信州の子供達や大人が首をながくして待つてゐた春は、永い間待つただけの甲斐があつて、これは又なんと美しい時でせう。
信州では、梅、桃、桜、
梅の花と言へば、暖かいところでは、二月の半ばにはもう咲くものです。それがどうでせう。この山国では、四月になつて、やつと咲くのです。その梅の花がそろ/\散るころになると、もうあの田舎びた杏の花のさかりです。桜の花は四月の末から、五月の初にかけて、その花をひらきます。
信州でも、この善光寺平はとりわけ果物の多いところです。
果物の木と言へば、どんなものがあるでせう。桃、梨、林檎、柿、杏、李、それに
杏の木は、そのいかにも田舎らしい花の色から言つても、一番この地方と似合つてゐるやうに思はれます。さうして、又実際に、この杏の木は昔から善光寺平にたくさんあつたのです。善光寺平には
「善光寺様の鐘の音のきこえる処には、どこに行つても杏の木がありますよ」と。これはその老人達が勝手に考へ出したり、こさへたりした言葉ではありません。きつとこの老人達が、まだあなた方位の小さい時分に、お父さんやお母さんからきかされた言葉なのでせう。さうして、そのお父さんやお母さんも、又きつとおぢいさんやおばあさんから、長い冬の晩に、炬燵の中で、話してもらつたものに違ひないのです。
かう言ふものは、すべて
ところで、伝説には間違ひはありません。今でも、この信州の大きな寺の古い鐘の音がひびくところには、もつとも美しい杏の木の名所があるのですよ。それは
「そろ/\安茂里のお観音様のお祭になる」
こんな事を話しあふのは、子供にも、大人にも、たいへん楽しみなもので、春が来たお告げの一つにもなるわけです。
昔お薬をつくつたこの杏の実からは、今ではお美味いジヤムも出来るのです。みなさんには朝の食卓で、杏のジヤムをパンにつけてたべるやうな事もありませう。そんな時には、どうか、このお話をおぼえてゐて下さつて、この杏の木の美しい在所を一寸思ひ出してやつて下さい。
果物と言へば、秋に実る果物の王様はなんと言つても林檎でせうね、この林檎の木と言ふものは、平坦な土地ではうまくそだたないものなのです。大抵は山地の一日陽のあたるやうな処をえらんで植ゑられてゐます。善光寺の町のまはりの山々には、いくつもこの林檎の畑があるのです。林檎の花の咲くのは五月頃です。さうして五月と言へば、桃の花も、梨の花もさかりです。
林檎の果実には種類がいくつかあつて、早いものになると七月の声をきくと、もう町の店屋に並べられるやうなのがあります。そんなのには青い色をしたのが多いです。やがて秋も深くなつてゆくと、たいへん美しい紅色の紅玉とよばれるのがあらはれ、それにつづいて、表に赤いかすりのある国光と言ふ林檎も出来るのです。紅玉、国光には、ほんとうにおいしい林檎の味があるのです。あなた方の中には、お皿に盛つてある林檎は知つてゐても、木に実つてゐる林檎は知らない方も有りませう。林檎畑の秋はほんとに美しいものですよ、よく晴れた空のもとにまるでその一つびとつが絵に描いたやうですよ。紙の袋をかむつた林檎の姿も
私の知つてゐる娘さんが、こんな事を話しました。
「私達の幼い時分には、家のすぐ裏が林檎畑になつてゐましたので、たべたくなると、いつでも木の下に行つて、ちぎつてはたべたものです。木からとりたての林檎の味は、それは/\おいしうございますよ。私のからだの健康は、きつと、子供の頃によくたべた林檎のおかげだと思ひます」
私はたいへん面白いことだと思つてきいてゐました。さうして、実際、その娘さんの顔を見ると、頬のあたりなど、まるであの紅玉のやうな美しい色をしてゐました。
桜桃と言つて、恰度山桜のやうな花の咲くのがさくらんばうの実る木です。さくらんばうの木は、葉が出てから、花が咲きます。
この桜桃は、林檎畑の中に、林檎の木と木の間にはさまつて、植ゑられてゐることがよくあります。
町中の古い家の庭などにも、よくこの桜桃の木があります。桜桃にかぎらず、杏や李やその他の果物の木が、お庭の中にあると言ふことは、どんなに楽しいものでせう。
田舎には、昔も今も、都会のやうに、いろんなおいしいお菓子はありません。それですから、子供達のお菓子の代りをつとめるのがこれらの果物なのです。甘い砂糖の味よりも、この一つびとつの果物の自然の味の方がどの位、からだに役立つか知れません。
五月の美しい晴れた日に、私は裾花川のほとりから、
歩きながら、ふと感じたのは、私のまはり近くまで漂つてくる花の匂ひでした。それは決して強いものではありませんが、なんとなく気持を爽やかにしてくれました。気がついて立ちどまると、ある家の庭に、花を一杯咲かせた果物の木が立つてゐました。その下で、十くらゐの男の児と、七つくらゐの女の児が||きつと兄弟であつたのでせう。何かしきりにお話をしながら、仲よく遊んでゐました。木の葉の影が、子供達の顔にも、そのまはりにも一杯落ちてゐましたが、二人とも見るからに、いき/\としてゐました。
幸福といふものは、きつとこんな子供達が一番よく知つてゐるだらう、何故か私にはそんな気持がしたのでした。
果物のお話をしたついでに、もう一つこんな事をつけ加へておきませう。
善光寺平には、又
私はこのおぢいさんを、たいへん正直な人だと思ひました。さうして、おぢいさんに頼んで、一瓶わけてもらつたのでした。
栗の花の匂ひが好きなわけでもありませんが、栗の木の在所で出来た蜂蜜には、ちやんとその匂ひがついてゐると言ふ事が、何となく愉快に思はれたからです。