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この小講義は雑誌ホトトギス紙上(大正二年五月号以下)に「六ヶ月間俳句講義」として連載したものであります。一篇の主旨が俳句とはどんなものか、ということを説明するにあるのでありますから、今一冊子にまとめるに当たって、その通りに標題を改めました。
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近頃初めて俳句を作ろうと思うのだがどういうふうに作ったらよかろうか、とか、これから俳句に指を染めてみたいと思うのだがどんなふうに学んだらよいのか、とか、その他これに類した質問を受けることが多うございます。ことに、ずっと程度を低くした小学生に教えるくらいの程度の俳話をしてもらいたいというような注文をなさる方があります。この俳句講義は今度それらの要求に応ぜんがために思い立ったものであります。
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この事ではまだ俳句というものを少しも知らぬ人のために、概念だけを与えるのを目的としてのべます。元来この講義は初心の人に俳句の概念を与えるのを目的とするのではありますが、この総論においてはさらにそれを小規模にして、手っとり早く、俳句というものに多少の親しみをつけるだけのことを目的とします。それゆえ同じく初心といううちでも一、二冊俳書を読んだことがあるとか、二、三句作ってみたことがあるとかいう人にはあまりわかりきったお話になるかもしれないのであります。それらの人は第二章から読んで下さってよいのであります。
それゆえこの一章を読んでから、今まではまったく没交渉であった俳句というものにどこやら一つの暖かみを覚えるようになったとお感じになるならば、それだけでもう十分この章の目的は達せられたことになるのであります。いよいよ諸君が俳句を作られるための手引としては第二章以下にのべることにいたします。
さて俳句(発句)というものはどんなものでしょう。
それについて私はまず自分がまったく俳句というものを知らなかった幼い時の記憶を呼び起さなければなりません。私の父や母は好んで三十一文字を並べておりました。父の写本には歌の本が多うございました。来生以前から耳に慣らされていた謡曲の中にも歌はたくさん織りこまれていました。母が私にして聞かすお
それは一人の子供が日暮になってほかの子供を誘いに行くと、もうその戸が締まっていて開かない。そこで「とんとんと
そんなわけで和歌は生まれ落ちてから私にとって親しいものでありましたが、発句については十三、四ごろまでただ一言の話を聞いたこともありませんでした。初めて聞いた俳人の名は
朝顔に釣瓶取られて貰ひ水
という句でありました。これも母から聞いたかと記憶していますが、母はこの句を優しい句だといって激賞したように覚えています。そののち近所の友人のうちで私が歌を作ろうというと友人は発句を作ろうと主張しました。その時友人のお母さんも発句を作るといって思案するような顔をしていられましたが、やがてこういう句を示されました。
朝顔の蕾は坊のチンチ哉
この句を聞かされた時私は馬鹿にされたような気持がして、その友人のお母さんの不真面目なのが
我ものと思へば軽し傘の雪 其角
というのが名句だとして紹介され、私もまた興味ある句としてそれを受け取ったことを記憶しています。
もしその頃の私に向かって、俳句とはどんなものか、というような疑問を提出する人がありましたら私は何と答えましたでしょう。
俳句とは、朝顔に釣瓶取られて貰ひ水、我ものと思へば軽し傘の雪というようなものであります。(1)
とそう答えるよりほかにしかたがなかったろうと思います。また俳人はと問われましたら、
加賀の千代、其角の二人(2)
と答える以外に何の知識も持たなかったであろうと思います。が、もしその質問者が俳句は何字あればよろしいのですか、と聞いたら私は何と答えましたでしょう。かの近所の友人や友人のお母さんと初めて俳句というものを作ったときにも、私は指を折って十七字にすることだけは忘れなかったのですから、私は即座に、
十七字です。(3)
と答えるであろうと思います。
以上の答えのうち、(1)も(2)も不完全な答えでありますが(3)だけは俳句の存在する限り動かすことのできない明確な正当な答えであります。
一 俳句は十七字の文学であります
私は十七、八歳のころはじめて俳句というものを学んでみる気になったのでありました。それはほかでもありません、一に
が、その後子規居士から若干の俳書を借りて読んでみたり、俳句の歴史を聞き
鶏の声も聞こゆる山桜 凡兆
湖の水まさりけり五月雨 去来
荒海や佐渡に横たう天の川 芭蕉
舟人にぬかれて乗りし時雨かな 尚白
湖の水まさりけり
荒海や佐渡に横たう天の川 芭蕉
舟人にぬかれて乗りし時雨かな 尚白
こんなような句に
けれどもそれは決してこれらの句に感心したというのではありませんでした。その時分の心持を振り返ってみますと、俳句とはこんなものだとあらかた決めてかかっていたものが、たちまちまた壊れてしまって、ちょっと捕まえ所がなくなった、というような頼りない心持であったように記憶します。
それは何故かと申しますと、「釣瓶取られて貰ひ水」というような句はよく人情が写してあります。人情と申しましても婦女子にもよく
ところがそれらの句を見て、俳句とは大方こんなものだ、と見当をつけていたものが、前掲の
そこで俳句とはどんなものか、という質問に対して、にわかに「釣瓶取られて」とか「我ものと」とかいう句を例証に出してこんなものですと答えることができなくなったのであります。
前に挙げた、「俳句は十七字の文学なり」という一項だけは動かすことのできぬ的確な答えでありましたが、しかもそれはただ形式についての答えに過ぎなかったのであります。ここにさらに提出した俳句とはどんなものか、という質問に対してはその内容についての答えを要望せねばなりません。
「釣瓶取られて」の句や「我ものと」の句などからは
俳句は優しい人情を歌うものです。(4)
とただちに答え得たかもしれませんが、それが独りこの二句から得た感じだけをもって答えることができないことになると、さらにこれらの句||一例として挙げた前掲の四句||についていま少しく内容を吟味してかからねばならぬことになったのであります。
が、その内容を吟味にかかる前に、私は前に俳人はと問われた場合、加賀の千代、其角の二人ほか答えることができなかったのでありますが、今は、少なくとも、凡兆、去来、芭蕉、
俳人には加賀の千代、其角、凡兆、去来、芭蕉、尚白等があります。(5)
と答え得るようになったのであります。なおこのついでに私は一歩を進めてこういうことを申し上げておきたいと思います。
(5)のようにただ俳人の名前を並べただけでは誰が古くて誰が新しいのか、誰がえらくて誰がえらくないのかそれが判らないのでありますが、その実この中で一番偉いのは芭蕉でありまして、
芭蕉は真宗でいえば
といったように俳句界のお祖師様として尊崇されているところの人で、また実際今日の俳句というものは芭蕉の力で作り上げられたといってもよいのであります。前掲の其角、凡兆、去来、尚白の四人は芭蕉の主な弟子で芭蕉とともにいずれも
そこで余事はさておきここにはまずこういう断案だけを下しておきましょう。
二 俳句とは芭蕉によって作り上げられた文学であります
さていよいよ俳句の内容の吟味に取りかかってみようと思います。
内容の吟味などというと大分難しいようですが、平たくいえば、俳句にはどんなことが読まれているか、また俳句とはどんなことを読んだらいいものなのかというぐらいのことにすぎないのであります。以上の(一)と(二)とによって俳句は「芭蕉という二百年前の人によって作り上げられた」、「十七字の文学である」ということだけは判りましたが、さてどんなことを読んだらいいかが判りません。それを前掲の四句から吟味してみようというのであります。
「釣瓶取られて」の句や、「我ものと」の句やは俳句というものをまったく知らない人に話してもすぐ面白味が判りますが、前掲の四句になると多少俳句というものに慣らされた人でないと容易に判らないのであります。独り面白味が判らぬばかりでなく、全体何を言ったのかということさえ判らないかも知れないのであります。現に初めて俳句を学び始めた時分の私はまったくその状態にあったのであります。そこで今日の私がその時分の私に説明して聞かすようなつもりで、まず句の意味から解釈してかかろうと思います。
鶏の声も聞こゆる山桜 凡兆
この句は人里遠い山に花見に行った時の句でありまして||山桜というと桜のある種類の名前だと解釈する人があるかも知れませぬが、俳句で山桜と言いますと、たいがい山にある桜ということになります。||句意はその
次に
湖の水まさりけり五月雨 去来
この句は五月雨が
次に
荒海や佐渡に横たう天の川 芭蕉
北海は荒海でありますが、ある年の秋芭蕉はその荒海のほとりのある町におりました。夜になって大空を見渡しますと、その晴れ渡った秋の空に天の川がかかって遠く沖にある佐渡が島の方に流れております。そこをとって芭蕉はこの句にしたのであります。
次に
舟人にぬかれて乗りし時雨かな 尚白
どこということは別に明白ではありませんが、仮に
さてかく解釈してみますと、それで各々の句の意味だけは無造作に判ったことになりますが、初めて俳句に接したものにあっては同時に一つの大きな疑問が起こらなければなりません。というのは、たとえば第一の句についていうと、「鶏の声も聞こゆる」という十二字と「山桜」という下の五字との間に何の連絡もないのにかかわらず、前解のごとく、「山に行って花見をしている」とか、「この辺には人家がないと考えていたにかかわらず」とか、「さてはどこかに人家があるとみえる」とかいうような解釈を産み出し得るということは不可思議のこととしなければなりません。他の三句にあっても同様であります。
が、しかし少し俳句に慣れてくると、かくの如きはむしろ俳句としては普通のことであって、それをわざわざ怪しむのがかえって不思議なくらいに思われるようになります。すなわち、第一句の場合にあっても「山桜」という文字が与える概念と、「鶏の声も聞こゆる」という言葉が与える概念とが結びついて、その間にできるだけの多くの連想を生んで前解のごとき意味を人に伝え得ることになるのであります。もしこれが俳句でなくてただの文章の一節であったならば、「······鶏の声も聞こゆる山桜······」と読んで行った場合に、全体それは何を表わしたのか、主格もなく、目的格もなく、何がどうして鶏の声も聞こゆるというのか、また山桜がどうしたというのか皆目不可解の文字としなければならないのであります。
そこでこういうことを了解しておかなければなりません。
俳句を解釈する場合には、散文の一節をみるのとは違った用意を必要とします。(7)
すなわち、散文であるとなるべく文字を十分に使用して意味連絡をはかるようになっておりますが、俳句の場合に合ってはできるだけ簡潔な文字が使用されて、多くの意味は連想に待つようになっております。
この俳句の叙法につきましては別にお話しする考えでおりますから、ここにはこれだけで端折りまして、さて、解釈し来った四句のごとき全体何を表しているといったらいいのでしょうか、すなわちこれらの句の面白味はどういう所に存しているのでしょうか、俳句内容の吟味ということがこの一節の本来の目的であったのですから、ただちにそこに踏みこんでゆこうと思います。
これらの句は「釣瓶取られて」や「我ものと」の句のように人情をうたったものではなく、景色もしくは事実を描いた句といってよかろうかと思います。もっとも厳密にいえばこれらの句のうちにも情はあります。また「釣瓶取られて」等の句のうちにも景はあります。がその重きをなしている点が違っていると思います。「釣瓶取られて」等の句はその釣瓶取られて貰ひ水、といったようなところに女子供をあっと感ぜしめる力強い情の現れがありますが、これらの句にはそれがありません。余情としては閑寂な境地を愛好する心持だとか、大景に憧憬する心持だとか、もしくは
が、しかしいったん気付いてみますと、たちまち夜が明けたような心持ちで、「そうか俳句というものはこんなものであったのか」と初めて宝庫の
三 俳句とは主として景色を叙する文学であります
なおまた前に挙げたすべての句には、春夏秋冬四季のうちのどれかが必ず詠みこまれています。「朝顔」は秋、「雪」は冬、「桜」は春、「五月雨」は夏、「天の川」は秋、「時雨」は冬であります。
これら「」内のものをすべて「季のもの」と言います。すなわち俳句はぜひこれらの季のものを詠みこまねばならぬことになっているのであります。そのことは俳句の一大事であってぜひ詳論せねばならぬことですからこれも一項を設けて論ずることとして、ここにはただこういう結論だけを与えておこうと思います。
四 俳句には必ず季のものを詠みこみます
次にまた俳句には
朝顔に釣瓶取られて貰ひ水(切字無し)
我ものと思へば軽し傘の雪
鶏の声も聞こゆる山桜
湖の水まさりけり五月雨
荒海や佐渡に横たう天の川
舟人にぬかれて乗りし時雨かな
我ものと思へば軽し傘の雪
鶏の声も聞こゆる山桜
湖の水まさりけり五月雨
荒海や佐渡に横たう天の川
舟人にぬかれて乗りし時雨かな
右の太字が切字であります。これらの切字は多くの場合俳句になくてはならぬものになっています。これも別に一項をおいて論じますから、ここにはただ結論だけを与えておきます。
五 俳句には多くの場合切字を必要とします
私はこの総論を終るにのぞみまして、前段に申しました一言をぜひとも取り消しておかなければならないと思います。それは和歌と俳句とを比較して、和歌は堂上人のごとく優にやさしきもの、俳句は町人のごとく
俳句が文学の一種類として立派なものであることは、少し俳句を研究してみれば何人にも判ることであります。(8)
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前章では俳句というものの大体の概念を与えるのを目的としましたからごく大ざっぱなお話をいたしましたが、本章からはいま少しこまごまとしたお話に立ち入ってみようと思います。
「ああ暑い」「ああ寒い」とは誰もよく申すことであります。「おはよう」とか「御機嫌よう」とかいう言葉の次に出るのは、「お暑うございます」「お寒うございます」という
時候というものが我等日常生活の上にいかに大きな関係を持っていて、その日その時の我等の気分を支配してゆく力のいかに強いものであるかということはこれによっても知られることであります。
俳句はこの時候というものにもっとも重きをおいた文学であります。(9)
こう言ったばかりではまだ何のことだかお判りになりますまい。いま少し詳しく説明すると、
俳句はこの時候の変化につれて起ってくるいろいろの現象を
時候が春、夏、秋、冬の四季に分かれていることは申すまでもありません。ここにその春が来るにつけて起って来る現象の一例を申しますと、まず今まで肌を切るような北風ばかり吹いていたのが、いつの間にか暖かみを帯びた東風に変わります。この東風の吹くということはとりもなおさず時候の変化につれて起って来た現象の一つであります。······天文上の現象
また春が来ますと、今まで
俳句ではこれを水
また春が来ますと、秋以来冬にかけては大方はせわしげに鳴く小鳥ばかりであった中にたまたま一つの悠長な鳴き声か交じるようになります。それは
また春が来ますと、今までは
また春が来ますと、大空にはいつの間にか
秋の日の釣瓶落しということをよくいいます。それは日暮になったかと思うとたちまち暮れてしまうだんだん日の短くなってゆく秋の心持をいったものでありますが、それが冬に入りますとますますつまってきて五時でも打つともう灯をつけねば手元が暗くて仕事ができぬというようになってきます。がまた日の短い頂上の冬至を過ぎると今度は反対に少しずつ延びてきていよいよ春にはいったとなるとよほどもう
||日永についてはもっと詳しく説明しないと言葉がたりませんが、今それをいうと混雑をきたしますから後に譲ります。(11)
この日永ということも時候の変化にともなって起った現象の一つであります。······天文、地理、動物、植物、人事などの分類に入らぬ現象
以上はほんの手近い一、二の例を引いたのに過ぎないのでありますがこれに似寄ったことはたくさんあります。以上のべた例から類推しても直ちに若干の題目を挙げ得るのであります。
試みにその題目を少し列挙してみましょうか。
東風から類推し得るもの||春風、春雨、霞 、朧月 など。······天文上の現象
水温むから類推し得るもの||氷解、春の水、春の山、春の海など。······地理上の現象
鶯から類推し得るもの||燕、雲雀、蝶、蜂など。······動物上の現象
梅の花から類推し得るもの||桜の花、椿の花、藤の花、躑躅 の花など。······植物上の現象
畑打から類推し得るもの||種蒔、接木、さし木など。······人事上の現象
日永より類推し得るもの||のどか、暖か、うららか、春の夜など。······天文、地理、動物、植物、人事などの分類に入らぬ現象
しかしこうならべたてましたところで、読者の中にはただちにこれらの題目を類推し得られる方と得られない方とがあることだろうと思います。その得られない方にあってはなにゆえにそれらを類推し得るかをまず疑問とせられるでありましょう。私はその疑問に答えるために小さい文字でもって「天文上の現象」とか「地理上の現象」とかいう
およそ時候の変化にともなって起って来るあらゆる現象を便利のために分類してみますと、
天文に属するもの 蒼天 、空間などに起こること。
地理に属するもの 地上に起こること。
動物に属するもの
植物に属するもの
人事に属するもの 人間の行為、人体などに関するもの。
時候に属するもの 以上五つの分類に入らぬもの。
とまずこの六つになります。これも何も六つに限ったというわけではなく、もっと細かく分類しようと思えばいくらにでも分類ができるのでありますが、これくらいにしておくのが比較的便宜なために、普通この六つに分類します。||このうち最後の「時候」というのは、時候を分類してさらに時候を得たことになって少しおかしいようではありますが、つまり天文にも地理にも動物にも人事にも入れることのできなかった残りものを、やはり時候という、その実前よりも範囲の狭い名の下に一分科としておくのであります。||そうしてこの分類を土台として、たとえば東風と同じ天文に属するからというので春風、春雨、霞、朧月というふうに類推してゆくのであります。六 時候の変化によって起こる現象を俳句にては季のものまたは季題と呼びます
さらに進んで俳句と季題との関係を説きましょう。
まず第一に俳句以外の文学と季題との関係はどんなものでありましょうか、それをちょっと取り調べておく必要があろうかと思います。
俳句についで季題に関係の深いのは和歌でありましょう。試みに和歌の類集というようなものを開けてみますとやはり俳句の類集と同じように春の部、夏の部、秋の部、冬の部などと四季の分類がしてあります。しかも俳句の類集とくらべてそこに顕著な二つの相違があることを忘れてはなりません。
その一つは句集には春の部、夏の部、秋の部、冬の部という四大別がしてありまして、そのほかにはたまに新年の部というのが春の部もしくは冬の部の隷属として設けてあるくらいのもので一切他の分類はありません。それが歌集になりますとなかなか四季の分類だけでは終わっておりません。仮りにその歌集が五冊あるものとしますと、初めの二冊が四季の部で、あと二冊が恋の部で、残り一冊が
秋の田の刈穂の庵の苫 を荒み我衣手は露にぬれつゝ
春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふあまのかぐやま
春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふあまのかぐやま
これらは太字が皆季のものでありますから四季の分類に入るべき和歌でありますが、
夜をこめて鶏 の空音 ははかるとも世に逢坂 の関は許さじ
魂 の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
などという恋歌は四季の分類に入れようとしても入れようがありません。ところが俳句になりますと、
紅梅や見ぬ恋つくる玉簾 芭蕉
短夜や伽羅 の匂ひの胸ぶくれ 几董
短夜や
というような恋句のごときものでもちゃんと太字のような季のものが読みこんであります。私は例によって簡単に句意を説明して、この二つの恋句の上に季のものがどれだけの力をもっているかを調べてみることにいたしましょう。
芭蕉の句意はこうであります。ある
几董の句意はこうであります。恋し合っている仲の男女が、ある夏の夜||短夜というのは夏の夜のことであります。夏は事実においてもっとも日が永いことは前条にのべましたが同時に夜はもっとも短くって、朝の四時頃にはもう白みかけます。それで俳句では夏の夜のことを短夜といいます||逢って、さて翌朝になっていざ別れようとすると、昨夜相逢った時のことに慕わしく懐かしく
前の二首の恋歌は恋についての感情を直叙しているばかりで何の事実をも叙してはおりませんが、この二つの恋句は感情を言い表わすと同時に事実を叙しております。前句は、庭には紅梅が咲いて、その向こうには玉簾が下がっているという事実を叙し、後句は、それが夏の夜のきぬぎぬの朝であって伽羅の匂いもしていることを叙しております。
この事実を叙しておるおらぬということが、前掲の和歌と俳句との大きな相違であります。と同時にその俳句の方の事実の大部分は紅梅とか短夜とかいう季のものがこれを占めていることに注意しなければなりません。
かく和歌には四季の部に属さない恋の部というものが別にあるが俳句にはそれがない。(12)
たとい恋句というようなものがあるにしてもそれも必ず季のものが読みこまれていて四季の分類中に包括されてしまっているということは、この二つの文学を比較する上において顕著な相違の一つであります。
いま一つ顕著な相違があります。それはほかでもありません。和歌の方は月とか雪とか花とかいういわゆる季のもののうちでも重大なものだけは
春雷、雪解、別れ霜。······天文に属する季のもの=天文上の現象というのと同じ意味(以下これに準ず)
春氷、春の潮、山笑ふ。······地理に属する季のもの
鳥の巣、蚕、蜆。······動物に属する季のもの
辛夷、

、蕗の薹。······植物に属する季のもの
初午、蓬餅、出代。······人事に属する季のもの
二月、三月尽、夜半の春。······時候に属する季のもの
などの題をあげてそれらの題を探してみたら、それは決してたくさんはないだろうと思います。仮りに春氷、春の潮、山笑ふ。······地理に属する季のもの
鳥の巣、蚕、蜆。······動物に属する季のもの
辛夷、


初午、蓬餅、出代。······人事に属する季のもの
二月、三月尽、夜半の春。······時候に属する季のもの


ところが俳句になると以上のごときものはいずれも極めて普通の季題でありまして、時候の変化にともなって我等の眼の前に起こりくる一切の現象||すなわち季題||は何物をもとって材料とせねば止まぬという傾向を持っているのであります。(13)
ことにその傾向は今日の俳句において盛んになってきているのであります。(14)
ただしこれをもって私は和歌を抑えて俳句を揚げようというのではありません。和歌にあってはむしろ季題などに重大な意味をおかない点において別個の長所を持っているのであります。ただ和歌のそういう性質と照らし合わせて、我が俳句が季題ということに特別の深い関係をもっているものであるということを明らかにするのが私の目的であったのであります。
なお私は進んで和歌以外の文学と季題との関係をしらべてみて、いよいよ季題に重大な関係を持つ文学は俳句のみという断定を下さなければならぬのでありますが、それは煩わしいから略します。そうしてただ一言、和歌以外の文学は和歌ほども季題に重きをおいていないということだけを断言しておきます。漢詩の一部を除くのほか
他の文学との比較はこれくらいにしておきまして、さて季題なるものが実際いかなる形の下に俳句に読みこまれているかということを、実例について
まず天文の部から始めます。なお混雑を来さぬため前に掲げた季題に相当する句を選み出します。
句意は、一人の主人が一人の従者を連れて春の初めに表を歩いておりますと、今までの北風と違った柔らか味のある風が吹いてきます。その時、
「もう東風が吹くね。」
「さようでございます。もうこのあんばいではすぐ暖かになります。」
などと話しながら歩いているというのであります。
主と従者とが何事をか話しながら歩いているというだけでは、
「なんだそれっきりのことか。」と大方の人は相手にしません。実際主従が二人話しながら表を歩いているというだけでは格別これという興味もありません。がそれがいったん、東風の吹くということを話題としていることが判るとそこににわかに一つの興味が生じます。というのはその話題が判ったということの興味ばかりでなく、その言葉から実際東風が主従の顔を吹いているという春さきの郊外(もしくは街上)の光景が想像されて、単に主従が話しながら行くという無味な事実の上に大きな興味を加えるからであります。すなわちこの句では季題が話題として無造作に使用されているようであってその実季の十分な働きをなしているのであります。
西の京にばけもの栖 て久しく荒れはて
たる家ありけりいまそのさたなくて
たる家ありけりいまそのさたなくて
春雨や人住て煙壁を洩る 蕪村
この句意は前置がありますから説明をしなくっても判るでしょうけれども例によって簡単に申します。京都の西部のとある家は化物屋敷だという評判で久しく人も住まず荒れ果てるままにしてあったが、今はそういう噂もなくなった、というのが前置で、句の方はその化物屋敷といわれた家はもう人が住んでいて飯を炊いたり物を煮たりする煙が壁の透間から外に
初五字はごらんの通り「春雨や」となっています。その春雨やの興味を説明する前に私は試みにこれを「夕立や」「秋雨や」「時雨るゝや」という他の文字におきかえてみようと思います。
つまり前述の光景をいつの時候の雨中の景としたのが一番面白いかということを吟味してみようと思うのであります。
まず夏の夕に降る夕立としてみますと、その
次に秋雨になりますと、
次に時雨になりますと、やはり陰気な心持はないことはありませんが、それよりもからびた趣が主になりますからその煙さえも何だかかれがれの煙で、家も妖怪もすべて油気の抜けた寂滅に近いもののような感じがします。
さて最後に春雨はどうでありましょうか。春雨は他の気候の雨にくらべて一番
すなわちこの句は現在の平和な光景を表しておきながら同時に一つの
次に地理の部に移ります。
日は落ちて増 かとぞみゆる春の水 几董
これは湖水なり沼なりもしくは大きな川なりの景色でありましょう、それは春の時候でありますからそこに
なぜ増してゆくような心持がするのでしょうか。それは高かった日の次第次第に低く落ちてゆくがために水の方が自然高くなるような心持もいくらかありましょうが、それよりも日が落ちたために光が弱くなりそのためにそういう錯覚を起こすということが主な原因でありましょう。
けれどもまたこういうことを注意しなければなりません。「増かとぞ見ゆる」というのは「増すように思えばそうも思える」という主観味の勝った言葉であります。そこがこの句の眼目でありまして、元来春の水は
けさ春の氷ともなし水の糟 召波
この句意はある日の朝
この句も前句と同じく、春の氷の特性を詠ずることを主にしたものでありますから、季のものとしての春氷は句における重大な部分を占めているのであります。
季のものの用い方の説明はなお動物、植物、人事、時候から各二句
几董、太祇、蕪村、召波の四人であります。(15)
この四人は今から百余年前の俳人でありまして、いずれも立派な俳人であります。前回に私はこの道のお祖師様たる芭蕉とその弟子四人の名前を挙げまして、それらの人は二百余年前の立派な俳人であると申しましたが、ここに挙げた四人は百余年前の立派な俳人であります。このうちで年は太祇の方が少し上でありますが手腕から申しましたら蕪村の方を上位に推さなければなりません。几董、召波の二人は蕪村の高弟であります。
短い講義に、あまり季題の説明が長きに過ぎはしないかと危ぶまれるのでありますが、俳句とはどんなものかという質問に対し、
俳句は季題を詠ずる文学なり。(16)
と答えても差し支えないくらいに思っておりますから、他のものはどれほど簡約にしても、この季題のことについては十分の弁を費やさねばなりませぬ。ゆっくり心を落ち着けて御一読を願います。
前章において私は季題がどんなあんばいに俳句に用いられるか、すなわち季のものの用い方の説明を実際の句についていたしてまいって、天文と地理とを終ったのでありました。この章においては動物から始めます。
この作者其角の名は前にも出ました。
さてこの句意は、前章にのべた「春の水」の句や「春の氷」などと同じように「鶯」という季のものを主題として詠じたものであります。
前章にもちょっと説明しておいた通り、鶯という鳥はその前年の秋から渡って来ている||いわゆる渡り鳥であるところの||
「初音」という言葉はよく鶯に関連して用いられる言葉であります。そのうちにはその鳥に対する待ち設けの心持が十分にあります。冬の寒さは誰も余り好ましくないもので、その寒さが一日一日とゆるみかけてくると、「もう春が近い。」「もうすぐ春だ。」と誰の心もその春のくることをまち設ける、その人々の心をさながら承知しているかのように鶯は真先きかけてホーホケキョという声を
初音というと鶯それ自身の初音のように解されますが、それは聴く人の側にとっての初音であります。私が今年初めて鶯の啼声を聴いたらそれが私にとっての初音であります。この句も其角がある年初めて鶯の初音を聴いた、その時鶯は尾を
俳句は和歌を父母として生まれたのでやはり初音という言葉のうちに賞翫の意味が伝わっているということをただいま申しましたが、しかしそれと同時に俳句には和歌にみることのできなかったある特色が加わってきています。たとえば和歌にあっては
浅みどり春立つ空に鶯の初音をまたぬ人はあらじな
というように、初音を聴いた時の心の喜びを主として表しておりますが、
この其角の句にあっては、その喜びは客として||和歌ほどに重きをおかないで||その初音を啼く時の目に見た形の客観的描写を主としております。(17)
すなわちこの句を読んだ場合は画家が描いた身を逆様にして木にとまっている鶯の形を想像し得るまでにその形の方を主として描いているのであります。この点は前章において、恋歌と恋句とを比較して恋歌は恋についての感情を直叙し、恋句は感情を表すと同時に事実を叙しているということを申し上げたその比較と同一の結論に到着するのであります。そうしてこれは大概な和歌と俳句とを比較した場合に必ず到着するところの結論であります。
鷲の巣の樟の枯枝に日は入りぬ 凡兆
凡兆という名前もかつて一度出たことがあります。
さてこの句意は、人里離れた深山などにある樟の樹の
樟の葉は冬も
なぜに特に枯枝といったのだろう、「鷲の巣の樟の梢に日は入りぬ」と言ったのでもよさそうなものだというような説が出るかもしれませぬが、これは実際枯枝であったのだろうと思います。ここにおいて私はちょっと、
写生ということについて一言したいと思います。(18)
この句には前置があるのであります。その前置にはこうあります。
道もなき山路にさまよひて
すなわちこの句はこの前置にあるように籠の渡のある辺の危うき山路を歩いている時分に、ふと見ると向こうの樟の樹のある枯れた枝の上に鷲が巣をくっている、その辺に春の日もはいってしまったとこういうのであって、目の前に映じた光景をそのままに写しとったのでありましょう。私共は常に、
自然の、偉大で創造的で変化に富んでいることに驚嘆するのであります。その自然に比べると人間の頭は小さくて単調なものであります。(19)
||もっともこのことについては随分議論のあることでありましょうが、わが読者諸君は、人間の頭を小にして単調なものとし、自然を大にして変化に富めるものとお考えになることを必要と存ずるのであります。
写生ということはこの自然を偉大とし創造的とし、変化に富んだものとする信仰の上に立つのであります。すなわち我等の小さい頭ではとても新しい変化のあることを考え出すことはできない。変化のある新しいことを
私は其角の鶯の句も単に心の喜びを表わす和歌などと違って形を描く方面に一歩を進めていることを前にお話しましたが、しかし「身を逆様」というようなことはその時も申しましたようにすでに多くの画家などの研究していた形であって、其角は無声の画を有声の詩に翻訳したというにすぎない程度のものでありますが、この凡兆の句になりますと全然

写生についてはページ数の許す限り一項を設けていま少しお話いたしたい所存でおりますが、これは俳句のみならず一般文芸の上にわたる議論でそこを詳しくお話する余裕があるかないか判りませんから、季題の途中ではありますが、ここに一つの断案を下しておきます。
七 俳句を作るには写生を最も必要なる方法とします
さてこの句の季題は何でありましょう。「鷲の巣」が季題になって春季の句になっているのであります。一体鳥類は春季に巣をくって、そこに卵を産みこれを
次に植物に進みます。
梅一輪/\ほどの暖かさ 嵐雪
嵐雪という名前は初めて出てまいりましたが、このひとは其角と並び称せられた芭蕉門下の
句意は梅の花が一昨日はただ一輪見えたのが昨日は二輪今日は三輪になってその梅の花のぼつぼつと数を増してくるに従って、どことなく春らしい暖かさも増してくるというのであります。もし春意というようなものが天地の間に動いたとするならば、一輪一輪と開いてゆく梅はそれをシンボライズしたようなものであります。それと同じ意味でその一輪一輪の梅は春暖のシンボルとして人の目に映ずるのであります。
この句は「梅」が季題であります。「曖か」というのもやはり季題でその方は「時候」の方に属するのであります。この句のごときは
季重なり(20)
というものでありますが、季重なりはいけないと一概に排斥する
なおこれと同じような理由のもとに、必ずしも「春」の字のくっついたものでなくとも季題を重ね用うることが無用な場合もほかにないではありませんが、それは大方実際の句についてみないと明白に是非をいうことができませんからここには略します。また「春」の字のくっついた季題のものでも時と場合によっては他の季題と重ね用いても差し支えのないことがあります。これも実例について言わねばなりませんからここに略します。また春季と夏季との季重なり、冬季と春季との季重なりというような場合も往々にしてあります。それらも大体においてさしつかえないものとお認めを願います。それで私は従来の俳句の規則にさからって、一つ断案を下しておきます。
八 季重なりは俳句において重大な問題ではありません
さてこの嵐雪の句における季題「梅」と「暖か」の季重なりはやはりそれほど重大ではありません。
芭蕉はほとんど
この句は「藤の花」を主にして作った句でしょうか、あるいは「藤の花」はまったく
この句は事実どちらにもみられるほどに双方ともに重きがおかれているのであります。とりもなおさず双方がしっくりと合って互いに客となり主となり
耕や世を捨人の軒端まで 大魯
大魯というのは蕪村の高弟の一人であります。
以下の引例はすべて
さて句意は、百姓が畑を打っている、そこに世を捨てた人が
「耕や」というのは現在の言葉でありますが、しかし俳句では必ずしも現在の言葉で現在を表わすものとは限っておりません。句全体を見渡した場合、これは現在の言葉ではあるが過去を表わしたものと見る方が妥当だというような場合も往々にしてあるのであります。
しかしこの句はやはり現在のものとする方が普通の解でありましょう。
俳句の文法は普通に我等の使っている言葉の用法に従って、それで格別の不都合は生じないのであります。(21)
ただなるべく簡潔に叙する必要から普通の文章や言葉にくらべて文字の省略が行われます。そのため一見破格となりあたかも俳句特別の文法があるかのごとくみゆるのであります。ことに「や」「かな」その他の切字は俳句特有の意味をさえ有するようになっているのであります。その、
切字については別に論ずるところがありますが、切字以外の文法は格別論ずる必要もないことと思います。(22)
芭蕉の弟子のうちに、
そうしてここに一つ断案を下しておきます。
九 俳句の文法といって特別の文法は存在いたしません
この句における季題の用いられ方はやはり「耕」という季題のある特別の場合を叙したもので、同時に季題の性質のある点を説明した形になっているところが鶯の句に似ています。
召波の名は前に一度出ました。蕪村高弟随一人であります。もっともよく蕪村に
さて句意は、初午すなわち二月の最初の午の日には、稲荷神社はもとよりのこと、大名その他大きな邸宅の中にある
この句の初午という季題の使い具合は、前条の畑打などと大同小異であります。
次に最後の時候に移ります。
元日の酔詫に来る二月かな 几董
几董のことは前条に申しました。
句意は元日に年始に来て大変酔っぱらって失礼をした||何か落度でもあったのであろう||と言って二月になってから詫びに来た、というのであります。
この句の季題は「二月」であります。「元日」も季題でありますからその点からいうと季重なりでありますが、しかしこの場合は前の「梅一輪」の句などほどにも季重なりの感じがしません。「元日」は季のものでありながらこの場合「季」の感じはほとんどなくなっています。そこでこの句も「二月」のある事実を叙したのであって、前の「耕」の句などとはやはり大同小異であります。
太祇の名前も前章に出ました。太祇はその節も申しました通り蕪村より先輩であり、几董、召波あたりより手腕も一等上としなければなりません。天明においては蕪村についでの俳家であります。
句意は春の日の長閑な趣をいったので、
季題の用い具合は春の水などと同様その季題の特質を叙したものであります。
以上で天文、地理、動物、植物、人事、時候各二句宛の例句について季題がいかに句に用いられているかということについての説明を試みました。
さてその説明からおよそ三通りの用い方に分類することができます。
第一は季題が主題となっている場合||「春の水」「春の氷」「鶯」「耕」「初午」「二月」「長閑」などの句の場合
第二は季題が重く用いられる場合||「春雨」「藤の花」
第三は季題が比較的軽く用いられた場合||「東風」「鷲の巣」「梅」
まず以上の通りであります。もっともこう分類するということは実は少々無理なことで、解釈のしようによれば、軽く用いられたものも重く用いられたものとみられぬこともなし、また重く用いられたというものも主題として用いられたものとみられぬことはないのでありますが、まず大体においてこう分類することもできると思います。私は本章の初めにおいて(16)で申したように、俳句は季題を詠ずる文学なりと断定を下してしまってもいいのでありますが、しかし以上のように同じ季題であってもその用い方に軽重がありますからいま少しことに明治以後の句になりますと、中にはだんだんと季題を軽く用うる傾向を現わしてきて季題はまったくの
しかしながら事実季題を軽視する句が往々にしてあるにかかわらず、なお全然季題を軽視することのできない点に俳句の生命があるのであります。もし俳句の
まったく季題を閑却する時がきたらそれはもう俳句ではなくなるのであります。(24)
ここが最も大事なところであります。俳句はどこまでも季を読みこまなければなりません。たとい多少季題を軽視するような場合があってもどこまでも季題を読みこむということが俳句の一大条件であります。
なお明治以後の俳句がいかに季題を取り扱おうとしているかということについて簡単に一言を費やすつもりですが、それはこの季題の項ではわざとはぶきます。
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この小講義には少し長過ぎるほど季題のことをお話いたしました。それは俳句には季題ほど大事なものはないからでありました。もし俳句から季題を取り去ったらそれは俳句そのものでなくなるのであります。ちょうど砂糖から甘味を取り去ってしまったら砂糖そのものがなくなってしまうのとおなじことであります。
その季題に次いで大切なことは何でありましょう。やはり古人も申した通りそれは切字であると私はお答えをいたします。
切字のことをいうとすぐ俳句の文法と言いたがる人がありましょう。切字を説くならなんでその根本に
私は俳句の文法というようなものはどこまでも
さて切字とはどんなものでありましょう。その主要なものを一、二あげてみますれば、「けり」「なり」「あり」「たり」「れり」「や」「かな」などの
菊を切る跡まばらにもなかりけり 其角
其角は前にも度々出たことのある人であります。
この句の場合「けり」を切字と申します。すなわちこの「けり」という文字によって一句の意味が切れる||終末を告げる||というところから切字という名前が起こったものと思います。
庭に菊畑がある、その菊を自分の家の
次に、
鉢たゝき来ぬ夜となれば朧なり 去来
去来も其角同様もはや読者諸君の旧知のはずであります。
この句の場合「なり」を切字と申します。この「なり」という文字によって一句の意味が切れることは前句の「けり」と同様であります。
鉢たたきというのは京都にあるもので、旧暦の十一月十三日から四十八夜の間
次に、
梅咲いて人の怒の悔もあり 露沾
この作者は初めて諸君の眼に触れたことと思います。
「あり」が切字であることは「けり」「なり」の類と同様であります。あるいは「もあり」を切字とみてもさしつかえありません。
あることについて非常に腹をたてた。が、ふと梅の咲いているのを見ると、その腹をたてたということが後悔されるようになったというのであります。まだ冬の寒さのまったくとりきれない春先にあって、枯木の
次に、
秋の空澄たるまゝに日暮たり 亜満
「たり」が切字であります。
秋の空は春や夏にくらべるといかにも心地よく澄みきっているものであります。冬も澄んではいるが、しかし冬になると寒さが強くって、また水気がなくなりすぎて、草木の枯れたのと同じように、大空もからび果てたような気がする、秋はそれに反し気候もよくことに春夏のよどんでいたあとをうけて初めて清透に澄み渡るので、澄むという心持が冬よりも強い、これが特に秋の空の澄み渡るのを
ちょっと途中ですが、ここで一言しておきたいのは前にも(11)でことわっておきましたように、俳句の季題には事実ということよりもむしろ感じということを主としてきめたものが多うございます。すなわち事実からいうと一番日が長くって夜の短いのは夏でありますから「日永」「短夜」共に夏の季題とすべきでありますが、その「日永」の方は春の季題になっています。というのはだんだんと日の永くなってくる時の方が日の永くなった頂上よりもかえって「日永」という感じを強く受けるし、その上夏は暑さに苦しんでその日永の心持を味わういとまがないのに反し、春は
いま一、二の例をあげてこの心持をもっと
たとえば藤の花と
俳句においてはまた
あまり長くなりますがいま一つ申そうなら、かの時雨と紅葉とでありますが、和歌をみますると大概時雨が降ったために木の葉が染まって赤くなる、という意味になっています。たとえば、
白雪も時雨もいたくもる山は下葉のこらず紅葉しにけり
足曳の山かきくらし時雨るれど紅葉はなほぞ照りまさりける
足曳の山かきくらし時雨るれど紅葉はなほぞ照りまさりける
とある類であります。また事実から申しても時雨の降るころに山々の紅葉はだんだんと染まるのであります。蕪村の句に「時雨るゝや用意かしこき傘二本」という句がありますが、一本には「紅葉見や用意かしこき傘二本」となっています。これらも「用意かしこき傘二本」という事柄を共通に考えた点において時雨と紅葉とを切り離し得ない蕪村の感情を説明しています。ところが俳句にあっては
以上二、三の例のように俳句は必ずしも事実ということに重きをおかず、感じということに重きをおいてその趣味を歌うことが多うございます。これも
思わぬ枝道に長くはいりましたが、(11)で約束しておいたことでもあり、この機会をもって申し上げておく次第であります。
天然の現象について実際の研究を積んでいくということはだんだん季題の感じを精密にしていっていよいよ分科を多くしていくであろうと思います。(25)
季題趣味を軽視するということはこの点からいっても俳句を賊するものであることを忘れることはできません。
もとに戻って秋の空の句意の説明を続けましょう。
前申した通り秋の空は一年中でことに澄んだ感じのするものでありますが、この句意は、その秋の空が澄みきったままで昼から夜に移って行ったというのであります。いわゆる黄昏の空はまだ太陽の光はどことなくとどめているのにはや
「日暮たり」も口語訳にすれば「日が暮れました」になります。これも切字といったところで、特別に変わった言葉でもないのであります。
次に、
見えそめて今宵になれり天の河 鷺喬
「れり」が切字であります。
天の河はもう夏から空に見えている、それがだんだんと月日がたっていよいよ七夕の夜になった、すなわち天の河は特に今宵のものであると定まっているその夜になった、というのであります。
この「今宵になれり」も「今宵になりました」の意味でやはり従前の切字同様に変わった言葉でもないのであります。
こういってくると読者諸君は定めて切字は季題趣味に次いで大切なものであるといった私の言葉を不審とされるであろうと思います。「おまえの説明し来ったところでみると切字というものは少しも普通の文章や会話の用語と変わったところはないではないか、俳句の文法が普通の文法と変わらぬといったくらいならなぜ俳句の切字も普通の言葉と変わらぬとはいわぬのか。」と必ずこう非難されるだろうと思います。そうして私はそれに対してこう答えようと思います。
おおせの通りであります。切字と申したところで何も特別な語法があると申すのではありません。(26)
我々が日常話しする時に必ず「です」とか「ました」とか語尾に助字をつける文章でも「なり」とか「たり」とか必ず語尾に助字をつける、そうしてそれで一語なり一句なりの調子ならびに意味に段落をつける、それと少しも相違はないのであります。以上あげたものはほんの一部分の例証でありまして、これらの「けり」「なり」「あり」「たり」「れり」が主要な切字というわけでなくその他にこの種類のものはいくらでもあるのであります。言をかえてこれをいえば普通に文章や会話で使う段落の文字は皆切字になるのであります。たとえば、
冬籠燈光虱の
夏の暮煙草の虫の
星合のそれにはあらじ
のごとく、文法でいうところの直説法の動詞止めもあり、
のごとく疑問体で止めもあり、
去年より又淋しいぞ秋の暮 蕪村
飛ぶ蛍蠅につけても可愛けれ 移竹
唐辛子つれなき人に参らせん 百池
飛ぶ蛍蠅につけても可愛けれ 移竹
唐辛子つれなき人に参らせん 百池
のごとく感嘆詞めいた言葉もあり、
巻葉より浮葉にこぼせ蓮の雨 杉月
辻君に衣 借られな鉢叩 旧国
夙く起よ花の君子を訪ふ日なら 召波
うき我に砧 うて今は又止みね 蕪村
辻君に
夙く起よ花の君子を訪ふ日なら 召波
うき我に
のごとく命令体のもあります。「うき我」の句は「うて」という命令詞と「止みね」という命令詞とがともに切字になっているのでこういうのを、
二段切と申します。(27)
前掲の諸句は一々句意を説明することはあまり煩雑にわたるから略するとしてこの句だけを解釈してみますれば、前半は憂いを抱いている自分にどうか砧を打ってくれ、淋しい砧の音を聞いて思いっきり淋しさを味わってみよう、とこういうので、憂いを抱く身に悲しい芝居を見て泣きたいだけ泣くと心が慰むというのと同じ心持をいったのであります。ところがさて実際砧を聞いていると、心を慰むどころか憂いに堪えぬ、今はもう止めてくれ、というのが後半であります。「打ってくれ」というのと「止めてくれ」というのとは正しく意味が二度に終止しているのであります。二段切といってたいそうな議論をする俳人がありますが、つまり一句のうちに二度終止言があるというのに過ぎないのであります。
以上の例によってこういう断定を下し得るのであります。
十 俳句の切字というものは意味かつ調子の段落となすものであります。
私は第一章で簡単に切字のお話をした時に、
朝顔に釣瓶取られて貰ひ水 千代
を切字のない句としてだしておきました。これに似た句はたくさんあります。
蓮に誰小舟漕来るけふも又 如菊
小車の花立伸て秋曇 東壺
夏の月平陽 の妓の水衣 召波
谷紅葉夕日をわたる寺の犬 烏西
小車の花立伸て秋曇 東壺
夏の月
谷紅葉夕日をわたる寺の犬 烏西
等がその例であります。しかしながらこれらは切字がないといってもよくまたあるといってもいいのであります。まず第一の句は、
蓮に誰(ぞや)小舟漕来る今日も又
という意味になるので、近頃の文章で「誰?」と西洋のマークのついているものにちょうど相当しているのであります。すなわちこの句では「誰」という字が切字の働きをもしている、ともみることができるのであります。
第二の句は、
小車の花立伸て(あり)秋曇
もしくは、
小車の花立伸て秋曇(かな)
というふうに切字が略されているものとみることができ、従って「立伸て」「秋曇」等が切字の働きをもしていると言ってよいのであります。
第三、第四の二句もこれと同様に、
夏の月(や)平陽の妓の水衣
谷紅葉(や)夕日を渡る寺の犬
谷紅葉(や)夕日を渡る寺の犬
もしくは、
夏の月平陽の妓の水衣(かな)
谷紅葉夕日を渡る寺の犬(かな)
谷紅葉夕日を渡る寺の犬(かな)
というふうに切字が省略されているものと見、従って「月」「水衣」「紅葉」「犬」等が切字の働きをもなしていると言ってよいのであります。
ここにおいてか、人によると、
俳句には必ず切字がある、とこういう断定を下す人もあるのでありますが||ちょうど人間の談話には必ず調子及び意味の段落があるというのと同じ意味で||しかし前掲の「誰」「立伸て」「秋曇」「月」「紅葉」「水衣」「寺の犬」の
「俳句には多くの場合切字を必要とします」という方が適切だと考えるのであります。(28)
ただ、
その切字のない俳句にも名詞その他によって自然に調子及び意味の段落はある。(29)
ということをわきまえておく必要はあります。実際の会話の場合においても「立派な花」「困った人」というように「です」という助字をはぶいて十分に意味を通ずることができる、それとおなじことなのであります。
さて私は前に切字として「や」「かな」の二つをあげておきながらまだその説明をしませんでした。この「や」「かな」の二つは切字中においてもっとも普通にまたもっとも広い意味に用いられるものでありまして、
俳句の切字として特に論ずべきものは「や」「かな」の二つのみといってよいくらいであります。(30)
これから例を挙げて解釈に移ろうと思います。
もっともそうは申すもののその「や」「かな」を極めて難解な意味あるもののごとく論じて、平易な俳句をかえって
句意は
この場合「や」の字の働きはどうかというとそれは別に「や」に感嘆とか
いま一つ例句をあげましょう。
春風や殿待うくる船かざり 太祇
句意は、まず下十二字は、殿様のお乗りになる舟というのでいろいろと美しく飾りたてて、その御乗船を待受けている、というのであります。さて上五字はどうかというと、ここにも「や」の字があるために春風というものに付随するあらゆる感じをまず読者の頭に呼び起こしておいて、さて下五字の景色をその中に浮かび出さしめるのであります。これを「春風の吹いている日に」とか「春風の吹きみちている中に」とかいっただけではまだ十分にこの「や」の字の働きを説明したものとはいうことができません。そういう限られた意味でなく、春風について起こし得るあらゆる感じを呼び起こすところに「や」の働きはあるのであります。
次に「かな」の方に移りますが、これもほとんど「や」と同様の説明になるのであります。
呼かへす鮒売見えぬあられかな 凡兆
句意は、まず上十二字は、鮒売が表を通った、一度買う談判をしたが値ができなかったとか何とかいうことでその鮒売はもう行ってしまった。あとからいま一度表に出て呼びかえしてみたが、その鮒売はもうみえなかった、とこういうのであります。さて下五字はというと、これも「
いま一つ。
はし近く涅槃 かけたる野寺かな 樹鳳
お
新しい句を作るのはまずこの「や」「かな」を排斥しなければならぬ、という論者がありますが、私はその説を
「や」「かな」は俳句としてもっとも進歩した、この上発達のしようがないまでに広い自由な意味を有するようになった切字でありまして、同時にまた俳句としてもっとも荘重な典雅な調子を有している切字なのであります。(31)
この間ある人がきて「や」「かな」を排斥する論者は言語の退歩を主張する論者である、と申しましたが、私はその議論に賛成します。
十一 「や」「かな」は特別の働きを有する切字であります
「けり」その他の切字も時によれば「や」「かな」に近い働きをすることがあります。「りにけり」というように虚字の長くなった場合は特に「や」「かな」に近い働きをいたします。たとえば、
宿の梅折取るほどになりにけり 蕪村
というような句は「宿の梅折取るほどになり······」という一個の概念をそのあとの虚字によって力強く読者の頭に運ぶのであります。
切字の論はこれで終わりといたします。「や」「かな」あることによって切字論は俳句とはどんなものか、の重要なる一章を占めるのであります。
[#改ページ]
真っ黒なページをまず想像なさいまし。その暗いページを明るくすることは専門家のことであります。暗いページは暗いページとしておいてさしつかえありません。
その暗いページの中にたまたま明るいところがあってそこに
山崎宗鑑という人は、優美な和歌の言葉を連ねてただ格式をのみやかましくいっていた連歌から脱却して、俳諧連歌を創設したという点において有名な人であります。(32)
たとえば昔の連歌では、
船とめし枕は秋のうら浪に 紹巴
月を旅寝の袖のかたしき 同
といったようなものであって、この二句は紹巴独吟千句中の二句を抜き出したのでありますが、連続している千句中のどこの二句を抜き出してきてもそれは和歌とほとんど相違のないものであります。がいったん宗鑑の俳諧連歌になりますと、
月日のしたに我は寝にけり 宗鑑
こよみにて破れをつゞる古襖 同
というようなものになっています。表向きは連歌の形を追って比較的優美な言葉を使っていますが、裏面には卑俗な意味を表しています。暦を張った襖の下に寝ているから月日の下に寝たことになるのだというのはなるほどうまく言ったという程度の機智の戯れに過ぎないのでありますが、しかし言葉なり趣向なりを「優にやさしい」ということのみを旨とし、古人の
ちょっとことわっておきますが第一章でも申し上げたように
月の秋花の春立つあしたかな 宗祇
というのは連歌の発句でありますが、俳諧連歌の発句になりますと、
卯月来てねぶとになくや時鳥 宗鑑
というようなものになっています。四月になったから大きな声をして時鳥が
荒木田守武という人も宗鑑とほとんど同時代に出て連歌を脱却して俳諧を創設した別の一人であります。(33)
その俳諧連歌は、
口の中にも入るは山ぶし 守武
かねをだにつくれば人ははぐろにて 同
山伏が
花よりも鼻に在りける匂ひ哉 守武
花に香があるというけれど、それは
守武と宗鑑とをくらべるとその間に相違も見出されますが、しかし大体似よったものとしておくことが俳諧史の概念を作る上にはかえって必要であります。
私は昔の連歌のことは、以上引き合いに出したこと以上には申し上げません。いったん出た紹巴や宗祇などいう名前ももう一度墨で塗って暗黒のページのうちに葬ってしまいたいと思います。また宗鑑、守武時代にあっても二人の名前だけを明るくしておいてその前後はことごとく暗黒のページとして放置しておきたいと思います。
が、守武、宗鑑の死後しばらくして松永貞徳の名前がまた明るく暗黒のページの中に
貞徳は先輩二人の創設した俳諧を継承してさらにこれを多くの弟子に伝えたという点に功労があるのであります。その弟子の中に北村
季吟の名も再び暗黒のページ中に埋没してしまいましょう。貞徳の多くの有名な弟子はことごとく暗黒裡に放置しておきましょう。
やがてまた暗黒のうちに明るい一つの名を見出すものは西山宗因という名前であります。(35)
宗因は守武、宗鑑、貞徳などの創設し継承した俳諧連歌にさらに一変化を与えて新たに談林風の俳諧を創設しました。その俳諧は、
しかたばかりおし肌ぬいで十文字 宗因
かしかうやつてさます借銭 同
本当に腹を切るわけではなくただ仕方ばかりをするので肌をおし脱いで十文字にかき切る、しぐさをしてみるというのが前句の意味、後句はそれを受けてそんなことをして賢くも借銭の口を一時逃れをするというのであります。宗鑑、貞徳時代よりももっと突き進んで俗世間の人事を材料にしているということ、またそれを叙するのに純粋の俗語を使用しているということなどは大いに注意すべき点であります。発句は、
蚊柱やけづらるゝなら一かんな 宗因
宗因の発句にはこの他にもいろいろの種類のがありまして貞徳時代のようなものもあり、また後年の芭蕉時代に似よったものもありますが、まずこの句のごときが彼の程度を代表したものといってよかろうかと思います。蚊柱が立っている随分大きな蚊柱だ、柱という以上は一かんな削ってやりたいというのであります。柱に対してかんなを連想してくるところなどは貞徳時代の遺風をみますが、しかしとにかく大きな蚊柱というものに着目しそれを削ってみたいというところに地口以上の滑稽があります。根太が
秋はこの法師姿の夕 かな 宗因
などでありまして、これらの句になると後の芭蕉一派の句の塁を摩しているといってもいいのであります。がしかしあまり詳しくは申しますまい。暗黒! 暗黒! 大体の概念を得るためにはかえって大綱だけの明所をにぎっていくに限ります。私はここでもまた宗因の名前だけを白く残しておいてそのほか一切のことはすっかり黒暗々のうちに葬っておきましょう。
次にぱっと明るくなってくるのが松尾芭蕉であります。(36)
松尾芭蕉は俳諧をいわゆる滑稽俳諧の境地から救い上げて、
滑稽といい俳諧という字義は洒落ということにすぎないのであります。宗鑑、守武、貞徳、宗因等の人々は、優にやさしい和歌、連歌から別に一派の俳諧を分岐せしめるためには俗語を使用し、俗情を直叙して洒落滑稽を主としなければならなかったのでありますが、芭蕉はさらにそれを再転して、その滑稽、俳諧の奥に潜んでいる人生の寂し味に手をつけたのであります。
我が俳諧の歴史はこの時によって格段の光輝を放ったのであります。これは独り芭蕉のみの力ということはできないのであって、宗鑑以下の人々が築き上げたところのものが年月を経るに従っておのずから完成し成熟したのだともいえます。そういう見地からいうと芭蕉は時代の
油かすりて宵寝する秋 芭蕉
灰汁桶が漏ってボタリボタリと音がしている、それが耳について仕方がなかったが、その音が止むとやがてきりぎりすの啼く声が聞こえ始めた、というのが前句の意味で、次の句は、この秋の夜長を長く起きていたところで別に何をするという用事のある体でもないから油を倹約するために早く灯を消して宵寝をする、というのであります。孤独な境涯にいて
顔にもの着てうたゝねの月 其角
はした銭を行燈の
しかたばかりおし肌ぬいで十文字 宗因
かしかうやつてさます借銭 同
これを読んでみると「ははは」と笑いたくなります。それは事柄がおかしなばかりでなくそれを叙する作者が自分ではしゃいでいるからであります。其角という人は元禄時代の俳人としては比較的
古寺の簀子 も青く冬構 凡兆
古寺のことであるから何もかも古びているが、いよいよこれから冬になるというのでその支度をする、そこで簀子だけは取り替えて青くなっているというのであります。簀子の青いということは美しい派手な方面をいったのでありますが、せいぜい派手で美しいのが何かというとただ簀子の青いのだと気がついてみると、いかにその古寺の全体の光景を物古りているかということが想像されるわけであります。
かつて私は小川
鉢たゝき来ぬ夜となれば朧なり 去来
鉢たたきというのは京都の
こういう例は際限もなく挙げることができます。またたくさんの例を挙げるうちには多少例外として宗鑑以下の滑稽趣味をそのまま伝承しているものをも挙げることができるのであります。しかしそれらはこの略史には無用のことであります。ただ我等は、
芭蕉を中心とする元禄の新運動は、俳諧を
古池や蛙 飛び込む水の音 芭蕉
初時雨猿も小蓑をほしげなり 芭蕉
何事ぞ花見る人の長刀 去来
馬は濡れ牛は夕日の村時雨 杜国
いろ/\の名もむつかしや春の草珍磧
水鳥のはしについたる梅白し野水
行き/\て倒れ伏すとも萩の原曾良
子や待たん余り雲雀の高上り杉風
鬮 とりて菜飯たかする夜伽 かな 木節
秋の空尾上 の杉に離れけり 其角
なが/\と川一筋や雪の原 凡兆
初雪の見事や馬の鼻柱利牛
黄菊白菊その外の名はなくもがな 嵐雪
十団子 も小粒になりぬ秋の風 許六
我事と鰌 の逃げし根芹 かな 丈草
長松が親の名で来る御慶 かな 野坡
子や泣かんその子の母も蚊のくはん 嵐蘭
焼にけりされども花は散りすまし 北枝
若楓 茶色になるも一さかり 曲水
目に青葉山郭公 初松魚 素堂
藁 積 で広く淋しき枯野かな 尚白
おもしろう松笠もえよ薄月夜 士芳
行燈の煤けぞ寒き雪の暮 越人
片枝に脈や通ひて梅の花 支考
時雨来 や並びかねたるいさゞ船 千那
身の上を唯しをれけり女郎花 凉菟
初時雨猿も小蓑をほしげなり 芭蕉
何事ぞ花見る人の長刀 去来
馬は濡れ牛は夕日の村時雨 杜国
いろ/\の名もむつかしや春の草
水鳥のはしについたる梅白し
行き/\て倒れ伏すとも萩の原
子や待たん余り雲雀の高上り
秋の空
なが/\と川一筋や雪の原 凡兆
初雪の見事や馬の鼻柱
黄菊白菊その外の名はなくもがな 嵐雪
我事と
長松が親の名で来る
子や泣かんその子の母も蚊のくはん 嵐蘭
焼にけりされども花は散りすまし 北枝
目に青葉山
おもしろう松笠もえよ薄月夜 士芳
行燈の煤けぞ寒き雪の暮 越人
片枝に脈や通ひて梅の花 支考
時雨
身の上を唯しをれけり
芭蕉及びその門下の人の名前は比較的著名な有力なものを抜いたのではありますが、このうちの若干の人に代えるに他の若干の人をもってしたところで別に不都合だという程厳格なものではありません。ただ以上の人々の名前を記憶することによって元禄時代の俳壇の中心人物を知ることができればそれで結構なのであります。
このほか元禄の作家として鬼貫及びその一派にも説き及ぼさなければならぬのでありますが、
これは
から、大体を説くというこの講義の主義からわざと閑却することにします。いわゆる暗黒主義に基づくのであります。
小説家として有名な西鶴も、元禄の俳人として忘れさることはできないわけなのでありますが、やはり暗黒の裡に葬りさっておきます。(40)
古池の句については子規
「初時雨猿も小蓑をほしげなり」という句については其角が「
「
つまり芭蕉が閑寂趣味に立脚したことを推称しているのであります。伊賀の山中で樹上にいる猿を見た時におりふし初時雨が降ってきた、その初時雨の淋しさが
「何事ぞ」の句は花を見るのに何の必要があって長い刀をさしているのだ、無用なことだ、と
「馬は濡れ」の句は時雨のある地を
「いろ/\の」の句は、春になっていろいろの草が
「水鳥の」の句は、水鳥が水中に物をついばんだ時、そこに浮いていた梅の花がそのくちばしについた、というのであります。即景の句であります。
「行き/\て」の句は、曾良が芭蕉の伴をして長い旅行をしていた時、途中で腹痛を催した、その時作った句でどこまでも行ってみよう、倒れるまで行ってみよう、萩の原でもあったらそこへ倒れるまでだ、というのであります。芭蕉に対して忠実な、萩の花に対してものなつかしい心持が現われています。
「子や待たん」の句は、雲雀があまり高く上がるので、そんなに高く上がってしまっては、下の麦畑にいる子雲雀がお前の降りて来るのを待ちかねるであろうというのであります。
「鬮とりて」の句は、芭蕉の臨終前に多勢の弟子が句を作って芭蕉を慰めた、その時に唯一の医師として芭蕉の診療に従事していたのがこの句の作者木節で、医者でありながらもやはり弟子の一人としてこの句を作ったのであります。今晩夜伽をするのに空腹をしのぐために菜飯を
「秋の空」の句は秋の空の高く晴れた景色で、山の頂の杉をもずっと離れて大空がかかっているというのであります。きわめて平明でしかも印象
「なが/\と」の句は、雪の原は一面に
「初雪の」の句は、初雪の降った時ふと見ると戸外につないであった馬の鼻柱のところに見事に白く積もっていたというのであります。
「黄菊白菊」の句は、菊はいろいろ変わり咲きもあるがやはり黄菊と白菊とに限る、そのほかの菊はない方がよいというのであります。そのほかの名のないことを望むのはやはり菊そのもののないことを望むのであります。
「十団子」の句は、秋風の吹くころ、
「我事と」の句は、根芹を摘もうとして手を水中に入れると、そこにいた泥鰌が自分のことかと思って逃げたというのであります。丈草の句には軽みがあるといって芭蕉がほめたことがあるように覚えていますが、この句の如きもその軽みの点にとりえがあります。ただし軽みと申しても宗因時代の滑稽とは大分趣を異にしています。滑稽は滑稽でも駄洒落るのではなくて事実の描写を主としているのであります。
「長松が」の句は、
「子や泣かん」の句は、有名な俳文「蚊を焚くの辞」の終りにある句でありまして、蚊帳の中にはいっている蚊は
「焼にけり」の句は、北枝の家が類焼した時に作った句で、自分の家は焼けた、けれども花は散ってしまったあとであったから花は焼かなくってまあよかった、というのであります。家や財宝よりもむしろ樹頭の花に重きをおく心持をいったのであります。こういう心持をあまり誇張しすぎると
「若楓」の句は、夏の初めに楓が芽をふいて、そのはじめは茶色であるが、それも一盛りであるというのであります。若楓のある特質を
「目に青葉」の句は、夏鎌倉に来て作った句で、鎌倉に来てみると目には山々の青葉が映り、耳には郭公の鳴く声が聞こえ、口にはこの地の名産の初松魚が食えるというのであります。
「藁積んで」の句は、冬枯の野にところどころ藁が積んであるが、そのほかには目に立った林もなく人家もなくただ
「おもしろう」の句は、芭蕉をとめた時の句で、何も
「行燈の」の句は雪の降った夕暮れに行燈を出してみると、その雪の白いのに対していかにも
「片枝に」の句は枯木に等しい梅の木にぼつぼつと花が咲いて、見ると一方の枝の方にその花は片ずんでいる、するとこれは片方の枝だけに脈が通っているのであろうかというのであります。
「時雨来や」の句は、近江の湖水で取れる

「身の上を」の句は女郎花の花の風情といい、また女郎花という名といい、どうやら人間の女性を見るような心持がする、その花の露を帯びてしおれている様は女性が自分の身の上を思い屈してしおれにしおれているのによく似ている、というのであります。
以上はいずれも略解でありますが前に挙げた二、三の例句の上にさらにこれらの句をあわせ考えることによって、芭蕉の下に統率せられた元禄の俳句というものがどんなものであるかということは大体おわかりになったことと考えます。
その特性をかいつまんで申せば、枯淡、情味、素朴、平明ということなどであります。(41)
この時代が||ことに明るいこの時代が||過ぎ去るとまた暗黒時代がまいります。それは必ずしも事実が不明だというのではなく、例の通り暗黒のページとして葬り去って格別さしつかえのない時代だと申す次第なのであります。
ただ今申し述べた人々を中心とした時代は明るくくっきりと浮み出でておりますが、その後またしばらく暗黒であります。やがてまた第二の光の時代が我等の眼の前に展開します。
これが蕪村を中心とする
菜の花や月は東に日は西に 蕪村
鮮 き魚拾ひけり雪の中 几董
宿直 して迎へ侍 りぬ君が春 月居
夜を春に伏見の芝居ともしけり 田福
南宗の貧しき寺や冬木立 月渓
うき人の手拍子の合ふ踊かな百池
四つに折りて戴く小夜の頭巾 かな 無腸
父が酔 家の新酒 の嬉しさに 召波
山吹も散らで貴船 の郭公 維駒
秋の風芙蓉 に雛を見つけたり 蓼太
ところ/″\雪の中より夕煙 闌更
我寺の鐘と思はず夕霞 蝶夢
囀 や野は薄月のさしながら 嘯山
衣更 独り笑み行く座頭 の坊 暁台
秋萩のうつろひて風人を吹く樗良
初蝶の小さく物に紛 れざる 白雄
頬はれて上戸老 行く暑さかな 太祇
古草に陽炎 を踏む山路かな 大魯
うしろから馬の面 出 す清水かな 一鼠
今朝 秋と知らで門掃く男かな 存義
霧の海大きな町に出でにけり 移竹
ぬしの無い膳あげて行く暑さかな几圭
夏を宗 と作れば庵 に野分 かな 也有
夜を春に伏見の芝居ともしけり 田福
南宗の貧しき寺や冬木立 月渓
うき人の手拍子の合ふ踊かな
四つに折りて戴く小夜の
父が
山吹も散らで
秋の風
ところ/″\雪の中より夕煙 闌更
我寺の鐘と思はず夕霞 蝶夢
秋萩のうつろひて風人を吹く
初蝶の小さく物に
頬はれて上戸
古草に
うしろから馬の
霧の海大きな町に出でにけり 移竹
ぬしの無い膳あげて行く暑さかな
夏を
安永天明時代は俳諧||連句||はあまり振るわなかったようであります。蕪村や几董もこれを試みているし暁台などは多少その方に志があったようでありますけれども、俳句に比べるといずれも見劣りがします。安永天明の俳句界を知るためには俳諧はしばし
当時俳諧宗匠として世間に勢力のあった者から申せば蓼太でありましょうけれども作句の技量からいったらいうまでもなく、蕪村を推さなければなりません。蕪村の下に几董、月居、田福、百池等の弟子達があります。無腸は上田秋成で俳人として蕪村一派に交遊があったのであります。漢学者兼
召波も几董などとともに蕪村門下の一人ではありますが、几董等よりも年齢も社会的の位置も先輩でありました。維駒は召波の子で「
太祇は前にも一度申したとおり蕪村の友人でむしろ少し先輩なのであります。蕪村の句は
蓼太、闌更、蝶夢、嘯山、暁台、樗良、白雄、これ等はみな蕪村の友人であってほとんど同時代に各一方において覇を称していた人々であります。また存義、移竹、几圭、也有の徒は蕪村の友人もしくは先輩で、安永、天明の復興期を導く上にそれぞれ功労のあった人々であります。
「菜の花や」の句は春の夕暮の光景でその辺一面に菜の花が咲いている、東の方を見ると白い月が出ている、西の方には山に落ちかかった夕日が赤く雲を染めているというのであります。京都あたりでよく見る昼のような景色であります。「ながながと川一筋の雪の原」とか「藁積んで広く淋しき枯野かな」とかいったような句と同様、景色そのままを描いたのであります。が、彼にくらべるとこれはなおいっそう印象
「鮮き」の句は雪の上を歩いているとそこに魚が一匹落ちてあるのでそれを拾った、それは新鮮な魚であったというのであります。真白な潔い雪の上に、
「宿直して」の句は、
「夜を春に」の句は、
「南宗の」の句は、この作者月渓は画家としては有名な
「うき人の」の句は、平生はこちらから思いをかけていてもそれに応じないつらい人がたまたま盆踊の時には一緒に手拍子をとって踊る、その手拍子が自分の手拍子と合うにつけてもうらみはまさるというのであります。
「四つに折りて」は、夜がふけて運座などをしている時、大分冷えてきたので脱いで座右においておいた
「父が酔」の句は自分の家に作った新酒であるということが特に父の心を喜ばしたので、いつもよりは大分過ごした、というのであります。我家に作った新酒を飲むその人の境遇は富めるものとも想像されますが、それを喜び飲むところにその人の積極的な楽天的なところがみえます。
「山吹も」の句は、
「秋の風」の句は、秋らしい風の吹くころ、ふと芙蓉の花の下に鶏の
「ところ/″\」の句は、一面に雪の原であるが、その中にところどころから
「我寺の」の句は、自分の寺を出て他の家にいる時に、
「囀や」の句は蕪村の菜の花の句と似たような心持で、野にはもう夕方の月が出て、月影が少し照っているのにかかわらずまだ春の小鳥は
「衣更」の句は、座頭が夏になって衣更をしてすがすがしい心持をしながら独りでにたにた笑いながら杖を力に歩いている、というのであります。
「秋萩の」の句は、萩の花はもう大分末になって花の色もさめかけた、うすら寒い風が人を吹くというのでありまして、萩の花の盛りのころは風は心ありげに萩を吹くように思えたのが、もうこのごろは萩には関係なくただ
「初蝶の」の句は、春になって初めて蝶の飛んでいるのが目にとまった、小さくて物に紛れそうであるがなかなかものに紛れずに飛んでいる、というのであります。繊細な句であります。
「頬はれて」の句は、酒飲みの老人のある特色を描いたもので、酒飲みは頬がだんだん垂れてくる。年とるとことに筋肉がたるんでその頬はいよいよ垂れ下がってくる、よその見る目は暑そうにみえるが、老人はなお盃を手にしているというのであります。頬の垂れることを
「古草に」の句は、春の初め山路を歩くと、まだ枯れたままになっている去年の草に暖かに陽炎が立つ、というのであります。
「うしろから」の句は、自分が清水をむすんでいると、後から馬が長い面をぬっと出したというのであります。
「今朝秋と」の句は、あの男は今朝立秋であると知らずに門を掃いているというのであります。実際立秋のころはまだ暑くて格別それと感じるような自然の現象が起こるのではないのでありますから、特に立秋ということを知っていなければ判らずにすんでしまうのであります。門掃く男がそれを知らずにいるということが、そばにそれを知って見ている人にとっては一層立秋の淋しさを感じるわけであります。この句はそこの心持をいったものと思います。
「霧の海」の句は夜霧か朝霧かわかりませんが、とにかく濃い霧が一面に立ちこめて霧の海となっている、その中を歩いているうちに幅の広い大きな町に出た、というのであります。よく我等の実験する光景だと思います。
「ぬしの無い」の句は客席にあっては
「夏を宗と」の句は、我が庵は夏涼しいようにとそれを唯一の目的にして作ったところが、秋になって野分が吹くと風当たりが強くって閉口だというのであります。
さてかく解釈してきてみますると、
天明の句にはおのずから元禄に異なった特色がみられるのであります。その一、二をいうと、華美、活動、繊細、巧緻というような点であります。(43)
元禄に対照してみるとこういう点は著しく目立ってみえます。
けれども注意しなければならぬことはそれは元禄に比して相違の点を見出すからのことでありまして、もし宗因以前の句とくらべてみますると、天明の句は決して元禄の句が宗因時代の句に対してなしとげたような革命を元禄の句に対してやっているのではありません。
一言にしてこれをいうとやはり元禄の芭蕉一派が大きな縄張をした土地の中にあって、元禄時代には十分に
それは芭蕉が連句||俳諧||でやった方面の仕事や、其角が俳句でやったある部分の仕事をしらべてみると思いなかばに過ぎるものがあるのであります。
要するに天明は全く元禄からかけ離れて新しいことをやったのでなく、元禄の足らぬところを補ったに過ぎぬのであります。(45)
蕪村等の天明時代についてまた一茶を中心とする||というよりもほとんど一茶一人が光っている||一時代がありますがそれは大勢の上にあまり大きな影響がないから略します。(46)
一茶は個人としては立派な作者でありますが、一個の
暗黒の長い時代がまたそのあとにきます。一茶を除外した文化文政時代は暗黒の時代であります。またそれに続いた
それは我が子規居士を中心としての一団の人々であります。それは多くは私の友人でありますから子規居士以外の名前はこれを略することにいたします。
山吹に一閑張 の机かな 子規
子規居士を中心とした明治の俳風を論ずることは他日にゆずってここには略しますが、ここに挙げた居士の句について一言しようと思います。
山吹が庭に咲いている、座敷には一閑張の机がある、というただそれだけのことをそのままいったのに過ぎないのであります。この句は決して居士の句としてはいい句というのではありませんが、居士を中心とした明治の句は、こういう方面に天明時代にも見出せなかったある新しい開拓を試みているということをかねがね考えていましたから、ここにこの句を挙げて一言に及ぶ次第であります。
山吹に一閑張の机がどうしたというのであろう? これは必ず起こる質問に相違ありませぬが、どうしたというのでもありません。実際居士の家の庭に山吹が咲いており、居士のよっかかって仕事をする机は一閑張の机であったのであります。それに過ぎないのであります。しかし居士がその両者を結び合わせて「山吹に一閑張の机かな」といったのはただわけもなく両者を取り合わせたわけではなく、久しい間その二つのものを見ているうちに、山吹と一閑張の机との間に何かある生命のようなものを見出して、これをとり合わして一句とすることが自然の抑え難い命令であるかのように考えたのであります。
居士の主張であった写生、配合、客観描写ということをこの一句は同時にしかも極端に持っています。(47)
この句をつまらぬという人は、居士のこの句をなすに至った心持に同情を持ち得ぬ人のことであります。この句の奥底に潜んでいる居士の感情の波の音を聞き得ぬ人のいうことであります。こういう句は居士の生前には居士以外の人の句にも大分見ることができましたが、居士没後には跡を絶ったように考えます。
居士の主張のうちでも今日に至るまでもっとも強い勢力を持っているものは写生ということであります。(48)
これは明治に至って始まったことではなく元禄にもすでにこれがあり、天明に至ってやや著しくなったのでありますが、それが明治に至ってさらに主要の度を増したのであります。
この写生について私は別に一章を設けてお話ししたいと思っていたのでしたが、この講義も今回をもって終了することになりますと何分余地がありませぬから残念ながら略すことにします。その代り次の講演の「俳句の作りよう」のうちに主題の一つとして申しのべましょう。
俳諧略史もまずこの辺で筆をおこうと思います。
ロシアの文芸はもとよりのこと英仏独伊の文芸が我国に輸入され、我文壇はその影響を常に受けつつあることは顕著な事実でありますが、その中にあって、我国の文芸として||我国土に生じ我国土に育った文芸として存在するものは、少なくともその主要なるものの一つは、正しく我俳諧もしくはそれを基礎とした文芸であることを思うと、芭蕉、蕪村、子規の先輩を有することはこれを誇りとしなければならぬと考えます。そこで次の如く結論いたします。
十二 俳句とは芭蕉によって縄張りせられ、芭蕉、蕪村、子規によって耕耘 せられたところの我文芸の一領土であります