櫻の
花に
梅が
香とめて
柳の
枝にさく
姿と、
聞くばかりも
床しきを
心にくき
獨りずみの
噂、たつ
名みやび
男の
心を
動かして、
山の
井のみづに
浮岩るヽ
戀もありけり、
花櫻香山家ときこえしは
門表の
從三
位よむまでもなく、
同族中に
其人ありと
知られて、
行く
水のながれ
清き
江戸川の
西べりに、
和洋の
家づくり
美は
極めねど、
行く
人の
足を
止むる
庭木のさまざま、
翠色したヽる
松にまじりて
紅葉のあるお
邸と
問へば、
中の
橋のはし
板とヾろくばかり、
扨も
人の
知るは
夫のみならで、
一重と
呼ばるヽ
令孃の
美色、
姉に
妹に
數多き
同胞をこして
肩ぬひ
揚げの
幼なだちより、いで
若紫ゆく
末はと
寄する
心の
人々も
多かりしが、
空しく二八の
春もすぎて
今歳廿のいたづら
臥、
何ごとぞ
飽くまで
優しき
孝行のこヽろに
似す、
父君母君が
苦勞の
種の
嫁いりの
相談かけ
給ふごとに、
我まヽながら
私し
一生ひとり
住みの
願ひあり、
仰せに
背くは
罪ふかけれど、
是ればかりはと
子細もなく、
千扁一律いやいやを
徹して、はては
世上に
忌はしき
名を
謠はれながら、
狹き
乙名の
氣にもかけず、
更けゆく
歳を
惜しみもせず、
靜かに
月花をたのしんで、
態とにあらねど
浮世の
風に
近づかねば、
慈善會に
袖ひかれたき
願ひも
叶はず、
園遊會に
物いひなれん
頼みもなくて、いとヾ
高嶺の
花ごヽろに
苦るしむ
人多しと
聞きしが、
牛込ちかくに
下宿住居する
森野敏とよぶ
文學書生、いかなる
風や
誘ひけん、
果放なき
便りに
令孃のうはさ
耳にして、
可笑しき
奴と
笑つて
聞きしが、その
獨栖の
理由、
我れ
人ともに
分らぬ
處何ゆゑか
探りたく、
何ともして
其女一目見たし、
否見たしでは
無く
見てくれん、
世は
冠せ
物の
滅金をも、
秘佛と
唱へて
御戸帳の
奧ぶかに
信を
増さするならひ、
朝日かげ
玉だれの
小簾の
外には
耻かヾやかしく、
娘とも
言はれぬ
愚物などにて、
慈悲ぶかき
親の
勿体をつけたる
拵へ
言かも
知れず、
夫れに
乘りて
床しがるは、
雪の
後朝の
末つむ
花に
見參まへの
心なるべし、
扨も
笑止とけなしながら
心にかヽれば、
何時も
門前を
通る
時は
夫れとなく
見かへりて、
見ることも
有れかしと
待ちしが、
時はあるもの
飯田町の
學校より
歸りがけ、
日暮れ
前の
川岸づたひを
淋しく
來れば、うしろより、
掛け
聲いさましく
駈け
拔けし
車のぬしは
令孃なりけり、
何處の
歸りか
高髷おとなしやかに、
白粉にはあるまじき
色の
白さ、
衣類は
何か
見とむる
間もなけれど、
黒ちりめんの
羽織にさらさらとせし
高尚き
姿、もしやと
敏われ
知らず
馳せ
出せば、
扨こそ
引こむ
彼の
門内、
車の
輪の
何にふれてか、がたりと
音して一ゆり
搖れヽば、するり
落かヽる
後ろざしの
金簪を、
令孃は
纎手に
受けとめ
給ふ
途端、
夕風さつと
其袂を
吹きあぐれば、
飜がへる八つ
口ひらひらと
洩れて
散る
物ありけり、
夫れと
知らねば
車は
其まヽ
玄關にいそぐを、
敏何ものとも
知らず
遽しく
拾ひて、
懷中におし
入れしまヽ
跡も
見ずに
歸りぬ。
乘り
入れし
車は
確かに
香山家の
物なりとは、
車夫が
被布の
縫にも
知れたり、十七八と
見えしは
美くしさの
故ならんが、
彼の
年齡の
娘ほかに
有りとも
聞かず、
噂さの
令孃は
彼れならん
彼れなるべし、さらば
噂さも
嘘にはあらず、
嘘どころか
聞きしよりは
十倍も
二十倍も
美し、さても、
其色の
尋常を
越えなば、
土に
根生ひのばらの
花さへ、
絹帽に
挾まれたしと
願ふならひを、
彼の
美色にて
何故ならん、
怪しさよと
計り
敏は
燈下に
腕を
組みしが、
拾ひきしは
白絹の
手巾にて、
西行が
富士の
烟りの
歌を
繕ろはねども
筆のあと
美ごとに
書きたり、いよいよ
悟めかしき
女、
不思議と
思へば
不思議さ
限りなく、あの
愛らしき
眼に
世の
中を
何と
見てか、
人じらしの
振舞ひ
理由は
有るべし、
我れ
夢さら
戀なども
厭やらしき
心みぢんも
無けれど、
此理由こそ
知りたけれ、
若き
女の
定まらぬ
心に
何物か
觸るヽ
事ありて、
夫れより
起りし
生道心などならば、かへすがへす
淺ましき
事なり、
第一は
不憫のことなり、
中々に
高尚き
心を
持そこねて、
魔道に
落入るは
我々書生の
上にもあるを、
何ごとにも
一と
筋なる
乙女氣には
無理ならねど、さりとは
歎かはしき
迷ひなり、
兎も
角も
親しく
逢ひて
親しく
語りて、
諫むべきは
諫め
慰むべきは
慰めてやりたし、さは
言へど
知りがたきが
世の
中なれば
令孃にも
惡き
虫などありて、
其身も
行きたく
親も
遣りたけれど
嫁入りの
席に
落花の
狼藉を
萬一と
氣づかへば、
娘の
耻も
我が
耻も
流石に
子爵どの
宜く
隱くして、
一生を
箱入りらしく
暮らさせんとにや、さすれば
此歌は
無心に
書きたるものにて
半文の
價値もあらず、
否この
優美の
筆のあとは
何としても
破廉耻の
人にはあらじ、
必らず
深き
子細ありて
尋常ならぬ
思ひを
振袖に
包む
人なるべし、
扨もゆかしや
其ぬば
玉の
夜半の
夢。
はじめは
好奇の
心に
誘はれて、
空しき
想像をいろいろに
描きしが、
又折もがな
今一と
度みたしと
願へど、
夫よりは
如何に
行違ひてか
後ろかげだに
見ることあらねば、
水を
求めて
得ぬ
時の
渇きに
同じく、
一念此處に
集まりては
今更に
紛らはすべき
手段もなく、
朝も
晝も
燭をとりても、はては
學校へ
行きても
書を
開らきても、
西行の
歌と
令孃の
姿と
入り
亂だれて
眼の
前を
離れぬに、
敏われながら
呆れる
計り、
天晴れ
未來の
文學者が
此樣のことにて
如何なる
物ぞと、
叱りつける
後より
我が
心ふらふらと
成るに、
是非もなし
是上はと
下宿の
世帶一切たヽみて、
此家にも
學校にも
腦病の
療養に
歸國といひ
立て、
立いでしまヽ
一月ばかりを
何處に
潜みしか、
戀の
奴のさても
可笑しや、
香山家の
庭男に
住み
込みしとは。
敏おさなきより
植木のあつかひを
好きて、
小器用に
鋏も
使へば、
竹箒にぎつて
庭男ぐらゐ
何でもなきこと、
但し
身の
素性を
知られじと
計り、
誠に
只今の
山出しにて、
土をなめても
是れを
立身の
手始めにしたき
願[#ルビの「わが」はママ]ひと、
我れながら
宜くも
言へたる
嘘にかためて、
名前をも
其通り、
當座にこしへらて
[#「こしへらて」はママ]吾助とか
言ひけり、さても
氣の
利かぬとて
是れほどの
役廻りあるべきや、
浮世の
勤めを
一巡終りて、さても
猶かヽるべき
子の
怠惰にてもあらば、
如來樣お
出迎ひまで
此口つるしても
置かれず、
草むしりに
庭掃除ぐらゐはとて、六十
男のする
仕事ぞかし、
勿躰なや
古事記舊事記を
朝夕に
開らきて、
万葉集に
不審紙をしたる
手を、
泥鉢のあつかひに
汚がす
事と
人は
知らねど、
埒もなく
万年青の
葉あらひ、さては
芝生を
這つて
木の
葉を
拾ふ
姿、
我ながら
見られた
体でなく、これを
萬一も
學友などに
見つけられなばと、
心笹原をはしりて、
門外の
用事を
兎角に
厭へば、
勝手ばたらきの
女子ども
可笑しがりて、
東京は
鬼の
住む
處でもなきを、
土地なれねば
彼のやうに
怕きものかと、
美事田舍ものにしてのけられぬ。
君ゆゑこそ
可惜青年一人、
此處にかく
淺ましき
躰たらくと、
窓の
小笹を
吹く
風そよとも
告げねば、
知らぬ
令孃は
大方部屋に
籠りて、
琴の
音などにいよいよ
心を
腦まさせけるが、
折ふしの
庭あるきに
微塵きずなき
美くしさを
認め、
我れならぬ
召使ひに
優しき
詞をかけ
給ふにても
情ふかき
程は
知られぬ、
最初の
想像には
子細らしく
珠數などを
振袖の
中に
引きかくし、
經文の
讀誦に
抹香くさくなりて、
娘らしき
匂ひは
遠かるべしと
思ひしに、
其やうの
氣ぶりもなく、
柳髮いつも
高島田に
結ひ
上げて、
後れ
毛一と
筋えりに
亂ださぬ
嗜みのよさ、さても
好みの
斯くまでに
上手なるか、
但しは
此人の
身に
添ひし
果報か、
銀の
平打一つに
鴇色ぶさの
根掛むすびしを、
優にうつくしく
似合ひ
給へりと
見れば、
束髮さしの
花一輪も
中々に
愛らしく、
此處一つに
美人の
價値定まるといふ
天然の
衣襟つき、
襦袢の
襟の
紫なる
時は
顏色こと
更に
白くみえ、
態と
質素なる
黒ちりめんに
赤糸のこぼれ
梅など
品一層も
二層もよし、あるが
中にも
薄色綸子の
被布すがたを
小波の
池にうつして、
緋鯉に
餌をやる
弟君と
共に、
餘念もなく
麩をむしりて、
自然の
笑みに
睦ましき

きの
浦山しさ、
敏もとより
築山ごしに
拜むばかりの
願ひならず、あはれ
此君が
肺腑に
入りて
秘密の
鍵を
我が
手にしたく、
時機あれかしと
待つま
待遠や、
一月ばかりを
仇に
暮して
近づく
便りの
無きこそは
道理なれ、
令孃は
高嶺の
花これは
麓の
塵、なれども
嵐は
平等に
吹く
物ぞかし。
甚之助とて
香山家の
次男、すゑなりに
咲く
花いとヾ
大輪にて、
九つなれども
權勢一
家を
凌ぎ、
腕白さ
限りなく、
分別顏の
家扶にさへ
手に
合はず、
佛國に
留學の
兄上御歸朝までは、
此君にあたる
人あるまじと
見えけるが、
孃とは
隨一の
中よしにて、
何ごとにも
中姉樣と
慕ひ
寄れば、もとより
物やさしき
質の、これは
又一段に
可愛がりて、
物さびしき
雨の
夜など、
燈火の
下に
書物を
開らき、
膝に
抱きて
畫を
見せ、これは
何時何時の
昔し
何處の
國に、
甚樣のやうな
剛き
人ありて、
其時代の
帝に
背きし
賊を
討ち、
大功をなして
此畫は
引上の
處、この
馬に
乘りしが
大將と
説明せば、
雀躍して
喜び、
僕も
成長ならば
素晴らしき
大將に
成り、
賊などは
何でもなく
討ち、そして
此樣に
書物に
記かれる
人に
成りて、
父樣や
母樣に
御褒美を
頂くべしと
威張るに、
令孃は
微笑みながら
勇ましきを
賞めて、その
樣な
大將に
成り
給ひても、
私しとは
今に
替らず
中よくして
下されや、
大姉樣も
其外のお
人も
夫々に
片付て、
人の
奧樣に
成り
給ふ
身、
私しにはお
兄樣とお
前樣ばかりが
頼りなれど、
誰れよりも
私しはお
前樣が
好きにて、
何卒いつまでも
今の
通り
御一處に
居りたければ、
成長くなりてお
邸の
出來し
時、かならず
伴なひてお
茶の
間の
御用にても
爲せ
給へ、お
分りに
成りしかと
頬ずりして
言へば、しだらも
無く
抱かれながら
口ばかりは
大人らしく、それは
僕が
大將に
成りて、そしてお
邸が
出來さへすれば、
其處に
姉樣を
連れて
行きて、いろいろの
御馳走をなし、いろいろの
面白きことをして
遊ぶべし、
大姉樣や
小姉樣は
僕を
少しも
可愛がりて
呉れねば、
彼んな
奴には
御馳走もせず、
門をしめて
内へ
入れずに
泣かしてやらん、と
言ふを
止めて、
其樣な
意地わるは
仰しやるな、
母樣がお
聞にならば
惡るし、
夫れでも
姉樣たちは
自分ばかり
演藝會や
花見に
行きて、
中姉樣は
何時もお
留守居のみし
給へば、
僕が
我長ならば
中姉樣ばかり
方々に
連れて
行きて、ぱのらまや
何かヾ
見せたきなり、
夫れは
色々の
畫が
活たる
樣に
描きてありて、
鐵砲や
何かも
本當の
樣にて、
火事の
處もあり
軍の
處もあり、
僕は
大變に
好きなれば、
姉樣も
御覽にならば
吃度お
好きならん、
大姉樣は
上野のも
淺草のも
方々のを
幾度も
見しに、
中姉樣を
一度も
連れて
行かぬは
意地わるでは
無きか、
僕は
夫れか
憎くらしければと、
思ふまヽを
遠慮もなく
言ふ
可愛さ、
左樣おもふて
下さるは
嬉しけれど、
其樣のこと
他人に
言ふて
給はるなよ、
芝居も
花見も
行かぬのは
私しの
好きにて、
姉樣たちの
御存じはなき
事なり、もう
此話しは
廢しまするほどに、
何ぞお
前樣が
今日あそびて、
面白く
思ひしお
話しがあらば
聞かして
下され、
今日は
吾助がどの
樣なお
話しをいたしました。
この
大將の
若樣難なく
敏が
擒になりけり、
令孃との
中の
睦ましきを
見るより、
奇貨おくべしと
竹馬の
製造を
手はじめに、
植木の
講譯、いくさ
物語、
田舍の
爺婆は
如何にをかしき
事を
言ひて、
何處の
野山は
如何にひろく、
某の
海には
名のつけ
樣もなき
大魚ありて、
鰭を
動かせば
波のあがること
幾千丈、
夫れが
又鳥に
化してと、
珍らしきこと
怪しきこと
取とめなく
詰らなきことを、
可笑しらしく
話して
機嫌を
取れば、
幼な
心に
十倍も
百倍も
面しろく、
吾助々々と
付きまとひて
離れず、
我が
心に
面白しと
聞けば
夫れを
其まヽ
令孃に
語りて、
吾助が
話しは
何ごとも
嘘ならぬ
顏つき、
眞面目らしく
取りつぐを
聞けば、
時鳥と
鵙の
前世は
同卿人にて、
沓さしと
鹽賣なりし、
其時に
沓を
買ひて
價をやらざりしかば、
夫れが
借金になりて
鵙は
頭が
上がらず、
時鳥の
來る
時分に
餌をさがして
蛙などを
道の
草にさし、
夫れを
食はせてお
詫をするとか、
是れは
本當の
本當の
話しにて
和歌にさへ
詠めば、
姉樣に
聞きても
分ることヽ
吾助が
言ひたり、
吾助は
大層な
學者にて
何ごとも
知らぬ
事なく、
西洋だの
支那だの
天竺や
何かのことも
宜く
知りて、
其話しが
面白ければ
姉樣にも
是非お
聞かせ
申たし、
從來の
爺と
違ひ
僕を
可愛がりて
姉樣を
賞めて、
本當に
好い
奴なれば、
今度僕の
沓したを
編みてたまはる
時彼れにも
何か
製らへて
給はれ、
宜しきか
姉樣、
屹度ぞかし
姉樣、と
熱心にたのみて、
覺束なき
承諾の
詞を
其通り
敏に
傳ふれば、
此消息は
人目の
關の
憚りもなく、
玉簾やすやす
越えて、
見るは
邂逅なる
令孃の
便りを
敏は
日毎に
手に
取るばかり、
事故ありげなる
心の
底も、
此處にはじめて
朧々わかれば、
可憐の
念むらむらと
堪へがたく、
君ゆゑにこそ
斯くまでに
身を
盡くす
我、
木石ならぬ
令孃に
憎くかるべき
筈なし、
此荊棘の
中すくひ
出してと、
影も
未だなる
戀に
竹の
柱の
詫住居を
思ひぬ。
闇を
常なる
人の
親ごヽろ、
子故の
道に
迷はぬは
無きものをと
敏此處に
眼を
止むれば、
香山家三人の
女子の
中、
上は
氣むづかしく
末は
活溌にて、
容貌大底なれども
何として
彼の
君に
及ぶ
者なく、
是れにても
同胞かと
思ふばかりの
相違なるに、
怪しきは
母君の
仕向にて、
流石かるがるしき
下々の
目に
立し
分け
隔ては
無けれども、
同じ
物言ひの
何處やら
苦がく、
愁らかるべしと
思ふこと
折々に
見えけり。
子爵の
君最愛のおもひ
者など、
桐壼の
更衣めかしき
優さ
形なるが、
此奧方の
妬みつよさに、
可惜花ざかり
肺病にでもなりて、
形見の
止めし
令孃ならんには、
父君の
愛いかばかり
深かるべきを、いよいよ
胸わるく
憎くらしく
思ひ、
然るべき
縁にもつけず
生殺しにして、
他處目ばかりは
何處までも
我儘らしき
氣隨ものに
言ひ
立て、
其長き
舌に
父君をも
卷き
込みしか、この一
家に
令孃ありと
見て
心を
盡くす
者なく、
有るは
甚之助殿と
我れ
計なる
不憫しさよ、いざや
此心筆に
言はして、
時機よくは
何處へなりとも
暫時伴なひ、
其上にての
策は
又如何樣にもあるべく、よし
一時は
陸奧の
名取川、
清からぬ
名を
流しても
宜し、
憚かりの
世の
中打割りて
見れば、
天縁我れに
有つて
此處に
運びしかも
知れず、
今こそ
一寒書生の
名もなけれど、やがては
令孃をも
幸福の
位置に
据ゑて、
不名譽の
取り
返へしは
譯もなきことなり、
扨も
濱千鳥ふみ
通ふ
道はと
夜もすがら
筆を
握りしが、もとより
蓮葉ならぬ
令孃の、
殊に
我れ
庭男などに
目の
付く
筈なければ、
最初より
艷書と
知りては、
手に
觸れ
給ふか
否か
其處まことに
危ふし、
如何にせんと
思案に
苦みしが、
夫れよ、
人目にふるヽは
何の
道おなじこと、
何も
度胸と
半紙四五
枚二つ
折にして、
墨つぎ
濃く
淡く
文か
有らぬか
書き
紛らはし、
態と
綴ぢて
表紙にも
字を
書き、
此趣向うまくゆけかしと
明くるを
待ちけるが、
人しらぬこそ
是非なけれ、
此處は
隣りざかひの
藪際にて、
用心の
爲にと
茅葺の
設けに
住まはする
庭男、
扨も
扨も
此曲物とは。
日影うらうらと
霞みて
朝つゆ
花びらに
重く、
風もがな
蝴蝶の
睡り
覺ましたきほど、
靜かなる
朝の
景色、
甚之助子供ごヽろにも
浮き
立て、
何時より
早く
庭にかけ
下りれば、
若樣、と
隙かさず
呼びて、
笑顏をまづ
見する
庭男に、
其まヽ
縋りて
箒木の
手を
動かせず、
吾助お
前は
畫がかけるかと
突然に
問ふ
可笑しさ。
畫もかきまする
歌も
詠みまする
騎射でも
打毬でもお
好み
次第と
笑へば、
夫ならば
畫を
描きて
呉れよ、
夕べ
姉樣と
賭をして、これが
負ければ
僕の
小刀を
取られる
約束、
夫れは
吾助のことからにて、
僕は
吾助に
畫が
描けると
言ひしを、
姉樣はかけまじと
言ひたり、
負けては
口惜しければ
姉樣が
驚ろくほど
上手に、
後と
言はずに
今直に
畫きて
呉れよ、
掃除などは
爲ずとも
宜しとて
箒木を
奪へば、
吾助少し
困りて、
描きてはあげまするが
今は
少し、
後に
吾助の
部屋へお
出なされ
騎馬武者をかきて
參らせん、
夫れとも
山水の
景色にせんかと
紛らせば、
嫌、
嫌、
嫌、
今でなくては
何でも
嫌なり、
後になぞと
言はヾ
其うちに
僕は
負けて、
小刀を
取られるから
嫌、どうぞ
是非今直に
描て
呉れよ、
紙や
筆は
姉樣のを
借りて
來べし、と
箒木を
捨てヽ
欠け
出すに、
先づお
待なされと
遽たヾしく
止め、
直ぐと
仰しやれば
是非なけれど、
下手に
出來なば
却りて
姉樣に
笑はれ、
若樣の
負と
言ふ
物なり、
斯うなされ、
畫はゆるゆると
後日の
事になし、
吾助は
畫よりも
歌の
名人にて、
田舍に
居りし
時は
先生なりし
故、
其和歌を
姉樣にお
目にかけて
驚かし
給へ、
夫こそ
必らず
若樣の
勝に
成るべしと
言へば、
早く
其歌を
詠めと
せがむに
懷中より
彼の
綴ぢ
文を
出し、
是れは
極大切の
歌にて
人に
見すべきでは
無けれど、
若樣をお
勝たせ
申たく、
他の
人に
内證にて
姉樣ばかりに
御覽に
入れ
給へ、
早く、
内證で、
姉樣にお
上げなされ、と三つ四つに
折りて
甚之助の
懷中に
押いれしが、
無心の
處何とも
氣づかはしく、
落さぬやうに
人に
見せぬ
樣にと
呉々をしへ、
早くお
出でなされと
言へば、
兩手に
胸を
抱きて一
心に
駈け
出す
甚之助、お
落しなさるな、と
呼びもならず、
俄かに
心付て
四邊を
見れば、
花に
吹く
風我れを
笑ふか、
人目はなけれど
何處までも
恐ろしく、
庭掃除そこそこに
唯人に
逢はじと
計り、
敏これほどの
小膽とも
思はざりしを。
我が
思ふ
人ほど
耻かしく
恐ろしき
物はなし、
女同志の
親しきにても
此人こそと
敬ふ
友に、さし
向ひては
何ごとも
言はれず、
其人の
一言二言に、
耻かしきは
飽くまで
耻かしく、
恐ろしきは
飽くまで
恐ろしく、
塵ほどの
事身にしみぬべし、
男女の
中もかヽる
物にや、
甚之助の
吾助を
慕ふは
夫れとも
異なりて
淡き
物なれど、
我が
好む
人の
一言重く、
文を
懷にして
令孃の
部屋に
來し
時は、
末の
姉君此處にありて、お
細工物の
最中なるに、
今見せては
惡るかるべしと、
情實は
素より
知る
筈なけれど、
吾助とも
言はで
遊び
居けるが、
甚樣私しの
部屋へもお
出なされ、
玉突して
遊びますほどに、と
面白げに
誘ひて
座を
立つ
姉君、
早く
去ねがしに
はたはたと
障子を
立てヽ、
姉樣これ、と
懷中より
半ば
見せ、
吾助は
畫も
上手なれど
歌の
方が
猶名人ゆゑ、これを
御覽に
入れさへすれば、
僕が
勝つと
吾助が
言ひたり、
勝てば
僕の
小刀は
僕のにて、
姉樣のごむ
人形はお
約束ゆゑ
頂くのなり、さあ
賜はれと
手を
重[#ルビの「かき」はママ]ねれば、
令孃は
微笑みながら、
嫌、
嫌、お
約束は
畫なるに
歌にては
嫌よ、ごむ
人形は
上げまじと
頭をふるに、
夫れでも
姉樣この
歌は
極大切のにて、
人にも
見せず
落さぬ
樣に
御覽に
入れろと
吾助の
言ひしは、
畫よりも
良きに
相違はなし、
是非人形を
賜はれとて
手渡しするに、
何心なく
開らきて
一二行よむとせしが、
物言はず
疊みて
手文庫に
納めれば、
其顏を
不審げに
仰ぎて、
姉樣人形は
下さるか、
進げますると
僅かに
諾く
令孃、
甚之助は
嬉しく
立あがつて、
勝つた
勝つた。
此思ひ
通じさへせば
此心安かるべしと
願ふは
淺し、
入立つまヽに
欲は
増さりて、はてなき
物は
戀なりとかや、
敏はじめての
艷書に
心をいためて、
萬一落ち
散りもせば
罪は
我れのみならず、
知らじとて
令孃も
免るされまじ、さらでもの
繼母御前如何にたけりて、どの
樣の
事にまで
立いたるべきか、
思へば
我が
思慮あさはかにて、
甚之助殿に
頼みしは
萬々の
不覺なりし、とも
思ひ
又自から
勵ましては、
何の
譯もなきこと、
大英斷の
庭男とさへ
成りし
我、
此上の
出來ごと
覺悟の
前なり、
只あやふきは
令孃が
心にて、
首尾よく
文は
屆きたりとも、つれなく
返へされなば
甲斐もなきこと、
兎角に
甚之助殿の
便り
聞きたしと
待けるが、
其日の
夕方彼の
人形を
持ちて
例日よりも
嬉しげに、お
前の
歌ゆゑ
首尾よく
我が
勝に
成り、
此樣な
人形を
取りしと
誇り
顏に
來て
見すれば、
姉樣は
彼の
歌を
御覽なされしや、して
何と
仰しやりしと
問へば、
何とも
言はずに
文庫に
入てお
仕舞なされしが、
今度も
又あの
樣な
歌を
詠みて、
姉樣の
御覽に
入れよかし、お
前が
褒められなば
我れとても
嬉しき
物をと
可愛く
言ふに、
思ひある
身一層たのもしく
樣々に
機嫌を
取りて、
姉樣も
定めし
和歌はお
上手ならん、
是非吾助も
拜見が
仕たければ、
此頃に
姉樣にお
願ひなされ、お
書き
捨てを
頂きて
給はれ、
必らず、
屹度と
返事の
通路を
此處にをしへ、
一日を
待ち
二日を
待ち、
三日に
成りても
音沙汰の
無きに
敏こヽろ
悶え、
甚之助を
見るごとに
夫れとなく
促がせば、
僕も
貰つて
遣りたけれど
姉樣が
下さらねばと、
哀れ
板ばさみに
成りて
困り
入りし
体、
子心にも
義理に
引かれてか
中に
立ちて
胡亂胡亂するを、
敏いろ/\に
頼みて
此度は
封じ
文に、あらん
限りの
言葉を
如何に
書きけん、
文章の
艶麗は
評判の
男なりしが。
見る
目に
見なば
美男とも
言ふべきにや、
鼻筋とほり
眼もと
鈍からず、
豐頬の
柔和顏なる
敏、
流石に
學問のつけたる
品位は、
庭男に
成りても
身を
放れず、
吾助吾助と
勝手元に
姦ましき
評判は、お
茶の
間を
越して
大奧にも
高く、お
約束の
聟君洋行中にて、
寐覺を
寫眞に
物がたる
總領の
令孃さへ、
垣根の
櫻折れかし
吾助、いさヽかの
用事にて
大層らしく、
御褒美に
賜はる
菓子の
花紅葉、お
手づからなる
名譽はあれど、
戀に
本尊あれば
傍だちに
觸れる
眼なく、一
心おもひ
込みては
有し
昔しの
敏ならで、
可惜廿四の
勉強ざかりを
此体たらく
殘念とも
思はねばこそ、
甚之助に
追從しあるきて、
本心には
成るまじき
文の
趣向、
案外のことにて
拍子よく
行き、
文庫に
納め
給ひしとは
最う
我がもの、と一
度は
勇みけるが、
夫より
後の
幾度幾通かき
送りし
文に一
度の
返事もなく、さりとて
無情は
投かへしもせねど、
披らきて
讀みしや
否や
甚之
助が
答へぶりの
果敢なさに、
此度こそと
書たるは、
長さ
尋にあまり
思ひ
筆にあふれて、
我れながら
斯くまでも
迷ふ
物かと、
文を
投出して
嘆息しけるが、
甚之
助に
向ひては
猶さら
悲しげに、
姉樣はあくまで
吾助を
憎くみて、あれほど
御覽に
入れし
歌に一
度のお
返歌もなく、あまつさへ
貴君にまで、この
樣の
取次するなとさへ
仰しやりし
無情さ、これ
程の
耻を
見て
我れ
男の
身の、をめをめお
邸に
居られねば、
暇を
賜はりて
歸國すべけれど、
聞き
給へ
我れ
田舍には
兩親もなく、
只一人ありし
妹の
我れと
非常に
中よかりしが、
今は
亡せて
何もなき
身、その
妹が
姉樣に
正寫にて、
今も
在世ばと
戀しさ
堪へがたく、お
前樣に
姉樣なれば
我れには
妹の
樣に
思はれて、
其お
書き
捨ての
反古にても
身に
添へて
持たば
本望なるべく、
切めて一
筆の
拜見が
願ひたきなり、されども
斯く
下賤の
我れ、いか
樣に
思ふとも
及びなき
事にて、
無禮ものとお
叱りを
受ければ
夫まで、なれどもお
厭ならばお
厭にて、
寧、
斷然、
目通りも
厭やなれば
疾く
此處を
去ねかし、とでも
發言て、いよ/\
成るまじき
事と
知らば
其上に
覺悟もあり、
斯くまでの
思ひ
何としても
消ゆる
筈なけれど、
覺悟次第に
斷念もつくべし、
今一
度此文を
進げて、
明らかのお
答へ
聞いて
給はれ、
夫れ
次第にて
若樣にもお
別れに
成るべければと
虚實をまぜて、
子心に
哀れと
聞くやう
頼みければ、
甚之
助もとより
吾助贔負にて、
此男のこと一も十も
成就させたく、
喜ぶ
顏見たさの一
心に、これまでの
文の
幾通も
人目に
觸れぬ
樣とヾこほり
無く
屆け、
令孃の
心も
知らず
返事をと
責めしが、
此迫りたる
詞に
我れまづ
悲しく、
今日こそは
必らず
返事を
取り、
其方の
喜ぶ
樣にすれば、
田舍へ
行くことは
廢めになし、
何時までも
此處に
居て
呉れよ、
突然に
田舍へ
行きては
嫌やぞと
泣き、
其涙を
敏に
拭はれて
猶かなしく、
手にすがりて
何時までも
泣きしが、
三歳子の
魂いつはりには
有らで、
此こと
心根にしみて
悲しければこそ、
其夜閑燈のもとに
令孃を
拜がみて、
吾助は
斯く
思ひて
斯く
言ふを、
後生、
姉樣返事を
賜はれ、
决して
此後我まヽも
言はず
惡戯もなすまじければ、
吾助の
田舍へ
歸らぬやう、
今まで
通り一
處に
遊ばれるやう
返事を
賜はれ、
只一寸で
宜し
吾助は
一筆にてもと
言ひたれば、
此卷紙へ
何か
書て
僕に
賜はれ、
吾助は
田舍へ
歸りても
行く
處の
無き
身なれば、
大方は
乞食に
成るべきにや、
夫[#ルビの「それ」はママ]れでは
僕どうしても
嫌やなり、
是非此文を
御覽なされて、
一寸何とか
言ふて
下され、よう
姉樣、よう
姉樣、お
願ひ、
此拜、とて
紅葉の
手を
合はす
可憐しさ、
情ふかき
女性の
身の、
此事のみにても
涙の
價値はたしかなるに、よし
山賤にせよ
庭男にせよ、
我れを
戀ふ
人世に
憎くかるべきか、
令孃の
情緒いかに
縺れけん、
甚之
助母君のもとに
呼ばれ、
此返事を
聞く
間なく、
殘り
惜しげに
出行たるあとにて、
玉の
腕に
此文を
抱き、
胸に
當てヽ
夜もすがら
泣きけり。
二十の
春を
夢と
暮らして、
落花の
夕べに
何ごとを
思ひつきてか、
令孃は
別莊住居したき
願ひ、
鎌倉の
何處とやらに、
眺望を
撰んで
去年買はれしが、
話しのみにて
未だ
見ぬも
床かしく
[#「床かしく」はママ]、
別亭の
洒落たるがありて、
名物の
松がありてと
父君の
自慢にすがり、
私し
年來我が
儘に
暮して、
此上のお
願ひは
申がたけれど、とてもの
世を
其處に
送らしては
給はらぬか、
甚之助樣成長ならば、
遣はさるべきお
約束とや、
夫までのお
留守居、
又は
父樣折ふしのお
出遊に、
人任かせ
成らずは
御不自由も
少なかるべく、
何卒其處に
住まはせて、
世を
白波に
浦風おもしろく、
梅の
花貝でも
拾はせて
給はれとの
願ひ、
不憫や
如何樣な
子細あればとて、
月花をかしき
盛りの
歳に、
千人萬人すぐれし
美色を、
鏡は
無きか
知らぬかの
樣な
身の
上、
他人ごとにして
嬉しとは
聞かれぬを、
親といふ
名のまして
如何ならん、さりとは
隱居樣じみし
願ひも、
令孃が
心には
無理ならぬこと、
生中都に
置きて
同胞どもが、
浮世めかすを
見するも
愁らし、
何ごとも
望みに
任[#ルビの「まか」はママ]かせて、
住みたしとならば
彼地に
住ませ、
好きな
琴でも
松風に
彈き
合はし、
氣儘に
暮させるが
切めてもと、
父君此處にお
許るしの
出でければ、あまりとても
可愛想のこと、よし
其身の
願ひとて
彼の
樣な
遠くに、
路は
夫れほどで
無けれど
行き
限りにては
我れも
心配なり
子供たちも
淋しかるべく、
甚之助は
其うちにも
慕ひて、
中姉樣ならでは
夜の
明けぬに、
朝夕の
駄々いかに
増さりて、
姉たちの
難義が
見ゆる
樣なれば、
今しばらく
止まりてと、
母君は
物やはらかに
曰ひたれど、お
許しの
出しに
甲斐なく、
夫々に
支度して
老實の
侍女を
撰らみ、
出立は
何日々々と
内々に
取きめけるを、
甚之助かぎりなく
口惜しがり、
先づ
父君に
歎き
母君を
責め、
長幼の
令孃に
當りあるきて、
中姉樣を
窘め
出すことヽ
恨らみ、
僕をも
一處にやれと
迫まり、
令孃に
對へば
譯もなく
甘へて、
取りつきしまヽ
泣きて
離れず、
姉樣何ごとを
腹たちて
鎌倉なぞへお
出なさるぞ、
夫れも一
月や
半月ならば
宜けれど、お
歸邸は
何時とも
知れずと
衆人が
言ひたり、どの
樣に
仰しやる
共それは
嘘にて、
鎌倉へ
行かばお
歸りの
無きに
極まりたれば、
殘りて
淋しからんより
我れも
一處にゆき、
我れも
此邸に
歸るまじ、
父樣も
嫌や
母樣も
嫌や、
誰れを
捨てヽも
諸共に
行かんと
計り、
令孃は
靜かに
諭して、
其身もほろりとし、
可愛き
事いふて
泣かし
給ふな、
鎌倉へ
行きて
歸らぬとは
誰れが
言ひしか、
夫こそは
嘘にて、
遂ひ
一寸あそびに
行き、
其うちに
歸つて
來まする
程に、おとなしう
待ちて
給はれ、よし
歸らずとて
彼地はお
前樣のお
邸ゆゑ、
成長なり
給ふまでのお
留守居、
今もお
連れ
申たけれど
夫こそ
淋しく、
直ぐ
嫌やに
成りて
母樣こひしかるべし、
何も
柔順しう
成長なり
給へと、
詫るやうに
慰められて、
夫でもと
椀白も
言へず、しくしく
泣きに
平常の
元氣なくなりて、
悄然とせし
姿可憐し。
令孃が
鎌倉ごもりの
噂、
聞く
胸とヾろきて
敏しばしは
呆れしが、
猶甚之助に
委しく
問へば、
相違なき
物語半は
泣きながらにて、
何卒お
廢めに
成る
樣な
工風は
無きかと
頼まれて、
扨も
何とせん、
組む
腕の
思案にも
能はず、
凋れかへる
甚之助が
人目に
遠慮なきを
浦やみて、
心空になれど
土を
掃く
身に
箒木の
面倒さ、
此身に
成りしも
誰れ
故かは、つれなき
令孃が
振舞其理由も
探ぐれず、
此處に
捨てられて
取のこされん
我、いでや
出立前の一
目をと
心に
願ひしが、
空しく
影も
見ずに
明日の
早朝と
恨めしき
便り、
今は
何も
捨てヽ一
日病氣と
伏しけるが、
戀に
亂るヽ
心あはれ
悲しくも、
令孃が
部屋の
戸一
枚を
隔てに、
今宵かぎりの
名殘を
惜しまんとて、
心も
空も
宵闇の
春の
夜、
落花の
庭に
踏む
足の
音なきこそよけれ、
切めては
夢に
入れかしと
忍びぬ。
更けて
軒ばに
風鈴のおと
淋しや、
明日は
此音いかに
戀しく、
此軒ばのこと
部屋のこと、
取分けては
甚樣のこと、
父君のこと
母君のこと、
平常は
左までならぬ
姉妹のこと、
戀しかるべき
物をと
今も
戀しく、
寐ぬ
夜の
床に
物おもふ
令孃、
甚之助の
暫時も
傍はなれず、
今宵も
此處に
寐んと
言ひしを、
明日の
朝の
邪魔なればと
母君遠慮して、
連れ
行かれしあとの
猶さら
淋しく、
思へば
明日よりの
閑居いかならん、
甚樣はしばしこそ
我れを
慕ひて
泣きもし
給はめ、
程へなば
自づと
忘れて、
姉樣たちに
馴れ
給はんは
必定、
我れは
紛ぎるヽこと
無き
身の
戀しさ
日毎に
増さりて、
彼の
笑顏みたしとても
及ぶ
事にあらず、
父君とても
左なりかし、
遠く
離れて
面影をしのばヽ、
近きには十
倍まして、
深かりし
慈愛の
聲この
耳を
離れざるべし、
是れによりてこそ
此處をも
捨て、いとヾしき
思ひに
身を
苦るしむれど、
吾助のことも
忘れがたし、
免るせよ
吾助、
夢さらさら
憎くからねばこそ、
戀すまじとて
退く
身ぞかし、うつせみの
世に
斯かる
身の
例し
又ありや、
知らぬ
心に
恨みもせん
憎くみもせん、
其憎くまるヽを
本望にての
處爲、
貰ひし
文は
何處までも
惜しきに、
封こそ
切らぬ
手文庫に
秘めて、一
生の
際までは
友とせん
心、さりとては
我れ
生先のある
身、
憂きに
月日の
長からん
事愁らや、
何事もさらさらと
捨てヽ、
憂からず
面白からず
暮したき
願ひなるに、
春風ふけば
花めかしき、
枯木ならぬ
心のくるしさよ、
哀れ
月は
無きか
此胸はるけたきにと、
押す
手にいよいよ
動悸たかく、
噛みしめる
袖に
涙こぼれて、
令孃は
暫時うち
伏して
泣きけるが、
吹入る
夜風たが
魂か、あくがるヽ
心此處に
堪がたく、
靜かに
立つて
妻戸を
押せば、
今ぞ
廿日の
月面かげ
霞んで、さし
昇る
庭に
木立おぼろおぼろと
暗く、
似たりや
孤徽殿の
細殿口、
敏が
爲には
若くものもなき
時ぞかし。
言はぬ
浮世の
樣々には
如何なることや
潜むらん、
今は
昔しの
涙の
種、
我が
戀ならぬ
懺悔物がたり、
聞くも
悲しき
身の
上あり、
春の
夜ふけて
身にしむ
風に、
寐屋の
燈火またヽく
影もあはれ
淋しや
丁字頭の、
花と
呼ばれし
香山家の
姫、
今の
子爵と
同じ
腹に、
双玉の
稱へは
美色に
勝を
占めしが、さりとて
兄君に
席を
越えず、
物靜かにつヽましく
諸藝名譽のあるが
中に、
琴のほまれは
久方の
空にも
響きて、
月の
前に
柱を
直す
時雲はれて
影そでに
落ち、
花に
向つて
玉音を
弄べば
鶯ねを
止めて
節をや
學びけん、
子爵の
寵愛子よりも
深く、
兩親なき
妹の
大切さ
限りなければ、
良きが
上にも
良きを
撰らみて、
何某家の
奧方とも
未だ
名をつけぬ十六の
春風、
無慘や
玉簾ふき
通して
此初櫻ちりかヽりし
袖、
馬廻りに
美男の
聞えは
有れど、
月の
雲井に
塵の
身の
六三、
何として
此戀なり
立けん、
夢ばかりなる
契り
兄君の
眼にかヽりて、
或る
日遠乘の
歸路、
野末の
茶店に
女を
拂ひて、
因果を
含めし
情の
詞さても
六三露顯の
曉は、
頸さし
延べて
合掌の
覺悟なりしを、
物やはらかに
若かも
御主君が、
手を
下げるぞ
六三邸を
立退いて
呉れ、
我れも
飽まで
可愛き
其方に、
遣はさるべくは
遣はしたけれど、
七萬石の
先祖が
勳功に
對し、
皇室の
藩屏といふ
名に
對し、
此こと
許はなし
難きに
表立ちては
姫も
邸に
置がたけれど、
我れには
一人の
妹、ことに
兩親老後の
子にて、
形見と
思へば
不憫さ
限りのなきに、
其方が
心一つにて
我れも
安堵姫に
疵もつかず、
此處をよく
了簡なし
斷念と
退て
呉れかし、さりながら
此後の
身の
有つきにと
包物を
賜はりて、
言はねど
手切れの、
端金にはあらざりけんを、
六三此金に
眼も
止めず、
重々の
大罪頸と
仰せらるヽとも
恨らみは
無きを、
情のお
詞身に
徹しぬとて
男一匹美事なきしが、さても
下賤に
根を
持てば、
戀を
金ゆゑするとや
思す、
是より
以後の
一生五十
年姫樣には
指もさすまじく、
况て
口外夢さら
致すまじけれど、
金ゆゑ
閉ぢる
口には
非ず、
此金ばかりはと
恐れげもなく、
突もどして
扨つくづくと
詫びけるが、
歸邸その
儘の
暇乞、
惜しき
名殘を
姫とも
言はず、
生れかはらば
華族にと
計り、
此處を
出でヽ
何處へ
行けん、
忘れぬ
姫のこと
忘れねばこそ、
義理といふ
字に
涙を
呑んで、
心は
邸を
離れざりしが、
帳臺ふかくに
物おもふ
姫、
六三暇を
傳へ
聞くより、
心むすぼほれて
解くること
無く、
扨も
慈愛ふかき
兄君が
罪とも
言はでさし
置給ふ
勿体なさ、
身は
七万石の
末に
生れて
親は
玉とも
愛給ひしに、
瓦におとる
淫奔耻かしく、
猶其人の
戀しきも
愁らく、
涙に
沈んで
送る
月日に、
知らざりしこそ
幼なけれ、
憂き
身の
上に
憂きを
重ねて、
宿りし
胤の
五月とは、
扨もと
計り
身を
投ふして
泣けるが、
今は
人にも
逢はじ
物も
思はじ、
唯死ねかしと
身を
捨ものにして、
部屋より
外に
足も
出さず、
一心悔み
初めては
何方に
訴ふべき、
先祖の
耻辱家系の
汚れ、
兄君に
面目なく
人目はずかしく、
我心我れを
責めて
夜も
寐ず
晝も
寐ず、
一身つかれて
痩せに
痩せし
姿、
見る
兄君の
心やみに
成りて、
醫藥の
手當に
手づからの
奔走いよいよ
悲しく、
果は
物言はず
泣のみ
成りしが、
八月の
壽命此子にあれば、
月足らずの、
聲いさましく
揚げて、
玉の
姫樣御出生と
聞きも
敢へず、
散るや
櫻の
我が
名空しく
成ぬるを、
何處に
知りてか
六三天地に
哭きて、
姫が
命は
我れ
故と
計、
短かき
契りに
淺ましき
宿世を
思へば、
一人殘りて
我れ
何とせん、
待給へ
諸共にの
心なりけん、
見し
忍び
寐に
賜はりし
姫が
しごきの
緋縮緬を、
最期の
胸に
幾重まきて、
大川の
波かへらずぞ
成りし。
不幸の
由來に
悟り
初めて、
父戀し
母戀しの
夜半の
夢にも、
咲かぬ
櫻に
風は
恨まぬ
獨りずみの
願ひ
固くなり、
包むに
洩ぬ
身の
素性、
人しらねばこそ
樣々の
傳手を
求めて、
香山の
令孃と
立つ
名くるしく、
一切衆生すて
物に、
我まヽらしき
境界こヽろには
涙を
呑みて、
憂しや
廿歳のいたづら
臥、一
念かたまりて
動かざりけるが、
岩をも
徹す
情の
矢の
根に
敏がこと
身にしみ
初て、
其人床しからねど
其心にくからず、
文を
抱きて
幾夜わびしが、
我れながら
弱き
心の
淺ましさに
呆れ、
見ればこそは
聞けばこそは
思ひも
増すなれ、いざ
鎌倉に
身を
退がれて
此人のことをも
忘れ、
世に
引かるヽ
心も
斷ちたきものと、
决心此處に
成りし
今宵、
切めては
妻戸ごしのお
聲きヽたく、
見とがめられん
罪も
忘れて
此處に
斯く
忍ぶ
身と
袖にすがりて
敏なげヽば、これを
拂ふ
勇氣今は
無く、よし
人目には
戀とも
見よ
我が
心狂はねばと
燈下に
對坐て、
成るまじき
戀に
思ひを
聞く
苦るしさ、
敏はじめよりの一
念を
語り、
切めてはあはれと
曰へと
恨むに、
勿体なきことヽて
令孃も
泣き、お
志しの
文封は
切らねど
御覽ぜよ
此通りと、
手文庫に
誠を
見せしが、
扨も
我故と
聞けば
嬉しきか
悲しきか、
行末いかに
御立身なされて
如何樣なお
人物に
成り
給ふお
身にや、
思へば
尊とき
御勉強ざかりを
我れなどの
爲にとは
何事ぞや、いよいよ
戀は
淺ましきもの
果敢なきもの
憎くきもの、
我が
生涯の
此樣に
悲しく、
人に
言はれぬ
物を
思ふも、
淺ましき
戀ゆゑぞかし、
我れには
有らぬ
親の
昔し、
語るまじき
事と
我れも
秘め、
父君は
更なり
母君にも
家の
耻とて
世に
包むを、
聞かせ
參らするではなけれど、一
生に一
度の
打明け
物がたり、
聞て
給はれ
憂き
身の
素性と、
此處に
涙を
盡くして
語り
明せば、
夢とや
言はん
春の
夜あげ
方ちかく、
鳥がね
空に
聞えて
扨も
忙しなし、
君は
都に
我れは
鎌倉に、
引はなれて
又何時かは
逢ふべき、
定離の
例しを
此處に
見れば、
戀は
一人ぞ
安かりける、
何事も
言はじ
思はじ、
仰せられても
給はるなとて、
曉の
月に
影を
別ちしが、これより
姫は
如何に
成りけん、
扨も
敏は
如何に
成りけん、つれなく
見えし
有明の
月の
形見を
空に
眺めて、(
曉ばかり)と
※[#「口+斗」、U+544C、29-11]きけんか
知らず。
●表記について
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- [#···]は、入力者による注を表す記号です。
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