この事件に関する野口君と僕の交渉は僕が九州で某県庁の
「
「東京へ帰る途中だ」
「方角が違うじゃないか?」
「途中で思いついてやって来たんだ」
「今頃? 休暇でもないのに、何うしたんだい? 一体」
「君、実はこれだ。突然」
野口君は首を叩いて見せて、
「口惜しくて仕方がない」
「驚いたね、これは」
「君に相談に来たんだ」
「僕の力で出来ることなら何でもする。幸い県庁のお役人だ。この県下で
「いや、僕はもう教育界は見限った」
「一体どうして首になったんだい?」
「自分でも
「君のことだから、普段教頭を教頭と思っていなかったんだろう」
僕は野口君の性格をよく知っている。純情な男だけれど、無暗に鼻っ張りが強い。誰とでも議論をする。殊に目上のものに突っかゝって行くのが得意だ。就職して三年なら、同僚といっても、実際は大抵先輩だから、恐らく議論相手が豊富過ぎたのだろう。
「君のことだからとは何だい? 君はロク/\
「そういう意味じゃないけれど」
「君は矢っ張り官僚だ」
「早速始まったな。しかし君だって、元来穏かな方じゃあるまい」
「僕を
「無論、正義は君の
「初めから気に食わない野郎だと思っていたが、それが通じたんだろう。
「もう完全にやめて来たのかい?」
「うむ。辞表を叩きつけておっ走って来た。追い出す
「少し乱暴だな」
「
「いや、君の方だよ。今直ぐやめろと言うんじゃないだろう?」
「新学年までに転任してくれと言うんだ。学校の方でも
「それなら待っていれば宜いじゃないか?」
「何だ君も教頭組か?」
野口君は興奮していた。
「君、教頭の野郎は、正に
「ふうむ」
「おべっかを使う人間を
「ふうむ」
「僕は反抗心が強いから、そういう奴のところへ
「ふうむ」
「朝、教員室で顔を合せると、昨晩は失礼致しましたと言って頭を下げる奴があるから
「君、他の人が迷惑する。話は家へ帰ってからしよう」
「それじゃもう帰ろう」
「面白くないのかい?」
「一体君は自己本位だ。人間が官僚化している」
「何故?」
「千里を遠しとせず相談に来た親友を自分の予定だからって芝居へ連れ込む法があるか?」
「芸術は人間の心を
「刺戟するばかりだ」
しかし僕は頑張って、最後まで見物した。野口君も元来芝居は嫌いの方でない。その中に釣り込まれて神妙になった。下宿に帰ると直ぐに、教頭の野郎を吉良の野郎と改称して、相談を始めた。
「僕は何うしても吉良の
「馬鹿なことを言うものじゃない」
「いや必ず切って見せる」
「昔の武士道は兎に角、文明の今日では恨みがあるからって、直接行動を取るのは
「腕力でやるんじゃない。僕を首にしやがったから、僕の方でも首にしてやる」
「
「学務部長でも切れる筈だ」
「うむ」
「僕はほゞ方針を
「何うするんだい」
「これから文官試験を受けて、君の後を追う。将来学務部長になって、吉良の野郎を首にする」
「動機は感心しないが、役人になるのは賛成だ。一体中学校へ英語なんか教えに行ったのが物好きだと僕は思っている。惜しいよ。成績でも悪いのなら兎に角」
「それが官僚だと言うんだ。貴様は」
「又憤る」
「しかし、おれも官僚になる。惜しいけれど仕方がない」
「官僚の軍門に
「
「ひどいことを言やがる」
「学務部長になるには何年かゝるだろう?」
「さあ、腕次第さ」
「腕に親分の威光とこれから貰う細君の
「
「ハッハヽヽ」
「僕はこれから十年だろう」
「すると此方は三年、いや、これから試験を受けるんだから、四五年スタートが遅れている。十四五年かゝるんだな。仇が討てるまでに」
「その辺だろう」
「前途
「それまでに
「待ってくれ給え。
「学務部長になっても、同じ県で顔を合わせるか
「奴のいる県へ運動する。僕は決心がついた。試験を受けて役人になる」
「なり給え。僕が引っ張ってやる」
「君の親分の子分になる。試験が通ったら、宜しく推薦してくれ給え」
僕は同期生でも
「文官試験はナカ/\の難関だ。しかも通過したからといって、直ぐに職にありつけるのではない。それから先は人格だ。人格の好いのが採用される。人格を分析すると、
「生意気を言うなよ」
「話だよ。今日一粒選りの階級を挙げるとすれば、指を先ず行政官に屈しなければなるまい」
「そういう料簡が官僚だと言うんだ。民間にだって、頭の好い人間は幾らもある」
「しかし君は官僚の軍門に
「便宜上仕方がない。会社へ入っても宜いんだけれど、仇討ちの都合で官僚を利用するんだ」
野口君は翌年文官試験に通過して、間もなく東北のある県に属官として就任した。僕はその頃本省へ転じていたから、何かにつけて
「命拾いをしたね」
「お蔭で。ところでお芽出度う。こんな
「お祝いを有難う。
「お目にかゝりたいな」
「よせよ。そんな地獄から火を取りに来たような顔をして」
「相変らず厳しいね」
「家へ寄って、奥さんに引き合せて来た」
「有難う」
「僕は明日直ぐ帰る。その中に又出て来る」
「それまでに僕も丈夫になっているだろう」
「そう/\。君はズッと入院していて知るまいが、野郎転任したぜ」
「誰だい?」
「大友さ」
「ふうむ。何処へ」
「○○だ。隣県へ来やがった」
「それじゃ顔が合うかも知れないね」
「合ったところで属官じゃ仕方がない。早く出世をしたいよ」
「まだ諦めないのかい?」
「これを諦めたら、人生の目的がなくなってしまう。昨夜家憲として妻に話して置いた」
僕は事務官として地方廻りを始めた。野口君も方々歩いた。九州以来、十年間が夢のように過ぎ去った。しかし物事は予定通りに運ばない。僕は依然として課長ばかり勤めていた。四年スタートの
「何うだい? 形勢は」
「当分見込がない。この間上ったばかりだ」
「追いついたね、とう/\」
「俸給
「官等までやられて
「君を追い抜く料簡もないけれど、僕は君も知っている通りの事情だから特別に出世を急ぐ」
「失敬して行っちゃ困るぜ」
「
「実はこの間の異動で何うかなるのかと思っていたら当てが
「君は今度○○学務部長になった栗栖って人を知っているかい?」
「知っている。福岡で一緒だった。あの人が今頃漸く学務部長だと思うと、此方はまだ/\前途遼遠だよ」
「福岡で本官だったのかい?」
「うむ。僕はあの人の下で働いていたんだ」
「それじゃ懇意だね。一つ手紙をやって、大友のことを頼んでくれないか?」
「成程、大友氏の県だったね。相変らず真剣になって心掛けているんだな」
「野郎は帝大出でいながら帝大出の僕を
「君は僕を攻撃していたけれど、この頃は
「政府の金で教育したものを政府が
「
「手紙をやってくれ」
「それはいけない。君は
「いや、保護を頼むんだ」
「ふうむ」
「大友はあれきり動かない。もう五十を越している。僕が切らない中に休職にでもなると困る」
「それじゃ
「うむ。君の新任地の大友氏は名校長だから、特別に敬意を表してやってくれと言うんだ」
「しかし名校長にも何にも、僕は大友氏を
「名校長だよ、確かに。僕は始終調査しているけれど、実に評判が好いんだ」
「それなら大丈夫だろう。六十ぐらいまで
「念の為めだ。僕は学務部長が
「しかし本当にそんな名校長かい?」
「人格者だ。十年も動かない校長は滅多にない。よく
「よし。手紙を出して置こう」
「頼む」
「名校長という評判を聞いたら、君は諦めるのが本当じゃあるまいか? 名校長が
「すると僕が切られたのは当然だと言うのかい」
「先ずその辺だろう」
「文句はあるけれど、喧嘩はしない。手紙を書いて貰うんだから」
「何うも君は合点の行かない人間だ。他のことは公明正大の判断を誤らないけれど、この問題になると理性を失う。君は大友氏によりて発憤して、今日あると思わないか?」
「思わないよ。今日とは何だ? 貴様は地方事務官が中学校の教諭よりも
「その通りだ。直ぐに理性を失って、貴様呼ばわりをする」
「大友があんな処置を取らなければ、僕は教育者としてもっと好い仕事をしているんだ」
「好い仕事の貴いことが分っているなら、大友氏を
「
「何うかしているよ、君は。
「貴様は雅量がある。忌々しい野郎だと言われて、人のことだと思っているんだから」
「それじゃもう手紙を書かない」
「頼む。おれが悪かった」
その頃、僕は中国、野口君は宮崎、何方も地方課長まで漕ぎつけていたから、もう一息のところだった。一年たって、政変の為め上の方の首がすげ替えになったドサクサ
「タガイニメデタシ。カタナヲトギハジメル」
という電報が来た。何うしても忘れない男だ。
間もなく僕の県の第二中学校に騒動が起って、校長が辞表を出した。職員間に
「沢田君、君の今までの任地に誰か名校長はなかったかね?」
と僕に相談をかけた。
「さあ」
「候補者は二三人あるけれど、
「大友ってのがある」
「○○の校長かい?」
「そうだよ。僕は評判丈け聴いているんだけれど」
「その大友が第一候補者になっている」
妙な切っかけだった。僕は野口君の方の関係を考えて、会ったことはないと今更弁解のように言ったが、音に聞えているくらいなら尚更だとあって、学務部長は大友氏に定めてしまった。僕は発表前に野口君に報告した。野口君はカン/\に憤って、激越な手紙を寄越した。元来貴様の態度が怪しいと思っていた。道徳家ぶって、仇討ちの妨害をするために大友を管下へ呼んだのだろう。友達甲斐のない奴だというのだった。誤解のないように説明してやったら、今度は頼んで来た。それじゃ仕方がないから
僕は職務上大友氏と一切交渉がない。しかし学士会の会合で度々顔を合せた。それから長男が入学したから、父兄という関係が出来た。矢張り名校長だった。第二中学校はもうコトリとも言わなかった。そのまゝ三年過ぎた。野口君は東京からの帰りを二度寄った。二度目の時だった。
「何うだい? 大友は」
「よくやっている。名校長の
「僕は理窟で切るんじゃない。職務で切るんだ。要するに切りさえすれば
「そんな無茶な話があるか」
「
「大友氏はもうこゝを動くようなことはないよ」
「それだからこゝで切るんだ」
「君が知事になって来る頃には大友氏はもう
「まあ/\見てい給え」
「当てがあるのかい?」
「出張の序に運動をして来た。今度政変があれば、
「成程。研究したね」
「五分の一のチャンスを楽しみにしている」
「君は亀山氏に二県で仕えているんだから、復活さえすれば
「これが成功しないと又三四年
政変は一年後れたけれど、野口君の註文通り、亀山氏が復活して、中国の県の知事に納まった。野口君はその下に学務部長として乗り込んで来た。僕は格式の下の県へ内務部長として栄転した。
中国で、野口君とちょっと顔を合せて、直ぐに別れたその折、早速やると言っていた。果せるかな、一月ばかりたつと、大友氏の退職の辞令が官報に出た。僕は褒めたような
「見ろ!」
と僕は
それから数日後、野口君は奥さんと子供三人と女中をつれて僕の新任地の官舎に現われた。
「とう/\やったよ」
「しかし
「いや、僕は仇さえ討てば、官界に用はないんだから、大友の辞令が出ると直ぐに辞表を出したんだ」
「何うするんだい? これから」
「実業界へ転向する」
「惜しいな、折角これまでやって」
「何の惜しいことがあるものか? 兎に角、目的を達したんだもの」
「大友氏は何とか苦情を言わなかったかい?」
「
「ふうむ」
「僕が仇討ちの為めに
「君の方で呼びつけたのか?」
「うむ。僕も昔に戻って、十六年間の苦心を話して聞かせた後、君は単に学校の都合という名目で僕を
「乱暴な学務部長があったものだ」
「留任運動が起ると面倒だから、絶対秘密にやってくれと先方から頼むんだ。僕は
「ふうむ、あの私立の?」
「うむ、あれは昔あすこの藩の学校だったってね」
「そうか。好いところがあったな。君も
「以前から相談を受けていたらしい。考えて見ると、僕は仇の都合を計ったようなことになる。大友は子供が三人も大学や高等学校へ行っていて、生活が苦しいんだ。私立へ移れば、恩給だけ浮く勘定だから、食指が動いていたんだけれど、前の学務部長が頑として承知しなかったんだ」
「なるほど。西尾君は自分が採用したんだから、容易に承知しまい」
「そこへ僕が

「少しは都合を計ってやっても
「今日なんかないよ。もう休職だ」
「いや、教員になっていたら、今の奥さんを貰えたろうか?」
「そう思えばそうだけれど」
「仇討ちなんて余り面白いものじゃあるまい?」
「うむ。何うせ意地ずくだから引き合わない。僕は四人の学務部長に大友を名校長として推薦した揚句現俸に恩給をつけて、生活難を救ってやったことになる」
「御苦労千万だったね」
「しかし
(昭和十年四月、日の出)