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草いきれ

徳田秋聲




 漁船などを※(「にんべん+就」、第3水準1-14-40)やとつて、××会の同志の若い人達六七人と、若鮎の取れる××川に遊んでの帰り、郊外にあるI|子の家へ三四の人を誘つて行つた頃には、鮎猟の真中さなかに一時しよぼ/\と雨をふらしてゐた陰鬱な梅雨空にもいくらか雲の絶え間が出来て、爽かな星の影さへ覗いてゐた。

 I|子はその頃転地先を引揚げて、そこにひそやかな隠れ家のやうな家を一軒もつてゐた。木香の由かしい、天井の高い、床や違棚の造り方の、厭な気取のないところに古雅な趣きをもつた奥の八畳が、この頃初めてI|子に誘はれて来たときから、杉田の気に入つてゐた。そこは杉田が時々仕事をもつて遊びに来るやうにと、余り人目につかないやうな処を択んで、I|子の子供の師匠である舞踊家のF|さんが捜してくれた家であつた。子供思ひのI|子のために、F|さんが自分の家の近くにとの心遣のあつたことは勿論であつた。

 往来からそれて爪先きあがりに四五間坂を上つたところの、樹木の影の深いところに門があつた。そして玄関から上つて、籐椅子などのある応接室の外に通つてゐる廊下を行くと、その座敷の廻り縁へと出るのであつた。K|君M|君、それからN|子さんなどが、一日の清遊に疲れた躰を、小さい餉台のまはりに取つた座蒲団のうへに休めて、紅茶に砂糖をいれたり、煙草を吸つたり、枇杷を摘んだりした。

「いゝわね。気取つてゐるぢやないの。」N|子さんは室内を見廻はしてゐた。

「いゝえ、だつてY|さんなんか立派な文化住宅にお住ひになつてゐるぢやないの。」

 I|子は友達の来たことを、ひどく嬉れしがつて、そこらを取片着けたり、土産に籠にして来た鮎をF|さんへ持たせてやつたり、何か早速間に合ふやうな手軽な晩飯をと、留守をしてゐた若い洋画家のK|子さんに丼を誂へるやうに吩咐いひつけたりして、そわ/\してゐた。

「私あんなもの追てたけれど、矢張り日本趣味が好いと思ふわ。町なかへ引越さうかとも思つてゐるの。」彼女は洋装の膝を少し崩して、慎ましやかに煙草の煙を吹いてゐた。

 やがて陽気な談笑だんせうのうちに食事が初まつた。

 縁先きには近頃植えたばかりの木の影が濃く重なり合つて、一部だけが電燈の光を受けて、葉がつる/\してゐた。

 皆んなは話興が湧いて、そのまゝ別れるのが飽足りなく感じられた。

「どこかへ行きたいわね、二次会に······。」N|子さんが言ひ出した。

「どつかへ行きませう。」I|子もはづんだやうに顔を耀かせて言つた。

「僕んとこへ行かう。」杉田は発議した。

「先生の家なんか、いつでも行けるから詰らないわ。私色々なとこ見たいわ。先生は以前M、N|さんなんかと吉原へ入らしたことがあるんですてね。」

「さあ。行つたといふほども行かないけれど、地震前に二三度、M、N|君とT|君と三人づれで老妓の歌なんか聴きに行つたことはある。けど、今は知つたお茶屋もないから。」

「わたし一度つれてつてほしいわ。」N|子さんが言ふと、I|子も、

「わたし小唄を聴くのが大好きよ。手近に聴くところがないから加賀寿々なんか聴きに、時々寄席へ行くのよ。」

「それ好いの?」

「上手よ。ねえ先生巧いわね。||一芸に秀でた人はどこか態度にぴたりと極つたところがあるのね。音曲でも舞踊でも、優れた芸を見てゐると刺戟されるのね。||好い唄を聴きたい。新らしい女で吉原へ行つた人があるでせう。」

「お茶屋ならね。己は駄目だけれど。」

「M・N|さんが今日来ると可かつたわ。お金持だから。」

「今度おごつて貰つたら可いだらう。」

「え、是非。ね、I|子さん!」

「え、あの方なら屹度おごつて貰へてよ。」

「まづい唄なら聴かしても可いけれど。その代り泊らなけあ。」

「いゝわ、泊つても。」

「けど鮎が······。」

「一と晩くらゐ大丈夫よ。」I|子が言つた。

 M|青年やK|青年が帰りかけた。

「ぢやね、一と籠家へ持つて行つて子供達に食べさせるやうにしてくれたまへね。」杉田は杉田の家に大抵寝泊りしてゐるK|青年に頼んだ。

「僕すぐ帰ります。」K|青年はさう言つて、M|君につゞいて座を起つた。


 雨雲の隙から、星の濡れた光をおとしてゐる空を仰ぎながら、杉田がN|子と坂の下の闇がりに待つてゐると、I|子はすつかり戸締りをして裏口うらぐちの方から、家主の庭を突つきつて来た。白い足袋の爪先と匂ひやかな顔の輪廓とが近づいて来た。

「降らないか知ら。」杉田は何か心咎めのするらしい面持で、ステツキを振りながら、又一度空を仰いでみた。

 行先きが別に大してさう世間に憚かるといふほどの処でもなかつた。たゞ鉱泉なんかゞあつて、箱なぞの入るのが悪いといへば悪いのであつた。彼はI|子の家にゐると、何か知ら気分も落着かなかつた。I|子も杉田の書斎にゐると、彼がI|子の家で感ずるより以上の憂鬱さを感じた。二人は何うかすると其の孰にも属しないひそやかな世界を慾した。さう云ふ世界が又二人に取つて不安であるのは仕方のない事であつた。今N、Y|子をつれて行かうとしてゐる処も、そんな種類の家でしかなかつた。杉田とI|子は最近そこで書いたり読んだりしたことが二三度あつた。女中たちは、子供のやうに無邪気で男の子のやうに快活なI|子に微笑ましい親しみをもつてゐた。若し二人の生活がどこかに帰著することができるならば、何んな狭い部屋でも、それが二人のものとして、静かに書いたり読んだり出来るならば、鉱泉宿の雰囲気などは決して望ましい処ではなかつた。

「偶にはいゝさ。」

「さうよ。」

「けど余り歌の巧い芸者はゐませんよ。それに此方がやれないんだから、うたはせるのに気骨がをれて。」

「庭が広くて、家も大きくて静かだから勉強には持つてこいなの。」I|子も言つた。

「さう、何でも可いわ。」

 その家はさうこせ/\した下町風したまちふに気取つてもゐなかつたし、普通郊外の鉱泉宿のやうに俗悪ではなかつた。

「どうも遠い旅に出られないんでね。」杉田はこぼした。

「さうね。」

 タキシイが其の門のうちに辷りこんだのは、三十分もたないうちであつた、そして目隠しの植込をめぐつて入口で駐まると、女中が二三人、杉田におくれて車をおりるI|子の姿を見ると、にこ/\して愛相よく出迎へた。三人は長い廊下を二三度回つて、広い平庭に向いた尽頭はづれの茶がゝつた部屋に案内された。杉田はいつも極りの悪い思ひをしながら、わざとづかづか上るのであつたが、仕事をしに来ることを、皆んなが解つてくれてゐるので、割合気がおけないのであつた。

「好いわね。私もこゝへ来て書かうか知ら。」Y・N子が四下あたりを見廻してゐた。

「さうなさい。静かで好いのよ。萩や芙蓉が沢山あるのよ。||先生、木がづゐぶん繁りましたよ。」

「さうね。月があると好いけれど。」

 お茶を一杯飲んでから、三人打連れて風呂へ入つた。白い繊細きやしやな躰と、やゝ黄色い、これも※(「兀のにょうの形+王」、第3水準1-47-62)ひよわさうな躰が、略※(二の字点、1-2-22)同じやうな脊丈をもつて、二人とも断髪姿で何か嬉しさうに話しながら浴場へおりて来ると、真先きに裸になつた杉田は栓をひねつて水をうめてゐた。そして杉田が一度浸つて流し場へ上つた頃に、二人は漸と入つて来た。

「一度髪を切ると、余り便利で、伸ばす気にはなれないのね。髪を結つてゐたことを考へると、迚も憂鬱よ。」I|子が言つた。

「さうよ。」

「Y|さん此の頃すつかり板について来ましたわ。こゝいらの髪の取り方が、迚も工合好く行つてゐますわ。」I|子は片方の額から髪のあたりへ手をやつて見せた。

「さう。」N|子は気のない返辞をしてゐた。

「この夏も、いつかの信州の温泉へ行きますか。」

 杉田はY|子にきいた。今から子供の避暑地のことなどが、一日一日と夏らしくなるにつれて、急に気にかゝりだした。

「いゝえ、軽井沢にしようと思ひますの。」

「洒落れてるわね。」

「さう云ふ訳ぢやないけれど······近頃は生きるのもなか/\大変ね。暑くなれば私達だつて人並みに避暑にも行きたくなるし。」

「さうよ。でもY|さんは好いわ、一人だから。私なんか前の結婚生活がどこまで祟つて来て。」

「でも好いぢやないの。この間まで逗子にいらしたぢやないの。」

「病気だつたんですもの。それに都会的な享楽から脱れて、みつちり勉強したいと思つたからよ。子供をもつてゐると、これでなか/\大変なものよ。子供さんの多い先生の家にも色んな生活上の複雑した煩累も多いんですもの。」

「I|子は悪いわよ。S、Sは可哀さうよ。」

 S、Sとは杉田のペンネームであつた。

 I|子は軽い驚きの、小鳥のやうな無邪気な目をした。

「何うして?」

「何うしてつて······。」

 杉田のものであつたI|子に、最近おこつた恋愛事件を、Y|子が言つてゐるのだとしか思へなかつたので、I|子の心持や前後の経過を知りつくしてゐる杉田には、ちよつとした或る痛みを胸に感じた。

 I|子も強ひて弁解しようともしなかつた。その前後の悲しい悩みの多かつた思ひを辿ると、簡短には説明できないやうなものが胸に一杯塞がつてゐた。

 先きへ上つた杉田がせい/\した気持で、部屋で煙草をふかしてゐると、やがて二人も上つて来たが、I|子は次ぎの室で鏡台の前に坐つて化粧をしてゐた。

「ビール飲まない?」杉田がN|子にきいた。

「え、飲むわ。お酒いたゞかうか知ら。先生は。」

「私も酒なら少し飲んでもいゝ。」

「I子さんは?」

「わたしは駄目。一口でも飲むと、ふら/\するの。」

 N|子は酒にでも酔はなければ、言へないやうな事があつた。

「唄を聴きませうよ。あの、吉原から来てゐる人居ないか知ら。」

「さうね。」

 酒が初まつた時分に、その女が来た。目のぱつちりした、毛の好い、二十二三の、こゝで見たうちでは一番美しかつた。気さくに能く三味線を弾いた。

 晴々した咽喉で、彼女は小さいものを二つ三つ謳つた。

「私も少し教はりたいと思つてゐるのよ。少しはやつたこともあるの。」さう云ふN|子の前に、二本目の銚子がおかれた。

「さう。いつの間にお稽古したの。」

「なあに、お稽古といふほどぢやないけれど······。」

「私も先生にかう云ふ趣味があるから、少し遣れると好いと思ふのよ。でもそんな事するよりか、矢張ひと向きに小説を勉強した方がいゝと思ふの。おやんなさい、聴かして。」

「さうよ、ブルヂヨウアの奥さんのする事よ。」

「奥さん稼業も遊んでゐられて好いもんだと思ふけれど、それぢや矢張り空虚で生きて行けないのね。」

 I|子もN|子も、過去現在の恋愛の有無は兎に角として、男性や物質にばかり頼よつて生きられない種類の女に産れついてゐた。そして生きる道から言つて、芸者を卑しみはしなかつた。

「わたし長唄をやるわ。」N|子は二本目もほゞ空になりかけたところで、芸者の方へ向き直つて坐ると、両手を膝においた。芸者は少し狼狽へたやうに、彼女を見た。

「勧進帳よ。」

「大きく出るな。」

 N|子は興に乗つて燥いでゐるのでもなかつたが、憂鬱になつてゐるのでは尚更なかつた。カフエでコーヒを飲むときと同じやうな自然さで、静かに飲んでゐた。そして糸につれて微声で唄ひはじめた。声が時々途絶えたが、芸者と合せて、兎に角つゞけた。

「駄目よ、みな忘れちやつて。S、S|は謳はない?」

「先生は太い方なのよ。」

「さう。」

「I|子、追分をやらないか。」

「駄目よ。」

 芸者がやがて貰はれて行つた。後で女中の話したところでは、彼女は或る有名な銀行家の第何番目かの女であつたが、此の頃その銀行が破綻を来したので、駄目になりさうだといふのであつた。

「もう一本取つても可いわね。」Y、N|子が三本目を要求した。

「なか/\飲むんだね。」

「今夜は格別よ。づつと罷めてゐたんだけれど。」

「先生、水菓子をさう言つちや悪い?」

「枇杷?」

「何でもいゝの。」

「I|子はもつと私に打明けなけあ駄目よ。」Y|子がとろりとした目をして言ひ出した。

「だつてY|さん、づゐぶん私には皮肉だつたぢやないの、私が親しまうとしても、いつでも意地が悪いんだもの。」I|子は紅い笑顔をして、枇杷を食べてゐた。

 I|子の言ふやうな場合もあつた。I|子がS、S|と今のやうな関係におちる迄は、N|子もI|子が好きだつたと言つても差閊はなかつた。

「私は何んな人であらうと、S、S|の愛するものなら、悦んで手を取り合つて進めるのよ。私は決してI|子に悪意はもたないのよ。I|子が悪いのよ。私に力になつてくれと言へば、私はいつでも貴女の味方よ。」N|子は興奮はしなかつたが、少し熱して来た。

「それは解つてゐるわ。」

「S、S|は私の大恩人よ。S、S|がなかつたら、N|子の作家としての存在は今頃何うなつてゐたかわからないのよ。」N|子の調子がやゝ激越して来た。

 杉田は擽つたい感じであつたか、偽りのないN|子の気持が皮を破つて出たやうに思へた。

「そんな事があるものか。」杉田は笑ひに紛らせた。

「己がY、N|子に何をしたといふんだらう。たゞ選者としての責任を果しただけなんだから。」

「S、S|は責任を果したに過ぎないかも知れないけれど、私に取つては大恩人なのよ。」N|子の舌は心持縺れ気味のやうに思へた。「私は忘恩の徒にはなりたくないの。何んなことがあつても、恩は恩としての感謝をさゝげたいの。ちやうどI・K|が師匠のO・K|を神のやうに崇めきつてゐるやうに、崇めたいの。その先生の愛するものなら、やつぱり先生の愛人として擁護して行きたいのよ。だから私はその場合で、面と向つては多少I|子さんに皮肉な態度は取つたかも知れないけれど、Z、H|子のやうに、蔭で悪口を吐くやうな卑劣なことはしなかつたのよ。」

「Z、H|子さんそんなに悪口を言つた?」

「言つたわ。」

「それは私にも解つてゐる。先生のお宅の会の時ですら、あの人づゐぶん我武者羅に私にぶつ突かつた。さすがのOさんですら、私に同情したくらゐよ。それは皆んなが私の着ものを讃めたことからだつたのよ。」I|子は擽つたいやうな顔をして、

「何だかこわくなつたから、私席をはづしてしまつたの。」

「あの時もさうだつたけれど······今だから言つて可いと思ふの。私は決してそれに雷同はしなかつたのよ。だけど、I|子も悪いのよ。私はS、S|のお宅へは随分古くから上つてゐるのよ。」

「そんなことも解つてゐるわ。私貴女の処女作を女学校時代に読んだものよ。」I|子が言つた。

「I|子さんが一言、私に打明けてくれさへすれば、謂はゞ私は貴女の先輩だし、決して貴女の不利益になるやうなことはしなかつたのよ。それあ私だつてI|子さんのやうな人がゐてくれゝば、先生のところへ行くのに、何んなに気持が自由だか知れないのよ。苦い顔してるS、S|ぢや窮窟だけど、I|子さんだつたら、御飯時には御馳走してちやうだいつて、遠慮なく言へるし、何んなに楽しいか知れないのよ。貴女の思案に余るやうなことがあつた場合に、私に一言話をすれば、私だつて何んなことだつてしてあげられるのよ。」

「さう! さう言つていたゞくだけでも有難いわ。」

「私も今は力がなくて駄目だけれど、小説だつて私がもつと豪くなれば||勉強してきつと豪くなるつもりだから、さうしたら貴女のところも引立てゝあげられるのよ。」

「さうお!」

 杉田は、それほど酔つても、猪口を措かうとしない今夜のN|子の、I|子を通しての可憐いぢらしい感情に、始終周囲の人々に対して、あやふやな胡麻化しで通して来た彼の気持や態度に恥を感じた。自分の卑小な仕事が省みられた。

「私は十年も前に、作家としてS、S|に発見されたのよ。あの時の選評は今でも大事に仕舞つてあるけれど······それはS、S|だけのお蔭とも言へないかも知れないけれど、私のより外に取るのがないと言ふので、わざ/\点を殖してくれたりしたことを、後で社の人に聞いて、何のくらゐ感謝したものだか。」

「U、Iさんの点が少かつたからね。あの人は忙しくて全部読まなかつたんぢやないかと思つたね。でなくてあんな点の附方つてあるものぢやない。あれは好かつたな。」

 杉田はその頃のことを想ひ起すと同時に、清新で可憐な作中の人物や状景が歴々浮き出して来た。

「あの女主人公私大好きよ。」

「緑だつたね。」

「兎に角奥さんの亡くなられた時、私なんかもつと早く駆けつけて可いのよ。行つてみると、Z|さん夫妻が······殊に細君のH|さんが、私が一切遣つてゐるんだと云ふ風に、づゐぶん威張つてゐたものよ。」

「いや、それは外にちよつと頼みたいことがあつて、Z|君に電報をうつたので、それが自然通知にもなつたからなのさ。私にして見れば、働いてもらふのが遠慮で······。」

うちの先生はいつでもうなのよ。それが可けないのよ。先生が思つていらつしやるやうなものぢやないのよ。あゝ云ふ時は、誰れにしても一ツし働かしてもらひたいものなのよ。」

「さうか知ら。」

「さうですとも。ねえ、Y|さん!」

「それあさうよ。」N|子も頷いた。

「有難いもんだな。」

「づゐぶん色んな事があつたらしいのよ。」

「ちつとも知らないな。」

「私なんかも、あのお葬式の日、T|さんが来て、女の人も一人弔辞を読んだ方がいゝから、Y|さん貴女お読みなさいつて言つたのよ。私も読んでもいゝと思つてゐたんだけれど、脇を見ると、O|子さんが変な顔をしてるやうに見えたのよ。年上ではあるし、私O|子さんに、貴女お読みになつたらと言つたのよ。結局あの方が起つことになつたんだけれど、だつてそれは自惚でも何でもない、あの方のもよかつたには好かつたけれど、私の方がもつと好かつたのかも知れないと思ふわ。」

「それあさうよ。」

「さうかな。」

「さうなのよ先生。先生の思つてゐるやうなものぢやないのよ。」I|子も力を入れた。

「しかしあれはO|さんの傑作だつたと思ふね。」

「それはさうなの。」N|子も同じた。

 I|子はまだ酒を切り揚げなかつた。細い撓みのある声で、舌の少し縺れかゝつた彼女の話が、縷々として止む時がなかつた。


 別の広い部屋で、蚊帳のなかへ入つてからも、N|子の話は尽きなかつた。五本目の銚子が枕元へ持ちこまれたまゝで、さすがに其には手がつかなかつた。

 I|子が真中に、N|子と杉田が両端に寝てゐた。

 雨の音が庭木や廂に、ざあ/\聞えた。雷が近づいて来た。外はいつの間にか、ひどい荒れになつてゐるのであつた。

「I|子さん、ほんとうに急がない方がいゝわよ。さうS、S|を煩はしちや可けないから、私は私でこれからうんと勉強して、豪くなるつもりよ。さうしたら屹度貴女にも力を貸すから、みんなで好いものを書きませうよ。」

「ほんとに好いものが書きたい!」I|子も応じた。

 鼓膜を劈くやうな雷が、近くで又爆発した。

 暫らくするとN|子がふら/\と起ちあがつて、蚊帳を出た。

「飲み過ぎちやつた!」

「何うしたの?」

「少し吐気がするの。」

「さう! 大丈夫!」I|子はさう言つて、蚊帳を這ひ出して後からついて行つた。

 少しばかり吐いたらしかつたが、直きに又蚊帳へ入つて来た。

「お酒はこわい!」N|子は呟いた。

「酒は止すと可いね。」

「え、この頃飲んだことはないんですけれど······。」

「苦しい?」

「少しね。」

「頭を冷してあげませうね。」I|子はさう言つて、手拭を絞つて来た。

 杉田も部屋を出て、長い廊下を通つて、勝手の方へ行つて見た。寝ずの番が二人ゐた。氷を求めたけれど、冷蔵庫には鍵がかゝつてゐた。

「何か薬がないか知ら。賓丹か清心丹か。」

「さあ。」

 仕方なし杉田は引返した。

 I|子はN|子を撫でさすつて居た。N|子はうと/\と眠りに陥ちてゐるらしかつたが、やがて再び起出して厠へ行つた。


 翌朝床を離れて風呂に入つたのは、九時頃であつた。

 庭の青葉に小雨が降つてゐた。やがて朝食がはこばれたが、Y、N|子は食べなかつた。そして同棲の友M|子さんへ電話をかけたりした。

 みんな寝不足で、頭が悪かつた。

「私お暇するわ。そのうち此処へ勉強に来るかも知れないわ。」N|子は縁側の椅子にかけてゐた。

「いらつしやいね。私達も亦来ますわ。こゝは先生の気に入つてゐるのよ。」

「家をあけて遠くへ出ることが出来ないからね。」

 雲が切れて、薄日が差して来た。N|子は間もなく帰つて行つた。M|子さんが学校へ行くので、家があくからであつた。

「もつと入らつしやいよ。一緒に帰るから。」

「有難う。また。」

 送り出したI|子は部屋へ帰ると、ちよつと鏡にすわつて顔を出した。

「大変ね、これから寂しい郊外の家へ帰るのは。生きて行くといふことは、なか/\大変ね。私なんか幸福といふものだわ。」

 杉田は寂しく頬笑んでゐた。

「だけど昨夜のN|子は可憐だね。」

「みんなあんな風に思つてゐるのよ。」

 そして彼女は浮き/\したやうに、

「こんな曇天もいゝぢやないの、お庭へ出て見ませう。」I|子は尻上りのアクセントで彼を誘つた。

 濡れた飛石をわたつて、楓や青桐のあひだをそちこち歩いた。蹲躅が棄石の蔭な□に咲きのこつてゐた。

 芝生を蹈む足のまはりに、草の仄かな瘟気いきれがして、梅雨の晴れ間の風の肌ざはりが、佗しい感じを杉田に与へた。

「ふ、ふ、ふ」と。I|子は少年のやうに口笛を吹きはじめた。

(昭和2年10月「新潮」)






底本:「徳田秋聲全集 第16巻」八木書店

   1999(平成11)年5月18日初版発行

底本の親本:「新潮 第二十四年第十号」

   1927(昭和2)年10月1日発行

初出:「新潮 第二十四年第十号」

   1927(昭和2)年10月1日発行

※底本の親本で一字脱字の文字を底本は□で表示しています。

※「N、Y|子」と「Y・N子」と「Y、N|子」、「M、N|」と「M・N|」の混在は、底本通りです。

※「I|子はまだ酒を切り揚げなかつた」の「I|子」は「N|子」と思われるが初出も「I|子」なので、注記はつけていません。

※「感じであつたか、」は「感じであつたが、」と思われるが初出も「感じであつたか、」なので、注記はつけていません。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:きりんの手紙

2021年1月27日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。





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