ステーシヨン前の旅館から、新聞社の人達によつて案内されて来たその宿は、氷川の趣味性から言つて、ちよつと気持の好いものであつた。それは其の宿屋が、近代式旅館と言ふには少し古風であつたと同時に、かいなでの田舎の
それがちやうど電燈のつく時分であつた。氷川は、これも飛石を渡つて行くやうにできてゐる風呂へ入つてから、その人達と外へ飯を食べに行つて、帰つて来たのはもう九時頃であつた。氷川は飯を食べたその家にも、何となし産れ故郷を訪れたやうな懐かしみを感じたのであつたが、それも燻しのかゝつた上方風の静かな家であつた。瀟洒な庭の木石のあひだに、幾つかの部屋が、飛び/\に置かれてあつた。
その晩氷川は茶室つゞきの六畳で、静かな眠りに就くことができた。彼は疲れた頭の髄からすやされるやうな感じであつた。
翌朝氷川は十時頃に目がさめた。そして湯殿で顔を洗つてから、庭を歩きながら、掃除のできるのを待つてゐた。
「さあ何うぞ。お掃除ができましてござります。」
五十六七の小柄なお婆が、さう言つて声をかけた。氷川はやがて部屋へ入つて行つたが、夜は判らなかつたけれど、今朝になつてみると、部屋の暗いことに気がついた。床の間にある小鉢の石蕗の花が、ふと彼の目についた。
「ここは大変いゝですが、物を書くには少し暗いやうですね。」
「さやうでござりますか。お暗ければ日当たりの好い部屋が二階にござりますでな。」
氷川は惣菜風の料理で、朝とも昼ともつかぬ飯をすましてから、小机のうへにインキや紙やペンを取並べて、淡い寂しい気持で煙草を喫かしてゐた。彼は茶室といふものを、初めてしみ/″\見た。彼は独りでゐるときの常習になつてゐる、怠惰な瞑想に耽けりがちな自分を見詰めながらいつまでもぼんやりしてゐた。彼はやゝ疲労を感じて来た。終ひに鬱陶しくなつて来た。彼は檻のやうな其の部屋にゐるのが、次第に怠窟になつて来た。
するうちに直きに日が傾いて来た。部屋は一層憂欝になつて来た。一日彼は何にもしなかつた。
翌日移された二階は東受けであつた。昨日までゐた茶室の扁額が直ぐ目の下に見えて、朝日が初冬の梢ごしに障子の腰硝子を透して、机のうへまでちら/\してゐた。北の方にも長い二階の一棟があつて、氷川の部屋から、その下座敷の可なり奥の方までが、植込の隙間から見透かされた。氷川は真鍮の手炙をかゝへながら、漸といくらか仕事に取りかゝることができた。するうちに日が西へ/\と廻つて、南の窓から差して来る午後の日光が、何うかするとすうつと翳つて来たりして、氷川の気分を厭に曇らせた。氷川は俳句でも詠みたいやうな佗しい気分に浸つて、初めて来たこの都会の単調な、懈い情調に軽い神経の苛立ちを感じながら、仮りの庵室にでもゐるやうな日を送つてゐた。十一月のことで、客は偶にしかなかつた。氷川は震災直後の東京のごた/\が、まるで余所事のやうに思へた。
或る日五十ばかりの主人が上つて来て、慶長年間から存在してゐるこの旅館の古い歴史を話して行つたが、氷川のゐる一棟が、秀吉の陣屋の御座所であつたとか云ふ話は、氷川にはちよつと
「菊は白と黄が一番好うござりますな。」お婆さんが、後から上つて来たとき、さう言つてちよつと枝振りを直したりした。
「お年寄りがこちらには多いやうですな。」氷川はその他に、庭をへだてた一棟の下座敷で、いつも針をもつてゐる人と、風呂の火を焚いたり庭の掃除をしたりする人と、二人もの年寄のゐることに気づいてゐた。
しかしこのお婆さんは、まだ其れほどの年でもなかつた。それに折屈みが何処か節度にかなつてゐて、お茶や花ぐらゐは心得てゐさうに
「私はこちらへ時々お手伝ひに上るものでな、こちらもお嬢さんが長々の病院入りで、お母さんが附ききりに行つてゐなさるのでな、もし。」さう言つてお茶をいれてくれたりした。そしてよく聞いてみると、そのお婆さんは氷川が東京で知つてゐる或る学者の親類であつた。
氷川はそんな事から、日に/\この宿に馴れて来た。お給仕や床の上げ下ろしなどに上つてくる二人の女中にも、笑談を言ふほどの親しみをもつて来た。その女の一人は色の浅黒い、顔に長みをもつた目鼻立の荒い、しかし気持のさつくりした年増であつたが、一人は色のくつきり白い、平顔、涼しい目に表情のない、田舎娘の標本といつた風の小綺麗な娘であつた。氷川は一日口を利かずにゐると、つひ何かしやべりたくなるのであつた。
「君はこちらでないやうだな。」氷川は色の浅黒い女に飯の給仕をしてもらひながら、或時きいた。
「どこだと思ひます。」女は笑つてゐた。
聞いてみると、果して彼女は横浜であつた。勿論震災に逢つた一人であつた。彼女は旅館にゐた。旅館はすつかり潰れてしまつた。地震の話にふれると、彼女は寂しい表情をした。
白い方は何を話しかけても、通じなかつた。笑ひもしなかつた。たゞおとなしくお給仕をするだけであつた。しかし氷川は其の方が、寧ろ感じがよかつた。土地では土地の女が環境にふさはしいやうに思へた。
竹馬の友のK|から車で氷川を迎へに来たのは、或る寒い夜の八時頃であつた。氷川はその三四日前にもK|の訪問を受けて、一緒に町へ出て見た。明るい大通りは、大体東京の型で詰らなかつたが、場末や裏通りには、この都市らしい古さが残つてゐるので、親しみがあつた。氷川はその時、K|につれられて、或る料亭で飲食ひをしたのであつたが、頭のてか/\したK|は、相変らず溌溂としてゐた。彼は芸者を相手に、愉快さうに謳つたりふざけたりした。彼はこの町における唯一の読書人であると同時に、評論の最高権威であつた。K|はからりとした明るいその顔のやうに、恬淡とか卒直とか形容されべき性情の持主であつた。そして聡明な頭脳と、豊富な才情とに恵まれてゐた。
「やつぱり酒を飲むのかい。」氷川が言ふと、彼はわざと

K|の家庭には、氷川より以上の子供達がづん/\育ちつつあつた。彼は余り其の処を得たとは言へなかつた。K|自身の正義観から見ると、彼の環境は低劣で悪徳に充ちてゐた。酒色は彼に取つての逃避の場所でもあつた。
その夜おそく、氷川はK|と美しい若い一人の女とに送られて、宿の書斎に帰つた。子供や周囲の話が出たり、彼の折鞄から事業の目論見書のやうなものが現はれたりした。
「金がなくちや駄目だぜ、自分の本当の仕事をしようとすれば、何うしたつて金だぜ。」K|は言ふのであつた。
「けれどいつも今夜のやうに遊んでゐるのか。」
「いゝや、酒は一時止めてゐたんだ。夜なかに心臓が変になつて、何だか今にも死にさうになるんだ。さう云ふことが時々ある。」
「脳溢血がこわい。」
「さうだよ。だからおれは毎朝夙く起きて畑へ出て働く。田園は実に愉快だぞ。果樹も作つてゐる。野菜も新鮮なのが喰へる。朝、日の出ないうちに、おれは南瓜の花の人工交尾なんかやるんだ。それあ面白いもんだぜ。」
氷川も女も笑つた。
K|は女と一緒に、やがて帰つて行つた。その後へお婆さんが上つて来た。
「お床をお茶室の方へ延べておきましたのにな。えらい綺麗な子を、あんたはんお連れなさつたと思ひましたら。」お婆さんは残念さうに言つた。
氷川は又かと思つて、しかしK|に逢ひたくもあつたのでその俥に乗つて出かけた、その家は家と家とのあひだを入つた、奥の方にあつた。どこも同じやうな作りであつたが、ここは女を呼ぶやうに出来てゐる家であつた。
床襖や屏風などの時代めいた、奥まつた部屋へ、氷川は案内された。氷川はちやうど宿へ遊びに来てゐた、同郷の文学青年で、しばらく此の町に住んでゐる男と一緒に入つて行つた。
そこに姐さん達や赤襟達が、づらりと並んでゐたが、K|はとみると、彼は黄八丈の褞袍の裾を端折つて、立つて踊つてゐた。これも同郷の画家が一人、そこに酔眼を見すえて、二人を迎へた。
「やあ、貴方ですか。これあ私の想像とまるで違つてゐる。」画家はさう言つて、親しげに氷川を見た。
そこへ肥つた女将がやつて来た。女将は五十ばかりの、顔のてか/\した、目のぱつちりした女であつた。
「ようこそ。お宿がお近いさうなので、時々お遊びにおいでやして。あの宿屋は落着があつて何か物をお書きなさるにはちやうど、宜しいけれど、お飽きになつたら、何うぞこゝへもな。こゝは外にも静かな部屋がありますで、そこやつたら何時までおいでなさつても構いません。」女将は馴れ/\しげに言ふのであつた。
「大変だ。」氷川は笑つてゐた。
K|はいつか坐つて、曲

「おい、やれよ氷川。何だつたけね、能くやつたのは······。」
K|は咽喉が締めつけられるやうになつてくると、相の手にそんな事を言ひながら、また唸りはじめた。そして興に乗つてくると、連りに食卓を叩いて、いつまで経つても止めなかつた。
「何だかその子は行けさうだね。一つやつてもらはうぢやない。暫らくそんなものも聞かない。」氷川は三味線をひいてゐる、菱なりの顔をした若い女に言つた。
「こいつは本物だぞ。それぢや一つやれ。」K|は促した。
女は渋くつてゐたが、姐さんたちに言はれて、構へはじめた。そして語りだした。しかし其もやがてK|のどす声に混ぜかへされてしまつた。
唄がはやりだして、席がざわめいて来た頃に、毛氈と大きな硯と、紙と筆とが、男衆によつて持運ばれた。へと/\に酔つた画家が、肩肱を張つて、俳画めいたものをかいたあとで、氷川も小さいものを二つ三つ書かされた。
氷川は青年と二人で、そこ/\に切揚げた。
「あすこは先づ一流どこでござりませうな。」お婆さんは部屋へ帰つて来た氷川に話した。
「ちよつと好いな。」
「お気に召したら、又ちよい/\お出でになりましたら。あすこの女将は、こちらでも極近しうしてをりまして、画かきさんや何か、送つておよこしなさります。」
「この町も方々にあんな家がありますな。」
「仰山ござります。」
町の人達に関するお婆さんの話題は豊富で、いつ聞いても尽きなかつた。今夜の女将と若い画家との恋愛関係などがその一つであつた。
「その画かきさんは、なか/\えゝ男でなもし、こちらの下の座敷で、長いことわづらつて床についておいでゞしたが、あの女将が、それは痒いところへ手のとゞくやうに、世話をしなさつて、漸とまあ元の体になられましてな。」
お婆さんの話は委曲にわたつて尽きるところを知らなかつた。
「あんたさん、えらい窮窟なとこへお入りでしたな。」帰りがけにお婆さんは言つた。
氷川は二度ばかり机の置場を移した果に、その日は床の前にぴつたり据ゑつけた其の机と、後ろの襖のあひだに挟まつて、屏風を立て廻してゐた。
夜が更けると、背に寒さのしみるやうなことがあつた。
氷川は日光の暖かさうな午後に、時々町へ出て見たが、夜分も青年Y|と連れだつて、明るい町を散歩した。文学青年の集まる裏通りのカフエだの、大通りの雑貨店の楼上だの、気取つたものを食べさせる、天麩羅屋だの、そんなところへも入つて見た。K|から呼出しをかけられて、又た新しい家で、彼の親しい女を見たりした。K|は十四五年も土地の操觚界にゐるあひだに、色々なところに顔を知られてゐた。
「それよりは君の家を見たい。」氷川は言つた。
「そんな事言ふない。家は遠いぞ。」
氷川はその地理をたづねた。
「そら好いぞ。地所は五百坪ある。帰るまでに隙があつたら一度来てくれたまへ。」
「細君にも久しく逢はんからね。」
「嬶は髪が白くなつたぞ。
「こゝはいゝぞ。君もこつちへ来ちや何うだ。東京なんか駄目だぜ、地震があつて、こゝは大丈夫だ。まだ/\発展する。おれは永住するつもりだ。」
「もう根をおろしてしまつたからな。」
「余り根も卸さんけれど、色んな引つかゝりもあるから、ちよつと動けないことになつてゐる。君もこつちでやつたら何うだ。東京へ往くたつて、六時間だ。京都大阪は直ぐだ。」
「永住は困難かも知れないが、時々来てもいゝと思ふな。」
「おれは遷都論者なんだが、何うしても首府をあゝ云ふところにおいちや駄目だよ。」
「首府を西へもつて行つたら、東はしびれてしまやしないか、一体君の趣意は······。」
「おれの趣意か。だつて文明はいつでも西漸するものぢやないか。おれのは東洋経綸策から来てゐるんだ。」
K|は外交経済||殊に支那との交渉について説きはじめた。彼は昨夜からその家にゐた。女学校出だと云ふ女が、彼の傍にゐた。
氷川はその晩町の劇場で催される長唄会にさそはれる約束になつてゐた。
夕方飯をすましたところへ、青年Y|と、Y|の親しくしてゐる土地の画家とが、氷川をさそひに来た。震災後色々の芸人が、次ぎから次ぎへと、この土地へ芸を売りに来てゐた。
氷川は震災前、土地の新聞から申込まれて取りかゝつた仕事が、震災に逢つて、そのまゝになつてゐた。少しばかり書きかけた原稿が、社の方へ来てゐたが、いつ載るともわからなかつたので、一時筆を休めてゐたのが、今度遽かにそれが出はじめたところで、あわてゝ書きつゞけることになつた。しかし彼は前に書いた部分を忘れてしまつてゐた。そして原稿を取寄せる隙がなかつたところから、遽かに思ひ立つて、この町へ来たのであつた。
広い劇場は満員であつた。花柳気分と演芸の盛んな都だといふことが、劇場の空気で想像された。氷川はそんな劇場で長唄などを聞くのが何だか、すまないやうな気がしたが、渇いた耳には楽器の音や、朗らかな声調も悪くはなかつた。
翌朝目がさめると時雨の音がしてゐた。氷川はうと/\しながら、廂にあたる其の音を聞いてゐたが、起きだす時分には霽つてゐた。薄日が古い板敷に差してゐた。土蔵の蔭にある古い木の撓んだ枝に、小鳥がむれてゐた。来た時分から見ると、楓の葉もめつきり赤くなつてゐた。
氷川は下へおりて、木の間をくゞつて、風呂場へ顔を洗ひにいつた。そして此処へ来てから習慣になつた冷水摩擦をやつた。
「お寒うござります。」お婆さんが風呂場から出てくる氷川に挨拶した。荒い働きをしてゐる、六十ばかりのお婆さんであつた。
氷川は飛石づたひに庭をそつちこつち歩いて、土蔵の前を通つて、裏の方へいつて見た。そこにも幾室かの部屋をもつた一と棟があつた。
「づゐぶん広いんですな。」氷川はそこへ来かゝつた主人に話しかけた。
「いゝえ、もう家が古うござりましてな。」
「これを改築するとなると大仕事ですね。」
「ひよつとしたら、市区改正で少し削られるか知らと思ひまして、もう手もつけませんやうな事で。」
それから建築の話などした。
「こちら職人がよろして、手間賃が安うござります[#「ござります」は底本では「ごさります」]ので、すつかり組立てゝ持つておいでになる方もござります。木曾の檜と伊勢の山奥から出まする杉でしたら、さやう、当節のことでござりますから、坪三百円もはづみましたら、好いものが出来ませうな。」
氷川は朽ち廃れた東京の家について、長いあひだ頭を悩ましてゐたので、そんな話にも興味がないこともなかつた。
氷川はこゝにも永く居すぎたやうな気が、連りにして来た。そして其日の仕事をすましてから、少しばかり買ひものをしようと思つてゐた。
朝飯をすましてから、いつもの通り彼は床の前にすゑた机にすわつてゐた。ペンを取らうと思ふと、ペンがつひ其処の畳のうへに転がつてゐた。体と手を延ばして、それを拾はうとした途端に、褞袍の袂が花にふれて、花瓶が畳のうへに転げた。水が布団の下へ流れこんだ。
氷川は急いで次ぎの部屋に着ものを畳んでゐる浅黒い方の女を呼んだ。
「花瓶が転げたから、何か拭くものを。」
女は急いで下へおりていつた。そして雑巾をもつて来て拭いた。氷川が花瓶を縁側へ持出してゐるところへ、お婆さんが水注をもつて上つて来た。
「この菊はまだ持ちますでの。」お婆さんはさう言つて、花を生け直してゐたが、
「旦那さまがお怠窟まぎれに、ちとお杉さんに悪巫山戯が過ぎたと見えますの。」と皮肉らしい微笑を浮べた。
氷川は洒落にしては、少し※[#「さんずい+后」、U+6D09、208-上-7]が強いと思つたが、真面目さの悲哀を感じた。
(大正15年1月「文芸春秋」)