われと来て遊べや親のない雀
痩蛙まけるな一茶是に有り
痩蛙まけるな一茶是に有り
それはともかくとして、その書であるが、素質的にいって、大徳寺代々のうちでの随一の能書家(これは私の独断であるが)
しかし、これらのうちで、一茶の書には、一番に下手物的な装わない心境直写の妙相をたたえているように思う。有欲といい、また、無欲というとも、要するに一茶においては、どうあってもいいのだろう。
一茶の書に今一倍気品があり、そして、同時に気力があったら、どんなに立派であったろうか||などという人も中にはあるようだが、私は一茶の書には、むしろそれがないのが、その真実ではなかろうかとするものである。一茶の書を見ると、第一にその情味において、人の涙をそそるものがある。そこで、どんな気格の高い他の人の書に出会っても、それはそれで少しの引け目を感ぜずに、その内容の個性味を、どこまでもはっきりと押して行っているのである。
申すまでもなく、芸術は要するにその内容である。内容というのは、その個性である。書という芸術も、最後はその真情に発したものでなくてはならない。仮りにそれが真情に発し、そして俗態を
出るものが故障なく出る。書はそれでいいのである。いわゆる技巧的にも、心理的にも、その灰汁だとか、濁りだとかいうようなものが、きれいに取り除かれたならば、そこに出るものは、必ずその人の一番美しい本来の相でなくてはならない。
一茶の書のあの捨てがたい風味とか、風韻とかいうものも、実はそれに他ならないのである。
(昭和六年)