たえ子はその
たえ子がこゝへ嫁いでから、彼是一年近くになつてゐた。勿論それは偶然の||と謂つても、今の世のなかで善良な普通の家庭に於ける結婚を取決める場合に、
彼女自身もそれに不足のある筈もなかつた。幸福な運命の一つを
そんな事が長く続かうとは思はれなかつた。結婚前からの惰勢か、悪友の誘惑か、でなければ酒のうへの気紛れに過ぎないのだと思はれたが、心配をする段になれば際限がなかつた。その上結婚当時の
「男はみんなかうした
考へると際限はなかつた。たえ子は今まで
「私今夜はちよつと用達しに出ますから、お留守をしてゐてちやうだいね。」
たえ子はお春に
暫く外へ出ない間に、世間がめつきり春めいて来たやうに思へた。ひつそりした
たえ子は音楽が好きであつた。容貌などに自信のないところから、一時は音楽家として世のなかに立たうかとさへ思つたこともあつたが、田舎の家の事情が、さう長く学校に通ふことを許さなかつた。自分が音楽の天才でないといふ
静かな町を三四町も行くと、そこがもう電車通りであつた。たえ子はその間も今電車から降りて来たらしい洋服姿の
電車は相変らず満員であつた。たえ子は込合ふ乗客のあひだに、辛うじて
電車はいつか白山をおりて、柳町から春日町を経て、水道橋の
前からも微かに感じてゐたことではあつたが、たえ子は其の時ふと暗い蔭になつてゐる右の方の手先に何やら這寄るやうな不思議な触覚を感じて、無意識的に


たえ子は何となし軽い衝動を感じたが、同時に釣革を左の手に持替へた。節々のしなやかな、小いその手は、黒い絹の手袋に裹まれてゐたが、暫らくすると、下げた方の右の手に、同じやうな触覚が感ぜられた。そして其の瞬間、強い握力を感じた。
たえ子はかつとしたやうな
二つ目の停留場へ来たとき、ちよつとした目配せに、全く支配されたものゝやうに、たえ子は人を掻別けて行く青年の後につゞいて、電車をおりてしまつた。
「こつちへ行つて見ませんか。」
今更極悪さうに彼が言つたやうであつた。たえ子は夢幻のやうな気持で
水は音もしないで、静止したやうに星の影を
「貴女こゝでおりても
たえ子は先刻から胸をわく/\させてゐたが、自分の今置かれた位地ははつきり過ぎるほど意識してゐた。勿論侮辱を感じない訳にはいかなかつたが、それを耐え忍ぶことは大した苦痛でもなかつた。その上それはそんなに思ひがけない事ではなかつたやうにすら感ぜられた。
「いゝえ。」たえ子は微かに
「どこへ行くんですか。」
「四谷まで行かうと思つたんですけれど、もう遅いでせうね。」
「四谷ですか。」
「四谷の本村なんですの。」
「さう、もう十時半ですからね。」
「まあ······もうそんなですかね。」たえ子は心安さを示すやうな調子で言つた。
「四谷は貴女の家なんですね。」
「いゝえさうぢやございません。
「小石川から四谷ぢや大変ですね。それに今夜は
「えゝ。さうね」と、たえ子は笑つて、「失礼ですけれど、貴方学生さんでせうね。」
「え、××大学生ですが、安心してゐらして下さい。」彼も声に出して笑つた。
「それは可いんですけれど、何だか悪いですわね。」たえ子は
二人は河岸に立つて、ぽつり/\そんな話を交換したのち、そろ/\歩きはじめた。
「僕は下町の方で友人と少し飲んで来たんですが、もう醒めてしまつたやうです。お願ひですから御迷惑でも一時間ばかり附合つていたゞけませんかね。」青年は強請るやうに言ふのであつた。
「お酒ですか。」
「え、どこか其処いらのカフエでも何でもいゝんですよ。」
「でも、私何にも存じませんのよ。」
「それあ判つてゐますよ。」
「それに私今夜は、お友達に少し相談したいことがあつて、わざ/\来ましたの。」
「相談つて、何ですか。」
「だつて、初めてお目にかゝつた方に、そんなお話できませんわ。」
「いゝぢやないですか。どこの誰だかも知れないんですから。」
「え······」とたえ子は躊躇してゐたが、「ほんとうにお可恥しい身の上なんでございますの。何うすれば可いか、真実判断がつきませんので、今夜も実は思ひ余つてお友達に御相談に行かうと思つて
「伺はないうちは、問題の性質もわからないですが······若し僕でよかつたら······僕が伺つたつて、為方がないかも知れませんけれど、何なら話して見てくれませんですかね。」
結局二人は、飲食ひをするやうな家を見つけて、そこで話をすることになつた。
たえ子はその晩、
家へ帰つてみると女中はもう戸を鎖して寝てゐたが、良人はやつぱり帰つてゐなかつた。たえ子は寂しい
甘い私語と、秘密の享楽とに、何となし心から昵みきれない、
たえ子は次の火曜日の
翌日の夕方に、良人が帰つて来た。彼は工業学校出の男で、或る大きな会社の機械部にゐたが、収入はたゞ其処から受ける俸給ばかりではなかつた。その晩も彼は酒気を帯びてゐた。勿論カフエか何かで飲んだのであらうと想像された。
たえ子は何だか顔を見られるやうな気がして、気が咎めた。夜が一層不安であつた。良人はいつもの通り、ポケツトから
するうち良人は風呂から出て来て、鏡台の前で、頭髪に香水を振りかけたり、櫛をかけたりしてから、餉台へ来て坐つた。たえ子も伏目がちに箸を執つてゐた。
食事をしながら、
たえ子も夕刊に目を通してから、今日の小使帳をつけなどして、九時を聞くと同時に寝支度に取りかゝつたが、寝所へ行つて、看ると良人はあんぐり口をあいたまゝ、鼾をかいて深い眠におちてゐた。皮膚の黄ろく滞んだ顔に疲労の迹が深く刻まれて、毛孔から汚い分泌物が入染出てゐた。たえ子にはその
一時間ばかりすると、ぱら/\と廂や庭木の葉にかゝる雨の音が耳についた。いつか彼は腹這ひになつて莨を喫してゐたが、たえ子も寝そべつたまゝ、枕頭へ引寄せた飴を口にしながら白い手を延べて髪を直してゐた。
「それあ私だつて淋しいわ。」たえ子は良人の問ひに答へた。
「己ももう止した。売色なんかいくら遊んだつて、あれ限のもんだ。」彼は言ふのであつた。
「あんな巧いことを言つて、また人を瞞さうと思つて。」たえ子は咽喉で笑つて、
「男なんて随分勝手なものだと思ひますわ。外で何をしてゐるか知れやしないんですもの。たゞお酒を飲むだけなら、泊つてくる必要はないでせう。私ほんとに然う思つてよ、夫婦くらゐお互に信用のおけないものはないつてことを。自分の心だつて信じられないことがあるでせう、貴方なぞきつと。」
たえ子は天井を見詰めながら、そんなことを言ひ/\してゐるうちに、自身の表情がいつか暗くなつてゐるのを感じた。そしてそれが良人に何の反応もないことに気がついて、そのまゝ口を噤んだ。
火曜日が来ると、たえ子の心は自然に彼の青年の方へ動いて行つた。
勿論興味を追求して止まないやうな彼女の気分が、或る飽足りなさを感じてゐたことも争はれなかつたが、約束を裏切ることも不安であつた。何時何処で逢つても、差障りのないやうに、別れぎわを
しかし後の企図は全く失敗に終つた。彼女はまた別れぎわに、第三回目を約束しなければならなかつた。
逢つたところは、勿論指定どほりの彼の宏大な建物のなかであつたが、二人は長くはそこに彷徨いてゐなかつた。
たえ子は彼のために万年筆を一本買つたが、やがて其処を出ると、電車で築地へまはつて海岸へ出た。船で水を渡ると、向ふの土地にさうした会合に適当した家のあることを、青年は誰からか教はつてゐた。たえ子は幾度か躊躇したが、そのまゝ別れることは出来なかつた。
青年は野球などの好きな男で、体には若い血が躍動してゐるやうに見えた。そして塩湯へ入つてから、ビールを飲みながら、一つ二つ話してゐるうちに、彼の田舎も相当な資産家であることも知れた。
「あなたも勉強中の体なんですから、こんなことはもう止しませうね。私はそれを言はうと思つて、今日は来たのよ。」
青年はそれに感謝の意を述べた。
「僕にだつて良心はありますよ。」
「でも私もさうですけれど······それは何といはれても為方がないけれど、貴方も、随分大胆ね。」
彼はさすがに紅い顔をした。
「さう言はれちや形なしですね。」彼は笑ひながら
「しかし反応はきつとあるから不思議ですよ。」
「そんな事を言つちや、私厭やよ」たえ子は慍つたやうな目をした。
「貴女の場合は別です。貴女の動機は、寧ろ同情に値ひしますよ。そんな非人道的な人には、復讐してやるが可いんです。僕はそれを思ふと、痛快ですね。」
「貴女の場合なんて······ぢや、貴方は私きりぢやなかつたんだわ。」たえ子は暗い不快な目をして、彼を見た。
しかし黙つてゐる彼を、その上辱しめることは出来なかつた。
時間が流れるやうに過ぎた。そして其処を辞して、ふら/\渡場の方へ出て来た時分には、水の上はもう微暗い夜の色に蔽はれてゐた。繋つてゐる船のうへにも、対岸の人家にも電気がついて、何となし侘しい寂しさが、心に喰入つてくるのを感じた。たえ子は涙ぐましいやうな気持になつてゐた。それは必ずしも感傷的な其の場の気分から来てゐるのではなかつた。あの家を出ぎわに、耳にした、興味半分の青年の自白が、ひどく彼女の幻影を裏切つたからであつた。
実に彼は、そんな経験を屡々してゐるらしかつた。そして興味の対象が、大抵の場合処女であつたことなどを想合せると、たとひ其が深い悪意ではないにしても、其だけに又赦しがたいことのやうに思はれて、たえ子の心は憎悪に燃えた。
たえ子は
ひつそりした海岸の町らしい、宵の築地河岸を、二人は距離をおいて、黙つて歩いてゐたが、やがて明い劇場の
「今度ね、貴女の都合を見て、どこかもつと面白いところへ行きませう。」青年はたえ子に囁いた。
「え、貴方考へてちやうだい。」たえ子は応へた。
しかしやつぱりあの大きなデパートメントストアで落合ふことになつて、乗換場でたえ子は彼と別れた。早くこの不安と悩みから脱れなければと、さう思つた。
次の日が直きに来た。
その頃には、浅猿しい弱点を弄ばれてゐたことが、次第に
たえ子はその日その店に買ひものゝあることを告げて、良人の同行を求めた。
予定の昼過に良人は二階の休憩室で彼女を待つてゐた。
群衆のなかに青年の姿を見たのは、それから二十分もたつてからであつた。何うしたのか彼は鼻梁から右の半面へかけて、一面に繃帯をしてゐたので、ちよつと見それたが、彼はたえ子を見はぐさなかつた。しかし其と同時に、彼女の良人が附いてゐることをも、見遁さなかつた。彼はそのまゝ見え隠れに二人の後を追つた。
ふと彼女の姿が見えなくなつたと思つて
「球で怪俄をして、つひ後れて済みませんでした。」
「いけませんですよ。」たえ子は手を引込めながら紅い顔をして言つた。
「これ限りお目にかゝりません。どうぞ悪しからず。」
たえ子は言棄て、急いで良人の傍へ行つた。彼は帽子の売場の前に立つてゐた。
青年は詰問する間もなかつた。
(大正10年5月「中央公論」)