こころまゝなる人間は、いつでも海が好きなもの!
これは、ボオドレエルの「人と海」といふ詩の、第一行である。海と聞くたびに、海を見るたびに、この歌を思ひ出すから、以下私は此の詩を辿り乍ら、「海の詩」といふ課題を果さう。然し何も、此の詩を解説しようといふのではない。此の詩を辿り乍ら、この稿を書いてゐる今、色々と心に浮ぶことを、何の反省をも加へずに、唯々書誌してみたいと思ふ。
第一行を読んで、先づ見えて来るのは水平線である。とまれ渚よりも、沖の方が想ひ出される。然しこれを歌つてゐるのがボオドレエルだと思ふと、船の沢山ゐる港、それも余り大きくない港が見えて来たりする。どういふわけだか知らぬ。同じく海の出て来るボオドレエルの詩だつて、「信天翁」だと、広々として一物も見えぬ、秋も終りの海が見えて来る。
それはさて、今よりも、子供の時分の方が、よつぽど海は好きだつたやうだから、してみると今よりも、あの頃の方が「こころまゝ」だつたのだらうか?
つまらないことを思つてみたりするものだとは思ひ乍らも、なんだかこれはドキンと来る。
第二行、第三行。海はなが身の鏡にて、はてなき浪の
海は汝が身の鏡にて、と云はれるとなんだか罪でも犯した気持になる。それかあらぬか、猫の瞳孔が
はてなき浪の蕩揺に、汝はなが魂打眺む······「なーるほど···」と思ふのは、恐らくボオドレエルが私自身より意識的であることに気が付くからである。長の年月、海を見るたびに、おぼろに感じてゐたことが、急に明るみに出た感じ。
第四行。さてなが魂もいやにがき、深淵ぞ
さうに違ひない、海を見てると溜息が出る。然し茲でもボオドレエルは、意識的だ。
扨、魂はにがい深淵だぞといふやうなことを我々日本人が云ふと、一寸そぐはない感じがしよう。なんだかこれは、ロマンチシズム開花する国で云ふにふさはしいことのやうだ。さういふと、外国人はたゞもう楽天的で、我々は唯もう渋い一天張りの国民のやうな気もするが、そんなことは、一朝にして決められることではない。
第五、第六、第七、第八行。なれは喜ぶなが影の、すがたの海に跳び入りて、眼に腕にかい抱き、それな固有のざはめきに、なれがこゝろはなごむなり、抑へがたなきはた荒き、浪の歎きのかの響き
もはや眺めてはゐられなくなつた、跳び込んで、眼に腕にかい抱き、それな固有のざわめきに、なれがこころはなごむのだ。抑へがたなきはた荒き、浪の歎きのかの響き。浪のうねりと白歯が見える。
第九、十、十一、十二行。
茲で漸く海はその深い感じを、寧ろ肉感的にさへ感じさせる。第一、二、三、四行に於ても、第五、六、七、八行に於ても、海は猶深さよりも広さを感じさせたが、茲に於て海は深く、ふてぶてしくも狂暴である。
第十三、十四、十五、十六行。さあれ日は過ぎ月は逝き、なれ等血もなく涙なく、よくぞ鬩めげる数千年、さても殺生はての死の、よくぞ好きなる、おゝ永遠の闘争よ、おゝ恩怨の
海は深く暗かつた。秘密を握つて放さなかつた。然しその海の上にも星変り、月変つて、||と茲で、私の目は漸く海を去つて、なんだか海と空との中間の奥といつた感じの方角に、過ぎ逝ける諸世紀が、黒光りする中世の武具の色をして、堵をなして潜んでゐるやうに感じられる。
さても殺生はての死の、よくぞ好きなる。思へばさうだ、インテリでさへ、勝たう勝たうの流行ぢやないか。おゝ、恩怨の
||一九三六、八、二||