秋も
末のことでありました。
年老ったさるが
岩の
上にうずくまって、ぼんやりと
空をながめていました。なにかしらん
心に
悲しいものを
感じたからでありましょう。
夏のころは、あのようにいきいきとしていた
木の
葉が、もうみんな
枯れかかっていて、やがては、
自分たちの
身の
上にもやってくるであろう、
永い
眠りを
考えたのかもしれない。たとえ、はっきりと
頭に
考えなくとも、一
時にせよ、その
予感に
囚えられたのかもしれない。いつになく、
遠い
静かな
気持ちで、
彼は、
雲のゆくのをじっと
見守っていました。
夕日は、
重なり
合った、
高い
山のかなたに
沈んだのであります。さんらんとして、百
花の
咲き
乱れている、そして、いつも
平和な
楽土が、そこにはあるもののごとく
思われました。いましも、サフランの
花びらのように、また
石竹の
花のように、
美しく
散った
雲を
見ながら、
哀れな
老いざるは、しかし、
自分の
小さな
頭の
働きより
以上のことは
考えることができませんでした。
「あの
先にいくのは、
山にすんでいるおおかみくんに
似ているな。そういえば、つぎにいくのは、あの
大きいくまくんか、その
後から、
旗を
持っていくのは、いつか
森であったきつねくんによく
似ている。」
そう
思って、
雲の
姿をながめていると、
自分の
知るかぎりの
山にすむ
獣物も、
小鳥も、みんな
空の
雲の一つ一つに
見ることができるのでありました。それらは、
楽しく、
仲よくして、
神さまの
前に
遊んでいました。
彼は、この
不思議な
有り
様を、
岩の
上でじっと
見上げていました。
「ああわかった。
私も
年を
老ったから、せめて
達者のうちに、一
度、みんなとこうして
遊んでみよと、
神さまがおっしゃるにちがいない。」
こう
思いつくと、
老いざるは、
悲しそうに
一声高く、
友だちを
呼び
集めるべく、
空に
向かって
叫んだのです。
いつしか、
空の
雲は、どこへか
姿を
消してしまいました。もし、
気がつかなかったら、
永遠に
知られずにしまったような、それは、はかない
天の
暗示でありました。
老いざるの
叫び
声をききつけて、すぐにやってきたのは、
近くのくるみの
木に
上っていたりすであります。
「どうしたのですか、さるさん、なにか
変わったことでも
起こったのですか?」と、ききました。
この
年老ったさるは、この
近傍の
山や、
森にすむ、
獣物や、
鳥たちから
尊敬されていました。それは、この
山の
生活に
対して、
多くの
経験を
持っていたためです。
老いざるは、まず、りすに
向かって、いましがた
見た
雲の
教訓を
物語りました。
「それは、すてきだった。みんな
集まって、
雪の
降らないうちに
仲よく
遊んだらいいと
神さまはおっしゃるのだ。」と、
老いざるは、
諭すようにいいました。
「ほんとうに、いいことですが、
平常私たちをばかにしているくまや、おおかみさんが、なんといいますかしらん。」と、りすは、
小さな
頭を
傾けました。
「
私が、いまここで
見た、
雲の
話をすれば、いやとはいわないだろう。」と、
老いざるが、
答えました。
「じゃ、さるさん、
早く、
懇親会を
開いてください。
私が、
小さいのでばかにされなければ、こんなうれしいことはありません。」と、りすは、
喜んで
飛び
上がりました。
そこへ、のっそりときつねがやってきました。
「さるさん、なにか
変わったことがあったのですか。あなたの
呼び
声をきいて、びっくりしてやってきました。」と、ずるそうな
顔つきをしたきつねがいいました。しかし、このときだけは、きつねもまじめだったのです。
老いざるは、いま
見た
雲の
話をしました。
「きつねさん、あなたは、
旗を
持って、その
行列の
中に
入っていましたよ。
私たちがやるときにも、どうかあのようにしてください。」
これをきくと、きつねは、そり
身になって、
「あ、
私も、ここにいて、その
雲を
見るのだった。いままで、
竹やぶの
中で、
眠ってしまいました。あなたの
声をききつけて、びっくりして
目をさましたのです。」といいました。
老いざるは、ふたりに、
使いを
頼みました。きつねは、
洞穴にいるくまのところへ、そして、りすは、
谷川のところで
獲物を
待っているであろうおおかみのところへいくことにしました。
りすは、いきがけに、
老いざるを
振り
向きながら、
「ぶどうは、すこし
過ぎたが、まだいいのがあります。かきもなっているところを
知っていますし、くりや、どんぐりや、
山なしの
実など、まだ
探せばありますから、かならずいい
宴会ができますぜ。なんといっても、これから、
長い
冬に
入るのだから、うんと一
日みんなで
仲よく
遊びましょうよ。だいいち、この
山にすむものの
好みですから、おそらく
不賛成のものはありますまい。」といいました。
同じく、
異った
道の
方へいきかけたきつねは、
「そうとも、たとえ
人間ほどに
道理がわからなくとも、
俺たちにだって
義理はあるからな。」といいました。
「
人間の
義理なんて、あてになるもんじゃないよ。」と、りすが、
小さな
頭を
振りました。
「そんなことはない。」と、きつねは、
人間の
弁護をしました。
「じゃ、
律義もののくまや、
勇敢なおおかみが、
人間を
助けたことはあるが、
人間は、どうだ、くまや、おおかみを
見つけたが
最後殺してしまうだろう。」と、やっきになって、りすがいい
張りました。
すると、
老いざるは、
笑いながら、
「こんどは、
人間ともお
友だちになろうさ。」といいました。
「そういうさるさんだって、
人間からは、さる
智恵といって、けっして、よくはいわれていませんぜ。」と、りすがいうと、さすがのさるもきまりの
悪そうな
顔つきをしました。
「そんな
話はどうだっていい。まあ、
早くいってこよう。」と、きつねがいったので、りすは、
一飛びに
谷の
方へ
駆けていきました。
峠の
上には、一
軒の
茶屋がありました。
夏から
秋にかけて、この
嶮しい
山道を
歩いて、
山を
越して、
他国へゆく
旅人があったからですが、もう
秋もふけたので、この
数日間というものまったく
人の
影を
見なかったのであります。
茶屋の
主人は、
家族のものをみんな
山から
下ろしてしまって、
自分だけが
残り、あとかたづけをしてから
山をおりようとしていました。
雪が
見えて、また
来年ともなって、
木々のこずえに
新しい
緑が
萌し、
小鳥のさえずるころにならなければ、ここへ
上がってくる
用事もなかったのでした。
彼は、
費い
残りのしょうゆや、みそや、
酒や、お
菓子などの
始末もつけなければならぬと
思っていました。
「また、きょうも
人の
顔を
見なかったな。」
そのとき、
障子の
破れ
目から
吹き
込んだ
風は、
急に
寒くなって
身に
浸み
入るのを
覚えたのでした。
「どこか、
近くの
山へ
雪がやってきたな。」と、
主人は、
思いました。そして、
明日の
朝にでも、
外へ
出て、あちらの
山を
見たら、
白くなっているであろうと、その
山の
姿を
目に
想像したのでした。
音ひとつしない、
寂然としたへやのうちにすわっていると、ブ、ブーッという
障子の
破れを
鳴らす
風の
音だけが、きこえていました。
「
去年も、この
月半ばに
山を
下りたのだが、
今年は、いつもより
冬が
早いらしい。」と、
主人は、
立って、
窓の
障子を
開けて、
裏山の
方をながめました。
夕日は、もう
沈んでしまって、
怖ろしい
灰色の
雲が、
嶺の
頂からのぞいていました。このとき、キイー、キイーとさるのなき
声がしたので、
彼は、
雪が
降って、
山奥からさるが
出てきたのを
知りました。そして、まだ
鉄砲の
手入れをしておかなかったのを、
迂濶であったと
気づいたのです。その
翌日、
昼すぎごろのこと、
入り
口へなにかきたけはいがしたので、
見ると
怪物が
顔を
突き
出していました。
主人は、びっくりして、
声も
立てられずにしりもちをつきました。なぜなら、
意外にも
大きなくまだったからです。
彼は、もう
命がないものと
思い、
体じゅうの
血が
凍ってしまいました。
「どうぞ、お
助けください。」と、
心の
中で、ひたすら
神を
念じたのでした。
けれど、くまは、すぐに
飛びかかってはこなかった。かえって、なにか
訴えるような
目つきをして、
手にはかきの
木とまたたびのつるを
握っていました。そして、いよいよくまが、
彼に
危害を
加えるためにやってきたのではないことがわかると、
「
命さえ
助けてくれたら、なんでもきいてやるが。」と、おそるおそる
顔を
上げて、
彼は、くまのすることを
見たのでありました。くまは、さも
同意を
求めるように、ただちに、
酒だるの
前にきて、じっとそれに
見入っていたのです。
「ははあ、
酒がほしくて、やってきたのか。」と、
主人は
悟りました。
「もし、
俺が、
酒をやらなければ、くまは、きっと
怒って、
俺をかみ
殺すにちがいない。どのみち
敵だ! いっそたくさん
酒を
飲ませて、
酔いつぶしてから、やっつけてしまおうか?」
主人の
頭の
中には、この
瞬間、すさまじい
速力で、さまざまな
考えが
回転しました。
「ばかな、この
大きなくまに
思う
存分、
酒を
飲ませるなんて、そんな
酒がどこにあるか。
神さまは、この
瀬戸際で、
俺が、どれほどの
智恵者であるか、おためしなされたのだ。まず、この
高い
酒をやらぬ
工夫をしなければならぬ。」
彼は、もうすっかり
打算的になっていました。たなの
上から
徳利を
下ろして、
奥へ
持ってはいると、やがてもどってきてたるの
酒をうつすようすをして、
徳利を
振ってみせました。
酒が、チョロ、チョロと
音をたてて
鳴りました。くまは、
信ずるもののように、おとなしくしていましたが、やがて
持ってきた、かきとまたたびをそこへ
捨てると、
徳利を
抱えるようにして、まるまる
肥ったからだで、
前の
山道を
後をも
見ずに、
駆けて
去りました。
長年山に
住んでいて、
獣物にも
情けがあり、また
礼儀のあることを
聞いていた
主人は、くまが、
酒を
買いにきたのだということだけはわかったのです。
「なにか、
山の
中で、
獣物たちの
催しでもあるのかもしれない。」と、
思いました。
それよりか、
自分が、
損をせずに、うまく
危険から
脱れたことを
喜んだのでありました。
「
長く
山にいると、ろくなことはない。
早く
村に
下りよう。」と、
主人は、
考えました。
この
日、
山の
獣物たちは、
老いざるの
指揮に
従って、
行列を
整えて、
嶺から
嶺へと
練って
歩きました。
先頭には、かわいらしいうさぎが、つぎにおおかみが、そして、
徳利を
持ったくまが、きつねが、りすが、という
順序に、ちょうど、さるが、
岩の
上で
見た、
天上の
行列そのままであったのです。ことに
人間が、
足跡を
絶ってから、まったく
清浄となった
山中で、
彼らは、あわただしく
暮れていく、
美しい
秋を
心から
惜しむごとく、一
日を
楽しく
遊んだのでありました。やがて、
彼らの
列がある
高い
広場に
達したときに、かつて
天上の
神々たちよりほかには
知られていなかった
芸当をして、
打ち
興じたことでありましょう。
そのころ、
峠の
茶屋の
主人は、そそくさと
山を
降りる
仕度をしていました。
酒だるの
上には、くまが
置いていった、かきや、またたびまで
載せてありました。
村へ
帰ってからの、
自慢話にするのでしょう。そして、もう
来年の
夏、
客があるまでは、この
小舎にも
用がないといわぬばかりに、
閉めきった
戸の一つ一つに、ガン、ガンとくぎを
打ちつけていました。
彼は、
金鎚をふり
上げながら、
「
酢に
水を
割って
入れてやったが、
獣物たちは、
酒の
味がわかるまいから、たぶん
人間は、こんなものを
飲んでいると
思うことであろう。それとも
酒でないと
悟るだろうか?」
山は
静かであり、
木々の
紅葉はこのうえもなく
美しかったが、
独り
彼はなにか
心におちつかないものを
感じたのでした。
峠を
降りかけると、ざわざわといって、そばの
竹やぶが
鳴ったので、くまが、
復讐にやってきたかと
足がすくんでしまった。しかし、それは、
西風であって、
高い
嶺を
滑った
夕日は、
雪をはらんで
黒雲のうず
巻く
中に
落ちかかっていたのです。