例は
威勢よき
黒ぬり
車の、それ
門に
音が
止まつた
娘ではないかと
兩親に
出迎はれつる
物を、
今宵は
辻より
飛のりの
車さへ
歸して
悄然と
格子戸の
外に
立てば、
家内には
父親[#ルビの「ちゝはゝ」はママ]が
相かはらずの
高聲、いはゞ
私も
福人の
一人、いづれも
柔順しい
子供を
持つて
育てるに
手は
懸らず
人には
褒められる、
分外の
欲さへ
渇かねば
此上に
望みもなし、やれ/\
有難い
事と
物がたられる、あの
相手は
定めし
母樣、あゝ
何も
御存じなしに
彼のやうに
喜んでお
出遊ばす
物を、
何の
顏さげて
離縁状もらふて
下されと
言はれた
物か、
叱かられるは
必定、
太郎と
言ふ
子もある
身にて
置いて
驅け
出して
來るまでには
種々思案もし
盡しての
後なれど、
今更にお
老人を
驚かして
是れまでの
喜びを
水の
泡にさせまする
事つらや、
寧そ
話さずに
戻ろうか、
戻れば
太郎の
母と
言はれて
何時/\までも
原田の
奧樣、
御兩親に
奏任の
聟がある
身と
自慢させ、
私さへ
身を
節儉れば
時たまはお
口に
合ふ
物お
小遣ひも
差あげられるに、
思ふまゝを
通して
離縁とならは
太郎には
繼母の
憂き
目を
見せ、
御兩親には
今までの
自慢の
鼻にはかに
低くさせまして、
人の
思はく、
弟の
行末、あゝ
此身一つの
心から
出世の
眞も
止めずはならず、
戻らうか、
戻らうか、あの
鬼のやうな
我良人のもとに
戻らうか、
彼の
鬼の、
鬼の
良人のもとへ、ゑゝ
厭や
厭やと
身をふるはす
途端、よろ/\として
思はず
格子にがたりと
音さすれば、
誰れだと
大きく
父親の
聲、
道ゆく
惡太郎の
惡戯とまがへてなるべし。
外なるはおほゝと
笑ふて、お
父樣私で
御座んすといかにも
可愛き
聲、や、
誰れだ、
誰れであつたと
障子を
引明て、ほうお
關か、
何だな
其樣な
處に
立つて
居て、
何うして
又此おそくに
出かけて
來た、
車もなし、
女中も
連れずか、やれ/\ま
早く
中へ
這入れ、さあ
這入れ、
何うも
不意に
驚かされたやうでまご/\するわな、
格子は
閉めずとも
宜い
私しが
閉める、
兎も
角も
奧が
好い、ずつとお
月樣のさす
方へ、さ、
蒲團へ
乘れ、
蒲團へ、
何うも
疊が
汚ないので
大屋に
言つては
置いたが
職人の
都合があると
言ふてな、
遠慮も
何も
入らない
着物がたまらぬから
夫れを
敷ひて
呉れ、やれ/\
何うして
此遲くに
出て
來たお
宅では
皆お
變りもなしかと
例に
替らずもてはやさるれば、
針の
席にのる
樣にて
奧さま
扱かひ
情なくじつと
涕を
呑込で、はい
誰れも
時候の
障りも
御座りませぬ、
私は
申譯のない
御無沙汰して
居りましたが
貴君もお
母樣も
御機嫌よくいらつしやりますかと
問へば、いや
最う
私は
嚔一つせぬ
位、お
袋は
時たま
例の
血の
道と
言ふ
奴を
始めるがの、
夫れも
蒲團かぶつて
半日も
居れば
けろ/\とする
病だから
子細はなしさと
元氣よく
呵々と
笑ふに、
亥之さんが
見えませぬが
今晩は
何處へか
參りましたか、
彼の
子も
替らず
勉強で
御座んすかと
問へば、
母親はほた/\として
茶を
進めながら、
亥之は
今しがた
夜學に
出て
行ました、あれもお
前お
蔭さまで
此間は
昇給させて
頂いたし、
課長樣が
可愛がつて
下さるので
何れ
位心丈夫であらう、
是れと
言ふも
矢張原田さんの
縁引が
有るからだとて
宅では
毎日いひ
暮して
居ます、お
前に
如才は
有るまいけれど
此後とも
原田さんの
御機嫌の
好いやうに、
亥之は
彼の
通り
口の
重い
質だし
何れお
目に
懸つても
あつけない
御挨拶よりほか
出來まいと
思はれるから、
何分ともお
前が
中に
立つて
私どもの
心が
通じるやう、
亥之が
行末をもお
頼み
申て
置てお
呉れ、ほんに
替り
目で
陽氣が
惡いけれど
太郎さんは
何時も
惡戯をして
居ますか、
何故に
今夜は
連れてお
出でない、お
祖父さんも
戀しがつてお
出なされた
物をと
言はれて、
又今更にうら
悲しく、
連れて
來やうと
思ひましたけれど
彼の
子は
宵まどひで
最う
疾うに
寐ましたから
其まゝ
置いて
參りました、
本當に
惡戯ばかりつのりまして
聞わけとては
少しもなく、
外へ
出れば
跡を
追ひまするし、
家内に
居れば
私の
傍ばつかり
覗ふて、ほんに/\
手が
懸つて
成ませぬ、
何故彼樣で
御座りませうと
言ひかけて
思ひ
出しの
涙むねの
中に
漲るやうに、
思ひ
切つて
置いては
來たれど
今頃は
目を
覺して
母さん
母さんと
婢女どもを
迷惑がらせ、
煎餅やおこしの

しも
利かで、
皆々手を
引いて
鬼に
喰はすと
威かしてゞも
居やう、あゝ
可愛さうな
事をと
聲たてゝも
泣きたきを、さしも
兩親の
機嫌よげなるに
言ひ
出かねて、
烟にまぎらす
烟草二三
服、
空咳こん/\として
涙を
襦袢の
袖にかくしぬ。
今宵は
舊暦の十三
夜、
舊弊なれどお
月見の
眞似事に
團子をこしらへてお
月樣にお
備へ
申せし、これはお
前も
好物なれば
少々なりとも
亥之助に
持たせて
上やうと
思ふたれど、
亥之助も
何か
極りを
惡るがつて
其樣な
物はお
止なされと
言ふし、十五
夜にあげなんだから
片月見に
成つても
惡るし、
喰べさせたいと
思ひながら
思ふばかりで
上る
事が
出來なんだに、
今夜來て
呉れるとは
夢の
樣な、ほんに
心が
屆いたのであらう、
自宅で
甘い
物はいくらも
喰べやうけれど
親のこしらいたは
又別物、
奧樣氣を
取すてゝ
今夜は
昔しのお
關になつて、
見得を
搆はず
豆なり
栗なり
氣に
入つたを
喰べて
見せてお
呉れ、いつでも
父樣と
噂すること、
出世は
出世に
相違なく、
人の
見る
目も
立派なほど、お
位の
宜い
方々や
御身分のある
奧樣がたとの
御交際もして、
兎も
角も
原田の
妻と
名告て
通るには
氣骨の
折れる
事もあらう、
女子どもの
使ひやう
出入りの
者の
行渡り、
人の
上に
立つものは
夫れ
丈に
苦勞が
多く、
里方が
此樣な
身柄では
猶更のこと
人に
侮られぬやうの
心懸けもしなければ
成るまじ、
夫れを
種々に
思ふて
見ると
父さんだとて
私だとて
孫なり
子なりの
顏の
見たいは
當然なれど、
餘りうるさく
出入りをしてはと
控へられて、ほんに
御門の
前を
通る
事はありとも
木綿着物に
毛繻子の
洋傘さした
時には
見す/\お二
階の
簾を
見ながら、
吁お
關は
何をして
居る
事かと
思ひやるばかり
行過ぎて
仕舞まする、
實家でも
少し
何とか
成つて
居たならばお
前の
肩身も
廣からうし、
同じくでも
少しは
息のつけやう
物を、
何を
云ふにも
此通り、お
月見の
團子をあげやうにも
重箱からしてお
恥かしいでは
無からうか、ほんにお
前の
心遣ひが
思はれると
嬉しき
中にも
思ふまゝの
通路が
叶はねば、
愚痴の一トつかみ
賤しき
身分を
情なげに
言はれて、
本當に
私は
親不孝だと
思ひまする、それは
成程和らかひ
衣類きて
手車に
乘りあるく
時は
立派らしくも
見えませうけれど、
父さんや
母さんに
斯うして
上やうと
思ふ
事も
出來ず、いはゞ
自分の
皮一重、
寧そ
賃仕事してもお
傍で
暮した
方が
餘つぽど
快よう
御座いますと
言ひ
出すに、
馬鹿、
馬鹿、
其樣な
事を
假にも
言ふてはならぬ、
嫁に
行つた
身が
實家の
親の
貢をするなどゝ
思ひも
寄らぬこと、
家に
居る
時は
齋藤の
娘、
嫁入つては
原田の
奧方ではないか、
勇さんの
氣に
入る
樣にして
家の
内を
納めてさへ
行けば
何の
子細は
無い、
骨が
折れるからとて
夫れ
丈の
運のある
身ならば
堪へられぬ
事は
無い
筈、
女などゝ
言ふ
者は
何うも
愚痴で、お
袋などが
詰らぬ
事を
言ひ
出すから
困り
切る、いや
何うも
團子を
喰べさせる
事が
出來ぬとて
一日大立腹であつた、
大分熱心で
調製たものと
見えるから十
分に
喰べて
安心させて
遣つて
呉れ、
餘程甘からうぞと
父親の
滑稽を
入れるに、
再び
言ひそびれて
御馳走の
栗枝豆ありがたく
頂戴をなしぬ。
嫁入りてより七
年の
間、いまだに
夜に
入りて
客に
來しこともなく、
土産もなしに
一人歩行して
來るなど
悉皆ためしのなき
事なるに、
思ひなしか
衣類も
例ほど
燦かならず、
稀に
逢ひたる
嬉しさに
左のみは
心も付かざりしが、
聟よりの
言傳とて
何一
言の
口上もなく、
無理に
笑顏は
作りながら
底に
萎れし
處のあるは
何か
子細のなくては
叶はず、
父親は
机の
上の
置時計を
眺めて、これやモウ
程なく十
時になるが
關は
泊つて
行つて
宜いのかの、
歸るならば
最も
歸らねば
成るまいぞと
氣を
引いて
見る
親の
顏、
娘は
今更のやうに
見上げて
御父樣私は
御願[#ルビの「おねが」は底本では「おねがひ」]ひがあつて
出たので
御座ります、
何[#ルビの「ど」は底本では「ほ」]うぞ
御聞遊してと
屹となつて
疊に
手を
突く
時、はじめて一トしづく
幾層の
憂きを
洩しそめぬ。
父は
穩かならぬ
色[#ルビの「いろ」は底本では「いつ」]を
動かして、
改まつて
何かのと
膝を
進めれば、
私は
今宵限り
原田へ
歸らぬ
决心で
出て
參つたので
御座ります、
勇が
許しで
參つたのではなく、
彼の
子を
寐かして、
太郎を
寐かしつけて、
最早あの
顏を
見ぬ
决心で
出て
參りました、まだ
私の
手より
外誰れの
守りでも
承諾せぬほどの
彼の
子を、
欺して
寐かして
夢の
中に、
私は
鬼に
成つて
出て
參りました、
御父樣、
御母樣、
察して
下さりませ
私は
今日まで
遂ひに
原田の
身に
就いて
御耳に
入れました
事もなく、
勇と
私との
中を
人に
言ふた
事は
御座りませぬけれど、
千度も
百度も
考へ
直して、二
年も三
年も
泣盡して
今日といふ
今日どうでも
離縁を
貰ふて
頂かうと
决心の
臍をかためました、
何うぞ
御願ひで
御座ります
離縁の
状を
取つて
下され、
私はこれから
内職なり
何なりして
亥之助が
片腕にもなられるやう
心がけますほどに、
一生一人で
置いて
下さりませとわつと
聲たてるを
噛しめる
襦袢の
袖、
墨繪の
竹も
紫竹の
色にや
出ると
哀れなり。
夫れは
何ういふ
子細でと
父も
母も
詰寄つて
問かゝるに
今までは
默つて
居ましたれど
私の
家の
夫婦さし
向ひを
半日見て
下さつたら
大底が
御解りに
成ませう、
物言ふは
用事のある
時慳貪に
申つけられるばかり、
朝起まして
機嫌をきけば
不圖脇を
向ひて
庭の
草花を
態とらしき
褒め
詞、是にも
腹はたてども
良人の
遊ばす
事なればと
我慢して
私は
何も
言葉あらそひした
事も
御座んせぬけれど、
朝飯あがる
時から
小言は
絶えず、
召使の
前にて
散々と
私が
身の
不器用不作法を
御並へなされ、
夫れはまだ/\
辛棒もしませうけれど、二
言目には
教育のない
身、
教育のない
身と
御蔑みなさる、それは
素より
華族女學校の
椅子にかゝつて
育つた
物ではないに
相違なく、
御同僚の
奧樣がたの
樣にお
花のお
茶の、
歌の
畫のと
習ひ
立てた
事もなければ
其御話しの
御相手は
出來ませぬけれど、
出來ずは
人知れず
習はせて
下さつても
濟むべき
筈、
何も
表向き
實家の
惡るいを
風聽なされて、
召使ひの
婢女どもに
顏の
見られるやうな
事なさらずとも
宜かりさうなもの、
嫁入つて
丁度半年ばかりの
間は
關や
關やと
下へも
置かぬやうにして
下さつたけれど、あの
子が
出來てからと
言ふ
物は
丸で
御人が
變りまして、
思ひ
出しても
恐ろしう
御座ります、
私はくら
暗の
谷へ
突落されたやうに
暖かい
日の
影といふを
見た
事が
御座りませぬ、はじめの
中は
何か
串談に
態とらしく
邪慳に
遊ばすのと
思ふて
居りましたけれど、
全くは
私に
御飽きなされたので
此樣もしたら
出てゆくか、
彼樣もしたら
離縁をと
言ひ
出すかと
苦めて
苦めて
苦め
拔くので
御座りましよ、
御父樣も
御母樣も
私の
性分は
御存じ、よしや
良人が
藝者狂ひなさらうとも、
圍い
者して
御置きなさらうとも
其樣な
事に
悋氣する
私でもなく、
侍婢どもから
其樣な
噂も
聞えまするけれど
彼れほど
働きのある
御方なり、
男の
身のそれ
位はありうちと
他處行には
衣類にも
氣をつけて
氣に
逆らはぬやう
心がけて
居りまするに、
唯もう
私の
爲る
事とては一から十まで
面白くなく
覺しめし、
箸の
上げ
下しに
家の
内の
樂しくないは
妻が
仕方が
惡るいからだと
仰しやる、
夫れも
何ういふ
事が
惡い、
此處が
面白くないと
言ひ
聞かして
下さる
樣ならば
宜けれど、一
筋に
詰らぬくだらぬ、
解らぬ
奴、とても
相談の
相手にはならぬの、いはゞ
太郎の
乳母として
置いて
遣はすのと
嘲つて
仰しやる
斗、ほんに
良人といふではなく
彼の
御方は
鬼で
御座りまする、
御自分の
口から
出てゆけとは
仰しやりませぬけれど
私が
此樣な
意久地なしで
太郎の
可愛さに
氣が
引かれ、
何うでも
御詞に
異背せず
唯々と
御小言を
聞いて
居りますれば、
張も
意氣地もない
愚うたらの
奴、それからして
氣に
入らぬと
仰しやりまする、
左うかと
言つて
少しなりとも
私の
言條を
立てゝ
負けぬ
氣に
御返事をしましたら
夫を
取てに
出てゆけと
言はれるは
必定、
私は
御母樣出て
來るのは
何でも
御座んせぬ、
名のみ
立派の
原田勇に
離縁されたからとて
夢さら
殘りをしいとは
思ひませぬけれど、
何にも
知らぬ
彼の
太郎が、
片親に
成るかと
思ひますると
意地もなく
我慢もなく、
詫て
機嫌を
取つて、
何でも
無い
事に
恐れ
入つて、
今日までも
物言はず
辛棒して
居りました、
御父樣、
御母樣、
私は
不運で
御座りますとて
口惜しさ
悲しさ
打出し、
思ひも
寄らぬ
事を
談れば
兩親は
顏を
見合せて、さては
其樣の
憂き
中かと
呆れて
暫時いふ
言もなし。
母親は
子に
甘きならひ、
聞く
毎々に
身にしみて
口惜しく、
父樣は
何と
思し
召すか
知らぬが
元來此方から
貰ふて
下されと
願ふて
遣つた
子ではなし、
身分が
惡いの
學校が
何うしたのと
宜くも
宜くも
勝手な
事が
言はれた
物、
先方は
忘れたかも
知らぬが
此方はたしかに
日まで
覺えて
居る、
阿關が十七の
御正月、まだ
門松を
取もせぬ
七日の
朝の
事であつた、
舊の
猿樂町の
彼の
家の
前で
御隣の
小娘と
追羽根して、
彼の
娘の
突いた
白い
羽根が
通り
掛つた
原田さんの
車の
中へ
落たとつて、
夫れをば
阿關が
貰ひに
行きしに、
其時はじめて
見たとか
言つて
人橋かけてやい/\と
貰ひたがる、
御身分がらにも
釣合ひませぬし、
此方はまだ
根つからの
子供で
何も
稽古事も
仕込んでは
置ませず、
支度とても
唯今の
有樣で
御座いますからとて
幾度斷つたか
知れはせぬけれど、
何も
舅姑のやかましいが
有るでは
無し、
我が
欲しくて
我が
貰ふに
身分も
何も
言ふ
事はない、
稽古は
引取つてからでも
充分させられるから
其心配も
要らぬ
事、
兎角くれさへすれば
大事にして
置かうからと
夫は
夫は
火のつく
樣に
催促して、
此方から
強請た
譯ではなけれど
支度まで
先方で
調へて
謂はゞ
御前は
戀女房、
私や
父樣が
遠慮して
左のみは
出入りをせぬといふも
勇さんの
身分を
恐れてゞは
無い、これが
妾手かけに
出したのではなし
正當にも
正當にも
百まんだら
頼みによこして
貰つて
[#ルビの「もら」は底本では「よら」]行つた
嫁の
親、
大威張に
出這入しても
差つかへは
無けれど、
彼方が
立派にやつて
居るに、
此方が
此通りつまらぬ
活計をして
居れば、
御前の
縁にすがつて
聟の
助力を
受けもするかと
他人樣の
處思が
口惜しく、
痩せ
我慢では
無けれど
交際だけは
御身分相應に
盡して、
平常は
逢いたい
娘の
顏も
見ずに
居まする、
夫れをば
何の
馬鹿々々しい
親なし
子でも
拾つて
行つたやうに
大層らしい、
物が
出來るの
出來ぬのと
宜く
其樣な
口が
利けた
物、
默つて
居ては
際限もなく
募つて
夫れは
夫れは
癖に
成つて
仕舞ひます、
第一は
婢女どもの
手前奧樣の
威光が
削げて、
末には
御前の
言ふ
事を
聞く
者もなく、
太郎を
仕立るにも
母樣を
馬鹿にする
氣になられたら
何としまする、
言ふだけの
事は
屹度言ふて、それが
惡るいと
小言をいふたら
何の
私にも
家が
有ますとて
出て
來るが
宜からうでは
無いか、
實に
馬鹿々々しいとつては
夫れほどの
事を
今日が
日まで
默つて
居るといふ
事が
有ります
物か、
餘り
御前が
温順し
過るから
我儘がつのられたのであろ、
聞いた
計でも
腹が
立つ、もう/\
退けて
居るには
及びません、
身分が
何であらうが
父もある
母もある、
年はゆかねど
亥之助といふ
弟もあればその
樣な
火の
中にじつとして
居るには
及ばぬこと、なあ
父樣一
遍勇さんに
逢ふて十
分油を
取つたら
宜う
御座りましよと
母は
猛つて
前後もかへり
見ず。
父親は
先刻より
腕ぐみして
目を
閉ぢて
有けるが、あゝ
御袋、
無茶の
事を
言ふてはならぬ、
我しさへ
始めて
聞いて
何うした
物かと
思案にくれる、
阿關の
事なれば
並大底で
此樣な
事を
言ひ
出しさうにもなく、よく/\
愁らさに
出て
來たと
見えるが、して
今夜は
聟どのは
不在か、
何か
改たまつての
事件でもあつてか、いよ/\
離縁するとでも
言はれて
來たのかと
落ついて
問ふに、
良人は
一昨日より
家へとては
歸られませぬ、五
日六
日と
家を
明けるは
平常の
事、
左のみ
珍らしいとは
思ひませぬけれど
出際に
召物の
揃へかたが
惡いとて
如何ほど
詫びても
聞入れがなく、
其品をば
脱いで
擲きつけて、
御自身洋服にめしかへて、
吁、
私位不仕合の
人間はあるまい、
御前のやうな
妻を
持つたのはと
言ひ
捨てに
出て
御出で
遊しました、
何といふ
事で
御座りませう一
年三百六十五
日物いふ
事も
無く、
稀々言はれるは
此樣な
情ない
詞をかけられて、
夫れでも
原田の
妻と
言はれたいか、
太郎の
母で
候と
顏おし
拭つて
居る
心か、
我身ながら
我身の
辛棒がわかりませぬ、もう/\もう
私は
良人も
子も
御座んせぬ
嫁入せぬ
昔しと
思へば
夫れまで、あの
頑是ない
太郎の
寢顏を
眺めながら
置いて
來るほどの
心になりましたからは、
最う
何うでも
勇の
傍に
居る
事は
出來ませぬ、
親はなくとも
子は
育つと
言ひまするし、
私の
樣な
不運の
母の
手で
育つより
繼母御なり
御手かけなり
氣に
適ふた
人に
育てゝ
貰ふたら、
少しは
父御も
可愛がつて
後々あの
子の
爲にも
成ませう、
私はもう
今宵かぎり
何うしても
歸る
事は
致しませぬとて、
斷つても
斷てぬ
子の
可憐さに、
奇麗に
言へども
詞はふるへぬ。
父は
歎息して、
無理は
無い、
居愁らくもあらう、
困つた
中に
成つたものよと
暫時阿關の
顏を
眺めしが、
大丸髷に
金輪の
根を
卷きて
黒縮緬の
羽織何の
惜しげもなく、
我が
娘ながらもいつしか
調ふ
奧樣風、これをば
結び
髮に
結ひかへさせて
綿銘仙の
半天に
襷がけの
水仕業さする
事いかにして
忍ばるべき、
太郎といふ
子もあるものなり、一
端の
怒りに百
年の
運を
取はづして、
人には
笑はれものとなり、
身はいにしへの
齋藤主計が
娘に
戻らば、
泣くとも
笑ふとも
再度原田太郎が
母とは
呼ばるゝ
事成るべきにもあらず、
良人に
未練は
殘さずとも
我が
子の
愛の
斷ちがたくは
離れていよ/\
物をも
思ふべく、
今の
苦勞を
戀しがる
心も
出づべし、
斯く
形よく
生れたる
身の
不幸、
不相應の
縁につながれて
幾らの
苦勞をさする
事と
哀れさの
増れども、いや
阿關こう
言ふと
父が
無慈悲で
汲取つて
呉れぬのと
思ふか
知らぬが
決して
御前を
叱かるではない、
身分が
釣合はねば
思ふ
事も
自然違ふて、
此方は
眞から
盡す
氣でも
取りやうに
寄つては
面白くなく
見える
事もあらう、
勇さんだからとて
彼の
通り
物の
道理を
心得た、
利發の
人ではあり
隨分學者でもある、
無茶苦茶にいぢめ
立る
譯ではあるまいが、
得て
世間に
褒め
物の
敏腕家などゝ
言はれるは
極めて
恐ろしい
我まゝ
物、
外では
知らぬ
顏に
切つて
廻せど
勤め
向きの
不平などまで
家内へ
歸つて
當りちらされる、
的に
成つては
隨分つらい
事もあらう、なれども
彼れほどの
良人を
持つ
身のつとめ、
區役所がよひの
腰辨當が
釜の
下を
焚きつけて
呉るのとは
格が
違ふ、
隨がつてやかましくもあらう六づかしくもあろう
夫を
機嫌の
好い
樣にとゝのへて
行くが
妻の
役、
表面には
見えねど
世間の
奧樣といふ
人達の
何れも
面白くをかしき
中ばかりは
有るまじ、
身一つと
思へば
恨みも
出る、
何の
是れが
世の
勤めなり、
殊には
是れほど
身がらの
相違もある
事なれば
人一
倍の
苦もある
道理、お
袋などが
口廣い
事は
言へど
亥之が
昨今の
月給に
有ついたも
必竟は
原田さんの
口入れではなからうか、
七光どころか
十光もして
間接ながらの
恩を
着ぬとは
言はれぬに
愁らからうとも一つは
親の
爲弟の
爲、
太郎といふ
子もあるものを
今日までの
辛棒がなるほどならば、
是れから
後とて
出來ぬ
事はあるまじ、
離縁を
取つて
出たが
宜いか、
太郎は
原田のもの、
其方は
齋藤の
娘、一
度縁が
切れては二
度と
顏見にゆく
事もなるまじ、
同じく
不運に
泣くほどならば
原田の
妻で
大泣きに
泣け、なあ
關さうでは
無いか、
合點がいつたら
何事も
胸に
納めて、
知らぬ
顏に
今夜は
歸つて、
今まで
通りつゝつしんで
世を
送つて
呉れ、お
前が
[#「お前が」は底本では「お前が」]口に
出さんとても
親も
察しる
弟も
察しる、
涙は
各自に
分て
泣かうぞと
因果を
含めてこれも
目を
拭ふに、
阿關はわつと
泣いて
夫れでは
離縁をといふたも
我まゝで
御座りました、
成程太郎に
別れて
顏も
見られぬ
樣にならば
此世に
居たとて
甲斐もないものを、
唯目の
前の
苦をのがれたとて
何うなる
物で
御座んせう、ほんに
私さへ
死んだ
氣にならば三
方四
方波風たゝず、
兎もあれ
彼の
子も
兩親の
手で
育てられまするに、つまらぬ
事を
思ひ
寄まして、
貴君にまで
嫌やな
事を
御聞かせ
申ました、
今宵限り
關はなくなつて
魂一つが
彼の
子の
身を
守るのと
思ひますれば
良人のつらく
當る
位百
年も
辛棒出來さうな
事、よく
御言葉も
合點が
行きました、もう
此樣な
事は
御聞かせ
申ませぬほどに
心配をして
下さりますなとて
拭ふあとから
又涙、
母親は
聲たてゝ
何といふ
此娘は
不仕合と
又一しきり
大泣きの
雨、くもらぬ
月も
折から
淋しくて、うしろの
土手の
自然生を
弟の
亥之が
折て
來て、
瓶にさしたる
薄の
穗の
招く
手振りも
哀れなる
夜なり。
實家は
上野の
新坂下、
駿河臺への
路なれば
茂れる
森の
木のした
暗侘しけれど、
今宵は
月もさやかなり、
廣小路へ
出れば
晝も
同樣、
雇ひつけの
車宿とて
無き
家なれば
路ゆく
車を
窓から
呼んで、
合點が
行つたら
兎も
角も
歸れ、
主人の
留守に
斷なしの
外出、これを
咎められるとも
申譯の
詞は
有るまじ、
少し
時刻は
遲れたれど
車ならば
遂ひ一ト
飛、
話しは
重ねて
聞きに
行かう、
先づ
今夜は
歸つて
呉れとて
手を
取つて
引出すやうなるも
事あら
立じの
親の
慈悲、
阿關はこれまでの
身と
覺悟してお
父樣、お
母樣、
今夜の
事はこれ
限り、
歸りまするからは
私は
原田の
妻なり、
良人を
誹るは
濟みませぬほどに
最う
何も
言ひませぬ、
關は
立派な
良人を
持つたので
弟の
爲にも
好い
片腕、あゝ
安心なと
喜んで
居て
下されば
私は
何も
思ふ
事は
御座んせぬ、
决して
决して
不了簡など
出すやうな
事はしませぬほどに
夫れも
案じて
下さりますな、
私の
身體は
今夜をはじめに
勇のものだと
思ひまして、
彼の
人の
思うまゝに
何となりして
貰ひましよ、
夫では
最う
私は
戻ります、
亥之さんが
歸つたらば
宜しくいふて
置いて
下され、お
父樣もお
母樣も
御機嫌よう、
此次には
笑ふて
參りまするとて
是非なさゝうに
立あがれば、
母親は
無けなしの
巾着さげて
出て
駿河臺まで
何程でゆくと
門なる
車夫に
聲をかくるを、あ、お
母樣それは
私がやりまする、
有がたう
御座んしたと
温順しく
挨拶して、
格子戸くゞれば
顏に
袖、
涙をかくして
乘り
移る
哀れさ、
家には
父が
咳拂ひの
是れもうるめる
聲成し。
さやけき
月に
風のおと
添ひて、
虫の
音たえ/″\に
物がなしき
上野へ
入りてよりまだ一
町もやう/\と
思ふに、いかにしたるか
車夫はぴつたりと
轅を
止めて、
誠に
申かねましたが
私はこれで
御免を
願ひます、
代は
入りませぬからお
下りなすつてと
突然にいはれて、
思ひもかけぬ
事なれば
阿關は
胸をどつきりとさせて、あれお
前そんな
事を
言つては
困るではないか、
少し
急ぎの
事でもあり
増しは
上げやうほどに
骨を
折つてお
呉れ、こんな
淋しい
處では
代りの
車も
有るまいではないか、それはお
前人困らせといふ
物、
愚圖らずに
行つてお
呉れと
少しふるへて
頼むやうに
言へば、
増しが
欲しいと
言ふのでは
有ませぬ、
私からお
願ひです
何うぞお
下りなすつて、
最う
引くのが
厭やに
成つたので
御座りますと
言ふに、
夫ではお
前加※[#「冫+咸」、U+51CF、46-8]でも
惡るいか、まあ
何うしたと
言ふ
譯、
此處まで
挽いて
來て
厭やに
成つたでは
濟むまいがねと
聲に
力を
入れて
車夫を
叱れば、
御免なさいまし、もう
何うでも
厭やに
成つたのですからとて
提燈を
持しまゝ
不圖脇へのがれて、お
前は
我まゝの
車夫さんだね、
夫ならば
約定の
處までとは
言ひませぬ、
代りのある
處まで
行つて
呉れゝば
夫でよし、
代はやるほどに
何處か
處らまで、
切めて
廣小路までは
行つてお
呉れと
優しい
聲にすかす
樣にいへば、
成るほど
若いお
方ではあり
此淋しい
處へおろされては
定めしお
困りなさりませう、これは
私が
惡う
御座りました、ではお
乘せ
申ませう、お
供を
致しませう、
嘸お
驚きなさりましたろうとて
惡者らしくもなく
提燈を
持かゆるに、お
關もはじめて
胸をなで、
心丈夫に
車夫の
顏を
見れば二十五六の
色黒く、
小男の
痩せぎす、あ、
月に
背けたあの
顏が
誰れやらで
有つた、
誰れやらに
似て
居ると
人の
名も
咽元まで
轉がりながら、もしやお
前さんはと
我知らず
聲をかけるに、ゑ、と
驚いて
振あふぐ
男、あれお
前さんは
彼のお
方では
無いか、
私をよもやお
忘れはなさるまいと
車より
濘るやうに
下りてつく/″\と
打まもれば、
貴孃は
齋藤の
阿關さん、
面目も
無い
此樣な
姿で、
背後に
目が
無ければ
何の
氣もつかずに
居ました、
夫れでも
音聲にも
心づくべき
筈なるに、
私は
餘程の
鈍に
成りましたと
下を
向いて
身を
恥れば、
阿關は
頭の
先[#ルビの「さき」は底本では「せき」]より
爪先まで
眺めていゑ/\
私だとて
徃來で
行逢ふた
位ではよもや
貴君と
氣は
付きますまい、
唯た
今の
先までも
知らぬ
他人の
車夫さんとのみ
思ふて
居ましたに
御存じないは
當然、
勿體ない
事であつたれど
知らぬ
事なればゆるして
下され、まあ
何時から
此樣な
業して、よく
其か
弱い
身に
障りもしませぬか、
伯母さんが
田舍へ
引取られてお
出なされて、
小川町のお
店をお
廢めなされたといふ
噂は
他處ながら
聞いても
居ましたれど、
私も
昔しの
身でなければ
種々と
障る
事があつてな、お
尋ね
申すは
更なること
手紙あげる
事も
成ませんかつた、
今は
何處に
家を
持つて、お
内儀さんも
御健勝か、
小兒のも
出來てか、
今も
私は
折ふし
小川町の
勸工塲見物に
行まする
度々、
舊のお
店がそつくり
其儘同じ
烟草店の
能登やといふに
成つて
居まするを、
何時通つても
覗かれて、あゝ
高坂の
録さんが
子供であつたころ、
學校の
行返りに
寄つては
卷烟草のこぼれを
貰ふて、
生意氣らしう
吸立てた
物なれど、
今は
何處に
何をして、
氣の
優しい
方なれば
此樣な
六づかしい
世に
何のやうの
世渡りをしてお
出ならうか、
夫れも
心にかゝりまして、
實家へ
行く
度に
御樣子を、もし
知つても
居るかと
聞いては
見まするけれど、
猿樂町を
離れたのは
今で五
年の
前、
根つからお
便りを
聞く
縁がなく、
何んなにお
懷しう
御座んしたらうと
我身のほどをも
忘れて
問ひかくれば、
男は
流れる
汗を
手拭にぬぐふて、お
恥かしい
身に
落まして
今は
家と
言ふ
物も
御座りませぬ、
寐處は
淺草町の
安宿、
村田といふが二
階に
轉がつて、
氣に
向ひた
時は
今夜のやうに
遲くまで
挽く
事もありまするし、
厭やと
思へば
日がな
一日ごろ/\として
烟のやうに
暮して
居まする、
貴孃は
相變らずの
美くしさ、
奧樣にお
成りなされたと
聞いた
時から
夫でも一
度は
拜む
事が
出來るか、一
生の
内に
又お
言葉を
交はす
事が
出來るかと
夢のやうに
願ふて
居ました、
今日までは
入用のない
命と
捨て
物に
取あつかふて
居ましたけれど
命があればこその
御對面、あゝ
宜く
私を
高坂の
録之助と
覺えて
居て
下さりました、
辱なう
御座りますと
下を
向くに、
阿關はさめ/″\として
誰れも
憂き
世に
一人と
思ふて
下さるな。
してお
内儀さんはと
阿關の
問へば、
御存じで
御座りましよ
筋向ふの
杉田やが
娘、
色が
白いとか
恰好が
何うだとか
言ふて
世間の
人は
暗雲に
褒めたてた
女で
御座ります、
私が
如何にも
放蕩をつくして
家へとては
寄りつかぬやうに
成つたを、
貰ふべき
頃に
貰ふ
物を
貰はぬからだと
親類の
中の
解らずやが
勘違ひして、
彼れならばと
母親が
眼鏡にかけ、
是非もらへ、やれ
貰へと
無茶苦茶に
進めたてる
五月蠅さ、
何うなりと
成れ、
成れ、
勝手に
成れとて
彼れを
家へ
迎へたは
丁度貴孃が
御懷妊だと
聞ました
時分の
事、一
年目には
私が
處にもお
目出たうを
他人からは
言はれて、
犬張子や
風車を
並べたてる
樣に
成りましたれど、
何のそんな
事で
私が
放蕩のやむ
事か、
人は
顏の
好い
女房を
持たせたら
足が
止まるか、
子が
生れたら
氣が
改まるかとも
思ふて
居たのであらうなれど、たとへ
小町と
西施と
手を
引いて
來て、
衣通姫が
舞ひを
舞つて
見せて
呉れても
私の
放蕩は
直らぬ
事に
極めて
置いたを、
何で
乳くさい
子供の
顏見て
發心が
出來ませう、
遊んで
遊んで
遊び
拔いて、
呑んで
呑んで
呑み
盡して、
家も
稼業もそつち
除けに
箸一
本もたぬやうに
成つたは
一昨々年、お
袋は
田舍へ
嫁入つた
姉の
處に
引取つて
貰ひまするし、
女房は
子をつけて
實家へ
戻したまゝ
音信不通、
女の
子ではあり
惜しいとも
何とも
思ひはしませぬけれど、
其子も
昨年の
暮チプスに
懸つて
死んださうに
聞ました、
女はませな
物ではあり、
死ぬ
際には
定めし
父樣とか
何とか
言ふたので
御座りましよう、
今年居れば五つになるので
御座りました、
何のつまらぬ
身の
上、お
話しにも
成りませぬ。
男はうす
淋しき
顏に
笑みを
浮べて
貴孃といふ
事も
知りませぬので、
飛んだ
我まゝの
不調法、さ、お
乘りなされ、お
供をしまする、
嘸不意でお
驚きなさりましたろう、
車を
挽くと
言ふも
名ばかり、
何が
樂しみに
轅棒をにぎつて、
何が
望みに
牛馬の
眞似をする、
錢を
貰へたら
嬉しいか、
酒が
呑まれたら
愉快なか、
考へれば
何も
彼も
悉皆厭やで、お
客樣を
乘せやうが
空車の
時だらうが
嫌やとなると
用捨なく
嫌やに
成まする、
呆れはてる
我まゝ
男、
愛想が
盡きるでは
有りませぬか、さ、お
乘りなされ、お
供をしますと
進められて、あれ
知らぬ
中は
仕方もなし、
知つて
其車に
乘れます
物か、
夫れでも
此樣な
淋しい
處を
一人ゆくは
心細いほどに、
廣小路へ
出るまで
唯道づれに
成つて
下され、
話しながら
行ませうとてお
關は
小褄少し
引あげて、ぬり
下駄のおと
是れも
淋しげなり。
昔の
友といふ
中にもこれは
忘られぬ
由縁のある
人、
小川町の
高坂とて
小奇麗な
烟草屋の
一人息子、
今は
此樣に
色も
黒く
見られぬ
男になつては
居れども、
世にある
頃の
唐棧ぞろひに
小氣の
利いた
前だれがけ、お
世辭も
上手、
愛敬もありて、
年の
行かぬやうにも
無い、
父親の
居た
時よりは
却つて
店が
賑やかなと
評判された
利口らしい
人の、さても/\の
替り
樣、
我身が
嫁入りの
噂聞え
初た
頃から、やけ
遊びの
底ぬけ
騷ぎ、
高坂の
息子は
丸で
人間が
變つたやうな、
魔でもさしたか、
祟りでもあるか、よもや
只事では
無いと
其頃に
聞きしが、
今宵見れば
如何にも
淺ましい
身の
有樣、
木賃泊りに
居なさんすやうに
成らうとは
思ひも
寄らぬ、
私は
此人に
思はれて、十二の
年より十七まで
明暮れ
顏を
合せる
毎に
行々は
彼の
店の
彼處へ
座つて、
新聞見ながら
商ひするのと
思ふても
居たれど、
量らぬ
人に
縁の
定まりて、
親々の
言ふ
事なれば
何の
異存を
入られやう、
烟草の
録さんにはと
思へど
夫れはほんの
子供ごゝろ、
先方からも
口へ
出して
言ふた
事はなし、
此方は
猶さら、これは
取とまらぬ
夢の
樣な
戀なるを、
思ひ
切つて
仕舞へ、
思ひ
切つて
仕舞へ、あきらめて
仕舞うと
心を
定めて、
今の
原田へ
嫁入りの
事には
成つたれど、
其際までも
涙がこぼれて
[#「こぼれて」は底本では「こぽれて」]忘れかねた
人、
私が
思ふほどは
此人も
思ふて、
夫れ
故の
身の
破滅かも
知れぬ
物を、
我が
此樣な
丸髷などに、
取濟したる
樣な
姿をいかばかり
面にくゝ
思はれるであらう、
夢さらさうした
樂しらしい
身ではなけれどもと
阿關は
振かへつて
録之助を
見やるに、
何を
思ふか
茫然とせし
顏つき、
時たま
逢ひし
阿關に
向つて
左のみは
嬉しき
樣子も
見えざりき。
廣小路を
出れば
車もあり、
阿關は
紙入れより
紙幣いくらか
取出して
小菊の
紙にしほらしく
包みて、
録さんこれは
誠に
失禮なれど
鼻紙なりとも
買つて
下され、
久し
振でお
目にかゝつて
何か
申たい
事は
澤山あるやうなれど
口へ
出ませぬは
察して
下され、では
私は
御別れに
致します、
隨分からだを
厭ふて
煩らはぬ
樣に、
伯母さんをも
早く
安心させておあげなさりまし、
蔭ながら
私も
祈ります、
何うぞ
以前の
録さんにお
成りなされて、お
立派にお
店をお
開きに
成ります
處を
見せて
下され、
左樣ならばと
挨拶すれば
録之助は
紙づゝみを
頂いて、お
辭儀申す
筈なれど
貴孃のお
手より
下されたのなれば、あり
難く
頂戴して
思ひ
出にしまする、お
別れ
申すが
惜しいと
言つても
是れが
夢ならば
仕方のない
事、さ、お
出なされ、
私も
歸ります、
更けては
路が
淋しう
御座りますぞとて
空車引いてうしろ
向く、
其人は
東へ、
此人は
南へ、
大路の
柳[#ルビの「あなぎ」はママ]月のかげに
靡いて
力なささうの
塗り
下駄のおと、
村田の二
階も
原田の
奧も
憂きはお
互ひの
世におもふ
事多し。

終

●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#···]は、入力者による注を表す記号です。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#···]」の形で示しました。