花の散つてゐる街中の桜並木を通つてゐた。灯ともし頃であつた。妙な佗しさに追ひ立てられるやうな気持で、足早に歩いてゐたやうだつた。
道の左手に明るいカフエが口を開いてゐた。入口に立つて覗くと、酒を飲んでしやべつてゐる群の中に知つた顔が二三人見えた。あまり会ひたくもない人たちだつたので、僕はしばらくそこに立つたまゝでゐた。
そのとき奥の勘定台のわきの壁に倚りかゝつてゐるNが眼に入つた。中学のとき同級で、海軍兵学校に入つてゐるうちに肺炎か何かで死んだ男だ。むかふでも僕をみつけたものと見えて、むかしした通りに、頑丈なからだを少し前のめりにし、新兵のやうに二の腕をぶらぶら振りながら、うれしさうにこつちへやつて来た。僕もへんにうきうきした気持になつて、いきなりその胸の厚いからだを抱きしめて額に接吻した
······ 突然、予期しない不快な感覚を顔面に覚えて手を放してみると、Nの半面は、髪の毛から眼の下へかけて一面に褐色のどろどろした液体で被はれてゐる。しかしその液体の不快な触感を顔に感じてゐるものはたしかに僕である。夢の中ではこのことが少しも不自然ではなかつた。Nは僕の顔にその液体を吐きかけたのでもなければ、僕の口から出たその液体を吐きかけられたのでもないやうに、平静な顔に、うれしさうなうす笑ひを浮べてやつぱり僕をみつめてゐる。しかし僕はもう一度彼を抱きしめる気になれずに、ぼんやりそこに立つたまゝ、よごれた彼の顔を眺めてゐた。