暦の上では、もう初秋だとは云ふものの、まだ残暑がきびしく、風流を心にたゝむ十数人の男女を打交へた一団にとつて、

「情死でもあつたのかな、こいつは」と、心でそんな想像をしてみたりしながら、予定されてあつた座に着いたのである。二間をぶつ通した天井は煤けた上に実際低過ぎた。かうした落着いた会席ではあるものの、世故を離れた虚心坦懐な気持で、冗談の一つや二つ飛ぶのは当りまへである。さうすると、男女の笑ひさゞめく声が、しばらくの間、低い天井下の空間に満ちわたり、おのづから此方へも微笑を強要してくるに違ひないのだが、さて、微笑を洩らすうちにも、一枚頑固に剥ぎとれないものは、くすんだ悒鬱である。
夕陽は影をひそめたかして、部屋の隅々が仄かな陰を漂はせはじめ、人と人との間には、親しみをひとしほ濃やかならしめるやうな陰影が横たはつてゐることを感じた。さつき誰か起ち上つて紙片をなげしへ貼りつけたやうに思つたが、その紙片の文字に眼をとめて見ると、この句筵の課題が示されてゐるのであつた。その課題により、まづ案じ入らうとしてじつと心を落ちつけようとすると、仏臭い線香の匂がぷうんと鼻を掠めた。見るともなく座辺に眼をとめると、蚊遣線香が窓内へ置かれてある。
秋を剃る頭髪 土におちにけり
と、こんなのが一つ出来あがつた。現在の呼吸に直接するものではなく、山寺かなにかの樹蔭で、坊主頭に、髪を剃りこくつてゐる、極端に灰色をした人生が思ひに浮んだのである。しかし、これは現在こゝろざすところに、余りにも遠く離れすぎてゐるものなので、別に心へとゞめることとして、あらがねの土秋暑き通り雨
を得てこの方を切短冊へ認める。掛軸からぬけ出したやうに、歌麿式の凄艶な容姿の
身ほとりにたゝみて秋の軽羅かな
の一句を得た。しばらくすると、又、街裏の布施ひそやかに秋暑かな
これは、街並として余り繁華でもない裏通りの、とある一戸で、行脚托鉢の者に、女房などがひそかにお布施してゐる、折柄残暑どきで、午後の日影がオレンヂ色に漲り、その光景をくつきりと浮み出してゐる。そんな場合が念頭に浮び上つたものであつた。「陰暦何日ごろになるのでせうかしら。」
側にゐた清楚なすがたをした年増の女性が誰に云ふともなく、暮れゆく窓の空を仰ぎ気味に私語した。陰暦何日頃になるのか、その女性も、悒鬱で、陰惨な感じさえそく/\と身を襲ふところから、耐へがたく窓外の空にぽつかり麗はしい月でも浮び上るのを望んだことであらうと推測された。しかし、明月はおろかのこと、さつきから煙のやうな糠雨が舞つてゐることを、ひどい近眼のその女性は知らずにゐたのである。
「雨が降りだしましたな。」
と、茶黒い
「この壁の色は?」
と、しばらく後の言葉を継がずに、じつと眺め入つた。さうして、かすかに唸るやうな語気を帯び、
「妖怪めいた感じを与へるものすごいものですな、これは。この天狗の羽団扇みたいな八ツ手を印したりした風情も。」
と、それとなく私を顧みた。私もそれを肯いた。古代の墳墓を発掘すると、その内壁面が一種の朱泥に塗りつぶされてあるのに出逢ふことがある。その、くすんだやうな永遠の色ともいふべき暗澹たる

古墳発掘
春仏石棺の朱に枕しぬ
かげろふや上古の瓮 の音をきけば
といふやうな作品を得たことが、まざ/\と念頭に甦るのである。現実に程遠い幾世紀かのかなたにある様相が、唐突にも眼前へまざ/\と展開をしめすのは、うべなはるべき感覚の真実さであるに相違なかつた。蚊遣香のにほひが、またひとしきり強く漂つてきた時、窓の外で、何やらこと/\と不祥事を予感せしめるやうな音が伝はり、さきの齢老いた
「この野郎また捕つてきやがつた。」
しかし、世に何でもなく、この言葉が現実の塵一つ動かすほどの力のものではないやうな平凡極まる響のものだつた。
「何を捕つたのだらう?」
言葉には出さずに、さう心が動いた。詩美の探求に一心不乱であつた私の水のやうに静かであつた心が、にはかに現実的にめざめ、すぐ眼の前に窈窕たる女性が、これも同様に柳眉を寄せ、深く考へこんでゐる顔を眺めた。さうして、他の老女をも、床壁を見入つた老作家をも、老女の陰に柱へ
「野郎!」と、老爺はまだ何かぶつ/\言つてゐる。
シェパードと云ふ獰猛な家畜が、不図強く頭へ来た私は、耐へがたくなつて座を起ち上らうとすると、女性たちも老作家も矢張りそれと感付いたかして相前後してたち上り、薄暮の
「やあ、猫を捕つて来た。」
「こんな大きな
と歎声を上げ、喫驚仰天した。白毛と黒毛が
「こんな光景に私は産れてはじめて接した」と、驚いた儘の正直の表情でその通りを告げて私が退いたあとへ、十数人の風流に遊ぶ文人墨客が犇々とつめかけて来て、たちまち窓を蔽うてしまつた。人々のなかには、誇張して驚きの声をあげる者もあるし、ものの奇異とも思はず笑ひながらシェパードの特性を称讚するものもあつた。
私の妙に陰惨な悒鬱の感情は、なにかこれで一くぎりされたやうな状態にあつた。さうして、即興の一句を静かに切短冊へしたゝめた。
秋暑く家畜にのびし草の丈