辻野君とは会で五六回、会の流れで二回会つたばかりであるから余り深いつきあひであつたわけではない。からだの弱さうな人だと思つてゐた。からだの弱さうな、気の弱さうな人であるけれども、あれで却々野心家だとも思つてゐた。彼の出した本にどんな本があるかも知らないが、リヴィエールのランボオ論とモオリヤックのイエス伝||結局彼の死の前年に出した此の二つの翻訳書だけが私の頭に残つてゐる。
正直に云つて、だから辻野君の印象は私の中で、結局稀薄なものであつたのだが、今度訃報が来た時には、ハツと思つた。訃報を受取ることも、さう珍しいことでもないが、同年配の人の訃報を受取ることはまことに珍しい。多分三十才前後といふ頃に、人は余り死なないものなのであらう。
私の習慣として、手紙は読んで了へば、大概棄てるし、殊に訃報は直ちに破くのであるが、此度も私は読み終るや破かうとしたが、ハツと思つて思ひとゞまり、薄墨色のインクで印刷された端書をもう一度マジ/\と見直した。
葬儀は郷里兵庫県で行ふとあり、息を引取つたのは、東京に於てだとあつた。では彼は、急に悪くなつたのであらうか? それとももう可なり前から汽車にも乗せられぬ状態にあつたのであらうか? それとも東京で養生してゐるうちには、そのうち癒るつもりであつたのだらうか?
扨、最期には、何を云つただらう?
それからそれへと、私は想ひを馳せた。
冥福を祈つて此の稿を終る。
(一九三七・九・二三)