「君達の
目のあるものは皆そう言って、敬意を表してくれる。
「一癖あるのが揃っている」
と課長が言ったそうだ。僕達も十
自分のことから先に話すものでない。第一指は二科に二度入選した素人洋画家
「いや、その拝領した人が死んだものだから、木寺君にお鉢が廻って来たんだ。美人には美人だけれど、歴史がついている」
という評判だ。艶福家は兎角
「木寺君の絵は童心が豊かで荒削りだから、僕達には分らないが、兎に角追々玄人離れがして来るようだ」
と仲間の広瀬君が言った。この男は物を
次は僕だけれど、謙遜の為めに譲って、
「海野君は素晴らしいものだよ。会社をやめて師匠を専門にやった方が宜いかも知れない」
と褒めていた。
それから但馬君だ。この男は登山家として、広くその道の人達に知られているように主張する。一度雪の中で行方不明になって放送されたことがあるから、少くとも会社の人は皆知っている。幸いにして、無事に帰って来た。会社で放送されたのはこの男と社長丈けだろう。社長は自動車が小田急と衝突して粉砕したけれど、運転手諸共軽傷を受けたばかりだったから、奇蹟として夕方のニュースに放送された。但馬君はハイキングもやる。何処のコースは自分が発見したものだなぞと
「一体、山を征服するなんて言葉からして間違っている。富士山へ登って富士山を征服したと思えるのかい?
とその折広瀬君が
その次に広瀬君自身を挙げなければならない。これは何も芸がないのに、但馬君の親友という関係から、いつの間にか、僕達の仲間に入ってしまった。僕達のは天狗の会だ。それ/″\
「おい。広瀬を除名しようじゃないか?」
と時折木寺君や海野君が
「仕方がないんだ。僕について来るんだから」
と但馬君も持て余している。喧嘩をしても、受験生時代に同じ予備校へ通った古馴染だから振り切れない。
「除名といっても、別に会則のある会じゃない。広瀬君の批評も他山の石と思って
と僕は
広瀬君がいないと、木寺君が文展の審査委員、海野君が観世さん、但馬君が日本一の登山家の気になって気焔を揚げるから、僕が迷惑する。しかし広瀬君の高等批評には甚だ
「広瀬君は絵の約束が分っていないんだな。もう少し研究してから批評をする方が
と受け答えて、唇を噛んでいた。
「海野君、僕はこの間君の
「ふうむ? 何うせ碌なことじゃあるまい」
「長くやっているから、声帯に
こういう風だから、海野君も面白くない。但馬君に対しては昔馴染だから更に遠慮がない。
「登山やハイキングを率先してやるくらいの連中は元来が新感覚の
と広瀬君が言った時、但馬君は口で答えずに、突如広瀬君の頬をピシャリと叩いた。僕達は慌てゝ但馬君を押えた。
「僕の言った通りだろう。興奮を芸術で表現しないで、直ぐに腕力に訴える」
と広瀬君は口が減らない。
「馬鹿!」
「雑音で来るのか?」
「広瀬君、黙り給え」
と僕が制した。尤もこんなことばかりはない。極端な場合を挙げたので、普段はよく折り合っている。天狗の鼻が高くなると、広瀬君、兎角黙っていれない。
さて、どんじりに控えたのは僕で、探偵小説を余技としている。書くものばかりが文士でない。文学を味わうものは皆
「そうかね。そんなものを預かった覚えはないんだがな。原稿も? はてね」
と首を傾げていた。序に何処の雑誌へでもと言って原稿を渡して置いたのだが、それも失くしてしまったのらしい。
始終読んでいるから、僕の探偵小説やスパイ文学の知識は素晴らしいものだ。頭の中で渦を巻いている。専門の文士が僕の顔を見ると、何か種はないかと訊く。僕はいつでも教えてやるのだ。常に探偵小説のテーマを考えているから、頭の働き方がシャーロック・ホームズ式になる。
「あなたは怖いようなものね。私の心の中が直ぐに分ってしまうんですから」
と恐れをなしている。現にこの間、妻や子供達と一緒にデパートへ行ってハンド・バッグの売場を通り過ぎる時、妻の歩調が急に鈍くなったから、お前はハンド・バッグが欲しいのだろうと言い当てゝやった。この話をしたら、
「おれだってそれぐらい分らい!」
と怒鳴りつけた。登山家は妙に気が荒い。
正会員は
「大勢の中に自分一人独身でいるのは、皆が船に酔ってゲロを吐いている時、自分丈け酔わないでいるのも同じことだ。自信がつくから頭が冴える。自然好い判断も出るというものだろう」
ゲロとは、生活に
「いや、冗談だよ。僕だって好い相手が見つかれば結婚するんだから」
と誤魔化した。それにも拘らず、
「おい。会をやろうよ」
と催促するのは、いつも広瀬君だ。独身者は話相手がなくて退屈するのだろう。その埋合せの積りか、会では一人で喋り続ける。相手代って
「僕達のは余技だから、これで通るんだよ。子供の時からやっている玄人には足許にも近づけない。僕は大師匠あたりのを聴いていると、もう謡曲なんかやめてしまいたいと思う」
と或晩海野君がツク/″\述懐した。
「それはそうだ。僕の絵なんかも余技だから認められる。専門にやったら、
と木寺君が応じた。思いあがっている二人も時には冷静に自己批判をすることがあるのらしい。
「大師匠は
「お互だよ。僕は余技なんかない方が気楽だろうと時々思う。人の巧いところと自分の拙いところが目について、煩悶を重ねるばかりだからね」
「本当だ。何もやらない方が悧巧さ」
「自分がやらなければ、加減が分らないから、大胆な批評が出来る」
「その点、広瀬君は心得たものだ」
「何だって?」
と広瀬君が開き直った。もう口を出したくってウズ/\していたところだった。
「余技のないものは幸福だというのさ」
と海野君がその理由まで説明した。
「黙って聴いていれば、何だい? 君達は余技がある積りかい?」
「厳しく来たね」
「声帯の痙攣が余技なら、鶏なんかは大家の方だろう。コケコッコー」
「相変らず口の悪い男だ」
「余技を主張するからには、本技があるんだろう? 君の本技は何だい?」
「············」
「一寸返答が出来まい。人間は実に不正確な言葉を使って平気でいる。余技々々と言って得意になっているからには、もっと立派な本技がある筈じゃないか?」
「それは会社員が本技さ」
と但馬君が
「会社が本技で、君の余技は?」
「山登りだよ」
「親不孝は芸じゃあるまい?」
広瀬君は山登りと親不孝を同義語に使う。絵画や謡曲と違って山登りは芸でないという意味だった。
「山登りが親不孝ってのは極端だろう。そんな
「しかし君のお母さんは目を泣き腫らしていたよ。常吉はもう帰って来ませんと言って」
「
「それは統計上避け難い害悪だ。

「山登りも一種の体育だよ。平地では得られないような訓練があるから、必要欠き難い」
「体育は身体を丈夫にするものだろう? 山の中で途方に暮れて凍え死をする心配はないものだ」
「いや、やり方が悪いと
「なるものか?」
「なる」
「ならない」
「なる」
「ならない。なった実例があるのか?」
「やり方によっては何でも
「野球の間違は極く
「多少の犠牲はあっても、一般の体力が向上すれば
「君達は時局の認識が不足だよ。それだから酔狂な余技に貴重な時間を潰しているんだ。一体、
「おや/\、此方へ攻撃が来たのかい? しかし広瀬君、それは極端だろう?」
と謡曲の海野君が相手になった。
「極端だよ」
と油絵の木寺君も後に続いた。
「何故極端だい? 木寺君」
と広瀬君が指名した。僕は知っているが、広瀬君が名を指す時は、軍備が確信的に充実しているのだ。相手は大概やられてしまう。
「極端だよ」
「何故?」
「君のように言うと、事変に直接関係のないことは何でもいけないことになる。それじゃ考えが狭過ぎる。戦争があっても、
「童画もかい?」
「二科会は童画の展覧会じゃないよ」
「僕は道で小便が出たくなっても、家まで凝っと我慢するんだけれどもなあ」
「何のことだい? それは」
「君の芸術的興奮は結構だけれど、表現についてもう少し考えて貰いたいというのさ」
「充分考えているよ。表現こそ芸術家の苦心の殆んど全部だもの」
「僕は往来で小便が出たくなっても、家へ帰ってから表現する」
「えゝ?」
「このところ小便無用花の山だ。世の中の美観を傷つけるような絵は描いて貰いたくない。僕の批評眼から見ると、多くの画家の絵は花の山に立小便に外ならない」
「············」
木寺君は黙ってしまった。口惜しかったけれど、華族さんだから荒い言葉が出ない。花かざす
「好い加減にし給え」
と言って、但馬君が広瀬君の肩を突いた。温厚な木寺君の為めに義憤を感じたのである。坐っていた広瀬君は仰向けざまにひっくりかえった。僕はその上手荒いことをしないように、但馬君を捉まえてしまった。
いつの間にか会が面白からぬ傾向を帯び始めた。広瀬君は但馬海野木寺の三名を向うに廻して議論をする。懇談会よりも討論会に近い。僕は世話人として、その都度仲裁の労を執らなければならない。
「おい、会をやろうじゃないか?」
と広瀬君が無造作に
「喧嘩の会なら、もうやめる。この前に討論会は無期延期と宣言して置いた」
と僕は強く出てやった。
「今度のは僕の
「恋愛?」
「うむ」
「君にもそんな経験があるのかい?」
「にもなんて失敬だろう」
と広瀬君はもう
しかし懺悔とはしおらしい。皮肉屋だけれど、

「僕だって何も好き好んで独身でいるんじゃない。家庭の温みも察している。女の情愛も知っている。こう見えても、根っからの
と広瀬君は前置をした。
「感心々々。これは話せる」
この度は僕が相手になった。心の問題は小説家の領分だ······。
「高等学校の生徒時代に
「思ってやるとも」
「螢狩だ。朝顔日記宿屋の段、以来僕は『
「美人かい? 相手は」
「君達の奥さんぐらいのものだ」
「謙遜したね」
「漸く十人並さ」
「おや/\」
「しかし以来その人以外の女性は絶対に美人に見えないから不思議なものだろう。人間は一遍しか恋を
「驚いたな。君がそんなに熱誠を示すのは初めてだよ」
「学校へ帰ってから月に二回ぐらい文通をした。内証だ。頻繁だと見つかる心配がある。又夏休みが来て、会う瀬を楽しんだ。と言っても、謹厳なものさ。その人の妹と僕の妹が女学校の同級生だった。そんな関係だから、妹達を利用して会う。必ず手近に第三者がいるから苦しい」
「
「先方はもう二十四になって、縁談が纒まっていた。僕達のは相思の間柄でも浮世の義理に
「元来無理だったんだね」
「うむ。先方もそれを手紙に書いていた。それとなくあなたのお母さんの御機嫌を取っても一向察してくれませんと言うのだった。僕も両親に打ち明けて成功する見込がないと明言していた。そこで別れる外に仕方がない。しかしそれが辛いんだ」
「
「一度僕は話の中に、冗談に、お婆さんと呼んだんだ。すると
「光子さんというのか? 覚えて置こう」
と僕は手帳につけた。
「何の因果で私はあなたよりも年上に生れて来たんでしょうと言うんだ。僕はあやまった。二つ姉さんでも愛があれば構わないと言ったが、光子さんは納得してくれない。光子さんのところの
「うむ」
「お婿さんに見つかったら何うすると訊いたら、
「ふうむ」
「光子さんはそうして下さいと言ったよ。心はいつまでもあなたに結びついています。身体丈けお嫁に行くんですからって」
「お婿さんこそ可哀そうなものだな」
「二人の手紙は赤いリボンで束ねたまゝ、今でも光子さんの秘密筥に入っている筈だ。
「その後会ったかい?」
「いや、お互に死んだと思いましょうと言って別れたんだから、再会を期さない。それに
「噂は聞くだろう?」
「
「
「うむ。これは見損っていたよ」
と海野君が溜息をついた。
「本当に柄にないことがあるものだな。しんみりしちゃったよ」
と但馬君も感激した。
「
と木寺君はそれが有りのまゝの心持だったろう。
「君達は結構だよ。羨ましい」
広瀬君はいつになく穏健だ。
「君からそう言われると
と僕が又相手になった。
「しかし僕は同時に自ら慰めるところもある。こうやって独身でいる方が安心だと思うんだ」
「何故?」
「光子さんの実例で察しるんだが、女ってものは皆秘密を持っているらしい。今更結婚しても、赤いリボンで束ねた手紙なんか持っている女を
「光子さんのようなのは特別さ」
「いや、女には皆秘密があるものらしい」
「良家の令嬢、
「光子さん自身が現に良家の令嬢、深窓の佳人だった。その後先方の親父が此方の親父を負かして市会議員に当選したくらいだから、買収力のある
「ソロ/\皮肉になって来たぜ」
「あの光子さんにしてそうなら、
「それは極端だよ」
「いや、君達の奥さん方にしても、必ずしも君達が好きで嫁に来たんじゃないかも知れない。箪笥の中に秘密筥を持って来ていないとは限らないぜ」
「そんな心配は断然ない」
「と言って、知らぬは亭主ばかりなりさ」
「そんなことを言っていたら果しがないよ。男にも男の秘密がある。お互に有りのまゝを話して見給え。女房に胸倉を取られるぜ。ねえ、海野君、但馬君」
と僕は両名の注意を呼んだ。木寺君に気の毒で、この上、広瀬君に話して貰いたくなかったのである。
「僕はそんなことはない積りだよ」
と海野君が
「僕も君と一緒にされちゃ困る。冗談は言っても、家内を
と但馬君もひどく改まって、僕を睨みつけた。僕は木寺君の為めに気を利かしたのだけれど、それが分らないのだから仕方がない。広瀬君が又喋り出してしまった。
「そう断言出来る両君は仕合せだよ。しかし僕は
会は土曜日の晩だった。日曜を一日置いて、月曜の昼、会社の食堂で顔が会った時、
「
と広瀬君が僕に訊いた。
「何が?」
「奥さんの
「馬鹿な」
僕は
「君のところ丈けは大丈夫だろうと思っていたが、木寺君を見給え」
「何処にいる?」
「あすこだ。海野君の隣りだ。少し顔色が悪いだろう?」
「うむ」
「女房の秘密筥が気になるんだ。しかし知っての通りの事情だから、あの男に丈けは
「僕も気の毒で困った。しかし君があゝいうロマンスの持主とは驚いた」
「嘘だよ、あれは」
「えゝ?」
「懺悔さ。
「ふうむ」
「それを本気にして、ノートを取ったんだから、君の小説も塩が甘いな」
「
と僕は今更
「実は君達の家庭へ一波瀾起してやろうと思ったのさ。少くとも海野君の分は成功したらしい」
「
「人生を教えてやるのさ。分りもしないのに芸術だの何だのと言って威張るからさ」
と広瀬君は痛快がっていた。
僕は後刻海野君に当って見た。自分が引っかゝらないと、他の人達の被害が馬鹿のメートルのように見える。
「何うだったい? 奥さんは秘密筥を持っていたかい?」
「そんな女房とは柄が違う」
「子供が三人もあっちゃ今更秘密筥でもあるまいな」
「実は訊いて見たんだが、女心の一筋に、憤って泣き出してしまった。子供が三人もあるのに、あなたは冗談にもそんなことが仰言られるんですかって」
「ふうむ」
「こういうこともあろうかと思って、子供が寝静まってから訊いたんだが、大きい奴が目を覚して、お父さんとお母さんが喧嘩だと騒ぎ立てた」
「ハッハヽヽ」
「女中まで起きて来て、好い恥をかいたよ」
「広瀬君、さぞ喜ぶことだろう」
「しかしあの男、案外殊勝なところもあるんだね」
「何あに、嘘だってさ」
「嘘だ?」
「うむ。皆の家庭に一波瀾起させる魂胆で、あゝいう懺悔を創作したんだ。引っかゝって感心している奴は人が好い」
「畜生!」
「念が入っている」
「これは一つ但馬君に頼んで制裁して貰うんだな」
次は但馬君だった。海野君は美事引っかゝった為め、更に深甚な興味を持って、
「君、僕は広瀬君の
と自分の
「そうかい? 僕のところでは、大発見をした」
「あったのかい?」
「まあ、待ち給え。僕は昨日の朝、日曜を幸い、家内に子供をつけて里へ遊びに出した。後から箪笥の中を調べようって寸法さ。コッソリやる積りだったが、着物の畳み方を知らないから始末が悪い。まゝよと思って無暗に引っ掻き廻した。
「秘密筥かい?」
「うむ。温泉土産の寄木細工のがあるだろう。何処から開けて宜いか分らない奴が」
「ある/\。成程」
「見つけたものゝ、何うしても開かないんだ。仕方がないから、金槌で叩き
「成程」
「秘密筥を持っているところを見つかってしまった。『あなた、何なさるの?』って、家内はひどく慌てゝ訊いた。もう仕方がないから、『この筥は何だ』と高飛車に出た。『何でもありませんわ』『何が入っている?』『何も入っていませんよ』『開けて見ろ』『あなたの御覧になるものじゃないんですから、堪忍して頂戴』と押問答が続いた。益

「赤いリボンの手紙の束かい?」
「僕もそうかと思って恐ろしかったんだが、何のことやれ、銀行の
「ふうむ」
「万一僕が失業した場合の用心だそうだ。長女の名前にしてあった。千円にしてから見せる積りだったと言う。天晴れ賢女だろう? 僕は頭が下ったよ」
「妙なところで
と海野君は
僕は温泉土産の秘密筥と聞いて思い出した。妻もそれと同じ品を持っている。或は中に通帳を入れているのかと思って、その夕刻家へ帰ると直ぐに、
「おい。お前は変な筥を持っていたが、あれを出してみろ」
と命じた。
「何でしょう? 変な筥って」
「温泉土産の秘密筥さ」
「あんなもの何うなさいますの?」
「中を見たい」
「まあ! 何故?」
と
「何故でも構わない」
「あれは私、女学校時代に箱根へ修学旅行に行って買って来たんですわ。丁度好いと思って、懐しい記念品を入れてありますの」
「何だい? 一体」
「あなたに見て戴きたくないものよ」
「撲るぜ」
と僕は拳を固めて見せた。余り図々しいと思ったのである。
小さい子供が三人もあると、夜は寝せつけるのが一仕事だ。皆静まった後、妻は箪笥の引出から問題の小筥を持って来た。開けて見たらマッチ箱が一つ入っていた。
「何だい? こんなもの」
「中を御覧下さい」
マッチ箱の中に十数本のマッチと
「何だい? これは」
「私の愛人の吸殻よ」
「えゝ?」
「その方はこの煙草を吸いながら、私に結婚の申込のようなことを仰言いましたの。私がお受けをしたら、慌てゝこの煙草を灰に差して、私の手をお取りになりましたわ」
「馬鹿にするな!」
「あらまあ! あなたよ。あなたじゃありませんか?」
「うむ?」
「厭な人ね、そんな怖い顔をして」
「私、嬉しくて/\、あなたがお帰りになった後、一生涯の記念にと思って、そこにあったマッチ箱の中へこの吸殻を入れて、
「成程。思い出した」
「厭ね。あの時のこと、忘れていらっしゃったの?」
「いや、そうでもないけれど、お前が妙に見せたがらないから、つい
「ひどいわ」
「しかし何故見せたくないんだい?」
「あなたは駈引が強いんですもの。こんなものまで大切にしていると思えば、足許を見て、我儘を仰言るでしょう?」
「そんなことはないよ。お礼を言うばかりだ」
と僕はその昔のように妻の手を取った。考えて見ると、結婚前は
(昭和十四年十月、現代)