中国の青磁と染付、朝鮮の高麗青磁、日本の古瀬戸、この中、中国と朝鮮はすでにお馴染みかも知れないが、古瀬戸の陶印に至っては珍とする人があろう。
私に篆刻の研究及び心得があるという理由で、大きな顔して批判するのではないが、私の観るところ、この中日本製印が一番芸術的に優れていると思う。
私はいつもいうが、中国や朝鮮は芝居の馬鹿殿様みたいなもので、その出で立ちが立派なのみで、肝心の内容はてんで空虚なのだから······、こちらが相当な人間である限り、膝を交えて永く親しみ、かつ、敬するわけにはゆかないのだ。こちらの眼が真に日本美術を認識するに及んでは、義理にも、もはや中国、朝鮮と一緒に交遊するわけにはゆかなくなる。陶器など内容的に殊に物足りないからだ。
書でも、画でも、彫刻でも、その他なんであろうと、日本の如く内容の力、すなわち、国民性的人格、それに具わる幽雅にして含蓄有る美しさをもったものは、中国にも朝鮮にもない。陶磁器においても勿論ご多分に洩れない。日本の物は、ちょっと見が華々しくないが、長く玩味するに及んで達人の味が出て来る。
私はかつて書道に没頭したこともあるが、最初は世間並に中国に非ずんば夜も日も明けない時があった。それが段々深入りしてから六朝、隋、唐などは先ず良しとして、その後の書というもの、実は風采ばかりなのだということに気がついた。かくして日本の上代書に眼が開き、日本の高僧偉傑の墨蹟に親しみを覚え、惹きつけられる時は、もはや明代あたりの書は物の数でなくなって、自然敬遠せざるを得なくなった。こうなって来ると、形や様式の美は全く芝居のお殿様であることが次第に判って来る。そういえば、なるほど名君といわれるには、人間として内容の優れたものが入用なはずだ。書においてもその通り、なんだってその通り。この場合、万法帰一をいくら振り廻してもよい。
ここに掲げた陶磁印の見方も、その大義は少しも変るものではない。篆刻なども中国かぶれの病的時代は、篆刻は中国に見るのみと安心しているが、いずくんぞはからん、日本上代の
中国に見るべき篆印は、秦、漢、魏、六朝の時代である。
明代や清朝になっては、書画篆刻なにもかも無精神の
こんなことなど是非とも識っておかねばならぬのは今の日本画家であるはずだが、遺憾ながら、今の日本画家中、篆刻の鑑識、同時に捺印意義を解する者幾人ありやと、指を折って見ても、失敬だが一人も出てこない。画家という画家みながみな無我夢中で、わけもなく習慣の跡を追って、画面に理由なく捺印しているまでだ。しかも、その印の捺し方さえなんら知るところがない。定木を当てて捺すことによって、安心しているようなのが多い。現今の画人中特に優れた天分を有する
(昭和十年)