あるところに、
母と
子と
二人が
貧しい
暮らしをしていました。
少年の
名を
幸三といいました。
彼は、
子供ながらに
働いて、わずかに
得た
金で
年老った
母を
養っているのでありました。
彼は、
朝は、
早く
勤めに
出かけて、
午後は、
晩方おそくまで
働いて、
帰りには、どんなに
母が
待っていなさるだろうと
思って、
急いでくるのをつねとしていました。
わざわいは、けっして、
家を
撰び、その
人を
撰ぶものではありません。
母親は、
病気にかかって、いままでのごとく、かいがいしく
出かけてゆく
我が
子を
見送り、また、
晩方は、
夕飯の
仕度をして
待つということができなくなりました。そして、
母は、
床についたのでありました。
幸三は、どんなに
心配したでありましょう。
小さいときから、まごころのかぎりをつくして
育ててもらった、なつかしい
母を
思い
出して
悲しまずにはいられませんでした。
彼は、どうかして、はやく、
母の
病気をなおしたいと
願いました。
会社にいて
働いている
間も、たえず
心は、
家へひかれました。そして、
社が
退けると
走るようにして
帰り、
母のそばにいったのであります。
少年の
思いは、とどかずにはやみませんでした。一
時重かった、
母の
病気もおいおいにいいほうへと
向かいましたけれど、
衰弱しきったものはもとのごとく
元気になるには、
手間がとれたのであります。
幸三のもらっている
給金だけでは、
思うように
手当てもできなかったのです。
彼は、それを
考えると、
悲しくなりました。
「
自分は、どんなに、つらい
働きをしてもいいから、どうかして、お
母さんをはやくなおしてあげたいものだ。」と
思いました。
ある
日の、もはや
暮れ
方のことであります。
途すがら、
少年は、
暗い
思いにふけって
歩いてきました。
そこは、つねに、
車や、
人の
通りのはげしいところでした。
空は、
雲っていて、
下の
水の
上には、
荷を
積んだ、
幾そうかの
船が、
黒い
影を
乱していました。そして、
雑沓する
道からは、
喧騒な
叫びがあがり、ほこりが
舞いたっていました。その
間を
少年は、とぼとぼ
歩いてきたのです。
彼は、
橋の
上にくるとしばらく、
立ち
止まって
欄干によって、
水の
上をぼんやりとながめていました。
「
思うように、
親に、
孝養をつくされる
人はしあわせなものだ。」と、
彼は
思ったのでした。そして、
目の
中に、
不しあわせな、
貧しい、
自分の
母の
姿を
描いて、
気の
毒に
思わずにはいられなかったのです。
彼は、
空想からさめて、ふと
橋の
欄干に
目を
落としますと、
自分から、
数歩隔たったと
思われるところに、あまり
目につかないほどの
小さな
紙きれがはってありました。そして、それには、
「
悲しむものは、ガードについて
南へゆけ。」と
書いてありました。
幸三は、これを
見て、ガードの
方を
仰ぎますと、
頭の
上には、
高架鉄道のレールが
走っていて、
長い
堤がつづいていました。そして、
堤の
下には、
穴倉のようになって、
倉庫が
並んでいました。
彼は、
狭い
路次をはいって、
堤についてゆくと、ところどころにガードがあるのでした。
彼はどこへいったら、
自分の
希望が
見いだされるのかと
考えました。
人々や、
馬車や、また
自動車は、
無心にガードの
下を
通っていましたが、
幸三は、一つのガードの
下にくると、もう
古くなって
割れめのはいったれんがや、
青くこけのついたれんがのまじっている
壁を
子細に
見上げました。すると、そこには、
小さな
紙きれがはってあって、
「まじめに
働こうとするものは、
南へゆけ。」と、
書いてありました。
晩方の
空は、
曇っていました。おりおり、
思い
出したように、
高架線の
上を
汽車や、
電車が
音をたてて
走ってゆきました。
幸三は、
堤について
南へゆきますと、
両側に、
倉庫ばかりの
建ち
並んだところへ
出ました。
そのうちの一つの
倉庫のとびらに、やはり
小さな
紙がはってあって、
「このとびらを
押せ。」と、
書いてありました。
幸三は、
探偵小説にあるような
場面だと
思いながら
勇気を
出して、そのとびらを
押しました。すると、
鈍い
音をたてて、そのさびたとびらは
暗い
奥の
方へ
開きました。
暗い
内部には、
電燈がともっていました。そして、だんだんと
下の
方へ
深くなっていて、
地下室になっていました。
彼は、
段を
降りかけました。すると、
下に、
一人の
労働服を
着た
少年がじっと
彼の
降りてくるのを
見つめていました。
「なんで、こんなところへきたんですか?」と、
少年の
労働者は、たずねました。
幸三は、
働いて、
自分の
希望を
達したいと
思って、
紙きれをたよりにたずねてきたことを
話しました。
「そうですか。しかし、あなたでは、
仕事が
骨がおれてつとまりますまい。たいていの
大人がやってきてさえ、
辛抱がしきれずにいってしまうのです。
仕事というのは、ほかでもありません。ここに
積み
重ねてある
鉄板を
奥へ
運ぶのです。なかなか
力がいって、
疲れますが、あなたがなさる
気ならやってごらんなさい。」と、
少年の
労働者は、いいました。
いかにも、その
少年は、ものいいがはっきりとしていました。そして、
美しい、
清らかな
目をしていました。
幸三は、なつかしげに、
自分と
同じ
年ごろの
少年を
見ながら、
「
君にできる
仕事なんですか?」とききました。
彼は、その
少年にできることなら、
自分にもできないことはないと
思ったからです。
「
僕に? できますとも、すこし
慣れればなんでもありませんよ。」と、
少年は、いきいきとした
目つきをして
答えました。
「じゃ、
私も、やってみます。」
幸三は、そこにあった
重い
鉄板に
両手をかけました。しかし、それは、
容易に
持ち
上げることすらできないほど、
重かったのでありました。
「
社長にいって、あなたのことを
話しておきますから
······。」といって、
少年の
労働者はあちらへいってしまいました。
幸三は、一
枚の
鉄板をあちらに
運ぶのに、どれほど、
努力しなければならなかったでしょう
······。
冷たいコンクリートの
上を
歩いて、あちらまで
運ぶのに、
幾たび
鉄板を
足もとに
置いて
休んだでありましょう。そして、しまいには
疲れて、つまずき、
危うく、その
重い
鉄板で
足を
砕こうとしました。また、その
間に、
彼は、
幾たび、そこから
逃げ
出そうかと
思ったでありましょう。
しかし、あの
少年の
労働者に
笑われるかと
思うと、
自から
自分の
意気地なしを
恥じて
勇気を
出して
思いとどまりました。
彼は、とうとう
最後の一
枚を
運び
終わったときには、がっかりとして、
冷たい
床の
上に
倒れてしまいました。
そのとき、
少年の
労働者がやってきて、
彼の
体を
抱き
起こしながら、
「
君は、ほんとうに
偉い。たいていのものは、
我慢がしきれずにいってしまうのだが、
君には、ほんとうに
感心させられてしまった。
少年ばかりじゃない。
大人だって、たいてい
辛抱がされずにいってしまうのだよ。さあ、こちらへきたまえ。
社長さんに
紹介するから
······それは、よく
解った、しんせつな
人だから、きっと
君のしたことに
感心してしまうよ。」といって、
先に
立ってゆきました。
幸三は、
疲れた
体が
急に
元気に
満ちました。つづいて、あとからゆくと、もう一つとびらが
閉まっていました。
先に
立った、
労働服を
着た
少年は、とびらを
押すと、それが
開いて、
中には、
人のよさそうな
老人が、テーブルに
向かって
書物を
見ていました。
幸三は、どんな
人かとおそるおそるはいってきたのでした。きっと
社長という
人は、いかめしい
顔つきをしていると
思ったからです。それが、こんなに
人のよさそうな
年寄りであったので、
急に、いい
知れぬ
懐かしみを
感じました。
「これが
社長さんだ。いま、お
話した
少年はこの
人です
······。」と、
小さな
労働者は、
二人を
紹介しました。
幸三は、
広いへやのうちに、あまり
人数が
少なく、
社長と
少年の
労働者ばかりなのを、なんとなく
不思議に
感じたのでありますが、もう
時間がたっているので、
他の
人たちは、
家に
帰ってしまったからであろう
······と、
心に
思ったのでした。
少年は、テーブルのそばに
立って、
幸三が、
重い
鉄板をみんな
運んだことを
年老った
社長に
向かって
話したのであります。そして、
疲れて、
倒れたことも
告げたのであります。
老社長の
柔和な、二つの
目は、
眼鏡の
内からレンズをとおして、じっと
幸三の
上に
注がれていましたが、
少年の
言葉を
聞くと、さも
深く
感動したようにうなずきながら、
「どうして、こんなところへきて
働く
気になったのだ。」といってたずねました。
幸三は、
母が
病気をしたことから、十
分養生をさせることが、
自分の
力で、できなかったことを
答えました。
これを
聞いた、
年老った
社長はもとより、
少年は、
大いに
感じたのであります。
「どんなにか、
平常しつけなかった
力仕事をして、
疲れたろう。さあ、これを一
杯飲みなさい。」といって、
社長は、コップに、ぶどう
酒を
注いでくれました。
それは、
甘い一
種の
酒でしたが、
不思議に
気持ちのよくなるのを
感じました。
「またくるがいい。
今日は、これでお
帰り。
雨が
降っているようだから、この
子供に、
家まで
送らせよう
······。」と、
年老った、
社長はいいました。
幸三は、
暮れ
方の
曇っていた
空が、いつのまにか
雨となったのに
気づきませんでした。
少年の
労働者と
二人連れだって、
彼は、
地下室から
外へ
出ると、そこに、一
台の
自動車が
待っていました。
「これは、
会社の
自動車なんだ。
社長がいったのだから、さあ
乗りたまえ。」と、
少年はいいました。
幸三は、かつて、こんな
自動車に
乗ったことはありません。しかし、こういわれると
辞退しきれずに
乗りました。
自分のそばには、
青い
労働服を
着た
少年が
腰をかけました。
雨は、しきりに
降って、
窓のガラスにかかりました。
自動車は、
走って、いつしか
明るい
街の
中を
走っていました。
青々とした
街路樹に
風があたって、そこにも、ここにも、
緑の
波を
打っていました。そして、
雨脚が、
白い
銀の
線を
無数に
空間に
引いていました。
幸三は、
平常自分が
歩いている
街に、こんな
美しい
街があったことを
思い
出すことができませんでした。
「
君、ここは、いったいどこなんだろうね。」と、
幸三は、
少年にたずねました。
「
A町だよ、ちょっとここで
止めてもらうんだ。」と、
少年はいって、
自動車を
止めさせて、
自分だけ、
車から
降りると、
片側にあった、
明るい、
美しい、いろいろのかんや、びんを
並べた
店へはいりました。
雨は、しだいに
小降りになってきました。
少年は、
両手に、四
角のかんや、びんを
包んだのを
抱えて、
自動車にもどってきました。
「これは、
君に、
働いてもらったお
礼なんだ。
帰ったら、
君のお
母さんにあげてもらうように、
社長さんからいいつかったのだよ。」と、
少年はいいました。
幸三は、
自分の
働いたことが、これほどの
報酬に
値するとは
思われなかったので、すまぬ
気がして
受け
取ることをためらっていますと、
「
君のような
人なら、いつでもきて
働いてもらいたいと
社長はいっていたから、
気が
向いたら、やってきたまえ。」と、
少年はいいました。
いつしか、
自動車は、
幸三の
家の
近くにきました。もう、これより
先へは、
自動車のはいれないところまできましたので、
幸三は
降ろしてもらいました。
彼は、
母に、いい
土産を
持って
帰ったのを
喜びました。
それは、
会社で、
社長に
飲ましてもらったようなぶどう
酒に、
滋養になりそうな、
肉のかんづめでありました。
母の
体は、もとのように
達者になりました。
幸三は、その
後、一
度、
倉庫に
少年をたずねて、いろいろとこれからの
身の
上のことについて
物語ったり、また、
年とった
社長にもお
目にかかって、お
礼を
申したいと
思いましたので、ある
日のこと、その
上に
立って
水の
面を
見つめながら
考え
込んだ、
橋を
渡り、ガードを
左に
折れて、
南の
方をさしてゆきました。
同じような
倉庫が
並んでいるので、どれがそれであったかと
迷いましたが、たしかに、それと
思った
倉庫のとびらの
前にたたずみ、やがて
押して
開きました。すると、
内部に
電燈がともって、その
下に三
人の
男が、
鉄板を
運んでいました。
男たちは、
幸三の
顔を
見ました。
彼は、
少年にあいたいと
告げました。
「そんな、
子供は、ここにはいない。」と、
男の
一人がどなりました。
幸三は、
倉庫がちがったのでないかと、あたりを
見まわしますと、
番号も
同じければ、すべての
記憶が
同じでありましたから、
社長にお
目にかかって、
少年のことをたずねようと
思いました。
「
社長さんに、お
目にかかりたい。」といいますと、
「
社長が、こんなところにいるものか。」
「おまえは、
社長を
知っているのか?」
働いている
男たちは、
口々にいって、
不思議そうに、
幸三をながめたのです。
「
知っています。
年寄りで、
眼鏡をかけて、ひげの
白い
方です
······。」
「どこで、
見たんだい。」
「この
奥に、テーブルに
向かっていられました
······。」と、
幸三は
答えました。
男たちは、
大きな
声を
出して
笑いました。
「
俺たちも、まだ
社長を
見たことはないが、なんでも
若いということだ。それにこの
奥には
人のいるへやなんかないはずだ。おまえは、どうかしているな。」と、
彼らはいって、また
笑いました。
彼は、
驚いて、あたりを
見まわしますと、あちらの
壁板に、
老人と
少年労働者の
画がはってありました。
幸三は、
飛び
立つばかりに、その
画のところへ
走ってゆきました。
「あ、これだ!」
三
人の
労働者は、そばへやってきました。
「これは
偉い
人だぜ。
正しい、
貧しい
人の
味方なんだ。おまえは、この
人の
名を
知っているのかい。」と、
彼らは、たずねました。
幸三は、
黙って、うなずいて、
涙ぐみながら、
外の
方へと
出てゆきました。
||一九二五・八作||