私が入学した頃の卒業生はビリコケでも羽が生えて飛んだ。多少成績が好いと引っ張り凧の形だった。首席で出た
「兎に角面会丈けはしてやらないと推薦者の感情を害するからね」
と言った調子で、頼むよりは断るのに骨を折ったものである。
然るにその翌年からソロ/\売れ口が悪くなった。続いて年々余るという噂を耳にしたが、此方の卒業までには未だ間があるから、川向うの火事ぐらいに考えていた。
「心配することはない。これから三年の中には持ち直す。統計からいっても不景気は然う長く続くものじゃない」
と本科になった頃も高を
「三菱が唯七人とはひどい」
と一人が溜息をつけば、
「それへ五十人も押しかけるんだから下積みは
ともう一人が弱音を吐く。卒業が来月に迫っても、私達は一向はずまない。落第の心配のある奴は兎に角、相応成績の好いものが浮かぬ顔をしている。
「去年の人が約半分残っているから、此年は十番以内でなければテンデ問題にしないそうだ。下手に卒業するよりも、もう一年居残ってやり直す方が
とさえ言うものがあった。
私一個としてはもう半ば諦めていた。というのは、私にはこれでも自分を見る明がある。
「兎に角申込もうじゃないか? この辺なら何とかならないこともあるまいぜ」
と相談をかけた時も、
「さあ。もう大勢行っているんだろう」
と私は煮え切らなかった。
「
と浜口君は親友丈けに私の心持を呑み込んでいてくれた。
「不二商事ってのは大きいのかい?」
と私は浜口君が庶務課から戻って来るのを待っていて尋ねた。会社の信用程度も分らずに申込むのだから慌てゝいる。尤も
「二流だろうね。大阪だぜ」
「大阪でも宜いが、何人取る?」
「五人取る」
「それは有望だ」
「しかし高畠さんがいなくて要領を得なかった。この次の時間に又行って見よう」
「おや/\、不二商事が来ているじゃないか?」
とそこへ矢張り同級の沢井君が歩み寄った。
「好いのかい、こゝは?」
と浜口君は参考の為めに訊いて見た。
「好いとも。申込む」
と言って沢井君は行ってしまった。
「やり切れないな」
と私は頭数ばかり気にする。
「何うせ仕方がない」
と浜口君は覚悟していた。
次の時間に私達は庶務課へ出頭した。外に沢井君初め五名の同級生が鼻を揃えていた。掲示が出ると直ぐこれだから
「今度外国課の方丈けを神戸に移すんで、それを機会に増員を行うそうです。課長が僕と一緒にエールを出た男だものだから、この正月会った時頼んで置きました。それでここ丈けへ言って寄越したんです」
と一応自分の手柄にして、
「
と

「しかし特に英語の出来るものを欲しがっています。事によると英語の試験をされるかも知れませんよ」
と高畠さんは驚かした。
「作文ですか? 会話ですか?」
と一人が訊いた。
「それは分りません。つまり英語が出来て融通の利く人間ということに帰着します。明後日までに自筆の履歴書を一通出して置いて下さい。会見の場所と日時が分り次第掲示します。それじゃ分りましたな?」
と教授は私達の退出を促すように頷いた。実際卒業期の庶務課長は忙しい。
「七人きりなら
と私は教室へ帰る途中で稍

「今までに七人だぜ。今日中にもう七人ぐらい申込まあ。それに明日も明後日もある。矢っ張り四五十人になるよ」
「まるで籤引きだね」
「然うとも。一口や二口じゃ
と浜口君は番数で行く決心だった。
就職問題で始終頭を悩ますと同時に、卒業試験が可なり気になる。これでお仕舞いだからといって、教授連中は
学校の掲示板も、
「何教授今明両日休講」
なぞというのを楽しみにしている中が花だ。昨今の掲示は学生の運命を決定するから恐ろしい。
「駄目だよ」
と口には言っても、会見をして来たものには皆多少自惚がある。自分のことだから然う悪くばかりは考えない。殊に多少縁故もあるし、馬鹿に調子が好かったと思って九分通り大丈夫の積りでいる男が、
安田関係諸会社に就職確定したる諸君左の如し
台湾銀行に採用確定したる諸君左の如し
小野島一郎君
小野島一郎君
「諸君と複数に書いて
と早速庶務課へ訊きに行った。すると係員がノコ/\やって来て、「諸君」という字を「もの」と訂正した。
「
と杉浦君は苦笑いをしていた。尤もこんな景気の悪いのばかりはない。
「おごれよ/\」
と皆に取り巻かれて、
「まあ/\待ってくれ。羽織の紐が取れたじゃないか?」
なぞと悦に入っているものもある。
一週間ばかりすると、
不二商事会社志望の諸君は二月二十一日午前九時までに数寄屋橋ビルデング四階東洋興業株式会社に出頭して会見の事
この辺から話が少し甘くなるけれども辛抱して戴く。実は浜口君丈けに相談して郷里へは未だ言ってないが、私は清子さんを貰いたいのである。清子さんも私のところへ来たいのである。お母さんも異存がない。こゝまで話した時、私は浜口君にどやしつけられた。しかし事実は事実で仕方がない。清子さんは去年女学校を卒業して此年十九、私は二十五だから、お母さんの説によると、何方も厄年だそうだ。
「
と時々仰有るのは間違のないようにという意味だろう。
「間違は未だない。熱心に相愛しているけれど、その点は大丈夫だ」
と保証したら、浜口君は、
「好い加減にしろ!」
と言って私を突き飛ばした。
さて、私が、
「清子さん、明後日イヨ/\見合に行きますよ」
と冗談まじりに切り出した時、
「まあ、到頭御決心なすって?」
と清子さんは直ぐに就職の会見と正解してくれた。実に頭が好い。
「しかし神戸ですよ」
と私はこれを言うのが辛かった。
「神戸? あなた神戸へいらっしゃるお積り?」
「行きたくもありませんが、思うようには参りませんからね」
「東京にはないんでしょうか?」
「ないこともないですが······」
「私、随分御勉強のお邪魔を致しましたからね」
と清子さんは成績の都合と察してくれた。斯う
「然う悪い成績でもない積りですが、ひどい競争をするのが厭やです。僕はカラキシ運がないんですからな」
「又お株が始まりましたわね」
「それだから神戸だって当てになすっちゃ困りますよ」
「神戸の何て会社?」
「不二商事というんです。余り大きくないところの方が仕事を覚えるのには却って都合が好いんですよ。しかし二流会社では屈指だと言っていました。
と私は成否ともに多少箔をつけて置く必要を認めた。
「神戸でも宜いわ。何うせ母と一生一緒にはいられないんですから」
「お母さんを連れてお出になれば宜いじゃありませんか?」
「そんなことをしちゃ頭が上りませんわ」
「余り上げて貰いたくないんですよ」
「でも気が引けて我儘が出来ませんもの」
「我儘をする気?」
「オホヽヽヽヽ」
と清子さんは火鉢に炭をついで、
「あなた、お邪魔?」
と
「いゝえ、些っとも」
と私はもう
会見に出掛ける朝、私はかねて用意の背広を一着に及んだ。
「似合いますよ」
と清子さんが褒めてくれた。
「押し出し丈けは及第でしょう」
「真実にしっかりおやんなさいましよ」
「
と私はこの機を利用して初めて清子さんに外套を着せて貰った。
「久保君、便所へ行って置こう」
と浜口君が誘った。これは気を落ちつける為めだと解して、私はお供をした。途中廊下で一人の中年紳士に行き会った。私が右へ避けると紳士も右へ寄った。私が慌てゝ左側を通ろうとすると紳士も左側へ志した。斯ういうことは広い往来でも時折ある。此方が諦めて立ち止まった時、先方も諦めて立ち止まった。
「や」
とその刹那私は相手の顔を認めてピョコンとお辞儀をした。
「やあ」
と紳士も会釈して行き過ぎた。
「知っているのかい?」
と浜口君が訊いた。
「中学の時の英語の先生だ。変な人に会ったなあ」
「何故?」
「何故って、僕達がストライキをやって追い出したんだもの」
「出来ないのかい?」
「いや、素敵に出来る。しかし校長と仲が悪かったんだね。そこへ僕達が問題を起したものだから首になったのさ」
「それでこの会社へ入ったのかい?」
「さあ。その後のことは一向聞かないが、或はこゝにいるのかも知れない」
と私は気にも留めなかった。
控室の向いが会見室だった。時刻きっかりに給仕が現れて、
「土屋滋さん!」
と呼んだ。皆急に緊張した。数えて見たら二十三人いた。土屋君は組が違うから成績のほどは分らないが、物の五分とたゝない中に会見室から出て来た。二番目が呼び込まれた。C組の連中は土屋君を取り巻いて、
「何うだい?」
と様子を尋ねた。
「
と土屋君は溜息をついた。
「何を訊いたい?」
「それが分るくらいならこんなに早く出て来やしねえ」
「ハッハヽヽ、ハヽヽヽヽ」
と皆覚えず笑ってしまった。
「もう宜いから帰れと言ったぜ。それ丈け分ったから、グッドバイと言ってお辞儀をしたら笑っていたぜ。
と土屋君は尻尾を巻いて逃げて行った。
二番目は大分手間を取った。
「輸入超過と貿易差額の関係を訊かれたよ」
と元気の好いところを見ると巧くやって来たのらしかった。私達はこの男の話で中の模様を略

「英語で答えるのかい?」
「然うさ」
「はてな、貿易差額ってのは英語で何といったっけな?」
と考え込んだ清水君が折から四番目に呼び出された。三番目は早目に帰って来て、
「いけねえ/\。まるで会話の試験だ」
と呟いた。
「初めは会話だよ」
と二番目の男が言った。
「電話をかけさせたかい?」
「いゝや」
「僕には卓上電話機を突きつけて、小石川の千二百三十四番を呼び出してくれと言うんだ。もし/\とやると、英語でと注意した。弱ったよ。もし/\が分らない。苦し
と三番は
十二三番あたりが浜口君だった。私は成功を願って成る可く長かれと祈っていた。好い塩梅に十分以上かゝった。
「君」
と浜口君は戻るや否や私を招いた。
「何うだったい?」
「君の先生だよ、試験官は」
「え?」
「先刻廊下で会った人だよ」
「ふうむ。それじゃ僕は駄目だ」
と私はもう覚悟を極めた。
「もとの先生だから却って有望かも知れない」
「いや、僕はあの頃級長だったからストライキの張本人と思われている」
「それじゃ具合が悪いな」
と浜口君は首を傾げた。
「僕は一番お仕舞いか知ら?」
と私は益

「旧懐談でもする積りだろうぜ」
と一緒にお昼を食べる約束で待っている浜口君が力をつけてくれた。しかし皆済んでしまっても私は呼び出されなかったから、
「これはイヨ/\駄目だ。もう帰ろう」
と決心した。
「
と浜口君は会見室の戸をコツ/\叩いて入って行ったが、直ぐ引き返して、
「
と報告した。
「江戸の仇を長崎で討つんだろう」
「しかし善意にも取れる。あれは人物が分っているから会見に及ばないと言うのかも知れない」
「ストライキをするような人物と分っているんだよ。矢っ張り僕は運が悪いだろう? 競争にも入れない」
「しかしこれは特別だよ」
「何あに、兎角斯う廻り合せる」
と私は
それから銀座へ行って不二家へ入り込む。
「不二商事に不二家と来ている。君は屹度好いんだぜ」
と私は食事中努めて快活に話した。自分の為めに友達の興を
「こゝへ来てチョコレートを買って帰らないと叱られるからね」
と

「何うでございましたの?」
と清子さんが出迎えてくれた。
「美事失敗して来ましたよ」
「御冗談でしょう? あら、お顔色が悪いわ」
「悪いかも知れません。矢っ張り運のない人間は違います。首を洗って仇のところへ持って行くような愚を演じました」
と私は一部始終を物語った。
翌朝学校へ行って掲示場へ来かゝると事務員が踏み台に乗って何か貼り出すところだった。新口なら申込もうと思って待っていると、不二商事という字が目についた。
不二商事に確定の諸君左の如し
「おや!」
と私は覚えず声を出した。間もなく浜口君もやって来て、
「宜かったなあ」
と喜んだ。
「僕のは全く意外だよ」
と私は狐につまゝれたような心持だった。
「矢っ張り分っていたんだよ。ナカ/\話せらあ。
「殊に二人一緒は有難い」
「祝盃を挙げる価値がある」
「しかし僕はもう帰る」
「帰る? 朝から休むのかい?」
「だって」
「だって何だい」
「昨日は苦労をかけたもの」
「こん畜生! チョコレートの一件!」
と浜口君は私の背中を思いざま叩いた。
私は急に用件が
(大正十五年四月、現代)