彼は此頃だらけ切つた恋愛に引摺られてゐることが、ひどく憂鬱になつて来た。その日も彼女は娘をあづけてある舞踊家のF||女史のところへ、二三日うちにあるお浚ひのことで行くと言つて家を出かけるとき、
「帰りに武蔵野館に好い写真がかゝつてゐるといふから、ちよつと見て来ようと思ふの。先生もお差閊なかつたら、入らつしやいませんこと?」と彼を誘つた。
彼は以前は余り見なかつた活動を、彼女がゐるために時々見る機会があつたが、大抵は彼女が見て来て筋を話すくらゐの程度であつた。
「さうね、好いものなら。」
「何だか大変好いんですて。私メイ原田からF||さんのとこへまはつて武蔵野館へ行つて電話をおかけしますわ。いゝでせう。」
彼は大して気も進まなかつたけれど、さう言はれると矢張り行かない訳に行かなかつた。「ぢや屹度ね」と彼女がさう言つてあわたゞしく彼の部屋を辞してそれから部屋を取つてある下宿へ寄つて仕度をしてから出て行つたのは、十二時少し前であつたが、彼はその後少しばかり仕事をして、客に接したり雑誌を読んだりしてゐると
「奥さまが武蔵野館にゐらつしやいますから、旦那さまにお出で下さいまして。」
彼は家を出ると、途中でボロ自動車を一台拾つて飛乗つたが、走り出すと両方の
「
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それでも速力は迅かつた。そして四谷見附から士官学校前へ差しかゝる道路では、彼の頭が二三度天井へぶつゝかるほど、ひよい/\飛びあがるのであつた。
直きに活動館の前へ来た。
「断髪の、黒い絹糸の肩掛をした女が来てゐる筈ですが。」彼は入口の切符切にきいた。
「山下さんでございますか。」彼女はさう言つて預かつてゐる切符を渡した。
案内されて二階へ上つて、段々を二三段昇ると、そこに彼女がゐた。彼は柱の蔭になつてゐる端の椅子に、彼女と並んでかけた。
「先生この方メイ原田さんよ。」彼女にさう言はれて、ひよいと其の隣を見ると、青い外套を着て茶の帽子を冠つた彼女が、少し腰を浮かして挨拶した。
「そこ見にくかつたら代りませうて。原田さんが。」
「いや。」
「見えないこともないわね。」
「いゝとも。」
終りに近づく頃なので、写真の筋は薩張り判らなかつた。
「何だかちつとも解んない。喜劇だね。」
「まあさうですね。ちよつと面白いものなのよ。」
彼女は微声でざつと筋を説明したが、呑込みの悪い彼には矢張りわからなかつた。彼は椅子を離れて煙草をふかしに出た。そして次の評判の映写の初まるのを待つてゐた。彼は少しばかり不愉快であつた。彼女と最近親しくなつた美容師の噂を彼女からきいてゐるので、好意はもてたが、それかと言つて、さう丁重にするのも可笑しいやうな気がした。席順が格別ある訳でもなかつたけれど、さうした場合に若しも彼女がさう云ふ風に待遇されたとしたら、随分不愉快に感ずるだらうと思ふと、変な気がした。これなどは然しさう問題にはならなかつた。狭量な僻みと言へば僻みであつた。メイ原田を彼に紹介しやうと思つて、切符まで買つておいてくれた彼女の気持は買つてやらなければならなかつた。愛人の名によつて意識してかしないでか、彼女は最近何うかすると彼を凌ぐやうな態度に出ることもあつた。自分の知人に彼を紹介する場合に、如何に自分が愛されてゐるかを誇示することがまた、
しかし彼女の素振はをかしかつた。彼も彼女も朝夕顔を突き合してゐても飽かないほど愛してゐる癖に、彼女が不幸にさへならないで済むことならこの恋愛から脱れたいと希つた。彼は自我的な彼女の不思議な性格の前に、へと/\になつてゐた。
やがて第一の映写が終つて、観客がどや/\廊下や喫煙室へ出て来た。彼女と友達も出て来て、彼を捜しあてた。
「そこにいらしたの。」
その拍子に彼は立つて出口の段梯子のある部屋へ出ようとした。
「どこへ?」
「煙草を買ひに。」
「私買つて来てあげるわ。」
「いゝんだよ。」
彼が外へ出て煙草を買つて来てから間もなく次の映写がはじまつた。彼女と友達とは化粧室に入つてゐた。彼は女給にきいて、前の方の席へ出て、布団の上に坐つた。彼の目の前に芸者が二人ゐた。彼はその二人の肩の間からスクリーンの全面を見ることができた。彼女の同伴者に少し悪いと思つたけれど、その方が自由であつた。
暫らくすると彼女がやつて来た。
「原田さんが代はりませうつて言ふのよ。」彼女は顔を赤めてゐた。
「そんな事いゝんだよ。」
「さう!」
彼は勿論原田さんを対象にしてゐる訳でもなかつたし、今夜の場合だけのことを考へてゐるのでもなかつた。
写真は相当に興味があつた。
終つてから席を立つて、上の方を見ると、彼女の上半身が見えた。彼はそれを見届けて廊下へ出た。そして彼女の出てくるのを待つた。
彼が往来へ出て二階からおりて来る出口の人込みを見上げてゐると、少したつてから絹のつや/\した網のやうな肩掛を、近頃調へた薄色の羽織の肩から胸へかけた彼女の愛らしい顔が、づつと後ろの方から彼に
二人はやがて外へ出て来た。そして三人で少し歩いた。
「原田さんをお送りして、ギンザまで出ようと思ふんですけれど。」
「雨が少し落ちかゝつて来た。」
「先生はお厭?」
「厭なこともないが、ギンザまで送ることもないやうだな。」
「ほんとに結構よ。」
「ぢやあ何処かこの辺でコーヒでも飲みませうか。」
「それがいゝだらう。お送りしたりして反つて······。」
雨が本当に降りさうであつた。それに入りつけの喫茶店はづつと通りすぎてしまつてゐた。どこへ入らうかと捜し歩いてゐるうちに、到頭ギンザへ出ることになつた。何か言つてゐるうちに、彼女の目が少し険悪になりさうなので、彼も一致した。
自動車に乗つてからは、二人とも悉皆和んでゐた。彼も二人を先きへ入れて、後から乗るくらゐにしてゐた。途中に写真の話などが出た。映画女優の噂も出た。それから原田さんがアメリカで逢つて来たT|女流作家の話も出た。
銀座では原田さんの行きつけらしいヱスキモオへ入つた。そこで原田さんは何か一皿註文したが、時間が遅いので出来なかつた。紅茶にお菓子を食べてそこを出た頃には、ギンザの通りも寂寥としたものであつた。
その辺で傭つた自動車で、間もなく原田さんがおりてしまつてから、彼女は今日訪問したF||女史や、弟子たちや、子供のことを話して彼に聞かせた。子供が最近めつきり上達したことを悦んだ。
「お浚ひには先生も行つて下さるわね。」
「行かう。」
(昭和2年5月「文芸春秋」)