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或る別れ

北尾亀男





娘      人妻

隣家の人々  主人、男の子、主人の老母

葬儀人夫甲乙


山の手の或る公園

大正大地震の翌春||花時には稀な晴れた日の午前。正面と下手にバラック。その間は細い路次ろじで、奥深いバラック長家の心。正面のは入口が路次に面していて、(見物には)明りとりの小さな窓のあるはめ板が見えるだけで、下手のよりもやや奥まっている。窓には障子がはめてあり、その下に家の端から端に一本の細引が渡してある。下手のバラックは正面の入口の雨戸が半開きになっていて、その一枚に「忌中」の札が貼ってある。上手に一本の大きな立派な桜の樹が、今を盛りに咲き乱れている。そしてこれ等の周囲には樹々の若々しい青葉が繁っている。

桜の樹の下に一脚のベンチ、そこに葬儀人夫二人が腰かけている。甲は新聞を読み、乙はぼんやりと地上を眺めている。正面のバラックの前で、娘(二十歳位)が洗濯をし終った心で、一枚一枚絞りながらバケツに入れている。やがてそれを提げ、片手にたらいをもって上手へ去る。

やや間。下手から貧し気な風をした父(五十四五歳)が出て来て、ものを尋ねる心でバラックを一軒一軒覗きながら、正面の路次の中へ去る。上手から娘が洗濯物を入れたバケツ、盥などを提げて出て来て、窓の下の細引に通して干す。正面の路次から父が出て来る。ふと娘を見る。娘も父を見る。同時に、


父 おおお雪!

娘 ああお父さん、······まあ!

父 (うれしそうに)矢張りお前だったんだな。

娘 まあお父さん。(涙が出る)よくねえ!

父 ここにいるのか。そうか、そりゃまあ何よりだ。達者で何よりだった。

娘 お父さんもよくねえ。今何処に?

父 麻布あざぶの方にいるよ。なにね、実はきのう越前堀えちぜんぼりまで用達ようたしに行ったら、途中であの山田の息子さんね、あの新太郎さん、あの人に逢って、この近所でお前によく似た人を見かけたと云うからしやそうじゃないかと思って、出かけて来たのさ。

娘 あらそう、兄さんも矢張無事で······

父 兄さんは矢っ張り······駄目らしいね。

娘 え、駄目? まだ分らないの?

父 うむ、まだ分らない!

娘 お父さん、その後、あっちへ行って? 月島つきしまへ?

父 うむ、兄さんかお前かに逢うかと思ってね、先のうちはよく行って見たけれど、近処で訊いても一向お前等を見かけた人もないので、この頃はもう······

娘 私、お父さんは兄さんと一緒にいるとばかり思っていたのよ。

父 中々どうして。

娘 月島へも二三度行って見たけど、まだその頃は何もなくって、誰にも逢わないし、尋ねようがないんで······

父 そうだったろうとも。で、お前はいつから此処に来ているのだい?

娘 (済まない心で)間もなくでした。

父 そうか。それはまあよかった。それに此処のバラックは、よそより大へん丁寧に出来ているようだね。これなら寒中そう寒くもなかったろう?

娘 ええ、日当りがいいから。

父 どこだい? この奥かい。

娘 いいえ、これ。(指す)

父 これかい、ふうん、こりゃいい。これじゃお日様をひとりで占領しているようなものだ。うん、こりゃ暖かでいい!······ふうん、そうかい。

娘 まあどうか。(案内しようとする)

父 いやいいよ。先きにそれを干してしまうといい。どうせ私は用のない体だから。

娘 ええ、でもまあ······

父 いいから早く片付けておしまい。立っていたって話は出来る。

娘 (態度に表情があって、男物のあわせを干す)

父 (感づく。やや間)誰かと一緒にいるのかい。

娘 ······ええ。

父 ······何をしている人だい。

娘 ······印刷所に出ているんです。

父 印刷屋? 職人さんだね。

娘 ·········

父 二人きりかい。誰かその人の身よりでも一緒にいるのかい。

娘 いいえ、誰も。

父 じゃ二人きりか。ふうん、それならまあ気楽でいいが······

娘 (洗濯物を干し終る)お父さんは麻布の何処にいるの?

父 矢張りバラックさ。

娘 ひとりで?

父 ああひとりだとも!

娘 それじゃ此処へ来るといいわ。六畳一間だけれど、三人位は寝られてよ。

父 うむ、世話になってもいいね。外に厄介な人さえなけりゃ。

娘 誰もいやしないわ。それに昼間は私ひとりきりなんだから。

父 だがご亭主さんが承知してくれりゃいいが······

娘 ·········(顔を赤くする)

父 元から知り合いの人かい?

娘 いいえ。

父 一体いつから一緒になったのだね?

娘 あれから間もなく······

父 何処で?

娘 ······何処で、と云うこともないけれど、一緒に避難していて······

父 全体お前達あの時、どっちへ逃げたのだい? たしかあの霊岸橋れいがんばしの近処ではぐれて了ったんだが。

娘 おもてでおかしいわ。家へ入りましょう。

父 そうか。じゃまあ······。(娘と共に去る)

(やや間。)

(下手のバラックから主人が半身を出す。)

主人 葬儀屋さん、お待ち遠さま!

(葬儀人夫立って、下手のバラックの中に入る。やがて見窶みすぼらしい棺桶をかつぎ出す。うしろに主人と男の子、老母出て来る。)

人夫甲 (主人に)染井でしたね?

主人 ああそう。

老母 (軒下に立って、合掌しながら南無阿弥陀仏を低唱する)

(人夫あらためて肩を入れて立つ。下手に去る。主人と男の子、無言のままそのあとに従う。老母じっと見送る。やや間。ちょいと眼を拭いて家の中に入る。)

(やや間。父憂鬱に出て来る。娘、追って出て来る。)

娘 ねえお父さん、どうしたの? どうしてそう急に······

父 なあに気にすることはないよ。会わない前のことを思えば何でもないから。

娘 でもどうして此処へ来るのがいやなの?

父 いやじゃないがね。結構だとは思うが。

娘 それなら来ることにしたらいいじゃありませんか。来て下さいよ。ねえ。

父 うむ、だからそうなると、矢張りそれだけお前が余計苦労しなけりゃならない。

娘 しやしないわ、ちっとも!

父 そうは行かないよ。矢張り別になっていた方がお互に気楽でいいよ。

娘 お父さんがそうなら仕方がないけれど、私の方はちっともかまわないのよ。

父 うむ、有難う! どっちみち一人身だから世話になるようだったらいつでも直ぐ来られる。(下手の家を指して低声に)ここでは誰か亡くなったんだね?

娘 ええ、おかみさん。

父 ふうん、気の毒な! 病気でかえ?

娘 ええ、お産のあとが悪るくってね。

父 ふうん、そりゃそりゃ。こんなバラックでわずらっては、さぞ心細かったことだろう。可哀そうに。······お前も体を気を付けなよ。え、不養生をしちゃ駄目だぜ。

娘 ええ。······ねえお父さん、もう直きお正午ひるだから、ご飯を食べてゆっくりして行ったらどう?

父 うむ、いや、朝のおまんまを食べて直ぐ出て来たんだから、まだ欲しくない。又この次ぎ来た時によばれよう!

娘 そう。じゃ······(帯の間から財布を出して)これでお蕎麦そばでも食べて行って下さい。(紙幣を一枚出す)

父 いいよ、いいよ、そんな。

娘 でも折角出したんだから。少ないけれど。

父 そうかい。(受取って)すまないな。

娘 本当にお父さん、こっちはいつでもいいんですよ。だから気が向いたら直ぐ越していらっしゃいな。

父 うむ、世話になるようだったら来るけれど、まあ丈夫でいるうちは成るべく厄介をかけまいよ。······じゃ又来るから。······体を気を付けなよ。(行きかける)

娘 兄さんの居処が分ったら直ぐ知らして下さい。

父 うむ。(立止って)多分もう駄目だろうと思うが。

娘 そんなことあるもんですか。きっと足にまかせて何処か遠くへ逃げて行っているのよ。そのうちにきっと帰って来る!

父 ふん、帰って来るとしたら、何処からか女でも引っぱって来るだろう。

娘 ·········

父 ······やっと娘一人を探しあてたと思えば、人のものになっているし······。そりゃそうとお前、今日私の来たことを云うのかい、ご亭主に。

娘 ·········

父 え、ご亭主さんに、そう云うかい?

娘 云っちゃいけないの?

父 どうともそりゃお前の勝手だが、しかし厄介になるなんて云うことは云わないがいいぜ。まだ俺だって楽に一人でやって行けるんだから。

娘 (悄沈して)ええ。

父 お前達の世話にならなくったって、まだこれでも立派にやって行けるよ。じゃ行こう。大じにしなよ。(下手へ行く)

娘 お父さん、お父さんの処は何処? 番地は?

父 今井町だよ。三井さんの屋敷うちでね。そこのバラック第×号と云うんだ。

娘 じゃそこへ郵便を出せば届くのね。そう、有難う。

父 ·········。(行きかける)

娘 お父さん、そこまで送りましょう。

父 なにいいよ。家が不用心だ。

娘 でも······公園の出口まで行きましょう。

父 いいよ、いいよ。かまわないでいいよ。

(二人下手へ去る。)

(入れ違いに下手のバラックから老母が出て来て、戸の忌中札をはがし、丁寧にたたんで懐ろに入れる。)

(日、あかあかと照る。)






底本:「日本掌編小説秀作選 下 花・暦篇」光文社文庫、光文社

   1987(昭和62)年12月20日初版1刷発行

※表題は底本では、「る別れ」となっています。

入力:sogo

校正:noriko saito

2015年5月24日作成

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