永左衞門は運座で三才に拔けた自分の句を
眠さうな供の小僧を先に歸して、提灯は自分で持ちましたが、傘と兩方では何彼と勝手が惡く、少し濡れるのを覺悟の前で、傘だけは疊んで右手に持ち、五六軒並んだ武家の屋敷を數へるやうに、松平伊賀樣屋敷の側へヒヨイと曲つた時でした。
「え||ツ」
まさに紫電
「あツ」
吾妻屋永左衞門、僅かにかはして、右手に疊んで持つた傘で受けました。
幸ひ、吾妻屋永左衞門、若い時分町道場に通つて、
「えツ、面倒」
疊みかけて襲ひかゝる曲者の刄は、灯が見えると、一段と激しさを加へました。吾妻屋永左衞門、それを除けるのが精一杯。が、終に運命的な瞬間に近づきました。
後ろすさりの永左衞門、とうの昔に高足駄は脱ぎ捨ててをりましたが、道傍の石に足を取られ、物の見事にぬかるみの中に引つくり返つたのです。
今ぞ觀念と、振り冠つた曲者の刄、
「あツ、大井、大井
自身番の灯が細雨を縫つてサツと、曲者の顏を照らし出したのです。
それは弓町に住む浪人者で、同じ道に親しむ、青年武士||ツイ先刻まで、同じ
相手の素姓がわかると、吾妻屋永左衞門妙に自信らしいものがついて來ました。日頃懇意にしてゐるだけに、大井久我之助の強さ弱さを
吾妻屋永左衞門の棒振り劍術と違つて、相手は
「暗討は卑怯だらう||何んの怨みで、この私を||」
永左衞門は建物の袖を
「卑怯? 卑怯は其の方だ」
「何を」
「金の力に物を言はせて、拙者が言ひ
大井久我之助は、一刀を構へたまゝ、ジリジリと詰め寄るのでした。
「あ、そのことか」
吾妻屋永左衞門、ハツと思ひ當つたのです。
相手は女故に祿も家も捨てて我儘氣隨に暮してゐる浪人、暇はあるにしても、
「覺えがないとは言はさぬぞ」
「で、
吾妻屋永左衞門は相手の切つ尖を除けながら、
「望みとあらば、拙者の小刀を貸さう||尋常に向つて來るか」
「いや私は町人だ、武家との果し合ひは御免
「卑怯だらう」
「何方が卑怯か」
この掛け合ひは、一瞬々々のやり取りで命を賭けての、必死の言葉爭ひでした。若し吾妻屋永左衞門に、少しばかりの心得がなく、大井久我之助に、人にすぐれた腕があつたら、こんな厄介な事件に發展せず、お弓町の一角の、雨中の暗討で事が濟んだことでせう。
「親分、こんな馬鹿氣た話があるんだが||」
と、ガラツ八の八五郎が、明神下の平次のところへ、報告を持つて來たのは、それから二三日後のある朝でした。
「何が馬鹿氣てゐるんだ。お前の持つて來る話で、馬鹿氣ない話てえのは、あんまりないやうだが」
初秋の温い陽を除けて、平次は相變らず植木の世話に餘念もなかつたのです。
「だつて親分、女一人のことから、大の男が命のやりとりを始めて||」
「待ちなよ、八。女出入りで命のやり取りなんざ、お前が好きさうな話ぢやないか」
平次は秋葉の緑の中に顏をあげました。
「それが
「
平次は八五郎を誘ひ入れると、椽側に並んで掛けて、いつもの馬糞煙草にするのです。
「吉原の玉屋小三郎の店で、お職を張つてゐた
「知らないよ。俺のところにはそんな叔母さんはなかつた筈だ」
「へツ、素氣ない返事だね、いかにお靜姐さんがお勝手で聽いてゐるにしても」
「つまらねえ氣を廻しやがる」
「その薄墨が、どんな女だと思ひます、親分」
「よつぽど變つてゐるのか、眼が三つあるとか、何んとか」
「嫌になるなア、世間でさう言つてゐますよ、錢形の親分はたいした人間だが、何んだつて又あんなに野暮だらう||つて」
「野暮でも
「あ、また化物にこだはつてゐる||そんなイヤな
「フーム」
「
「大變なことだね」
「この薄墨華魁に入れあげて、
「矢つ張り化物ぢやないか」
「それを本郷三丁目の藥種問屋の若主人、吾妻屋永左衞門が、千兩箱を積んで
「内儀の位は嬉しいな」
平次のからかひにも構はず八五郎は報告を續けるのでした。
「吾妻屋永左衞門は、三十そこ/\、金があつてへえけえが上手で、ちよいと好い男で、道樂者の癖に少しケチで、||薄墨太夫のお染さんと並べると、少しヒネてはゐるが見事な
「||」
「それほどの太夫を根引いて宿の妻にすると、納まらないのが諸方にあるのも無理はないでせう。ね、親分」
「俺に相談することがあるものか、話の先を急ぐがいゝ」
「一番納まらないのは、萬兩分限の身上を費ひ果して、乞食のやうになつた伊豆屋の虎松。こいつは
「淺ましいことだな」
「あつしだつて、萬兩といふ身上をつぶしたら、そんな心持になるかも知れませんね」
「幸ひ、五兩と
「有難い仕合せで||ところで薄墨が吾妻屋の女房になつて、納まらなかつたもう一人は、お弓町に住んでゐる浪人者で、大井久我之助といふ好い男だ。年の頃は三十二三、
「||」
「ちよいと金があつて好い男で、へえけえは下手だが小唄と
「無理とは言はないから、その先はどうした?」
「八月
「お前でねえことは確かだ」
「錢形の親分、さすが眼が高けえ」
「ふざけちやいけねえ」
「浪人者の大井久我之助ですよ。二本差の癖にしやがつて、女を奪られて、町人に暗討を仕掛けるなんて、風上にも置けねえ野郎ぢやありませんか。幸ひ吾妻屋永左衞門、少しやつとうの心得があるので、泥の中へ引つくり返つただけで
「それから」
平次にも、少しばかり話が面白くなつて來た樣子です。
「||でも握りつ
「それつきりだらう、女出入りはそんなことで市が榮えるの筋書きさ」
「ところが、今度は泥んこになつた吾妻屋が納まりませんよ。このなりぢや戀女房のお染のところへ歸れない、第一武家が町人を暗討するとは卑怯千万、この納まりをどうしてくれるとねぢ込んだ」
「成程な、||で、どう話がついたのだ」
「つきませんよ、どつちも
「そんなことで濟むのかな」
平次はこの事件の底に、何やら根強く横たはつてゐる、無氣味な人の怨みを感じないわけに行かなかつたのです。
果して、吾妻屋永左衞門と、大井久我之助の
それから十何日、丁度八月十五日の名月の晩に、吾妻屋永左衞門は小宴を開いて、大井久我之助と國府彌八郎を呼び、表向きは仲直りの杯を交はすといふことにして、實は退引ならぬ二人の間の
人妻に戀するのは不都合千萬と言つても吾妻屋の女房のお染は、玉屋小三郎抱への遊女薄墨の後身であり、その間夫だつた大井久我之助の手許には、薄墨の書いた
「先づ、どうぞ」
深怨の久我之助と、時の氏神の國府彌八郎と、連れ立つて來たのを、主人永左衞門、自ら案内に立つて、設けの席に
それは『かねやす』に背を向けた、東向きの裏二階で十五夜の月はもう、町並の屋根の上に昇つてをり、椽側には型通りの祭壇が、青白い月の光を受けて、
部屋の中にはわざと薄暗い行燈が一つ。主客席に着くと、待つてゐましたと言はぬばかりに、手順よく膳が運び出されるのです。
それは氣まづい月見の宴でした。時の氏神の
「入らつしやいませ」
ほんのりと掛香が
「||」
久我之助も彌八郎も、思はず丁寧過ぎるほど丁寧に禮を返しました。
眉こそ青々と落してをりますが、頬の曲線の柔かい細面、顏を伏せると、美しい鼻筋がスーツと通ります。
「御内儀、飛んだ御世話に相成る」
などと國府彌八郎は、取つてつけたやうな世辭を言ひますが、素より白けた座を救ふ由もありません。
お染はさすがに、この座の息苦しさに堪へられなかつたものか、間もなく引下がつて、さて、それからの酒は羽目を外しました。
主人の永左衞門もさることながら、客の大井久我之助は、いくら呑んでも醉ひが發しないらしく、まさに
座を
「さて、御兩所」
月まさに三
「改まつて何事ぢや、御主人、今夜はもうむづかしいことを言はぬ筈ではなかつたか」
國府彌八郎は、兩手を宙に泳がせます。
「いや、この儘では、大井久我之助樣もお氣がお濟みになるまい。
「||」
「國府樣の御はからひで、一應は納まりましたが、納まり難いのは、大井樣と私の胸のうちでございます」
「何を申すのだ、御主人」
「私が町人でなく、二本差してゐる身分の者なら勝ち負けは兎も角として、一應は大井樣の御相手をいたすべきですが||」
「||」
大井久我之助は、眞つ蒼な顏を振り上げると、そつと一刀を引寄せます。
「町人の悲しさ、
「||」
「で、一つ、妙なことを思ひつきました」
「||」
落着き拂つた吾妻屋永左衞門の言葉に、妙な殺氣をカキ立てられて、大井久我之助も、國府彌八郎も、思はず
「もうよいではないか、御主人。酒だ、酒だ」
彌八郎はそれを停めようとあせりますが、主人永左衞門の強大な意志に壓倒されて、今となつてはもう、何んの力もありません。
「その酒で思ひつきました||私は商賣柄、ごく内密で長崎の異人から手に入れた、南蠻物の大毒藥」
「?」
「それを
「||」
主人永左衞門は、盆の上に並べた二本の徳利を、物々しくも座の眞ん中に据ゑたのです。
「私は藥種渡世の
「||」
「大井樣と私は、どうせ並び立たない二人でございます。この先又氣が變つて、暗がりから斬りかけられては、町人の私は防ぎやうはございません。そこで、二本の徳利のうち、どちらかを一本、先づ大井樣に選んで呑んで頂き、殘つたのを一本、私が呑むといたしたら如何なものでせう」
「それは卑怯」
大井久我之助は
「飛んでもない、||同じ形の徳利で、どちらに毒が入つてゐるか、それとも藥が入つてゐるか、この私にもわかり兼ねます。その上大井樣に先に選んで頂き、殘つたのを私の分ときめ、一緒に呑むとすれば、これほど立派な果し合ひはあるまいと存じます」
「||」
「武家と町人の刀を拔いての果し合ひよりは、この方がよつぽど公明正大ではございませんか||選ぶのは大井樣が先でも、呑むのは一緒といたしませう。さあ、大井樣」
「||」
「
「||」
「闇から飛び出して、町人に斬りつけるのと毒酒藥酒の果し合ひと、何方が卑怯か」
「||」
「||」
恐ろしい緊迫でした。
「あれツ、御新造樣」
隣りの部屋は、火のついた騷ぎでした。
「何うした、騷々しい」
吾妻屋永左衞門は僅かに身體を動かして振り返ります。
「御新造樣が、危ない、あれツ」
二人の藝子は内儀のお染に
「ならぬぞ、見苦しい」
永左衞門は思はず聲が高くなります。
「でも、わちきのためにお二方が||」
思はず里言葉の出るお染の
「男と男の意地だ||それとも夫の私が、もう一度泥の中に這はされ、虫のやうに殺されるのを見てゐるつもりか」
「||」
さう極めつけられると、お染は返す言葉もありません。短刀を取上げられて青い
「よし、呑むぞ、拙者はこれだ」
大井久我之助は
「待つた、二人一緒でなければ||」
國府彌八郎に注意されて、しばらく躊躇する隙に、殘る一本の徳利は主人の永左衞門が取上げたのです。
「では」
これも同じく盃に波々と注ぐと、盆を引いて、顏と顏が、一方は薄暗い行燈に照らされ、一方は月を隱した
「行くぞ」
口と口へ、盃は一緒に觸れたのです。
「親分、到頭大變なことになりましたぜ」
八五郎が、その報告を持つて來たのは、翌る日の朝でした。
「何が大變なんだ。||
「そんな氣のきいた話ぢやありませんよ。いつか話したでせう、薄墨
「間拔けな話さ、身請をされた女郎に未練を殘す二本差の顏を見てやりてえくらゐのものだ」
「ところが、もう見られませんよ」
「逃げたのか、身を隱したのか」
「死んだんです」
「何? 死んだ」
「藥種屋の若主人と、果し合ひの毒酒を呑んで||」
「果し合ひの毒酒?」
「吾妻屋が毒酒と藥酒を二本の徳利に入れて、何方でも好きな方を呑めと言つたさうで、暗討をしかけた弱い尻があるから、大井久我之助もこいつは斷われねえ」
「で、選つたのは運惡く毒酒で、浪人者が死んでしまつたといふ話だらう」
「その通りですよ。お染さんの薄墨華魁は、短刀まで持出して止めたさうですが、二人は意地になつて聽き入れなかつたんですつて」
「吾妻屋はそれで清々したといふのか」
「ところが大違ひで||」
「まさか華魁が後追ひ心中をしたわけぢやあるめえ」
「いえ、薄墨華魁はいゝあんべえに無事でしたが、藥酒を呑んだつもりの吾妻屋の若主人永左衞門も、七轉八倒の苦しみで、毒酒を呑んだ大井久我之助の直ぐ後から息を引取りましたよ」
「毒は兩方の徳利に入つてゐたのか」
「そんな筈はないといふんですが」
「行つて見よう、八。こいつは厄介なことになるかも知れない」
「へツ、さう來なくちや||お蔭で薄墨華魁の
「馬鹿だなア」
平次は大きく舌打をしながら、手早く支度を整へました。
八五郎のやうな
錢形平次は、吾妻屋永左衞門の女房お染||
消えも入るやうな、歎きの美女の、哀れ深くやるせない姿を見つめて、平次はさて何んと言ひ出したものか、暫らくは言葉もありません。
多い毛は襟のあたりで惜氣もなく切つて、紫の紐で結んであり、好みの青い
平次はこんな女に逢つたのは、生れて始めての經驗でした。それは單に美しいとか愛嬌があるとか言つた、通り一ぺんの
遊女崇拜を土臺にした江戸の文化は、大部分恥つ掻きな馬鹿々々しいもので、それは人類の歴史の中の、最も薄汚い
大門を入れば、極樂淨土||と當時の人は信じ切つてゐたのです。その極樂淨土に棲む三千の菩薩達、その中でも入山形に二つ星と言はれる、松の位の太夫は今日のミス何々と言つた、お手輕なものでなかつたこともうなづけるのです。
遊び嫌ひの錢形平次、遊里へ足を踏み入れるのを、||當時の道徳とは逆に、男の恥のやうに思つてゐた平次も、眼の前に近々と見た、歎きの太夫、薄墨のお染の、悲しんで
洗練に洗練を重ね、一點のしみも留めない女の清々しさ、恐らく、そのあらゆる分泌物が
「どうしませう、錢形の親分さん、私はもう」
頼る主人に死なれては、もとの浮き川竹||の遊女生活に
「お氣の毒なことで||毒酒の果し合ひなどは、いかにも魔の差しさうなことだが、間違ひが何處にあつたか、それは調べ拔かなきやなりませんよ、御新造」
平次は職業意識を取戻すと、昨夜事件の起つた部屋に案内して貰ひました。
月見のために用意された東向き二階の八疊で、六疊の次の間があり、さすがにあわてたものか、月見の用意なども昨夜のまゝ
「お膳はかう三つ、主人は此處で、お客樣お二人は此處でございました。銚子は引つ込めて、盆の上に徳利が二本、それが出た時は私も藝子達も、皆んな次の間へ追ひやられました」
内儀お染||
二本出した徳利、一本には毒、一本には靈藥が入つてゐる筈のが、二本とも毒であつたのでは、其處に種も仕掛けもある筈はなく、お染の説明がどんなに念入りでも、錢形平次の調べの役には立ちさうもありません。
「その最後の酒の席に、誰も入つて來た者はなかつたのかな」
「話も入る筈はございません」
「
「二人の藝子に任せました。私がゐましては、大井樣に當てつけがましいと存じまして」
「お
「お勝手に任せましたが」
お染の答へは何んの
「親分、五丁目の
八五郎がさう言つて來たのをきつかけに、平次はこの美しい女房の
「これは、錢形の親分。忙がしいところを氣の毒だが、少しお耳に入れて置きたいことがあつてな」
五丁目で賣込んだ本道の杏齋が、平次を迎へて大きな坊主頭を振り立てます。
「杏齋先生、お話と仰しやるのは」
「少々他聞を
眼顏で誘ひ合つて、二人は部屋の隅に、吹き寄せられたやうに顏を突き合せました。
「どんなことで?」
「昨夜、あの騷ぎに立ち合つた私が、醫者として甚だ
「?」
「外でもない、大井久我之助樣の命を奪つたのは、日本には類のない藥で、これは恐らく
「||」
「念のために、騷ぎに
「それは容易ならぬことですが、
「全く容易ならぬことだ、||これだけ申し上げたら、親分の調べに、何かの助けにならうと思つてな。いや、忙しいことぢや」
杏齋先生は、自分の言ふだけのことを言ふと、ろくな挨拶もせずに、サツサと歸つて行くのです。
「親分、妙なことになりましたね」
八五郎は、話したいことを一パイ溜めた調子で、庭から顏を出しました。
「何が妙なことなんだ」
「あんな良い女が、この世の中に生きてゐると思ふと、あつしはかう、張合ひのあるやうな、情けないやうな、死にたくなるやうな氣持になりますよ」
「それが妙なことかえ」
「外にもまだありますがね」
「どんなこと?」
「下女のお友が、徳利の酒を下水へ捨ててゐるから、私はあわてて止めましたよ。半分はもう捨てられてしまひましたが、まだ殘つてゐるでせう」
八五郎は懷中から白い
「もう一本あつたのか、毒酒の入つてゐた二本は、あの
平次は受取つて匂ひを嗅いで見ましたが、酒の匂ひの外には、何んの特色もありません。
「少し
「御免
そんな大平樂を言ふ八五郎です。
「良い心掛けだ。
「有難いことに、それが出來ないから百迄も生きますよ」
「無駄は止して、下女のお友は自分の勝手な量見でこの徳利の酒を捨ててゐたのか」
「訊きましたよ、うんと
「どんなことを」
「萬一、その徳利にも、毒が入つてゐると怖いから、早く捨てた方がよい、||つて、人に教へられたんださうで」
「誰がそんな智慧をつけたんだ」
「手代の佐太郎ですよ、||ちよいと良い男で、薄墨
「よし、その佐太郎といふのを搜してくれ」
「へエ、先刻までその邊にゐましたが」
八五郎は店の方へ飛んで行きましたが、その時はもう佐太郎は何處かへ出かけた後で、店にも姿を見せなかつたのです。
お勝手へ廻ると、乞食のやうな不氣味な男が一人、下女のお友と立話をしてをりましたが、平次と八五郎の姿を見ると、ひどく驚いた樣子で、横つ飛びに裏通りに姿を隱してしまひました。
「あれは何んだえ」
平次はぼんやり口を開けて立つてみる下女のお友に訊きました。
「虎||といふ男です。滿更の乞食ぢやありません。あれでも昔は傳馬町の
口の隅をたゞらした女も、なか/\
「あ、薄墨華魁に入れ揚げて、良い
八五郎は横から口を入れました。それは界隈に隱れもない噂の種で、若い者を
平次はチラリと見ただけですが、成程さう言へば、滿更の乞食ではないらしく、
「あの男はチヨイチヨイ此處へ來るのか」
平次は訊きました。
「毎日その邊へ來てウロウロしてゐますよ。御新造の顏を、一目でも見たいんでせう。あんなになつても、男つて本當に、身の程を知らないものですねエ」
この女も時折は、こんなひとかどのことを言ふのでした。
「ところで、手代の佐太郎は何處へ行つた」
「知りませんよ、私は」
「お前に徳利の酒を捨てろと言つたさうぢやないか」
「||萬一、その徳利にも毒が入つてゐると危ないからつて言ふんですもの」
「こんな徳利は外にないのか」
「もう一本ありますよ、四本二對になつてゐたんで」
「どれ」
お友が戸棚から出してくれた、四本目の徳利を嗅いで見ましたが、これは酒を入れた樣子もなく、中までカラカラに乾いてをります。
「昨夜のお
「佐太郎どんですよ。私は料理の方が忙しかつたんですもの」
「二階へ運んだのは、藝子達で」
「誰だえ、あれは?」
平次は不意に顏を擧げました。
「御新造さんの弟さんで、米吉さんですよ」
さう言つてゐるところへ、十七八の前髮立の美少年が、何心ない樣子で、チヨロチヨロとお勝手を出て來ました。
「ちよつと、米吉さんと言つたね」
「へエ」
「お前は御新造のお染さんの本當の弟か」
平次は突つ込んだことを訊きました。
「よく似てゐるさうですから、見て下さい」
米吉は微笑を浮べたまゝの顏を突き出すのです。邪念のない
「生れは?」
「上州||でも、
「昨夜は何處にゐたんだ」
「
「此處に客のあるのを承知でか」
「後で聞いたんです。姉さんは、私を子供扱ひにして、酒の席なんかには寄せつけませんよ」
「ところで、昨夜の藝子は何處から呼んだ。湯島か、芳町か、それとも||」
「仲町ですよ。少し遠いけれど、泊めてやりやよいと、御新造樣の知合ひの家の藝者衆で、何んでも巴家とか言ひましたが||」
お友の記憶は甚だ覺束ないものでした。
「どんな
「綺麗な藝子さん達でしたよ。一人は藝達者で、一人はそりやお人形のやうで」
お友は眼を細くします。
平次と八五郎は、そんなことで切上げて、本郷の通りへ出ました。
「親分、カラクリはわかりましたか」
八五郎はキナ臭い鼻をして見せます。
「いや、少しも見當はつかない。最初から二本の徳利に毒が入つてゐるなら、吾妻屋永左衞門は、大井久我之助と一緒に死ぬ氣でやつたことになるが、そんな馬鹿なことがある筈はない。矢つ張り最初は二本のうち一本には毒が入つてゐなかつたのだ。それを、何處で
平次もそれ以上のことはわからない樣子です。
「何處へ行くんで、親分」
「五丁目の
「成程ね」
二人は杏齋の門に立つたとき、杏齋先生は病家へ
「先生、三本目の徳利が見つかりましたよ。これに毒があるかないか、御手數でも調べて頂きたいんですが」
平次が駕籠を停めて、袖の中から白
「どれ/\匂ひはないな、味は||?」
と
「先生、毒が入つてゐちや危ないぢやありませんか」
平次の方が驚きました
「なアに、大丈夫、私は不死身だよ||これくらゐのことで命に
などと
「あつしのやうな無法者も、そいつは氣味が惡くて甞め兼ねましたよ」
それは八五郎でした。
「いや、甞めなくてよかつたよ。この酒には矢張り南蠻物の毒が入つてゐる。嘘だと思ふなら、少しやつて見るがよい、舌を絞るやうな、惡く苦いところがある」
杏齋先生は言ふだけのことを言ふと、駕籠を急がせて行つてしまひました。
「親分、驚きましたネ」
「驚くことはないよ、三本とも毒の入つてゐる方が、筋道がはつきりしてゐるんだ||今日はこのまゝ歸つて考へて見るとしよう」
平次はそのまゝ事件に
毒酒事件がそのまゝ迷宮入りになつて、錢形平次の叡智も一向
この邊で八五郎が、『大變』を持ち込んで來る段取りですが、今度は思ひも寄らぬ方面から、その『大變』が舞ひ込んで來たのです。
吾妻屋の手代佐太郎は、あの日から行方不明、主人永左衞門の
平次と八五郎が橋場へ行つてみると、丁度檢屍も濟んだばかり、吾妻屋から番頭の嘉七と、小僧の春松がやつて來て、死骸を引取つて行かうといふ眞際でした。
「錢形の親分さん、大變なことになりましたが」
重なる
「どれ/\」
「おや、ひどい傷だが」
死骸の後頭部のひどい傷は、石か何にかで
「山谷堀から流れて來たのかな」
八五郎でした。
「昨夜の
それはいづれにしても、昨夜のうちに水に投げ込まれたことは間違ひありません。
「懷中物は?」
「百も持つちやゐませんよ。拔かれたんですね」
番人は
「ところで番頭さん」
「へエ/\」
嘉七はあわてて振り返りました。ひどく
「昨夜吾妻屋から出た者はないのかな」
平次の問ひは當然でした。
「一人も出たものはございません。御新造樣は早くから、お休みになりましたし、米吉さんは二階へ、私と春松は戸締りを見廻つて、その下へ休みました。お友は出るわけも御座いません」
小僧の春松は、それを肯定するやうに默つて聽いてをります。
「ところで、もう一つ。あれから御新造の樣子はどうだ」
平次は突つ込んだことを訊ねました。
「見上げた方で御座います、朝晩念佛
「||」
「さう申しては何んですが、あれが君
嘉七の言葉は老實そのもので何んの誇張があらうとも思はれません。
やがて釣臺に載せた佐太郎の死骸は動き出しました。後ろへしよんぼりと從ふ嘉七と春松、少し離れて平次と八五郎も、途中までは一緒に行かなければなりません。
「變な殺しですね、||あの毒酒の果し合ひの續きでせうか」
「||」
「あつしは、あれはあれ、これはこれといふ氣がするんですが。佐太郎はフラフラと遊びに出て、吉原で居續けた揚句、一文なしになつて、歸るところを、辻強盜か何んかにやられたんぢやありませんか」
八五郎は一應の順序を立てますが、
「主人が變死した翌日、葬式も出してゐないのに、奉公人の佐太郎が吉原へ遊びに來たといふのか」
平次にさう言はれると一言もありません。
湯島の天神下にかゝると、
「あの晩中裁に入つた、
「直ぐ其處ですよ」
「ちよいと寄つて見よう」
平次は良いところに氣がつきました。國府彌八郎は小祿ながら聞えた御家人で、四十年配の分別盛りを、道樂と
「平次親分か、||よく來てくれた。まア/\寛ろいで、ゆつくり話して行つてくれ」
などと友達付き合ひで如才もありません。
「實は、あの晩||吾妻屋の毒酒の果し合ひの時の樣子を
平次は早速要件に入りました。
「良いとも、どんなことを話せばよいのだ」
「徳利はたしかに二本出たのでせうね||三本ではなく」
「その通りだ。その前の酒は
「その時席に三人の外に人はゐなかつたので?」
「ゐなかつたが||一人の若い藝子がアタフタと入つて來て、吾妻屋に||御新造樣が||と囁いた。吾妻屋は面倒臭さうに拂ひ退けて、邪魔だ、向うへ行つてゐろ||と叱つた」
「それは初耳でした」
「つまらないことだから、言はなかつたのだ」
國府彌八郎こともなげに言ふのです。
「その時、藝子は徳利を
「氣がつかなかつた。何分、たゞごとならぬ二人の意氣込みで、私も氣が張つてゐた。が二人の藝子が
「さうでせうか」
平次は何やら
「ところで、平次親分は、これをどう思ふ。吾妻屋は大井久我之助殿を殺して、最初から自分も死ぬ氣でやつた細工ではないのか」
「飛んでもない、||千兩箱を杉なりに積んで、あれだけの太夫を身受けした吾妻屋の主人が一年も經たないうちに死ぬ氣になるでせうか」
「成程な、諸行無常を感ずるのは、貧乏人か、振られ男に限るといふわけか、ハツハツハツハツ」
國府彌八郎は自分の警句に
無事な日は五日、七日と過ぎました。
大井久我之助と、吾妻屋永左衞門を、一ぺんに殺した毒酒の祕密もまだわからず、吾妻屋の手代佐太郎を、石で叩き殺した
「親分、今日は良い
などと、一とかどのことを言ひながら、子分の八五郎は幾日目かの顏を見せました。
「遊びに行くほどの小遣ひでもあるかえ、大層機嫌が良いやうだが」
平次は悠然として、
「御存じの通りで、金には縁がありませんよ。尤も女の子には持て過ぎて困るんだが」
さう言つて長んがい
「へエー、大層なことになるものだね、
「さう馬鹿にしたものぢやありませんよ」
「相手は何處のおん婆さんだえ」
「そんなイヤな
「吾妻屋の後家ぢやないのか、あれは止せよ八。下手なちよつかいを出すと、飛んだ恥を掻くぜ。第一お前にはお職過ぎて、お染八五郎ぢや
平次は少しムキになりました。吾妻屋の後家、
「その吾妻屋の後家が言ふんですよ『八五郎親分、濟みませんけれど、毎晩泊りに來て下さいませんか、淋しくて心細くて、私誰かにどうかされさう、氣味が惡くて叶はないんですもの、||親分はお一人ださうだから何處からも尻の來る氣づかひはないんでせう、後生だから』と、里
「よさないかよ、馬鹿々々しい。お前がそんな恰好をしたつて、少しも色つぽくなんかなりやしないよ、
「へエ、擽ぐつたいんですかねえ、あつしといふ人間は」
「お前と話をすると
「まるで蚤ですね」
「それほど思ひ込まれたら、八五郎も男
「行つてもいゝんですか、親分」
「用心棒に泊る分には構はねえが、吾妻屋へ婿入りしようなんて量見は出すな」
「お職過ぎますかね、あの後家は? 高慢で無愛想で、ヒヤリとしたところがある癖に、何んかの
でも八五郎はイソイソと飛んで行きました。江戸一番のフエミニストの八五郎が、首尾よく用心棒の役目を果して、平次が期待する、吾妻屋の祕密を探つて來るでせうか、甚だ覺束ないことです。
三日經たないうちに、八五郎はもう最初の報告を持つて來ました。
「親分、あの家は變な家ですね」
その酢つぱさうな顏を見ると、勇敢なる騎士が戀の成功を納めたとは受取れません。
「まさかあの後家に手ひどく
「大丈夫ですよ、まだ亭主の三十五日も濟まないうちから私がそんなことをするものですか」
「大層義理堅い人だね」
「第一あの女は、あつしが側にゐると、一日一と晩經つても白い齒も見せませんよ。妙にかうヒヤリとして」
「お前といふものに用心してゐるのさ」
「そんな筈はねえと思ふんだが||」
八五郎の甘さ。
「ところで、變なことといふのは何んだ」
「みんな變ですよ。主人の死んだのを良いことにして、番頭の嘉七はセツセと取込んでゐる樣子だし、下女のお友はつまみ食ひばかりしてゐるし、後家のお染は取濟して冷んやりとしてゐるし、弟の米吉は、姉の部屋へばかり入り込んで、こちとらには
「綺麗な男だつたな」
「さすがは姉の弟で、芝居の色子にも、あんな綺麗な男の子は滅多にありませんね、小柄で。
「それつきりか」
「まだありますよ。橋場で殺された佐太郎は、勿體なくも主人の
「不都合な話ぢやないか」
「尤も、薄墨
「フーム」
遊女制度の不都合さで、金さへ出せば、誰でも客になれたことが、この
「主人が生きてゐるうちは愼んでゐた樣ですが、主人が殺されると忽ち羽をのばして、三日經たないうちから、主人の後家に
「その佐太郎が殺された晩、吾妻屋の家の者は、一人も外へ出なかつた筈だな」
「
「外に變つたことは?」
「何んにもありませんね。尤も、あの下女のお友といふのは出戻りださうで、世帶の苦勞も
「||」
「佐太郎が
「それから?」
「それつきりですよ。あ、さう/\、伊豆屋の虎松、相變らず乞食からお
「||」
「虎松は
八五郎の報告はざつとこんなものでした。
それから又四五日經ちました。吾妻屋の主人永左衞門の二た七日が濟んで、月も九月に改まつて間もなく、八五郎は二度目の報告を持つて飛んで來ました。まだ朝のうちです。
「何んだ、八」
「大變なんですよ、親分」
八五郎は格子に
「何がどうしたんだ」
「四人目がやられましたよ」
「四人目?」
「伊豆屋の虎松が、吾妻屋の裏木戸の前で喉笛を切られて血だらけになつて死んでゐますよ」
「よし、手を
平次は手早く支度をすると十手を腰に、ポンと飛び出します。
「あれ、まだ御飯が||」
うろ/\するお靜へ、
「すぐ
本郷三丁目はさして遠い道ではなく、簡單に
物をも言はずに、吾妻屋の裏通りへ駈けつけた平次、木戸の前に、引取手もなく
「親分、飛んだ早い足ですね」
八五郎はフウフウ言ひながら追ひつくのが精一杯。
「味噌汁の冷えねえうちに、下手人を縛る氣で飛んで來たよ||おや、これはひどい」
平次は死骸を見張つてゐる町役人や、番太の老爺に挨拶して、早速
顏立ちもよく整つて、恰幅も見事ですが、戀に狂ふ型の人間によくある、やゝ
着てゐるものは、昔の榮華を
傷は右首筋、
「刄物は、すぐ足の下の下水に投り込んでありました、||こいつは自害ぢやありませんか」
「いや、これだけ切ると自分の手が汚れる筈だ」
「少しは血がついてゐますよ」
「自分でやつたのなら、そんなこつちやあるめえ。それに右手を使つて、かうは自分の喉を切れるもんぢやないよ、||虎松は左利きなら話は別だが」
「もう一つ、
「こじりは何方を向いてゐた」
「外を向いてゐましたよ」
「落付いたやうでも、下手人はあわててゐる證據だ。こじりを外へ向けて自分の懷ろへ匕首の鞘を突つ込む奴があるものか、それに、自分でやつたものなら鞘を自分の懷ろへしまひ込まずに、反つて捨てるのが本當だらうよ||多分後ろから行つて、聲をかけて油斷をさせながら、刺したものだらう、虎松と親しい人間の
平次の觀察はさすがに行屆きました。
「錢形の親分」
年配の町役人が平次に聲をかけます。
「何んです、佐野屋さん」
「吾妻屋の内儀さんが、この死骸を引取つて
事情をよく知つてゐるらしい町役人はひどく
「奇特なことぢやありませんか。お望み通りにしてやつたら、死んだ伊豆屋の虎松さんも、どんなに喜ぶことでせう」
平次は簡單に賛成しました。吾妻屋の主人が死んで、まだ三七日にもならないのに、生前の戀敵とも言ふべき虎松の死骸を、後家のお染が引取るのは、一應出過ぎたことのやうにも見られますが、裏木戸の外に死骸を
「錢形の親分さん、さぞ、差出がましい女とさげずみなさんしたでせうね」
死骸は御勝手の隣りの薄暗い部屋に移され、形ばかりの香花は供へられました。
平次と八五郎も、ツイ手傳つてやる氣になつて、何んとなく動いてゐると、やゝ一段落になつた頃、後家のお染が沈んだ顏を、そつと廊下から覗かせたのです。
「いや、飛んだ
平次は心からさう言つた調子です。死んだ者には、何んのとがもあるべき筈はないのです。
「さう聞いて安心いたしました。昔の恥になりますけれど、私のためには隨分苦勞をなすつた虎さんですもの、死んでしまへば、憎からう筈はありません」
靜かに部屋の中に入つて來たお染は、黒つぽい
「ところで御新造||いや今では
平次は場所柄を無視してかう訊ねました。
「一人もなかつた筈でございます。嘉七どんと、お友に訊いて下さい」
「||」
「私は奧の部屋へ一人で休んでをりますし、弟の米吉はたつた一人で二階へ、その
お染は
「念のため、家の中を見せて貰ひます」
「どうぞ、御自由に」
お染は少しツンとして、自分の部屋へ引取りました。錢形平次の
平次は番頭の嘉七に案内させて、ざつと家中を調べて見ました。二階への梯子段は一つで、その上に休んでゐる米吉は、梯子段の下の六疊に休んでゐる嘉七と春松に知られずに、夜中便所へも起きられないことは確かでした。
内儀のお染の部屋は、階下の一番奧の六疊で、一應どの部屋とも掛け離れてをりますが、平次はその部屋の外に、無用な梯子が掛けつ放しであり、それを登つて、
「八、あの庇から向うの窓に行けるだらうか」
平次に聲をかけられると、梯子から庇を渡つて米吉の部屋の前まで行つて、變な顏をして戻つて來た八五郎は、
「庇の上は鎌倉街道だ。散々
と、思ひも寄らぬ報告です。
「よし/\、それで大方わかつたよ。お前は下女のお友と仲よしになつたやうだから、精一杯口説いて見てくれ、
「親分は?」
「俺は吉原へ行つてくる、||變な顏をするな、遊びに行くんぢやねえ、
「承知しました、それぢや」
「待つてくれ、もう一つ頼みがある」
「何んです、親分」
「お前も氣がついてゐるだらうが、内儀の弟の米吉が男にしちやあんまり綺麗だ、どうかするとありや女ぢやないのかな||聲は太いが、音曲で
「それならもう濟みましたよ」
「何が?」
「あつしも、あの野郎がどうも女のやうな氣がして仕樣がないんで||親分に叱られさうですが、到頭やりましたよ」
「何を?」
「いきなり尻を捲つたんで、へツ」
「ひどいことをするな、お前は」
「男姿だから、ふざけた振りをしてやりや何んでもありませんよ。女なら尻を
「
「安心して下さい、ありや確かに男ですよ。
八五郎の説明は途方もないものでしたが、この
平次は先づ吉原の
「あのお月見の晩、もとの
と、いふ思ひも寄らぬ挨拶です。
そのお袖といふお酌に逢つて見ると、十五六のなか/\才氣走つた娘で、
「向うへ行つて見ると、私より二つ三つ年上らしい、もう一人のお酌がをりました。柳橋から來たといふことで、自分でたよりといふ名だと言つてをりました。唄はいけませんでしたが、踊りは一と通りで、何より、それは/\綺麗な人でした」
そんなことを話すのです。その晩吾妻屋の主人は大井といふ浪人者の爭ひが始まつてから、二人のお酌は
「あんな怖い思ひをしたことはありません||でもたよりさんは何時の間にやら歸つてしまつて、私一人、翌る日の朝まで下女のお友さんの部屋にもぐり込んで
お酌のお袖は、かう言ふのでした。
「外に氣のついたことはないのか」
平次はもう一と押し押しました。
「あの騷ぎの中でたよりさんが
「何? それは本當か、大事なことだが」
「でも、そのまゝ持つて戻りました、||間違ひはありません。變なことだと思つて、よく覺えてをります」
「有難う、それでわかつた」
平次は巴屋を飛び出すと、
「米吉のことですか、||あの子は
女房の話は平次を驚かすに十分でした。どうして此處へ氣がつかなかつたのか、毒酒と藥酒の
「月見の晩、此處へ泊らなかつたのか」
「泊りやしません。宵に一寸姿を見せて預けてある荷物を持つて行きましたが||」
それで充分でした。引揚げて神田明神下の自分の家へ歸ると、八五郎はもう鼻の下を長くして待つてをります。
「親分、大變なことを聽きましたよ。昨夜、あの取りすました後家
「乞食のやうな虎松を引入れて、大變な
「その通りですよ。下女のお友が一から十まで、
「金のためには、國守大名にも乞食にも、平氣で身を賣つた女だ。虎松に
平次は早くもそれを見通したのか、さして驚く色もありません。
「それから、虎松の巣はわかりました。

「その手拭に石を包んで佐太郎を
「すると」
「もうよい、行かう八、三丁目の吾妻屋だ。お前は下つ引をつれて行つて裏表の出入口を張つてゐるんだ。俺は中へ入つて少し搜すものがある」
平次は吾妻屋へ着くと、番頭の變な顏をするのを案内させて、いきなり二階の米吉の部屋へ行きましたが、押入の中の
「この振袖は、月見の晩、年を取つてた方のお
「へエ、そのやうで」
平次は合圖する間もありませんでした。裏口へ飛び出した後家のお染は、下つ引のマゴマゴする手の下を掻いくゞつて逃げてしまひ、表へ飛び出した美少年の米吉は、八五郎の手に、骨を折らせながらも繩を打たれてしまつたのです。
× × ×
一件落着後、平次は八五郎のためにかう説明してやつたのです。
「米吉は坊主
「へエ? 恐しい女ですね」
「尤もあの月見の晩は、吾妻屋の方にも
「||」
「物事はさう都合よくは行かない。お染と米吉は相談をして、主人の永左衞門が飮む筈の、三本目の藥酒の入つた徳利に、
「ひどいことをしますね」
「ひどいのはそれからだ。それを嗅ぎつけて、お染へしつこく
「||」
八五郎も默つてしまひました、あまりのことに、口をきく張合ひもなくなつたのです。
「何千人の男と掛り合つた女||の中には
「へツ、乞食と
八五郎は平次の教訓より、この