「ではお父さんは三ちやんと一緒に寝台自動車に乗つて行つて下さい。僕は電車で行きますから。」
「あら、さう。」
「病院までは僕も一緒に乗つて行きますから。」
「よし/\。」
「T老院長は患者に愛著をもつてゐます。どうしても癒さうとしてゐます。あの海岸の療養所にこの夏一杯もゐたら、づつと快くなるでせう。費用もかけさせないやうにと、心配してくれてゐるんです。あゝ云ふ患者が、一家のうちに一人出ると、中産階級のちよつとした家は大概へたばつてしまふもんだからつて、そこまで思つてくれてゐるんです。」
「何しろ長いからね。」
長男の正雄は若院長は勿論、老院長とも親しくなつてゐた。彼は誰とも親しくなれる質の
通りの自動車屋の前へ来ると、尨大なその寝台車が路傍樹の片蔭に用意されてあつた。彼は二十になる娘と田舎から偶然出て来てゐる甥と、それに女中と四人でそれに乗つた。
「僕はW薬局で買ひものをして、後から電車で行きますから。」
寝台自動車は朝の爽やかな風にカアテンを煽らせながら、ゆつくり街路を走つた。病院までは大した距離でもなかつたが、彼はいつも別れる時が寂しいので、余り見舞はないことにしてゐたが、今二階の病室へ上つてみると、患者は相変らず白皙な綺麗な顔をしてゐた。節々の暢びやかに育つた彼は、兄弟中で尤も脊が高くて、尤も青年らしい気慨と元気とをもつてゐた。長いあひだ仰臥したまゝの彼は、誰でも捉へて談話や議論に耽つた。彼は何んでも知つてゐた、中学生にしては少し大人つぽすぎるほど各方面の知識に富んでゐた。
「それはね······。」と、明晰な口調で彼が遣りはじめると、夫から夫へと際限もない雄弁がつゞいた。
「若しこれが今頃健康であつたなら······。」
彼はしかしそんな事は考へないことに決めてゐた。気慨のない二人の兄にきつと不満を抱いてゐるであらう彼が、怠窟な病床に長い病苦を忍んでゐることを思ふと、彼の運命が何んなに辛いものであるかゞ思ひやられた。勿論こんな病人はこの子一人ではなかつた。結核性の脊髄カリエースや骨膜炎を悩んでゐる少年少女、青年処女の多いことは、病院へ行つてみれば直ぐ解ることであつた。そして又適当な療養所の国家的設備のないことが、如何に多くの貧しい患者の父母兄弟達を泣かしてゐることだらう。彼は何うかすると顔を背向けて泣いてゐる三郎に気づいた。
「三ちやんは自殺しようとしたらしいの。」
姉娘からそんなことを耳にしたこともあつた。
「あゝ、さう。カルモチンなんか枕元においちやいけないよ。」彼は娘に言つた。
しかし家ではエトラガーゼの捲替へを、毎日一回づつ欠かさずにやつてゐた兄の正雄が、何と言つても一番患者に密接してゐた。正雄は何んな場合にも希望を失ふやうなことはなかつた。彼は屡

「若し癒らないものだつたら、ガーゼの捲替へなぞ、張合がなくて迚もやれやしませんよ。」
「だが癒つてからが······。」
「歩けますよ。」
寝台自動車は今京浜国道を走つてゐた。広い国道も今は狭すぎるくらゐ交通が頻繁になつてゐた。田舎ものゝ女中は、カアテンを繰つた窓から、きよろ/\四辺を見廻はした。仰臥してゐる患者の目には、スヾカケ、屋根、電柱、電線、その隙間から時々の青空白雲、そんな風景が珍らしく続いた。患者は機嫌がよかつた。
「I||の家のパツカードで鎌倉までドライブしたことがあつたけがな。」患者は長い手で顔を撫ぜたが、暫くすると、
「お父さん葡萄酒を少し。」
彼は病院で用意して来た小さい壜をポケツトから取出して渡した。患者は話の合ふ兄の同乗が望ましかつた。父なる彼も長いあひだの労苦で、悲しみや喜びに心臓が踴つたり圧されたりするやうなことは少なくなつたけれど、長男のやうな柔軟さと気安さで患者と談笑を交へることは困難であつた。音楽の話にしろ、文学の話にしろ、時事問題にしろ、スポーツ界の噂にしろ、流行の読みもの、乃至は結核に対する最新の知識や療法にしろ、総て彼の世界は現実界のづつと後ろの方に遠ざかつた古ぼけた背景にすぎなかつた。
「やつと広い空が見え出して来た。」町をはづれたとき患者は懐かしさうに微笑した。
療養所は広大な庭園のなかにあつた。契約したのは右端にある一棟の一部を成した五坪ばかりの洋室であつた。老院長は同じ病気で、その末子を一人亡くしてゐた。こゝは其の記念として、生活の余り豊かでない人達のために慈善的に設けられたものであつた。界隈では名の通つた料理屋の迹で、若しも院長が資金に恵まれてゐたら、何んな完全な設備でも出来る筈の余地が十二分にあつた。
「老院長さん、これで大分損したらしい。」
おくれて着いた長男は一脚しきあない椅子に、父をかけさせながら、何はともあれ一日でも早く、患者をこゝへ寄越しておけば安心だと云ふ風であつた。台所や女中の便所すらないこの一室で、しかも最近の発熱が、胸を冒されてゐるからではないかと云ふ心配のある患者と、余り丈夫でない長男や女中と一つ蚊帳に寝るといふことが、彼に取つても大いなる不安であつた。それよりも患者につくことをひどく厭がつてゐる女中の落着かない気分が彼を脅かした。
二人はやがて町へ世帯道具や日用品を買ひに出かけた。町には何にもなかつた。稲荷さまを中心にして、料理屋と芸者屋がそちこちに巣くつてゐるだけであつた。迷信とヱロとの不思議な交錯であつた。
彼はその晩徹宵蚊帳の外で、蚊遣を焚ながら読みたくもない本を読んでゐた。するうちに湧きたつやうな
或日も彼は患者を見舞つた。
その日も彼は唯一の逃避所にしてゐるダンスホールから帰つてくると、療養所から電話がかゝつて、女中が帰りたいといふのであつた。病院で傭つてくれることになつてゐる看護婦の来るまでと、賺しておいたのであつた。
「日本橋の方へも電話をかけたんですつて。兄さんもお腹を悪くして寝てゐるらしいんです。」
兄もさう附ききりではゐられなかつた。
「あゝ、さう。ぢや直ぐ行つてやらう。」
彼はどんなに憂鬱な時でも、広いホールを三四回まはると気持がせい/\した。勿論それはバンドのかゝらない昼間のことであつた。踊り手の立込んで来る夜の九時十時になると、急ぎ立てるやうなジヤズと、目間苦しく回転して行く幾十組かの男女の旋回が、彼の神経を疲からせた。彼はもうさう云ふ人達のなかに交つて踊り狂ふやうな年齢でもなかつたし柄でもなかつた。椅子を起つてダンサアに行くのが、屡々臆劫な努力でありさへした。一通り自分自身の踊り方が完成するまではと、つひ今日も明日も足が
彼は板敷の間で洋服をとつて汗をふくと、急いで
高輪駅で彼は水菓子や食料品を買ひ込んだ。そしてそれを提げて蒲田まで乗つた。蒲田駅はひつそりしてゐた。莨をふかしながら待つてゐるうちに、電車がもうお仕舞になつたことが解つた。彼は急いで町へ出てガレイヂで一台傭つた。
「おれは年取つてから、又こんな苦労をする!」彼はクシヨンの隅に寄りかゝりながら、夢のやうな長い過去を思返した。楽しい思出らしいものは何一つなかつた。作家の矜、人間の矜り、そんなものも疾くに何処かへけし飛んでしまつた。
療養所へつくと、鉄門が少し開いてゐた。彼は小さい体を横にしてそこから入つて行つた。松や楓の植込から、どす黝い池の水に架つた土橋、それから子供の病室をもれる
「どうだい熱は。」彼は薄目をあいた子供にきいた。
「今日は八度少し。」患者は懶げに答へて、又目を瞑つた。
彼はワイシヤツとズボンだけになつて、女中と並んで枕に就いたが、迚も眠れさうではなかつたので、蚊帳を這出して、窓ぎはの椅子にかけて、そこに有合せの雑誌に目をさらした。往来を隔てた葭の繁みに、行々子が時々そこ此処に性慾的な厭味な声を立てた。
夜明けが近づくと彼は室外へ出て、広い庭や野菜畑のあひだを逍遥した。葭簾張の下のベンチのあたりで彼はステツプを踏んだりした。するうち日が昇つて来た。
女中が寝道具を取り片づけて、部屋を掃除するまでには、大分時間がかゝつた。患者は昨夜彼が買つて来たメロンの一つを、目の上で楽しげに弄りながら、窓から差込む朝の太陽に半身を曝らしてゐた。手も足も竹のやうに痩せてゐた。
ソオセイジと牛乳と、それにパンとで、患者は朝の食慾を充たした。彼の食べるやうなものは何んにもなかつた。彼は町へ出て見た。どこを見ても何んにもなかつた。たゞ新しい佃煮屋が一軒あるきりであつた。彼はいくらか口にあひさうなものを少許り買つて帰つて来た。そして紅茶をいれさせて、パンと豆とで食事をすました。
「いづれ看護婦が来ることになつてゐるんださうだけれど、病院で附けたいとおもふ人が田舎へ還つてゐるんださうだ。それの出てくるまでお前はこゝにゐてくれると可いんだが······。」
素朴らしく、しかしどこか抜け目のない彼女はいつもの

「私厭ですわ。田舎へ還してもらいます。」
「さう、ぢや仕方がない。」
「昨日も誰方もおいでにならないもんですから、私一人で困つてしまひました。」
「病人が気むづかしくて······。」
「えゝそれもありますし、こんな寂しいところにゐるのは厭なんです。」彼女は部屋を出て行つた。
彼は子供のうへに目をやつた。
「お前何か又気むづかしくなつたんぢやないかい。」
子供は目に涙を浮べた。
「余り苛々しちや駄目だよ。熱が上るからね。どうせ長いんだから、じつと気持を落ちつけて、じり/\持ちこたへて行かなけあね。それあお母さんがゐればね。でもお母さんがゐたつて矢張りうまく行かないんだよ。兄さんもさう附ききりといふ訳には行かない。お前も
子供は何にも言得なかつた。
「あいつは

「昨夜も隣りの患者のところで、蓄音機なんかきいて、夜の十二時まで油を売つてゐたんだ。昼間だつて、大概他の病室の看護婦と話しこんでゐて、おれの傍へは碌に寄りついてもくれなかつたんだ。」子供はそれも怺へてゐた。
彼は父が比較的この女中を信じてゐることを知つてゐた。
知識慾と、生きようとする力の旺盛な子供に必要なものは、やはり精神的修養か信仰かだと彼には思はれたが、豊富な近代的知識を吸収するのに忙しい病床の青年の感情に取つては、合理性に乏しい主観の通用しさうな筈もなかつた。
次第に彼は疲労を感じて来た。そして壁ぎはに積み重ねてある蒲団のうへに横たはつてぐつすり寝込んでしまつた。
蒸暑い或る夜、彼は京浜電車に揺られてゐた。ダンス場で知り合つた人達の会が鶴見のホールで催された其の帰りであつた。仲間には大きな工場の長や、有名な博士や、帝大や三田出の紳士、若い作家、雑誌記者それに先生のT氏、その中にはマダムや令嬢や······ダンサアも一人交つてゐた。
電車が蒲田を出ようとするとき、ふと彼の子供の正雄が乗り込んで来るのに出逢つた。彼は深い安パナマを冠つて、小脇にガーゼの消毒器をかゝへてゐた。
「やあ。」ホールで知り合つてゐる二三の人が、正雄に視線を集めた。
「どこへ行つていらしたんです。」
「羽田からの帰りです。ふいと見ると、皆さんの顔が見えたもんで······。」彼は笑つた。
「あゝ、成程。ちやうど可うござんしたね。御病人は何如です。」
彼と彼の子供に関心をもつてゐるK氏が、懸隔てのないいつもの調子できいた。
「まあ可いですけれど······。」
「これから銀座へ出ます。御一緒にいらつしやい。いゝでせうお父さん。」
彼はにや/\しながら、容態をきいたりした。
「まあ、あのくらゐの熱でしたら······。もう少し落着いたら下るでせう。老院長が一度来ました。胸なんかちつとも悪くないといふんです。それあ誰でもレントゲンで見れば、八パーセントまで故障があるんだから、心配する必要はないんださうです。」
「さう、それなら可いけれど。」
「君捲きかへやつて見給へつて、到頭老院長の前で大体やらされてしまつて······。この新体詩祭に出席したとかで、あの頃の詩壇の懐旧談を聴かされました。大人は文章を作られるがつて、お父さんのことを······一度逢つてごらんになると可いですね。実に好い感じの老人です。昔の人は何だかやつぱり好いな。」
彼は一度訪ねて、お礼を言はなければ済まないと兼々思つてゐた。
「老院長はあすこで三郎を癒したいらしいんです。十分希望をもつてゐます。」
正雄はこの老院長の噂を、能く父に為て聴かした。まるで自身の父か叔父のことでも話すやうな親しさと楽しさを以つて。
ホールの仲間は、予て幹事が準備しておいた、銀座の或るレストオランの一室で、泡立つヂヨツキの幾箇かと鮮新な料理の三皿ばかりで、互ひに健康を祝し合つた。無邪気な諧謔と機智に富んだ洒落とが、ビーアの泡と一緒に口唇から湧き出した。そして其処を出たのは、銀座も漸く白ける比であつた。
彼は適度な散歩をしたあとで、円タクで家へ帰つた。
「······お芳が今日逃げて行きました。」
洋服の上衣をぬいで、汗をふいてゐるところへ、娘の静代が来て告げた。
「さうか。」
「納戸へ入つて荷物を纏めてゐるから、何だか変だと思つたんですけれど、私がももちやんをつれて買ひものに行つた留守に出て行つてしまつたんですの。」
「道理で昨日三十日でもないのに、買いものがあるから給料をもらいたいなんて······あいつ矢張り可けないんだね。」
その五日ほど前に、今一人の老婆も此の夏は田舎で暮したいからと、暇を取つて行つたが、あとで其の老婆を世話してくれた婦人の話によると、づゐぶんお芳がいぢめたらしいといふのであつた。
「どうしてもお芳さんが古くから居りますから······」と時々さう言つてゐた老婆の言葉を、彼は思ひ出した。
「あいつなか/\可けないんかも知れないね。」
「何も黙つて出て行かなくたつていゝのに······。」娘は可笑しがつてゐた。
そこへ正雄も風呂場で体をふいて、遣つて来た。
「あんな剽軽なやうなことばつかり言つて、大変づるい奴だつたと三ちやんは初めから言つてゐましたよ。」
「さうかも知れないな。多分田舎へ帰つたんぢやないだらうよ。」
彼は又憂鬱になつた。しかし当分人手を仮りることは思ひ止らうと思つた。
「それよりかお閑のとき、お父さん一度あちらへ入らつしやいませんか。」
その頃長男は療養所から少し隔つたところの、町なかの或レストオランの二階の一室に下宿してゐた。
「食べものはまあ相当です。鰻ぐらゐありますよ。親父さんに鰻の話を聞かされたが、顔を見ると本場か場違ひかわかるんですつてね。」正雄は呑気さうに、そんな話をはじめた。
「いや、あの辺も不景気で、芸者は五銭の湯銭もないんださうで······K||さんなんか、あすこで騒ぐといゝんだな。」
K||さんは今夜の幹事であつた。K||さんは何んな三味線にでもブルースのステツプを載せる人であつた。それを正雄も知つてゐた。
二時ときいて、正雄は二階へ上つて行つたが、彼は
朝になると、彼はそつと台所へ出て、白げられた笊の米を釜に移して、ガスにマツチを摺りつけた。味噌や鰹節やお汁種を捜した。味噌は壺の底に茸のやうに黴になつてゐた。納豆売の来る頃には、娘もおきて来て、少し迷惑のやうに、働きはじめた。するうち四男も末の娘の子も起きだして来た。
彼は当然自身の所属になる部屋を二つばかり掃除をして雑巾がけをした。息が切れさうなので、板敷の間で、椅子にかけて煙草をふかした。日が庭の半面へ差しかけて来る頃、甘い眠りが襲つて来た。彼は奥の部屋に蒲団を延べ直して、安らかに体を横たへた。今日は簾を買つて檐に吊したり、新しいカアテンを買つて家を夏らしい美しさに装はうと思つた。するうち彼は眠つてしまつた。
(昭和5年9月「文芸春秋」)