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好人物

佐々木邦





「安子や、一寸ちょっと見ておくれ」

 と千吉君は家へ帰って和服に着替えると直ぐに細君を呼んだ。出入ではいり送り迎えは欠かさないが、着替えの手伝いまでしてくれる時代はもううに過ぎ去っている。結婚して六七年になれば細君も良人りょうじんを理解する。この人ならこれぐらいで沢山と略※(二の字点、1-2-22)見当がついて、待遇がおのずかきまって来る。但し粗末にするという意味では決してない。自分の都合の好い折丈け勤めて置く。気の向いた時には特に念を入れて、

「まあ、ひどい埃だこと!」

 なぞと、大袈裟おおげさな表情諸共、帽子にブラシをかけて渡すことさえある。良人はその間玄関に待たされていても苦情に思わない。矢張り安子はよく気がつく、と一寸の間でも新婚当時の心持に戻る。細君のがわに於ても、これ丈けのことをして置けば、まさかの場合に言う丈けのことが言える。

「おい、安子、とげが立ったんだよ」

 と千吉君は再び呼んだ。

「はい、唯今」

 と細君は台所から出て来て、

「何うかなさいましたの?」

「指に刺を通したんだよ。この爪の間に見えるだろう?」

 と千吉君は右の手の中指を突き出して、

「馬鹿を見た、一寸電信柱へさわったばかりに」

「これは取れませんわ、毛抜きでなくちゃ」

 と細君は毛抜きを持って来て試みたが、矢張り思わしくない。

「針で取りましょう」

「痛いだろうね?」

 と千吉君は意気地のないことを言う。

「少しの我慢ですわ」

 と細君は無論自分の我慢でない。早速針の先を焼いて何等の躊躇ちゅうちょもなく荒療治に取りかゝった。

「痛い/\!」

「でも少し掘らなけりゃ取れませんもの」

ひとの指だと思ってひどいことをしてくれるな。爪の肉はクイックといって身体中で一番痛いところになっている」

 と千吉君は余り痛いので、学校時代に習った英語を思いだした。

「これじゃ手が逆ですから何うしても駄目ですわ。斯う坐り直って下さい」

 と細君も自ら居住いを換えて、

「斯うよ」

 と横から良人を抱くように構えた。しかし深く食い込んでいるので容易に抜けない。間もなく針先の都合上夫婦は悉皆すっかり寄り添ってしまって、頬と頬が触れ合うばかりになった。

「おゝ痛い!」

う動いちゃ駄目よ」

「療治が荒いんだもの、お前のは」

「動くからですわ。もう少しよ······取れたわ、到頭」

 ところへ細君の姪が二階から下りて来て襖を明けたが、

「あら、御免下さい」

 と慌てゝピシャリと又締めた。

いのよ、八千代さん」

 と言う一方細君は、

「お退きなさいよ」

 と良人を突き飛ばした。千吉君は不意をくらって※(「足へん+倍のつくり」、第3水準1-92-37)のめったまゝ、

「ハッハヽヽヽ」

 と力なく笑い出した。同時に何か落してった音が台所から聞えたので、

「お里も覗いていたんだよ。若いものは妙に気を廻して困る」

 八千代さんは再び襖を明けて、今度は安心して入って来た。

「お帰り遊ばせ」

「指に刺を立てゝね、叔母さんに取って貰っていたところです」

 と千吉君は弁解らしく指を見せなければならなかった。

「八千代さん、この針を仕舞って頂戴」

 と細君も良人の言葉に証拠を添える積りか、針を八千代さんに渡して、

「お里や、何を壊したの? 真正ほんとう粗々そそっかしい人ね」

 と台所へたしなめに行った。何かというと覗見すきみをして厭な人ねとも言えない。尤ももうお昼の支度の出来る頃である。

 この刺の件は慌てもの村島千吉君の日常を伝える一端になる。お昼を食べながら自ら説明したところによると、千吉君は何ういう料簡か停留場から家までの電信柱の数を確める気になった。二十何本か勘定して家の間近で最後の一本になった時、念の為めにその数を言って手を触れると、指先へズキンと来たとある。

「八千代さん、電信柱も下の方でコールタールの塗ってあるあたりです。後から見ると馬力か何かがあたって少しさゝくれていました。とげが出ていたんですね。丁度そこへ心持ち叩く積りで手を出したからまりません」

「探究の犠牲ですわね」

 と八千代さんは女子大学生丈けにむずかしい受け答えをして、

「そうして電柱の数は何本でございましたの?」

「それがですよ、馬鹿な話です。ズキンと脳天まで響いた拍子に二十二本だったか二十三本だったか忘れてしまったんです」

「まあ! オホヽヽ」

「しかし考えて見ると不思議ですね。この無限に広い宇宙間で、あんな針の先ほどのものが正にこの狭い爪の間へ割り込んだんですからね。私は痛いながらも偶然の威力に敬意を表しましたよ」

「刺を立てゝ敬意を表していれば世話はありませんわ。あなたは何でも余計なことをなさるからいけないんですよ」

 と細君は黙っていなかった。

「全く余計なことさ。考えて見れば触る必要はなかったんだもの」

「いゝえ、電信柱なんか勘定するのが※(二の字点、1-2-22)そもそも余計なんですよ」

「こいつは大失策おおしくじりだ。根本的にいけないのかい?」

 と温順な千吉君は争いもしなかった。

「叔父さんは散々ね」

 と八千代さんは笑っている。

「あなたのお陰で到頭苦労が一つ殖えましたのよ」

 と細君はこの余計なことで思い出したように訴えた。

「何が?」

「到頭生れたんですよ」

「生れた? 何匹なんびき?」

「七匹ですよ。先刻さっきお里が見つけたんです。これだから私、女犬は厭やだと初めから申上げたじゃありませんか?」

「今更仕方がない。育てるさ」

「皆好い毛並みで可愛いのよ」

 と八千代さんはもう見て来ている。

「何処です? 物置?」

 と千吉君は膝を立てた。

「いけませんよ、御飯を食べかけて。あなたはまるで子供のようね」

 と細君は悉皆すっかり良人を支配している。

「皆男だといがなあ」

うは参りませんわ」

「何方が多い?」

「未だよくわかりませんのよ。ポチが怒って寄せつけないんですもの」

「何方でも宜いや。子供がないから犬でも育てるさ」

 と千吉君は大きく出た。この子供がないからというのは千吉君に取って最も有力な武器である。これを言われると細君は直ぐに黙ってしまう。もっともこの際は相手の口を封じる為めでなく、自ら慰める為めに利用したので、その証拠には口の下から、

「七匹だね?」

 と念を押した。七疋を内心尠からず苦に病んでいるのである。元来ポチを牝犬めすいぬと承知で貰って来た時、細君は無論反対した。しかし犬も人間も同じに思っている千吉君はこの頃の文化婦人は然う子を生まないと主張した。押し問答の結果、若し生んだら自ら奔走して一匹残らず友人間へ片付けるという条件で細君を納得させた丈けに責任を感じている。

 刺から犬になって話が少時しばらく途絶えた後、細君は、

「今日のお見送りは大勢でございましたの?」

 と当然の質問に移った。千吉君は海外視察に出発する同僚を見送って帰って来たのである。

「皆来たよ。社長までやって来た。洋行は景気が好いね。羨ましくなった」

「小川さんも御一緒なのにお気の毒ですわね。っとはおよろしいのでしょうか?」

「いゝや、好くないんだよ。盲腸炎と定って入院したそうだ。これから一寸見舞いに行かなければならない」

 と千吉君は食事を終って、

「物置かい?」

「小川さんですか? ポチですか?」

「小川君も見舞うけれど、ポチも見て来る。ポチのことゝいうとお前は妙に煩さがるんだね?」

「然ういう次第わけでもありませんけれど、つい······

「つい何うしたんだい?」

「それは叔父さんが御無理よ。小川さんのことゝポチのことを一緒に仰有るもんですから、私だって何方かしらと思いましたわ」

 と八千代さんは公正な判定をした。

「八千代さんは叔母さん贔屓びいきですね。二人に一人じゃかなわない。降参します。安子や、小川さんは病院だから訊かなくても分っているけれど、ポチは何処だい?」

「オホヽ、然う分りよく仰有って下さるなら、お大切だいじのお子さん達のことですから私が御案内申上げましょう」

 と細君は良人を伴って台所へ行った。ポチは台所の揚げ板の下で生んだのである。

「可愛いわね。一匹だけは私がもうお友達にお約束してあるのよ」

 と八千代さんも覗き込みながら言う。

「それは有難い。私の方には未だ心当りがありませんから、成るべく広く勧誘して下さい。ミルク代の二月や三月は持参金に背負しょわせてやります」

「あら、そんなに手を出すと食いつかれますよ。でも随分産むものね」

 と細君は感心している。

「矢っ張り野犬だったね。文化犬ぶんかいぬじゃない」

 と千吉君は尚おポチの頭を撫でながら、

「しかし皆器量好しだよ。確かに七匹かね? 親の腹へもぐってしまって何うも勘定が出来ない」

 犬の子の検分が済んで茶の間へ戻ると、細君は、

「あなた、洋服でおいでになる? 和服?」

 と訊いた。仲の好い夫婦だから、時に我儘はあっても、覚えずこんな甘ったるい口調になる。但しこれは洋服で行ってくれゝば一番世話がないという意味だった。この階級の奥さま方は良人りょうじんの和装によって自分達の好尚が鑑定されると思っているから、見立てに人知れぬ苦労をする。和服を着せて良人を出すのは先方の家の細君への一種の示威運動である。しかしそんな都合に頓着ない千吉君は、

「和服で行こう」

 と答えた。何ういう廻り合せか、細君があの襦袢を早く縫ってなぞと胸算用をしている時に限って、良人は和服を要求する。確信をもって選定した柄を仕立て上げ、何も彼も揃えて待ち構えていると、洋服の方が便利だと仰有る。いて着せようとすれば怒るから尚お始末が悪い。この日も何か然うした関係があったか、それとも看護婦に示威運動は不必要と思ったのか、細君は、

「病院なら洋服の方が宜かないこと?」

 と再び伺いを立てた。

「いゝや、病院から橋口君のところへ廻る。謡曲うたいを聞かされるんだから和服の方が楽だよ」

 と千吉君は交際家だから日曜がナカ/\忙しい。

「それなら和服になさいませ」

 と細君は初めて和服の必要を認めて、たしなみの程を見せる為めに早速箪笥にかゝった。

「橋口さんて、この間の晩謡曲をなすったお方ですの?」

 と新聞を見ていた八千代さんが顔を上げた。

「然うです。素晴らしい声でしたろう?」

「大変な不評判よ。私も八千代さんも一晩頭痛がしましたわ」

 と細君が言う。

「声量丈けはありますのね」

 とは八千代さんの批評だった。

「可哀そうに、声量丈けならポチだってありますよ」

「あれでお上手なんでしょうか?」

「お上手なんでしょうよ。しかし彼処あすこの奥さんは余程頭の丈夫なお方でしょうね?」

「さあ、少くとも御本人はなり上手の積りでしょう。聞かせたくて仕様がないんですね。実は今朝見送りで一緒になったら、今日は閑かと訊きましたから、閑だと答えると、それじゃ又聴かせに行こうと言うのです。私は安子は我慢しても、あなたの御勉強のお邪魔になると思って、此方から伺うことにして来たんです。些か困るなあ。あの男には」

 と好人物の千吉君、同僚の謡曲を持て余している。

「大いに困りますわ。私は頭痛持ちですし、近所の外聞もございますからね」

 と良人の交際の為めには随分無理な辛抱もするこの細君が斯う躍起になるところを見ると、橋口さんの謡曲というのは実際並み大抵のものでないらしい。

「実は尠からず困っているんだよ。聴かせる丈けなら未だ宜いが、昨今は教えてやると言うんでね」

「まあ、教えたがるんですか? あんな謡曲を! あの奥さんもヨク/\の人ね」

「奥さんにとがはないよ」

「でも少し芸術心のある人なら何とか故障を申しますわ」

「それが連れ添っているとね、然う悪くもないんだろうさ。あれでナカ/\玄人向くろうとむきだと言う人もあるよ。実は内藤君も到頭説きつけられてしまって、今日が二度目の稽古だそうだ」

 と千吉君は他の吹聴にかこつけて自分のことを告白しているような口吻くちぶりだった。

「厭やですよ/\、あなた。実は実はって、あなたも最早もうお弟子入りをなすったんじゃありませんの?」

 と果して細君は感づいた。斯ういう経緯いきさつには八千代さんも興味を持って傾聴する。将来良人を操縦するに当って何れくらい参考になるか知れない。

「いや、未だ弟子入りはしないが、余り勧めるんでね、兎に角教え振りを拝見に行く約束をしたのさ。然うでもしなければ先生今晩ノコ/\やって来るからね」

「教え振りを拝見に上るのはお弟子入りも同じことじゃありませんの? 可怪おかしな人ねえ、あなたは。同じお稽古をなさるなら真正ほんとうの先生をお頼みになっちゃ如何?」

「それが然う行くもんか。あんなに親切に勧めてくれるんだもの。それに犬が片付く」

「犬ですって?」

先方むこうは教えたい一心だろう? 牧野君の絵と同じことさ。あの人は私が入門した祝いにこの竹を描いて表装までしてくれた。橋口君だってあの謡曲を教わってやれば全く只ということはない。犬の二三匹は屹度きっと貰ってくれる」

 と千吉君は馬鹿なことを言っている。

「ナカ/\勘定高いんですね」

 と細君は覚えず笑い出したが、

「けれども御冗談はきまして、イヨ/\お始めになると又一晩おそい日がえますわ。牧野さんのお宅の南画が一晩に関さんのお宅の碁が一晩ですから、一週三晩になりますよ」

「ところが橋口君は初めの中は少くとも一週二晩やらなけりゃ、いけないと言っている」

「すると晩い日の方が多くなるじゃありませんの?」

「成程、多くなるね。しかし交際だからよんどころない。何だって皆はこんなに芸を教えたがるんだろうなあ?」

「それはあなたが断り切れない性分ですから、つけ込むんですわ」

「矢っ張り人が好いのか? 余り好い積りでもないんだけれどね。無暗むやみに勧めやがる。木下君は運動が必要だといって馬を勧めて困る。この間馬に乗って来たろう?」

「馬丈けはよして下さいよ。怪我でもなすったらうなさいますの?」

「馬はとても問題にならないが、謡曲はもう落城だね。実は今日は家でやろうと相談をかけられたんだが、お前が少し病気だからと言って断ったのさ。習うとなれば時折は来て貰わなければならない」

「家では御免蒙ごめんこうむりますよ。そんなにしてまで犬を貰って戴くこともないじゃありませんか?」

「しかし一晩は橋口君のところ一晩は内藤君のところと実はもう定っているんだからね。此方丈け断るのは変だよ」

「然う御相談がまとまっていますのなら御勝手ですわ。盗み泥棒をなさるのとは違いますから、私も強いて反対は致しません」

「手厳しいんだね」

 と千吉君は何うやら斯うやら細君を納得させて着替えにかゝった。殊に相客があると承知したからには、安子夫人が、示威運動に念を入れたことは申すまでもない。

「真正に困った人ね。何でも彼でも引き受けてしまって」

 と細君は良人を送り出した後愚痴をこぼした。

「矢っ張り叔父さんは御評判が好いんですわ。同僚の方だって嫌っていらっしゃるのなら然う/\勧めはなさらないでしょう?」

 と八千代さんが応じた。

「それもありましょうね」

 とこの辺は細君も甘い。

 これから叔母姪は長火鉢の座蒲団に根が生える。忙しい/\といっても子供のない家庭は呑気なものだ。それでもお互に立とうという気はある。然う思いつい話し込んでいるところへ玄関の格子が明いて、八千代さんが取次に出ない中に千吉君が入って来た。

「まあ、何かお忘れもの? あらまあ!」

 と細君が驚いたのも道理、千吉君は羽織と袴を泥だらけにしていた。

大失策おおしくじりだ」

「又飛び乗りをなすったんでしょう?」

「いや、飛び下りの方だ」

 と千吉君は手洗鉢ちょうずばちで手を洗って来た。早速不断着に替えながら、

「馬鹿な話さ。電車に乗って切符を切る段になると小川君の病院が分らない。考えて見れば入院と聞いた丈けで見舞いに出掛けたんだね。何処の病院だか知らないんだ。慌てゝいるよ。まったと思って飛び下りると美事みごと泥濘ぬかるみのところへ転んでしまった。手を擦り剥いたよ、こんなに」

「いくら御自分のお身体でも些っとは大切になさいませよ。お羽織がこんなに裂けているじゃありませんか?」

 と細君は良人の傷よりは羽織のきずあらためている。

「考えて見ると急いで飛び下りるにも及ばなかった。病院は病院で、そのまゝ乗って橋口君のところへ行けば宜かったのに、真正ほんとうに馬鹿な話さ」

先刻さっき病院なら叔母さんに訊かなくても分るって、オホヽヽヽ」

 と八千代さんはこらえ兼ねて笑い出した。



 再び良人を玄関へ送り出した安子夫人は八千代さん諸共、

「行っていらっしゃいまし」

 としとやかに手をついた。これまでは礼式で、それから後は情愛である。

「あなた」

「何だい?」

 と千吉君は格子戸に手をかけたまゝ振り返った。

「もう飛乗りや飛下りは御法度ごはっとでございますよ」

「よし/\」

「二度あることは三度あると申しますからね。刺の次がその摺り傷でしょう? 今度は三度目ですから、真正にお気をつけ下さいよ」

「大丈夫だよ。自分の身体だもの」

「お身体も然うですが、お召物も大切でございますからね」

 と細君はまさか着物には保険がついていないという意味でもなかったろう。何処の良人でも故なくして余所行よそゆきの羽織を裂けば、これぐらいの厭味は必ず浴せかけられる。

「恐れ入った」

 と千吉君も重々じゅうじゅう心得ている。そうして格子戸を明けてまたぎかけたが、

「ステッキ/\」

 と又引き返して、ステッキを持って出る拍子に下駄をしたたかと敷居に蹴りつけて、

「あゝ痛! 下駄も大切だいじだろう? それじゃ行って来るよ」

「叔父さんは真正に粗々そそっかしいわね」

 と八千代さんは千吉君の姿が門から消えた時、見たまゝの感想を洩らした。

「あんな風ですから私の心配が絶えませんのよ。夜晩い時には自動車にでも轢かれたのかと思いますわ」

 と細君は何彼につけて自分の立場の容易ならぬことを主張する。しかしこれを段落に八千代さんは二階の書斎へ引き揚げた。この春郷里から出て来て一緒に暮す日は未だ浅いのだが、安子叔母さんに主婦の苦労を話し込まれたら止め度のないことはく承知している。

 斯ういっても、安子夫人は決してお冗舌しゃべりでない。当人も然う言っているし、現に今八千代さんが二階へ上ってしまってから二時間というもの、完全に沈黙を守っていた。尤も縫いものをしながら針坊主を相手に物を言っているようなら医者に見て貰う必要がある。こんな次第でお独りの時は至って無口に渡らせられる。しかし矢張り女だから、口を動かしている方が動かしていないより心持が好いに相違ない。その証拠には黙っていると間もなく退屈を感じる。以前は然ういう折新聞や雑誌を読んで気をまぎらしたものだが、昨今は八千代さんを利用する。姪を呼んで花を生けるでも琴を弾くでもない。唯お冗舌をするのである。口さえ動かしていれば退屈が凌げる。アメリカの婦人がチュウインガムを噛み日本の娘が酸漿ほおずきを鳴らすのは或はこの辺の必要を補う為めかも知れない。

 針仕事を片付けて長火鉢の側に坐って安子さんは、

「お里や、お前一寸ちょっとお二階へ行って八千代さんにね、お茶を入れますからいらっしゃいって言って頂戴」

 と命じた。

「はあ」

 と応じてお里が階段の上り口まで行った時、八千代さんは自分料簡で下りて来た。八千代さんも女だから、独り黙っていれば当然退屈する。しかし二時間かっきりで巻きの切れたところは流石に叔母姪の間柄である。

「学校の御勉強?」

 と叔母さんは鉄瓶の胴を撫ぜながら訊いた。

「いゝえ」

 と姪は微笑みながら坐った。これは小説を読んでいたという意味である。地方の高等女学校から東京の女子大学へ解放された妙齢の女性は先ず読物の自由から楽しむ。恋愛の自由はもっと修業を積んでからでおそくない。

「私、独りぽっちで退屈しましたの。少しいでしょう」

 と安子夫人が訴えれば、

「えゝ、お話し致しましょう」

 と八千代さんも呑み込みが好い。

「お里もそこへ坐ってお相伴なさい」

 と安子夫人はお里を忘れなかった。十六貫あっても女である。黙って三時間も洗濯をしていれば退屈する。

「はあ」

 と答えてお里は坐ったが、又直ぐに立つ運命を持っていた。というのは安子夫人がお茶を入れている間に、

「御免下さい」

 という女の声が玄関から聞えた。お取次は女中の役である。

何誰どなたでしょう?」

「さあ。······この頃は能く女の押し売りが来ますから」

 といったような目つきを交換しているところへ、

「内藤さんの奥さまでございます」

 とお里はイソ/\と注進に及んだ。主婦はナカ/\気むずかしい。面白くない来客を取次ぐと女中の責任になる。

「あらまあ」

 と安子さんは躍り上った。これはこれから夕刻まで十二分に退屈が凌げるという狂喜である。主人不在中の女客は殊に歓迎される。尤も、いても二階の書斎へ幽閉してしまうけれど。

「まあ、奥さま!」

 と先方も甚だ仰々しい。これも遙々はるばる退屈凌ぎの相手を探しに来たのだから、仇にめぐり合ったも同様の嬉しさを感じたのである。こゝの家にこゝの奥さんがいるのは当然の話だが、ひょっとして三越へお出かけになってお留守だなぞと言われると、折角の二三日前から念を入れたお支度が小半日かゝったお化粧諸共見す/\無駄になってしまう。それに女は男と違って、殊に子供でもあると、然うおいそれと外出の叶うものでない。

「さあ、奥さま、何うぞお通り下さいませ」

 と請じても、

「何うも飛んだ御無沙汰を申上げまして、何とも申訳ございません」

 とお客さまは玄関に坐ったまゝ挨拶をする。そこで安子さんもよんどころなく、

「いゝえ、私こそ存じながらつい御無沙汰申上げまして······

 とお辞儀をする。斯く双方自分の非を高唱する所は良人を相手に廻した場合と全く違っている。お土産ものが出て、それに対するお礼の言葉があって、主客は漸くお座敷へ通った。斯うなると八千代さんは差当り御用係を解かれる。二階へ上って独り三角関係の小説を読み続けるより外はない。

「坊ちゃんもお嬢さまもさぞお身大きくおなりでございましょうね?」

「はあ、身体ばかり大きくなりまして、この間も去年の間服あいふくを着せて見ましたら、ツンツルテンで大笑いを致しました。おいたばかりを覚えて困り切ります」

「結構でございますわ。花子さんはもうお四つにおなりでしたわね?」

「いゝえ、五つでございますのよ」

「まあ、お五つ! お早いものね。それでお二人きりで後は未だでございますの?」

「もう沢山でございますわ。私よりも奥さまは何うなさいましたの? あんまり御ゆっくりじゃございませんか」

「私は駄目でございますわ。オホヽヽ、もう諦めました」

「まあ、オホヽヽヽ」

 というような他愛もないことに尚お存分顎の掛金を弛めた後、

「時に奥さま、私、今日はお礼ながら御相談に上ったのでございますが······

 と内藤夫人は用談らしいものに移ろうとした。

「まあ」

 と安子さんはお礼を言われるようなことは一向思い当らなかった。

「主人が毎週上りまして、それも取り分けて遠慮のない人ですから、どんなにかおやかましかろうと存じながらも、つい手前にかまけて失礼致して居りました」

「いゝえ、奥さま、内藤さんはこの頃はいつにもお見えになりませんのよ」

「でも謡曲のお稽古を始めましてからは毎週お宅へ上るように承わって居りますが······

「それは奥さま、橋口さんのところでございますわ。宅の主人も今日からイヨ/\お弟子入りだと申して居りました」

「あら、村島さんは宅の主人と一緒にお始めになって、宅へも橋口さんと御一緒に二度ばかりお見えになりましたわ」

「そうして主人が謡ったのでございますか?」

「えゝ。宅の主人よりもお上手のようでございますのよ」

「あらまあ、変ですわ。今日初めて私が承知致しましたのに」

 と安子夫人は小首を傾げた。

「変でございますよ、私の方も。宅の主人はチョク/\嘘を申しますからね」

 と内藤夫人も考え込んだ。

「宅のも嘘を申したのでございますわ。うに始めたのを今まで私に匿して置いたのです。尤も内藤さんと御一緒のことは申して居りましたが」

「今日も橋口さんへ上った筈ですが、村島さんは如何でございますの?」

「昼から上りました。矢張り御一緒と承わりましたわ」

「その辺は真正ほんとうでございますね。村島さんは一昨日も橋口さんへお上りになって?」

「いゝえ、一昨日は牧野さんへ絵のお稽古に上りました。金曜の晩はいつも然う定っているのでございます」

「まあ! それじゃ話が全く違いますわ。私、又瞞されたのでございます。一昨日の晩は謡曲の後がお酒になったと申して、十二時頃大分酔って帰って参りました」

「けれどもお一人で橋口さんへお出になったのじゃございませんの?」

「いゝえ。私も謡曲うたいにしては少し晩過おそすぎると存じましたから、念を押したのでございます。すると怖い顔をして、そんなに疑るなら村島君のところへ行って訊いて来い、さあ、訊いて来い、と私を睨みつけたじゃありませんか。宜うございますわ。人を瞞して又遊びに出かけて······

「奥さま、それは微酔機嫌ほろよいきげんの御冗談でございましょうよ。宅の主人も謡曲のことはつい先刻さっき迄私に無断でいたのですから矢張り一昨日の晩は牧野さんへ廻る前に橋口さんへ上ったのかも知れませんわ」

 と安子さんは内藤夫人の様子が追々険悪になって来るのに気がついた。

「何うも宅の主人は水臭みずくさいのでございますのよ。都合次第で嘘をきますからね」

「宅のも然うでございますわ。一月も前から始めていながら、今日は内藤さんのお稽古振りを拝見に上るのだと申しましたのよ。それで私も感づいたのでございますわ」

 と尚お主人の棚下たなおろしが少時しばらく続いた後、

「まあ/\それは然うと致しまして、橋口さんのところでございますがね、始終お世話になっていますと、一度御挨拶に上らなければなりませんが、奥さまは無論未だでございましょうね?」

 と内藤夫人は漸く用談を切り出した。座敷へ通ってから約一時間たっている。斯う長くなるから何処の主人も細君の外出には陰に陽に妨害を加える。細君の悪口を言って歩く男はない。良人の悪口を言って歩く女はある。

「えゝ。今先刻初めて入門と承わったばかりですから、そんなこと未だ考えも致しませんわ。何ならお引き廻しを願いましょうか?」

 と安子さんは直ぐに応じた。

「お供が願えれば結構でございますわ。随分熱心に教えて下さるようで、私、陰ながら、ホヽヽ、少し迷惑して居りますのよ」

「私も実は橋口さんの謡曲では一晩中頭痛を病んだことがありますから、今日も少し反対致しましたの」

「まあ、話せますのね。私も無論感心は致しませんけれど、宅の主人のようなものは何かに凝らして置く方が安心と思い直して、却って焚きつけたのでございますよ。それに橋口さんは聞かせたい教えたいの一方で、一晩置きぐらいにお出なさいましたから、まあ/\一種の慈善事業だと存じましてね」

「まあ、厳しいのね、奥さまは。真正ほんとうに好い功徳になりますわ。けれどもあんなお声が、と申しては失礼ですが、何うしてそんなに聞かせたいのでございましょうかね?」

「謡曲天狗と申しまして、あれは直ぐに鼻が高くなります。宅の主人でも最早もう私に聞かせる積りでございますよ。けれども私、承知致しませんの。只じゃ詰まりませんわ」

「私も主人のを伺って夏帯の一本も買って戴きましょう」

「それぐらいの値打は確かにございますよ。けれども橋口さんは最早個人相手では満足なさいません。一晩でも二晩でも宜いから東京市民に耳のお正月をさしてやりたいと仰有って、放送局へ掛け合い中だと承わりました」

「まあ/\、正気の沙汰でございましょうか? 奥さまも奥さまね、彼処あすこは。あんな猿虎蛇のような声を毎晩黙って聞いていらっしゃるのでしょうか?」

「それは貞淑なお方でございましょうからね。おたしなみのほどが察しられますわ。オホヽヽヽ」

「オホヽヽヽ、そうして橋口さんのお謡いになるお顔ったらありませんわ。まるでいきみ出すのよ、謡曲を、獅咬火鉢しがみひばちそっくりの表情をして」

「オホヽヽヽ、奥さまもナカ/\お口がお悪いのね。宅の女中は、火吹ひふ達磨だるまに生き写しだと申して居りましたよ」

「まあ、悪いことを! けれども似ていますわ、火吹き達磨に、オホヽヽ」

「獅咬火鉢でも猿虎蛇でも、お弟子入りをした以上は兎に角お師匠さまですから、御挨拶に上らなければなりません。奥さまの御都合はいつが宜しゅうございますの?」

「さあ、私、いつでも結構でございますわ。奥さまの御都合は?」

 と両奥さまは日の打ち合せからお土産物の相談に移り、結局明日安子さんが内藤夫人を誘って三越に寄り、何か見つくろって序に昼食ちゅうじきを認め、それから橋口家へ出頭することに定った。用談はこれで片付いたが、未だ余談が沢山残っている。

「宅の主人は迚も信用の出来る人間じゃございません」

 と内藤夫人が主張した。

う致しまして。奥さまがそんなに仰有っても、真正は極くお堅いのでございますよ。会社では内藤さんが一番信用があると主人も常々申して居りますわ」

 と安子夫人はこゝで聞いて行ったことから夫婦喧嘩が起っては困ると思って慰めるように言った。

「そんなことはございませんわ。重役に信用があるようなら、それ丈けのことがありましょうに、何年たっても同じことでございますもの」

「それはお仕事は同じでも、俸給の方さえ上れば宜しいじゃございませんか?」

「ところが然うは問屋で卸して下さらないから仕方ありません。昇給どころか、不景気のこの際は首の繋がっているのが儲けものだと主人は申して居ります」

「あら、奥さまは駈引がお上手ね。現に先月もお上りになったじゃございませんか?」

「上るものですか。この三四年は全く居据りよ」

「いゝえ、主人が申しましたわ。去年上って今度又上ったのは内藤さんと主人と、もう一人何誰どなたか忘れましたが、三人きりだと言って大喜びでございましたもの」

「奥さま、それは真正でございますか?」

「私、嘘は申しませんわ」

「先月でございますね? それから去年も?」

 と内藤夫人が念を押した時、安子さんは、

「えゝ、確かにう承わりましたわ」

 と答えたが、斯ういう問題に触れたことを後悔した。

「何うも私も変だと思っていましたが、まさかという気がありましたから、つい······

「私、悪いことを申上げたようで済みませんわ」

「いゝえ、奥さまが仰有って下さらないと、私、この上未だ瞞されるところでございました。お蔭で助かりますのよ」

「真正に済みません。お冗舌しゃべりをして主人に叱られますわ」

「いゝえ、あなたから承わったとは申しません。けれども私、今夜は主人をひどい目に会わしてやりますわ」

「まあ」

「家内に俸給の上ったのを匿すなんて水臭い人が何処にありましょうか? 奥さま、失礼ながら去年の暮の賞与は幾つでございましたの?」

 と内藤夫人は陣容をととのえる為めに去年下半期の手当まで確かめたがった。

「私、もう申し上げられませんわ」

「いゝえ、奥さま、私を助けると思ってお教え下さい」

「困りますわ、奥さま」

「決して御迷惑はかけませんから」

「六月分よ、きっかり」

 と安子さんは拠ろなく囁いた。今更声を潜めても追っ着かない。

「然うでございましょう。主人は不景気だから三月だと、斯う三本指を出して見せましたの。余りですよ、何ぼ何でも」

 と内藤夫人は若し御主人が側にいたら飛びかゝったかも知れない。流石の安子さんも何と言って調子を合せて宜いか、行き詰ってしまった。

「賞与を誤魔化ごまかしたり俸給を匿したりするのは何処かにお金を使うところがあるからでございますわ。奥さまは村島さんから主人の噂を何かお聞きじゃございませんの?」

「いゝえ、一向」

 と安子夫人は相手の血相が変っているので恐ろしくなった。

「でも主人は酔って帰った時はいつも村島さんと御一緒のように申すのでございますよ」

「それが、奥さま、実は斯うなんでございます。主人は一番御懇意に願っていますから、時折内藤さんのお供を致すようですが、御酒ごしゅが一向いけないもので、中途から逃げて参ります。後は大抵葛岡さんと······

「まあ、葛岡さん? あの人はいけないんですよ。だらしがないんですよ」

「いゝえ、葛岡さんに罪を塗りつけるのではございませんが、宅のはあの通り不調法なものですから······

「それは私だって盲目めくらじゃございませんわ。主人は村島さんと御一緒だと言えば私が納得すると思っているのです。けれども私、そんな筈はないと存じますから、念を押しますと、それなら村島君のところへ行って訊いて来い、さあ、今から行って訊いて来いと屹度申します。家内を瞞したりお友達を鰹節かつぶしに使ったり、まあ、何たる大悪人でございましょう!」

「大悪人は厳しゅうございますわ」

「大悪人ですとも、あんな人は」

 と内藤夫人はお茶の残りを飲もうとして覚えずお茶碗をくつがえした。

「あら、宜しゅうございますよ」

 と安子さんは急いでハンカチを雑巾代りに使った。

「奥さま、私、甚だ手前勝手で済みませんが、もうこれでおいとまさせて戴きますわ」

「まあお宜しいじゃございませんか?」

「いゝえ、お冗舌をすればするほど家庭のボロが出るばかりです。それに何だか気がむしゃくしゃして来て······恐れ入りますが、お冷水ひやを一杯戴かせて下さいませ」

 と内藤夫人は尠からず取り上せたようだった。



 安子さんが内藤夫人を見送って茶の間へ戻った頃、三角関係のページはぐつくした姪の八千代さんは不図ふと我に返って腕時計を見ると、きっかり五時だった。略式ながら昼から殆んど坐り続けたので草臥くたびれた。夕御飯には未だ一時間あると思ったが、足伸しの為めに二階から下りて来た。

「あらまあ、お客さまはもうお帰りでございましたの?」

「今お帰りになって、私、こゝへ坐ったばかりよ。あゝ、肩が凝ったこと!」

 と安子夫人も草臥れている。お口を歪めて首を廻して見た。

「少し揉んで上げましょうか?」

 と八千代さんは郷里くにのお母さんが大の痃癖持けんぺきもちだから、この頃の女子大学生にしては能く気がつく。

「宜いのよ。でも私、ホッとしたわ」

「大変お骨の折れるお客さまでございましたのね」

「八千代さん、口はわざわいかどって、矢っ張り真正ね。私、ツク/″\感心しました。黙っていれば宜いことをついうっかりお喋りして、大変なことになってしまったのよ。まあ、聴いて下さい」

 と安子さんはお里が台所で晩の指図を待っていると承知でも、内藤夫人との一部始終を成るべく端折らずに物語らなければならない。一家の主婦となると、斯ういう目に見えない用事が次から次へと起って来るから、ナカ/\忙しい。

「内藤さんのお家のことを思えば宅の千吉なんかはあれで余っぽど好い方ですわ。第一人間が馬鹿正直ですからね。私を瞞せるものとは決して思いません」

「そうして叔母さんを真正に大切にして下さいますわ。私、いつもお母さんに然う申してやっていますのよ」

 と八千代さんも叔母さんが自ら好いと仰有る以上は反対出来ない。

「それは何うだか分りませんわ。余所さまのことを伺って見なければ比較が取れませんもの。けれども正直丈けは正直です。内藤さんという方は俸給の上ったのを奥さんに匿していなすったんですとさ。私そんなことゝも知らないで、内藤さんが宅の千吉と一緒に先月昇給なすったことをつい言ってしまったんです。すると奥さんは血相が変りましたわ。悪いことをしたと思いましたよ。お話を変えようとしても根掘り葉掘り種々とお訊きになるじゃありませんか? 仕方なしに何も彼も申上げましたわ。とゞのつまり、御主人の細工が悉皆すっかり分ってしまったんです。奥さんの憤ったってありませんわ。斯う詰めかけてお出になってね」

 と安子夫人は睨む真似をして、

「私もう少しで食いつかれるところよ」

「まあ、御夫婦の間でもそんなに匿し立てがあるものでしょうか?」

「あるものと見えますね、余所では。随分水臭い話ね。奥さんのお憤りになるのも無理はないわ。収入高ばかりの問題じゃありませんもの。然ういうお金に限って奥さんに内証のところへ注ぎ込むのでしょうから、ヤキモキなさるのも無理じゃありませんわ」

「男って恐ろしいものね」

 と八千代さんは巧く言っている。尤も、

「男って可愛いものね」

 と言うようなら、叔母さんには迚も監督が出来ないとあって、早速国許へ送り返されてしまう。

「恐ろしいものよ、悪いのは」

 と安子さんは宅の千吉をあつく信用している。

「内藤さんというお方は見たところは然うでもございませんのにね」

「私もそう思っていますの。お酒を召し上るのがいけないんでしょう。お話を承わると随分彼方此方あっちこっち飲んでお歩きのようですわ。八千代さん、あなたもいずれその中お嫁にいらっしゃるのですが······

「私、参りませんわ」

 と八千代さんが遮った。然うまで謹直に構えなくても宜いのに、この年頃は必ずこれをやる。

「お嫁にいらっしゃったら俸給の監督を厳重になさいよ」

「大丈夫ですわ」

「俸給は何処でも俸給袋へ入れて寄越すものですから、それを若し御主人が中身丈けあなたに渡すようなら、屹度細工があるんですよ。男というものは林檎の皮さえ自分では剥きたがりません。然ういう不精者が態※(二の字点、1-2-22)中身丈けにして来るようなら何か魂胆があるんですよ。ナカ/\油断はなりませんわ」

「そんなものでございますかね」

「それは然うと今夜は内藤さんのところは大変でしょうよ。私、考えても胸がドキ/\しますわ。あの奥さんの権幕では屹度食いついて放しませんよ」

「奥さま?」

 とこの時お里は待ち兼ねてか、するりと襖をあけて額越しに仰いだ。

「今行きますよ」

「奥さま、運送屋がお米を俵で持って参りましたが、間違いでございましょうね?」

「お米は越後屋ですわ。何うしたんだろう?」

 と安子夫人は漸くお神輿みこしを上げて台所へ御出馬になった。成程、運送屋の半纒を着た男が坐り込んでいる。

「間違いのある筈はございません。二俵とも荷札にお宅の宛名が書いてあります」

 ともうなり長くお里と遣り合った後らしい。安子さんは言われるまゝに荷札を検めたが、紛れもなく村島千吉様とある。

「変ねえ。差出人は山形県の鶴岡と、真正に変ねえ」

 と尚おも小首を傾げたものゝ、退きならず持込料を支払って、

「困るわねえ、台所を塞いで」

「米だからと思って、遣り繰って早く持って来たんですにな」

 と運送屋は不平だった。

「御苦労さま」

「奥さま、私、物置へ置いて参りましょうか?」

 とお里も持て余している。

「然うねえ。けれども家のものか何うかも分らないんだから」

 とそのまゝ二俵の米に広くもない台所の幅を狭めさせて、安子夫人は晩御飯の仕度に取りかゝった。八千代さんはその間にお座敷と茶の間を片付けてほうきをかける。

 千吉君はトボ/\頃に帰って来た。帰ってさえ来れば命はあるものと認めているから、安子さんは急いで迎えもせず、安心して膳拵えを続けた。成程、今度は至って無難だったが、橋口先生御指南の厳しさ、暗雲やみくもに唸らせられたと見えて、

おそくなった。晩くなった。あゝ、腹がった」

 と訴える千吉君の声は大分しゃがれていた。

「あなた、先刻さっきお米が二俵参りましたが、あなたが御註文なすったんですか?」

 と安子夫人は手の明き次第台所の邪魔ものを問題にした。

「来たかい? それは宜かった」

 と千吉君は驚かない。

「然うですか? あなたですか? お里や、矢っ張りお前の推量通り旦那さまが御註文なすったんですとさ」

「それでは物置へ持って参ります」

「兎に角然うしておくれ」

「どっこいしょ!」

 とやがて台所から洩れたお里の掛け声は米俵を動かす努力であった。

 食事が始まった時、千吉君は、

「安子や、今日着いたお米はね、あれは庄内米しょうないまいといって、日本一の米だよ。白くて焚き殖えがしてうまくてやすくて、何でも一挙五徳につくという話だった」

 と問題の米俵を紹介に及んだ。

「あなた、台所のことは一応私に御相談下さらないと困りますよ。これでも種々考えてしているんですから」

 と実は日が暮れる主人が帰るで、忙し紛れに控えていた安子夫人は渡りに舟と直ぐに苦情を申入れた。

「お前に言おう/\と思いながらつい忘れていたのさ。しかし好い米を格安に買えれば申分あるまい。実は橋口君の奥さんのお里は鶴岡で米屋さんだ。手広くやっているそうだよ。そこで橋口君に頼んで送って貰ったのさ」

「何れそんなことでしょうと存じましたが、これからはもうして下さいよ。私の方の予算が悉皆狂ってしまいますから」

「お前は未だ喰べて見ないから、そんなことを言うんだよ。東京の白米には何といっても外国米が交ぜてある。しかし庄内辺は人間が純朴だから然ういう誤魔化しをしない。日本一の米がそのまゝ口に入る。それから値が安いんだよ。運賃や持込料を払っても一升で二銭安いことになる。即ち一俵で八十銭安いことになる。それに量の好いことは橋口君が証明している。東京の米屋のは一斗が一斗ないそうだ。奥さんのお里のは何んな素人が量っても、たっぷり一斗あるそうだ」

 と千吉君は庄内米の為めに弁じた。

「あなたみたいな人はありませんわ。他人ひとから云われたことは皆その通りだと思い込みなさる癖に私の申上げることはっとも取り上げて下さらないんですもの。庄内米が日本一ってことはありませんよ」

「いや、日本一だよ」

「ねえ、八千代さん、岡山では備前米が日本一でしょう?」

 と安子さんは姪に加勢を求めた。

「えゝ、然うですわ。備前米こそ真正ほんとうの日本一ですわ」

 と主張した八千代さんは米のる木の岡山から来ている。

「熊本の人は肥後米が日本一だと申しますよ。お米や魚は誰しも自分のところで取れたのが一番好いと思っているんです。皆お国自慢ですから、それを一々本気になすっちゃ果しがございませんわ」

「はい/\、支那の人は南京米なんきんまいを日本一だと申しますよ」

 と千吉君は、早く兜を脱いでしまえば宜いのに、細君の口真似をした。

「あなた、冗談じゃありませんよ。日本一にしても、橋口さんの奥さんのお里なんかから取って戴きたかありませんのよ」

 と安子さんはもう好い加減にする積りだったが、茶化されたので、突如いきなり結論を口走ってしまった。

「それはお前、感情問題じゃないか? 好い品を安く買うのが主婦の腕だ」

「それじゃ越後屋の方は何うなさいますの? 断りますの?」

「断るさ」

 と千吉君も行きがかり上仕方がない。

「けれどもあなた、お米を断りますともう電話が借りられませんよ。お米はお断りで電話丈け拝借とは参り兼ねますからね」

「それは些っと困るね」

「大変困りますわ。越後屋のお蔭でこんな不自由なところも辛抱出来るんですからね」

「それじゃ半々にしようじゃないか」

「半々にしても急に註文がれば変に思われますわ。何だって又二俵なんて取ったんでしょうね!」

「それぐらい要ると思ったからさ。宜いさ、耗るものでもなし」

「虫がついてしまいますわ。それに場所塞げですわ」

「まあ/\、そんなに言ってくれるな。悪い料簡で取ったんじゃない」

「でも家では日に一升一合しか要りませんよ。たった二銭二厘儲ける為めに電話が借りられなくなったんじゃ詰まらないじゃありませんか?」

「それじゃ二俵丈けで後は断ることにしよう。代金を俺が負担すれば文句もあるまい」

「然うして戴けば好都合ですわ。越後屋の方へは何とか巧く申して置きますから」

「郷里から小作米が来たとでも言うさ」

「田地がおありですからね。オホヽヽ」

 と安子夫人はもう御機嫌が直った。米を二俵無条件で貰えば上等の半襟が五六本買える。考えて見ると詰まらないのは千吉君で、

「只の積りの謡曲うたいが案外高くつく。橋口君はうも口が巧くていけない」

 と呟いた。

「その代りに犬を二匹貰って戴けるじゃありませんか?」

「ところが犬は頭から断られて来た」

「まあ」

「七匹生れたことを話して一匹貰ってくれまいかと頼むと、橋口君は、さあ、と首を縦に振りかけたが、奥さんが洒々しゃしゃり出て、犬は嫌いだと言うんだ。猫なら好きですから何匹でも戴きます、だとさ。出来ない相談だから仕方がない。美事みごと撃退されてしまった。俺は駄目だよ。勧められることは上手だが、勧めることはあか下手ぺただからね」

「まあ、何て憎らしい奥さんでしょう? 猿虎蛇の謡曲で沢山なのにお里のお米の押売りまでして、此方の犬は一匹も貰って下さらない。余りですわね。何か私に遺恨でもあるのでしょうか? いわ。私近所界隈の猫を貰い集めて五六匹持って行って上げるわ」

 と安子さんは敦圉いきまいた。

 こんな身のある談話はなしの中に晩餐をしたため終ると、千吉君はソワ/\して、

「実は俺はこれから又出掛けなけりゃならない」

 と言った。

「まあ、何処へいらっしゃいますの?」

「内藤君のところへ」

「あら、今日内藤さんの奥さんがお見えになりましたのよ」

 と安子さんは晩迄取って置いて訓戒の材料にする積りでいた問題に移らなければならなかった。

「然うかい。あの奥さんは厳しいんだね。内藤君は俺が誘ってやらないと機嫌好く出して貰えないんだよ」

「何処へお誘いになりますの?」

「今夜は何処って目的あてもない。唯誘い出してやれば停留場で別れても宜いんだ」

 と好人物の千吉君は例によって鰹節役を仰せつかっている。

「あなた、私それを今晩ゆっくり申上げようと思っていたんですよ。実は今日奥さんが大変なんでしたの」

「あの奥さんはヒステリーだよ」

「あなた、し私がお冗舌をし過ぎたんなら堪忍して頂戴よ。あなたの御迷惑になるかと思って、私······

 と安子さんはしおらしく言い淀んだ。細君同志の交際も好いが行違いのないようと常々断られている。八千代さんは気を利かして二階へ退却した。

「何を言ったのさ、お前は?」

「内藤さんが昇給なすったことをついお話の序に申上げてしまったんです。お悪かったでしょうね?」

「ふうむ。そうして奥さんは初耳だったと言うんだろう」

 と千吉君は案外覚りが早い。

「然うでございますよ。先月のも昨年のも、それから年末賞与も半分ばかり」

「ふうむ。これは驚いた。内藤君までやっているのかなあ」

「内藤さんまでと仰有ると他にも未だそんな悪い方がございますの?」

「あるとも。流行っているんだよ、この頃。中には念入りに俸給袋を偽造する奴さえある」

「まあ、あなたは大丈夫でございましょうね?」

 と安子さんは極めて真剣な顔をした。これでは八千代さんに注意の附け足しをしなければならない。

「俺は大丈夫だが、内藤君には困ったね。唯さえあの通りの奥さんだ。今頃は大変だろうぜ」

「私も実はそれを案じているんですよ。何たる大悪人でしょうって、もう私の申すことが耳に入らないんでございましたからね」

「何うしようかな?」

「お控え下さいよ、今晩丈けは。喧嘩の最中へお出なさると、私が何か細工でもしたように取られて困りますわ」

「それも然うだけれど、仲裁してやれば宜かろう」

「あなたは何処までもお人が好いのね。奥さんは酔って帰る時はいつも村島さんが御一緒でと其れは/\厭味たっぷりに仰有いましたわ。私も不断なら黙っちゃいないんですが、取りのぼせていらっしゃいましたからね。あなたを相棒ぐらいに思っていなさるのよ」

「迷惑な話だ。それじゃ思い止まるか。相談があれば明日言い出すだろう。まさか今夜中に取り殺されるようなこともあるまい」

「然うして下さいよ。今日は実は橋口さんへ御挨拶に上る御相談にお出になったので私、明日又奥さんにお目にかゝりますからね。考えて見るとあなただって怪しいものよ。うにお始めになった謡曲のお稽古を今日まで匿していらっしゃいましたのね」

「匿したんじゃない。言いおくれたんだ。お前が口やかましいからさ。この分で行くと今に俸給を匿すよ」

「真平ですわ」

「内藤君のような善人でも奥さんの出方次第ではあんな謀叛をするからね」

「奥さんを瞞してお酒を飲む人が善人なことはないわ」

「いや、内藤君のところは確かに細君に責任がある。あゝグイ/\やられちゃ自然小刀細工をするよ。俺と同じことで正面からは太刀打ちが叶わないんだからね。お前も余り圧迫を加えない方が宜いよ」

 と千吉君は冗談とも本気ともつかないことを言い出した。

「私、あなたを圧迫なんかしませんわ」

「圧迫したじゃないか?」

「まあ、それは聞きものですわ。いつして?」

先刻さっきしたよ」

「先刻?」

「米を二俵唯取りしたろう?」

「あんなこと圧迫じゃないわ」

「当てがい扶持の小遣から米二俵は可なりの圧迫だよ」

「詰まらないことを根に持っていらっしゃるのね」

「一俵負けておくれ」

「厭やですよ」

「そんなことを言わないで」

「いゝえ、いけませんよ。私、橋口さんの奥さんが小憎らしくて迚も負けられませんわ」

 と安子夫人は何うしても承知しなかった。



 翌日安子さんはお約束に従って内藤夫人を訪れた。お仕度をしながらもまたみちすがらも、昨夜ゆうべあったに相違ない経緯のことが時々考え出されて、その今日直ぐ顔出しをするのは何んなものだろうかと、多少懸念がないではなかった。しかし夫人は待ち構えていたようにイソ/\と迎えてくれた。恐らく暴風あらしの後の日本晴れだったろう。一寸ちょっと誘いに寄ったにしても女は然う簡単に行かない。主は礼として引っ張り上げざるを得ず、客は儀として上り込まざるを得ないのである。

「まあ、坊ちゃんの大きくおなりなこと!」

 と安子夫人は挨拶が済むと直ぐにお子さんを問題にした。

「清坊、御挨拶は?」

 とお母さんに促されて清君はピョコンとお辞儀をした。

「まあ/\、お行儀のおよろしいこと、清さんは」

 と安子さんは忘れていた名前を始終覚えていたように附け加えた。

「いゝえ、乱暴で仕方がございませんのよ」

 と夫人は一応謙遜したが、子供に重きを置かれゝばおのずか相好そうごうが崩れて来る。

「花子さんは学校でございますね?」

 と安子さんは大きい方の名前を覚えていた。

「はあ、喧嘩相手がいませんので、昼前丈けは静かでございます」

 と、これで子供の話が少時しばらく続く。その間に女中がお茶とお菓子を持ち運び、清君も退屈になって、

「僕、お祖母ちゃんと遊ぶ」

 と立ち上る。

「おとなしくなさいよ。昨日みたいに我儘を言うんじゃありませんよ」

 とお母さんは注意して、

「奥さま、昨日夕方お宅から戻りますと、あれがお祖母さんと大喧嘩を始めて居りましたの」

「まあ」

「お故郷へ帰れ、お故郷へ帰ってしまえ、と申して、お祖母さんを追い出しているのでございます。それも、お父さんもお母さんも然う言っているんだから、帰れ、さあ帰れ、と申すじゃございませんか? 私、ハラ/\致しましたわ。そんなこと些っとも申した覚えはありませんのに、子供って真正に口から出まかせのことを言うものでございますわね。見す/\嘘と分っていても、聞けば聞きっ腹で、お祖母さんも好い心持は致しません」

「然うでございますとも」

 と安子夫人は大きく頷いて同感の旨を示した。

「私も家へ入る早々あれを叱ったんじゃ面当てがましくなりますから、種々いろいろすかしましたが、矢張り、帰れ/\、と言い募ります。お祖母さんも行きがかりで、帰りますとも、と仰有って、戸棚から鞄を持ち出すという騒ぎです。年寄は一徹でございますからね。私、困りましたわ。今度は母をなだめなければなりません。けれども孫は余っ程可愛いものと見えますね。その中に清坊が鞄へ手をかけて、『お祖母ちゃん、お土産を一杯入れて来て頂戴よ、この鞄へ』と頼みますと、お祖母さんは『まあ、お前はこんなに追い出して置いて、私が又帰って来ると思うの? お祖母ちゃんは遠くへ行ってもう帰って来ないんですよ』と仰有って、ホロ/\涙をこぼしました。すると清坊は、『帰って来なくちゃ厭やだあ!』とお祖母さんに縋りついて泣き出したのでございます。母はそのまゝ清坊を抱き締めて、『それじゃしましょう。坊と一緒にいましょう。ねえ、もうお泣きでないよ。お春や、子供は罪のないものだね』というような次第わけで、悉皆御機嫌が直ってしまいました」

「まあ/\、よろしゅうございましたこと」

「年寄はまるで子供でございますわね。直ぐに勃気むきになりますから、梶を取るのにナカ/\骨が折れますわ。それに子供が何だだと始終世話を焼かせるのでございましょう?」

「真正に御大抵じゃございませんわね。宅なぞでは年寄も子供もないのに、毎日女中と二人で天手古てんてこを舞っているんですから、お察し申されますわ」

「奥さま、然う仰有って下さるのはあなた丈けでございますわ。私の苦労なんか誰も分りませんの。それは/\酷いものよ。殊に主人は得手勝手で、厭やに世帯染みやがってなぞと同情のないことを申します。この間も、村島君の奥さんを御覧、始終綺麗にしていらっしゃるって、あなたと比較を取るじゃございませんか?」

「まあ、厭やだこと!」

真正ほんとうに羨ましゅうございますわ。始終キチンとしていらっしゃれるんですもの。宅なぞでは子供がございますから、私が真黒になって働かなければ、女中がいてくれませんわ。居つかないんですよ、お宅さまと違いまして。またこの頃の女中くらい御機嫌の取りにくいものはありませんのね。何方が使っているのか分りません。今度は好いのに当ったと思って相応目をかけていますのに、矢張り不平があると見えまして、もう国許の母親が病気なんでございますよ」

 と内藤夫人は話題を女中難に移した。

 安子さん今日の目的は内藤夫人を三越へ誘って手土産を見繕い、それから良人達の謡曲の篤志とくし師匠橋口家を訪れるにある。そうしてこの外出全般の主眼は交際即ち例の退屈凌ぎにあって存する。それでおしむところなく一々相槌を打っていたから、連れ立って三越へ向うまでには二時間近くもかかった。但しこれ丈け話し込んだのに、昨日の主人公の俸給の件は一向出て来なかった。安子さんは、まあ宜かったとくつろいだようなものゝ、何だか物足らない心持もした。序ながら報告あって然るべきところを、この奥さん、ナカ/\食えない人だ。弱味を見せないのは甚だ水臭い。拝むようにして秘密を聴いてしまえば、後は擦ってしまった燐寸マッチのように顧みない。今度昇給があっても、もう/\決して教えてやるまいと思った。

 しかし三越に着いて、込まない中にと先ず食堂へ入って御註文を済ませた時、

「奥さま」

 と内藤夫人が囁いた。

「は」

「申し後れて済みませんが、昨日は宅のことを種々と有難うございました」

「まあ、何のことかと存じましたわ」

 と安子さんは覚えず微笑んだ。そら来たと思ったのである。

「私、昨夜主人をひどい目に会わせてやりましたのよ」

「まあ!」

「あなたから悉皆承わったとも知らずに、主人は帰って来て晩御飯の箸を置く早々今夜は村島君に誘われて又出かけなければならない、と申しました。何処へいらっしゃいますの、と私は未だ爪を匿していて、優しく訊きましたの。支配人のところへ一寸顔出しをするんだ、と会社の御用でもあるように高飛車に出ましたから、私も最早堪忍しません。俸給の上ったお礼? でしょう? と斯う覗いてやりましたの。すると主人は妙な顔を致しましたわ。悪いことは出来ません。直ぐ相に現れます。今晩は私少々伺いたいことがあるんですから外出はお断りですよ、とかさず極めつけますと、何だ? 何だい? とその慌て方ってありませんのよ。子供が寝てからゆっくり申上げますから、あなたも胸に手を当てゝ能うく考えて下さい、ね、と私は落ちつき払っていましたわ」

「奥さま、私、大丈夫でございますの?」

「御安心下さい。決して御迷惑はおかけ致しません。主人は身に暗いところがありますから、直ぐにそれと思い当ったのでございます。いつになく子供に寝巻を着替えさせたり、私の枕元へ夕刊を置いて行ったりして、機嫌を取り始めましたの。けれどもそんなことで俸給を誤魔化されちゃ溜まりませんわ。ねえ、奥さま」

「ホヽヽヽ。宅でも何か首尾の悪いことがありますと、私にお茶を入れてくれるのでございますよ」

「見え透いたことをして、真正に女を見括みくびっていますわ。私、腹が立ちましたから、子供を寝せつける風をしていつまでも待たせて置いてやりましたの。斯うされると益※(二の字点、1-2-22)気が咎めると見えて、しまいには私の枕元へ坐り込みました。それでも図々ずうずうしいものね。何だい? 話ってのは? と表向きは相談でも受けるような態度ですから、此方もついにくまれ口になりますわ。斯う言ってやりましたのよ。私、もう先月から知っているんですよ、自首なすったら如何? 罪が軽くなりますからってね。主人はっと考え込みました。あなたは悪いことを沢山していなさるから、何の口だか分らないでしょう? とからかっても、未だ黙っています。他の口は後からにして先ず俸給のことから伺いましょう、と畳みかけますと、もう包みきれないと思って、実は済まなかったが、と逐一白状してしまいましたのよ。それから私······

 と内藤夫人のヒソ/\語りが佳境に入った時、お誂えのお弁当が来た。物を喰べていれば別に口を動かすに及ばないから、お話はそのまゝバタリと中絶した。安子さんも追求する必要を認めなかった。これによってこれを見るに、女と雖も口塞げさえあれば必ずしもお冗舌でない。

 しかし、それもほんの束の間だった。内藤夫人は食事の終りがけから再び続きものに取りかゝって、それをゆる/\と完結してから、

「それで今日は私、お金持よ。奥さま、これは何うぞ私に払わせて頂戴」

 と言って、安子さんの主張を押えつけようとした。

「いゝえ、それでは私が困りますから······

「構いませんのよ。私、お蔭さまで主人から賠償金をたんまり取って参りましたの」

「真正に済みませんのね」

 と安子夫人は困り切った。しかし秘密に対して秘密を打ち明けて貰ったのは嬉しかった。御主人謝罪の辞から慰藉料の押問答まで細々と聞かされゝば感激せざるを得ない。今度の賞与の時には直ぐに知らせてやりましょうと心に誓った。

 両夫人は食堂を出て漸く当日の用件、贈物の見立てに取りかゝった。これが又手間を取る。千吉君は安子さんを連れて三越へ行くと、帰途無口におなり遊ばすぐらい急き立てゝも半日たっぷり潰れるので辟易している。今日は然ういう気の長い奥さんが二人お揃いになって、殊に何を買うのか方針がきまっていないのだから、日が暮れるかも知れない。

「奥さん、一寸、この煙草たばこセットは如何でございましょう?」

 と安子さんが硝子箱の中を物色して相談をかければ、

「好い細工ね」

 と内藤夫人は能く透して見た末、

「あらまあ! 百二十円よ」

 と吃驚びっくりする。

「まあ、百二十円ね。銀ですわ。私はすずの積りだったの」

「錫ぐらいのものよ。猿虎蛇のお礼に銀は過ぎますわ」

「ホヽヽ、お口が悪いのね。それじゃ矢っ張りあの茶器に致しましょうか?」

「然うねえ。けれども余り安物を持ち込むのも考えものよ。田舎の人は直ぐに値踏みをしますからね。けちだと思われちゃ業腹じゃありませんか?」

 といった具合で、要するに好いものは高く安いものは悪い。それを安くて好いものが欲しいのだから、勢い彼方此方と尋ね廻らなければならない。

 折からお節句で五月人形の陳列があった。それへ差しかゝった時、内藤夫人は歩をとどめて、

「奥さま、橋口さんではこの春、男のお子さんがお生れになりましたわね?」

 と訊いた。

「はあ、男のお子さんでございますのよ」

 と安子さんは質問の意味を察して陳列場の方へ目をくれた。

「如何でございましょう」

 と夫人は顎でしゃくった。

「これこそ思いつきでございますわ。女続きのところへ男のお子さんで大喜びのところですからね」

 と安子夫人も無論大賛成で、兎に角際物という方針が立った。

「おのぼりなぞはもう屹度お求めになったでしょうし······

「金太郎も月並みね」

「まあ/\、皆ナカ/\値が張りますね」

鍾馗しょうきは宜いわ。些っと似ていますわ。矢っ張り高いわ」

「太刀が一番恰好よ」

 と見て歩いている中に離れ/″\になってしまったが、少時すると内藤夫人は、

「奥さま! 一寸々々」

 と何か大発見でもしたように呼んだ。安子さんが人を分けるようにして近寄ると、

「これ如何でしょう?」

「まあ! 怖いようね」

 と安子夫人が眺め入ったのは鵺退治ぬえたいじの人形だった。弓を持った頼政がかたわらに控え、猪早太いのはやたが矢を負った怪物を押えつけて短刀を振り翳している。

「猿虎蛇は穿うがっているじゃありませんか?」

「成程、猿虎蛇ですわね」

「退治するところですから利いていますわ。あんな謡曲を教えて戴く面当つらあての意味にもなって、お礼にはこれに限りますわ」

「ホヽヽヽヽ、奥さまも随分ね」

「あら、ひどいわ。猿虎蛇の声だと仰有ったソモ/\の発頭人はあなたでございますよ」

「然うでございましたか知ら」

「まあ、ずるいのね」

 と内藤夫人は睨む真似をする。

「そんなら獅咬火鉢しがみひばちは何方?」

「あれもあなたでございますわ。私は火吹ひふ達磨だるまと申したばかりよ」

「重々私が悪いのね。冗談は兎に角この猿虎蛇に致しましょうよ。あんな謡曲にお礼は何だか惜しいような心持がしましたが、これなら溜飲が下りますわ」

 と安子さんもお口は決してよろしくない。

「私もよ。けれども大分値が張りますわね」

「それは仕方がありません。仇討ちですもの、犠牲の積りで少し資本もとを入れましょうよ」

「まあ、執念深いのね」

 と二人は到頭猿虎蛇を持ち込むことになった。品物を出口へ廻すように頼んでお剰銭つりを待っている間に、

「あらまあ、奥さま、もうソロ/\三時になりますよ」

 と内藤夫人は初めて気がついた。

「三時十分前ね。でも急げば四時までに参れますわ」

 と安子夫人は最前から度々腕時計を見て三越時間の急速を意識していたが、

「奥さま、私、序に一寸見たいものがございますの」

「私もよ。実は御遠慮申上げていましたの」

 と内藤夫人も未だ用事があるらしかった。

 季節に入ってから、季節のものを買うようではもうおそいというのが安子さんの持論である。猫も杓子も手を出すようになるとり古しばかりで好い柄がない。女は買って来た柄が直ぐ気に入らなくなること真に不思議である。

「あなたが早く買いにやって下さらないから、私はいつも同じお金を払って柄の悪いものばかり背負しょい込むんですわ」

 と常々千吉君にこぼしている安子夫人は、昨夜思いも設けず白米二俵を唯せしめた時今日の三越を頭に描いた。内藤夫人にしても御良人ごりょうじんから慰藉料を、頂戴したのか強要したのか、兎に角たんまり手に入れた折、今日の三越を念頭に置いたに相違ない。そこで意気懐中共々全く投合した両夫人は手を取るようにして階段を下りると、もうソロ/\出始めた薄物をあさって歩いた。それが自分のものばかりでなく、ひとのものまで肩に当てがって、

「少し地味ですけれど、好いわよ」

 なぞと一々目利めききするのだから容易でない。無念無想の一時間余りが過ぎて、各自一反ずつ家へ届けさせる段取りになると、時計の針は当然四時を指した。

「奥さま、私、忘れていましたが、清坊に約束がありましたの。一寸お附き合い下さいませ」

 と内藤夫人は安子さんをエレベーターへ誘い込み、口先は急いでも中の鏡で顔を直したりして落ちついたものである。安子さんはっと腕時計を見た。

「込むわね」

 と間もなく二人は玩具の陳列場を分けて歩いていた。

「ないわ、生憎」

「何でございますの?」

「犬よ。これ/\、これをこの間から責められていますの」

 と内藤夫人の指さしたのは車のついた大きな赤犬だった。

とても大きいのね」

「一番大きなのでなくちゃ承知しませんの」

「坊ちゃんは犬がお好きですか?」

「大好きよ。一軒置いてお隣りの犬が遊びに来ますとナカ/\帰しませんの。そのくせ猫は大嫌いなんですよ」

「奥さま、一匹お飼いになっては如何?」

 と安子夫人は橋口夫人のことを思い浮べながら、玩具の犬の取引最中へ真物ほんものを薦めた。

「飼ってやりたいと存じまして、御用聞きに頼んでありますの」

「宅で一昨日の晩生れましたのよ。七匹! 今の中なら何れでも択り取りでございますわ」

「まあ。どんなに清坊が喜ぶでしょう。是非一匹お願い致します。猫は御免ですけれど犬なら泥棒の用心にもなりますから」

 と内藤夫人は橋口夫人とは正反対だった。

「私の方からお願い申上げますのよ。何分七匹ですから縁づけるのが一苦労でございます。真正ほんとうに助かりますわ」

 と安子さんはお礼を言った。これだからこの奥さんとは気が合うと思った。相手にもよるだろうが、ノメ/\撃退されて来た主人に較べると、一寸当って見たばかりで美事一匹片付けた自分の鼻が高かった。

 用事が悉皆片付くと妙に気忙しくなって出口へ急ぐ途すがら、

「奥さま、大変晩くなりましたわね」

 と内藤夫人は今更声を潜めて相談をかけた。

「いっそ明日に致しましょうか? これからでは日が暮れてしまいますわ」

 と安子さんも、もう一つの目的を達しているから徒労とは思っていない。

「然う致しましょうか。余り晩くなりますと子供が可哀そうですからね」

「私、先刻からそれを気にしていましたの」

「明日御都合は如何?」

「私はいつでも」

「それでは朝の間に済ませましょう」

「私、お誘い致しますわ」

「いゝえ、私、お誘い致します。その方が道順ですから」

「それではお言葉に甘えてお待ち申上げますわ」

「九時頃上りますよ」

「何うぞ」

草臥くたびれましたわ、今日は」

「お昼から立ち通しでございますもの。それに込みますから、何うしても······

 と言っている中にその人込みで自然表へ押し出されてしまった。安子さんは不図ふと気がついて、

「あら、猿虎蛇を忘れて参りましたわ」

「まあ/\」



 昨日の打ち合せに従って、内藤夫人は朝の九時頃安子夫人を訪れた。唯一軒主人の為めに義理を果すのに三日も往復する。御念の入った話だけれど、交際だから仕方がない。しかし年外年中ねんがねんじゅう家事に縛られている主婦は斯ういう内助の機会を利用して外出する必要がある。自分としては気散じになり、衣裳としては虫干しになる。内藤夫人がこの三日間あれやこれやと余所行きを出し入れしたことは言うまでもない。安子夫人に於ても朝から示威運動に丹精を凝らして待っていた。婦人は生れながらにして男子よりも趣味が甲羅を経ている。単調を忌み変化を喜ぶから、昨日と全く同じ服装で同じ人に顔を合せるのは一種の非礼と心得ている。

 この故に内藤夫人は、

「奥さま、今日は瘤つきで上りましたのよ」

 と子供をつれて来た申訳をしながらも、もう安子さんの羽織と帯が昨日のでないことに気がついた。

「まあ。坊ちゃん、よくお出になりましたのね。さあ、うぞお上り下さい」

 と安子さんは注意を奥さんと清君に等分したけれど、相手の身のまわりを悉皆見て取って、疑問としたところは唯羽織の紐丈けだった。昨日の品のようにも見え、あれはもう少し鎖が細かったようにも考えられた。兎に角奥さんが斯う何も彼も派手好みで来なさるなら自分も遠慮するに及ばなかったと後悔した。

「有難うございますが、又長くなるといけませんから、奥さまさえお宜しければ直ぐお供致させて戴きましょう」

「まあ一寸お宜しいじゃございませんか? 清さん、ワンワを御覧に入れます。何うぞ此方へ」

「実はそのワンワのことでこれがもう昨夜から大騒ぎをしてせがみますし、毎日のように家を明けて年寄にも気の毒ですから、今日は思い切ってつれて上りました。こゝで一寸拝見させて戴けば結構でございますわ」

「けれども奥さま、ポチの産室は台所の揚げ板の下でございますのよ。真正に一寸お上り下さいませな。坊ちゃんを取ってしまうとは申しませんわ」

「オホヽヽヽ。男の子は一人でございますからね。それでは一寸お邪魔させて戴きましょう。清坊、お靴を脱いで」

 と内藤夫人は到頭意を決した。上ると手間がかゝると思ったのだが、上るまでに可なり手間がかかった。

 無論座敷へ通される。しかし坊ちゃんが待ち兼ねとあって、お茶を一杯ゆる/\話しながら戴いた丈けで台所へ案内された。

「こんな汚いところへ失礼でございますが······

 と安子夫人がスリッパを薦める間に、お里はもう揚げ板を上げて清君をさしまねいた。

「やあ、沢山いる。好いなあ!」

 と清君は床下へ※(「足へん+倍のつくり」、第3水準1-92-37)のめり込まないばかりに覗き込む。

「まあ、可愛いこと! お乳を飲みたがって押し合っていますわ。随分生んだものでございますわね」

 とお母さんも感心している。

「七匹いますのよ。些っとあやかりたいくらいですわ」

 と安子さんは満更冗談ばかりでない。

「その親の頸の畜犬票が安産のお守りになるんでございますってね。私も初産の時、親戚から戴きましたわ」

「まあ、然うでございますの? 道理で一遍盗まれましたわ。取って持って行くところをこのお里が見つけたのでございますよ。けれども安産のお守りでは仕方ありませんわ」

「然うね。お授かりになってからのお話でございますからね。けれどもお守りはこの通りお手のものですから、精々おあやかりなさいませよ」

「オホヽヽ、一度に三人も産みましょうか」

「お母さん、僕のはれ?」

 と頻りに床下を物色していた清君が訊いた。

「何れでもお好きなのを差上げますよ。一番の先口せんくちさんですから、択り取り見取りでございますわ」

 と安子夫人は又頻りにくれたがる。

「清坊や、そんなに手を出すと親に食いつかれますよ」

 とお母さんは注意して、

「奥さま、お宅のお台所は使い勝手が好く出来て居りますのね」

 と周囲あたりを見廻す。

「いゝえ、この通り狭くて不自由しているんでございますよ。前触れもなしにお米を二俵なんて持ち込まれますと、身動きも出来ませんのよ。オホヽヽ」

「宅だって同じことですわ。物置が洩りますから、未だに台所に転がしてありますのよ」

「忌々しいわね。今日は庄内米のお礼まで申上げなければなりませんわ」

「でも奥さまはお米で儲けていらっしゃるんだから宜いわ。私こそ一文にもなりませんのに馬鹿々々しいのよ」

「私、少し人が悪いんでしょうかね?」

「少しどころか大変お悪いんですわ」

「まあ、ひどいこと!」

「オホヽヽ。まあ/\、ついうか/\と又お喋りを始めましたよ。清坊や、もう宜いでしょう? 有難うを仰有い。然う/\」

「何う致しまして」

 とお里は恐縮する。

「真正に有難うございました。奥さま、ソロ/\お供致しましょう」

「それではお約束ですから最早もうお止め致しません。余りお忽々そうそうでございますわね」

 と安子夫人は納得した。

 一時間ばかりすると、両夫人は清君と例の猿虎蛇を携えて橋口家の玄関に現れた。折から橋口夫人は末の子に添え乳をした特権として長々と寝転んだまゝ新聞を拝見していた。※(二の字点、1-2-22)やや慌しい女中の注進に、

「お二人? お通し申しておくれ」

 と落ちついて答えたものゝ、直ぐに鏡台へ這い寄って、鏡に映る自分の姿と少時しばらく相談しなければならなかった。然う懇意でない女客の来訪は敵勢の奇襲ぐらいに値するから、相応の身支度が必要である。その間に両奥さまは客間へ案内されたが、襖のところにペタリと坐ってしまった。男子のようにツカ/\と入らないのをもって礼とする。尤も途中悪口を言い/\来たので敷居が高かったのかも知れない。

「まあ/\、お揃いで、ようこそ」

 と橋口夫人は案外早目に悉皆改まった姿を見せて、

「さあ、何うぞお通り下さいませ、さあ、何うぞ」

 と促すこと再三に及んだ。しかしお客さま方は、

「いえ、もうこゝで結構でございます」

 と自分達が通らないばかりか、入口を塞いでいる。

「何うぞ奥へお進み下さいませ。それでは御挨拶申上げられませんから」

 と相手が理窟を言い出すまで遠慮した後、

「さあ、奥さま」

「まあ、あなたから」

 と互に謙譲の美徳を発揮しながら、清君を間に挾んで一二寸宛ジリ/\と漸くのことで客間へにじり進んだ。

「エスカレーターのようだ」

 と清君が囁いたけれど、皆真剣だった。次いで橋口夫人も入ったが、これが又今の仇討ちの積りか、妙に敷居際を恋しがって端近にへりくだった。

「奥さま、これではお高過ぎて御挨拶が申上げられませんわ」

 と安子夫人は早速竹箆返しっぺいがえしをする。摺った揉んだでナカ/\手間がかゝる。それからイヨ/\本式の御挨拶に移る。

 安子夫人は橋口夫人に一面の識があるので、内藤夫人を紹介した上、

「主人達が一かたならぬお世話さまにあずかりまして、真に有難う存じます。疾うに御礼に上らなければなりませんのに、つい/\手前にかまけまして何とも申訳がございません。そこで今日は内藤さんに急き立てられてお邪魔に上りましたの。私、横着ものでございましょう?」

 と口上の役を勤めた。

「何う致しまして。一向行き届かないのでございますよ」

 と橋口夫人は又頭を下げた。

「これはおはずかしい品でございますけれど、ほんのお印までに······

 と今度は内藤夫人が引き取って贈物を押し進めた。

「まあ/\、そんな御心配をして戴きましては······

 と橋口夫人が恐縮するのを、

「奥さま、真正の子供だましでございますから······

 と安子夫人がおっ被せて、形式は※(二の字点、1-2-22)ほぼ終った。

 お茶が出て世間話になったが、橋口夫人は清君の存在を無視せずに、

「坊ちゃん、お退屈でしょうからお相手を呼びましょうね」

 と気を利かして同い年の長女に出仕を命じた。間もなく可愛らしい洋服姿の八重子さんというのが絵雑誌を抱えて出て来た。これが七三か耳かくしで、小説を手にして現れる年頃だと、同歳でもお相手はさせられない。同僚の息子さんにも不良性を帯びたのがいないに限らないから、娘は殊更匿して置く必要がある。然るに五つか六つだと安心して、

「八重子や、これは内藤さんの坊ちゃんですよ。仲よく遊びなさい」

 と言える。尤も令息と令嬢は無邪気な丈けに年頃の男女ほど然う直ぐには馴染まなかった。少時の間お互に、こんな変な子があるものか知らといったように珍らしがっていた後、八重子さんが思い切って絵雑誌を相手の鼻の先へ突き出した。そうして、

「コドモノクニね?」

「えゝ」

 というを機会きっかけにもう別懇になってしまった。

 その間に大人連中は大分話し込んだ。

「町人と違いまして、まさか義太夫や長唄は唸れませんと主人も申して居ります。それに町家の音曲おんぎょくは何ういうものか淫靡いんびなところがございまして、迚も私共の家庭には入れられませんからね。同じ近所迷惑なら、矢張りお謡曲でございますよ、殿方の芸事は」

 と橋口夫人は御良人の薫陶よろしきを得て、ソロ/\謡曲の功徳を説き出した。

「それは何と申しても謡曲が一番上品でございますわね。けれども宅のは近所迷惑どころか、姪や私に恥かしいと申して、家では未だ一度も歌って下さいませんのよ」

 と安子夫人は自分が抑えているくせに巧いことを言う。

「村島さんは内気でいらっしゃる所為せいか、宅へお出になっても然う大きなお声はお出しになりませんわ。けれども筋はナカ/\およろしいんだそうでございますよ」

「何うでございますか。何をやっても不器用な人でございますからね」

「いゝえ、小器用なのは伸びないと申しますわ」

「奥さん、宅のはあんな胴間声どうまごえで末の見込がございましょうか?」

 と内藤夫人も良人の成績を気にした。尤も安子夫人同様、上達をこいねがうのではなくて、何なら早く諦めさせようという肚だから宜しくない。

「内藤さんはお声が大きくて態度がお立派だと申して居りますのよ」

「つまり見かけ倒しで真底しんそこは駄目なんでございましょう? よく性格が現れていますわ」

「いゝえ、何う致しまして、声量がタップリおありですから、楽々と御上達なさいますのよ」

 と橋口夫人は如才ない。

「全く声量丈けが取柄と見えまして、お隣りへお気の毒なくらいでございますのよ」

 と内藤夫人が笑った時、清君は絵雑誌から頭をもたげて、

「僕のところではお父さんが謡曲を歌うとお母さんが御本を取り上げてしまうんだ」

 と八重子さんに話し始めた。

「清さん、それは何の御本? まあ、汽車ですか? 綺麗だこと!」

 と直ぐ側に居合せた安子夫人はそれとなく口封じに努めた。しかし八重子さんは、

「家のお母さんは取りませんわ。お父さんと御一緒に歌うのよ」

 と言った。

「取らないの? 僕のところは取る。喧嘩になる」

 と清君は両手を挙げて得意になっている。

「清さん、清さん、後生ですから小母さんにその御本を拝見させて頂戴」

「これ?」

「清さんも八重子さんもこんな汽車に乗ったことがあって?」

 と安子夫人はナカ/\骨が折れる。

······つまり村島さんにも内藤さんにもれ/″\違った天分がおありですから、そこに目をつけて主人は一生懸命なんでございますよ。お弟子さんが有望だと自然励みが出ると申しましてね」

 と橋口夫人は流石にお師匠さんの御内助だ。何処か褒めどころを捉まえて煽て上げる。箸にも棒にもかゝらないから、今の中にお諦めなさいとは決して申渡さない。しかし内藤夫人はもう何も耳に入らず、

「はあ、然様さようで。然様でございますか」

 と同じことばかり繰り返していた。

「奥さま、申後もうしおくれましたが、この春はお坊っちゃんでお芽出度うございました。内藤さんのところのように両方お揃いで真正に羨ましゅうございますわ」

 と安子夫人は安全を期する為めに話題の転換を試みた。

「有難う存じます。私よりも主人よりも郷里の両親が大喜びで、早速見に参りましたのよ」

 と橋口夫人が受けて、それから専ら御郷里の噂になった。

「それではお米を送って戴いたのは奥さまのお里でございますわね。お里がお米問屋ならこの上心丈夫なことはありませんわ」

 と安子夫人が冗談を言った。

「いゝえ、士族の商法で、からきし駄目でございますよ」

 と橋口夫人は諧謔をかいさない。先刻さっきお米のお礼を言った時も士族の商法と仰有ったように安子夫人は思い出した。

「宅の隣りに矢張り鶴岡の方がいらっしゃいます。木田さんと仰有いますが、御存知じゃございませんの?」

 と内藤夫人が次いで言葉を※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)さしはさんだ。

「木田さん? 存じませんわ」

「奥さまも鶴岡でございますのよ」

「木田という苗字は御家中にはございませんわ。町家の方でしょう。御家人でしょうか? 御家中なら大抵存じて居りますけれど」

 と橋口夫人は平民を眼中に置いていない。

 安子夫人と内藤夫人は恐れ入って間もなく退出した。停留場へ向う途中、

「何て厭やな奥さんでしょうね」

 と内藤夫人が先ず口を切った。

「私達平民はとても寄りつけませんわ」

 と安子夫人も同感だった。

「もう謡曲なんかお断りですよ」

「清さんは痛快でしたね。オホヽヽ」

「私、困ってしまって、身体がほてって参りましたの」

「構うものですか。自分でも言いたいことばかり言っているんですもの」

「士族の商法にしてはお高いお米ね」

「そこが町人と違うのよ」

「まさか義太夫や長唄も唸れませんてね。オホヽヽヽ」

「私、長唄なら少し下地がありますから腹が立ちましたわ」

「あゝいけ図々しくては猿虎蛇の声も平気なんでしょうから、結局利かせた積りの贈物も通じますまいよ。無神経ですからね」

「して見ればあんなに弾むにも及ばなかったわ。何うせ田舎並みに値踏みをなさるんでしょうから」

「真正に忌々しいわね」

「奥さま方もお始めになったら如何なんて仰有ってよ。何処まで好い気なものでしょう!」

 と両夫人は散々欝憤を洩らした。

 安子さんは家に着いてから、今日の訪問をあれこれと考え出して、可笑しくもあれば腹も立った。そこで三時頃姪の八千代さんが学校から戻ると早々、

「八千代さん、今日は大失策おおしくじりでしたよ。お米屋の娘さんの積りで上ったら、先さまは五百石の奥方さまでございましたの。夫れは/\えらい見識よ。町家と違いましてね······

 と口真似まじりに棚卸たなおろしをした。しかし八千代さんは、

「まあ、頭の古い人があるものね。オホヽヽヽ」

 と笑った丈けで二階へ上ってしまった。女子大学生はそんな封建時代の女性をてんから問題としていない。長唄よりはもっと砕けた西洋音楽のお約束があるので、着替えもソコ/\に又出て行った。

 斯ういう夕暮には一入ひとしお良人りょうじんの帰宅が待たれるものである。然るに人の好い千吉君は例によってひとの鰹節役を勤めていると見えて、ナカ/\帰って来なかった。九時過ぎて玄関の格子戸が開いた時、出迎えた安子さんは、

「晩いのね」

 と短い言葉の中に長いうらみを込めた。

「済まない/\。今日は臨時だからって橋口君に誘われてね、今までお稽古さ」

「今日は私達も伺いましたのよ」

「然うだってね。あの猿虎蛇が大受けで、内藤君も俺も面目を施したよ。お前達の持って行った理由わけも知らないで、大将矢っ張り好人物だね」

 と千吉君は自分のことを言っている。安子さんは幸いに手が明いていたので甲斐々々しく着替えを扶けて、

「それは然うと御飯はもうお済みですの?」

 と訊いた。

「済んだけれども謡曲は実に腹がへる。支度が出来ているなら一口食べても宜い」

「私は未だですのよ。今か今かと思って待っていました」

「それは気の毒だったね」

 と千吉君は長火鉢の側に坐った。

 食事中に安子夫人は今日の訪問のことを一部始終報告して、

「内藤さんの奥さんは一遍でお懲りになりましたわ」

 と訴えた。しかし千吉君は、

「それでもナカ/\親切な奥さんだよ。今日はわしにお復習さらいをしてくれた」

 と言って、奥さんを徳としている。

「まあ、あなたは奥さんにもお習いですか?」

「だってお復習を致しましょうと仰有るのに、奥さんは厭やですとも言えないじゃないか?」

かない人ね、あなたは!」

 と安子夫人は良人が恨めしくなった。

「お前は妙に反感を持っているから然う思うんだよ。あんな正直な人はない。あの猿虎蛇でお礼を言われた時は俺も痛み入ったぜ。お前に呉れ/″\も宜しくと頼んだ。それから一つ困ったことがあるよ」

 と千吉君は安子さんの顔色を覗った。

「何でございますの?」

「謡曲に『ぬえ』ってのがあるんだってね。猿虎蛇のお礼に、家へ来てその鵺を歌いたいと仰有るんだがね」

「橋口さんが、ですか?」

「橋口君は無論、奥さんもさ。二人で掛け合いに歌う積りらしいよ。明日の晩は何うだね?」

「まあ/\、何処まで好い気な人なんでしょうね! 私、あの奥さんには迚も敵いませんわ」

 と安子夫人は到頭兜を脱いでしまった。



「あなた、もう十一時でございますよ。斯う毎晩おそくては仕方がありませんね」

 と安子夫人は例によって口やかましい。

「済まない/\。こんなに晩くなる積りじゃなかったのだけれど」

 と千吉君も実際斯う毎晩では遣り切れないと思いながら帰って来る。

「お帰りになるまでは落ちつきませんから、私も困るし、お里も早く片付かなくて可哀そうでございますよ」

 と安子夫人は女中まで引き合いに出して、訴え方がこの頃とみに具体的になった。

 同僚から勧めらるゝまゝに何でも始める千吉君はナカ/\忙しい。会社の仕事よりも交際の方に余計骨が折れる。これまでは一週間の中、南画の稽古が一回と碁の稽古が一回あった。前者は会計課長の牧野さんへ入門し、後者は同僚の関君の誘導による。その以前は尺八を嘗めていたけれど、これは安子夫人のお琴に合せるほどまで行かない中に師匠役の同僚が転任してしまったので、今はそのまゝになっている。

 すべて芸事は少し目鼻がついて天狗の域に達すると、他の手ほどきをして見たくなるものらしい。この点は宗教に能く似ている。それでなければならないように思い込んで、同類を拵える為めにはいささかも労力を惜しまない。しかし縁なき衆生はし難しとあるから、自然同僚の間にお弟子さんを物色する。然ういう折から、人柄の好い千吉君ぐらい調法な男はない。

 会計課長の牧野さんが竹陰ちくいんと号して南画を描き、殊に竹がお得意だということはいやしくも一二年勤めた社員なら皆承知する機会に行き当る。千吉君は新参でなかったから、

「しかしあの竹は橋口君の謡曲同様うっかり褒めるものじゃないよ」

 という蔭口まで度々小耳に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)んでいたのに、甚だ不覚だった。二年前誰かの送別会の席上、牧野さんは一隅に陣取って芸者の扇子に絵を描いてやっていた。橋口君が唸りたい一方なら、この中老はなすりたい一方で、斯ういう会合には落款らっかんまで懐中に忍ばせている。まことに用意周到なものだ。酒の飲めない千吉君はそこへ逃げて来て見ていたが、つい前後を忘却して、

「巧いものですなあ!」

 と歎声を洩らしたのである。善意に満ちた男だから、芸者が扇を惜しがるのに気がついて、急に斯う声援したのかも知れない。兎に角芸術家は毀誉褒貶きよほうへん耳敏みみざとい。

「村島君ですね。絵がお分りですか?」

 と牧野さんは早速鎌首をもたげた。

「いゝえ、一向分りませんが、甚だ結構に拝見致します」

「一つ描いて上げましょうか?」

「何うぞお願い致します」

 と千吉君は惜し気もなく白扇を差出した。牧野さんはそれを一呵成かせいに抹り上げて、

「これは少々不出来でした」

 と畳の上に置いた。

「いゝえ、結構です。有難うございました」

「いや、失敗でした。お詫びの為めに今度又何か描いて上げましょう」

「村島君、描いて貰い給え。僕は朱竹しゅちくを描いて戴いた」

 と矢張り見物していた同僚の一人が勧めた。

「さあ、朱竹も好いですが、あれは少し俗なものです。何かもっと村島君のお気に召すようなものを罰として描きましょう」

 と牧野さんは実は罰でも詫びでもなく、唯無暗に描きたいのだった。新築祝いだの転任の餞別はなむけだのと、何か因縁をつけて持ち込むのがこの先生の癖である。

「それではお序の節何か一つお願い致しますかな」

 と千吉君はよんどころなかった。この際辞宜じぎするのは長者に対する礼でないと考えたのである。牧野さんは又々芸者の扇子を塗り始めたが、朱竹を描いて貰ったという米沢君は、

「君、カステラ······カステラ一釜にありついたね」

 と囁いた。

「何うして?」

 と千吉君が訊き返した時、米沢君は目をつぶって首を振った。

 会計課長の牧野さんが立派な表装の一軸に大きな手土産まで添えて千吉君の家へ自身乗り込んだのは、それから一月ばかり後のことだった。

「これは/\、中身さえ戴けば表装は当方で致しますものを······

 と千吉君はかねて聞いてはいたものゝ、今更ながら恐縮した。

「いや、絵との調和を考えましてね、私が直接命じました」

 と牧野さんは年配丈けに如才じょさいない。表装をしないでやったら手拭き紙にした奴があったとは仰有らなかった。

「恐れ入ります。早速拝見致しましょう」

 と千吉君は床の間の軸をはずして掛け替えて、

「竹ですね」

 と言った。

風竹ふうちくです。数竿蔵夜雨すうかんやうをぞうし、一けい鎖秋風しゅうふうをとざす

 と牧野さんは讃を読んでくれた。

「成程、結構です。有難うございました」

 と千吉君は大喜びだった。間もなく安子夫人が御挨拶に出て、

「まあ、竹でございますわね」

 と念を押した。三人が三人ながら竹ということに一致したのだから、これは竹に相違なかった。

「これぐらいお描けになるとお楽しみでございましょうな」

「真正にお羨ましゅうございます」

 と夫婦が口を揃えたのは客人に取って思う壺だった。牧野さんは直ぐさま、

「上手下手は兎に角、道楽としてはこれが一番のようですな。描いている間は所謂いわゆる無念無想、確かに一種の精神修養ですよ」

 と大きく出て、我田引水がでんいんすいに取りかゝった。絵の修業はすべての俗事を忘れて頭を休める趣意に最も能く叶うとあった。他の道楽のように近所から厭やがられませんと言ったのは謡曲に当てつけたのだろう。休養にならない上に兎角長い時間を潰して周囲に迷惑をかける道楽とも違うと言ったのは碁将棋のことだった。千吉君は一々御道理ごもっともと思って、

「成程、然うですとも」

 と相槌を打っていた。牧野さんは尚お南宗画の歴史に話を移した後、

「その中にいらっしゃいませんか? 種々と作品を御覧に入れますよ」

 と一本釘を打って辞し去った。

「あゝ、痺れが切れた。先輩は何うも気がつまる」

 と客人を見送った千吉君はそのまゝ玄関ですねを叩いていた。安子夫人は、

「あなたは不断お行儀が悪いからですわ」

 とたしなめて、後片付けに客間へ戻った。

「安子や、そのお土産は何だか当てゝ見ようか。カステラだよ。開けて御覧」

「まあ、何ですねえ。そんなことを玄関先で仰有って。存じませんよ」

「カステラだろう?」

 と千吉君は入って来た。

「長崎カステラですよ。あなたは鼻丈け鋭敏ね」

 と安子夫人は感心した。

 千吉君は翌日出勤すると早々会計課へ寄って牧野さんに一応お礼を申上げた。それから米沢君と顔を合せた時、

「君、カステラが来たよ」

 と打ち明けた。

「来たかい? 警戒し給えよ」

 と米沢君はニヤ/\笑った。

「何故?」

「絵を習えって勧められるよ。僕は実に困った」

「何と言って断ったね?」

「それが甚だまずかったのさ。きっぱり断れば宜かったのに、多少気のあるようなことを言ったものだから、未だに祟っている」

「今でも勧めるのかい?」

「勧めるというよりは催促だね。何なら君一つ僕に代って習ってやらないか? 功徳になるよ」

「馬鹿を言っている。僕は絵心なんか薬にしたくもないんだからね」

「しかし君には断れないぜ。あの人は何うも断れそうもない人のところへ持って来る」

「断るよ。絵は嫌いだと言ってやる」

 と千吉君は力んで見せた。

「然うは言わせない。嫌いなものを頼んで描いて貰う奴があるかい? その為めにカステラまで来ていらあ」

「それじゃ不器用だと言う」

「先ずその辺だね。僕も不器用で押し通せば宜かったのに、中学時代の図画の点なんか言ってしまって今更動きが取れない」

「見え張るからさ。僕のように不器用で絵心がないと来ていれば何うも仕様があるまい」

「兎に角しっかりやってくれ給え。君が始めれば矢っ張り君丈けじゃ済まない。僕は先口だから尚お具合が悪くなる。考えて見ると、あれは意味深長なカステラだね」

 と米沢君は去年以来長崎カステラを持て余していた。

 千吉君は長者に対する礼として間もなく牧野さんの私宅へ伺候した。牧野さんは待っていたようだった。客間に揃えてあった作品を順繰りに見せながら、絵画そのものゝ起原を説き始め、野蛮人でも子供でも凡そ人間なら絵心のないものはないと結論して、

「時に村島君······

 と膝を進めた。千吉君はイヨ/\お出になったと思って、断る手順を考えていた。

······この通り絵は器用で描くものじゃありません。殊に南画は西行法師が歌を読み芭蕉や蕪村が句を作るのと同じ心境で参ります。手先よりは頭の問題ですよ」

 と牧野さんは先手々々と打って行く。

「成程」

「手で描かないで頭で描きますから、何人だれにでも出来るようでいて又何人にでも出来ません。そこが面白いところです。村島君、一つお始めになっちゃ何うです? 未熟ながら御指導申上げますよ」

「はあ」

 と千吉君はそれも漸くのことだった。言おうと心掛けて来たところを悉皆出し抜かれてしまって肚の中が種切れになっていたのである。

「米沢君もその中に始めたいと言っていますから丁度好いですよ」

「然うですか。私一人きりでは心細いですけれど······

「相弟子があれば励みが出ましょう」

 と牧野さんは相好を崩した。

「はあ」

 と千吉君は結局米沢君の分まで承知してしまった。斯う人柄が好過ぎるのも考えものだ。友達が迷惑する。

 およそ芸事の上達は勉強にもよるが主として筋による。筋の悪い人はいくら勉強しても駄目だと聞く。そうしてこの筋という奴は何の辺にあるものか捕捉出来ないところが調法で、その道の人にすこぶる能く活用されている。

「お師匠さん、何うでしょう? 物になりましょうか?」

 と音曲のお弟子さんが訊く。

「成りますとも。正直の話、お声はお悪いですけれど、筋がよろしゅうございますから」

 とお師匠さんが答える。

「声は生来斯ういう声です」

 とお弟子さんは満足する。筋は生来斯ういう筋だとは気がつかない。筋丈けは皆相応好いと思っているから、

「あの人は声は好いが、何分筋が悪い」

 というようなことを匂わしたが最後、

「この頃急に店の方が忙しくなりましたし、それに少し感じたことがありますから」

 ともう門端かどばたも踏まなくなる。この故にお師匠さんはそんな危険は冒さない。声が好ければ尚お更のこと、

「あの人は声も好いし筋も好いから楽々と上りますわ」

 と言って褒める。音声と調子丈け問題にして筋は皆均一に好いことに定めて置く。若し顔容かおかたちの好し悪しほど筋に相違があったら、世上に芸事をやる有象無象がこんなに多い筈はない。

 千吉君と米沢君は南画の稽古を始めると早々、

「お二人とも筋が好いから有望ですよ」

 という折紙がついた。これは退ぴきさせぬ釘鎹くぎかすがいである。お師匠さんを志願する丈けに牧野さんも筋で釣ることを心得ている。二人のお弟子さんは爾来二年間四君子をやっているが、一向上達しない。しかし筋が好いから失望もしない。頭で描くと見えて葱のような蘭が出来る。

 碁に於ても千吉君は筋が好かった。お師匠さんの関君は決して強い碁打ちでない証拠に白を持つことより黒を持つことが多い。会社で一番打つという重役に五目置く。尤も本人は三目だと言っている。置くことは嫌いだが、置かせることは大好きだ。ところがざるの域を脱しない悲しさ、置き先は多いけれど置かせ先が至って尠い。そこで下手したてを養成する必要を年来感じていた。折からこの正月千吉君は関君のところへ年始に行った。しょうぜられるまゝに上り込むと、主人公は同僚の長谷川君と対局していた。斯ういう場合千吉君は覚悟が好い。分っても分らなくても神妙に見物している。三局済んだ時||といっても、この程度の碁は暮の賃餅のように手っ取り早い。一面が二十分かそこらで片付く。朝から晩までに三十七面打ったなぞと言っているから、丁度それぐらいの勘定になる。兎に角三局目が終った時、長谷川君は、

「村島君は碁が分るのかい?」

 とその忍耐力に敬意を表した。

「将棋は分るけれど、碁は能く分らない。まあやり給え」

 と千吉君は益※(二の字点、1-2-22)辛抱が強い。

「将棋が分るくらいなら碁も直ぐ分るぜ。一つ始めないか?」

 と関君は引っ張り込むならこの男だったと気がついた。

「さあ、此奴は時間を潰すからね」

「道楽は大抵時間を潰すよ。これでも蘭のお化けを描くよりは意味がある」

 と長谷川君は遠慮がない。

「厳しいことを言うね」

 と千吉君は苦笑した。竹陰さんから竹葉という鰻屋のような号まで拝領したけれど、一向進歩しないことは自他共に許している。

先刻さっきから凝っとして見ているんだから少しは分るんだろう? 分らなけりゃ退屈する筈だもの」

 と関君は勧誘一方だ。

「少しは分るさ。子供の時分に親父のやるのを見ていたから」

「そんなら話せる。兎に角一番やって見給え。井目せいもく置いて僕にかゝって来たまえ」

「井目って幾つだい?」

「九つさ」

「九つ置けば勝てるよ」

 と千吉君はつい釣り込まれた。

 関君は居住いを直した。井目置かせて打つのは臍の緒切ってから初めてのことだから、得意だったのである。しかし中途で止められると困ると思って、

「これは油断がならん。定石を知っている」

 なぞと言って頻りに煽てた。勝敗の数は無論知れている。いくら笊でも全くの初心よりは強いから、関君は美事千吉君をほふった。

「今度は僕が願おう」

 と長谷川君も、この機を逸しては井目置かせる経験を永久に取り逃すと考えて、早速申込んだ。

「迚も駄目だよ」

 と躊躇したものゝ、千吉君は断り切れなかった。しかし多少下地がある上に関君の助言が効を奏して、立派に勝ったのは甚だ案外だった。

「後世恐るべしだ。筋が好い」

 と長谷川君は感心した。

「少しやれば直ぐに僕等ぐらいになる。正式に始め給え。僕等が指導する」

 と関君は長谷川君を代表した。

「物になるか知ら?」

「なるとも。筋が好い」

「それじゃ御面倒を願うかな」

 と千吉君は碁打ちになる決心がついた。

 囲碁は勝負に興味があるから南画よりも面白かった。関君の家の稽古には長谷川君も出張って相手をしてくれた。長谷川君の家でやることもあった。自分で碁盤を買ってからはお膳の上の茶碗や皿が白黒の石に見えるほど熱中した。両師匠との手合せが間もなく七目に出世し、先頃到頭五目に漕ぎつけた時、安子夫人から故障が出た。

「あなた、今日で十一時が幾晩続くと思召おぼしめしですか?」

「四晩さ」

 と千吉君は平気で答えた。

「勘定していながらおそくなるんですか? 憎らしい!」

 と安子さんは千吉君をつねった。この細君は真剣に怒ると良人を抓る癖がある。尤も結婚当初は爪を隠していたが、二年目から遠慮がなくなったのである。良人が又抓られると骨なしのようになって何でも言うことを聞くから、昨今はこれが有力な武器になっている。

「痛いよ。痛い!」

 と訴えても、お里も八千代さんも最早もう寝静まっていた。

「絵のお稽古と一緒でこの頃は一週の中五晩お潰しになる上に日曜は朝から晩まででしょう? 余りじゃありませんか? そんなに家がお厭やなんですか?」

 と安子さんは質問毎に抓った。

「痛いよ/\。これから少し慎むから堪忍しておくれ」

「少しじゃ困りますよ」

「大いに慎む。痛い!」

「初めのお約束通り一週に一回にして下さいよ。ねえ、あなた」

「引っ掻くのはおよしよ。傷がつくと会社へ行って笑われるじゃないか? 腹が立つなら抓っておくれ」

 と千吉君は好い気なものだ。

「絵が一回に碁が一回ですけれど、一晩丈けは臨時を許して差上げます。宜いこと?」

「痛いよ」

「御返辞をなさいよ」

 と安子さんは抓り仕舞いとして渾身の力を指先に込めた。

 千吉君はこれに懲りて、規定の稽古日以外は他へ廻らないようになった。素より家が厭やではなし、早く帰って来ればそれ丈け身体も楽だから、自分としては満足だったが、調法がる友達が捨てゝ置かなかった。内藤君は始終護身用として引っ張り出す。碁の先生方も毎週臨時会を催して誘いをかける。相変らず評判が好い。安子夫人も分らず屋ではない。必要な交際を認めている証拠には、画会も碁会も家で開いた。

「この頃はあなたが規則正しくして下さるから家の能率が上りますよ」

 とさえ言っていた。問題になった橋口君の謡曲は丁度そこへ持ち込んだのである。



 橋口君の謡曲うたいは然う古いものではない。竹生島ちくぶじまを一番上げた時大地震が来たというから、未だ三年にはなっていない筈だ。しかし千吉君は勧められ始めてから随分長いことのように記憶している。芸ごとの中で謡曲ほど直ぐに天狗になるものはない。碁将棋と違って勝ち負けがないから巧い拙いが覿面てきめんに分らない。これは義太夫にしても長唄にしても然うだろうが、謡曲は鳴物に合せない丈け殊に主観的になり易い。自惚うぬぼれ鏡で拝見すると自分の顔が相応に踏める通り、自分の耳で拝聴すると自分の声が相応に聞える。謡曲の積りで歌っていることは本人が承知だ。今の節廻しは好かったと思う。おや、急に途絶えたなと気がつくと、自分の声に聞き惚れて何時の間にか喉がお留守になっていたりする。橋口君は一年ばかり唸った後、この楽しみを分ちたいと思いついて、

「村島君、胃弱には妙薬があるぜ」

 と先ず同僚の千吉君に当って見た。

「それは有難い。教えてくれ給え」

 と千吉君は直ぐに釣り込まれた。

「教えてくれ給えは有難い。謡曲だよ」

 と橋口君は思う壺だった。

「謡曲が胃に利くかね?」

「利くとも。あれをやると腹のへることおびただしい。胃病なんかすぐ直ぐに[#「すぐ直ぐに」はママ]治ってしまう」

「然うかね。僕は又何か真正の薬があるのかと思った」

 と千吉君は勧誘だとは覚らなかった。

 これを手初めに橋口君がジリ/\迫って来た。何彼なにかの機会に千吉君の気を引く。碁の話が度々出たが、無論敵は本能寺にあった。

「相変らず盛んのようだが、昨今関君との手合せは何うだね?」

「四目だよ。もう一息で四本柱が一本落ちる。尤も先方では五目の積りでいる」

「碁は夫れ/″\自惚れているところが面白い。長谷川君は六目だって言っていたぜ」

「それは一面手代りだから、六目になることもあるが、矢っ張り関君と同じことで四目は動かない」

「両方で主張するところが宜いんだね。好い娯楽さ。しかしあれは頭を使うだろう?」

「頭ばかりか、凝っと坐っているもんだから身体も疲れる」

「それが勝負事の欠点だね。一日働いた頭を又使うんだから休養にならない。そこへ行くと同じ坐っているんでも、謡曲は違う。胸を張って臍下丹田せいかたんでんに力を込めているから、一番歌うと汗をかく。すっとして好い気持になるぜ」

「あれは静坐法みたいなものだからね」

「一種の腹式呼吸さ」

 というような問答があった。しかし碁をやめさせることは到底困難と見極めた時、橋口君は攻撃の鋒先を絵の方へ向け始めた。

「絵は好いね。僕は習いたいと思うことがある」

 とこの人は必ず先ず褒めてかゝる。

「始め給え。何なら僕に代って習ってくれ給え」

 と千吉君は囲碁には興味があるけれど、南画は実際持て余している。

「厭やになったのかい、もう?」

「初めから然う進まなかったが、嫌いだとも言えないから、つい······

「あれはナカ/\上達しまいね?」

「迚も駄目だ。米沢君ほど下地がないから」

「牧野さんは何と言って勧めたね?」

「何とも言やしない。突然見本を持ち込まれて否応なしさ」

「成程」

 と橋口君は大いに参考になった。

「上達はしなくても、精神修養になれば宜いんだそうだよ。あれをやっていると気は確かに落ちつく」

 と千吉君は、やっている以上、何か効験を探し出さなければならない。お附き合いで始めた道楽は往々斯ういう羽目に陥る。尤も千吉君のは最初からうだったのである。

「しかし上達しなくちゃ楽しみがあるまい。すべて手先のことは子飼いからでなけりゃ駄目だね」

「然うだよ。殊にやりたくないことをやっているんだから、上手になる筈はない」

「絵は無理だよ。僕は見るのは好きだが、手は出せない。書だと何人だれでも子供の時分の下地があるから、いつ始めても普請ぶしんになるけれどもね」

「僕も書なら気がある」

「君の書は好いもの。そこで絵は益※(二の字点、1-2-22)不適当となる」

「何故?」

「絵かきに手かきなしというじゃないか?」

「しかし牧野さんの書は好いぜ」

「その分、絵が悪いんだろう。お師匠さんをけなしちゃ済まないが、牧野さんの南画は未だ人に教えるほど堂に入っちゃいない」

「兎に角熱心だね」

「横好きって奴さ。謡曲うたいにもあゝいうのが多くて困るよ。時に君、久しぶりで僕のところへ遊びにやって来ないか?」

 と橋口君は牧野さんにならって早速直接行動を取ることに決定した。

 千吉君は或日曜日に橋口君を訪れた。汝を呼び出す余の儀でない。橋口君は謡曲を数番聞かせたばかりでなく、教えてやるから始めるようにとさとした。無論千吉君はキッパリ断らなかったが、同輩からあらかじめ警戒されていたから、

「僕は天性喉が悪いから迚も見込がない」

 と生理的故障を持ち出した。

「君、それは素人考えだよ。謡曲は喉で歌うんじゃない。腹で歌う」

 と橋口君は蒙をひらいてくれた。蝉の[#「蝉の」はママ]積りでいる。

「まあ、もう一番聞かせ給え」

 と千吉君はアンコールを申入れて相手の感情を融和した。細君以外に聴衆のない橋口君はそれでも結構満足だった。随って千吉君は時々会社の帰りをらっし去られたが、案外長く地歩を保っていた。しかし橋口君はその中に先ず馬を射よと覚ったのか、同じ手を内藤君に用いた。内藤君は酒の為めなら何んな工面でもする代りに、酒の上なら何んな相談にでも応じる。

「やろう。今日唯今この席で始めよう」

 と一晩の中に「橋弁慶はしべんけい」を上げてしまった。何ういう教え方をするのか知らないが、お師匠さんもお師匠さんならお弟子さんもお弟子さんだ。親友が落城すると、千吉君はもう一も二もなかった。急転直下、内藤村島両夫人のお礼詣りとなり、その又お礼返しに橋口君が「ぬえ」を歌いに来た晩が千吉君の家の稽古日と定った。

「奥さん、宜しゅうございましょうね?」

 と念を押された時、安子夫人はニッコリとして、

「結構でございますわ」

 と答えたが、心甚だ平かならぬものがあった。これで千吉君は絵が一回、碁が定期一回臨時一回、謡曲が橋口君のところと家で各一回、週日中閑な晩は一晩になってしまった。

「あなた、もう何と云っても仕方ありませんから、日曜丈けはせめて家にいて下さいましね。いくら子供がないと申しても余りでございますよ」

 と安子夫人は泣き声を出した。

 ところで、今又その貴い日曜日に千吉君を誘い出しに来たものがある。

「御主人はお宅でございますか?」

 と玄関に現れたのは矢張り同僚の大場君だった。

「いらっしゃいますが、何方どなたさまでございますか?」

 とお里が切り口上で伺った。しかし千吉君は折から茶の間に居合せて聞きつけたから、取次の面倒もなく、

「やあ、大場君か。これは珍らしい。さあ上り給え」

 と出て来て、自ら客人を通した。

「今日は久しぶりで君を引っ張りに来たんだが、都合は何うだね?」

 と大場君は坐ると直ぐに言った。

「さあ、別に悪いこともないが、何処へ行くんだね?」

 と千吉君は一寸困った。

「郊外散歩さ。彼方は好いぜ。もうソロ/\初夏の気分だ」

 という大場君は目下荻窪の奥深くに文化住宅を新築中だ。毎日曜日に工事の検分に出掛ける。今日は天気が好いから、千吉君にお供を仰せつけようというのである。

「もうソロ/\工事竣成だろうね?」

「来月早々入れる。一月以上後れている。一週に一遍しか見に行かないもんだから、職人が怠けて仕方がない」

「羨ましいな。自分の家の出来る人は」

「君も建て給え。僕の近所に好いところが沢山ある」

「あっても昨今は高かろうから、君のような具合には行くまい」

「何あに、行かないにも限らないぜ。やりようさ。僕は又やっている」

「何処までも欲が深いんだね」

「でも君達と違って他に道楽がない。実は今日は君に勧めに来たんだ」

うまい話があるなら、半口乗せてくれ給え」

 と話しているところへ、安子夫人が挨拶に出た。

「何うも御無沙汰致しました。奥さん、実は今日は村島君に一つ新しい道楽を勧めに上りました」

 と大場君が言った。

「まあ、おひとの悪い! 道楽ではもう手を焼いて居りますの。この頃は日曜の外は全く家を外でございますからね」

 と夫人は訴えた。

「しかしそれは皆金のかゝる道楽でしょう?」

「金はかゝらないよ」

 と千吉君は力強く否定した。いくら好人物でも、碁を打ったり謡曲を歌ったりするぐらいに然う/\干渉される筋はないという肚がある。

「僕のは金の儲かる道楽ですから、多少時間はかゝっても埋め合せがつきますよ」

「まあ、結構な御道楽でございますわね。何でございますの?」

 と安子夫人は疑問を起した。

「土地道楽です」

「土地道楽で大場君は当てたんだよ。今度の新築も道楽の賜物なんだから驚く」

 と千吉君は註釈した。

「御冗談は兎も角、御新築だそうでお芽出度うございます」

「いや、ほんの掘っ建て小屋でおはずかしいんですが、周囲丈けは自慢です。いずれ落成の上は一日御来遊を願います」

「有難うございます。中野とか承わりましたが······

「荻窪です。中野辺ではもう郊外気分は味わえませんよ」

 と大場君が答えた。これは中野辺にはもう安い地面がないという意味である。

「東京から何時間かゝる?」

 と千吉君が訊いた。

「何時間なんてかゝって溜まるものか。丸之内まで五十分さ」

 と大場君は力んだ。郊外生活者は東京に遠いと言われるのを最もいとう。そうして毎日参内さんだいでもするように必ず丸之内を引き合いに出す。

「そんなに近いのかね。それじゃ改めて敬意を表さなければならない。僕は一時間半もかゝると思って問題にしていなかった。しかし多少不便だろうね?」

「最初は皆然う考えるけれども、住んで見ると案外だそうだ。不便なことは些っともないらしい」

「電燈はあるんだろうね?」

 と千吉君は益※(二の字点、1-2-22)迂遠振りを発揮する。

「笑わせるぜ。それだから来て見給えと言うんだ。水道と瓦斯ガスがないばかりさ。しかしタンクを拵えれば水道も同じことだ。石油厨炉ちゅうろは瓦斯の代用になる」

 と郊外生活をするくらいの人はすべて代用精神がさかんだ。土地からして大根畑を代用している。建物もバラック式文化住宅といって、家屋の代用である。交番がなくて泥棒が多いから犬を巡査に代用する。

「買物はうする?」

「日用品は何でもある。野菜はお手のものさ。電車にさえ乗れば東京だから、田園生活と都会生活が同時に出来る。それに地面と住宅が只とあれば申分なかろうじゃないか?」

「只なら多少不便はあっても申分はない。安子や、これは考えものだね」

「あなたじゃ駄目でございますわ」

 と安子夫人は良人を信用していない。

「何あに、土地道楽に上手下手はありませんよ。早く儲かるか晩く儲かるか、唯時間の問題です。村島君、僕は橋口君と違って、家庭の迷惑になるようなことは決して勧めない」

 と大場君はイヨ/\本題に入った。

 七八年前実業界の景気が好くて会社が二十ヵ月分の賞与を出した頃、大場君は人の勧めに従って土地に資本をおろした。というと御大層だが、荻窪の奥の大根畑を坪当り八円で四百坪買ったのである。

「実は千坪余りそっくりだと七円五十銭で手に入ったのだから、借金をしても買って置けば宜かったのに、当時はそれ丈けの胆力たんりょくがなかった」

 と頻りに残念がっている。しかし坪八円で買った土地が十五円二十円と急速の騰貴を示した時、大場君は胆力が据って来た。お説の通り借金をして、大根畑を買い始めた。

「何れでも二三年持ち堪えさえすれば相応儲かるのに、金利に追われるものだから直きに手放してしまう。買ったり売ったり何遍もしたが、身につくところは極く少ない」

 とは嘘偽りのない告白だろう。但し、あの十五円の五百坪が二十円になれば二千五百円儲かる||二十二円だと三千五百円||二十五円に売れば五千円||という具合に勘定するのは、見ず知らずの男女の恋愛を扱った小説を読むよりは遙かに現実的の楽しみがあった。それに生来田園の好きな人だから、土地検分そのものに興味があった。毎日曜に郊外へ出掛けて新鮮な空気を吸う。足跡、阿佐ヶ谷から国分寺あたりまでにあまねく、雨上りなぞにあの辺の田圃路を歩き廻れば、泥濘に長靴を取られまいとする努力丈けでも好い体育運動になる。

「村島君、君のような蒲柳の質には持って来いの道楽だよ。唯の郊外散歩じゃ長続きがしない。慾と道連れだから雨が降っても出掛ける。神経衰弱なんか直ぐ治ってしまう。これぐらい健康的な道楽はないぜ」

 と大場君は効能を説いた。

 こんな風に健康と利益の為めに買っては売り売っては買いを長いこと続けていたが、例の八円の四百坪だけは自力の有難さ、金利が出ないから持ち堪えた。しかし坪三十円になったり一向上らない。寧ろ下る傾向が見える。大場君は地価も場合によっては下るものだと初めて承知した時、少々胆力が揺ぎ始めた。これは借家をして遠い先の値売りを待っているよりも唯今半分手放して直ぐに住宅の新築に着手する方が算盤そろばんだと思いついた。そこで五十円になるまで草を生やして置く筈の土地を三十円で二百坪売り飛ばしてしまった。

「二百坪で六千円さ。六千円では少し足りないから、もう百坪処分すると九千円になるが、それでは此方の地面が狭くなる。一万二千円あれば理想的な文化住宅が出来るけれど、地面がなくなってしまう。斯うと知ったら借金を質に入れても千坪たんまり買って置くのだったのに、下司げすの智恵は後からで、今更何とも仕方がない」

 と言った。

「けれども真正に結構な御道楽でございますわ」

 と安子夫人は羨望の溜息を吐いた。千吉君が碁や絵をやるひまに大根畑を買って置けば家が建っていると思ったのである。

「僕も始めるかな」

 と千吉君が同感の意を表した時、

「お始めなさいませよ。オホヽヽヽ」

 と安子夫人は結婚後初めて良人の道楽を機嫌よく裁可さいかした。

「早速見聞に出掛けよう」

「お出掛けなさいましとも」

「奥さんも御貯金をお投じになっては如何ですか? 昨今二十八円の売物が出ていますよ。しかし大きいです」

 と大場君は話を具体的にした。

「千坪かい?」

「千二百坪だ。三万円からになる」

「それを買って直ぐ三十円に売るといくら儲かる?」

「直ぐ売れるくらいならその人が売ってしまわあね」

「それも然うだ」

「心細いブロカーだな」

「もっと手頃なのはないかい?」

「あるとも。八円のがある」

「遠いだろう?」

「国分寺の奥だ」

「やれ/\」

「しかし二十円以上出したんじゃ持ち堪えられないからね。安いところを買って長生をするに限る。僕は多摩川の向うの山を二円で買ってある」

「幾坪買ったい?」

「五千坪」

「豪く買い込んだね。一万円じゃないか?」

「今までの儲け溜めさ。金利さえ打棄うっちゃれば宜いんだから、これだけは放さない」

「遠大の計画を立てゝいるんだね。二円ぐらいなら僕も買う。しかし一万円とは道楽にしちゃ大成功だぜ」

 と千吉君が感心すれば、

「それに地所家屋がございますからね」

 と安子夫人も大場君の徳をたたえた。

 千吉君は尚お大場君と話し込んで、荻窪へ郊外散歩ながらお供をすることになった。安子夫人は唯の道楽でないと思って、殊に快く見送った。門を出た時、ポチが後追いをしたので、

「好い犬だね」

 と大場君が振り返った。

「君、犬を飼う気はないかい?」

 と千吉君は訊いて見た。

「大いにあるよ。新築が出来上れば何うしても犬がる。新開地は泥棒が多くて兎角物騒だからね」

「口は利くものだね。僕のところでは彼奴が七匹生んで持て余している。一匹貰ってくれないか?」

「あれは猟犬かい? 番犬かい?」

 と大場君は再び振り返った。

「番犬さ」

 と千吉君は答えた。野犬だとは言わなかった。

「それなら、牡を二匹貰おう」

「これは有難い!」

「彼方では殆んど軒並みに飼っている。三匹飼っていて御用聞が入れないなんて家もある」

「君、何なら見て行かないか? 今のところは選り取りだ」

「然うさね」

 と大場君が応じたので、千吉君は玄関へ駈け戻った。

「安子々々、犬が売れたよ! 二匹だ。二匹だ」



「好いねえ。町中まちなかから来ると気分が清々する。あの新緑の間に赤松の並んでいるところは何とも言えない。油絵だね、まるで」

 と千吉君は荻窪で下りて大場君の建築場へ向う間に幾度も感服した。

「好いだろう。第一空気が違う。斯ういうところに住んでいると、長生ながいきをするよ」

 と大場君が言った。

「文化住宅の多いにも驚く。日本家屋は滅多にない」

「それは皆新築だもの。新たにやるなら何人だれにしても便利なものを建てるからね」

「君の家も然うかい?」

「無論さ。最新式だから一つ念を入れて見てくれ給え」

「それは然うとナカ/\遠いね」

「もう直ぐだ。駅から十分さ。この辺の駅から十分は大抵懸値かけねがあるんだが、僕のところは正味十分だ。尤もこんなにブラ/\歩いちゃ十五分ぐらいかゝるかも知れない」

「斯うっと、駅に着いたのが十時きっかりだったから、もう十三分たっている」

 と千吉君は時計を出して見ながら言った。

「僕の足だとこの角で丁度九分さ。彼処あすこに屋根の馬鹿に尖った赤塗りの家があるだろう? あれは木下君のところだ」

「あれかい? 大将、好い家を持っているんだね」

「何あに、ケバ/\しいばかりで成っちゃいないよ。あの少し向うにクリーム色の家が見えるだろう?」

「見える/\。屋根がないじゃないか? 変な家を拵えやがったな」

「あれが僕の家だよ」

「あれかい? これは驚いた」

「君は建築の方は未だ素人だね。木下君のは旧式で僕のは新式さ。すべて家は屋根が大きいほど旧式だよ。穴居時代は家全体が屋根だった。山を屋根にしているんだから大きいや。先刻道傍にあった肥溜めなんかは原始的家屋の標本さ。要するに屋根ばかりだったろう? 田舎の百姓家はあれが発達したものだから、皆屋根が馬鹿でかい。お寺だって然うだろう? 旧式の建築物は皆屋根が勝っている。頭でっかち尻つぼまりで、安定釣合ステーブル・イクイリブリアムという奴が欠けているから落ちつきがないよ」

「君は専門家だね」

「然うでもないが、家を建てるについて多少研究したのさ。文化が進むにつれて屋根の小さくなることは建築学が証明している。最近の鉄筋コンクリート建築は殆んど屋根がない。丸ビルを見ても分るだろう」

「成程ね」

「屋根を死物にして置くのは損だよ。東京市も屋根を活用すれば面積が倍になる勘定さ。その辺を考えて、僕の家は屋根を屋上庭園や物乾場ものほしばにしてある」

 と大場君が効能を述べている中にその最新式の建物に辿り着いた。

 大工が数名仕事をしていた。もう殆んど出来上っている。千吉君は大場君に案内されて先ず屋上庭園から周囲あたりの風光を賞した。杉林を背景に文化住宅が思い/\の形状と色彩を競っている様は確かに新味あたらしみがある。

「実際好い眺望だね」

 と千吉君は先刻からの感服を続けた。

「これが何よりの御馳走さ」

 と大場君は鼻を高くした。郊外生活者は天気晴朗の日丈けを問題にする。雨が横に降ったり靴を泥道に吸い取られたりすることは話さない規約を設けている。

「如何にも住み心地の好さそうな家だね。君は凝り性だから木口きぐちも大分選んであるようだ」

 と千吉君は次いでこのクリーム色の文化住宅に感服した。

「それは借家とは違うさ」

 と大場君は微笑んだ。悉皆米松べいまつで長く柱にりかゝっていると洋服にやにのつくことは言わなかった。

「実際恰好が面白いよ。僕も一軒建てるかな」

 と千吉君は庭へ下りてからこの積木のような家を見上げた。

「建て給え。僕が設計してやる。これはこれで彼方此方失敗しているが、今度やればもっと好いものが出来る」

「この辺へ居を構えて土地道楽を始めれば持って来いだね」

「僕も大いにやるよ。例の千二百坪を見に行こうか?」

「見る丈けは見ても宜いが、木下君の家へ一寸寄ろう」

「宜かろう。木下君のところへ行って弁当を喰べよう。工事竣成までは何彼と彼処あすこでお世話になる。今日は君の分までサンドウィッチを持って来たよ」

 と大場君は千吉君を誘って裏口から出た。

 木下君は折から馬に乗って帰って来たところだった。この人は馬道楽だ。そのむかし輜重輸卒しちょうゆそつとして三ヵ月間入営中厩の掃除ばかりしていたのである。しかし本人は、軍隊に居った頃馬の愛すべきことを知ったと言っている。こゝへ越して来たのも子供と馬の為めである。

「やあ、珍客だね」

 と木下君はヒラリと馬から飛び下りた。

「村島君も僕等の仲間入りをするそうだよ」

 と大場君が吹聴した。

「それは結構だ。いつ越して来る」

「未だ定った次第わけでもないが、好いところだね。羨ましくなった」

 と千吉君は勧誘を求めるようだった。

「君、僕は一寸植木屋まで談判に行って来るから馬を貸し給え」

 と大場君は馬の轡に手をかけた。

「未だ職人が来ないのかい? ゆっくり行って来給え」

「大場君も乗るのかい? 感心だね」

 と千吉君は今日は万事感心することにしている。

「君、練習しちゃ何うだね? 好い運動になるぜ」

 と木下君は唯一の健康法として、何人にでも乗馬を推薦する。

「じゃ一寸行って来る。その間に村島君を勧誘して置いてくれ給え」

 と言って、大場君は手際好く馬を走らせた。

「巧いもんだ。皆夫れ/″\隠し芸があるんだね」

 と千吉君は敬服して見送った。

「大場君も上手になった。ついこの間始めたんだがね。怖がりさえしなければきに上達する」

「実は僕も子供の時郷里で二三度乗ったことがあるんだよ」

「それなら尚お困難わけはない。下地があると違う。馬の方で侮らないからね」

 と木下君は例によって乗馬を勧めた。

 上り込んで一時間ばかり話している中に、千吉君は一寸乗って見る気になった。そこへ蹄の音が聞えて、大場君が戻って来た。

「君、村島君は決心がついたよ」

 と木下君が紹介した。

「それは宜かった」

があるんだってさ」

「地が? この附近にかい?」

「いや、家のことじゃない。馬に乗る決心がついたんだよ」

「何だい。そんなことを勧誘していたのか」

 と大場君は驚いた。

 荻窪は野菜の名所だとあって、奥さんはサラダを三通り出した。主婦も便利なところと信じ切っているから、決して鑵詰に屈伏しない。尤も牛乳屋は毎日来る。魚屋も一日置きに御用を伺う。牛肉も三日ぐらい前に願書を出して置けば定刻に配達して貰えるから、まさか餓死するようなことはない。三人は野趣あふるゝが如き御馳走に舌鼓を打って話し込んだ。

「何うだね、東京へ遠くても別に不便は感じないかね?」

 と千吉君も主義で借家住いをしているのではないから意思はもとよりある。

「不便なことがあるもんか。電車に乗れば東京だ。市内だって坐っていちゃ物を買えないぜ」

 と木下君は大場君と同意見だった。郊外生活者は直ぐにこれを言う。但しこの筆法で行くと、下関の人でも汽車に乗れば東京だ。

「君のところは大変広いようだが、こんなに買ったのかい?」

「買うものか。自分で建てる分には買っちゃ引合わない。こゝは坪四銭だぜ」

「四銭は安い。幾坪ある?」

「五百坪ある。二十円だ」

「僕はこんなにらない。三百坪あれば沢山だ。あるかね、近所に?」

「あるとも、しかし昨今は坪八銭から十銭だよ」

「十銭でも市内に較べれば安い。地面丈けでも検分して行ってさいと相談して見るかな」

「然うし給え。斯ういう空気の好いところに住んでいて馬にでも乗れば、丈夫になるから子供が出来るよ」

「その辺も大いにあるね。一つ断行するかな」

 と千吉君は益※(二の字点、1-2-22)動かされた。

「貸地といえば僕は四銭時代に借りて未だ建てない人を知っている。矢張り五百坪ぐらいだった。あゝいうのを貸して貰えると宜いね」

 と大場君は思い出した。

「しかし五百坪は大き過ぎる」

「四銭なら千坪でも宜いよ。地代が上ったら半分又貸しをするんだ。僕はその積りでこの通り片寄せて建てゝある」

 と木下君も相応考えている。尤も郊外に家や地面を持つ手合は大抵何か魂胆がある。全く無代償で不便な生活に甘んじる風流人は滅多になかろう。

 食事が済んでから千吉君は馬に乗って見た。木下君は念の為めくつわを取って歩きながら、

「これは真物ほんものだ」

 と褒めた。

「少し走って見ようか?」

 と千吉君は得意になった。木下君は矢張り轡を取って駈け出した。

「もう少し真直ぐになって」

うかい?」

 と千吉君はり身になった。

う/\。これはナカ/\筋が好い」

 と木下君は益※(二の字点、1-2-22)煽てた。

 それから三人がかりで彼方此方の貸地を見て歩いた。皆同じ平面の大根畑で何れも坪当り十銭だから、好いも悪いもない。結局大場君からも木下君からも一町ばかりの二百坪が候補地と定った。千吉君は次の日曜を約して帰った。

「お早うございましたわね」

 と安子夫人はイソ/\として迎えた。他の道楽では主人が予測より早く帰って来たためしがない。

「直ぐ御飯にしておくれ。腹がへったの何のって。成程、郊外生活は胃弱の薬になる」

 と千吉君はガツ/\している。

「まあ、大袈裟ね。そんなにお腹がすくほどお歩きになったんなら、汗をかいていらっしゃるでしょう? お風呂の加減が宜しゅうございますから、一寸お流しなさいませ」

 と安子夫人は八千代さんとお饒舌をしていて夕飯の支度が後れたとは言わず、先ずお風呂へ叩き込んで置いて取急ぐ積りだった。

「入ろうか。汗だらけだ。土地道楽は確かに運動になるね」

 と千吉君は口車に乗って、入るとナカ/\出られないような微温湯びおんとうへ飛び込んだ。

 約一時間の後、

「そうして地所は何うでございました? 好いのが見つかりましたか?」

 と安子夫人は淑かにお給仕をしながら尋ねた。

「買うのはもっと先のことゝして、お前に一つ相談がある」

「何でございますの?」

「彼方へ家を建てようと思って貸地を見て来た。今朝も大場君が言った通り実に好いところだよ。行って見て悉皆感服してしまった。地代は坪十銭で二百坪の二十円だ。安いものさ」

「あなたもうめていらしったんですか?」

「いや、極めては来ないが、今度の日曜にお前と二人で見に行くことに極めて来た」

「不便でございましょう?」

「それがね、誰でも然う思うけれど、電車に乗りさえすれば東京だ。そして空気は好いし、周囲は広々としているし、生き延びるぜ。俺は今日一日でも大変元気づいたような心持がする」

 と千吉君は細君を説きつけようと努めた。

「叔母さん、荻窪でございますの?」

 と八千代さんがお箸を休めた。

「荻窪よ」

「私の同級に荻窪から通っていなさる方がありますわ。迚も好いところだから是非遊びにいらっしゃいと仰有いますのよ」

「有難いぞ。八千代さんが応援してくれゝば百人力だ。不便だなんて仰有らなかったでしょう?」

「些っとも不便なことはないんですって。電車都合も市内の下手なところよりは好いって仰有いますわ」

「それ御覧。安子」

「兎に角行って見ましょうか?」

 と安子夫人は極く少し動いた。今の住居すまいでも三越や帝劇へ可なり遠い。それがもっと遠くなるのは何となく心細いのである。

 百聞一見にかずという言葉は東京郊外の生活に能く当てはまる。荻窪だの玉川だの調布だのという肥汲みの番地を聴いた丈けでは、一向実感が起らない。しかし友人に勧められて検分に行って見ると大抵感服する。空気は好し、眺望は好し、何うせ天気の好い日をって出掛けるのだから、万事好いずくめで悉皆好い心持になる。自分と同程度の連中が遙か小綺麗に暮している。地代を当って見ると無論市内よりは安い。尚お郊外散歩の積りで再三足を運ぶ中に好いところばかり目に映ってクリーム色の文化住宅に病みつく。これ丈けの道筋を好人物の千吉君は唯一日で行ってしまったのである。

 さて、住んで見てから後は、百方工面した家がもう出来上っているのだから、何とも仕方がない。その折は持って生れた妥協性が役に立つ。郵便が一日に一回しか来なくても、その代り一度に五六通受け取れると思い諦める。医者の好いのが少ない代りに空気の好いのが沢山ある。客が来なくて淋しい代りに無駄な費用がはぶける。何でも代りがある。代用精神が益※(二の字点、1-2-22)さかんだ。これぐらい諦めが好いと、周囲の畑に撒く肥料の臭も平気になる。

 次の日曜に千吉君は安子夫人と八千代さんを伴って候補地の検分に出掛けた。第一に東京から近いことを確信させる為め、

「安子や、一時間未満だったら無条件で降参するだろうね?」

 と門を出ながら念を押した。

「一時間未満ということはありませんわ。市内でも浅草なぞは一時間かゝりますよ」

 と安子さんは矢張り余程遠いところのように思い込んでいる。

「何分かゝるか、能く時計を見て置きなさい」

「一時間未満だったら御相談に乗りますわ」

「叔母さん、丁度一時間ぐらいよ。その同級生の方は学校まで一時間きっかりですって。私も家から学校まで一時間きっかりですもの」

 と八千代さんは郊外生活に理解がある。

「会社も丁度一時間だってさ。大場君も木下君も然う言っていた」

「一時間均一ね。けれども一時間未満でなけりゃ駄目よ」

 と安子夫人は笑った。

 市内市外とも電車運が好かったから、荻窪で下りた時は尚お十四分の余裕があった。千吉君は大丈夫だと思ったが、女の足だから油断がならないとも考えて、

「成程、好いところね」

 と安子夫人がソロ/\田園催眠術にかゝり始めても、

「文化住宅ばかりだろう? もう少しだ」

 と簡潔をむねとして先登に立つことを忘れなかった。

「叔父さんはお急ぎね」

 と八千代さんは察していた。

「あの屋根の高い旧式な赤塗りが木下君のところで、クリーム色の低い新式が大場君のところだ。駅からこゝまで丁度九分だけれど十分かゝった。未だ四分ある」

 と千吉君は間もなく目的を達して歩調を弛めた。

「真正に一時間未満ね。近いわ。それに好い景色ね。西洋建築ばかりで日本の田舎とは思えませんわ」

 と安子夫人はすべて印象が好かった。

「叔母さん、越して来ちゃ如何? これなら都会生活と田園生活が両方出来ますよ」

 と八千代さんに至ってはもう悉皆すっかり動いていた。

「時計を御覧」

 と千吉君が言った。

「丁度五十八分で参りましたわ」

 と安子夫人が応じた。

 木下君は例によって馬をいじっていた。

「やあ、余り晩いから駅へ迎いに行こうかと思っていたところだ」

 と成程その支度中らしかった。

「先日は主人が上りまして······

 と安子夫人は早速挨拶に及び、奥さんも出て来て、

「まあ、能うこそお越し下さいました。さあ何うぞ」

 と、この方はお互に初対面だから応酬が長びく。

「君一寸乗って見る」

 と千吉君はいきなり馬にまたがった。安子夫人に隠し芸を見せる積りだったが、馬は何ういう気紛れか、ガクリと前脚を折って突っ伏しざま、千吉君を大地へドサリと投げ落した。それが乗ると殆ど同時だったので、助けを呼ぶ暇もなかったのである。

「何うした?」

 と木下君が扶け起した時、千吉君は鼻血を流していた。安子夫人も八千代さんも駈け寄った。早速応急手当に及ぶ。

 幸い怪我はなかったが、鼻血の止まった頃には鼻が尨大に腫れ上って、それが見る/\紫色を呈して来た。

えらい顔になったよ。もっと冷し給え」

 と木下君は今更驚いた。

「馬鹿を見た。この間の伝でさい吃驚びっくりさせようと思ったのに」

 と千吉君は鼻声になっていた。

吃驚びっくりしましたわ」

 と安子夫人は木下君夫婦の手前、言いたいことも言わなかったが、木下君が千吉君に度々乗馬を勧めたことを思い出した。

真正ほんとうに飛んだことでございました。少しお休みになっては如何でございましょう?」

 と奥さんは気の毒がった。

 千吉君は長椅子に寝転んで尚お少時しばらく冷した。その間に夫人同志は打ちくつろいでこの土地の生活を語り合った。

「何うだい。その鼻で検分が出来るかね?」

 と木下君は気遣った。

「大丈夫だよ。鼻で物を見やしまいし······

 と千吉君は平気だったが、

「あなた、見っともないわ。今日はもうお暇致しましょうよ」

 と安子夫人は持て余した。

「お暇致せば尚お見っともない。電車に乗るんだからね」

 と千吉君は先の先まで考えていた。

「晩までい給え。今に大場君も来る。迚もこれは終電車で帰る鼻だぜ」

 と木下君が引き止め、

「真正に何うぞ御ゆっくり願います。一日郊外気分をたっぷり味わって下さいませ」

 と奥さんも勧めた。

 主人の鼻は兎に角、安子夫人は荻窪が気に入った。折角見に来たのだから、このまゝ引き返すのは素より本意でない。八千代さんもこれから友達を訪ねる約束がある。

「この界隈の畑丈けなら問題にもなるまい」

 と木下君が千吉君の鼻の保証をした時に大場君がやって来た。そこで皆落ちついた。百聞は一見に如かない。夕方まで上天気だったので、安子夫人は十銭の土地を二百坪借りて屋根のない家を建てることに悉皆同意した。

「安子や、先刻さっきの条件ってのは何だい?」

 と千吉君は帰りの電車の中でハンカチに鼻を埋めながら尋ねた。

「此方へお越しになるのを機会に橋口さんの謡曲丈けは是非断って戴きます。遠くなったからと仰有れば宜いわ」

 と牝鶏めんどりが時を作った。

「よし/\。お安い御用だ」

 と牡鶏おんどりした。

(大正十四年五月〜十二月、婦人画報)






底本:「佐々木邦全集 補巻5 王将連盟 短篇」講談社

   1975(昭和50)年12月20日第1刷

初出:「婦人画報」

   1925(大正14)年5月〜12月

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※「かゝった」と「かかった」、「又」と「亦」、「厭な」と「厭やな」、「食べ」と「喰べ」、「お陰」と「お蔭」、「匹」と「疋」、「女犬」と「牝犬」、「申上げ」と「申し上げ」、「お冗舌」と「お喋り」、「棚下し」と「棚卸し」、「択り取り」と「選り取り」の混在は、底本通りです。

入力:特定非営利活動法人はるかぜ

校正:芝裕久

2021年2月26日作成

青空文庫作成ファイル:

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