彼女の
姉だといふ
人が、
或る
日突然竹村を
訪ねて
来た。
竹村には
思ひがけない
事であつたが、しかし
彼女に
若し
姉とか
兄とかいふ
近親の
人があるなら、その
誰かゞ
彼を
訪ねてくるのに
不思議はない
筈であつた。それほど「
彼女」は
不幸な
位置に
立たせられてゐた。
彼女といふのは、
竹村の
若い
友人大久保の
細君奈美子のことであつた。
或ひは
世間で
言ふ
内縁の
妻と
言つた
方[#ルビの「はう」は底本では「ほう」]が
適当かも
知れなかつたが、
大久保の
話すところによると、
奈美子は
彼の
作品の
愛読者の
一人で、また
彼の
憧憬する
若い
女性の
一人であつたところから、
手紙の
往復によつて、さうした
恋愛が
成立したらしいのであつた。
竹村はその
事について、その
当時別に
批評がましい
意見をもたうとは
思はなかつたけれど、ずつと
後になつて
振返つてみると、
彼女は
彼の
作品と
実際の
手紙によつて、
不運にも
彼に
誘惑された
気の
毒な
女だとも
思へるのであつたが、しかし
恋愛の
成立については、
彼も
詳しい
事は
知らなかつた。
但し
同棲後の
彼女は、
決して
幸福ではなかつた。
恐らく
彼女もさう
云ふ
運命を
掴まうと
思つて、
彼のところへ
来たのではなかつたであらう。
彼の
作品と
彼の
盛名と
彼の
手紙、
乃至は
写真のやうなものから
想像された
年少作家大久保が、
何んなに
美しい
幻影と
憧憬心の
多い
彼女の
情熱を
唆つたかは、
竹村にも
大凡そ
想像ができるのであつた。
勿論大久保にも
詩人らしい
空想があつた。
若い
女性に
対して、
純な
感情ももつてゐたから、
誘惑と
言ふのは
当らないかも
知れなかつたけれど、
色々の
条件と、
同棲生活の
結果から
見ると、
彼の
本能が、
一人のその
若い
女性にさういふ
風に
働らきかけて
行つたのは
事実であつた。
一
番「
彼女」を
不幸[#ルビの「ふかう」は底本では「ふこう」]にしたことは、
彼の
性格が
普通社会人として
適当[#ルビの「てきたう」は底本では「てきとう」]な
平衡を
保つてゐないことであつた。
無論こんな
仕事へ
入つてくる
人のなかには、
性格の
平衡と
調和の
取れない
人も
偶にはあつた。
世間から
見ては、
病的な
頭脳や
狂人じみた
気質の
人もないことはなかつた。
竹村自身にしたところで、この
点では、
余り
自信のもてる
方ではなかつた。
勿論彼の
仲間だけが
特にさうだとは
言へなかつた。
見渡したところ、
人間は
皆な
一つ/\の
不完全な
砕片であるのに、
不思議はない
筈であつた。
しかし
大久保の
場合は、その
欠陥が
少し
目に
立ちすぎた。
彼は
或る
意味では
誇大妄想狂であつたが、
或る
意味ではまた
病的天才とでも
言ふべき
種類のものであつた。
病理学者や
心理学者でない
竹村には、
組織立つてそれを
説明することは
困難であつたが、とにかく
奈美子に
対してふるまうた
彼の
色々の
行為だけでは、
彼もまた一
種の
変態性慾者だと
思はれた。
竹村が
初めて
奈美子を
見たのは、ちやうど
三月ほど
前の
秋の
頃であつた。
彼はしばらく
奈美子と
同棲してゐた
郷里の
世帯をたゝんで、
外国へわたる
準備を
整へるために、その
時二人で
上京して、
竹村の
近くに
宿を
取つてゐた。
彼は
何となくいら/\してゐた。
彼は
最初に
博し
得た
人気が、その
頃やゝ
下火になりかけてゐるのに
気がついてゐた。
彼の
処女作が
市場に
出たとき、まだ
年の
少いこの
天才の
出現に
驚かされて、
集まつて
来た
多くの
青年も、そろ/\
彼の
実質が
疑はれて
来たやうに、
二人去り三
人離れして、
輝かしかつた
彼の
文壇的運命が、
漸くかげりかけようとしてゐたところで、
彼もちよつと
行きづまつた
形であつた。
彼はじつとしてゐられなかつた。
失はれようとする
人気を
取返へさうとして、
彼は
更らに
世界的に
自己を
宣伝して、
圧倒的に
名声を
盛返へさうと
考へた。
「三
年ばかりあちらで
学校へ
入りたまへ。そしてみつちり
勉強して
来た
方がいゝね。」
竹村はさう
言つて、
作家としてよりも、
寧ろもつと
広い
意味の
修業を
彼に
要望した。
政治学とか
社会学とか、さう
言つた
意味での
修養が、むしろ
彼に
新しい
広い
道を
開いてくれるだらうと
思つた。
彼の
特異な
恋愛病が、
作品の
重なる
要素であることが、
後になつて
竹村にもわかつた。
余り
大きかつた
文壇的名声に
囚はれてゐたことも
分明して
来た。
勿論学窓などに
落着いてはゐられなかつた。
事によると、
彼は
世間が
思つてゐるほど、
経済的に
恵まれてゐなかつたのかも
知れなかつた。そしてその
方が
寧ろより
多く、
彼をあせらせてゐたかも
知れなかつた。
「
僕はね
竹村氏、
決して
悲観して
洋行するんぢやないんですよ。」
彼は
弁護した。
「
誰某の
輩が、
行詰つた
果てに、
箔をつけに
行くのと、
同じだと
思はれると、
大変な
間違ひなんだ。」
一
緒に
飯なぞ
食べると、
彼はいつでも
心の
空虚を
訴へるやうな
調子でありながら、さう
言つて
寂しい
顔に
興奮の
色を
浮べてゐた。
奈美子は
普通の
学校出の
文学好きな
女であつた。
大久保から
見せられた
彼女の
手紙によると、
彼女がしをらしくも
彼の
愛に
縋らうとしてゐる
気持が、
偽りなく
露出してゐたが、
今彼につれられて
目の
前に
現はれた
彼女を
見ると、まるで
狂暴な
鷲の
前にすゑられた
小鳥のやうに、おとなしく
小さくなつてゐた。ふとした
拍子に、
縁側の
障子の
硝子戸ごしに
見えた
竹村の
幼児に、
奈美子はふと
微笑みかけた。
大久保はちらとそれを
見ると、いきなり
険悪な
目をして、「ちよツ」と
苛々しげに
舌うちしながら、
拳をかためて、
彼女の
鼻梁を
火が
出たかと
思ふほど
撲りつけた。
奈美子は
目を
潤ませて、
悲しげにうつむいた。
「
何だつてそんな
真似をするんだ。」
竹村はたしなめた。
大久保は
冷笑つた。
「こいつがいけないんだ。こんなものは
是で
沢山だ。」
竹村は
呆れてしまつた。
彼は
郷里の
新聞で、
大久保が
奈美子を
虐待して、
警察を
煩はしたなぞの
噂を
耳にしてゐたが、それも
強ち
新聞記者の
誇張でもなかつたやうに
思へた。
その
後大久保の
言ふところによると、
彼女はその
兄と
肉的関係があるといふのであつた。そしてその
因果な
報いを
彼のところへ
持込んで
来たといふのであつたが、
竹村には
信じられなかつた。
彼はその
姉の
訪問によつて、その
身柄や
教養の
程度を、ほゞ
推察することが
出来た。
今竹村はその
姉に
初めて
逢つたのであつた。
姉は
小柄の、
美しい
愛らしい
体と
顔の
持主であつた。
嫻やかな
落着いた
態度や
言語が、
地方の
物持の
深窓に
人となつた
処女らしい
感じを、
竹村に
与へた。
趣味の
高雅な、
服装だけでも、十
分それが
証明された。その
妹の
奈美子が、
何うして
大久保のところへ
身を
寄せるやうになつたかは、
何う
考へてみても、
竹村にはわからなかつた。
奈美子にいくらか
暗い
影があるやうにも
思へたが、また
全く
純真であるやうにも
思へた。
「あいつは
己の
財産に
惹着けられてゐるんだ。」
大久保はいつかさう
言つてゐたけれど、
竹村には
其意味が
全然不可解であつた。
「
大久保のことを、
少し
先生にお
伺ひしたいと
存じまして、お
邪魔に
出ましてございますが、
先生には
何もかもお
解りでせうと
思ひますけれど。」
姉はさう
云ふ
風に
言ふのであつた。
「まあ、
大概のことは
判つてゐるつもりですが、
貴女の
側からなら、
大久保の
生活がいつそ
詳しく
判つてゐる
筈ぢやないですか。」
彼女の
口の
利き
方は、
少し
内気すぎるほど
弱々しかつた。そしてそれについて、
別にはつきりした
返事を
与へなかつたが、わざと
遠慮してゐるやうにも
見えた。
「
私にも
説明のしやうがないんです。
聞くところでは、
宿でも
問題になつてゐるらしいんです。この
頃外へ
出れば、きつと
連れてあるいてゐますが、
宿でも
少しも
目を
放さないやうです。
虐待はずゐぶん
酷いやうです。
或晩なぞ、
鉄瓶の
煮湯をぶつかけて、
首のあたりへ
火焦をさしたんでせう。さすがに
驚いて、
私のところへやつて
来たんです。
打つたり
蹴つたりするのは、
始終のことでせう。
私も
言つても
見ましたけれど、
頭脳が
普通ぢやないやうです。お
兄さんもお
有りのやうですが、
何うしてあれを
傍観してゐらつしやるのかと、
寧ろ
不思議に
思つてゐるくらゐです。」
「それも
考へてをりますけれど、あんな
方ですから、
問題にするには、
表沙汰にするより
外ございません。さうすれば
自然あの
方のお
名前にも
傷のつくことでございますから、
船にお
乗りになるまで、
我慢してゐた
方が、
双方の
利益だらうと、
兄もさう
申しますものですから。」
竹村はその
温順しさと
寛容なのに
面喰はされてしまつた。
彼女の
軟かで
洗煉された
調子から
受取られる
感情で
見ると、しかし
其の
考へ
方が、
極めて
自然に
見えるのであつた。
「まさかあれ
以上兇暴な
真似もできないでせうと
思ひますが
······。」
「さうですか。
貴方がたがさう
云ふ
目で
見てゐられるとすれば、
大久保に
取つても
幸福です。お
妹さんがじつと
我慢してゐられるのも、なか/\だと
思ひますね。」
「
妹も一
度逃げだしたんですけれど、やつぱり
掴まつてしまひました。ちやうど
大森の
鉱泉宿へつれられて
行つたときのことでした。あの
人が
一と
足先きへお
風呂に
行つた
隙を
見て、
足袋跣足で
飛出したんださうでございますの。それで
駈出して、
車でステーションまで
来て、
私のところへ
逃げこんでまゐりました。その
時もずゐぶん
酷い
目にあはされたらしうございます。
妹も
自分のした
事でございますから、
余り
露骨には
申しませんですけれど、
駈けこんでまゐりました
時の、
顔の
色といふのはございませんでした。
息も
切れさうに
弱つてをりました。お
話は
後でするから、
少し
寝かしてくれと
申しますので、そつとしておきました。
すると
間もなく
大久保が
自動車で
乗りつけてまゐつたんでございますの。いきなりづか/\と
上り
込みまして、
妹も
引起して、まあ
何とか
彼とか
言つて、また
連れ
出してしまひまして
······。
何しろちよつとの
隙も
与へませんものですから。
或る
時は、
警察へ
飛込んでもみたさうですけれど、
大久保さんの
仰やることが、やはり
真実らしく
聞えたものでせうか、その
時も
連れ
戻されてしまひました。」
「
何しろ
腕力があるから
敵ひませんね。それに
兇器ももつてゐるやうです。
洋行するときの
護身用にと
買つたものです。一
緒にあるいてゐると、
途中時々ぬかれるんでね。あの
目も
無気味です。
宅へくれば、お
妹さんは
大抵の
場合、
玄関外に
立たしておくやうです。
家内もいくらかお
話を
伺つてるさうですが、うつかりした
事を
言へば、
祟りがおそろしいんでせう、
余り
口は
利かれないさうで。」
竹村もそれ
以上聞きも
詰りもしたくなかつた。
彼女も
大抵様子がわかつたらしかつた。
大久保が
出発してから
間もなく、
彼女がまたやつて
来た。その
顔は
目に
立つて
明るくなつてゐた。
話も
前よりははき/\してゐた。
竹村は
大久保が
出発前に
奈美子をつれこんでゐた
下町の
旅館で
||それにも
多少の
宣伝的意味があつたが、そこで
或る
夜なかに、
鞘ごと
短刀で
奈美子の
脊中を
打つたなぞの
話を、その
時彼女から
聞いた。
鞘が
割れて、
刃が
肉を
切つたといふのであつた。
「
幸ひに
大したことはございませんでしたけれど。」
彼女は
内輪に
話すのであつた。
大久保が、
奈美子の
美しい
髪を、
剃刀や
鋏でぢよき/\
根元から
全く
切り
取つてしまつたことは、
大分たつてから
知つた。
奈美子は
白い
布で
頭をくる/\
捲いて、
寂しい
彼の
送別の
席につれ
出されて、
別室に
待たされてゐたことなぞも、
仲間の
話柄に
残された。
竹村はその
時姉なる
彼女の
身のうへを、
少しきいてみた。
彼女は
東京の
親類に
身を
寄せて、
女学校を
出てから、
語学か
音楽かを
研究してゐるらしかつた。
大久保がベヱトベンのシムホニーなぞのレコードを
買つたのも、
奈美子が
音楽好きだからであつた。
竹村は一
年たつかたゝないうちに、
大久保の
帰つて
来たのに
失望したが、
大久保の
帰朝の
寂しかつたことも、
少なからず
彼を
傷ましめた。
大久保は
出発前よりも一
層あせつてゐたが、
先づ
訪れたのは、やはり
竹村であつた。
彼はロンドン
仕立の
脊広を
着こんでゐただけで、一
年前の
彼と
少しも
変つたところはなかつた。しかし
彼の
言葉には
傾聴すべき
事も
少くはなかつた。
驚いたことには、
虎の
子のやうに
大切にしてゐるウェルスの
手紙など
入れた
折鞄のなかから、
黒髪の
一と
束と
短刀とが、
紙にくるんで、
紐で
結へられたまゝ、
竹村の
前に
引出されたことであつた。
「
何だい、そんな
物まで
持ちあるいてゐたのか。」
「これも
今となつてみれば、
何んでもない。
船から
海へ
棄てようかと
思つたけれど、
到頭また
日本へ
持つて
帰つた。」
大久保はさう
言つて、
笑つてゐた。
竹村と
奈美子との
交渉もそれきりであつた。一
度遊びに
来るやうにと、
竹村はくれ/″\も
勧められた。そして
田舎へ
帰つてから、
慇懃な
礼状も
受取つたのであつたが、
無精な
竹村は
返事を
出しそびれて、それ
限りになつてしまつた。
「とにかくあの
人達の
仕方は
賢かつた。」
彼は
時々思つた。
大久保のやうな
稚気の
多い
狂人を
相手取ることに、
何の
意味のあらう
筈もなかつた。
(大正14年7月「婦人の国」)