鐘の
音さへ
霞むと
云ふ、四
月初旬の
或長閑な
日であつた。
私は
此春先||殊に
花見頃の
時候になると、
左右脳を
悪くするのが
毎年のお
定例だ。
梅が
咲いて、
紫色の
雑木林の
梢が、
湿味を
持つた
蒼い
空にスク/\
透けて
見え、
柳がまだ
荒い
初東風に
悩まされて
居る
時分は、
濫と三
脚を
持出して、
郊外の
景色を
猟つて
歩くのであるが、
其が
少し
過ぎて、ポカ/\する
風が、
髯面を
吹く
頃となると、もう
気が
重く、
頭がボーツとして、
直と
気焔が
挙らなくなつて
了ふ。
今日のやうな
天候は、
別しても
頭に
差響く。
私は
画を
描くのも
可厭、
人に
来られるのも、
人を
訪問するのも
臆劫と
云つた
形で
||其なら
寝てゞもゐるかと
思ふと、
矢張起きて、
机に
坐つてゐる。
而して
何か
知ら
無駄に
考へてゐる。
私は
去年の
冬妻を
迎へたばかりで、一
体双方とも
内気な
方だから、
未だ
心の
底から
打釈けると
云ふ
程狎れてはゐない。
此四五
月と
云ふものは、
私に
取つては
唯夢のやうで、
楽しいと
云へば
楽しいが、
然とて、
私が
想像してゐた
程、
又人が
言ふほど、
此が
私の一
生の
最も
幸福な
時期だとも
思はぬ。
或はラブがなかつた
故かも
知れぬ。
妻が
未だ
心から
私に
触れて
来るほど、
夫婦の
愛情に
[#「愛情に」は底本では「愛情は」]脂が
乗つて
居ない
故かも
知れぬ。
其とも
此様なのが
実際に
幸福なので、
私の
考へてゐた
事が、
分に
過ぎたのかも
知れぬ。が、これで一
生続けば
先無事だ。
熱くもなく
冷くもなし、
此処らが
所謂平温なのであらう。
妻はお
光と
云つて、
今歳二十になる。
何かと
云ふものゝ、
綺緻は
先不足のない
方で、
体の
発育も
申分なく、
胴や四
肢の
釣合も
幾ど
理想に
近い。
唯少し
遠慮勝なのと、
余り
多く
口数を
利かぬのが、
何となく
私には
物足りないので、
私が
其であるから
尚更始末が
悪い。が、
孰かと
云へば、
愛嬌もある、
気も
利く、
画の
趣味も
私が
莫迦にする
程でもない。
此と
云ふ
長所も
面白味もないが、
気質は
如何にも
丸く
出来てゐる。
其体と
同じく、
人品も
何となく
触りがフツクリしてゐる。
其も
其筈、
実家は
生計向も
豊かに、
家柄も
相当に
高く、
今年五十
幾許かの
父は
去年まで
農商務省の
官吏を
勤め、
嫡子は
海軍の
大尉で、
今朝日艦に
乗組んで
居り、
光子は
唯た
一人の
其妹として、
荒い
風を
厭うて
育てられた
極めて
多幸な
愛娘である。
今日は
実家へ
行つた
其留守なのである。
時計は
今二
時を
打つたばかり。
千駄木の
奥の
此の
私の
家から
番町までゞは、
可也遠いのであるが、
出てからもう
彼此一
時間も
経つから、
今頃は
父と
母とに
右と
左から
笑顔を
見せられて、
私が
此頃計画しつゝある
画室の
事など
話して
居るであらう。と
思ふと、
其事に
頭脳が
惹入れられて、
様々な
空想も
湧いて
来る。
昼過から
少し
出て
来た
生温い
風が
稍騒いで、
横になつて
見てゐると、
何処かの
庭の
桜が、
早や
霏々と
散つて、
手洗鉢の
周の、つは
蕗の
葉の
上まで
舞つて
来る。
先刻まで
蒼[#ルビの「あを」は底本では「あお」]かつた
空も、
何時とはなし一
面に
薄曇つて、
其処らが
急に
息苦しく、
頭脳は一
層圧つけられるやうになる。
私は
寝転んだまゝ、
彼方此方目を
動かしてゐるうち、ふと
妙な
物が
目に
着いた。
襖を
開放した
茶の
間から、
其先の四
畳半の
壁際に
真新しい
総桐の
箪笥が一
棹見える。
其箪笥の二
番目の
抽斗から
喰出してゐるのは、
小豆色の
友染縮緬の
背負揚の
端で、
其の
見える
部分に、
鉄扇花でゞもあらうか、キザ/″\の
花の
図案化された
模様が
見えて、
其が
目につくと、
私はふと
妙なことを
想出した。
其は
外日友人の
処で、
或冬の
夜、
酒を
飲みながら
遅くまで
話込んでゐた
時の
事、
恋愛談から
女学生[#ルビの「ぢよがくせい」は底本では「じよがくせい」]の
風評が
始まつて、
其時細君が
一人の
同窓の友に、
散々或学生に
苦労をした
揚句、
熱湯を
呑されて、
全校の
評判になつた
美人があつた
事を
話した。
其女は
才も
働き、
勉強も
出来、
優れて
悧巧な
質であつたが、
或時脊負揚のなかゝら
脱落ちた
男の
文で、
其保護者の
親類の
細君に
感づかれ、一
時学校[#ルビの「がくかう」は底本では「がつかう」]も
停められて、
家に
禁足されてゐたが、
矢張男が
恋しく、
其学生が
田舎[#ルビの「ゐなか」は底本では「いなか」]から
細君を
連れて
来るまで
附纏つたと
云ふだけの、
事実談に
過ぎぬのであるが、
文を
脊負揚に
仕舞つて
置いた一
事が、
何となく
私の
記憶に
遺つてゐる。
其を
憶浮べると
同時に、
私の
胸には
妙な一
種の
好奇心が
起きて
来た。
若し、
私が
妻に
対して
不満足を
抱いてゐたとすれば、
其不満足は、
今一
種の
猜疑心となつたのであらう。
私は
無論妻を
信じてゐた。
背負揚のうちに、
何等の
秘密があらうとは
思はぬ。が、もし
[#「が、もし」は底本では「もし」]有つたら
如何する?と
叫んだのも、
恐く
此の
猜疑心であらう。
私はそれを
感ずると
同時に、
妙に
可厭な
気が
差した。
而して
可成そんな
秘密に
触りたくないやうな
心持もした。
が、
想像は
矢張悪い
方へばかり
走らうとする。
如何かすると、
恋人の
有つたことを、
既に
動すべからざる
事実[#ルビの「じゞつ」は底本では「じじつ」]と
決めて
了つてゐる。
而して、
其事実のうへに、
色々の
不幸な
事実をさへ
築あげてゐる。
「
無論離縁さ。
子でも
出来たら、
其こそ
挽回がつかぬ。」と
私は
独で
心に
叫んだ。
不安の
火の
手は
段々揚つて
来た。
其を
打消さうとする
傍から、「あの
始終人の
顔色を
読んでゐるやうな
目の
底には、
何等かの
秘密が
潜んでゐるに
違ない。」と
私語くものがある。
恁う
[#「恁う」は底本では「恁ふ」]言ふと、
或は
嗤ふ
人があるかも
知れぬ。が、
其は
秘密がなかつた
折のことで、
若し
有つたら、
其こそ
大事だ。
私は
寧ろ
此不安を
消すために、
私と四
畳半へ
忍込んだ。
何だか
罪悪でも
犯すやうな
気がしたので。
部屋には
箪笥の
外に、
鏡台もある。
針函もある。
手文庫もある。
若し
秘密があるとすれば、
其等の
中にも
無いとは
保しがたい。けれど
私は
如何いふものか、
其に
触つて
見る
気は
少しもなく、
唯端の
喰出した、一
筋の
背負揚、それが
私の
不安の
中心点であつた。
抽斗を
透して、
私と
背負揚を
引張出して
見ると、
白粉やら
香水やら、
女の
移香が
鼻に
通つて、
私の
胸は
妙にワク/\して
来た。
心のある
部分を
触つて
見ると、
心は
堅く、
何物も
入つてゐさうにも
思へぬ。が、
捻つてみると、カサヽヽと
音がして、
何やら
西洋紙のやうな
感じもする。
私は
急いで、
端から
振つて
見た。
而して
好い
加減のところで、
手を
突込んで
撈つて
見ると、
確に
手に
触るものがある。
私は
畢生の
幸福の
影が
消えて
了つたかのやうに
心を
騒がせ、
急いで
引出して
見た。
紙片は
果して
横罫の
西洋紙で、
其が
拡げて
見ると、四五
通もある。
孰もインキでノート
筆記やうの
無造作な
字体で、
最初の一
通が一
番長く、
細字で三
頁半にも
亘つてゐる。
其他は
何れも
断片で、
文句は
素より
拙劣、
唯血の
躍るまゝにペンを
走らせたものとしか
見えぬ。
飛び/\に
読んでゐるうち、一
度何かで
読んだ
覚のある
恋愛論に
出会しなどするのであつたが、ハイカラな
其青年の
面目が、
目の
先に
見えるやうである。
然かと
思ふと、
其青年は
高等商業の
生徒らしく、
実業界に
羽を
伸さうと
云ふ
前途の
抱負なども
微見かしてある。で
全体を
綜合した
処で、
私の
頭に
残つた
印象と
云ふのは
||初めての
出会は
小川町あたりの
人込のなかであつたらしく、
女の
袖へ
名刺でも
投込んだのが
抑もの
発端で、二
度目に
同じ
通で
会つたとき、
南明館あたりの
暗い
横町で
初めて
口を
利合ひ、
其から
ちよく/\男の
下宿へも
出入した
事情が
大体判る。それは、
······彼の
幽暗き
路次の
黄昏の
色は、
今も
其処を
通る
毎に、
我等が
最初の
握手の、
如何に
幸福なりしかを
語り
申候。
貴女は
忘れ
給はざるべし、
其時の
我等の
秘密を
照せる
唯一つの
軒燈の
光を
······ 後は
何のことか
解らぬ。が
事実は
事実である。
今一つ
招魂社の
後の
木立のなかにも、
媚かしい
此物語は
迹つけられてあるが、
其後の
関係は一
切解らぬ。
今も
此の
恋なかは
続いてゐるか
否か、
其も
判然せぬ。が、
此の
手紙を
後生大事と
収つておく
処から
見ると、
其後何かの
事情で、
互に
隔たつてはゐても、
心は
今に
隔てぬ
中だと
云ふことは
明かである。
斯のくらゐ
苟且ならぬ
恋の
紀念が、
其後唯忘られて
此背負揚の
中に
遺つてゐるものとは。
如何しても
受取れぬ。
私は
咽ばされるやうな、
二人の
甘い
恋を
目に
浮べぬ
訳には
行かなかつた。あの
手に
握つた
他の
手、あの
胸に
擁いた
他の
胸のあつたことを
想像して、
心臓の
鼓動も一
時に
停り、
呼吸も
窒がつたやうに
覚えた。
同時に
色々の
疑問が
胸に
起つた。
女の
節操と
云ふ
事、
肉と
霊と
云ふ
事、
恋と
愛と
云ふ
事、
女は二
度目の
恋を
持得るかと
云ふ
事、
女は
最初の
恋を
忘れ
得るかと
云ふ
事など、
其れから
其れへと
力にも
及ばぬ
問題が
垠なく
私を
苦しめる。
「
詰問してやらう。」と
私は
敦囲いても
見た。
「どの
位の
程度であつたか、それを
懺悔さしてやらう。」と
効ない
手段も
運らして
見た。
で、
其手紙は一
時私の
手に
押収することにして、一
旦机の
抽斗の
底へ
入れて
見たが、こんな
反故屑を
差押へて
其が
何になるか。
此手紙以外に、
女の
肉には、
如何な
秘密が
痕つけられてあるか、
其は一
切解らぬ。
心の
奥に、
如何な
恋が
封じ
込めてあるか、
其も
固より
解らぬ。
私の
想像は
可恐しく
鋭くなつて
来た。
同時に
不安の
雲は
益す
暗くなつて
来た。
あゝ、
何と
云ふ
厭な
日であらう。
* * * *
二三
日は
何の
事もなかつた。
唯私の
頭が
重苦しいばかりであつた。
が、
女は
男の
秘密を
読むのが
巧い。
加之用心深い
其神経は、
何時彼の
背負揚を
見て、
手紙に
触つた
私の
手の
匂を
嚊ぎつけ、
或晩妻が
湯に
入つた
留守に、
私と
背負揚を
出して
見ると、
手紙はもう
中には
無つた。
文庫のなかを
捜しても
無つた。
鏡台にも
針箱にも
箪笥の
抽斗にも
無つた。
大方焼棄てるか
如何かしたのであらう。
綺麗に
作つて
湯から
帰ると、
妻は
不図茶道具と
もなかとを
私の
傍へ
運んで、
例の
嫻かに、
落着いた
風で、
茶など
淹れて、
四方八方の
話を
始める。
何だか、
隔の
或物を
撤して、
直接に
私に
接して
見やうとする
様子が、
歴々と
素振に
見える。
私の
胸は
始終煮えてゐた。
唯抑へてゐるばかりなのである。
其晩は
湿やかな
春雨が
降つてゐた。
近所隣は
闃として、
樋を
洩れる
細い
雨滴の
音ばかりがメロヂカルに
聞える。が、
部屋には
可恐しい
影が
潜んでゐた。
火影を
片頬に
受けた
妻の
顔は、
見恍れるばかりに
綺麗である。
頬もポーツと
桜色にぼかされて、
髪も
至つて
艶かである。
殊に
其目は
星のやうで、
絶えず
私の
顔を
見ては、
心を
熔さうとしてゐるやうな
媚を
作る。
此の
目、
此の
頬、
此の
髪、
其処には
未だ
昔の
恋の
夢が
残つてゐるやうである。
私は一
種の
美感に
酔されると
同時に、
激しい
妬しさに
胸を

られてゐる。
可愛ゆくもあるが
憎くも
思つた。
其の
目が、あの
恋の
秘密を
私語いてゐるかと
思ふと、
腹立しくもあつたが、
哀にも
思つた。
此の
哀れは
崇高の
感じを
意味するので、
妻の
昔を
客観に
見た
時であるのは、
言ふまでもない。
私は
悲しくなつて、
多時深い
沈黙に
沈んだ。
何かの
拍子に、
妻は
其の
無邪気な
顔を、
少し
曇らして、
「
貴方何か
見たでせう。」
「
············。」
「きつと
古い
手紙を
御覧なすつたでせう。」
私は
力めて
平気らしく、「ウム
見た。あんな
事があつたのか。」と
声は
嗄れて、
顫へてゐた。
話は
段々進んだ。
私の
詰問に
対して、
妻は一と
通の
弁解をしてから、
其は
恋と
云ふほどでは
無つたと
説明する。
而して
会つた
処は
始終外で、
偶に
其下宿へ
行つたこともあつたけれど、
自分は
其様な
初々しい
恋に、
肌を
汚すほど、
其時分は
大胆でなかつたと
云ふことを
確めた。
其以上、
私の
詰問の
矢の
根は
通らぬ。
通らぬ
処に
暗い
不安の
影が
漂うてゐるのであるが、
影は
影で、一
歩も
私の
足迹を
容るゝを
許さぬのである。
私は
以前よりも一
層の
不安を
感じた。
「それで、
貴方は
如何か
為さらうと
云ふお
心持なのです。」
私は
自分の
不安と
苦痛を
訴へたが、
其も
効はなく、
此まゝ
秘密にしてくれと
云ふ
妻の
哀願を
容れて、
此事は一
時其まゝに
葬ることにした。
私は
此後或は
光子を
離縁するかも
測られぬ。
次第に
因つては、
光子の
父母に、
此事を
告白せぬとも
限らぬ。が、
告白したところで、
離縁をした
処で、
光子に
対する
嫉妬の
焔は、
遂に
消すことが
出来ぬ。
(明治41年1月「趣味」)
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#···]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。