柳さんの書かれた手紙の字、すなわち、その書というものは、遺憾ながら私の見たところによると、いわゆる氏の理想とされる民芸の感覚からは遠く離れたものである||と断ぜざるを得ない。
民芸の美はなんといっても無邪気で、素直であるというところにある。有心の影を宿してはいけない。作意の濁りがあってはならない。柳さんの書、果して無邪気であるだろうか、素直であるだろうか、または無心であるだろうか。
柳さんほどに、その自分の議論に、自分と自分で名論の匂いをふりかけて喜んでいたならば、その書かれる字なぞ、当然の議論を裏付けて、然るべく、その民芸精神を反映しなければならないはずである。
然るに、柳さんの書たるや、その持論とは全く遊離して、意外にも普通の誰でもが心踊るような字のうまさを狙っているところが充分に見えているばかりか、時にはそれが一種の色気とさえなって、その字相を乱して平然、また、
柳さんのいわれる「民芸の美」の要素が、たとえ一般的にその水準を低めたものであってもいいから、その字の中に、性情として、風格として、それぞれ然るべく窺われることができるようであったならば、その民芸論をして、他のどの部面へ擬着させても、決してその人において疑わしくはないのであるが、残念にも柳さんはまだその知ることと、することにおいて、全く背中合わせである。
それに柳さんには「在ってならないもの」の一つであるきつさなるものが、その字の脈の中に脈打っているようである。このきつさというものは、善い意味での強さではない。善い意味の強さというものは、その個格の存立を安定づける立派な要素となるが、それが単にきつさであるかぎりにおいては、むしろ非中道的なうるささを加えるのみである。
然らばこれを具体的にいって、柳さんその人に、その民芸論の手前、どのくらいの字を書いたらよいかということになったとすれば、要するに私は、柳さんにはせめて俳人一茶ぐらいの字が書けてほしいのである。そして、それから改めて民芸論をやってもらいたいのである。
いわゆる下手物皿に見られる字に留意せられよ。いうまでもなく、それは決して「識字の陶工」の字ではない。ただ全く平凡無名の「民芸工」の手になったものである。がしかし、その字の性質を柳さんのそれと比べる場合、「そもこれをいかん」といいたくなるのである。
今日、すぐさま柳さんに、せめて一茶の字、
つまり、私はそこまで、そのいわれたり、また、考えられたりしている事を、実証させて行って欲しいと願って止まないのである。
生活のうちに、その精神を肉化させてこそ、はじめて民芸論も本格である。少なくとも柳さんの議論から推して行けば、それ以外に、民芸はその全職能のつくしようも、また全価値の評価のしようもないわけである||と思われる。柳さんの民芸論から、その実証的な部分を取り去ったとしたら、仮りにどれだけのものが残されるであろう。
私がここに甚だ失礼ではあったが、取敢えず氏の手紙の字を借りて、当事的に難点を挟もうとしたゆえんも、要するにこれを措いて他にない。乞うこれを諒とせられよ。
(昭和六年)