「四から
と銀太夫君が
「何あに? もう一遍」
「師から芸引く、零残る」
「分らないわ」
「師匠から芸術を引くと零が残ります。師匠マイナス芸術、イコール
「そんなこと誰が仰有るの?」
「僕が考えたんです。師匠ぐらい芸道熱心の方はありません。寝ても覚めても、義太夫のことを考えていらっしゃいます」
「その代り世の中のことを
「それですから零残る。芸術を引けば何にも残らないんです」
「お母さんの
「えゝ、先ずその辺です。師イヽかアヽラ、芸イ引イク、ウヽ、ウヽ、ウヽヽヽヽ······」
「馬鹿ね」
「ハッハヽヽヽ」
当時、銀太夫君は入門

差当り、銀さんは
「それも宜かろう。やって見るさ。おれも若ければ修業を仕直して本業に入るんだけれど」
と未だ夢が覚めていなかった。この父にして、この子ありだ。鐘太夫と懇意だったので、内弟子に頼んでくれたのである。
「会社員かい? 凄いな」
と師匠が言った。
「いや家の店に勤めていたんです」
「学校は?」
「甲種商業学校を卒業しました」
「イヨ/\凄い。俺は師匠が勤まらないよ」
「飛んでもない」
「学があるだろう。学なんか忘れてしまわないと義太夫は覚えられないよ」
「初めからないんですから、大丈夫です」
「商業学校なら英語が出来るだろうな?」
「はあ。
「義太夫のことを英語で何と言うね?」
「さあ」
「三味線は?」
「存じません」
「駄目だなあ」
「あなた、そんな馬鹿なことを訊くものじゃありませんよ。美代子が笑っていますわ」
と奥さんが注意した。
「美代子は学校で習っているから知っているだろう。義太夫のことを何と言う?」
「義太夫は義太夫よ」
と美代子さん極く無造作に答えた。
「英語だよ」
「英語でも義太夫でしょう」
「
「矢っ張り三味線」
「それじゃ日本語と同じじゃないか?」
「日本にあって西洋にないものは日本語が通るのよ」
「するとお父さんは英語でも豊竹鐘太夫か?」
「えゝ」
「成程ね。オリンピックは日本でもオリンピックか? これは一つ学問をした」
「
と奥さんも美代子さんが自慢だ。
「浅瀬を渡るこの佐々木」
「
「ハッハヽヽ」
「冗談は兎に角、学があると義太夫を覚えないなんて仰有ると、あなたの
「何故?」
「銀二郎さんのような学のある人が
「よし/\。分っている。銀二郎さん」
「はあ」
「銀の字とやりましょう、これからは」
「はあ」
「へいと言って貰います」
「へい」
「
「大丈夫です」
「これから五年六年、みっちり修業をしないと物になりません。苦しいことがあっても、皆自分の為めだと思うんですよ」
「へい」
「必ず一人前の太夫に仕上げて、お父さんにお礼を言って戴きます」
と鐘師匠、相手の経歴に興味を持って
銀の字は才が利く。成績の悪い弟子達の続いた後だったから、目に見えて師匠の気に入った。奥さんの
「銀さんの声、時々鶏が締め殺されるようになるわね」
と美代子さんは遠慮がない。
「張り上げると、かすれるんです。変でしょう?」
「でも、初めの中は皆然うよ。
「師匠が仰有るんですか?」
「母よ。家は母の方がよく分るんですって」
「声は親譲りで
「悪いんじゃなくて、まだ本当の声が出ないんですって」
「
「私、義太夫なんか面白いと思いませんわ」
「何故ですか?」
「古いわ。新人のやることじゃないわ」
「いや、新人が出れば、古い義太夫も新しくなります」
「それじゃあなた新人?」
「その積りです」
内弟子に住み込んでから丁度一年たった頃、銀二郎君は偶然新人振りを発揮して、美代子さんと奥さんに多大の感銘を与えた。これが切っかけになって、師匠鐘太夫が新しい意識に目覚めた。鐘さんは言うことが違う。同業中のインテリだ、という評判と共に人気が立って、売れっ子になった。その為め洋行までしたが、先ず事の起りから書く。
或日、美代子さんが学校から帰って、浮かない顔をしていた。お母さんが訊いたら、友達に
「何と仰有るの? 皆さんが」
「鶴田さんと
「芹沢さんは仲よしで、この間遊びに来て下すったじゃありませんか?」
「あれは家の様子を見に来たのよ。金持か貧乏かと思って」
「貧乏だって仰有るの?」
「いゝえ。芹沢さんのところ、
「それじゃ何と仰有るの?」
「今度の日曜に鶴田さんと芹沢さんと私とで池田さんのところへ遊びに上ることになっていましたの。大森のお屋敷よ」
「華族さんでしょう、池田さんは」
「えゝ。それですから
「お前は?」
「いけないんですって」
「何故?」
「············」
「何故よ?」
「でも芸人の子ですからって」
と美代子さんはシク/\泣き出した。
お母さんは芸人の子だからといって恥じることは
「そんな分らない人達とは遊ばないでも
とお母さんは尚お慰め
「奥さん、僕、口惜しくてたまりません」
とそこへ銀太夫君が突入して来た。銀さん銀の字銀太夫、いつの間にか然ういう名がついて、師匠も自分が鐘太夫で金偏だから、銀太夫が宜かろうと言ってくれた。
「聞いていたの?」
「へい。その鶴田さんと芹沢さんの家の番地を教えて下さい。これから行って、言う丈けのことを言って来ます」
「まあ! 何うしたの? そんな怖い顔をして」
「お嬢さんが恥をかゝされたんですから、黙っちゃいられません。お嬢さん」
「············」
「お嬢さん、はい、仰有って下さりませ。この
「馬鹿ね」
「本当です」
「喧嘩に行ったって仕方ありませんよ」
「いや、重大問題です。これというのも、師匠初め奥さんの御教育が悪いからです」
「教育が悪いんですって?」
「へい」
「銀さん、生意気なことをお言いでないよ」
と奥さんは屹となった。銀さんはペコ/\と頭を下げた。態度丈けは何処までも下から出る。
「お嬢さんがお可哀そうです。子としては親を自慢するくらいが本当でしょう。失礼ながら、お父さんは日本一の正しい仕事をしているという教育が利いていません」
「············」
「芸人の子だからと言われた時、何故芸人の子じゃ悪いんですかとお嬢さんはお訊き返しになるのが当り前でしょう。相手は何ですか? 高が貧乏絵師や腰弁の娘です。
「私にかゝって来ても困りますよ」
「義太夫語りが芸人なら、絵師は職人です。同じことじゃありませんか?」
「それですから、同じだと教えているんですわ」
「絵師が筆で描くところを義太夫語りは声で現すんですから、些っとも変りません。絵師が芸術家なら、義太夫語りだって立派な芸術家です」
「然うなる理窟ね」
「役人だって同じことです。官吏というと豪そうですけれど、官吏の月給は人民の納める税から出ているんですから、人民に雇われていることになります。一種の使用人です。それですから、英語では官吏のことをパブリック・サーヴァント即ち
「学者ね、銀さんは」
「お嬢さん、お分りになりましたか?」
「えゝ」
と美代子さんはもう
「もう時代が違います。太夫も三味線弾きも芸術家です。芸人じゃありません」
「分ったわ。私、明日鶴田さんと芹沢さんに言って上げますわ」
「
「厭よ、
「ハッハヽヽ」
「芸人って言葉、私、本当に面白くないわ」
「僕は誤解のないように、芸術家で行きます。三味線は器楽、義太夫は声楽です。声楽家の積りですから、遠慮しないで、鶏が締め殺されるような声を出します」
「弁解ね。オホヽヽヽ」
「頭の
と銀さん、ナカ/\曲者だ。
その晩、奥さんは師匠が同業の寄合から帰って来ると直ぐ、
「あなた、しっかりして下さらないと困りますよ」
と訴えた。これがいつも問題の前提だ。
「何だい?」
「家の教育が届き兼ねます」
奥さんは美代子さんが芸人の子だという
「それはお蔦、お前が威張り過ぎる。銀の字もベラボーだ」
「何故でございますか?」
「華族さんと義太夫語りを並べて見れば、何のことがあるものか、義太夫語りの方が下だよ」
「いゝえ華族さんは別ですよ。画家と官吏の話ですわ」
「画家も位が上だろう。芸術家だから」
「義太夫語りも芸術家ですわ。あなたからしてそんな無理解なことじゃ困りますよ。画家が筆で描くところを
「声は直ぐ消えてしまう」
「レコードに入って残りますわ」
「成程ね」
「同じことですわ。画家だって義太夫語りだって」
「すると
「えゝ」
「芸術結構」
「官吏だって同じことですわ」
「官吏は豪いよ。大臣がいる。次官でも大したものだ」
「師匠、大臣でも次官でも、官吏は皆パブリック・サーヴァントです」
と銀さんが切り込んだ。美代子さんが目くばせをしたのだった。
「何だって?」
「
「成程な。面白い」
「役人や絵描きの娘に威張られて、お嬢さんが泣いて帰ってお
「
「へい」
「あなた。私も銀さんに然う言われて腹を立てたんですけれど、考えて見ると、これは私達に責任がありますよ。私達ばかりじゃありません。同業の人達一般にも時代に目覚めて戴く必要がございますわ」
「銀の字が入れ智恵をすると見えて、お前はこの頃無暗とむずかしいことを言う。何だい? 一体時代に目覚めるってのは」
「俳優さんを見ても分りましょう。『錦着て畳の上の乞食かな』と歎いたのは昔のこと、時代に目覚めた今日は華族さんにも負けませんよ」
「うむ」
「太夫だって三味線だって同じ理窟ですわ。もっとしっかりして下さらなければ困りますわ」
「それは分っている。何うすれば
と鐘師匠、
「銀の字、おれに英語を教えろ」
と師匠が言い出したのは、それから間もないことだった。奥さんや美代子さんの懇願を容れて、時代に目覚める努力を始めたのである。
「へい。しかし私もお教えするほどは出来ません」
銀さんは奥さんに
「何と言ったっけかな? あれは」
「へい?」
「英語のイロハさ」
「ABCでございますか?」
「それ/\。しかしイロハは面倒だから習わない。本字から行こう。本字を片仮名で覚えれば宜いんだ」
「へゝえ」
「芸術家ってのは何だい? 英語の本字は」
「アーチストです」
「芸人は?」
「さあ。矢っ張りアーチストでしょう」
「
「へい」
「成程。お前の言う通りの理窟だな。芸人が芸術家になるんだから」
「何うも同じだろうと思うんですけれど」
「インテリ/\と
「いや、知識階級のことです」
「道理でこの頃皆が俺のことをインテリと言う」
「御評判ですよ」
「仲間には英語を知っているようなインテリは一人もない。ところで
「アマチャーです」
「甘ちゃん?」
「アマチャーでございます」
「
「プロフェッショナルです」
「野球と同じだな。今日はこれ丈けとして、今の本字を書いて置いておくれ。毎日頼む」
「へい」
「
「単語も必要ですけれど、応用的に書き抜きを拵える方が早くはないでしょうか?」
「書き抜きというと
「へい」
「弟子から科白を習うのは情けないが、近道なら仕方がない。一つ見本を拵えて、見せておくれ」
鐘太夫はグン/\時代に目覚めた。
「
なぞとやる。
「鐘さんは急にインテリになったね」
「うむ。英語をペラ/\使うから、此方は戸迷いをする」
と旦那衆も恐れを為す。鐘さんの現代化に調子を合せなければならないのは三味線の
「鞆作さん」
「へい」
「お互太夫と三味線は野球と同じことでチームワークですよ」
「チムワクというと?」
「組んでやることです。協同作業です」
「組んでいるがな、初めから」
「それだから
「チムワク。チグハグと覚えて置きましょうか? ハッハヽヽ」
「物の見方を新しくすれば、心持も新しくなりますよ」
「大きに」
「お互に時代に目覚めて、ジャン/\やりましょう」
「へい」
「ついては、あなたも洋服を着て下さい」
「私が?」
「えゝ」
「この年で?」
「何の年だって、西洋人を御覧なさい。皆洋服です」
「成程」
「似合いますよ」
「似合っても似合わなくても、あなたと私は名コンビですから、仕方ありません」
「名コンビは有難いですな。鞆作さんのヒットです」
「ヒットというと?」
鐘師匠は薬が利いた。元来進取的の人だから、至って自然に芸人という
「銀さん、お蔭さまよ、本当に」
と奥さんがお礼を言った。
「何う致しまして」
「少しお薬が利き過ぎたくらいよ。私にまで洋装をしろと仰有るんですから」
「結構じゃありませんか? お似合いになりますよ、奥さんは」
「まさか。こんなお婆さんが」
「いや、奥さんはお若いです」
と銀の字、
「師匠思いね、あなたは本当に」
と感心してくれた。誠意が通じているのだ。人間には心のアンテナというものがある。後五年で一人前の太夫さんになれるとすると、自分は二十九、美代子さんは二十だ。丁度好い。
或日、奥さんが銀太夫君を呼びつけて、
「銀さん、こんなお話、美代子のいるところでは出来ませんけれどもね」
と声を
「何ですか? 奥さん」
「お蔭さまで師匠も
「はゝあ」
「第一、派手でしょう? 洋服の柄が」
「しかし新人ですから若がるのは当り前でしょう」
「でも、程度問題ですわ。美代子と一緒に歩くのは具合が悪いなんて言っているんですもの」
「何故でしょうか?」
「あんな大きな娘があると思われたくないんですって。丁度五十ですよ、もう。幾ら時代に目覚めたって、そんなに若がる年でしょうか?」
「さあ」
「あなたは大抵ついて歩いているんですから、責任を持って下さらなければ困りますよ。師匠は
「さあ」
「
「奥さん、僕、決して隠し立てなんか致しません」
「神楽坂へは芸者衆へお稽古をつけに行くのよ。お稽古は昼間ですわ。芸者衆は夜が稼業ですから。それに夜の十時十一時までかゝるのは変じゃありませんか?」
「············」
「些っとしっかりして下さらないと困りますよ」
「へい。気をつけます」
銀二郎君は将来美代子さんを貰ってくれという相談だと思ったから当てが
鐘師匠は

「おれもあのまゝ彼方にいればなあ」
と師匠がつい
「彼方にいれば何ですか?」
と奥さんが直ぐに突っ込んだ。師匠は単に此方と彼方では芸の需要が違うという意味だったが、奥さんは気を廻し過ぎる。先頃から多少過敏になっていた。
「何てこともないよ」
「いゝえ。何てこともあるからでしょう? あなたは大阪の師匠の娘さんが未だ忘れられないのよ」
「馬鹿を言え」
「何うせ馬鹿ですよ、私は。そんなこと、初めから分っているじゃありませんか? 重役になる人を断って、見す/\あなたのところへ来たくらいですから」
「憤っているのかい? お前は」
「腹が立てば、馬鹿でも憤りますよ」
「詰まらない」
「何が詰まらないんですか? あなた、詰まらない
「勝手にしろ」
と師匠が声を励ましたものだから、
「まあ/\、師匠」
と遮った。
「何だ?」
「まあ/\」
「お前はお
「いや、決して」
「それなら黙っていなさい」
「へい」
「あなた、
と奥さんが繰り返した。
「次第も何もない。二十五年前の話だ」
「二十五年とチャンと覚えていらっしゃるのが厭ですわね。毎年数えるんですか?」
「何でも構わない。おれはもう問題にも何にもしていないんだ」
「いゝえ。問題にしていればこそ、ついお口に出るんでしょう? 頭が禿げているくせに、何ですか?」
「禿げてなんかいない。少し薄くなったばかりだ」
「透けていますわ、豚の背中のように」
「
「物の道理を申上げているんですわ。年寄は年寄らしくなすったら宜いでしょう。真中が透けて
「彼方にいれば、もっと出世していたろうと言うんだ」
「彼方にいれば、師匠の娘さんと一緒になっているんでしょうから、そんなこと、私というものゝ顔を潰した愛想尽かしじゃありませんか?」
「出世丈けの話だ。未練はない」
「出世なら、私もあなたのところへ来なかったら、決して負けませんよ。あなたが私を追い廻し始めた頃、私は縁談が降るほどあったんですから」
「それじゃお前はおれのところへ来たのを後悔しているのか?」
「
「そんならもう
「でも、あのまゝ大阪にいたらなんて言われると、私、苦労の甲斐がありませんからね」
「それじゃもう言うまい」
「然うして戴きましょう」
「大阪のことは言わないが、おれは未だ年寄じゃない積りだ。それ丈けは立派に断って置く」
「年寄でしょう。人生五十、昔ならもうソロ/\御隠居さんですわ」
「それは年から言えば年寄かも知れないが、未だ/\若い積りだ。美代子を見て、おれの子だと思わない人もある」
「何処の誰ですか? それは」
「方々にあるんだ」
「
「人間、
「あら、あなたは私の本当の年を知っていらっしゃるから、そんなこと仰有るのよ。私、二三年前までは美代子と一緒に出掛けると、姉さんと間違えられましたわ」
銀二郎君は
「銀さん」
「へい」
「何が可笑しいの? あなたは」
と奥さんは
「············」
「銀さん、私、駈引のないところ、そんなお婆さんに見えますの?」
「いや、何う致しまして」
「それなら人が真面目なお話をしているのに、笑わなくても宜いでしょう?」
「相済みません」
「此奴は馬鹿だよ」
と師匠も銀二郎君を睨んでいた。
「
「頭の毛が三本足りないんだ」
「お猿?」
「モンキーのインテリさ」
「銀さん、あなた本当にもっとしっかりして下さらないと困りますよ」
「気をつけます」
と銀二郎君はあやまるばかりだった。そればかりでない。奥さんは師匠の立った後、
「銀さん、あなたは今何と仰有いました?」
「さあ」
「決してと仰有いましたよ。決して私の肩を持ちませんって」
「············」
「ハッキリしていらっしゃいますのね」
銀太夫君は師匠から芸を習うと共に、師匠のインテリ
「もう鶏の締められる声出さなくなりましたわね」
と美代子さんが敬意を表してくれた。その美代子さんは既に女学校を卒業して、
四五年間の形勢が一変している。殊に
「おれは三人芸だよ。この上、義太夫学校を起そうというんだから忙しい」
と鐘さん、
斯うなると、内弟子は銀太夫君一人では間に合わない。家も広いのに越して、
「駄目ですよ。豆食いをしていたんですから」
と謙遜した。これは大勢で語る時、末席に居流れて口丈け動かしているのだが、文楽座の豆食いになるまでには、五六年の修業が
「初めからこゝの師匠についていれば、もっと出世しているんです」
と此奴は遠慮をしない。
銀太夫君としては何方も強敵だ。マイナス芸イコール零の師匠は芸の好いのを信用してしまう。気に入れば、それから先の問題がある。考えて見ると、気が気でない。
「銀さん、年から言っても、あなたが一番の兄さんよ。兄弟子として、しっかりして下さらなければ困りますよ」
と奥さんが元気をつけてくれた。
「へい」
「あなた、この頃、少しボンヤリしていやしません?」
「心配事があるものですから」
「何が心配?」
「これってこともないのに、気になるんです。神経衰弱かも知れません」
「駄目ね」
銀二郎君は雑誌の編輯に力を入れた。師匠に
「美代子さん」
「はあ」
「僕、随分違いますか?」
「何が?」
「鐙君や錺君と格段に違いますか。二階でお聴きになっていて」
「同じようですわ。でも、お父さんに似ているのは矢っ張りあなたよ。私、間違えるくらいですから」
「本当に
「何うしてそんなことお訊きになりますの?」
「僕、駄目だと思うんです」
「気が弱いのね、銀さんは」
銀、鐙、錺の三青年は芸道の
「何うしたんですか?」
と銀さんが訊いたが、二人は答えなかった。実は自分達にも何の為めの喧嘩か分らない。要するに
その中に三人はお互に敵だということを確実に承知した。浅ましいけれど、仕方がない。同じ部屋に寝起きをしていながら、好かれとは願わず、何うか彼奴が
「銀の字、お前は髪が長過ぎるよ」
「へい」
「短く刈ったら何うだ?」
「チックをつければ
「何を?」
「コスメチックです。一寸師匠には御用のないものです」
「············」
「失礼申上げました」
「銀二郎!」
「へい」
「出て行け! 手前はもう
と師匠は呶鳴って立ってしまった。銀二郎君は
「銀さん、あなたは何うしてあの若がりの師匠に禿頭だの何だのって仰有ったの」
「そんなことは決して申上げません」
「それじゃ何と仰有ったの?」
「コスメチックは師匠に御用のないものですと······」
「同じことじゃありませんか? 禿頭だから、御用がないって意味でしょう?」
「あゝ、悪かった。笑って下さると思って、冗談に申上げたんですけれど」
師匠は虫のいどころが悪かった。尤も年々逆さまに年を取って、美代子さんが
「銀さん」
「ひえ?」
「あなた、短気を出しちゃいけませんよ。あなたのお心持、私、分っているんですから」
「僕、決して
「そのことじゃないのよ」
「何のことですか? それじゃ」
「あなたのお心持、初めから分っていますの。四年生の頃からよ。学校の下読みをして戴いた頃からよ」
「へゝえ」
「あなた、心のアンテナってことを仰有ったでしょう? 人間には誰にも心のアンテナってものがありますって」
「へえ」
「私、あれからよ。心のアンテナで、あなたのお心持が分っていますわ。お母さんもあなたのお手柄、今までお父さんにお尽しになったこと、
「有難いです」
「お父さんに御機嫌を直して貰って戴きますわ、私」
「何うぞ」
「お母さんと私が組めば大丈夫よ。お母さん丈けは私があなたを厭がっていないこと知っていますのよ」
「············」
美代子さんは後ろへ廻って、銀さんの背中を
「人間には嬉し泣きってものがある。
と言っている。
(昭和十二年一月、現代)