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室生犀星




 お咲は庖丁をとぎ、淺吉は屋根の上をつたひながら※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)し茅を施してゐる。

 一萬戸ある金岩の町は、火見櫓をまんなかに抱いて、吼える日本海のぎりぎりまで町裾を捌いてゐる。春寒い曇天はきたない瓶の色をして、硬くるしい息窒るいやな景色である。町はづれの松林のなかの一軒家、

 淺吉は噴井戸にゐるお咲の背中を見ながらいつた。

「お咲さ。」

「何んだ。」

「お前な、何時までかうやつてゐても埒があかないからな。」

「どうせいといふのだ。」

「何處ぞへ行つてくれんか。」

「またおつぱじめたね、何處へつて行く處なんかあるものか。お前もそれは知つてゐる筈だに。」

「けれど本氣になりや何處にでも行ける、おめえは本氣になつてくれないのだ。」

「何のための本氣だ。」

「本氣でここから出て行つて貰ひたいのだ、氣詰りで人樣にも合はす顏がない······。」

「いまさら氣詰りだつていい加減な胡麻を摺るない、一たい何十年かうやつてゐるか知つてゐるか。」

「おめえが三十六だから三十六年かうやつてゐる譯ぢやないか。」

「生れ落ちて三十六年もゐる家から何處に落ちつく先があるといふのだ、お前の家は家でも、半分はあたしのものさ。」

「分ける物は分けるよ。」

「一畝二畝と賣つてもう家のまはりばかりで、買手のない川べりぢやないか。何を分ける物があるといふのか、お前だつてあたしだつて着のみ着のままぢやないか。」

············

「誰一人だつて町ぢや對手にしてくれ手はないし、あたし共だつてそれを承知の上で松林の中にしけこんでゐる、どのつら下げてそんなご託がつけるのだい。」

「お前さへゐなくなればおら達はきれいになる、お前のゐるあひだは後指をさされるのだ、おら、そこをお前に判つて貰ひたいのさ。」

「何言ふの、いまさらあたしがゐなくなつたつて、おめえのしたことがきれいになるなんて、ちやんちやら可笑しい、ひとりよがりもいい加減にしなよ。」

「おら一人になつて居れば世間でもだんだんにわすれてくれるやうになる。」

「出て行つたあたしや何處で何をしてくらすのさ。」

「お前のことだもの何かしてくらして行くだらう。」

「こけめ、その手をくふものか、ここでは死ぬまでゐてやる、おととかかの家にゐるのに何遠慮がいるもんか、や、なこつた。」

「そのつら見えぬ處にゐてくれ、ここにゐるならあちこちに隱れてゐろ。」

「同じ家の中にゐてそんな逃げ隱れてくらせるもんか、さてはおめえこのごろあたしがこと、や、になつたな。」

「うん、やになつた。」

「本氣でやになつたか。」

「なつたともとうにやになつた。」

「何から何までやになつたか。」

「足の先から頭のげぢげぢまでや、になつた。」

「もう一ぺんきくがそれは正眞の本氣なのか。」

「うそなぞついてゐられるか。」

「畜生にも劣つた兄キだ。いまさらそんな口がきけた義理かい、一たい、幾つのときからあたしを騙しとほしてゐたとおもふんだ、何にも知らずにほほづき鳴らしてゐたあたしをさ、おととかかの生きてゐるあひだから無理無態にしてけふまで引きずつて來たのぢやないか、それをさ、時々ひきつけるやうになつて別れろ失せろつて、一たい、おめえはそれでも正直な人間かい、まともな人間のことは何一つ出來ないくせに、することに事缺いてあたしをここまで追ひつめて置いて、世間だの町方がどうのといつては厭がらせやがる、考へても見ろ、あたしやおめえのげんざいの妹ごぢやないの。」

「ほんものの妹ぢやない、おら、そりやたしかにおととから聞いて置いた。」

「どこに證據がある?」

「證據はあるよお前はふとつてゐるし、おらはやせてゐる。」

「そんな證據なんて信用できるもんか、たまに、鏡でも見て見ろ。どんなに似てゐるかが分るわよ。」

「お前は免許地の女から貰つた赤ん坊だといふことは、ほら、おかかのゐたじぶんに免許地の女から盆暮にきまつて卵とか蒸菓子を持つて來たぢやないか、きれいな女だつたがあれがお前のおかかなんだ、妹としてそだつたけど、ほんものの妹ぢやない。」

「ぢや、おめえは何故、世間をはばかつて、いたちごつこをしてゐるの、なにもほんものの妹でなかつたら大手を振つて一しよになつてゐたらいいぢやないか、をかしな男だな。」

「ほんものでなくても、妹なら妹ぢやないか。」

「ほんものでなければ妹だつて何も恥かしがることはないのだ、天道樣にそむくやうなことはないわよ、おめえのやうにびくびくしてゐるから人から疑はれるんだ、けどな、おめえのびくびくしてゐるやうすはおめえの口ほどでもなく、ほんものと、うその妹の區別がつきかねるところがあるのよ、そこがあやしいんだ、おめえはうそつき名人だ、おめえにはほんとのことは判らないんだらう、しかしだな、免許地の女といふのはへんだわな、あの人が何故おつかひ物を持つて來てゐたかつてことは分らんな、あたしだつて、うその妹ならたすかるわよ、大たすかりだわよ、皆にだつて言ひつけてやりたいくらゐさ、いままで犬猫あつかひにしやがつた餓鬼共にさう呶鳴り付けてやりたいわよ、あたしや妹としてそだつただけで、おかかは免許地で三味線彈いてゐたつてさ、うふふ、お母の三味線聞きたいわいな。」

「おらがうそつきならお前はうすのろだ、三味線彈きは松原の街道で鑑札をかかへて死んでゐたとさ。」

「鑑札たあ何だ。何をくだ。」

「むかしの娼妓は鑑札を持つてゐたものだ、町に出るときとかへる時には交番に寄つて一々その鑑札を見せなければならなんだ、平常は滅多に外にも出られはしないんだ、そしてお前のおかかはしまひに病氣になつて松並木で、行き倒れになつて了つたのだ、人が皆さう言つとる。」

「うそつけおかかはそんな甲斐性なしではない、何處かの家の疊の上でのうのうして死んだのだ、つくりごとに乘つてたまるか、何のいはれがあつてあたしのお母が行き倒れになつたといふのだ、お前のお母はどんな死態をしてゐたか、藁や蓆で蒸風呂のやうにしてやつても、まだ寒氣立つて三晩といふもの、のた打つて死んだぢやないか、ほんとのお母だと思つてオイオイ泣いたが、あたしやそれが口惜しいくらゐさ。」

「ふん、そしてそれがほんまのお母だつたら、どうするんだ。」

「おめえのお母と、おらのお母とは異ふんだ、けふまで判らなかつたが初めていま判つたのだ、おめえが話をこんがらせてかかるこんたんでわかつたのだ、おめえのお母はただの百姓女さ、あたしのお母は死ぬまで彈いてうたをうたつてゐたお人だ。あたしや今になるとこんの頭の奧でお母らしいものを見たことがある、裏の川べりにまで來てあたしにあひたがつてゐたお母をおぼえてゐるぞ、白い色のべつぴんのお母だつたぞ。」

「何く、免許地の女共はな、遊び場所は町にはなくて砂山の上だ、みんな日の目を見ないので顏色がわるくてな、われのお母もその中にまじつてゐたつけ、頭のてつぺんからつん出るやうな聲をしぼつてうたつてゐたものさ、遊ぶ處がないから砂山さ、その砂山だつて風吹けや毎日高さが變るのに、變らぬのが免許地の女郎共ばかりだ、赤と淺黄の布で頭髮を卷いて砂山の下の國道を見下して、あつちの町とこつちの町の商人あきなひにんを呼び止めるのさ、客引きだあ、砂山のびゆびゆ風吹く中で客引きだあ、われのお母は色白ぢやらうが、松街道で死ななかつたとしたら砂山と砂山の間で死んだぢやらうて、砂山の間にや死ぬのにつがふの好い窪地があるからの、われのお母は其處でのた打ち※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて死んだんぢやらうて。」

「うそ吐け、おめえは街道筋だと先刻きやがつた。」

「いや砂山の穴の中だ。」

「どつちでもない疊の上だ、疊も疊、へり付きの疊の上だ。」

づくぞ。」

づけば食ひつくぞ。」

 お咲は庖丁の刀を指先でためしながら、屋根の上の淺吉に研ぎ水を打つかけるまねをし、淺吉は※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)し茅の切屑をお咲に投げかけた。この猿と犬とは突然ムラサキ色になつたり石灰色に變つたりする顏を、ただ一軒家の屋根の上と地上とでせり合せた。道路は松林からかなり隔れてゐるので、人つ子一人見えてゐない、うしろは砂山といふよりも砂丘のむらがりであり、砂肌は曇天とどれだけも色をちがへてゐない、松林は黒松ばかりでコールタールのやうに汚なく、ぬりつぶされてゐるやうに異樣であつた。

 淺吉は突然鋸をくれといつた。

「自分で取りに下りたらいいだらう、鋸も持たぬ屋根直しがあるか。」

 お咲はふり向きもしなかつた。

「よ、鋸をよ。」

「何途呆けてゐる、ひとのおかかをさんざき下しやがつて鋸もないものだ。」

「ほんとにどづくぞ。」

「びくともしないよ、屋根なぞ直さないで何處にでも行つてくれ。」

「こんだ其方で出て行けか。」

「おめえにや先へ先へと呶鳴らなきやどんどんうそで固めるからね。そのあげく、うそも本統も分らなくするのがおめえの本性だ、泥鰌野郎だ、あとさき濁らせ逃げてしまふのがおめえの性分だ、また茅ッ株投げやがつたな。」

「茅つ子のさきは斬れるぞ。」

「ちくしよ。」

「どうせおらちくしやうだ、町の衆のいふやうにちくしやうだ、先から分つてゐる筈なんだ。」

「おめえこそ早く失せろ。」

「何處に行けといふのだ、此處から一歩もうごかないおらが何處に行くあてなんかあるものか。」

「おめえのこつたもの日雇人夫をしたつて食つて行ける、あたし一人になりや世間樣だつて可哀さうに騙されてあんなのになつたと氣付くが、誰がおめえなぞにどうじやうするもんか、女は世間ぢや何割もとくのゆくやうに考へてくださる、だからここ出て行くのはあたしでなくて、おめえだ。」

「誰が出て行くもんか、お前が出て行く筈の話ぢやないか。」

「ハハ、おめえがゐなくなるのが一番順當なんだ、あいつも恥かしくて遂にゐられなくなつたと、ね。」

「四十年も前からおら此處にゐるんだ、何處にも行けるもんか。」

「フフ、死ぬまでゐてやるといひたいのだらう。」

「當り前のことさ。」

「口眞似ばかりしてやがる、自分から言ひ出してこんだ自分から出て行かなきやならないなんて業人だ。」

「おらが出て行くときや火を放けてそつくりこの家は燒いてやる。」

「燒く前によ、あたしや警察に駈け込んで訴へるからさう思ひな。」

「警察が怖くて生きてゐられるか。」

「放火が怖くてかうしてゐられるか。」

「へなちよこめ、叩きころすぞ。」

「毎日叩きころすと脅かしやがつて、十年の間に一たいどれだけの命のかけ代へがいるか知つてゐるか。」

「けふこそ遣つ付けてやる。」

「下りて來い、下りてあたしの片をつけて見ろ。」

 淺吉は梯子のある横廂に※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)らうとすると、お咲はかけ出して横倒しに梯子を拂つてしまひ、こんなものと梯子の上を草履でふみにじつた。淺吉は裏手の足がかりになる納屋に飛びうつり、鱶のやうにつッ立つて鎌のある納屋にはいり、すぐまた出て來た。鱶の顏はどすぐろく、何をするかわからない、お咲はいつた、本氣でくる氣か、淺吉はこたへた、本氣もうそ氣もあるものか、怒つたらどうなるくらゐは判つてゐる筈だ、かれはさういふと殆ど今までのじりじりと詰め寄つてゐる状態から突き出されたやうに、お咲に飛びかかつて行つた。お咲は家のまはりを一と※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り機敏に逃げ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つたが、追ひ詰める脚の迅さはお咲ののろくさい後ろ髮が、何度も淺吉の手にふれるところまで迫つてゐた。松林の中にはいると淺吉の顏はだんだんに變りかけて來てゐた。それはお咲を追ひつめてゐる間にだんだん本氣なものが、お咲の逃げまどふすぐ眼の前にぶら下がつて見えて來たのだ、ちくしよ、いよいよ、本氣になつたなとお咲は叫んだ、本氣、本氣とよくごたく女だ、本氣であるかないかよく見ておけと淺吉は跳りかかつた、片側は人奪川ひととりがはのどんよりした水はばになり、横手は沼地で逃げ場のない泥水の田續きであつた。淺吉は嗤ひをふくんだ變なまがつた顏の姿勢を、まともに直しかかり、その睨みぐあひはお咲にはどこに淺吉がこんなちがつた顏付を持つてゐたかとうたがはれるくらゐコワイものがあふれてゐた。

 この時この人奪川に便利屋の茂平の舟が、櫓の音もきこえないぐあひに流れにそうて、大野といふ町にかかつて行くのが見えた。人奪川の水深にともなふ幅は三間くらゐあつたが、兩側からうるさくせり出した葦の大群生はそのまま流れを、兩側から抱きこんで水幅はやつと泥舟一隻がとほれるくらゐしか、空明りをうつしてゐなかつた、此處に墜ちこんだら葦の根にからみつかれた人間の足は、もがく程あたらしく捲き付くといふぐあひになり、だからひととり川といはれてゐた。

「茂平やん、たすけて?」

 お咲がかういふ聲をあげたとき、默つた茂平の舟のへさきが逸早く葦の中に突きこまれた、お咲は一と息に飛び乘つた。田舟は川のまんなかにもどされ、茂平は何だ兄妹喧嘩か、いや夫婦喧嘩かいと、いつたが何處に行くともきかず、また淺吉の突つ立つてゐる顏を見ても、そんなものに一向氣をつかはないふうであつた。舟は大野の町と金岩の町とのあひだを毎日便利屋舟になつてかようてゐた。茂平はそんなしごとを何十年も續けてゐて、べつにそんなしごとをいやとも好きとも、また、ばかばかしいとも考へてゐないうすのろさは、淺吉とお咲とおなじ程ののろくさい人間共だつた。茂平はだからお咲を乘せても、どこまで行くなぞと尋ねもしない、それはそのままお咲にも用ひられる無表情な顏付のものであり、何が起つてゐたかも敢て説明しないお咲にそのことでべつに口を利かうともしなかつた。

「先刻あんたはふうふ喧嘩だといはしたが······

 お咲はすぐ落着いてきつぱりといつた。

「お前らはふうふぢやねえか。」

「さう見えるかね。」

「どこから見てもふうふにちがひねえ。」

「兄妹には見えないんですか。」

「お前らはべつべつの腹からうまれたべつべつの人間なんだよ。」

「ぢや、をぢさんはあたしのおかかは知つてゐるね。」

「お前のおかかは知つてゐるさ。」

「何處で何時死んだか知つてゐなさるかね。」

「お前のお母は三味線に紐をつけて縊れて死んだ、だが、おらはそれを見たわけぢやない。何でも明け方になつて死んでゐたのが分つただけだ。」

「茂平やん、あんたも、あんただ、三味線に紐つけて人間が縊れるものかどうか、いい年をしてたあいもないことは言ひ觸らして貰ひたくないもんだ。」

「三味線掛にかけた三味線に紐を付けたのぢや、分つたか。」

「あ、三味線掛にかけた三味線のことか。」

「どうや、それなら死ねることが判つただらう。」

「うそ言ひなさい、茂平やんもうそつき共だ。」

「うそぢやない。この眼で見た······

「たつた今あんたはおらは見たわけぢやないがと言つたぢやないか、それがこの眼で見たとは何を途呆けてゐなさるのだ。」

「ほんとは見た譯ぢやない······

「うはさか」

「うはさや。」

「そんなうはさはこれきり止めてね。あたしにや大切なおかかだもん、きてゐなさらないお母だもん。」

「おめえにもそんなしほらしい氣があるかな。」

「何だつて?」

母子おやこはべつだといふのだ。」

「茂平やんはお母の三味線を聞いたことがあるの。」

「三味線どころか、遊んだこともある。」

「いやらしいくそ鳶。」

「お母の三味線はね、何時でも梅が枝の手洗鉢てうづばち、叩いてお金が出るならばを年ぢゆう、くり返してうたはすつた。」

「うまかつたの。」

「聲はよかつた。」

「綺倆はどうだつたの、色白だに覺えてゐるが······

「色白やつた、すべすべやつた。」

「性分はどやつた。」

「赤ン坊うまされてそれを突きつけも出來ない女やもの、いらいらするくらゐ悠長な性分やつた。あんな女といふものはあれきり當節にや絶えてしまつたあ、女といふものの性分も絶えてしまふことがあるもんだ。」

「お可哀さうに······

「おぬしがさうして生きてのさばつてゐるのを知つたら不思議に思ふべ。」

「あたしも不思議に思うとる。」

「ときにな、おぬしは淺吉の嬶さんか、ほんとのことをいへ、ほんとに一しよに寢る嬶さんか。」

「騙されて嬶さんになつた。」

「へ。」

「もう騙されつこない。」

「どうする氣だ。」

「まだどうしてよいか考へないわ、あいつの處にもどらないだけはほんまだ、あいつは今夜あたりから搜しまはるだらう。あいつはそんな男さ、あんな奴の嬶になり手は、金岩の町にも、大野の町にもゐないからね、そんなバカ女はあたしで打止めだらうから、あいつはさがし※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つて謝まりにやつて來るだらうて、かへつてやるもんか。」

「今夜は何處で寢る。」

「さあ、今夜はな。」

「舟で寢い。」

「この舟で。」

「蓆屋根の下はぬくといぞ。安火もこしらへてある。」

「どれ見せて。」

「どうや、ちやんとしたものだらう。」

「まるで料理屋みたいだね。茂平やんはここで毎日寢て、自分で米焚いてやつてゐるの。」

「二十年もな、舟も二度賣つて二度買つた、舟を買ふごとに料理屋は廣間だらけになる。ハハ。」

「こんなだと知つてゐたら大根や牛蒡の一束もくれるんだつけ。」

「これでこの川で夜釣で鯰や鮒はくひたいほど釣れるし、いけすで鯰は生かして置くから大根なぞ、くひたくねえ。」

「へ、生簀もあるのか。」

「女のほかは何でもある。女だけはさう生簀に生かして置くわけにゆかねえ、女は鮒とちがつてかいからな。」

「ヒヒヒヒ。」

「お咲さ。」

「あんだ。」

「おめえ淺吉コワイか。」

「あんなのろすけどこがコワイもんか。」

「な。」

「あんだ。」

「今夜泊れよ舟で······

「ヒヒヒ。」

「牛鍋作るべ、ぎう好きやろ。砂糖うんといれてさ。」

「砂糖うんといれてね、ヒヒ。」

「風もないし、町でおらしこたま仕入れて來ら。上肉をえらんで買ふべ。」

「そんなに上肉でなくともええ、肉でさへあればええ、上肉はかへつてほんとは美味くない······。」

「ぢや中肉にするか。」

「中肉で白いぽたぽたのあぶらのあるところがええ。」

 田舟は上元寺の裏手の葦の中で停つたが、往來からは田舟のとほるのが注意して寢かせて竿をつかつて行けば、まるで舟のすがたは見えない。へさきを突きこんだ裏手は人の通れるだけ葦を刈りこんであつて、上元寺から一人の尼さんが下りて來た、何處かで見張つてゐたのであらう若い尼さんは重い袋を提げ、默つて茂平に手渡した。茂平は蓆屋根の下からますと箕とを持つて來た。

 若い尼さんはしやがんで葦の中にゐて、ちよつと見にはすがたは見えないやうにしてゐた。お咲は尼さんの顏を見ないで平原のうしろの白山山脈を見上げてゐた。

「秤つてもいいな。」

「どうぞ。」

「これでかんすすめの全部の上りかね。」

「二十一日間の上りです。農家でもお米はたいせつにしてゐるから、なかなか下されはせん。」

「二斗八升あるがあんたのおもはくはどうや。」

「二斗八升でいいのや。」

「では百八十圓の二斗で三千六百圓、八升分の千四百四十圓を合せると、〆て五千四十圓になるな、ええと、それでは五千四十圓たしかにお渡ししますよ。」

「おほきに。」

「この次は?」

「一日と十五日の上りやから寄つてくだされ。」

「庵主さんによろしういつてな。」

「どうも有難うござした。」

 田舟は川のまん中に出た。茂平は米をべつの袋にいれると、それにぼろの半纏をかけた。

「貰つて歩いたお米もみな賣るんだな、うまい商賣だわね。」

「一つの村に一つあての寺があるんだ、そこを集めて歩く仲使ひのこめ屋もゐるが、尼さんでなきや米は持つてゐないよ。」

「どうしてだ。」

「どうしてだか、尼さんは米の貰ひが外れないらしい。」

 田舟は町端れにかかり、例の金岩の町の火見櫓が見えて來て、こんどは牛乳屋の裏の、小さい牧場の柵とすれすれにへさきが突きこまれた。箱に入れた夕方しぼりの牛乳が、手渡しで舟にはこばれ、牧場主の矢ノ島は、お咲の顏を見ると茂平にいつた。

「別嬪のお客さまを何處につれて行くんかね。」

「うふ······

「舟ぢや世間知らずだあ。」

「滅多なことは矢ノ島さん、言はんといてくれや、あたしや烏渡足を借りただけや。」

「さうか、ぢやお靜かに。」

「うふ······

 茂平は曖昧に笑つて岸をはなれた。

 お咲は頬をふくらかし、いやな乳屋だといつて、暇さへあれば乳しぼりの手傳ひに來いと誘ひをかけるが、乳しぼりに行つて皆が乳房をしぼられてかへるのが落ちだといつた。

「乳やをしてゐると女ぐせが惡くなるといふが、乳は白いからか。」

「ばかな茂平やん、乳の色が白くても何の女にえんがあるんだ。」

 鹽風呂で名のある海異館の二階の手すりで、夕化粧をした二人の女が先刻から人奪川をすべつて來る茂平舟を注意して見てゐた。茂平の方でも氣がつくと、手をあげて見せるし、女達も手をふつて何やら合圖をした。金岩の町ではただ一軒の料理屋であり、まはりを作つた庭ごしらへでは、ちよつと城のやうに豪華なものであつた。

「あの人達は何のためにあんなに手をふつてゐるの。」

これを待つてゐるのさ。」

「お米のことか。」

「尼寺の米が料理屋で食はれるんだからなあ、全く米つてやつは妙なところを歩き※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてゐるもんだ。」

「茂平やんはそこで儲けようてんだな。」

「うむ、一升について五十圓はねると、千四百圓のまうけになる、つまり上元寺から此處まではこぶ手間賃が手取り千四百圓に化けるのさ。」

「茂平やんはりこう者だなあ。」

「列車ぢや虱潰しにやられるので、ここらはみな舟ではこぶんだ、ほらいま上つてくる舟を見ろ、葦の中をわざと縫つて行くぢやねえか。」

 すれちがひの舟は、茂平に聲をかけていつた。女を乘せてがうせいぢやないか。どこの女だつぺ、併し茂平はそれには答へずにどうや、二百圓で二斗ばかり分けてくれまいかといひ、金は生まだといつた。對手の舟ぬしは早いところ賣るべと、一包みの布袋を茂平の舟にどかんと投げこみ、舟はちよつと尻振りになりお咲は驚いて、おつさん、いたはつてくれろといつた。おつさんはこの女ごさんは舟ははじめてと見え、顏色をかへてゐるといつた。では勘定しな、四枚あるぜ、と茂平は金を渡すと葦の茂りから再び舟をすべらせ、かれらは取引を濟すとこともなく別れた。

「茂平やんは金はふんだんに持つてゐる。あたしやいままでそんなことを知らずにゐた。」

「金がないと商賣ができないのだ、自分でも浮かり使へない金ばかりさ。」

 舟は海異館の洗濯場に着き、米は女中達に渡された。あはせて一俵に近い巨額の札束は、茂平の手のひらでさらさら勘定の札音を立てた。お咲はぞつとしてほそながい青氣の色の札を、こんなに無雜作にあつかふ茂平を見直して、まぶしく眺めた。

 煙草色の夕日のこもりを見せた曇天では、葦の茂りの下の方からくらみがかつて來た。

 人奪川に口を開けてゐる或る一つの小さい沼は、葦の茂りでほとんど沼であるやうな空明りも、水の色さへ見せてゐない處があつた。舟をすべらせると葦の茂りの上にがりがりと這入りこみ、そして一度水に打倒された葦の塊は舟底からはなれると、一さいに群生状態にかへつて茂平舟はすつぽり葦の中に隱れてしまひ、外からどんなに透して見ても、舟も人も見えない葦の中に隱れてしまふ好箇の逃場であつた。

 お咲は肉を買ひに出かけるといつた茂平が、突然かへつて來ると何處からどう町に行つたのであらう、夥しい食料を買ひこんで、包みをといてならべた。お咲は七輪に火をおこして蓆屋根の下に、二人分の座ぶとんをならべ、苞刀とまないたと碗皿をならべて待つてゐた。あたりには物音もない、蓆屋根の下はあたたか過ぎるくらゐで、かれらは安火にもぐり、安火の上に炬燵盤を置いて相對することになつたのである。勿論、酒は藥罐でもう燗がついてゐた。

「ほう、お咲さきれいに顏がはりがしたぢやないか。」

「茂平やんの剃刀をかりてあたつたわ、何年ぶりだか。」

「見ちがへるくらゐ冴えて來たぜ、やはり女といふものは場所と時によつてはちよつとめかして見たくなるもんだ。」

「ヒヒヒ。」

「一つどうや。」

「ん。」

「酒はいけるかの。」

「すぐ醉ふよ、ほらもう、ぽつぽとして來た。」

「も一つ。」

「ん。」

「明日な、映畫でも見て夕方喜右衞門橋の下で待つてゐてくれ、おら、迎へに行く。」

「ん。」

「これみんな使つたつていいんだ。」

「こんなにお前たくさんなくとも、活動見られるよ。」

「好きなものを買ふがいい。」

「ん。」

 この不思議な二人の人間の間違ひが、葦の茂りにかこまれた舟の中で、ありふれたことがらのやうに展げられようとしてゐた時、茂平はふと口をすべらせた。

「お咲さ、お前お鹽藏町の家に行つたことがあるかね。」

「お鹽藏町つて學校の裏のかい。」

「お前のお祖母さんのゐる家だべ。」

「何でも五つか六つくらゐの時に、あそびに行つた覺えがあるな、奧二階のある家やがあそこにお母がゐた。」

「お母はあそこで死んださ。」

「疊の上でね、うれしい疊の上に死んだとすると······

「當り前だよ、だが、あの家はお前のものやつたのさ。」

「ほう、お母は美しかつたか。」

「氣立がよかつたから一文も貰へずに捨てられたのさ。」

「誰に?」

「大野町の大野屋といふ材木商だ、そんときはお前のお母はわづらつて臥てゐた、さうだな三年くらゐ臥てゐただらう。」

「あたしやお鹽藏町の家で顏洗つたことをおぼえてゐるが、お祖母ちやんはお母のことは何でも知つてゐるわけだな、お祖母ちやんにあひたいな。」

「眼くされ婆あだ、慾の皮がつッ張つてな、三世帶に家ぢゆうを貸して食つてゐるのだ、お前がたづねて行つたらいやがるだらう、會ひたがるめえ。」

「あたしやあひたい。お母のお母だもの。」

「お前にまだそんなうぶな氣があるのかなあ。」

「生きた親類てものを見たいのだ、松原の淺吉野郎の顏だけを見て生きてきたら、親類の一人くらゐに會ひたいのが當り前ぢやないか。」

「それもさうや、ところで安火は裾に入れてかういふふうに床をとるか。」

「寢返りすると舟がうごくわね。」

 茂平は醉つたまぎれに着物をきかへて、ふいに意想外なことをいつた。

「お前のお母もこの舟で寢たぜ。」

「何だと······

 お咲は顏を擡げた。

「お母ともここで寢たといふのさ。」

「ほんまか。」

「うそはいはない。」

 お咲は起き直り、枕をはねのけた。

「ちくしよ、よくもお母のことをいまごろ言ひ出しやがつたな。」

「いや、うそだ、うそだ。」

「うそもほんともあるものか、わいらのやうな人間にお母が舟にまで寢にくるやうなお人か、これは先刻の金だ、こんなもので胡麻化さうたつて胡麻化されるものか。」

「何處に行くんだ。」

「道路にあがつてかへるんだ。」

「何處からあがらうといふのだ。」

「お前は船頭だから道まで着けるのが役がらだから、舟を出してくれ。」

「誰がいまごろ舟が漕げるものか、道に出たつてお前の寢るところがねえぢやねえか。」

「どうでもいいから道に上げてくれ。」

「お母のことは戲談だから了見してくれ。」

「それぢやお前がどこかに出て行け、あたしや一人でここで寢る。」

「ふん、それもよからう、まあ、そんな手荒いことはお互にいはないことにしよう。」

「寄ると火を放けるぞ。枯葦は一堪りもないわよ。」

「燐寸を放せ。」

「放すものか。」

「淺吉仕込みの女だけあつて暴れるな。」

「わいらの手込みになるもんかね。わいらはこんなふうにあたしのお母もここで手込みにしくさつたのだらう、そしてその娘のあたしにもその手で對つて來ようとしやがる。川つんぼめ。」

「叩きのめすぞ。」

「あたしや遣らうとしたらここら一面火を放つたつて平氣な女だよ、やりかねないわ、對手を見てからかかるがいい。」

「どうしてもをかにあがるか。」

「いつ時もゐたくない、早くあげてくれ。」

「上肉も食はずにバカな女だ。」

「お母のことをきくと何食つても、食つた氣がしない······

 舟はもとの葦の上をがりがり掻き分け、水心に出ると向岸の葦の中に突き込まれ、お咲は道路に飛び上るとあとをも見ずに町への桑畑の切株を避けながら畠をつッ切つて行つた。まだ八時になつたばかりで店屋の燈はあかるく、あそぶ子供の群が道路にのこつてゐた。

 火見櫓下の菓子屋で草餅を一包買ひ、四辻を裏町にまがらうとすると反對の通りにふいに鱶のやうな男が、乏しい店屋の電燈の明るみに浮び出た、淺吉だつた。お咲はふん今頃まで搜し※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてゐるのだなと、小氣味好げに調子づいた氣になり、すぐお鹽藏町に出た。絶縁同樣になつて途中で祖母に出會つても、その家をたづねたことはまるでなかつた。子供心に覺えてゐる家の間取りは頭にあつたが、今夜、三十年ぶりにたづねるといふことは、自分ながら不思議でどうかしてゐると思つた。べに殼塗りのしもたや作りの重いくぐり戸を開けてはいると、爐にゐる祖母のいくは一應誰方かといひ、何の用事で來たかを待構へてゐるふうであつた。不思議なことは三十年も來たことのない家の中で、祖母は毎日會つてゐるふうに、わけもなく隔てを外して振舞うていつた。

「いま淺吉がお前をさがしにやつて來たが、會はなんだかの。」

「會はなんだ。」

「いさかひしたのか。」

「え、ちよつと······

 祖母のかたはらに二階借りをしてゐる安島といふ郵便局員が、獵銃の手入れをしながらお咲を見た。この男ならしじゆう松林をうろついて、うまく射止めた小鳥を拾ひにお咲の松原に這入つてきたこともあつた。安島はちよつと頭を下げて見せ、けふ射つたつぐみ、しなへ、かしどりを網袋に入れて裏手に出て行つたのは、毛をむしるためらしかつた。

「おかかのほんとのことが聞きたくて來たんだが······

「いまごろ變なことをいふ子だね。」

「お母は此處の家でほんとに死んだのけ。」

「この家さ、ほらあの六疊間での。」

「では疊の上だわね。」

「何いつてゐるのこの子は?」

「三味線に紐つけて縊れたとか、松街道で野垂死にしたとかいふ奴があるので、あたしや實際のことうけたまはりに上つたのや、祖母ちやんは知つてゐなさると思つてな。」

「なにバカく奴は淺吉か。」

「うん。」

「お母はかんのん樣のやうなよい死に樣ぢやつた。」

「色白やつたからな。」

 二階への階段ぎはに二挺の三味線が、袋入りのまま下がつてゐた。お咲は子供時分にもここにこの三味線が下がつてゐて、爪立てをしてその胴皮に指をふれて見たことが、あつた。

「お母は祖母ちやんのほんまの子か。」

「ほんまの子や。」

「祖母ちやんがお母を貰つて來て育てたと聞いたが、祖母ちやんの時世では貰ひ子がはやつたとも聞いてゐましたが、ほんまのことを話してくれね。」

「何疑ふのや。」

「ではお母、いくつに死にはつた。」

·········

「あたし位牌を拜みたうてな、位牌のあるところどの部屋か。」

「よそ樣に貸してゐる部屋にあるのぢや。」

「それで見せられんていふのか。」

「さうや。」

「位牌は誰のものや。」

「わたしのものや。」

「祖母ちやんの物が自分で見られないちふ法があるか、あたしや見たい、見せなきや今夜かへれん。」

「お咲さ、おほ聲出すでねえ。」

「あたしや拜みたいばつかりにやつて來たのだ。」

「三十年も打つちやり放しにしてさ、いまごろ位牌がどうの、どこで死んだのつて、よく暴れに來られたものだ、どの面さげて人並みのことがいへるのや、餅一つ供へにも來たことのない奴がさ。」

「三十年もおまゐりに來なかつたから、來たのぢやないか、見せんなら見なくともいいわ。」

 お咲は立ち上ると、そこに小鳥の毛を毟り終つた安島といふ男が寒む寒むといつて戻つて來た。網袋に鼠の赤裸になつたやうな小鳥が、殘酷に折り重なつて毟られた毛並と反對の、いやな死態を見せてゐた。

「あんたこれ食べるの。」

「食ふさ、春先の小鳥はあぶらが乘つてゐて美味いよ。」

「明日もまた砂山に行くんですか。」

「行きますよ、日曜は逃がせませんからね。」

「その銃で人間が射てる?」

「人間でも熊でも射てますよ、射てないものないよ。」

「明日何時頃砂山に行くんですか。」

「朝早くさうだな、十時頃。」

「その時分、あたし行きますから、射つところ見せて貰へるか知ら?」

「見せてあげよう。」

「あんたのやうなやさしい顏をしてよく生きものの命を取つて平氣でゐられるわね。」

「生きものになんか見えやしない······

「ぢや何に見えて?」

「美味いご馳走に見えますよ。」

 その時表のくぐり戸がごとつと鳴り、三人は神經的に耳と眼とをはたらかせた。お咲は誰が表に來てゐるかを知つて、祖母にはものもいはずに表に出て行つた。

 淺吉はだまつて先きに立つたお咲のあとに跟き、早脚になるのをそのまま自分も早脚にならつた。お咲はまつつぐ松原への道のりを行き、家の前に鳥渡立ちどまつたが、すぐ爐端にしやがみこんで榾をくすべた。淺吉も同じやうに跼みこんで火を掻き立て、榾火の温かさがしてくるとお咲の背中にさはらうとしたが、背中は避けられた。

「いやよ。」

············

「何すんの、意地きたない。」

「でも、かへつて來たぢやねえか。」

「町にや泊る處がないからさ、一晩だけ泊るわよ。」

「そのあとは?」

「あとで判るこつたよ。今夜だけさ。」

「變なことをいふぢやないか。」

「變なことは元々變なんだ、變でもかまふものか。」

 翌朝早くに起きたお咲はいつもとは違ひ、ていねいに顏を洗ひ、朝食も濟さないで出て行かうとしたが、淺吉はお咲の眼に見入つてそのぎらぎらしたものは、まるで平常見ない眼のはたらきであることを知つた。いまごろ何處に行くのだといふと、鳥渡、鰯網の手つだひに行くのだと、すぐ表に出て行つた。いつも着たことのない半纏をつッかけ、草履もあたらしいものを引掛けてゐるのに、淺吉は胸にどかどかした混亂を感じた。

 お咲はまつしぐらに砂丘のある、防風林を眼がけて道路を通らずに小さい砂丘を越えて行つた。防風林の松林は一さいに日をあびて、てらてらに光り、砂山はどの峯にもまぶしい日のうづまきを頂いてゐた。第三防風林のそばに來たとき、すぐ郵便局員安島がたつたいま春鶫の一羽を射ちおとしたところであつた。眼聰いお咲は鶫を拾ひ、安島に手渡した。安島は次から次へと小鳥を打ち、小鳥はたいてい翼が潰れたやうに落ち、そのまま體温をのこして死んでゐた。

 そのうち安島は一服喫むために、枯草の上にしやがみ込んでゐると、お咲は銃の寄せかけてある松の根元に行き、鐵砲を持ちあげ、重いわね、こんな重いもんぢやないと思つたといつた。その間際だつた、お咲の手によつて引金が引かれたのであらうか、銃聲が安島の耳をつんざいて彼を馳け出させた。硝煙の中に立つたお咲は先刻よりもつと、スゴミのあるぎらぎら眼になつてゐた。

「何するんだ、自分でこれをやりたさに此處に來たんだね。」

············

 お咲は鐵砲にぶら下がるようにし、なかなか握つた手を放さなかつた。あんたのおもちやぢやない、放しなさいと安島は顏色を變へて遂に銃を取り上げた。お咲はその時二三歩はなれると、お願ひだからといつた。

「あんた、あたしに一發打つてくれはらんか。」

 安島は突然返事もしないで砂山を下りて行つた。お咲は黒焦げになつたやうな砂地を見つめ、安島のうしろを見るとあんなにたくさんの命をとつてゐても、あたしの命は取れない氣の小さい奴だと、くやしさうに一人つぶやきをして、これもまた砂山から下りて行つた。






底本:「黒髮の書」新潮社

   1955(昭和30)年2月28日発売

初出:「改造 第35巻第3号」改造社

   1954(昭和29)年3月1日

入力:磯貝まこと

校正:待田海

2021年7月27日作成

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