坪内先生は、御老齢ではあったけれど、先生の死などということを、考えもしなかったのは我ながら不覚だった。去年朝日講堂で、あの長講朗読にもちっとも老いを見せないで、しかもお帰りのおり、差上げた花束を
侍者に持たせて、人ごみの出口で後から、とてもはっきりとした声で私の名を呼ばれ、笑い顔で帽子をつまみあげられた元気さに、今年五月早大内の演劇博物館で挙行される、
御夫妻の喜の字と、
古稀と、金婚式と、再修シェークスピヤ四十巻完訳のお祝いのことばかりがうれしくて念頭に離れなかった。
劇作もなまけ、なんの見て頂くような
作品も出来なかったので、先生を訪問することも大いに怠っていたが、去年からひそかな
もくろみを心のなかで成長させていた。しばらく書かない
振事劇を書いて、喜の字のお祝いにデジケートすることで、もとよりこれは「
燦々会」同志の労をかりて、先生に読んで頂くばかりでなく見ていただく心組みだったのだ。
それにつけて思い出すのは、
卅年から前に、お訪ねした余丁町のお家では、三味線の音が、よく奥からきこえていたことだ。士行さんも浜町の藤間に通われ、おくにちゃんも、おはるさんも、大造さんも、先生のお家の人はみんな
舞踊の稽古にいそしんでいた。
先生は、私が「浮舟の巻」という題で、二幕ものの、「源氏物語」宇治十帖の中の浮舟のことを書いてゆくと、それに目を通してくださりながら、二幕目に
大薩摩があって、浮舟の君と匂う宮の
すだまとの
振事じみたところがあると、急に顔色がうごいて、
節をつけて朗読なさりはじめた。そして無条件に気に入ったと見え、杉谷代水氏に見せるから置いてゆけといわれ、すぐに誰方だか呼ばれ
||代水氏だったかも知れない。も一度
節をつけて読んでくださって、それがそのころ権威ある「早稲田文学」誌上に載せられた。
そんなことでか、もしくは、この弟子が、すこしばかり
音曲を解するので、教えておいてくださろうとの御志であったのであろうが、御自分の
作に
節がつき
振がつくとよく御案内くださった。「お七吉三」の試演が、余丁町の舞台である日、その前日の下ざらいを拝見して、その日の舞台を楽しみにしていると、速達が来たりした。
いまこれを書きかけたところへ、急用の人が来て、締切りも時間も間にあわず残念ながらつい先日人に見せた、先生自筆の速達絵はがきが見つからないが、文意はこうだった。
||今日試演前に、も一度下ざらいするが、直した箇所があるから、見にきてくれ。
かつて夏目漱石、森鴎外、坪内逍遥と、大きな名をならべて、過分な幸福を授けてくださった、あたしたちの「狂言座」の三先生は、坪内先生を失って、もうみなこの世に
在さずなってしまった。
それは寒い、ちぢれあがるような冬の日の夕方だった。車は夏目先生のお宅を目ざして走っていたのだが、門の前へ着くと、丁度五時の、先生の散歩の時間になっていたので、坪内先生の方へと急いだ。その当時の牛込余丁町のお住居は、
当今のお家のずっと後の方で
現今小道路になっているあたりに門があった。
筝曲の
朱弦舎浜子の住居や、その隣家の宮原氏邸も、
以前は先生の御宅の
構内裏庭で、野菜などがつくってあったかと思う。
朱弦舎の入口には
雷除けの雷神木が残っている。前の
空地の二、三本の木立も、先生のお庭のものだったほど広い一角で、植込みの
欝蒼した、ぐるりと生垣だった。抜け弁天の方の道幅が広がり、電車線路が出来るときだった。また
廿六歳位だった同行の菊五郎は、
日常の茶目もなく、はじめて学者の世界を覗くので、とても神妙な態度だった。
次に廻った鴎外先生も漱石先生も、書斎で打解けて、打解けた話をしてくださった。鴎外先生は、坪内さんが「新曲浦島」を許すのならば、私は史劇「曾我」を書いてやろうと大乗気、漱石先生は、森さんが何か書いてくれるといったろうといいあてられて、機嫌よく笑われたりした。顧問という下へ署名して、鴎外先生は奥さんの茂子さんに、印をもって来ておくれといわれ、漱石先生は傍らにおられた津田
青楓氏に、その中から出して捺してあげておくれと、種々な印が、沢山にはいっていた袋
||たしか袋だったと思ったが
||を差示された。
逍遥先生は
真っさきのお願いであったし、客間ではあり、言出すのに、ほかの方とは異った怖さ
||在来の歌舞伎劇にものたりず、新しい気組で、興行ではやれない劇を
||しかも、
振事劇をも研究的にやりたいということをどう
言現してよいか、一番むずかしく言いにくく怖かった。それに大胆にも、「新曲浦島」のある場面を、先生のお手をかりず、自分たちで作曲からすべてやらして頂こうというのだから、兎もかくもやって見ろとお許しの出るまではビクビクしていた。坪内先生は、他のお二人とは違って、笑い顔どころでなく、真剣に、腕組みをして、じっと聞いてくださっていて、暫く黙してのち、何も彼もお
聴許になった。
その先生も、もう世にはおわさない。思えば、どの先生にも褒めてもらえるような仕事を、ひとつもしないうちにみな逝かれてしまった。
空しくも日を送ったものとの感が深い。
||昭和十年三月一日「報知新聞」||