······一つの小徑が生ひ茂つた花と草とに掩はれて殆ど消えさうになつてゐたが、それでもどうやら僅かにその跡らしいものだけを殘して、曲りながらその空家へと人を導くのである。もう人が住まなくなつてから餘程になるのかも知れぬ。それまで西洋人の住まつてゐたらしいことは、そのささやかな御影石の間に嵌めこまれた標札にかすかに A. ERSKINE と横文字の讀めるのでも知られる。
その空家は丁度或るやや急な傾斜をもつた坂道の中腹にあつた。一たいに坂道といふものがどれでも多少人を夢見心地にさせる性質のものである。さういふ坂道の中途まで來てふと足を止めた瞬間、ひよいとそんな荒れ果てた庭園が目に入るので、人はますますその空家を何だか夢の中ででも見てゐるやうな氣がするのである。
或る日のこと、その坂道を一人の少年と一人の少女とが互に肩をすりあはせるやうにして降りてきた。小さな戀人たちなのかも知れない。さう云へば、さつきから自分等のための love-scene によいやうな場所をさんざ搜しまはつてゐるのだが、それがどうしても見つからないですつかり困つてしまつてゐるやうな二人に見えないこともない。||
そんな二人がその坂の中途まで下りて來て、ふと足を止めて、さういふ繪のやうな空家とその庭とを目に入れたのである。それを見ると、二人は互に目と目とでこんな會話をしたやうだつた。「ここなら誰にも見られつこはあるまい」「ええ、私もさう思ふの······」
さう決めたのか、二人はその坂の中腹から彼等の背ぐらゐある雜草をかき分けながらその空家の庭へずんずんはひつて行つた。ちよつと不安さうな眼つきで横文字の書いてある標札をちらりと見ながら。······
その庭園の奧ぶかくには、彼等が名前を知らないやうな花がどつさり咲いてゐた。少年はその一つの叢を指しながら、
「やあ、薔薇が咲いてゐらあ······」と、いくぶん上ずつた聲で云つた。
「あら、あれは薔薇ぢやありませんわ」少女の聲はまだいくらか少年よりも落着いてゐる。「あれは蛇苺よ。あなたは花さへ見れば何でも薔薇だと思ふ人ね······」
「さうかなあ······」
少年はすこし不滿さうに見える。それから二人は默つたままその空家のまはりを一巡して見た。窓硝子がところどころ破れてゐる。が、その破れ目から二人がいくら背伸びをして覗いて見ても、ひつそりと垂れてゐる埃まみれのカアテンにさへぎられて、その中の樣子はよく見えなかつた。それでも臺所のところなどは内部がちらりと見えた。そこなどはいろんな臺所道具が雜然と散らかつてゐて、中には倒れたまんまのもあり、そしてそれらのものは一面にこぼれた壁土のやうなもので埋もれてゐた。どうやら震災の時からそつくりそのままにされてゐるらしい。この家の持主である外國人は震災の時死んでしまつたのかも知れない。||二人はその空家を坂の中途から最初見たときふと彼等の心に浮んだ或る考へをいつか忘れてしまつたかのやうに、そんなことばかりしやべり合つてゐる。
が、その家の裏手に、そこの庭園から丁度露臺へ上るやうな工合にして直接にその家の二階へ通じてゐるらしい、木蔦のからんだ洋風の階段を見出した時に、少年よりいくぶん
「ちよつとあれへ上つて見ないこと?」
「うん······」少年は生返事をしてゐる。
「そんなら私が先きへ行くわ······」
それでもと云ひかねて、やはり少年は自分が先きに立つてその木蔦のからんだ階段をすこし危かしさうな足つきで上つて行つた。が、その中途まで上つたかと思ふと、少年は急に足を止めた。そこの壁の上に彼の顏を赧くするやうな落書の描いてあるのを發見したからである。少年はくるりと踵を返すと、
「やつぱり惡いから止さうよ」と云ひながら、ずんずん一人で先きに降りてしまつた。少女はそこに一人きり取り殘されて、しばらく呆氣にとられてゐるやうに見えたが、やがて彼女も彼のあとを追つた。
さうしてそのまま二人は彼等の love-scene には持つてこいに見えたその空家の庭からとうとう立ち去つたのである。
少年はその家を遠ざかるにつれ、つくづく自分に冐險心の足りないことを悲しむばかりであつた。さうしてその邊の外人居留地かも知れない洋館ばかりの立ち竝んだ見知らない町の中を少女と肩をならべて歩きながら、さういふ弱蟲の自分に對して自分自身で腹を立ててでもゐるかのやうに、急に何時になくおしやべりになつた。
「君、メリメエといふ人の小説を讀んだことがある?」
「いいえ、ないわ」
「さうかい、僕はその人の小説がとても好きなんだがなあ······僕はその人の短篇でね、『マダム・ルクレエス街』といふのを讀んだことがあるんだ······その中にね、丁度、今みたいな家が出てくるんだぜ、それは伊太利の話だけれど······ところがその空家の二階の長椅子がね、一つだけ埃がちつとも溜つてゐなくて、何だか始終人に使はれてゐる見たいだつたんだ······實はそこでね、毎晩あるお姫樣がその戀人とあひびきをしてゐたといふことが後でわかるんだよ。さう云へば、今のあそこの二階もね、僕は何だかそんな祕密でもありさうな氣がしてならなかつたよ······矢張りさつき上つて見ればよかつたなあ······」
「まあ······」少女はそんな突拍子もない少年の話を聽きながら顏を眞つ赤にしてゐた。それに氣がつくと、少年も顏を眞つ赤にした。||さうしてしばらく氣まり惡さうに二人は默つて歩いてゐたが、今度は少女の方が口をきいた。
「あなたは隨分空想家ね」
「さうかなあ······」どうもこれは少年の口癖のやうに見える。
氣がついて見ると、いつの間にか二人の前には五六人の、支那人の子供たちが立ちはだかつてゐて冷かすやうに彼等を見上げてゐるのである。二人は一層まごまごした。いつの間にこんな支那人町へなど足を踏み入れたのかしら。······
それは何處の町にもぽかぽかと日の當つてゐるやうな、何となくうつとりするやうな、五月の或る午後のことであつた。