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歯痛

徳田秋聲




 M|市を通つてA|温泉へ着いたのは、もう夜であつた。

 今年は殊に万遍なく暑さの続いた夏の半以上を東京で過した融は、愛子同伴で、次男の養子問題についての用件を帯び旁々三四日の予定で、山の空気を吸ひにS|湖畔の親類を訪ねた帰りを、彼は煤烟に悩まされ通しの、中央線を避けて、途中どこかへ寄つて別の方面から帰るつもりで、交通の便利のいゝA|温泉へと立寄ることにしたのであつた。彼がその温泉を見るのは六七年目であつた。格別気に入つてゐた訳ではなかつたけれど、死んだ娘を旅へ連れ出したのは、その温泉より外にはなかつたので、何んとはなし心を惹かれるのであつた。

「ほんの遊散場に過ぎないんだけれど、割合色々いろんな人が行つてゐるんだ。」融はM|市を通過しつゝある自動車のなかでそんな話をした。

 わづか三四日の旅行なので、成るべく有効に使ひたいと思つたし、この山国には行つて見たい処が沢山あつたけれど、結局そんな平凡な処へ落著くより外なかつた。子供達を海岸へやつてある関係から、東京を長く離れることは許されなかつた。

「さう。何処でも可いのよ。出た以上は少し旅行気分を味はつて帰りたいわ。」

「A|で一泊して、それから又途中どこかへ寄らう。何んなところか軽井沢へおりて見ようかしら。」

「好いわ。行きたい!」

 融の亡妻の親類であるだけに、好意はもつてゐてくれても、愛子に取つては何となし息苦しい其の家を立つて来たので、彼女は遽かに元気づいてゐた。

「私幸福よ!」愛子はさう言つて、袴をはいた彼の膝のうへに片手をおいた。

 親類の家を立つとき、彼はごわ/\した袴を穿いた。平易な装の好きな彼が何のために袴をはいたのか、それは彼自身にもわからなかつた。多分湖畔では、事によると何時かのやうに同好の人達が集つて、自分を招くやうなことがないとも限らないと、さう思つたので、袴だけは用意して来たのであつたが、近来芸術家としての彼の値打も大分下落してゐたのに、二タ晩しかゐなかつたので彼の来たことは誰の耳にも触れずに済んだのであつた。トランクが一杯なので、荷嵩を低くするためでもあつたが、愛子をつれてゐると、多勢の人に彼が誰であるかゞ直ぐ判るので、いくらか体裁を繕ふ意志も働いてゐないとは言へなかつた。彼は形式家ではなかつたけれど、しかし又まるでそれを無視するほど超越してもゐなかつた。彼は汽車のなかで、時々それをかなぐり棄てたいやうな気がしてゐた。

 馴染の旅館の門の内へ自動車が辷りこんだ。そして二人は風通しのいゝ二階の一室へ通された。

「こゝなら好いね。」

「え、好うござんすわ。おゝ好い気持だこと。」彼女は手摺のところへ出て、M|市の町の灯の遠くに見える夜色を眺めてゐた。

「この家にはちよつと極りが悪いんだよ。」融は浴衣に着かへるべく、袴を取りながら言つた。

「さう。」

「前に来たとき、下の部屋で、女中が火をもつて来て、十能を引くら返して、取替へたばかりの青畳を台なしにして了つたんで、其の上へ火鉢を置くやうにしてゐたけれど、帰つたあとで多分僕の所為になつてゐやしないかと思ふんだ。」

「ほ。」

「四月のことでその辺に菜花が咲いてゐたが、風邪が癒らないんで、M|市の親類の家へ、予定より早く引揚げたんだがね。後からわざ/\主人の弟が自身豆腐を運んでくれたりして······豆腐はこゝの名物だ。」

「さう。食べたい。けど、介意はないわ、そんな事!」

 料理のうちに桜豆腐も註文して、風呂へ行つた。丈の高い彼女は、つんつるてんの浴衣を着て、躍りながら廊下へ出た。

 風呂場の勝手が大分ちがつてゐた。いくつかの家族風呂が増築されたばかりで、部屋も新築されたらしく、新らしい廊下を伝つて行くと、まだ壁の塗られない箇所があつたりした。

 湯に浸りながら、融は今親類にのこして来た子供のことを思ひ出してゐた。総てを計算すると、融にしては殆んど一年弱の勝手元の費用に近いものを、瞬く隙に濫費した彼ではあつたけれど、百方悶※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)いた果てに行詰つて、あのやうに萎れてゐるところを見ると、やつぱり胸に痛みを感ずるのであつた。

「それでいくらか実世間に触れて、やつぱり順序正しく進んで行くより外ないと云ふことが解つてくれゝば、費つたものは惜しむに足りないんだ。己が何をしてゐたつて、お前達はお前達で勉強してゐれば可いぢやないか。己には己の生活があるんだし、お前達にはお前達の箇人々々の生活があるんだから、混同しないやうにしなければ可けない。己を苦しめるのは可いとしても、自分の生活を壊すのは莫迦々々しいぢやないか。己も遅いかも知れないけれど、お前達に女はまだ早い。酒もぴつたり止しなさい。」

 父と愛子との問題もあつたには違ひないが、一年休んでゐるうちに彼自身学校が厭になつて、もつと気安い世間並の生活に取りつかうとしたことは明らかであつた。不良な友人と酒と女とが、弱い彼の頭脳を滅茶々々にしてしまつた。

 親類の家にゐる彼の顔は、憑いてゐた狐がおちたやうに、げつそりしてゐた。日々の生活に怠屈してゐるやうにも見えたし、水商売のあの家の養子として悉皆板に着いてるやうにも見えた。

「強いて引立てるのも何うかと思ふんだね。」

「でも寂しさうだつたわ。今に東京へ出てくるでせう。先生のお子さん方には、先生の家よりよいところはないんですよ。」

「しかしあれはあれで可いんぢやないかな。そんな気もする。」

 何だかみつ子が泣いてゐるやうな幻が浮んで来た。十年前まだ四つか五つであつたみつ子は、その旅行のあひだよく泣いた。学校へ上るやうになつてからは、悉皆それを忍ぶことを覚えた。そして年々に誰れよりも優れた頭脳と才能の芽生を見せて来た。

「あんな子が何うして死んだのかな。今でも不思議だな。」

 いつかしら彼は愚に返つてゐた。

「死んだ家内はあれ一人を頼りにしてゐた。」

「葉子ちやん似てるといふぢやありません?」

「いくらか似てゐるけれど······。」

 彼女はまた一昨年の暮に亡くなつた弟のことを言ひ出した。

 融は憂鬱になつてゐた。しかし部屋へ還つてからは直きに晴れやかになつた。二人は食膳に向つた。

「豆腐はどうだ。」

「おいしいわ。でも少し硬いのね。鳥鍋の方がずつと好い。」

「何んにもないね。」

「これで沢山だわ。気分よ。余所の家で食べものを遠慮なんかするの厭! 食べた/\としなくて。先生の家ではそんな事ないけれど。」

 彼女は童女のやうにふるまつてゐた。


 翌朝は別の部屋にゐた。昨夜寝所がそこに延べられた。

 朝飯をすまして、一昨日から昨夜にかけて愛子が読んだ小説の話なぞしながら、融は行先きを決しかねてゐた。

「先生の好いところなら何処でも好いわ。」

 そこへ宿の主人が短冊をもつて来た。

「いつか書いたときより、いくらか上手になつたかな。」

「里村先生にも何うぞ。」

「ふ。私なんか。」

「この人は歌です。字は此頃一茶を稽古してゐます。」

「さうですか、是非どうぞ。」

「こゝは一茶の本場だからね。」

「さう。」

「一茶のやうな字は書けないね。」

 主人は一茶のことを能く分つてゐた。彼は俳人であつた。そして暫らくすると、一茶の幅や草稿のやうなものを幾つも持ちこんで来た。到頭彼は乞ひによつて「門凉み」の画讃の軸の箱に字を題してしまつた。

 短冊帖が其の後から二人の前に展げられた。

行く当てもないのに急ぐ旅路かな

 といふ句がふと目を引いた。それはM、H|氏のものだつたからであつた。

「面白い。あの男の全部だ。」融は声を出して快笑つた。

「好いわね。」

「字も面白い。」

「さうよ。」

 軽井沢へ行く汽車の時間と道筋を調べなどしてから、二人は其処を立つた。

「町を少し見せて!」

 自動車が町へ入つて来たところで、彼女は言つた。

「さうね、かう云ふ町はどこも型が極まつてゐるからね。天主閣でも見るかね。」

「どこでも可いわ。」

 城のお濠のあたりは、去年彼女に案内された彼女の国での都会A|市に似てゐた。

「どこへ行つても、皆なかうやつて遺つてゐるものなのね。怠屈さうだわ。」愛子はステイシヨンへ向ふ途中、町筋を眺めながら呟やいた。


 M|市から乗換場所のS|駅へ出る途中の暑さといつたらなかつた。どこへ行つても風は一滴もなかつた。しかし途中の自然は彼等の目を楽しましめた。融の疲れた体に汗がじり/\入染出た。頭脳が蛆でも湧いてゐるやうに、感覚がもやもやして来た。彼は今まで気がつかずにゐたが歯根の腫れあがつてゐるための発熱が、殊にも彼の気分を悪くしてゐた。歯痛は時候の変り目などに、時々彼を悩ませた。彼の生活は近頃殊に不規則になつてゐたので、いつ根底的に歯の療治をするといふ日もなかつた。膿が屡々骨までうづかせたが、でも年を取つたら何うなるかと思はれる歯が、順々に徐々に蝕まれて行つても、何うかかうか生命を支へるのに大した支障を来さない程度には保つて来たので、一本一本と衰へて行く歯に人生の黄昏を物寂しく感じながらも、思ひ切つた療治もしかねてゐた。それは又日がくれて道の遠い彼の人生の姿にも似たものであつた。彼には解決しなければならない問題が眼前に沢山横はつてゐた。現実の力に引摺られすぎる弱さが、いつも彼を臆病にした。

 融は歯の腫れてゐることに気づかないほど、暑さに茹つてゐた。彼はその熱がどこから来るかを知らなかつた。

「遣り切れない暑さぢやないか。」融は泣顔をかくすやうな顔に笑つた。

「ほんとうに。早く凉しい処へ行きたい。」愛子は怠屈らしい苛ついた表情をした。

「しかしお前は汗をかゝないやうだね。」

 実際また何時でも清らかに見える彼女であつた。

「さうでもないわ。ガーゼの肌襦袢がじつとりよ。帯といふものが又何といふ厄介なものなんでせう。でも洋服は貴方は厭でせう。」

「いや、さうでもないけれど······。」

「さう。」

「おれは矢張体が悪いね。」

「そんな事ないわよ。暑さに疲れたのよ。私も目がくら/\するの。」

 乗替駅のS|近くへ来た頃には、それでも日がもう沈みかけたところで、いくらか凌ぎ易くなつた。久しく目に馴染んでゐる温泉場の広告立札が山の裾に並んでゐるのが見えたりして、熱病患者のやうな融の遊意を刺戟した。彼は軽井沢までの切符を買つてゐたけれど、未だ一度もおりて見たことのない其の土地に、妙に一種の反感に似たやうなものを感じてゐた。その理由は彼自身にも明瞭はつきりしなかつた。別荘地だけに、ブルヂヨウア気分が濃厚だらうといふ、先入的予感も確かに一つの理由であつたが、避暑地として近来尤も人気が多いと云ふことや、初め外国の宣教師によつて発見されたといふ其の高原地が、外人の新発見なるが故に、殊に有難味を感ずるといふよりも、日本人では自国の避暑地の発見すらが外人に待たなければならないのだと云ふことが、何かしら日本の国土に住む日本人としての不安を感じしめるのであつた。

 つひ去年の此の頃のことであつた。彼は友人の知つてゐる或る大ブルヂヨウアの思ひものであつた婦人を、友人と一緒に訪問したことがあつた。彼女はその時、ちやうど夏から秋へかけて、毎年そこの別荘に立籠ることになつてゐる軽井沢から、二三日中帰なかがへりしてゐた。そして連りに其の避暑地気分を称讃してゐた。

「軽井沢から伊香保へ行くと、まるで貧民窟へ来たやうですの。問題になりませんね。」婦人は言ふのであつた。

 その上彼は自分の恋愛に対してその婦人から意見でもされてゐるやうな高慢な態度を示された。彼女は延いて日本人の文学が、総て外国の模倣で、それゆゑ舶来品に比べて、無下に劣等なものであることを口にした。勿論善良で無教養な彼女は頭の天辺から、足の爪先きまで凡俗な物質主義で凝つたやうな旧い型の女であつた。

 融はまた今朝A|温泉で見たM|の俳句から、夫婦きりで軽井沢における愛と芸術の幸福な彼の生活を想見して、何かしら羨望的なものを感じてゐた。長いあひだ仲間のうちでは一番気が合つてゐると思はれてゐた彼から、真向上段に振翳された融の恋愛問題と芸術生活についての最近の非社的大論文が、人が思つてゐるほど、友情的なものでないのは、芸術批評としては寧ろ当然としても、そして彼と自身との生活態度や芸術傾向に、大きな溝のあることも仕方がないとしても、彼の戦闘的気分は兎に角、多方面的な彼の仕事が質から言つても分量から言つても、最近の文壇的存在を輝かすに十分なものであるのに比べて、融自身の破綻だらけな生活や卑小な仕事が、いかにも惨めなものゝやうに思へた。融はそれを考へると内心明かに不愉快であつた。

「方向を転じて、いつそ赤倉へでも行つてみれば可かつた。」

「赤倉て知らないわ。」

「僕も行つて見たことはない。しかし懐かしい北の海が見えるといふから······。」

 さうは言つても、彼は成るべく東京へ近づいて行きたかつた。汽車は碓氷峠へと差しかゝつてゐた。


 夜の軽井沢へ二人はおりた。暗いステイシヨン前には出迎への提灯の灯に照されて、ぴか/\する自動車や、人の影が見えた。少し物怯したやうな態度で、融はそこへ出て行つた。そして誘はれるまゝにMホテルの自動車に乗つた。

 自動車は場末のやうな町を通つて、淋しい木立のなかの道へと縫つて行つた。そしてうねり曲ねつてゐるうちに、ホテルの本館正面玄関から、左手の日本館へと引込まれた。

 通されたところは、幾つかの独立した建物の中の一つで、狭い段梯子を上つた取りつきの部屋であつた。二タ間ぶつ通しであつた。

「余り凉しくもないね。」融は半病人のやうになつた体を、床の前の座布団の上に投げ出した。

「今日は暑いのよ。でも部屋があつて可かつたわ。」

 風呂に入らうとして、融が浴衣に着かへ、愛子がいつでもさうする通りに、断髪のカアルの延びるのを恐れて、タオルで姉さん冠りをしてゐるところを、山嵐もないのに、灯が一時にぱつと消えた。そこらは闇となつた。でなくとも、電燈は一体薄暗いのであつた。部屋のなかは勿論、外の木立なども見えなかつた。

 湯気に包まれた蝋燭の光をたよりに、水や何かに山国らしい感じのされる狭い風呂場で融と愛子はざつと汗を流した。やつと気分が蘇生した。

 飯を食ふ時分には、電気も来てゐた。M、S|もこゝへ最近毎年来てゐて、つひこの夏も、若しかして来られるならば、借屋を見つけても可いと言つてくれた程であつた。

「M、S君のところを、愛子は知つてゐる筈だつたね。」

「え、所書きがあつた筈よ。」彼女はそんなものをごみ/\した手提のなかから捜してゐた。

「行つても可いけれど、呼んだら何うかね。悪いか知ら。」

「悪いことないでせう。直ぐ使をやりませう。それからY、N子さんにも逢ひたい。」

「さうだ。」

 M、S君へ使を出してもらふ事にした。

 本来ならば、何は兎に角こゝへ来れば融はM氏夫妻を訪問するところであつた。しかし今は途中で逢つても、避けはしないまでも、余り親しい感じはもてないであらうことを、融は寂しく思つた。途中も彼はMのことは口へ出さなかつた。たゞ折々あの俳句を口にするだけであつた。

 食後本館の外廊で、籐椅子にかけながら、夜気に当つてゐた。M、S君が暗い木下闇の向ふから其の姿を現はした。融たちはその時その辺を逍遙してゐた。庭は暗かつた。木の間を透けて噴水が微かに銀色に光つてゐるのと、誰れかの煙草の火が見えるきりであつた。空はどんよりして、空気が爽やかを欠いでゐた。

「やあ。」

「いらつしやい。お呼立てして。」

 M、S君は外套を著てゐた。

「遠いんですの。」

「え、ちよつと有りますよ。いつお着でした。」

「もうちよつと先き。Sの親類へ行つた帰りですよ。外套なんか着てるんだね。」

「風邪をひきますからね。」

「そんなに凉しくはないぢやないか。」

 三人は上へあがつて、飲料を命じたりした。愛子はM、S氏からきいて、Y、N子へ急いで電話をかけた。

 直きにN子の洋装姿が、そこへやつて来た。

 融はMのことが何となし頭脳を曇してゐたので、二人に対しても恥かしいやうな感じで、晴やかにはなり得なかつた。

「こゝは好いのよ。私なんかの宿よりかも。その代りお高いけれど。でもあの宿も親切で好いのよ。」

 彼女の生活も、向上して来た。二三年前までは山の奥の、余り開けない温泉から、二年もつゞいて絵葉書が来たものであつた。今彼女はその旅館に同性の友人と来てゐた。こゝへ来てゐる人達の噂が出たりした。

「みんな好いもんだな。」

「先生もいらしたら何うです、私なんか東京にゐるよりかかゝらないんです。」

 やがて部屋へ行くことにした。

「好いわね。こんな部屋が二タ間もあつて。」N子は少し驚いたやうに言つた。

「明いてるからでせう。不景気なんぢやない?」

 愛子は珈琲と水菓子を吩咐けた。皆んなは廊縁へ出て椅子にかけてゐた。

「現代生活もなか/\厄介ね。避暑にも行かなければならず、行けばさう惨めなことも厭だし。」N子は煙草の煙を吐きながら言つた。

「ほんとうよ。私達はブルヂヨウア気分は厭だけれど、美に対しては人一倍敏感なだけに、物質がほしいといふんぢやなしに、其時々の気分で或程度の贅沢も必要なのね。」愛子はナイフの刀をポンと林檎に打込んだ。

「ホテルは何だか不愉快だね。浴衣がけでは室外へ出られないなんて、夏、浴衣がけで散歩も出来ないとなると、何時まで経つても外人本位だね。」融は今更のやうにいつた。彼はやゝ明るくなつてゐた。

「さうでもないですけれど。」

「あすこらにゐる外人は、何となし日本人に対して優越感をもつてゐるらしいわね。己達の領域だと言つた風に。」

「何とかしたら可いぢやないかね。」

「ホテルは為方がないでせうが、軽井沢では一体にさう云ふ気分がないことはないんですよ。僕が子供に小便をさしてゐると、通りかゝりの西洋人が||婆さんでしたが、かう云ふところで小便なんかさしては可けないつて真剣むきになつて咎めるんです。僕は小便をさしてから、後を追ひかけて、これは我々の民族的習慣だから、余計なおせつかいはしてもらひたくない、日本語でさう言つてやつたのです。多分通じなかつたらしいけれど。」S君が話すのであつた。

 談話が多方面へ飛んだ。最近自殺した若いA氏の芸術批評から、軽井沢へ来る女歌人のうわさや、それらの歌の批評などへも繋がつて行つた。其中の一人のS夫人の融と愛子との恋愛に対する非難も問題に上つた。

「Aの俳句は好いのかね。」

「好いですね。」

「僕は思つたほど感心しなかつた。干からびてゐるぢやないか。」

「いや、さうぢやないですね。歌は兎に角として俳句は、僕は男の歌も嫌ひですが、歌なんか詠む女も詰らないと思ふね。」M、S君が言ふ。

「さうですか。でも歌も好いぢやありませんか。」

「僕も歌はわからなかつたけれど、近頃はさうでもないな。女性のものとしては歌も情感があつて好いぢやないか。」

 勿論愛子も歌をもつてゐた。

 愛子が贈つたハタ/\のお礼に、M、S君の贈つた詩集の話が出た。

「幼馴染に何んとかして······お茶呑みに来たまへと言へど、人妻に何んの語らひせんものぞ、かたみに別れ······何とか、あれ好きよ。」

 郷土気分のものだけに、融にも其の歌の感じはよく解つた。

「S君は郷里に庭を作つてゐると言ふぢやないか。軽井沢がひどく気に入つた訳だね。」

「一頃は郷里へ引込もうかと思つて、土地も買つたんですけれど······。」

「奥の方で少し不便だけれど、安い別荘があるのよ。私も勧められましたの。軽井沢がすつかり気に入つちやつたから。買はうかと思つてるんですけれど。先生もお買ひにならないこと。」N子が言つた。

「此処がそんなに好いかね。」

「居なじむと、それあ好いところよ。愛子さん何う。」

「私? 今来たばかりだから解らないけれど、来る途中汽車の中から見た此の辺の自然が素敵に好かつたわ。こゝも急度好いと思ふの。」

「水の音がしないのでね。」融はけちをつけた。

「水もあるのよ。翌朝方々お歩きになつて見ると可いわ。私たちお誘ひに来てよ。」

「いやまあ······。」

 融ははづまなかつた。そして二人が帰つてからも気分がよくなかつた。彼は翌朝は伊香保へでも行かうかと思つたりした。

「愛子がゐるなら二三日残つてゐても可い。」何かの拍子に彼は不機嫌に言つた。

「いや、さういふことを言つてるんぢやないのよ。私独りなら些とも面白くないのよ。貴方と二人ゐるのが幸福なんぢやありませんか。わかつてる癖に······。」

 融は黙つてしまつた。

 翌朝融は廊縁へ出て、何の興味もない庭をぼんやり見てゐた。下がコツク場になつてゐるとみえて、煮物や何かの匂ひがしたり、コツクの姿が庭先きへちらついたりした。高原らしい爽やかさが、どこにも感じられなかつた。目の下の桜の木の蔭に、埃が堆く掻きよせられたまゝになつてゐた。古草履だの、ボール箱だの、紙屑や繿縷片のやうなもの······。それが妙に融の目触りになるのであつた。

 頬冠りをして、脚絆に手甲をした女が、庭を掃いてゐた。掃いた埃を棄てに行つては、また掻きよせてゐた。大抵隈なく掃除されてしまつた。しかし彼女は、すぐ融の目の下まで来ながら桜の蔭にたまつてゐる埃に触れようとはしなかつた。気がつかないのか。故意なのか。その上見廻つてゐる洋服の紳士も、どこからか遣つて来て、彼女を指図してゐた。けれど其埃は彼の目にも入らないらしかつた。

 融は少しいらついて来た。

「何だつてあの埃だけ持つて行かないんだらう。気になつて為様がない。」融は腹立しさうに呟いた。

「何うしたんでせう。莫迦ね。」愛子も言つたが、深く気にもしなかつた。

 約束はしてあつたが、愛子の電話でN子がやつて来た。彼等は廊縁へ出て、朗らかに談してゐた。やがて食堂へ出て行つた。

「先生も入らつしやらない?」

 融は食慾がなかつた。

「よさう。」彼はさう言つて、畳に寝そべつてゐたが、二人が出て行つたあとで、女中に次の部屋へ床を延べさせて、潜りこんでしまつた。直きに彼は眠りに陥ちた。

 幾時間ほど眠つたらう。愛子たちに、M、S君の声もまじつて、話声が耳に入つて、彼は目がさめた。

 S君は心配らしい顔をしてゐた。

「御機嫌が悪いやうですね。」彼は愛子に言つてゐた。

 融は汐を見て目を開けた。

「今M、Sさんが入らして見たら、先生がよく眠つていらしたので、そつとしてお置きになつたんですの。」

「体がわりいですか。可けませんね。」

「いや、大したこともないんです。歯齦にのうをもつてゐるんで。」

「それあ可けませんね。」

「今皆さんで散歩に誘つて下すつてゐるのよ。行きませう。」

「行つておいで。僕はこゝにゐよう、これから立たうと思ふ。」

「さう。それでも可いわ。」

「御気分が悪くちやね。」

 愛子はN子につれられて、その辺を一ト廻りして、汽車の時間の間に合ふやうに、ステイシヨンで落合ふことにして、出て行つた。融は連りに誘はれたけれど、感情が釈れなかつた。皆んなに悪いと思ひながら、何うすることも出来なかつた。

 M、S君が、時間の許す範囲で、町をそつち此方見せてくれた。

 ステイシヨンへつくと、N子と愛子はもう来てゐた。

 その汽車の込むことと、暑いことと言つたら!融は筋肉がぐしや/\に熔けるかとおもふほどだるかつた。額に熱を感じた。歯齦から顎骨へかけて、気味の悪い疼痛が襲つて来た。

 愛子は先刻M、S君が、署名して持つて来てくれた、彼の最近の感想随筆集を繙いて読んでゐた。

「先生、M、Sさん大変貴方を讃めてゐるわ。ほら、これ御覧なさい。」愛子は融のペンネームの表題になつてゐる、其の評論文のところを開いたまゝ、嬉しさうに彼の前に差出した。

「お止し、見つともないから。」融は顔を顰めた。

 愛子には其の声が聞えなかつた。

「それ!こゝを読んでごらんなさいと言ふのに。」彼女は翳りのない、無邪気な目をして、重ねて彼に押しつけるやうにした。

「ちよつ。止せつて言つてるぢやないか。」

 融は頑固にそれを押し返すやうにして、愛子の手を、本のなかへ閉ぢこめたまゝ押伏せた。

 愛子は吃驚して目を見張つた。やがて彼の怒つてゐるのに気がついた。彼はひどく不機嫌に見えた。

「貴方つて人は変な人ね。貴方みたいな呆れた利己主義者もないもんだ。余り好い見方をしてゐるから、見せてあげようと思つたのに、女の気持なんて些とも判らない人ね。」

 愛子は蒼くなつて言つた。

「お止しツ。」融は冠せるやうに言つた。

 融は事によると愛子が次ぎの駅で、汽車をおりてしまひはしないかと、そんな事を考へながら、歪んだ硬い顔をして、窓の外へ目をやつてゐた。

 側にゐた背広服の若い男が、その時鞄のなかから講談雑誌を取出した。

 獰猛な暑さがじり/\浸みこんで来た。

(昭和3年1月「中央公論」)






底本:「徳田秋聲全集 第16巻」八木書店

   1999(平成11)年5月18日初版発行

底本の親本:「中央公論 第四十三年第一号(我国文化の最高標準号)」

   1928(昭和3)年1月1日発行

初出:「中央公論 第四十三年第一号(我国文化の最高標準号)」

   1928(昭和3)年1月1日発行

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:きりんの手紙

2020年10月28日作成

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