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浪の音

徳田秋聲




 新庄はホテルの日本室の寝床のうへでふと目をさました。海岸は風が出て来たらしく、浪の音が高かつた。何かしら訳のわからない不安を感ずるやうな、気持で||勿論それは薄暮の蒼白い部屋の色が、寝起きの頭脳に、彼が盲腸の手術をやつたとき、病院の部屋で魔睡薬がさめかかつて、目をさました瞬間の蒼白い壁の色などの聯想から来たものだことはわかつてゐたが、大体彼は日暮方に眠りからさめると、いつもさうした佗しい気持になるのであつた。今も彼はそれと同じ寂しさのなかに眼覚まされたのであつた。

 ふと先刻ステーシヨンまで送つて行つたK子が、昨夜椅子に乗つて電球をくるんだ、紅い縁取の絹ハンケチが、燃えつくやうに目に映つた。暫らく彼の感覚は彼女の悪戯な目や、白い手や、晴やかな声に惹きつけられた。彼は佗しい浪の音を聞きながら、甘い幻想に浸つてゐた。

 寝床を離れて、K子がしたやうに椅子を廊下から取込んで来て、電球のハンケチをはづすと、彼はそれを顔に押当てたが、やがてからげた袂の底に押しこんだ。机の上にある体温器を取つて熱を計ると、K子をステイシヨンへ送つたときと略同じ八度近くであつた。K子が見舞にもつて来てくれた黄と赤との薔薇が五輪、コツプの縁に頸垂れてゐた。彼はその熱がどこから来るかゞ能くわからなかつた。肺尖加答児だといふ医者もあつたが、単に神経衰弱から来る発熱に過ぎないと楽観的に笑つてゐる医者もあつた。どちらにしても彼はこの春朝寒の頃の感冒から、体の倦怠を感じてゐた。思ふやうに仕事が出来なかつたこの一年間、不断は何をしてゐるかわからない、K子と友情以上の関係が、絶えがちに、しかし時々思ひだしたやうに続いてゐた。映画女優になつたこともあるさうだが、スクリンの上では誰にも何等の記憶をも残さないで消えてしまつた。詩も作るけれど、一番物になつてゐるのは何と言つてもダンスであつた。ダンス場で二人は知つたのであつた。

 新庄は或る時若い坊ちやん/\した学生と、銀座を歩いてゐる彼女を見た。二タ月も二人は逢はなかつた。彼の方で約束をお流れにしてしまつたからであつた。

「何うしたの。」

 K子はにや/\したが、顔が赤くなつた。

「あの人何でもないんですわ。」

「紅茶でも呑まない? あの学生さんも来てもいゝ。」

「いゝえ、ちよつと断ればいゝんですもの。」

 二人はフルーツパラへ入つて、当らず触はらずに話してゐた。

 それから又かう云ふこともあつた。派手々々しく着飾つて、少し年取つた背広服の男と、やつぱり銀座を歩いてゐた。媚を送る彼女の目をちらと見たが、彼は見ぬふりをして通りすぎた。

「好いものを引つかけたんだ。」

 しかし其の次ぎに武蔵野館で見たときには、相手は又新しい男であつた。ストリトへ出てゐるんではないかと思つたが、彼と逢ふときは無邪気で純情であつた。新庄はちよつと沈んだ、睫毛の長いその目と、色の真白い、むしろ蒼白い、細作りの、意気味をもつた顔の形と、しなやかな姿態とが好きであつたが、此の女が自分を好きなのか嫌ひなのか寸分も解らなかつた。そんな事は何うでも好いらしかつた。彼女は海辺育ちで、海が好きであつた。どこの海でも海岸へつれて行かれるのが好きであつた。それから子供のやうにチヨコレートを舐つて、淫売婦のやうに強い煙草を吸つた。新庄は瞬間ちよつと惹きつけられはしたが、別れて終へば思出すといふこともなくて過ぎた。余り食べつけない茱萸ぐみでも口にするやうな野趣があつた。

 新庄は今そんなことを、ぼんやりと考へながら風にはためくカアーテンと戸を開けて、海を眺めた。仄かな落陽の影が、空の一部をヱンヂ色に染めてゐた。その下に白い波が、鴎の群のやうに散らばつてゐた。左側ひだりかはの松原の蔭に一棟の草葺の家があつた。それは此のホテルの女主人公の住居であつた。昔はある名士の持物で、名士の没後一度結婚したこともあつたが、転輾して外人の持ちものとなつてから、ホテルのダンス場や、公使館などにも姿を現して、妖艶なその顔と、派手な扮装で人を惹きつけた、この海岸にホテルを初めたのは、限りなく彼女を愛してゐた其の外国人が可なりな財産を与へて本国へ帰つてから二三年たつてからであつた。

 新庄はお葉といふその女主人公と、もう大分前から友達になつてゐた。一緒に海岸を散歩したり、葉山あたりまで遠乗をやつたり、紅葉の頃の函嶺へ湯に浸りに行つたこともあつた。外に連のあることもあつたし、無いこともあつた。

「貴方にホテル経営の面倒が見れるか知ら。」お葉は何時か自動車のなかで、そんな事を言つた。

「さあ|そんな事は何うもね。ダンスのお附会ひ位ゐだつたら。」新庄は笑つたが、そんな空想がかね/″\頭に潜んでゐない筈はなかつた。彼はこの生存競争の劇しい生活難を何う逃避したものかと、消極的にそれを考へつゞけてゐた。原稿生活に少しも自信がもてなかつた。

「ホテル経営といふと、僕がマネヂヤアになるんですか。」

「少し失礼ね。」

「いゝや、ちつとも。」

「これで女に出来ないことが沢山あるんですから。今藤倉はよく働いてくれますのよ。でも何も彼も委せつきりつて訳には行かない。私がしつかりしてゐなかつた日には、何をするか解りやしないんですもの。何と言つても男でなくちや駄目ね。私旦那さまを持たうか知らなんて、時々そんな事も思つて見るのよ。だけど、さうなると又何だ彼だと言つて世話かけるでせう。お負に遊びたい時に遊べないんですもの。それに生意気のやうですけれど、私なんか世間の男を見尽くして来てゐますから、なか/\好い人が見つからなくてね。こつちの財産を当てにして来るやうなのは厭ですからね。」

「貴女ならへい/\してゐる男でなくちや嫌ひでせう。」

「飛んでもない、そんな男は嫌ひよ。主人となれば矢張り私が妻として従順に仕へるやうな男でなくちやあ。女は何と言つてもさう云ふ人が好いのよ。」

 新庄は何か気でも引いて見られるやうなくすぐつたさを感じたが、妙にしんみりして硬くなつてしまつた。

 そのお葉が彼の友人の井沢と云ふ若い男を、いつか喰へこんでしまつたのであつた。


 井沢は東京に家があつたけれど、いつもお葉の家に入浸つてゐた。喧嘩でもしなければ、滅多に東京へは帰らなかつた。卒業間際の学校を放抛つてしまうほど、この年上の女の愛に惹込まれて行つた。井沢が喧嘩して東京へ帰ると、きつとお葉が後から出かけて行つたが、家の者達をおもんばかつて||それに又お葉自身も、この坊ちやんの我儘と懶惰に腹も立つて還してやると、活動のプログラムか何かをポケツトにして、銀座で友人にランチでも奢つて直き又猫のやうに、のそ/\と還つて来るのであつた。お葉も憎くくはなかつた。

 今新庄は井沢を捜して歩いた。食堂へ誘ふか、サロンで文芸談でもやらうかと思つたのであつた。新庄は一人で食事をするのが、寂しかつた。井沢の姿はどこにも見られなかつた。新庄は廊下伝ひに、お葉の方へ行つて見た。

 勝手口から茶の室へ上つて、女中に聞くと、

「さあ、今そこにいらしたんですけれど······お二階ぢやないんでせうか」と不安な目で答へた。

 新庄は椅子卓子をおいて、緑色の敷物をしいてある次ぎの部屋へ行つて、そこにあつたお葉の喫み料のコンスタンチンを一本つまんで、マツチを摺りつけたかつけないかに、中廊下にある二階の段梯子にばた/\と異様な足音がしたので、何かと思つて廊下へ飛び出してみると、そこにお葉が泣きはらした顔に両手をあてゝ髪を振散らして、おりて来るのに出会した。肉附のいゝ白い指の隙間から醜い目が覗いてゐた。しどろな姿態で、しかし足元だけは用心して、泣き声を出して漸と廊下へおりて来た。

「何うしたの。」

「新庄さん、私の顔こんなになつてしまつた。」

 お葉は椅子の部屋へ入つて、片隅の化粧台の鏡の前に立つて、目を瞬きながら言つた。顔が変に歪んで、目が開けないほど腫れあがつてゐた。左の目の縁が薄紫の斑点まだらをもつて、片頬へまで爛れたやうになつてゐた。それが怪我なら怪我で恐怖があるか、喧嘩なら喧嘩で興奮があるから解るけれど、お葉は泣いてゐるのか笑つてゐるのかわからなかつた。顔がそんな風にをかしく歪んでゐるばかりでなく、彼女の気分がどこかめつちやりしたものであつた。

「乱暴ね、あの人! 私の顔をこんなにしてしまつて。」お葉は少し冷静を取返して、腫れを調べた。

「傷はない?」

「傷はないやうだわ。でも、随分ね。ぴしや/\と。それこそ手の捷いつたらないの。」さう言つて、お葉は女中を呼んだ。

「まあ、大変ですわ奥さん。」

「硼酸があつたわね。」

「ございますでせう。」

「医者へ行つた方がいゝ。」

「えゝ、でも極りがわるくて。」

 気狂じみた目をして、井沢がふら/\とやつて来た。

 激情のまだ静まらない、その顔がお葉を脅かしたが、気の弱い新庄が心配するほどではなかつた。彼女は何か悪いことをした子供が、親の折檻の手の下をくゞりでもするやうに、こそ/\と部屋の外へ出てしまつた。

 井沢は皮肉なやうな冷笑を目に浮べて、口をむづ/\させながら、壁ぎわに立つてゐたが、追つかけるやうに出て行かうとした。

「おい、何うしたんだ。」新庄は叱るやうに言つた。

「いゝんだよ。」彼はさう言つて、弛んだ帯を締め直しながら廊下へ出た。

「おい、止せ。打つのは止せ。傷でもついたら何うするんだ。目がまるで腫れふさがつてるぜ。」新庄は殺気立つた彼の目を見つめながら、その手を掴んだ。

「いゝんだよ。あいつ殺しちやふ。」井沢はさう言つて強い力で手を振りほどかうとするのを、両手でぎゆつと掴んで、椅子の方へ引張つて来て、椅子に押据ゑた。

「馬鹿言つちや可かんよ。さあ行かう、ホテルへ行かう。己も後から行くから。大変な怪我だぜ。目でも潰れたら何うするんだ。ほんとうに君は乱暴だね。焼餅喧嘩でもしたのか。」

「いゝんだよ。」井沢はさう言つて、隙を見て立ちかけようとした。

 新庄が熱のあるのも忘れて、井沢を宥めて外へ出してやると、お葉が何うなつたかを見るために、そつちこつち部屋を捜した。お葉は女中部屋へ入つて、襖を締切つて、鏡台の前に坐つてしきりに硼酸で顔を冷してゐた。

「癒るでせうか」お葉は目のなかを指でほじくるやうにして見た。

「無論癒るだらうさ。余りいぢらない方が可いでせう。」

「私の目がつぶれたら、坊ちやん何うするつもりでせう。私を殺すなんて······。」

「井沢があんな気の荒い男だとは······。」

「若い人はこわいのよ。坊ちやん何処へ行きました。」

「ホテルへやつた。」

「さう!」お葉は安心したやうな、それでゐて何かまだ物足りなさうに呟いた。

「こんなところで失礼。あつちへ行きませう。」

 二人は椅子の室へ出て来た。

 日がもう悉皆くれてゐた。

 お葉は小さい洗面器に浸したガーゼで絶えず目の縁を冷やしながら、

「もう来ないでせうか。今あすこへ入つて見ると、私の写真をずた/\に引裂いてしまつて······。」

「何うしたんです。」

「私しも悪かつたのよ。だつて私だつて先月も今月も不景気で、欠損つゞきなんですもの。」

「そんなですかね?」

 とは言つても、何も支払に困るほどでないことは、用心のふかい何時もの彼女の遣口で想像できた。

「それだもんですから、以前の古いお馴染で今でも私を思つてくれてる人があるんですの。」

「さう。」

「その人が久振りでやつて来ましたの、今朝東京から。安い地所の売りものがあるから、それなら四五年持つてれば少なくとも三四倍になるから、お葉さんが持つてゐてもいゝし、住宅を作つてもいゝからと言つてくれますの。半分づゝ買はうかといふんですの。私も年取つてホテルも厭ですから、こゝ二三年もやつて······。こんな不景気ぢや、遣り切れませんもの。そしたらこれを売つて、そのお金で東中野あたりへ引込んで、お茶でも立てゝ、暢気に暮さうとおもふのよ。」

 新庄はお葉の計画が時々変化することを能く分つてゐた。

「今にこのホテルをもつと大きくして、四十になるまでに二十万円作らなけりや。」お葉はそんな事も言つたりした。

「私が死んだら、それを全部社会事業に寄附する。」お葉はひどくブルヂヨウア気分になつて悦んだりした。

「私も悪かつたけれど、そんな話をしてゐるうちに、その人から私少し今月の経済を助けてもらはうと思つたの。」

「時々来るの?」

「いゝえ、ずつと逢はなかつたんですわ。」

「若い人はこわいのよ。貴方だつて若いけれど······。」お葉は笑つた。そのあひだも絶えず目を冷し/\しては中をのぞき込んでゐた。

「この目がつぶれたら、私どんな顔になるでせう。そしたら私死んでしまふわ。」

「結局嫉妬ですね。」

「え、それが実に乱暴なの。部屋の外をどん/\幾度も往つたり来たりして、「こつちへ出ろ、こつちへ出ろ」つて言つてるの。「誰です、あつちへ行つてちやうだい。こんな処へ来ちや厭よ」つて私が言つたのよ。するといきなり入つて起き上らうとする私の顔を、ばた/\/\と目も口も開かないほどあの力のある手で打つたのよ。その人は驚いてしまつたでせうね、でも落ちついた人ですから、貴方は誰方です。静かにお話をしませうつて、宥めたんです。あの人「いゝんです、いゝんです」つて私の髪を掴んで廊下へ引張りだしたの。その人は吃驚して、手提鞄をかゝへて逃げだしてしまひましたわ。私は極りがわるくて······。あの人何うしてあんなでせうね。不断はあんなに温順しい癖に。今度あんな事があつたら多分殺されてしまふでせう。」

 新庄はお葉にそんな娼婦性のあることを聞いても、格別驚きもしなかつたが、不断恋愛なんかを軽蔑してゐた井沢の執着が、二人の愛の深さを覗かせるに十分だと思つた。


 その晩お葉がこわがるので、新庄はお葉の寝床の側に寝ることにした。

「こんなに私の髪の毛が······。」寝るときお葉はさう言つて、シイツの上に零れた幾筋かの毛の指に絡まるのを電気に透かして見てゐた。

 顔の腫れは一晩たつと、いくらか落ちついて来た。

 新庄がホテルで軽い朝飯を取つてから、海岸を散歩しての帰りに、町でバツトを捜してゐると、お葉の女中に出会つた。

「あれから何うしたの、医者へ行つたの。」

「入らつしやいました。」

「井沢は来ない?」

「何だか井沢さんが何うしてるだらうつて、心配してるんですの」

 女中はにや/\笑つてゐた。

「晩にまたお泊りにいらつしやらない?」

「いや、止さう。」

 新庄は郵便局の角で女中に別れた。今日はまたK子に電報でもしたかと、そんな事も考へながら······

(昭和4年5月「文芸春秋」)






底本:「徳田秋聲全集 第16巻」八木書店

   1999(平成11)年5月18日初版発行

底本の親本:「文芸春秋 第七年第五号」

   1929(昭和4)年5月1日発行

初出:「文芸春秋 第七年第五号」

   1929(昭和4)年5月1日発行

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:久世名取

2019年10月28日作成

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