属するものとしては、京都東寺の掃除散所法師、同祇園感神院の
東寺では、散所法師という名称のままで、寺の警固掃除の任に当っておった。彼らは京の信濃小路通猪熊の西に散所部落を成していたもので、東寺に付属して境内の掃除をする、或いは土木工事に従事する、警固の事に当るというような、種々の任務に服していた。その顛末は不幸にしてこれを明らかにする史料が不備であるが、祇園の犬神人の方は、この社が延暦寺に属していたが為に、その活躍も目立たしく、史料も比較的豊富に遺されている。よってここにややこれを詳説して、一般浮浪民の流れ行く道を具体的に示すの一例として提供したい。
祇園社所属の犬神人は、いわゆる坂の者、すなわち清水坂の非人法師であった。彼らは時に犬法師とも呼ばれていたらしい。祇園は神社であると同時に寺であったから、神事にあずかる方から
祇園社付属としての彼らの職務は、東寺の散所法師と同じように、境内の掃除、穢物の取り片付け、或いは警固、門番、土工等に従事し、特に祭礼の節には、行列の先頭に立って警戒をなし、時に或いは神輿を
しかし彼らはこれらの表職のほかに、傍ら普通の非人の行くと同じく、種々の工業に従事している。すなわち弓を作る、矢を作る、
彼らはまた弓弦を行商する。弓弦は武士ばかりでなく、昔は普通の民家で綿を打ち和らげる為に使用し、その需要が多かったのである。その売声の「弦召し候らへ」と云うのが、ツルメソと聞えるので、それで彼らはツルメソと呼ばれていた。すなわち彼らは一方では行商人であったのだ。
このツルメソのおった場所は、今の建仁寺の東の方で、その地を今に弓矢町と呼んでいる。これは彼らが自己の製作した弓矢等を、店に並べて売っていたからで、彼らは一方では店売商人であった。
彼らが祇園祭の警固に出るには、甲冑に身を固めて太刀を帯し、武士が戦場に赴くが如き出で立ちをしたものと、一方には「六人の棒の衆」と称して、法衣類似の衣服を着て、頭をつつみ、六尺棒を持った法師姿のものとがあった。すなわち一方では武士の仲間であり、一方では依然非人法師の身分を保存していたのである。今日でも祇園祭の行列には、必ずこのツルメソの参加がなければならぬことになっている。これも時代によって段々風が変っているが、今日では甲冑を着した威風堂々たるものが、大道狭しと大手を振って、行列の先頭に立っている。もちろん昔の犬神人の子孫ではなく、普通の氏子の中から出るのであるが、やはり旧称を存してツルベサンと呼んでいる。
祇園は叡山の末寺であった。したがって山法師出動の際には、ツルメソは常にその先棒となって、破却打壊しの任務に当っていた。彼らは山法師の
彼らはまた一方では、同時に乞児すなわちホカイビトの亜流であったらしい。祝言を述べて他を祝福し、米銭を貰うのはすなわちホカイビトで、坂の者の本来の所業であったが、犬神人の間には徳川時代になっても、なおその遺風が多少存して、正月元日の早朝には、禁裏御所の日華門前において、毘沙門経を読誦する例であった。毘沙門天は七福神の一つにも数えられた福神で、彼らが禁裏の御門に立ってこの毘沙門経を読誦することは、やはりいわゆるホカイビトたる非人法師の名残であったと解する。また彼らは正月に赤色の法衣を着、顔を白布で包んで目ばかりを出し、
ツルメソはまた、京都市内の葬式に干渉する特権を持っていた。南北朝時代にも、彼らを経ずして葬儀を営んだが為に、彼らから故障をつけられたという事実が、「祇園執行日記」に見えている。彼らはけだし京都市中を縄張りとして、その葬儀担当の権利を主張したものであったのだ。彼らは本来非人法師で、いわゆる三昧聖として、もとから葬儀に関係していたのであろうが、祇園の所属たるに及んで本寺たる叡山の威光を笠に、京都市中を縄張りと定めたものと解せられる。徳川時代になっても、彼らは折々市内の墓地を見て廻り、新しい墓の出来たのを発見すれば、たちまち寺院に故障を持ち込む。寺ではその煩を避けて、盆暮に寺相当の祝儀をツルメソに与えて、見のがしてもらう習慣になっていた。すなわち彼らはいわゆる「
要するに祇園所属のツルメソすなわち犬神人は、非人法師の一つたる清水坂の坂の者として、大体においてはあらゆる非人法師の歩んで行った路を歩んだもので、祇園所属として有力であったが為に、特に代表的に発達し、他の人々が次第に職業によって分れ行くところを、彼ら多くは兼ね有していたのであった。ただ彼らにおいて見ざるところは、遊芸の側の発達のみであるが、それも史料が遺っておらぬというだけで、事実はやはりこの方面にも関係していたものかもしれぬ。
浮浪民たる非人法師の仲間には、それぞれ長たるものが出来てこれを統轄し、自然と不文律による自治制が行われていた。その長たる非人を長吏法師と云い、その下に属する平非人を小法師という。浮浪人の長の事は既に「霊異記」にも見えて、由来すこぶる久しく、彼らはそれぞれ縄張りを構えて、その縄張内の浮浪人を雑役に駆使し、調庸を徴乞したとある。すなわちその縄張内で生活の道を求めんとするものは、必ずその長に運上を納めなければならなかったのだ。同書に、神護景雲三年に京の或る
原則としては、浮浪民は無籍者として、国法以外に置かれたものであった。「江談抄」に、非人たる賀茂葵祭の
鎌倉時代には、京の清水坂の非人法師と、大和の奈良坂の非人法師とが最も勢力があった。その長吏は他の多くの非人部落の上にも勢力を及ぼして、大親分となっていた。清水坂の非人は祇園感神院に属し、奈良坂のは東大寺に属しておったから、ここにも南都北嶺争覇の影響が及んでいたものらしく、仁治、寛元年間に縄張争い等の事から軋轢を始めて、奈良坂の非人が清水坂の非人の或る者を味方につけ、清水坂を襲撃して、その長吏法師を殺したという事件が起った。そこで清水坂からそれを東大寺に訴え、奈良坂の方からこれを弁明した訴訟文書が遺っている。これを見ると、徳川時代における侠客間の、縄張争いの大喧嘩の如きものであった様子が知られる。
これらの非人部落を普通に「
宿とはもと浮浪民の宿泊所ということで、それが非人部落の名称となったものらしい。古代にあっては、後世の如く旅宿の設備が整っておらぬ。公用を以て旅行するものは駅に宿し、身分のよい者ならば臨時に仮小屋を構えて宿泊する。普通の人は、知音を尋ね、或いは人の好意によって、宿を貸してもらう場合のほかは、いわゆる野臥山臥をしたものであった。もっともこの時代には、普通の人民が遠方に旅行をすると云うことは少く、長途の旅行を常に行うものは、大抵廻国の
上方地方には、後世まで「シュク」と呼ばれた一種の賤者があった。文字には通例「夙」と書くが、もとはやはり「宿」と書いていた。これももとは上方には限らず、関東地方でも、九州地方でも、中国筋でも、奥州地方でも、また同様であって、今に村落都邑の場末に、よく単に「宿」とか、何宿とかいう地名のある所が多い。今では人家もなく、単に地籍名として遺っているのもあれば、立派に普通民の部落となっているものも少くないが、もとはけだし各地共通の意味があって、浮浪民の宿泊所たる非人部落があった所であるに相違ない。或いはそれを宿駅の「宿」と解する説もあり、事実それが街道筋の宿駅として発達しているのもあるが、その起原必ずしもそうでなく、また実地がそう街道筋であったとは思われないものが多い。
大和河内地方のいわゆる「宿」については、前述の如く、普通に「
しからばすなわち「宿」は非人部落の通称と云ってもしかるべきもので、それがその執る職業によって、他の名称を以て呼ばれたり、或いはもとの名が忘れられたりして、特に上方地方にのみ、主としてその名称が遺ったものと解せられる。彼らは他の非人の行ったと同じ道を行って、種々雑多の職務に従事した。葬儀に与っては「御坊」と呼ばれ、遊芸に「宿猿楽」の名もある。警察事務またその重要なるものの一つであった。これに関して最も正確な証拠文書を伝えているのは兵庫の「宿の者」である。兵庫には今も宿の八幡という神社があって、そこに昔は宿の者の部落があった。彼らは兵庫の津に付属して、地方の警察事務に従事していたのである。これに対して慶長十七年に、大坂の奉行片桐且元から、その報酬すなわち扶持を規定した文書を与えられている。これによると、兵庫の宿の住民は、平素宿の者を煩わすことが多いので、これに対して相当の報酬を与うべきものであった。すなわち兵庫の津からは、毎年盆に二貫文、暮に五貫文の銭を宿の者に与える。田地持は田畠大小にかかわらず稲一把ずつを与える。湯屋、風呂屋、傾城屋は、特別に人の出入りがあって、宿の者を煩わすことがことに多いので、盆暮に二百文ずつを与える。或いは富有の者からは、祝儀不祝儀の際に、二百文ずつを与える。また宿の者が罪人を捕えた場合には、肌付きの着物は宿に与える。かように宿の者の警察事務担当に対する報酬が、文書を以て規定されているのである。つまり「宿の者」というのは、或る村或る町に付属し、長吏支配の下にあるその町の常雇の警察吏というべきものであった。ことに人だかりの多い場所には、必ず宿の者が警固する。それ故に人
これを要するに長吏法師は非人部落の長たるもので、小法師なる平非人は、その配下に属して雑多の職務に従事したのであった。しかるに後世にはこの名称や関係が忘れられ、長吏の名は普通にエタと呼ばれた或る一部族にのみ残り、小法師の名は、禁裏御所の御掃除人や、江戸の筆屋の屋号などに残るのみとなった。しからばエタとはいかなるものか。
徳川時代も中頃以後には、社会から賤視せられた階級のものが、種々の流れに分れていたが中にも、特にその身が穢れたものとして、一般社会から接触交際を厳重に忌避せられ、したがって普通には最も賤しきものとして
しかしながらつらつらその名称の沿革を尋ねてみると、エタと称せられたものの含む範囲は、時代によって一様ではなかった。
徳川時代の賤者に関する法令の文には、普通に穢多非人の称を用いて、その間に或る区別の存在が認められていた。
エタはすなわち屠殺業者皮革業者で、職業上当時の迷信から、その身に穢れ多しと認められたから、これを文字通りにもっぱら「穢多」と称し、その以外のものを総称して「非人」と云ったものと解せられる。しかしそのほかに、エタともつかず非人ともつかぬもの、すなわちエタに類するもの、非人に類するものが、また多かった筈である。例えばかの御坊(俗に隠亡、穏亡、

しかもこれをその本源に遡って考えたならば、エタも非人も実はもと一つの流れのもので、徳川時代の初頃までは、すべてを通じてエタとも非人とも呼び、その間に名称上の区別がなかったのである。しかるにその
彼らはもと通じて河原の者であり、坂の者であり、散所の者であった。それは後までも往々名称の上に残っている。かの河原者と云えば遊芸者のこと、坂の者すなわちサンカモノと云えば浮浪民の名称だと心得られていたのは、彼らがもと河原者、坂の者の流れであったことを伝えたのである。されば徳川時代もまだ寛水の頃までは、エタと非人との間にそうハッキリした区別はなく、通じては

さらに遡って室町時代の「

かくエタという名称は、鎌倉時代以来甚だ広い範囲に渉って用いられ、非人との間にあえて区別を認められなかったのであったが、さらに遡ってその語本来の意義を尋ねれば、決してそんなものではない。
そもそもエタという名称の、最も早く物に見えているのは、自分の見た限りでは、前引鎌倉時代の「塵袋」である。この書には「穢れ多し」と書いて、「エタ」と読ませている。しかもそのエタと云う語の本来の意味を説明して、「
餌取とは、鷹や犬に食わせる餌を取るを職とするもので、徳川時代の
無論餌取以外にも、殺生肉食を常習とする屠者はある。しかもこれらはやはり餌取同様、仏法の方から云えば、悪業を為す悪人仲間である。したがって都人に耳近い餌取の称を一般屠者に及ぼして、「屠者」または「屠児」と書いてエトリと読ませる例であった。その中でも特に死牛馬を屠る習慣を有するものを、最もひどく排斥し、この思想は鎌倉時代から室町時代に至って一層ひどくなったものらしく、「塵袋」や「

かくて遂には自身屠殺を業とせずとも、肉食妻帯を常習とするいわゆる濫僧の徒をも、餌取法師というようになった。
濫僧と屠者とはもと区別があり、「延喜式」には、明らかに「濫僧屠者」と連記して、両者を別々に見ておった。濫僧も屠者も共にいわゆる河原者で、京都では下賀茂すなわち賀茂御祖神社付近の河原に多く住んでいた。また同じ頃の三善清行が、この濫僧の徒を評して、「形は沙門の如く、心は屠児に似たり」とあるのも、濫僧と屠者とは、同じ賤者ではあるが、その間区別のあるものだと見た証拠である。しかるにそれが後には一つものに見られることになった。つまり屠者も、濫僧も、同じく当時穢れとした肉食の徒であって、事実上だんだん区別がなくなったのだ。その日その日の生活に追われているような下層の落伍者は、肉を食わないなどとそんな贅沢は言っておられぬ。ことに古来肉食の習慣が根強く存していた我が国において、相変らず肉食が一方では行われたに不思議はない。かくてその徒のすべてが餌取すなわち屠者と同一視せられ、それが訛ってエタと言われるようになったのであった。しかもその中で、徳川時代に至っては、現に死牛馬を屠り、皮革を製造していたもののみが、特に「エタ」と呼ばれるようになり、他のものは普通に「非人」として、その間に区別が認められるようになったのである。そして一旦「エタ」として認められたものは、後に屠殺業をやめて純農民に変っても、相変らずその素性を賤しまれて、容易に「エタ」仲間から脱出することが許されなかったのであった。
大宝令の規定するところ、賤民の主たる家人奴婢の徒が特に賤民として差別されたのは、階級意識の濃厚な時代における、社会の秩序維持の犠牲となったものであったが、特にこれらとは種類の違った陵戸が、雑戸の中から抽出されて、賤民の一つとして数えられたのが、触穢の思想の結果であったことは、既に述べた通りである。そして平安朝以後における新賤民が、ことに社会から隔離忌避されるに至ったのは、やはりこの触穢禁忌の思想の、一層濃厚になった為である。
触穢の禁忌とは、我が神明甚だしく穢れを忌み給うが故に、これに触れたものは神に近づくべからずとの思想で、その穢れという中にも、中世には肉食が最も重いものとなっていたのである。
我が国は本来そう肉食を忌まぬ国であった。奈良朝頃までは豚までも飼って食用に供したのであった。したがって神にも生贄として獣類を供え、上は一天万乗の天皇を始め奉り、下は一般庶民に至るまで、みな一様に肉を食したのである。したがってこの時代には、無論肉食を以て穢れとするような思想があった筈はない。しかるに仏法が広まってより以来、殺生を禁ずるという意味から、肉食は段々と排斥せられる事になった。既に天武天皇の御代から、動物の内でも牛馬犬猿鶏の五畜に限って、その肉を喰うことを禁止せられた。牛馬はもちろん人に飼われて、耕作運搬等の人助けをする。鶏は時を告げ、卵子を与える。犬は夜を守り、猟の手伝いをする。また猿は人間に一番近い動物であるから、人情上殺して喰うには忍びないという意味である。さればこれは単に肉食の禁というのとは意味が違う。しかるに後には段々それがひどくなって来て、我が神明穢れを忌み給うという思想に付会して、肉食は血
肉食を忌む思想の由来はかなり古い。既に大宝の「神祇令」に、祭祀に当って神官は肉食を遠慮すべき事が規定されている。生贄を神祇に供し、神官はこれを屠るが故に「ハフリ」と呼ばれた時代にあって、神官自身これを喰うを忌むという理由はない。神道で肉食を忌むことは、無論仏教の影響の、神祇の上に及んだ結果に相違ない。しかもその殺生肉食禁忌の思想は、次第に濃厚になり、神は殺生を忌む、特に肉食の穢れを非常に嫌うという思想が、一般国民を支配する事になって来て、「延喜式」では、神祇にあずかる官人は平素でも肉を喰ってはならぬとある。まだその頃までは、祭祀関係者以外のものは平素はそれを忌まず、天皇の供御にも、明らかに猪鹿の肉を奉った事が「延喜式」に見えているが、爾後百六七十年も経った大江匡房の頃には、猪鹿の肉を喰ったものは、三日間宮中へ上ることすらも出来ないという習慣になっていたことが、「江談抄」に見えている。無論肉食の輩は神社に参詣することが出来ない。牛馬の肉はもちろんのこと、普通に食用獣として、その名までが「しし」(宍)、すなわち「肉」とまで、俗に呼ばれるようになっているところの、鹿や猪などの肉を喰っても、それから数日間は遠慮しなければならぬ。その日数は神社によって相違があって、石清水八幡宮がことに甚だしく、春日神社・稲荷神社・賀茂神社など、またいずれも厳重にこれを禁じていた。それも時代によって相違があり、鎌倉時代の習慣と思われる諸社禁忌の記するところによると、八幡宮は百日、春日や稲荷は七十日、賀茂・松尾・平野等は三十日とある。また八幡宮では、魚食のものでも三日間の禁忌とある。かくて肉食の徒は神罰を蒙るが為に、「
肉食の穢れはひとり肉食者のみに存するのではない。自身肉を喰わずとも、その穢あるものと「
かく仏法では殺生肉食を悪事とし、神道の方でもこれを非常なる穢として排斥したが、しかし屠殺業も、皮革業も、社会にとっては必要な職業である。何人かがこれに従事せねばならぬ。ことにその日その日の生活に困るような社会の落伍者たる人々が、かくの如き職をも厭わずこれを行い、したがって古来の習慣のままに肉食の風習を伝えていることは、いかに一方で排斥されても実際やむをえぬ次第であった。
仏法は本来衆生済度の宗旨である。したがって肉食者なりとてこれを疎外する筈はなく、ひとしく慈悲の手をこれに加えて、これを善導することに怠らなかった筈ではあるが、しかし既に貴族的になってしまった天台宗や真言宗の如き旧仏教では、いつしかこれを顧る程の親切がなく、穢を忌んだ結果として、自然彼らを疎外することになってしまった。もっともこれらの戒律を重んずる宗旨では、自己の戒行を保つ上において、これらの徒に近づくことを避ける事も実際やむをえなかったであろう。かくて比叡山では、穢者の登山をまでも禁じておった。また高野山では、今でも山内諸院の門に、往々「汚穢不浄の輩入るべからず」という禁止の制札をさえ見る程である。比叡山では、昔は山の登り口に、女人禁制、三病者禁制、細工の者禁制の制札があったという。ここに細工の者とは、いわゆるエタの事である。彼らの中には、竹細工や、革細工や、草履・武具・筆墨等、各種の家内工業に従事するものが多かったので、一つに「細工の者」とも云われていた。かかる有様であったから、僧侶は自身肉食妻帯が出来なかったのみならず、屠者に近づくことも出来なかった。したがって、「家に妻子を蓄え口に

旧仏教者がいかに屠者の輩を忌避したかについて、こういう事実がある。阿波の国では、室町時代の末から戦国時代にかけて、三好氏が勢力を有していたが、当時エタの事を「青屋」と云って、真言寺の方では甚だしくこれを排斥したものであった。青屋はすなわち藍染屋で、それがエタの種類であると云うことは、京都などでは余程後までも云っていた事で、徳川時代正徳の頃までも、藍染屋は役人村と云われたエタ部落の人々とともに、二条城の掃除や、牢番、首斬り、磔などの監獄事務を掌っていたので知られるが、その青屋を、勝瑞城下にある真言宗の堅久寺が檀家にしたので、同じ城下なる同宗の他の六ヶ寺から絶交を申し込まれ、堅久寺もやむなくこれを離檀して詫言をしたという事が、「三好記」に見えている。この書の著者は非常なるエタ嫌いで、同書にはいろいろと青屋すなわちエタの悪口を云っている。「青屋と申す者は
既に述べた如く、エタという名称はもとその含む範囲が甚だ広く、ことに鎌倉時代には、殺生肉食の常習者として漁師の徒までもその仲間に看做し、漁家の出たる日蓮聖人が、自ら施陀羅の子である、畜生の身であると言われた程であった。その広い意味のエタの中にも、現に死牛馬を屠り、皮革を製するものをのみ、特に後世エタと呼ぶに至った事も、また既に述べたところであるが、この狭い意味のエタの事を、或いはチョウリとか、チョウリンボウとか云った地方がある。長吏または長吏坊の意で、すなわちいわゆる長吏法師である。
非人部落の長なるものは、往々特権として己が縄張内に生じた死牛馬処理の業を独占し、皮革を製造して、利益を壟断したのであった。もちろんあらゆる長吏法師が、ことごとく皮革業者となった訳ではない。後世シュクとか、
非人部落の長吏は、前引兵庫のシュクの場合と同じく、村落都邑に付属し、部下を率いてその村方町方を警固し、その報酬として一定の俸給を貰う。農村であれば出来秋に稲を貰う。普通は一反について稲一把ずつという例であった。また祭礼とか、正月とか、盆とか、節季とかいう紋日にも、餅やその他の物を貰う。彼らはもと法師仲間であるが故に、それぞれ受持ちの檀家というものがある。いわゆる檀那である。檀那とは仏法の方の言葉で、施主のことをいう。寺の住職は檀那の家すなわち檀家から、布施を受けてその家の仏事を受け持つ。餌取法師もまた寺に檀家があると同様に、それぞれ檀那を受け持って、その受持ちの家に事件があれば、早速駆けつけて面倒を見る。そのためにその家からは特別に貰いが多い。後世では通例これを「持ち」と云う。彼らはその村落都邑の警固掃除等の任務を負担するとともに、特にその「持ち」の家に専属する形になっている。すなわちその村落都邑の住民を分担しているのであった。そしてその報酬として、相当の俸給を受けたのであった。
その以外にも、彼らは種々の特権をもっておった。そこに市が立つ、或いは勧進興行があるなどの場合には、彼らは秩序維持の任に当る。したがって市の
いわゆるエタが長吏として、他の
もともと雑工業者は、上古から雑戸として、卑品と認められていたのであったが、平安朝以来いわゆる非人法師が輩出したについて、彼らの徒の中には自然この卑職に流れたものが多かった。したがって雑工業者の徒のうちには、室町時代に至るまでも、相変らず法師姿でいたものが多い。「七十一番職人歌合せ」の絵を見ると、
遊芸者の仲間も多くはまた同様で、千秋万歳法師・田楽法師・猿楽法師など、もとはその名の如く法師であり、虚無僧の如きも、やはり尺八を吹く遊芸僧であった。それで長史は、この流れの遊芸者をもやはり自己支配の下にいると主張しておった。
死牛馬を屠り皮革を製する
かくの如く、いわゆる
エタは自ら他の非人よりも地位が高いと主張する。他の非人等は、エタの下に置かれていることを潔しとせずして、しばしばその間に悶着を起す。しかもその訴訟は大抵エタの方が勝ちになっている。彼らの祖先がもと長吏法師であり、またはその部下であった為でもあろうが、実は関東においてエタ頭として認められた弾左衛門が、種々の証拠書類を持っておった為でもあった。弾左衛門は浅草に住し、頼朝公のお墨付というものを持ち伝え、徳川幕府ではこれを認めて、彼を関八州から、甲斐、駿河・伊豆及び奥州地方十二ヶ国のエタ頭とし、エタ非人を総轄せしめたのであった。彼の祖先はもと鎌倉におって、鶴ヶ岡八幡宮に属して警固掃除等の役をつとめた事、なお京都祇園の
この文書は無論真っ赤な偽物である。偽物ではあるが、大体弾左衛門がそんな偽物を以てその権利を主張したということは、もともと長吏なるものが、他の非人を支配の下に置いたものであることを示している。その数もと二十八座とあるが、後には段々と増して四十余となり、湯屋・風呂屋・傾城屋等も、みなその中に加えられることになっているのである。
この書類に基づいて弾左衛門はその支配権を主張し、しばしば種々の問題を惹起した。宝永年間房州で歌舞伎芝居興行の節、弾左衛門手下のものが、舞台に乱入して役者を脅迫した。弾左衛門の方では、芝居者はやはりエタ支配の下にいるとの見解によって、渉りを付けなかったのを咎めたのである。しかるに役者の方ではそれを承認しない。遂に訴訟になって、初めは弾左衛門の方が有利であったが、弾左衛門の方で提出した例の頼朝公のお墨付には、確かにそれに当てはまるべき名目がない。役者の方では「雍州府志」を証拠として、芝居なるものは八十年ばかり前に、京都の四条河原に始まったもの、歌舞伎も慶長年間に、出雲のお国が始めたもの、浄瑠璃も治郎兵衛というものが始めたので、いずれも新しいものである。無論頼朝公の時分には無かったものだ。それを頼朝公が長吏支配の下に付けられる理由がないという。その主張が通って、この訴訟は遂に弾左衛門の敗けとなった。
また同じ頃に能役者金剛大夫が、江戸で勧進能を興行した事があった。この時も弾左衛門から苦情が出て、その手下が五十人ばかり舞台へ乱入した。この問題は例の頼朝公のお墨付に猿楽という名目があるのが証拠になって、弾左衛門の方が有利に認められ、酒井讃岐守の仲裁で無事に治まったと云うことである。
座頭との間の面倒な問題もこの頃に起った。いわゆる当道・盲僧の輩である。盲僧たる琵琶法師の徒は、常に高く自ら標持して、舞々・猿楽の如き賤しき筋目の者とは同席せぬとまで威張っていたものであった。しかるにこの頃検校の僧官を有する座頭が江戸に下ったところが、弾左衛門は例の文書によって、エタ支配の下にいるべき筈だと主張した。これは座頭にとって思いもよらぬ難題であるが、形勢不利とみて、京へ夜逃げして帰ってしまったとある。このほかにもエタ、非人の身分上下の争いは、度々所々で起ったが、大抵はエタの勝ちとなっている。すなわち彼らの長吏たることが認められたのである。
要するにエタは世間から穢れ多いものとして、ひどく忌避されたけれども、身分は他の非人の上に立って、これを支配する長吏だという事が認められていたのであった。
非人の職業の中でも重要なるものの一つは、葬儀に関したものであった。そして主としてこれに関する者を、俗に「オンボ」と呼びならわしている。すなわち「御坊」の義である。御坊とはもと非人法師に対する敬称で、「御坊様」という事にほかならぬが、後にはその法師たることが忘れられて、穏亡或いは隠亡、

我が古代における葬儀のことは、
古代の土師部が他から軽侮されたのは、彼らがもと公民でなく、土器作りの雑戸であった上に、ことにそれが葬儀を担当し、穢に触れる為であった。土師の頭なる土師氏は、出雲国造の一族として、系図上その立派な家柄を主張していても、やはり葬式を扱う事から、自然に人がこれを嫌う。たまたま桓武天皇の御生母が、その土師氏の女の腹から出られたお方であったという関係から、御孝心深くましました天皇は、その専業の不当をお認めになり、土師氏葬式の祖業を廃して、その居地の名に因んで菅原氏、秋篠氏と称し、或いは御生母大枝の山陵の名を取って、大江氏を
非人法師はもちろん法師の徒ではあるが、もともと社会の落伍者としての自度の法師で、かの三善清行の指摘した如く、家に妻子を蓄え、口に

念仏の教えは古くから我が国に伝わり、餌取法師と呼ばれて、口に牛馬の肉を喰い、家に妻子を有する非人の徒でも、念仏の功徳によって極楽に往生することが出来るという思想は、既に平安朝からあって、「今昔物話」にその例話が幾つも出ているのである。しかもその特にこれを宣伝して非人済度につとめたのは、空也上人が初めであった。
空也上人は延喜の頃に生れた人で、ちょうどかの
空也はまた殺生肉食常習の猟師の徒をも教化した。平定盛狩を好んで、上人に馴れ親しんでいた鹿を殺したので、上人これを傷んで、その鹿の皮を請い受けて皮衣とし、角を杖の先につけて、始終身を離さず念仏を申す。定盛為に一念発起して、その弟子になったとある。殺生者はその悪業の故に、三悪道に堕ちねばならぬ因縁を持っている筈であるが、阿弥陀如来は過去の罪業を追及せぬ。空也は念仏の功徳によって、彼らをもことごとく済度したのであった。かくてその徒は常に鹿の皮衣を着、瓢箪を叩いて念仏を唱え、一方内職としては竹細工に従事し、茶筅を作ってそれを売ってまわる。いわゆる鉢叩きであり、茶筅売である。瓢箪を叩いて鉢叩きとは聞えぬ名称であるが、けだし古くは単にこれを「叩き」と云い、それがいわゆる「ハチ」(土師)であるので、ハチ叩きと云ったものかと思われる。
空也の門流として後世までも有名なのは、山陰道筋のハチヤと、山陽道筋のチャセンとであった。地方的にその名称を異にしてはいたが、古くはハチヤをもチャセンと云い、チャセンをもハチヤと云ったのであった。岡山県あたりにヒジヤという地があって、文字にはいろいろ書いてあるが、つまり土師谷(或いは土師屋)で、ハチまたはハチヤというと同語である。茶筅は或いはササラとも云った。彼らは竹細工を内職として、茶筅或いは
空也は下層民を率いて、ただに念仏を唱えしめたのみでなく、その念仏に曲節をつけ、手振り足踏みを加えて、いわゆる歌念仏、踊念仏を始めたと伝えられている。極楽往生の安心を得たならば、自然に歓喜踊躍の情が湧き出づる訳ではあるが、つまりは普通に落伍者の流れて行く道の一つなる遊芸の徒と、念仏の行者とが合致したものと解する。いわゆるハチヤ・茶筅などは、万歳その他種々の遊芸を行っていたのである。すなわち工業・遊芸・葬儀・警察等、普通の落伍者が行ったと同じ道を行っているのである。またこの徒には、産婆や医者の如き、世助けの業をなすものがすこぶる多かった。北陸道のいわゆるトウナイ筋には、トウナイ医者という称呼まであって、今でもこの筋の人で、名医が相当多いそうである。
天台真言の如き貴族的な旧仏教の諸宗が、穢を忌避して下層の特殊民を相手にしなくなった際において、空也上人が大いにこの方面に布教宣伝したことは、念仏宗本来の教義に基づいたもので、最も時勢に適した宣伝であった。罪人だ、悪人だなどと呼ばれて、現世に到底光明を認めえなかった最下層民は、実際念仏によってのみ未来の光明を認めることが出来たのであった。
空也に次いで出たのが恵心僧都源信である。彼は「往生要集」を著わして、「往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賤誰か帰せざらんものぞ。ただし顕密の教法はその文一にあらず、事理の業因はその行これ多し。利智精進の人は未だ難しとなさざるべきも、予が如き頑魯の者は
かくの如く源空は、その晩年において大いに温和なる説法をするようになったが、これが為にいわゆる悪人往生の方にはやや疎遠になり、その流れを受けた後の浄土宗の方では、同じ念仏宗でも、エタ非人などといわれる側の下層民は、あまり収容されなくなった。しかるにその門弟子の中には、相変らず過激の宣伝をなすものが多く、これには源空もかなり悩まされた。「我が師法然上人は、あんな温和な事を言っておられるけれども、あれはほんの世間体を繕う為で、上人の本心ではない。上人の言みな表裏ありで、本当の事を言ってはおられないのである。上人は毎日日課として七万遍の念仏を唱えておられるけれども、実は一遍申せばそれで十分なのである。神を祭るにも及ばぬ、女に近づいてもよい。肉を喰うてもよい。ただ一度南無阿弥陀仏を唱えて、極楽に生れようと願えばそれで十分である。上人は下根の輩には本当の事を言われてない。真に上人の法を受けている者は、吾ら利根の輩五人のみしかない。自分はその一人である」などと言って、しきりに北陸地方で、一念義を唱えた者もあった。
同じく源空の門下に出て、後の浄土宗から分立し、源空最初の意気盛んな頃の説をどこまでも主張したのは、真宗の開祖善信聖人親鸞であった。彼は相変らず悪人往生の為に尽力し、「善人尚以て往生す、況や悪人をや」を説いている。その唱うる念仏は報恩謝徳の念仏であって、極楽往生を願う為の念仏ではない。同じ念仏でも、真宗の念仏と浄土宗の念仏とは、念仏の意義が違う。かくて親鸞は自身肉食妻帯を体験して、破戒の行業を辞せず、非僧非俗の愚禿と称して、在家法師、俗法師の徒を以て任じ、社会のドン底に沈淪した最下層民たる餌取法師、非人法師の徒をも疎外することなく、いわゆる御同朋御同行として、世間から最も罪業深いものと認められた、かの
親鸞とほぼ時を同じゅうして、日蓮聖人が現われた。彼は熱心に法華を説いて、他宗派を攻撃し、時に念仏とは全く反対の道を歩んだ。念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊とは、彼のいわゆる四個の格言であるが、中にも念仏者は正法を誹謗するもので、阿弥陀如来の誓願にも、五逆と正法誹謗者とは除外されているのであるから、彼らは無間地獄へ落ちて、永劫浮ぶ瀬はないというのである。しかし日蓮もまた下層民済度の為には、かなりの努力を惜しまなかったようである。彼は自身漁家の出として、
最後に出て特殊民を済度した念仏の行者は、時宗の開祖たる一遍上人智真である。彼は遊行上人ともいわれる程で、念仏を唱えて諸国を遊行しつつ法を説いたもので、この遊行派に属する者は関東地方に多い。この派の行者を
いわゆる非人法師、餌取法師などの輩は、古代の国法上にいわゆる賤民以外の新賤民で、三善清行のいわゆる形は沙門の如く、心は屠児の如き下司法師の徒であった。その一類を時にショウモンジということがあった。
上方地方には、後世になってもショーモン筋と呼ばれて、他から疎外される家筋のものがあった。文字には俗に「正文」、「証文」などと書いてあるが、正しくは「声聞師」である。声聞とは仏教上の語で、小乗阿羅漢の徒を云う。彼らはただ仏の説法の声を聞き、煩悩を断じて涅槃に入らんとするもので、
室町時代には、所々に声聞師と呼ばれる部落があって、千秋万歳を舞ったり、警固雑役に従事したりしていた。中について奈良の興福寺に属する者は、余程有名であった。彼らは清水坂の非人法師が、祇園感神院に属して犬神人となったように、奈良坂の非人法師が、付近の興福寺に属したのであろう。興福寺は大和一国の領主とまで云われたくらいの勢力ある大寺であったから、その所属の声聞師もことに勢力を有し、五ヶ所十座の唱門などと呼ばれて、奈良市中にいくつもの部落に分れて住んでいたのである。その職務は無論警察事務が主で、いわゆる七道の者等、他の非人取締りをなし、また土工その他雑役にも従事した。この部落のものが、徳川時代には、いわゆるシュクの徒ともなり、或いは陰陽師と呼ばれて、
要するに「
かく法師という名称がもっぱら賤者に呼ばれるようになったが為に、法師という語は、相手を軽侮するような場合に用いられることとなった。今も大和吉野の山間十津川郷では、人を罵るに、「何だこの法師が」などというそうである。かく法師という語が一種の賤称となった為に、自然に忌避せられるようになり、戦国時代の頃から、「法師」に代うるに「坊主」という語を以てすることが流行り出した。「坊主」という語は、鎌倉時代から既に物に見えて、一坊の主の称である。されば蓮如上人の
上述の如く、濫僧すなわち下司法師の流れの末が、大宝令規定以外の種々の賤民、すなわち「
元来エタもやはり非人の一種として、国家の公民ではなく、したがって国法の外に立ち、長吏の自治に任じたものであった。関東では弾左衛門がエタ頭で、他の非人等もその支配を受けていた。上方ではやや様子が違って、下村庄助という者がこれを支配し、百九石余の高を給せられて、身分は侍であったが、宝永年間に庄助が死して後は、各部落はやはり部落の年寄の自治に任ずることになっていた。さればエタ、非人の犯罪者に対しては、国家は直接に国法に依ってこれを処分することなく、「エタなるが故に」、「非人なるが故に」との理由の下に、その長吏に引き渡して、これが処分に一任する例になっていた。しかし徳川幕府の施政も次第に整頓し、国家の秩序も立って来る。一方いわゆるエタ、非人の身分も極って、足洗いも容易でなく、その人口は段々殖えるばかりとなって来ては、もはやこれを彼らの長吏にのみ
幕府で明らかにエタ、非人の調査をなさしめたのは、享保の頃であった。この頃しきりに各地のエタや非人の頭に命じて、その由緒書を提出させている。けだしこれに依って、彼らの取締りの途を講ずる参考としたのであろう。もとはエタと百姓とが通婚するとか、エタが百姓や武家に奉公するとかいう事は、甚だしく問題にもならなかったようであるが、それは厳重に禁ぜられることとなった。取締りは年とともに次第に厳重になった。ことに安永七年に至って、非常に厳重なる取締法が発布せられて、エタ、非人と百姓、町人との間に、判然たる区別を立てた。エタ、非人は、一見して百姓、町人との差別が出来るようにと、その風俗に制限を加えた。従来にもたびたび差別の命令があるにはあったが、とかくエタが風俗をごまかして百姓、町人の中に紛れ込んだり、身分を隠して通婚したり、奉公したり、娼妓になったりして、為にその穢れを社会に及ぼすおそれがあるという為であろう。これに基づいて定められた諸藩の取締りは、藩によってそれぞれ寛厳の差はあったが、要するにエタを普通民から差別せしめるにあった。そして社会の階級意識がますます盛んになるとともに、それが年を逐うていよいよ厳重になり、文化五年の伊予の大洲藩の触書の如くんば、七歳以上のエタは男女にかかわらず、必ず胸に五寸四方の毛皮の徽章を目立つように付けよ、居宅にはその屠者たることを示す為に、必ず毛皮を下げて置けよ、下駄をはいてはならぬ、傘をさしてはならぬ、木綿合羽はもちろん、桐油合羽をも着てはならぬ、髪の結び方をも区別せよ、芝居などの如き人だかりの場所には、雨覆のない所に平人とは別におれ、笠も不相当な物を用いるななどと、実に滑稽といえば滑稽、残酷といえば残酷なものであった。されば彼らが百姓、町人の家に入る事の出来なかったのはもちろん、これを座敷に上げたならば、その者までが罰せられるという程の厳重なものであった。しかしかく風俗上に厳重な区別を立てても、夜間にはそれが判明せぬが為にか、多くの地方では、エタは日出前日没後には、外出を禁じられていた。夜間やむをえず外出する場合には、何村のエタ某とか、仲間某とか明記した提灯を持たなければならぬという規定の所もあった。かくの如くにして、平素武家から極端なる軽侮圧迫を受け、それに屈従しなければならなかった百姓、町人等は、さらに一層下級のエタ非人を有することによって、僅かに優越感の満足を与えられていたのであった。
また一方にはエタ仲間の掟においても、彼らが結束を固くし、自己の勢力を維持する必要上からでもあったろうが、いわゆる弾左衛門の掟なるものには、非人は足を洗う事の道があるが、エタは永久にエタとして、素人になることを許さなかったものであった。しかしこれも地方によることで、遠州地方には、「打上げ」と称して、三代の間皮剥ぎの渡世を廃したものは、足洗いが出来る習慣もあり、決して全国的のものではなかったが、ともかく弾左衛門の法は、幕府取締りの標準となったが為に、大体においてエタは永久にエタとして鎖ざされ、遂に解放さるるの機会を得ずして、明治四年にまで及んだものであった。
いわゆるエタが同じ流れの多くの下り者の徒の中で、特別に賤しまれ、忌避せられ、はては甚だしく圧迫せられるに至ったのは、彼らが屠者であり、皮革業者であったが為に、触穢禁忌の思想からこれに近づくことを忌まれた結果である事は、今さら繰り返し述べるまでもない。もちろん彼らは同一日本民族の、同情すべき落伍者の末である。しかるに世間にはその沿革を忘れ、彼ら自身またその由来を解せずして、これを異民族なりとし、朝鮮人の子孫だなどと説くものが古来多い。古いところでは神功皇后三韓征伐の際の捕虜の後だとか、近いところでは秀吉の朝鮮征伐の際の捕虜の後ではないかなどと考えているものが、今もなお少からず存在している。のみならず彼ら自身またその説に誤られて、朝鮮との関係を云為するものがないではなかった。慶応四年に長州征伐の功によって、弾左衛門がエタの肩書きを除かれた例にならって、大阪の渡辺村から指し出した嘆願書には、自分らの祖先は神功皇后征韓の際に従軍した兵士であって、久しくかの地に滞在するうちに、かの地の肉食の風に習い、帰朝の後もその風習をつづけたが為に、神国清浄の国風に
かくの如くいわゆるエタが、他の多くの「下り者」と同じく、民族上少しも差別なきものであるにかかわらず、特に社会からこれを忌避した所以のものは、もちろん触穢禁忌の思想の結果であるには相違ないが、実はその以外に、さらに大なる原因があったのである。
元来エタは文字にも「穢れ多し」と書かれた程で、早くから一部の人々、特に或る宗派の仏教家から、甚だしく忌避されていたとしても、一般人からは必ずしもそう交際を拒否されてはいなかったのであった。現に戦国時代には、前記の如く三好長治の如き大大名も、エタの子を小姓として寵愛し、侍がエタの女を嫁に取ったという実例もある。ことに村落都邑には、優待条件を以て彼らを招聘し、警固の任に当らせたものであった。奥羽の如くその地が
徳川時代約三百年を通じて、我が国の人口はあまり増加しなかった。明治維新後急激に繁殖して、明治三年末に約三千三百万と云われたものが、今では内地人口約六千万にもなり、五十七八年間に八割強を増した程の増加率を有する我が日本民族も、徳川時代にはほとんど増加しなかったのであった。これは一に一般民衆の生活が困難であり、堕胎、間引き等による人口調節が盛んに行われた為にほかならぬ。これは幕府が鎖国主義を採って、日本国内で自給自足の政策を実行したのと、一つは万事が現状維持で、新規の発展を厳禁したとの結果である。徳川時代の人口統計は案外正確なものであったが、その古いところで享保頃から、新しいところでは安政頃までの調査を見ると、公家、武家及びその使用人を除いて、一般庶民に属するものが、大概二千五百万台より、六百万台の間を上下している。さればその以外の公家、武家の数を約四十万戸とし、一戸平均五人として約二百万人、その使用人一戸平均二人半として約百万人、合して大約二千八九百万人、まず三千万人以内とみて大差のない数であった。それが幕末に近づいて段々と殖えて来たのは、一つは堕胎、間引きが人道に背くという思想から、これを禁ずるようになったのと、一つは産業の発達の結果、生産額の増加した為とで、ついに明治三年末になって、三千三百万という数になったのであった。そしてその後急激なる増加をなして、今日の約六千万を数うるに至ったのである。
しかるに一方では、いわゆるエタの数はその間にも非常に増加した。この趨勢は維新後においても同様で、明治四年エタ、非人の名称を廃した当時の数を見ると、エタの数が二十八万三百十一人、非人の数が二万三千四百八十人、皮作雑種七万九千九十五人、合計三十八万二千八百八十六人とある。この中には後にほとんど解放されたものが多く、いわゆる特殊部落として、依然差別観念の残っているものは、主としてエタと云われた人々の流れに属するのであるが、仮りにそれが明治四年の当時三十万人であったとして、一般人口の増加率によって約八割の増殖とすれば、現今約五十万人位となってしかるべき筈である。しかるに事実は甚だしくこれと相違して、現今少くも百二三十万の多きに達していると計算される。すなわち一般世間の人々が約八割を増せる間に、彼らは四倍以上の数に達しているのである。かくの如く維新以後普通民の増加が甚だしくなった時代においても、彼らは普通民に比してさらに甚だしい増殖率を示しているのであるが、これが既に徳川時代において、立派に存在した現象であった。普通民が一向増加しない間にも、彼らのみは甚だしく増加した。これはその部落の沿革を調査すれば明らかなことで、もと二戸ないし三戸であったと云うものが、後世には大抵数十戸に増加しているのである。中にも正徳の頃百八十八戸であった京都の六条村の如き、明治四十年には千百六十九戸となり、今では約二千戸に達したとも云われているのである。すなわちいわゆる特殊部落なるものは、もとは村落都邑に属する少数の請願警吏の駐在所の延長で、その人口増加の結果として、遂に部落をなすに至ったのが多いのである。
しからば何故に彼らのみ、特に増加率が多かったのであろうか。これには特殊の事情もあるが、大体この社会の人々は生活が簡単にして、自然病気に対する抵抗力が強く、婦人の生産数も多いという以外、彼らはもと警固の報酬として、一定の扶持に生活したが上に、死牛馬処理の有利事業を独占し、その他にも特権が多く、生活に余裕があったが為と、一つには彼らが一向宗門徒であって、その宗旨の教えとの為に、自然堕胎、間引きの風習がなかった故であった。されば同じくエタ、非人と疎外された中にも、非人の方が段々減少したが、長吏たるエタの方のみ特に著しく増加したのである。
しかしながら、普通民が少しも殖えぬ間に、彼らの人口のみが甚だしく殖えたとしたならば、その結果はいかなるであろう。村に一戸、二戸あってこそ、彼らは警察吏として、また雑役夫として、歓迎もされたであろう、村にとって必要なものとして、相当の扶持に生活しえたであろう。その縄張内に生じた死牛馬の役得のみにても、少からざる収入となったであろう。しかるにその人口が甚だしく増加し、一方その需要が一向増さぬとあっては、たちまち失業者を生ぜねばならぬ。従来一人にて多くの戸数を分担し、いわゆる「持ち」と称してこれに出入りしておったものも、遂にはこれを数人で分たねばならなくなる。収入は著しく減少する。かくてその多数は警固の事務から離れて、番太という特別の警固の者が出来ては、彼らは全く雑役労働によってのみ生きなければならぬことになる。しかるに不幸にして彼らは、触穢禁忌の思想によって、自由にその欲する職を択ぶ事が出来ぬ。やむをえず狭少なる範囲の職業に従事して生きねばならぬ。仲間内には競争が起る。従来はむしろ祝儀をまでもつけて引き取ってやった程の死牛馬も、今は競争して買収せねばならぬ事ともなる。生活はますます苦しくなる。次第に身を卑下していわゆる檀那方の好感を博し、少しでも多くの物質的利益を得るの道を講ぜねばならぬ。従来は権利として集めてまわった村方の扶持米も、今はただ永年間の習慣によって、いわゆる旦那の同情に待つようになる。かくては乞食待遇せられてもやむをえなかった。もちろん住居の地には限りがあって、自由に拡がる事も、分散する事も出来ぬ。その限られたる部落内に、限りなく増加する人口を収容せねばならなかった彼らは、次第に密集部落となり、細民部落となり、世間の進歩とは反比例して、ますます普通民との距離が遠くなる。もとは村方に必要であったものも、今では厄介な寄生物となる。世間の忌避と軽侮との度はますます甚だしくなる。それでもなお満足に生きて行く事が容易でないのみならず、彼らとても同一の人間でありながら、一方世間の差別待遇に甚だしく不満を感ずるの結果、その身分を隠し、仮面を被って世間に紛れ出る。或いは武家や百姓、町人の家に奉公し、或いは遊女となり、出稼人、行商人となる。しかし普通民の側からこれを見れば、穢れたものとして誤信された彼らに紛れ込まれては迷惑である。そこで風俗上一目見て区別が出来るようにという、取締法の必要も起って来る。かくの如くして、彼らはますます圧迫せられ、ますます去勢せられ、武家に対してはもとより、百姓、町人に対しても、一切頭が上がらぬ下賤のドン底に落ち込んで、同じ人間でありながら、人間として待遇されない、気の毒なものになってしまったのであった。
人類の生活に必要なるあらゆる物資が、日光の如く、空気の如く、何らの考慮と勢力とを用いず、すべての人類に、無限にかつ公平に供給せられざる以上、またその人類の有する智能と体質とに、生れながらにして賢愚強弱の差が到底避け難いものである以上、さらにまたいわゆる機会なるものが、すべての人類に必ずしも常に同一に恵まれざる以上、いかなる原始の時代と云えども、彼らの社会において、すべてが同一の境遇にいることはありえない。智能勝れ、強健にしてよく勤労に堪えうるものが、自然その社会に勢力を占有して、幸福な生活を遂げ、暗愚にして、
一方人類には、禽獣とは違って、子孫は父祖の延長であるとの思想が濃厚である。したがって特別の事情なき限り、子孫は父祖の地位を継承するを常とする。ここにおいて境遇が自然に世襲的となる。我が上古に氏族制の行われた如きは、ことにその著しいものであった。すでに社会に上下の階級があり、それが世襲させられるとすれば、よしや貴族、賤民というような判然たる名称はなかったとしても、それに相当するものが必ず太古から存在したに相違ない。
しかしながら、社会は常住不変のものではない。常に新陳代謝して、新しいものと代って行く。これを社会上の事実に見るに、昔時の貴族、富豪が、どれだけ今日にその尊貴と富有とをつづけているであろう。これを今の武家華族の家についてみても、徳川時代の諸大名は大抵戦国時代に新たに起ったもので、鎌倉幕府以来の大名の子孫が、そのまま継続しているものは僅かに指を屈するばかりしかない。彼らの中には薬屋だとか、桶屋だとか、野武士だとか、水呑百姓だとか云われた卑賤の身分から起って、混乱時代の風雲に際会し、天下の政権を壟断するの地位を獲得したものも少くなかった。かの太閤秀吉の如き大人物は、実にそのもっともなるもので、その素性を尋ねたならば、実はどういう人の子だかよくは分らないのであった。応仁、文明頃の奈良の大乗院尋尊僧正の述懐に、「近日は土民、侍の階級を見ざるの時なり。非人三党の輩といへども守護国司の望をなすべく、左右する能はざるものなり」とも、また「近日は由緒ある種姓は凡下に下され、国民は立身せしむ。自国他国皆斯くの如し」とも云っている。そしてその応仁、文明の頃から、世間は混乱を重ねて、遂に戦国時代となり、実際胆力の大きい、力量の勝れたものが成功して、下賤のものも立派な身分となる。かかる際において、エタも非人もあったものではない。現に非人と呼ばれたもので一方の旗頭となり、一城の主となっていたものもある。したがって従来賤民階級に置かれたものも、この際多く解放せられたのであった。
しかしながらこれはいわゆる成功者の方面に対する観察であって、その反面には失敗して新たに落伍者となったのも、また必ず多かるべきことはもちろんである。「切取、強盗は武士の習い」とか、「分捕功名、鎗先の功名」とか、体裁のよい遁辞の前に、いわゆる大功は細瑾を顧みずで、多くの罪悪が社会に是認され、為にその犠牲となったものが、到る処に発生した。かくてともかくも徳川時代三百年の太平は実現し、落伍者の子孫は永くその祖先の落伍を世襲させられたのであった。
もちろん徳川時代においても、相変らず社会の落伍者は発生する。そして多くは非人の仲間に収容される。京都では悲田院の長屋に収容して、やはり警察事務や、雑役、遊芸等に従事させた。当初はそれをもエタと呼んだ例はあるが、後には明らかにエタと区別されている。
明治、大正の時代になっても、相変らず落伍者は出て来るが、彼らはもはや非人の名称を以ては呼ばれない。大正十二年の関東大震火災の際に生じた多数の罹災者の如き、もしこれが旧幕時代に起ったのであったならば、いわゆるお救い小屋に収容せられて、非人となったものも少からぬことであったに相違ないが、今日そんなことを考えるものは少しもない。昔ならば河原者、坂の者、散所の者となるべき運命の下に置かれたものも、今日では木賃宿へ仮住まいして、自由労働者と呼ばれている。
しかしながら、これあるがために、事実上賤者階級のものが、果して社会に跡を絶った訳ではない。生存競争は相変らず激烈であり、自然淘汰、適者生存の原則はどこまでも行われている。過去におけるが如き賤民の名こそなけれ、名をかえ、形をかえて、相変らず社会の落伍者は存在し、引続き発生しつつあるのである。目のあたり見る今日のこの現象を以て、これを過去に引き当てて考えてみたならば、思い半ばに過ぐるものがけだし少からぬことであろう。今はただ過去における落伍者の動きの大要をかいつまんで略叙するに止め、その詳細なる発表は、さらに他日の機会を待つことにする。