||彌生式土器の貝塚?
||特種の遺跡
||新に又貝塚
||樽貝塚
||疑問の貝塚
|| 望蜀生が
採集から
歸つて
來た。それは三十六
年十一
月三十
日の
夕方。
何が
有つたか。
這んなのが
有りましたと
出して
見せるのは、
彌生式土器の
上部(第五圖參照)と
破片澤山及び
木の
葉底である。
別に
貝塚土器の
網代底一
箇。

『これは
君、
彌生式ぢやアないか』
『なる
程※
[#感嘆符三つ、47-9]』
破片をツギ
合せて
見ると、
徳利形の
彌生式土器。とは
知らずに
望蜀生は
貝塚土器と
信じて
掘つて
來たのである。
場所は
何處だと
聞くと、
神奈川縣、
橘樹郡、
北加瀬村の
貝塚。
貝塚から
彌生式が
出る。
其分量[#ルビの「そつぶんりやう」はママ]は
普通の
貝塚土器よりも、ずんと
多量。
貝塚に
彌生式が
混じたと
言はうよりも、
彌生式土器の
出る
貝塚に、
他の
土器が
混じたと
言ひたい
位の
分量である。
いよ/\
大問題。
早速、
水谷氏の
處へ
報告すると、
氏は
大いに
喜んで、
早速十二
月に
入つて、
望蜀生と
共に
加瀬に
行つた。
發掘の
結果、
依然として
多量の
彌生式土器破片、
及び
同徳利形の
上半部を(
水谷氏、二
箇。
望蜀生、三
箇)
掘出した。
それが
貝層の四五
尺下からである。
曾て
攪亂せる
痕跡の
無い
貝層中からである。
水谷氏も、
余等も、
彌生式に
就ては、
意見を
發表せず、
又別に
有して
居らなかつた
時代である。
この
大問題たる
彌生式に
關してであるので、
注意の
上にも
注意を
加へて、
其土器の
出る
状態を
見た
結果、
彌生式貝塚として
發表するに
足る、
特種の
遺跡といふ
事を
確認した。
それからいよ/\
問題が
大きく
擴がつて、
大學人類學教室で『
彌生式研究會』が
開かれ、
其結果として、
加瀬探檢の
遠足會が
催された。
此遠足會位ゐ、
不得要領の
甚だしいのは
無かつた。
銘々勝手に
分つた々々と
自分の
議論に
都合の
好い
方にのみ
眼を
配つて、
毫も
學術的研究は
行はれず、一
方は
後から
彌生式が
混入したと
云ひ、一
方は、
否、
然らずと
云ひ。
水掛論で
終つて
了つた。
其後、三十九
年七
月に、マンロー
氏を
八木氏が
引張つて
行つて、
大發掘を
試みた。
其報告の一
部は
人類學會雜誌に
出て
居るが、
其研究の
要點は
新古二
時代の
貝塚が
合して
居る。
下部の
貝塚が、
普通ので、
其上に
彌生式の
貝塚が
重なつて
居るとか、たしかそんな
事であつた。
今雜誌が
手元に
無いので
委しくは
記されぬ。
其以後、
誰も
手を
附けぬ。
漸く
余が
此前を
素通りする
位であつたが、四十
年五
月十二
日に、
余は、
織田、
高木、
松見三
子と
表面採集に
此邊へ
來た。
其時に(
地底探檢記一五七
頁參照)
貝灰の
原料とすべく
土方が
大發掘をして
居たのを
初めて
知り、それから六
月十四
日に
又一
度行つて
見たが、
兩度とも
實に
大失望であつた。
それは、二十
坪ばかりの
貝殼を、
殘らず
綺麗に
取出して、
他の
藪の
方に
運び、
其所で
綺麗に、
貝は
貝、
石は
石、
土は
土と、
篩で
分けてあるに
拘らず、
石器も、
土器も、
獸骨も、
何も
出て
居らね
[#「居らね」はママ]。(
貝塚土器の
破片が、
僅かに二三
片見出されたが、
貝の
分量から
比較して
見ると、
何億萬分の
一といふ
位しかに
當らぬ)
それから
殘りの
斷面貝層(一
丈餘)三
方を
隈なく
見廻つたが、
何處に一
片の
土器破片、
其他を
見出さなかつた。
彌生式もなければ、
普通の
貝塚土器も
見出さぬ。
爪から
先きの
破片も、
見出さぬ。
唯、一
箇所、
丈餘の
貝層の
下部から一二
尺の
處に、
小石で
爐の
如く
圍つた
中で、
焚火をしたらしい
形跡の
個所が、
半分切くづされて
露出して
居るのを
見出した。
炭、
燒灰等が、
小石で
圍まれた一
小部分に
滿ちて
居るのを
見出しただけである。
言を
奇にして
言へば、
此貝塚は
彌生式のでも
無い、
石器時代のでも
無い、一
種特別の
貝塚に、
彌生式も
混入した。
他の
土器も
混入したと
||まア
言ひたい
位ゐ
[#「位ゐ」はママ]、
何んにも
出ぬ。
もし、
何か
出たなら、
通知して
呉れ。
然うすれば
酒手を
出すからと
土方連に
依頼して、
余は
此所を
去つた。
七
月十八
日に
土方からハガキが
來て、
土器が
出たから、
加瀬村の
菱沼鐵五郎の
宅まで
來いとある。
十九
日、
雨中を、
余は
行つて
見て、
驚いた。
今までの
貝塚發掘は
臺地東部の
坂の
上部左側であつたが、
臺地南側の
下部、
菱沼鐵五郎宅地前の
畑を、
大發掘してある。一
反以上貝を
掘り
取つて
運び
出してある。
其跡からは
清水が
湧出して、
直ちに
田に
入る
程低くなつて
居る。
此所に
貝塚があらうとは、
今日まで
知らなかつた。それを
又大發掘[#ルビの「だつはつくつ」はママ]して
居やうとは
知らなかつた。
隈なく
其、
大々發掘跡の、一
反ばかりある
處を
歩いて
見れば、
爪の
先きほどの
破片をも
見出さぬ。
奇怪々々※
[#感嘆符三つ、52-11] と
云つて、それが
第三
紀層に
屬する
舊貝塚(といふも
變だが)とも
思はれぬ。
何故ならば、
灰を
混じて、
細密に
碎かれたる
貝殼が、
貝層中に一
線を
畫して、
又層を
成して
居るからである。
迷宮に
入つた
感なき
能はずである。
如何に
不有望の
貝塚だとて、これだけの
大部分を
發掘して、
小破片一
箇出ぬといふ、そんなのは
未だ
曾て
無い。
此新發見の
奇怪なる
貝塚と、
前の
奇怪なる
貝塚と、
山上、
山下、
直徑としたら、いくらも
離れて
居らぬ。三四十
間より
遠くは
有るまいが、しかし、
山上と
山下、
貝層の
連絡の
無い
事は、
明かである。
疑問の
上に
疑問が
重なつたのである。
兎も
角も
土方を
菱沼の
宅に
訪ねて、
其出たといふ
土器を
見ると、
完全なる
徳利形の、
立派なる
彌生式である。それに
又カワラケの
燈明皿(
燈心の
爲に一
部の
黒く
焦げたる)と、
高抔[#「高抔」はママ]の一
部とである。
以上三
點は
坂の
上の
貝塚から
出たといふのである。
徳利形のは、
水谷氏も
同形を三
箇、
我が
望生も
前後四
箇を
出して
居る。それと
同形式であるから、
疑う
事はないが、
他の二
箇は、
如何も
怪しい。
土方の
説明は
點頭し
得られぬのであつた。
次ぎに
余は、
宅前の
新なる
貝塚から、
何か
出ぬかと
問うたが、
土方は
首を
振つて、
出たらば
破片でも
取つて
置けツてお
前さんが
言つたので、
隨分氣はつけたが、
何も
無かツたといふ。
酒手を
得る
爲には、
疑うべき
土器さへ
他から
持つて
來さうな
人達である。
破片でも
報酬は
與へると
云つたのに、
出た
破片を、
彼等が
隱くす
必用は
無いのだから、
全く
菱沼宅前からは、
何も
出なかつたのであらう。
疑問いよ/\
疑問※
[#感嘆符三つ、54-7] これに
就て
余は
思ひ
出さざるを
得ないのである。
鶴見臺の
各所に、
地名表には
遺跡として
記入あるが、
實際に
於て、
破片一箇見出さぬ
貝塚が
少くない。(
大發掘はせぬが)
電車が
神奈川に
初めて
通じた
時に、
其沿道低地に、
貝塚を
發見したといふ
人の
説を
聞き、
實地に
就てチヨイ/\
發掘して
見て、
破片の
香もせなんだ
例を
考へ、
又橘樹郡樽の
貝塚は、
可成り
大きいけれど、
僅かに一
小破片を
見出したのみといふ
八木水谷[#ルビの「みづたに」は底本では「みづたみ」]二
氏の
談話など
考へて、
余はおぼろ
氣ながら。
第三
紀層に
屬する
貝塚。
石器時代の
貝塚。
此二
貝塚の
他に、一
種の
貝塚が
有る
樣に
考へられて
來た。
無論直覺的である。
理論を
立てるには
未だ
材料が
少數であるが。
それで
先づ
樽の
貝塚が
探檢したくなつたので、四十一
年六
月四
日、
樽に
行つて
見た。
然るに
今は
全滅して、
僅かに
畠に
貝殼が
點々浮いて
居る
位ゐで、
迚も
層を
見る
事は
出來ぬ。
皆道路に
引出したらしい。
地主の
主婦に
就て
聞いて
見ると、
徳利のやうな
物が
出た
事が
有つたといふ。
徳利式の
貝塚土器は、
東北に
多くして、
關東には
甚だ
少ない。
||出ない
事はないが、
先づ
出たとしたら
異例と
云つても
好い。
實物を
見ぬから、
勿論斷定は
出來ぬが、
樽の
徳利といふのは、
加瀬の
彌生式のと
同形同類ではなかつたらうか。
同形とすれば
加瀬と
同じく
樽の
貝塚も、
特種の
物ではなかつたらうか。
八木水谷氏等が
見出したといふ
小破片は
今日ほど
研究されて
居らぬ
其時代の
眼で
見て、
普通貝塚のと
見過したのではあるまいか。それが
彌生式の
破片ではなかつたらうか。
現にである、
最初に
加瀬から
望生が
破片を
持つて
來た
時も、
彌生式とは
思はなかつた
位ゐであるから、
小破片を
一寸拾つた、
其時に
於て、
普通のと
思はれたのではあるまいかといふ
疑ひを、
今日に
於て
生じたからとて、
其當時の二
氏の
鑑識に
就て、
侮辱する
事には
决して
當るまいと
余は
信じて
居る。
樽の
例は
想像に
過ぎるので、
加瀬貝塚の
疑問をして、一
層強からしめる
論證とするには
足らぬけれども、一
應參考とするには
充分だらうと
余は
思うのである。
未だ
此他に、四十一
年の十
月、七八九三ヶ
日、お
穴樣探檢に
駒岡にと
通つた、
其時に、
道路に
貝殼を
敷くのを
見て、
何處の
貝塚から
持出したのかと
疑つて
居た。
最後の
日に、
偶然にも、それは
鶴見驛から
線路を
起して
[#「起して」はママ]、
少許行つた
畑中の、
紺屋の
横手の
畑中から
掘出しつゝあるのを
見出した。
普通貝塚などの
有るべき
個所ではない、
極めて
低地だ。
層は
淺いが、びツしりと
詰つて
居て、それで
土器類も
何も
見出さぬ。
いよ/\
疑はしい。
如何しても、
特種の
貝塚が
有るらしく
思はれてならぬ。それが
彌生式に
直ちに
結合されるか
否かは、
未だ
斷言する
能はずだが、
特種の
貝塚が
有ると
認められた
上は、それが
彌生式土器に
多く
關係を
有して
居るとまでは
言へるのである。
これから
如何研究が
進むだらうか。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- [#···]は、入力者による注を表す記号です。
- この作品には、JIS X 0213にない、以下の文字が用いられています。(数字は、底本中の出現「ページ-行」数。)これらの文字は本文内では「※[#···]」の形で示しました。