井戸は
車にて
綱の
長さ十二
尋、
勝手は
北向きにて
師走の
空のから
風ひゆう/\と
吹ぬきの
寒さ、おゝ
堪えがたと
竈の
前に
火なぶりの一
分は一
時にのびて、
割木ほどの
事も
大臺にして
叱りとばさるる
婢女の
身つらや、はじめ
受宿の
老媼さまが
言葉には
御子樣がたは
男女六
人、なれども
常住家内にお
出あそばすは
御總領と
末お
二人、
少し
御新造は
機嫌かいなれど、
目色顏色を
呑みこんで
仕舞へば
大した
事もなく、
結句おだてに
乘る
質なれば、
御前の
出樣一つで
半襟半がけ
前垂の
紐にも
事は
欠くまじ、
御身代は
町内第一にて、その
代り
吝き
事も二とは
下らねど、よき
事には
大旦那が
甘い
方ゆゑ、
少しの
ほまちは
無き
事も
有るまじ、
厭やに
成つたら
私の
所まで
端書一
枚、こまかき
事は
入らず、
他所の
口を
探せとならば
足は
惜しまじ、
何れ
奉公の
秘傳は
裏表と
言ふて
聞かされて、さても
恐ろしき
事を
言ふ
人と
思へど、
何も
我が
心一つで
又この
人のお
世話には
成るまじ、
勤め
大事に
骨さへ
折らば
御氣に
入らぬ
事も
無き
筈と
定めて、かゝる
鬼の
主をも
持つぞかし、
目見えの
濟みて三日の
後、
七歳になる
孃さま
踊りのさらひに
午後よりとある、
其支度は
朝湯にみがき
上げてと
霜氷る
曉、あたゝかき
寢床の
中より
御新造灰吹きをたゝきて、これ/\と、
此詞が
目覺しの
時計より
胸にひゞきて、
三言とは
呼ばれもせず
帶より
先に
※[#「ころもへん+攀」、U+897B、164-上-9]がけの
甲斐/\しく、
井戸端に
出れば
月かげ
流しに
殘りて、
肌を
刺すやうな
風の
寒さに
夢を
忘れぬ、
風呂は
据風呂にて
大きからねど、二つの
手桶に
溢るゝほど
汲みて、十三は
入れねば
成らず、
大汗に
成りて
運びけるうち、
輪寳のすがりし
曲み
齒の
水ばき
下駄、
前鼻緒のゆる/\に
成りて、
指を
浮かさねば
他愛の
無きやう
成し、その
下駄にて
重き
物を
持ちたれば
足もと
覺束なくて
流し
元の
氷にすべり、あれと
言ふ
間もなく
横にころべば
井戸がはにて
向ふ
臑したゝかに
打ちて、
可愛や
雪はづかしき
膚に
紫の
生々しくなりぬ、
手桶をも
其處に
投出して一つは
滿足成しが一つは
底ぬけに
成りけり、
此桶の
價なにほどか
知らねど、
身代これが
爲につぶれるかの
樣に
御新造の
額際に
青筋おそろしく、
朝飯のお
給仕より
睨まれて、
其日一
日物も
仰せられず、一
日おいてよりは
箸の
上げ
下しに、
此家の
品は
無代では
出來ぬ、
主の
物とて
粗末に
思ふたら
罸が
當るぞえと
明け
暮れの
談義、
來る
人毎に
告げられて
若き
心には
恥かしく、
其後は
物ごとに
念を
入れて、
遂ひに
麁想をせぬやうに
成りぬ、
世間に
下女つかふ
人も
多けれど、
山村ほど
下女の
替る
家は
有るまじ、
月に
二人は
平常の
事、三日四日に
歸りしもあれば一
夜居て
逃出しもあらん、
開闢以來を
尋ねたらば
折る
指に
彼の
内儀さまが
袖口おもはるゝ、
思へばお
峯は
辛棒もの、あれに
酷く
當たらば
天罸たちどころに、
此後は
東京廣しといへども、
山村の
下女に
成る
物はあるまじ、
感心なもの、
美事の
心がけと
賞めるもあれば、
第一
容貌が申
分なしだと、
男は
直きにこれを
言ひけり。
秋より
只一人の
伯父が
煩ひて、
商賣の
八百や
店もいつとなく
閉ぢて、
同じ
町ながら
裏屋住居に
成しよしは
聞けど、六づかしき
主を
持つ
身の
給金を
先きに
貰へえば
此身は
賣りたるも
同じ
事、
見舞にと
言ふ
事も
成らねば
心ならねど、お
使ひ
先の一
寸の
間とても
時計を
目當にして
幾足幾町と
其しらべの
苦るしさ、
馳せ
※[#「抜」の「友」に代えて「丿/友」、U+39DE、165-上-5]けても、とは
思へど
惡事千
里といへば
折角の
辛棒を
水泡にして、お
暇ともならば
彌々病人の
伯父に
心配をかけ、
痩世帶に一日の
厄介も
氣の
毒なり、
其内にはと
手紙ばかりを
遣りて、
身は
此處に
心ならずも
日を
送りける。
師走の
月は
世間一
躰物せわしき
中を、こと
更に
選らみて
綾羅をかざり、
一昨日出そろひしと
聞く
某の
芝居、
狂言も
折から
面白き
新物の、これを
見のがしてはと
娘共の
騷ぐに、
見物は十五日、
珍らしく
家内中との
觸れに
成けり、
此お
供を
嬉しがるは
平常のこと、
父母なき
後は
唯一人の
大切な
人が、
病ひの
床に
見舞ふ
事もせで、
物見遊山に
歩くべき
身ならず、
御機嫌に
違ひたらば
夫れまでとして
遊びの
代りのお
暇を
願ひしに
流石は
日頃の
勤めぶりもあり、一日すぎての
次の
日、
早く
行きて
早く
歸れと、さりとは
氣まゝの
仰せに
有難うぞんじますと
言ひしは
覺えで、
頓ては
車の
上に
小石川はまだかまだかと
鈍かしがりぬ。
初音町といへば
床しけれど、
世をうぐひすの
貧乏町ぞかし、
正直安兵衛とて
神は
此頭に
宿り
給ふべき
大藥罐の
額ぎはぴかぴかとして、これを
目印に
田町より
菊坂あたりへかけて、
茄子大根の
御用をもつとめける、
薄元手を
折かへすなれば、
折から
直の
安うて
嵩のある
物より
外は
棹なき
舟に
乘合の
胡瓜、
苞に
松茸の
初物などは
持たで、
八百安が
物は
何時も
帳面につけた
樣なと
笑はるれど、
愛顧は
有がたきもの、
曲りなりにも
親子三人の
口をぬらして、三
之助とて
八歳になるを
五厘學校に
通はするほどの
義務もしけれど、
世の
秋つらし九
月の
末、
俄かに
風が
身にしむといふ
朝、
神田に
買出しの
荷を
我が
家までかつぎ
入れると
其まゝ、
發熱につゞいて
骨病みの
出しやら、三
月ごしの
今日まで
商ひは
更なる
事、
段々に
喰べへらして
天秤まで
賣る
仕義になれば、
表店の
活計たちがたく、
月五十
錢の
裏屋に
人目の
恥を
厭ふべき
身ならず、
又時節が
有らばとて
引越しも
無慘や
車に
乘するは
病人[#ルビの「びやうほん」はママ]ばかり、
片手に
足らぬ
荷をからげて、
同じ
町の
隅へと
潜みぬ。お
峯は
車より
下りて
處此處と
尋ぬるうち、
凧紙風船などを
軒につるして、
子供を
集めたる
駄菓子やの
門に、もし三
之助の
交じりてかと
覗けど、
影も
見えぬに
落膽して
思はず
徃來を
見れば、
我が
居るよりは
向ひのがはを
痩ぎすの
子供が
藥瓶もちて
行く
後姿、三
之助よりは
丈も
高く
餘り
痩せたる
子と
思へど、
樣子の
似たるにつか/\と
驅け
寄りて
顏をのぞけば、やあ
※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、166-下-9]さん、あれ三ちやんで
有つたか、さても
好い
處でと
伴なはれて
行くに、
酒やと
芋やの
奧深く、
溝板がた/\と
薄くらき
裏に
入れば、三
之助は
先へ
驅けて、
父さん、
母さん、
姉さんを
連れて
歸つたと
門口より
呼び
立てぬ。
何お
峯が
來たかと
安兵衛が
起上れば、
女房は
内職の
仕立物に
餘念なかりし
手をやめて、まあ/\
是れは
珍らしいと
手を
取らぬばかりに
喜ばれ、
見れば六
疊一
間に一
間の
戸棚只一つ、
箪笥長持はもとより
有るべき
家ならねど、
見し
長火鉢のかげも
無く、
今戸燒の四
角なるを
同じ
形の
箱に
入れて、これがそも/\
此家の
道具らしき
物、
聞けば
米櫃も
無きよし、さりとは
悲しき
成ゆき、
師走の
空に
芝居みる
人も
有るをとお
峯はまづ
涙ぐまれて、まづ/\
風の
寒きに
寢てお
出なされませ、と
堅燒に
似し
薄蒲團を
伯父の
肩に
着せて、さぞさぞ
澤山の
御苦勞なさりましたろ、
伯母樣も
何處やら
痩せが
見えまする、
心配のあまり
煩ふて
下さりますな、
夫れでも
日増しに
快い
方で
御座んすか、
手紙で
樣子は
聞けど
見ねば
氣にかゝりて、
今日のお
暇を
待ちに
待つて
漸との
事、
何家などは
何うでも
宜ござります、
伯父樣御全快にならば
表店に
出るも
譯なき
事なれば、一
日も
早く
快く
成つて
下され、
伯父樣に
何ぞと
存じたれど、
道は
遠し
心は
急く、
車夫の
足が
何時より
遲いやうに
思はれて、
御好物の
飴屋が
軒も
見はぐりました、
此金は
少
なれど
私が
小遣の
殘り、
麹町の
御親類よりお
客の
有し
時、その
御隱居さま
寸白のお
起りなされてお
苦しみの
有しに、
夜を
徹してお
腰をもみたれば、
前垂でも
買へとて
下された、それや、これや、お
家は
堅けれど
他處よりのお
方が
贔負になされて、
伯父さま
喜んで
下され、
勤めにくゝも
御座んせぬ、
此巾着も
半襟もみな
頂き
物、
襟は
質素なれば
伯母さま
懸けて
下され、
巾着は
少し
形を
換へて三
之助がお
辨當の
袋に
丁度宜いやら、
夫れでも
學校へは
行ますか、お
清書が
有らば
姉にも
見せてと
夫れから
夫れへ
言ふ
事長し。
七歳のとしに
父親得意塲の
藏普請に、
足塲を
昇りて
中ぬりの
泥鏝を
持ちながら、
下なる
奴に
物いひつけんと
振向く
途端、
暦に
黒ぼしの
佛滅とでも
言ふ
日で
有しか、
年來馴れたる
足塲をあやまりて、
落たるも
落たるも
下は
敷石に
模樣がへの
處ありて、
堀おこして
積みたてたる
切角に
頭腦したゝか
打ちつけたれば
甲斐なし、
哀れ四十二の
前厄と
人々後に
恐ろしがりぬ、
母は
安兵衛が
同胞なれば
此處に
引取られて、これも二
年の
後はやり
風俄かに
重く
成りて
亡せたれば、
後は
安兵衞夫婦を
親として、十八の
今日まで
恩はいふに
及ばず、
姉さんと
呼ばるれば三
之助は
弟のやうに
可愛く、
此處へ
此處へと
呼んで
背を
撫で
顏を
覗いて、さぞ
父さんが
病氣で
淋しく
愁らかろ、お
正月も
直きに
來れば
姉が
何ぞ
買つて
上げますぞえ、
母さんに
無理をいふて
困らせては
成りませぬと
教ゆれば、
困らせる
處か、お
峯聞いて
呉れ、
歳は八つなれど
身躰も
大きし
力もある、
我が
寐てからは
稼ぎ
人なしの
費用は
重なる、四
苦八
苦見かねたやら、
表の
鹽物やが
野郎と一
處に、
蜆を
買ひ
出しては
足の
及ぶだけ
擔ぎ
廻り、
野郎が八
錢うれば十
錢の
商ひは
必らずある、一つは
天道さまが
奴の
孝行を
見徹してか、
兎なり
角なり
藥代は三が
働き、お
峯ほめて
遣つて
呉れとて、
父は
蒲團をかぶりて
涙に
聲をしぼりぬ。
學校は
好きにも
好きにも
遂ひに
世話をやかしたる
事なく、
朝めし
喰べると
馳け
出して三
時の
退校に
道草のいたづらした
事なく、
自慢では
無けれど
先生さまにも
褒め
物の
子を、
貧乏なればこそ
蜆を
擔がせて、
此寒空に
小さな
足に
草鞋をはかせる
親心、
察して
下されとて
伯母も
涙なり。お
峯は三
之助を
抱きしめて、さてもさても
世間に
無類の
孝行、
大がらとても
八歳は
八歳、
天秤肩にして
痛みはせぬか、
足に
草鞋くひは
出來ぬかや、
堪忍して
下され、
今日よりは
私も
家に
歸りて
伯父樣の
介抱活計の
助けもしまする、
知らぬ
事とて
今朝までも
釣瓶の
繩の
氷を
愁らがつたは
勿躰ない、
學校ざかりの
年に
蜆を
擔がせて
姉が
長い
着物きて
居らりようか、
伯父さま
暇を
取つて
下され、
私は
最早奉公はよしまするとて
取亂して
泣きぬ。三
之助はをとなしく、ほろりほろりと
涙のこぼれるを、
見せじとうつ
向きたる
肩のあたり、
針目あらはに
衣破れて、
此肩に
擔ぐか
見る
目も
愁らし、
安兵衛はお
峯が
暇を
取らんと
言ふに
夫れは
以ての
外、
志しは
嬉しけれど
歸りてからが
女の
働き、
夫れのみか
御主人へは
給金の
前借もあり、それッ、と
言ふて
歸られる
物では
無し、
初奉公が
肝腎、
辛棒がならで
戻つたと
思はれても
成らねば、お
主大事に
勤めて
呉れ、
我が
病氣も
長くは
有るまじ、
少しよくば
氣の
張弓、
引つゞいて
商ひもなる
道理、あゝ
今半月の
今歳が
過れば
新年は
好き
事も
來たるべし、
何事も
辛棒/\、三
之助も
辛棒して
呉れ、お
峯も
辛棒して
呉れとて
涙を
納めぬ。
珍らしき
客に
馳走は
出來ねど
好物の
今川燒、
里芋の
煮ころがしなど、
澤山たべろよと
言ふ
言葉が
嬉し、
苦勞はかけまじと
思へど
見す
見す
大晦日に
迫りたる
家の
難義、
胸に
痞への
病は
癪にあらねどそも/\
床に
就きたる
時、
田町の
高利かしより
三月しばりとて十
圓かりし、一
圓五拾
錢は
天利とて
手に
入りしは八
圓半、九
月の
末よりなれば
此月は
何うでも
約束の
期限なれど、
此中にて
何となるべきぞ、
額を
合せて
談合の
妻は
人仕事に
指先より
血を
出して
日に
拾錢の
稼ぎも
成らず、三
之助に
聞かするとも
甲斐なし、お
峯が
主は
白金の
臺町に
貸長屋の百
軒も
持ちて、あがり
物ばかりに
常綺羅美々しく、
我れ一
度お
峯への
用事ありて
門まで
行きしが、千
兩にては
出來まじき
土藏の
普請、
羨やましき
富貴と
見たりし、その
主人に一
年の
馴染、
氣に
入りの
奉公人が
少々の
無心を
聞かぬとは申されまじ、
此月末に
書かへを
泣きつきて、をどりの一
兩二
分を
此處に
拂へば
又三
月の
延期にはなる、
斯くいはゞ
欲に
似たれど、
大道餅買ふてなり三ヶ
日の
雜煮に
箸を
持せずば
出世前の三
之助に
親のある
甲斐もなし、
晦日までに
金二
兩、
言ひにくゝ
共この
才覺たのみ
度よしを
言ひ
出しけるに、お
峯しばらく
思案して、よろしう
御座んす
慥かに
受合ひました、むづかしくはお
給金の
前借にしてなり
願ひましよ、
見る
目と
家内とは
違ひて
何處にも
金錢の
埓は
明きにくけれど、
多くでは
無し
夫れだけで
此處の
始末がつくなれば、
理由を
聞いて
厭やは
仰せらるまじ、
夫れにつけても
首尾そこなうては
成らねば、
今日は
私は
歸ります、
又の
宿下りは
春永、その
頃には
皆
うち
寄つて
笑ひたきもの、とて
此金を
受合ける。
金は
何として
越す、三
之助を
貰ひにやろかとあれば、ほんに
夫れで
御座んす、
常日さへあるに
大晦日といふては
私の
身に
隙はあるまじ、
道の
遠きに
可憐さうなれど三ちやんを
頼みます、
晝前のうちに
必らず
必らず
支度はして
置まするとて、
首尾よく
受合ひてお
峰[#ルビの「みな」はママ]は
歸りぬ。
石之助とて
山村の
總領息子、
母の
違ふに
父親の
愛も
薄く、これを
養子に
出して
家督は
妹娘の
中にとの
相談、十
年の
昔しより
耳に
挾みて
面白からず、
今の
世に
勘當のならぬこそをかしけれ、
思ひのまゝに
遊びて
母が
泣きをと
父親の
事は
忘れて、十五の
春より
不了簡をはじめぬ、
男振にがみありて
利發らしき
眼ざし、
色は
黒けれど
好き
樣子とて
四隣の
娘どもが
風説も
聞えけれど、
唯亂暴一
途に
品川へも
足は
向くれど
騷ぎは
其座限り、
夜中に
車を
飛ばして
車町の
破落戸がもとをたゝき
起し、それ
酒かへ
肴と、
紙入れの
底をはたきて
無理を
徹すが
道樂なりけり、
到底これに
相續は
石油藏へ
火を
入れるやうな
物、
身代烟りと
成りて
消え
殘る
我等何とせん、あとの
兄弟も
不憫と
母親、
父に
讒言の
絶間なく、さりとて
此放蕩子を
養子にと申
受る
人此世にはあるまじ、とかくは
有金の
何ほどを
分けて、
若隱居の
別戸籍にと
内
の
相談は
極まりたれど、
本人うわの
空に
聞流して
手に
乘らず、
分配金は一
萬、
隱居扶持月
おこして、
遊興に
關を
据へず、
父上なくならば
親代りの
我れ、
兄上と
捧げて
竈の
神の
松一
本も
我が
託宣を
聞く
心ならば、いかにもいかにも
別戸の
御主人に
成りて、
此家の
爲には
働かぬが
勝手、それ
宜しくば
仰せの
通りに
成りましよと、
何うでも
嫌やがらせを
言ひて
困らせける。
去歳にくらべて
長屋もふゑたり、
所得は
倍にと
世間の
口より
我が
家の
樣子を
知りて、をかしやをかしや、
其やうに
延ばして
誰が
物にする
氣ぞ、
火事は
燈明皿よりも
出る
物ぞかし、
總領と
名のる
火の
玉がころがるとは
知らぬか、やがて
卷きあげて
貴樣たちに
好き
正月をさせるぞと、
伊皿子あたりの
貧乏人を
喜ばして、
大晦日を
當てに
大呑みの
塲處もさだめぬ。
それ
兄樣のお
歸りと
言へば、
妹ども
怕がりて
腫れ
物のやうに
障るものなく、
何事も
言ふなりの
通るに一
段と
我がまゝをつのらして、
炬燵に
兩足、
醉ざめの
水を
水をと
狼藉はこれに
止めをさしぬ、
憎くしと
思へど
流石に
義理は
愁らき
物かや、
母親かげの
毒舌をかくして
風引かぬやうに
小抱卷何くれと
枕まで
宛がひて、
明日の
支度のむしり
田作、
人手にかけては
粗末になる
物と
聞えよがしの
經濟を
枕もとに
見しらせぬ。
正午も
近づけばお
峯は
伯父への
約束こゝろもと
無く、
御新造が
御機嫌を
見はからふに
暇も
無ければ、
僅かの
手すきに
頭りの
手拭ひを
丸めて、
此ほどより
願ひましたる
事、
折からお
忙がしき
時心なきやうなれど、
今日の
晝る
過ぎにと
先方へ
約束のきびしき
金とやら、お
助けの
願はれますれば
伯父の
仕合せ
私の
喜び、いついつまでも
御恩に
着まするとて
手をすりて
頼みける、
最初いひ
出し
時にやふやながら
結局は
宜しと
有し
言葉を
頼みに、
又の
機嫌むつかしければ
五月蠅いひては
却りて
如何と
今日までも
我慢しけれど、
約束は
今日と
言ふ
大晦日のひる
前、
忘れてか
何とも
仰せの
無き
心もとなさ、
我れには
身に
迫りし
大事と
言ひにくきを
我慢して
斯くと申ける。
御新造は
驚きたるやうの
惘れ
顏して、
夫れはまあ
何の
事やら、
成ほどお
前が
伯父さんの
病氣、つゞいて
借金の
話しも
聞ましたが、
今が
今私しの
宅から
立換へようとは
言はなかつた
筈、それはお
前が
何ぞの
聞違へ、
私は
毛頭も
覺えの
無き
事と、これが
此人の十八
番とはてもさても
情なし。
花紅葉うるはしく
仕立し
娘たちが
春着の
小袖、
襟をそろへて
褄を
重ねて、
眺めつ
眺めさせて
喜ばんものを、
邪魔ものゝ
兄が
見る
目うるさし、
早く
出てゆけ
疾く
去ねと
思ふ
思ひは
口にこそ
出さね、もち
前の
疳癪したる
堪えがたく、
智識の
坊さまが
目に
御覽じたらば、
炎につゝまれて
身は
黒烟りに
心は
狂亂の
折ふし、
言ふ
事もいふ
事、
金は
敵藥ぞかし、
現在うけ
合ひしは
我れに
覺えあれど
何の
夫れを
厭ふ
事かは、
大方お
前が
聞ちがへと
立きりて、
烟草輪にふき
私は
知らぬと
濟しけり。
ゑゝ
大金でもある
事か、
金なら二
圓、しかも
口づから
承知して
置きながら十日とたゝぬに
耄ろくはなさるまじ、あれ
彼の
懸け
硯の
引出しにも、これは
手つかずの
分と一ト
束、十か二十か
悉皆とは
言はず
唯二
枚にて
伯父が
喜び
伯母が
笑顏、三
之助に
雜煮のはしも
取らさるゝと
言はれしを
思ふにも、
何うでも
欲しきは
彼の
金ぞ、
恨めしきは
御新造とお
峯は
口惜しさに
物も
言はれず、
常
をとなしき
身は
理屈づめにやり
込る
術もなくて、すご/\と
勝手に
立てば
正午の
號砲の
音たかく、かゝる
折ふし
殊更胸にひゞくものなり。
お
母さまに
直樣お
出下さるやう、
今朝よりのお
苦るしみに、
潮時は
午後、
初産なれば
旦那とり
止めなくお
騷ぎなされて、お
老人なき
家なれば
混雜お
話しにならず、
今が
今お
出でをとて、
生死の
分目といふ
初産に、
西應寺の
娘がもとより
迎ひの
車、これは
大晦日とて
遠慮のならぬ
物なり、
家のうちには
金もあり、
放蕩どのが
寐ては
居る、
心は二つ、
分けられぬ
身なれば
恩愛の
重きに
引かれて、
車には
乘りけれど、かゝる
時氣樂の
良人が
心根にくゝ、
今日あたり
沖釣りでも
無き
物をと、
太公望がはり
合ひなき
人をつく/″\と
恨みて
御新造いでられぬ。
行ちがへに三
之助、
此處と
聞きたる
白銀臺町、
相違なく
尋ねあてゝ、
我が
身のみすぼらしきに
姉の
肩身を
思ひやりて、
勝手口より
怕々のぞけば、
誰れぞ
來しかと
竈の
前に
泣き
伏したるお
峯が、
涙をかくして
見出せば
此子、おゝ
宜く
來たとも
言はれぬ
仕義を
何とせん、
姉さま
這入つても
叱かられはしませぬか、
約束の
物は
貰つて
行かれますか、
旦那や
御新造に
宜くお
禮を申て
來いと
父さんが
言ひましたと、
子細を
知らねば
喜び
顏つらや、まづ/\
待つて
下され、
少し
用もあればと
馳せ
行きて
内外を
見廻せば、
孃さまがたは
庭に
出て
追羽子に
餘念なく、
小僧どのはまだお
使ひより
歸らず、お
針は二
階にてしかも
聾なれば
子細なし、
若旦那はと
見ればお
居間の
炬燵に
今ぞ
夢の
眞最中、
拜みまする
神さま
佛さま、
私は
惡人になりまする、
成りたうは
無けれど
成らねば
成りませぬ、
罸をお
當てなさらば
私一人、
遣ふても
伯父や
伯母は
知らぬ
事なればお
免しなさりませ、
勿躰なけれど
此金ぬすませて
下されと、かねて
見置きし
硯の
引出しより、
束のうちを
唯二
枚、つかみし
後は
夢とも
現とも
知らず、三
之助に
渡して
歸したる
始終を、
見し
人なしと
思へるは
愚かや。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
その
日も
暮れ
近く
旦那つりより
惠比須がほして
歸らるれば、
御新造も
續いて、
安産の
喜びに
送りの
車夫にまで
愛想よく、
今宵を
仕舞へば
又見舞ひまする、
明日は
早くに
妹共の
誰れなりとも、一人は
必らず
手傳はすると
言ふて
下され、さてさて
御苦勞と
蝋燭代などを
遣りて、やれ
忙がしや
誰れぞ
暇な
身躰を
片身かりたき
物、お
峯小松菜はゆでゝ
置いたか、
數の
子は
洗つたか、
大旦那はお
歸りに
成つたか、
若旦那はと、これは
小聲に、まだと
聞いて
額に
皺を
寄せぬ。
石之助其夜はをとなしく、
新年は
明日よりの三ヶ
日なりとも、
我が
家にて
祝ふべき
筈ながら
御存じの
締りなし、
堅くるしき
袴づれに
挨拶も
面倒、
意見も
實は
聞あきたり、
親類の
顏に
美くしきも
無ければ
見たしと
思ふ
念もなく、
裏屋の
友達がもとに
今宵約束も
御座れば、一
先お
暇として
何れ
春永に
頂戴の
數々は
願ひまする、
折からお
目出度矢先、お
歳暮には
何ほど
下さりますかと、
朝より
寢込みて
父の
歸りを
待ちしは
此金なり、
子は三
界の
首械といへど、まこと
放蕩を
子に
持つ
親ばかり
不幸なるは
無し、
切られぬ
縁の
血筋といへば
有るほどの
惡戯を
盡して
瓦解の
曉に
落こむは
此淵、
知らぬと
言ひても
世間のゆるさねば、
家の
名をしく
我が
顏はづかしきに
惜しき
倉庫をも
開くぞかし、それを
見込みて
石之助、
今宵を
期限の
借金が
御座る、
人の
受けに
立ちて
判を
爲たるもあれば、
花見のむしろに
狂風一
陣、
破落戸仲間に
遣る
物を
遣らねば
此納まりむづかしく、
我れは
詮方なけれどお
名前に申わけなしなどゝ、つまりは
此金の
欲しと
聞えぬ。
母は
大方かゝる
事と
今朝よりの
懸念うたがひなく、
幾金とねだるか、ぬるき
旦那どのゝ
處置はがゆしと
思へど、
我れも
口にては
勝がたき
石之助の
辨に、お
峯を
泣かせし
今朝とは
變りて
父が
顏色いかにとばかり、
折々見やる
尻目おそろし、
父は
靜かに
金庫の
間へ
立ちしが
頓て五十
圓束一つ
持ち
來て、これは
貴樣に
遣るではなし、まだ
縁づかぬ
妹どもが
不憫、
姉が
良人の
顏にもかゝる、
此山村は
代
堅氣一
方に
正直律義を
眞向にして、
惡い
風説を
立てられた
事も
無き
筈を、
天魔の
生れがはりか
貴樣といふ
惡者の
出來て、
無き
餘りの
無分別に
人の
懷でも
覗うやうにならば、
恥は
我が一
代にとゞまらず、
重しといふとも
身代は二の
次、
親兄弟に
恥を
見するな、
貴樣にいふとも
甲斐は
無けれど
尋常ならば
山村の
若旦那とて、
入らぬ
世間に
惡評もうけず、
我が
代りの
年禮に
少しの
勞をも
助くる
筈を、六十に
近き
親に
泣きを
見するは
罰あたりで
無きか、
子供の
時には
本の
少しものぞいた
奴、
何故これが
分りをらぬ、さあ
行け、
歸れ、
何處へでも
歸れ、
此家に
恥は
見するなとて
父は
奧深く
這入りて、
金は
石之助が
懷中に
入りぬ。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
お
母樣御機嫌よう
好い
新年をお
迎ひなされませ、
左樣ならば
參りますと、
暇乞わざとうやうやしく、お
峯下駄を
直せ、お
玄關からお
歸りでは
無いお
出かけだぞと
圖分/\しく
大手を
振りて、
行先は
何處、
父が
涕は一
夜の
騷ぎに
夢とやならん、
持つまじきは
放蕩息子、
持つまじきは
放蕩を
仕立る
繼母ぞかし。
鹽花こそふらね
跡は一まづ
掃き
出して、
若旦那退散のよろこび、
金は
惜しけれど
見る
目も
憎ければ
家に
居らぬは
上々なり、
何うすれば
彼のやうに
圖太くなられるか、あの
子を
生んだ
母さんの
顏が
見たい、と
御新造例に
依つて
毒舌をみがきぬ。お
峯は
此出來事も
何として
耳に
入るべき、
犯したる
罪の
恐ろしさに、
我れか、
人か、
先刻の
仕業はと
今更夢路を
辿りて、おもへば
此事あらはれずして
濟むべきや、
萬が
中なる一
枚とても
數ふれば
目の
前なるを、
願ひの
高に
相應の
員數手近の
處になく
成しとあらば、
我れにしても
疑ひは
何處に
向くべき、
調べられなば
何とせん、
何といはん、
言ひ
※[#「抜」の「友」に代えて「丿/友」、U+39DE、175-上-2]けんは
罪深し、
白状せば
伯父が
上にもかゝる、
我が
罪は
覺悟の
上なれど
物がたき
伯父樣にまで
濡れ
衣を
着せて、
干されぬは
貧乏のならひ、かゝる
事もする
物と
人の
言ひはせぬか、
悲しや
何としたらよかろ、
伯父樣に
疵のつかぬやう、
我身が
頓死する
法は
無きかと
目は
御新造が
起居にしたがひて、
心はかけ
硯のもとにさまよひぬ。
大勘定とて
此夜あるほどの
金をまとめて
封印の
事あり、
御新造それ/\と
思ひ
出して、
懸け
硯に
先程、
屋根やの
太郎に
貸付のもどり
彼金が二十
御座りました、お
峯お
峯、かけ
硯を
此處へと
奧の
間より
呼ばれて、
最早此時わが
命は
無き
物、
大旦那が
御目通りにて
始めよりの
事を申、
御新造が
無情そのまゝに
言ふてのけ、
術もなし
法もなし
正直は
我身の
守り、
逃げもせず
隱られもせず、
欲かしらねど
盜みましたと
白状はしましよ、
伯父樣同腹で
無きだけを
何處までも
陳べて、
聞かれずば
甲斐なし
其塲で
舌かみ
切つて
死んだなら、
命にかへて
嘘とは
思しめすまじ、それほど
度胸すわれど
奧の
間へ
行く
心は
屠處の
羊なり。
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
お
峯が
引出したるは
唯二
枚、
殘りは十八あるべき
筈を、いかにしけん
束のまゝ
見えずとて
底をかへして
振へども
甲斐なし、
怪しきは
落散し
紙切れにいつ
認めしか
受取一
通。
(引出しの分も拜借致し候 石之助)
さては
放蕩かと
人々顏を
見合せてお
峯が
詮議は
無かりき、
孝の
餘徳は
我れ
知らず
石之助の
罪に
成りしか、いや/\
知りて
序に
冠りし
罪かも
知れず、さらば
石之助はお
峯が
守り
本尊なるべし、
後の
事しりたや。
本編は數年前に草したるを、こたび更に修訂せしなり