赤いお馬の見廻りも
浪士にうたれてそれからは
仕様がないではないかいな、||
もし、私の郷里の殿様である吉良
まったく惜しいことをしたものである。幸不幸、運不運のわかれ目は間一髪、しまったと思ったときはもうおそい。因果応報なぞというのは
私の郷里は正確にいうと愛知県
もし嘘だと思ったら「吉良郷」まで行ってごらんになるといい。諸君がもし足一歩、横須賀村へ入って吉良上野の悪口を一言半句でも
村には「吉良史蹟保存会」というものがあって、名君行状の数々は余すところなく調査しつくされているが、「保存会」から刊行しているパンフレットの中にある年譜にも次のような一節が書き加えられている。
「世俗吉良上野介につきて誤伝されあるもの枚挙に
嗤うに堪えぬ。どころか彼等の怒りは心頭に発しているのである。私の少年時代には吉良上野顕彰の意味をふくめて郷土人形の赤馬をつくる「赤馬会」というものがあった。赤馬は上野介の
菜種の黄、レンゲの紫に彩られた田舎道に領主の赤馬が絵のようにうかびあがると鼻たれ小僧どもがわいわい騒ぎながら駈けあつまってくる。
春の陽ざしにゆるやかな影を刻んで、のろのろと動いてゆく赤馬の姿の
領民の不平や不満は細大もらさず一つとして領主からとりあげられぬものはない。この好々爺は、気が向くと、細葉(ホソバ)の垣をめぐらした百姓家の前へ馬をつなぎ、
「いい天気じゃのう、ああ
と、屈託のない声をかけながら、軒の低い百姓家の暗い土間の中へのっそりと入ってゆく。
「これは御領主さま」
野良着のままの老百姓が、裏で働いている。女房に、それ茶を出せ、それ座蒲団を、なぞといっているあいだに彼は縁ばたに腰をおろす、下肥えのにおいがどこからともなく漂ってくる庭先きで、女房が運んでくる出がらしの番茶を
もちろん、彼にも名君らしい行状を意識的に示すことによって村民の信頼を深めようという気持がなかったわけではあるまい。しかし、それがために、あらかじめ新聞社に電話をかけ、彼が農家を訪問する時間を打合せ、写真班に、馬の頭を撫でているところを特に写させるような真似はしなかった。
今もなお、横須賀村の外郭に黄金堤という名前で呼ばれている堤防の一部が残っているが、これは彼が、
これがために水害はたちまち跡を絶った。新秋の風は肥沃千里の田園をかすめて、村民の生活は年毎に裕福になってきた。それが終ると、彼はすぐ道路の改修にとりかかり、一種の耕作整理を断行した、||すべて、上野介が四十をすぎてからの行状で、領民と彼との接触はいよいよぬきさしならぬものになってきた。
このような隅々にまで善政の行きわたっている村に悪代官なぞのはびこる余地はない。入っては、従四位上少将、
その上、徳川家と彼との関係は単なる君臣という言葉で解決することのできないようなふかいつながりをもっている。
系図をひろげただけで一目
それも徳川家康の父広忠の代までは、横須賀村の東端、
徳川家とのつながりは、広忠が幼年の頃であるから、上野介の代から数えればそれほど遠い昔ではない。戦国乱世の習わしで、浮沈定めがたき運命に
広忠の幼名は仙千代であるが、持広は身をもってこの一少年をかくまい、進んで仙千代のために
昨日は人の身の上、今日はわが身の上である。家臣たちに迎えられて広忠が岡崎城に帰る日が来た頃には、吉良一族は、城主持広の
そのことは、風のたよりで、どこからともなく、早くも三河一円に
「義定の将来は必ず
と、くりかえし言い残して帰っていったという。
もし、義定が家康の知遇に応じ得る才幹にめぐまれた男であったとしたら、この好運をとり逃すようなことはなかったであろう。家康は青年義定のために彼の一家を再興するための、はなやかな機会をねらっていた。
時代は次第に熟してくる。豊臣の天下が来ると家康は内大臣になり、二百万石の
そこへ、慶長五年、天下分け目の関ヶ原となった。もし義定が気の利いた男であったら、敵陣の中へおどりこんだり名だたる大将と組打ちなぞをしなくとも、彼は井伊直政の手勢に加えられ、曲りなりにも遊軍の一部将として扱われていたのだから、なるべく強そうなやつのあとから敗走する敵軍を追って、恰好だけでもせめて勇気
これが、ほかの場合であったら、いかに気の長い家康といえども、義定を一喝して瀬戸村へでも追い返してしまったであろうが、しかし堂々たる決戦に勝利を占め、一夜にして天下に君臨した家康にとっては、義定が武勲を立てようと立てまいと大した問題ではない、すっかり上機嫌になっていた家康は、唯、関ヶ原に出陣したというだけの理由で彼に、横須賀、吉田、鳥羽、一色その他の部落を合わせた吉良郷に、三千二百石の禄高をあたえた。破格にちかい恩典というべきであった。
上野介はその義定から四代目にあたる。いよいよ泰平の時代となってみれば、義定との関係がどうあろうにもせよ、江戸城内における彼の地位は牢として抜くべからざるものがある。
彼の代になってから四千二百石を拝領することになったが、しかし知行の
それはともかくとして、五十にして天命を知った彼は、父祖の霊をまつる岡山の華蔵寺に
自分の能力の計算に謙虚であった彼は、現在の境遇に心から満足しきっていた。しかし、上野介相当の誇もあれば名誉もある。それを思うがままに実現したところで誰に遠慮し、誰をはばかるところがあろう。人生もそろそろ終りに近い。人の世の
小堀遠州が建築指揮にあたったといわれる華蔵寺は京都の清水寺を
無造作にならべた石や、植込の松の配置にも、自然に調和した落ちつきがあり、控えの間の窓障子をあけると、額におさまった絵のように鐘楼がうかびあがる。上野介はこの部屋がすきで、領地へかえると、ほとんど陣屋へは入らず、大抵華蔵寺の一室で日をすごしていた。
三体の木像を安置した霊屋が出来ると、彼は自分の墓をつくった。もはや、この世に思いおくことはない。
元禄五年の春、五十二歳になった上野介は
その夜、上野介は天英
「雨雲は今宵の空にかかれども晴れゆくままにいづる月かげ」
俗念に一つの区切りをつけた彼の心境は歌の中にゆるやかな思いをひそめている、いかにも名君の心境であろう、||上野介は、長旅の疲れでその夜はぐっすりと眠った。翌日は未明に起きて、父祖の墓に
天英和尚と、昔ばなしに打ち興じ、これから寝に就こうとするとこへ、代官唐沢半七郎が駮馬村の名主利右衛門同道でやってきた。
上野介は利右衛門の来訪を伝えられると、用向を
「殿様にはいつもながら御機嫌うるわしく、恐悦のいたりに存じあげます」
「まア、まア」
と、上野介は片手をひろげて
「百姓一同御高恩に感泣いたしております」
唐沢半七郎が膝を敷居際に乗りだした。
「それは何よりじゃ」
「おそれながら、それにつきまして」
「何じゃ?」
「格別の御慈悲におすがり申したき出来事が発生いたし、某の一存にて計り定めがたく、ぜひとも殿様の御判断を仰ぎたいと存じまして」
「いや、何でもいうがよい、||その方一存で計えぬというのはよくよくのことであろう。人命にでもかかわることか?」
「ありがたく存じあげます。事の
半七郎が、うやうやしく差しだした嘆願書を上野介は無造作にうけとると、すぐ
平坦な街道は山裾を縫う坂の下にあった。しかし、村とはいうものの、
その昔、南朝の遺臣、足助次郎重範の一族が、段々
山にかこまれているだけに気温が高く、谷合いの道には紅梅の花の
「いるか」
太く濁った、ねばりつくような声である。
大地を踏みつけるような乱れた足音が聞えた。
「寒いのう、おのぶさんいる、かや?」
木目が荒れて、ところどころにすき間ができ、ひと押しすればすぐ倒れそうな板戸である。その板戸を指先きで、コツコツとはじいた。
すき間から
三十をすぎた母と十四になる娘と、七つになる息子との三人ぐらしである。母と娘が顔を見合わせた。また来やがった||と思うだけで、もう身も世もない気もちなのである。
おのぶは、娘をうしろへ
「誰かな!」
低い、もつれるような声で表の板戸の方を向いた。「今夜はもうやすんだでのう」
そういってから
「お絹、そっと裏から出あ、藤作さんに、栗がよう焼けたからおいでといってな」
「うん」
十四にしては大柄すぎる。つやつやしい皮膚の色をした、丸ぽちゃで、ふくふくとし肉づきは今にもはちきれそうである。やっと娘になったばかりの、色気にはまだまだよほど間の遠いかんじではあるが、しかし、それだけに、あどけない眼には夢みるような
生活の習慣から自然に生じたものらしい。||彼女はぞくぞくっと身ぶるいした。男のおそろしさを、むしろ本能的といいたいほど肉体に
「そいだが」
母の耳に口をよせてささやいた。「おっかあ、大丈夫かや、ひとりで?」
「早うゆけ!」
おのぶは、きつい眼で睨みつけた。もはや蛇にみこまれた蛙である。そんな言葉のやりとりに手間どっている余裕はなかった。とたんに表の声が、ガラリと変った。
「おい、いるのかいねえのか?」
じりじりしているらしい、いやがらせである。いることはわかりきっているのだ。返事次第で蹴やぶっても入るぞ、という
おのぶは、そっと土間へおりてから、急に声の調子を変えた。
「権次さまかね?」
カンヌキにはわざと手をふれず、そっとうしろを振りかえったのは娘が裏口から出てゆく姿を見届けたかったのであろう。どうせ、唯で帰る相手ではない。おのぶはこういう運命にもうすっかり馴れついていた。娘の眼にふれるところにいたくなかっただけのことである。
それと同時に、外にいる権次にも娘の抜けだしたことを気どられたくなかった。彼女は両手でガタガタと戸をゆるがし、それから力いっぱいに左へ押しあけた。
「おい、気をもたせるなよ、先客がいるのかと思ってハラハラするじゃねえか」
「ふざけるもんじゃないよ、人聞きのわるい」
男と死にわかれてから早くも六年になる。女の手ひとつで、とにもかくにも一家の生活を支えて、野良仕事はもちろん、
「
柄にもない気のきいた
「そろそろさめてきた||早速だがいっぱいひっかけたいな」
落し差しにした一刀を
それから、すぐ、あたりをきょろきょろと見廻しながら、
「お絹はどこへいった||さっき、声が聞えたと思ったが」
ほそい眼にかすかな微笑をうかべた。
「藤左衛門さんとこへ風呂をもらいにいったよ、何度も呼びにきてくれたもんでな、ほっといてもわるいと思って」
「まア、いいやな、そのあいだにひとやすみするかな」
立ちあがって奥の間へ入ろうとするのを、おのぶは慌てて障子の前へ立ちふさがった。
「春次郎が寝ついたばかりで、お前さん、音を立てちゃすぐ眼がさめちまうよ」
「今夜はいやに嫌うじゃねえか||よし、ほいじゃ、用談の方を先きに片づけちまうべい」
どうせ、手の中の獲物である。ジタバタするだけさせておいてからおさえつける愉しさを心得ぬほどの青二才ではない。わざと
渓流の音が湧くように聞えてくる。
「もう、お前さん、そんなに酔っとるのに、いいかげんにしといた方がいいよ」
「いやに突っかかるじゃねえか||どうせ、今夜は帰れやしねえんだ、来る早々素っ気ないことをいうなよ」
「だって、お前さん、春次郎だって、もう七つになるよ、バカなことを」
「何をバカな||おれのいっているのはお絹のはなしだぜ、ハッキリと返事をきかなきゃ帰れやしねえじゃねえか、
桔梗屋というのは、山麓の横須賀村に隣接する富田郷のつくり酒屋の主人である。五十はとっくにすぎているが、性来の色ごのみで、そいつが片手間に金貸稼業をはじめたのだから何をやりだすか推して知るべしである。奉公女とくると下働きの
その要領を呑みこんで、手先に使われているのがこの近在を根城にする賭博渡世の権次で、「こび権」といえば醜名は全村に鳴りひびいているけれども、彼もまた、人情豊かな吉良領の中で一応、
女ひとりで貧しい一家を支えていれば、これも土地の習慣で、祭りや婚礼の夜、振舞酒に酔った若い衆たちが、未亡人の家を遊び場所にするのは必ずしも昔にかぎったはなしではない。
姉もさしたに妹もささしょ同じ
桔梗屋の隠居の頼みに応じたのが権次であるかどうかということは疑問であるが、しかし、六年間
「おれにまかしときゃ、わるいようにはしねえよ、何しろ隠居の気の短いことじゃ、このおれだって手こずっているんだからな、どうだい、明日といわずいっそのこと今夜、とにかく、すぐ帰ったっていいんだからな、お
「そんなこと、お前さん」
相手の魂胆が自分にあることはわかりきっている。むっとこみあげてくる感情をおさえていると、次第におのぶの表情が硬ばってきた。それを持ち前の愛想笑いにゴマ化しながら、
「まだお絹には、ひとことも話しとりゃせんのに、いくら親だからといって、そんな無体なことを」
長い
「おい、何だって、今になりやがって」
声の調子が一変する。おのぶはびくっと肩をふるわせながら身をひいた。「だけんど、あんた、たしかにいったじゃないの、じっくり考えてから御返事するって」
「考えるにも程度があらア、あれから、もう十日も経っているんだぜ、それじゃあ、何ぼ何でも桔梗屋の隠居が可哀そうだ」
こび権は、すばやく内ぶところへ手を入れたと思うと、紙でひねった小さな包を一つ、おのぶの眼の前へつきだした。「給金の前渡しだといって、ちゃんと預ってきたんだ。遠慮することはねえよ、しまっておきねえ」
さア、どうだと言わんばかりに
竹藪の丘を一つ越えると藤左衛門の屋敷である。
十五になったばかりの長男の藤作は一年ごとにぐいぐいと
草相撲のさかんなこの土地でも、大人の力士に伍して、大関とまではゆかないにしても三役から下ったことはなかった。
お絹は小さい頃から、母といっしょに藤左衛門の家へ、農繁期の手伝いにゆく習慣がついているので、ひとり息子の藤作とは兄妹同様に扱われている。
親孝行||なぞというと近頃はすっかり流行おくれの肩身のせまい
「ああ、よかった」
と、お絹はひとりごとのように
「何だ、お絹ちゃん」
藤作はお絹が嫌いではなかった。うす闇の中から彼女の顔があらわれたとき、彼は妙に胸のはずむような思いがした。どうして、そんな気持になったのか自分にもわからぬ。とたんに、お絹がじっとさし
「藤やん、栗が焼けたから来いって」
「栗?」
「うん、おっかアが来てくれって」
「栗なんか
「そいだがね」
「何だい?」
藤作は薪割りの
「わるいやつが来とるんだよ」
「誰だ?」
「こび権がね||いやなやつ、おっかアをいじめるんだよ、それで、帰るまで藤やんが来てくれたらいいって」
「ふうん、こび権が何しに来とるのかや?」
「藤やん、来ておくれよ」
お絹が前掛けで顔をおさえ、しくしくと泣きだした。大柄なお絹の姿は女らしさが目立つだけに、藤作の眼にいたいたしく映った。
こび権は藤作にとっては村の大人である。大人が何を仕出かそうと子供が入ってゆく余地はない。しかし、お絹のおふくろが
事件はそれから三十分足らずのあいだに起ったのである。囲炉裏を前にして、おのぶを口説いていた「こび権」は話の
彼は、チェッと舌打ちをしてから忌まいましそうに上唇を
こび権はカンヌキをかけた上に突っかい棒をした。
「おい」
おのぶの横へ、ぴったりと坐るが早いか、矢庭に彼女の両肩を抱きすくめた。
「お前さん||春次郎が」
苦しそうに
「いいってえことよ、なア、お前と向いあっているうちに頭が、かあっとのぼせてきた、おらア、お前が好きだよ」
環境と雰囲気次第では、こび権よりも、もっといやな男に身をまかした経験がないわけではない。祭の夜にふらふらと入ってくる若い衆たちを迎えるためにも、こっそりうす化粧をすることを忘れたことのないおのぶだった。しかし今夜の境遇にいて、こび権の自由になる気はなかった。男の力がぐっと彼女の上体に加わって、あやうく横へねじ倒されようとしたとき、おのぶは無気味な
「いやだよ、おらア」
「おい、声をだすなよ」
はだけた裾をおさえた男の足がぐっとのしかかってきた。
「ね、今夜は、||今夜は、今夜はいけないんだよ」
こび権も性来、気のつよい男ではなかったが、此処まで来てから場所柄を考えて引っ込むわけにもゆかなかった。
いよいよ反抗すると、おのぶの方にも、こび権をはねっかえすだけの底力があった。
必死になって、もがいているとき裏戸のがたがたとゆれる音が聞えた。しかし、その音はおのぶの耳にもこび権の耳にも聞えなかった。
裏戸が外からはずれ、野良着のままの藤作がとびこんできたのはちょうどそのときである。藤作はもう夢中だった。おのぶが殺されると思ったのだ。外の月あかりで、おのぶの上に馬乗りになっている、こび権を見ると彼は
「野郎、何をしゃらくせえ」
藤作の入ってきたことがわかったら、それだけでこび権は手をはなしたであろう。相手が誰だかハッキリしなかったところへ、だしぬけに首すじをおさえられたので、女の手前いやでも彼はひらき直らずにはいられなかった。
こび権は一種の乱酔状態に陥っている。彼は衝動的に囲炉裏のそばにおいてあった刀をとった。それ以外に相手を威嚇する方法はなかったからである。藤作は胸の底で何かパチンと大きくはじけるような音を聞いた。言葉ではない。ありあまる体力の自然にあふれだす瞬間の発作である。もはや、藤作が逃げだすか、こび権が刀を捨てて
こび権は一気に刀をひきぬいた。もちろん斬りかかる意志はなかったが、それは結局藤作の
それを右手に握りしめるのと、こび権にとびかかるのとほとんど同時だった。ふらふらした足どりで、やっと立っているこび権が刀を振りあげようとしたとき、右の手首をしたたか打ち据えられて、あっという間に刀をとりおとした。間髪を
おのぶは腰が抜けたようになって、
「藤やん」
と、腹からしぼりだすような声で叫びながら、お絹がぴったりと彼によりすがった。
「すみません、藤やん」
「仕方がねえや、おれ、今から名主さまのところまでいってくる」
彼の遠縁にあたる近藤利右衛門のことをおもいだしたのである。子供ごころにも、これで一生が終りを告げたという気持がぴったりと来た。
「絹ちゃん||おれのうちへいって、おとっつぁんによう話してやってきてくれよ」
一刻もじっとしていられぬ気持である。坂道を駈けるように下ってゆく藤作のあとからお絹が息をはずませながら追いすがる。途中で何を話したのか、どの道をどう歩いてきたのか、二人ともよくおぼえていない。いつのまにか裏山づたいに華蔵寺の墓地の前へ出ていた。
藤作の運命がどうなるかということは、お絹にも大体想像がつく。おそらく生きてふたたび会う機会はあるまい。お絹の悲しさはおさえがたき
この事件が村じゅうにひろがったのは翌る日の朝である。その前夜、下手人藤作の自首によって一切のことが明るみへさらけだされた。
事件は、いちいち面倒な
このとき六十をすぎた村の長老である利右衛門は、この事件を正式に法律の裁きにかけて、藤作の一生をむざむざと葬り去るに忍びぬ気持になっていた。いろいろ考えあぐんだ末に彼は藤作をつれて陣屋に出頭し、吉良荘の代官唐沢半七郎に事情を具申した。唐沢もまた利右衛門と同意見であり、二人にとって何よりも好都合なことは領主吉良上野介が次の日に横須賀村へ到着するという消息の入ったことである。利右衛門は久しい以前から気さくな上野介としばしば言葉をまじえたことがある。人間的な恩愛のこまやかな上野介に嘆願書を提出することがそれほど難しい仕事でないことを彼は知っていた。こんどの上野介の帰国の目的は、ひと足おくれ江戸を発足することになっていた養子左兵衛
話は前にもどる。上野介は唐沢のさしだした、利右衛門署名の嘆願書を通読してから、ちらっと老名主の顔へ視線をうつした。
「その方のことは堤防修築のとき以来、よくおぼえているぞ」
利右衛門はぐっと胸が迫って声が出なかった。
「いろいろ苦労が多いのう」
「お言葉ありがたく存じます、殿様の御苦労とくらべたら、利右衛門ごときものの苦労なぞは」
「いや、そうでもあるまい||この藤作と申す
「こちらでござりますか?」
「苦しゅうない、十五歳で村随一の力持ちといえば、さぞかし身体も大きいであろうな」
「おそれながら、骨格衆にすぐれ、見るからに逞しく存じあげます」
利右衛門がそういったとき、半七郎の顔には当惑の色がうかんできた。
「某より申上げます。唯今、仮牢にて
「いや、その心配には及ぶまい、すぐつれてまいれ」
鶴のひと声である。二人はすぐさま領主の御前をひきさがった。
これはまるで夢のような||いや、夢にしたところで、このような運命の
それから十日ほど経って、左兵衛の一行が到着すると、御霊屋びらきの式典が催された。その夜、陣の前には夜更くるまで篝火が燃え、村民の奉納した花火の音が、おぼろ月夜の空にはじけていた。うねうねとつづく
あくる日は、異例ともいうべき領内巡遊が行われた。いつものように、お忍び同様な赤いお馬の見廻りではない。殿様の乗馬の赤いことは例年のごとくであるが、これに随従する騎馬の武士は十人あまりで、各部落ごとに出迎えの人垣が往来の両側をうずめていた。行く先き先きに待っているものは、感謝と尊信の思いをひそめた領民たちの視線である。その眼にふれると上野介は、あふるるばかりの情愛にみちた笑顔で答える。
領民たちの眼に、大名らしい威厳もとりつくろわず、ゆるゆると馬をすすめてゆく上野介のすがたほど世にも気高いものはなかった。彼のあとから左兵衛を抱いた山吉新八郎の馬がつづき、そのすぐうしろには、見るからに愛くるしい、さわやかな相貌をした若い武士が栗毛の馬の手綱をしっかりとひきしめていた。
「あれだよ」
「えっ||あれが」
「馬子にも衣裳というが、あれが藤作か」
「あれが、のう」
行列がすぎ去ってゆくと、人垣はざわざわとくずれ、みんな口々にささやきあった。ここでもかしこでも、清水藤作、||ではない、清水一学の噂で持ちきっている。おどろきと、
その行列が駮馬から宮迫に入ると、沿道にはほとんど全村の老若男女が礼装してならんでいた。
ああ、清水一学。ほら、左兵衛の若殿を抱いた山吉様から二番目のあれだよ、あのきりっとした若侍、あれが昨日まで、この同じ道を炭俵を背負いながら往復していた藤作なのだ。人垣は水を打ったように、しんとしている。そのうしろから、感極って、かすかに
「おっかア」
と、お絹が母の肩によりすがって、しくしく泣きだした。「藤やんには、もう会えねえのかと思うと、おれ悲しゅうて」
「会えねえなんて、そげんなことがあってたまるかい、||藤やんはこっちを向いてニコリと笑ったのをお前も見たずら」
「おれ、もう涙が出て、人の顔もようわからんかった」
「藤やんだって、お前、きっと昔のことをおもいだすことがあるべえよ」
お絹は黙って母親の肩にもたれ、しくしくと泣いている。彼女の
十日あまり滞留して、祖先の
一年が経ち、二年がすぎる。江戸からの消息は打ってひびくようにすぐ村へ伝わってくるが、吉良荘の人たちの注意は清水一学にあつまっていた。一学の噂になると、みんな眼の色を変え、
一学の人気は江戸の屋敷の中でも大へんなもので、彼はその頃、二刀流の剣士として盛名を
事実、彼と山吉新八郎とは同じ左兵衛づきの中小姓であるが、小姓としての格と待遇は山吉の方がはるかに上であっても武芸においてはほとんど比較にならなかった。一学は剣技に錬達しているだけではなく、それに持ち前の
吉良郷の人たちは、あたらしい消息の入るごとに一学の帰郷を待ちこがれていた。今までは毎年必ず帰ってきた上野介が、六十ちかくなると、つぎつぎと身体に故障を生じてくるものらしく、いよいよ帰国と決定してからすぐ取止めになったことが何度あるか知れなかった。
元禄九年にも、帰郷の通報があったが、急に、十一歳になった養子左兵衛をつれて将軍綱吉に謁見を賜うことにきまったので沙汰やみとなった。元禄十一年の四月にも帰郷の内意がつたえられたが、それが九月に持ち越され、いよいよ出立という間際になって、突然の火事で鍛冶橋の屋敷が類焼し、そのまま延期になった。
火事のあとで、呉服橋の
その新邸の建築費用は二万五千五百両で、これは一切、上杉家から支出されることになっていた。このとき二十一歳になった一学は、左兵衛の剣術指南役を仰せつかり、邸内に独立したひと棟を拝領した。こうなると自然、身のまわりの世話をするものも必要になり、ふと思いだしたのが幼な
何よりも彼女の消息を知りたかったが、しかし、それと口に出しては言えず、一日も早く帰郷の日の来るのを待っているうちに、二三年が瞬くうちにすぎてしまった。
元禄十四年、三月||江戸城では恒例の
その頃から一学は茶屋酒の味をおぼえはじめた。相棒は山吉である。酒の味がわかるにつれて酒量はぐいぐいとあがってきた。すでに二十四歳である。
「ああ。おれなぞは時代をとりちがえて生れてきたのだ||戦国の世に生れていたらなア」酔うと必ず、
三月十四日は、うす曇りで、風のつよい日であった。早朝から上野介が登城したあとで、一学は山吉のほかに新見弥七郎と大須賀次郎右衛門を自室に招いて、朝から、ちびりちびりやっているとき、執事役の清水団右衛門が真っ蒼になってとびこんできた。その朝、城内では勅諭奉答の儀式が行われることになっていたが、
松の間の廊下で、上野介はその日の
内匠頭、刃傷の動機はこの青年大名が勅使饗応係に任命されたときから端を発する。彼は殿中の作法典範をわきまえぬため、一切の指導を上野介に仰いだ。そのときの進物が
もちろん、
血のつながりこそないが、家康との縁故による彼の地位は江戸城内に厳としてそびえている。六十をすぎて現世に望みを絶とうとしている彼が世上伝わるごとく内匠頭の訪問をうけ、その
そのとき内匠頭とならんで勅使饗応役に任ぜられた
とにかく、勅使饗応の役柄というものは幕府にとっては重要なつとめであり、何びとが任命されたところで接伴の方法は柳営の内部において型どおり準備さるべき性質のものでなければならぬ。
世上つたえられる話によると、大体次のような順序によって浅野内匠頭は吉良上野のつくったワナにひっかかっている。
(第一)鰹節一連に憤りをかんじた上野介は内匠頭の懇請をけんもほろろな態度ではじきかえした。
「勅使接伴のことは愚老なぞの知るところではない、指図なぞとは余計なこと、貴下の御一存で取計らわれたらよろしかろう」
「いや、某も不肖の身をもって、万一のことがあっては申し訳ないと考え、再三御辞退申上げたるところ、その儀ならば上野介殿の指図をうけたらよろしかろうとの仰せにて止むなくおひきうけいたしたる次第、
「それほどまでに申さるるならば是非もござらぬ、指図はともかく御助言だけは申し上ぐることにいたそう、何につけても御進物が肝要でござる、饗応にあずかる柳営内の重役にはもとよりのこと、勅使御二方に対しては日々御進物をお届けなさることをお忘れなきようにされねばならぬ」
上野介は浅野家から自分に対して
「名にしおふ今宵の空の月かげはわきていとはんうき雲もなし」
彼が鰹節の贈りものに不満をかんじたとしたところで、もし賄賂がほしかったら内匠頭が役目を充分に果した上でとるべき道はいくらでもあったであろう。彼は老巧の智者であるが奸才にたけた悪役人ではない。大体この世の野望に見切りをつけた男は、何でも思う存分のことを歯に
(第二)内匠頭は上野介の戒告をうけたが、どうしても納得する事ができず、その足で熟知の間柄である老中の月番土屋
(第三)まもなく内匠頭の親友である戸沢
(第四)三月十一日、勅使の芝上野
「それには及びますまい」
と答えた。すると当日の朝になって、伊達家の方では院使饗応の間の畳をすっかりとりかえたということがわかった。これは上野介に一杯喰わされたぞというので慌てて江戸市中の畳屋を狩りあつめ、宿房普光院の畳二百畳を一夜のうちにとり替えさせた。それが終るとこんどは料理である。精進料理にすべきかどうかという伺いを立てたところが精進料理で結構だという返事である。ところが、いよいよとなってみると大へんなまちがいで、
(第五)それがいよいよ三月十四日になると殿中で勅諭に対する奉答式が行われる。この日参内の諸大名、ならびに幕府要員はいずれも衣冠束帯で列席することを命じられた。内匠頭はこのときも長
「ああそうでござったか、これは失礼を申上げた。そのような筈ではなかったが、何しろ近頃耳も遠く、もうろくのせいか間ちがいばかり起して相すまぬ」
上野介に対して信をうしなっている内匠頭が再三再四彼の指揮を仰ぎにいったということも納得のできぬはなしであるが、それよりも恒例の儀式について一切合財、上野介に聴かねばならぬという道理はあるまい。それも田舎からはじめて出てきた大名が饗応役の内匠頭に伺いを立てるということならわかっているが、参列の諸侯ことごとく一定した服装をしなければならぬという
そのとき、内匠頭は何をかんじたのか、自席を立ち、上席にいる上野介の前へおずおずと進み出ていった。
「おたずね申したき儀がござる、勅使御到着のせつは、われ等接待係は御玄関式台上にてお迎えいたすべきか、それとも式台下にてお待ち申すべきか」言葉の終らぬうちに、白髪
一説によると、此処に桂昌院殿の御内使、梶川与三兵衛が出てきて、内匠頭に何か打ち合せようとするのを、そばで聞いていた上野介が、横合いから与三兵衛の肩をたたいて、
「何の御用でござるか、上野が承わりましょう。内匠頭に仰せられてもあのとおりじゃ、お役目のつとまるわけもござるまい」
この言葉が耳に入った瞬間、殺気は若き内匠頭の顔にみなぎった。
飾刀の柄に手がかかったのと上野介の身体が横倒しになったのとほとんど同時である。烏帽子のふち金で辛うじて
「殿中でござるぞ、御乱心めさるな」
忠臣蔵では此処が大立ち廻りになり見せ場になるのであろう。
「お放し下され、武士のなさけじゃ」
城内は煮えかえるようなさわぎである。その日の裁断は即決をもって行われた。内匠頭は即刻、奥州一ノ関の城主田村建顕に身柄をあずけられ、城中、時計の間に監禁されたが、当然老中会議が行われた上で罪科が決定するものと予想されていたにも
もし上野介が殿中で横死していたとしたら内匠頭に対する同情はこれほどごうごうと湧き起ることもなかったであろう。斬りつけられた上野介は、急難に臨みながら時節をわきまえ、場所をつつしみたる段神妙に
上野介の帰国がこれによって
新邸の敷地は二千五百余坪現在の回向院の裏にあたる。町とはいっても当時は人家もまばらな部落にすぎなかった。
殿中刃傷の噂が風のように横須賀村につたわってくると、村民の代表者たちは、主君上野の安否を気づかって鎮守の神社にあつまり祈願を凝らした。華蔵寺には村の善男善女が引きも切らずに参詣し、中には木像を安置した霊屋の前で終夜一睡もしないで祈りつづけているものもあった。
上野介にしてみれば彼が六十一歳まで用意周到に築きあげた一生涯が、たった一日の不慮の出来事のために、がらがらと音を立てて崩れ落ちてしまったのである。それをふせぐ方法はどこにもない。敵討ち全盛の時代であってみれば一朝にして禄をはなれた
上野介は
元禄十五年十二月十四日。松坂町の吉良邸では納めの茶会が催された。
客は縁辺につながる人たちばかりであったが、夜にはいって降りだした雪が時ならぬ興を添えたので、一座の空気は急にひきしまって、歓をつくすというところまではゆかないにしても、主客共に笑いさざめきあって散会したのは十時を過ぎる頃だった。
一学もその席に列していたが、外来の客が雪の中を駕籠に乗って帰ってゆくのを見送ってしまうと、表門をぎいっと閉める音が聞えた。
「おい、飲み直そう、雪見酒じゃ」
彼は同輩の新見、斎藤、小塚、左右田の四人を誘って、裏門からぬけだし、行きつけのたそや行燈、船宿「新七」の二階へあがって、どっかりと胡坐をかいた。
「近頃、浅野の痩浪人どもが江戸の街をうろついているそうだ、それについて新らしい噂は聞かぬか?」
「このあたりでも怪しいやつが、しきりにお屋敷の様子をうかがっているようですな、小林(平八郎)様なぞもこの頃では夜もおちおち眠られぬ御様子で」
新見弥七郎が、あたりをきょろきょろ見廻わした。「夜廻りなぞも、よほど厳重にしないといけませぬな」
「いや、来るときには来るよ、やつ等にしてみれば、それも
「だまって斬られるのですか?」
「バカめ、だまって斬られるやつがどこにある、痩浪人が何百人来たところで防ぐ気になればおれ一人で充分だ、しかし、あれだけ苦心して
川ぞいの屋根につもった雪の塊りがバサリと大きな音をたてて水面へ落ちた。一学は
「いざとなると、しかし、そうもゆくまいな」
その晩は、何となく調子がはずまないので十二時ちかくなってから引き返えしてくると吉良邸裏門は雪で埋まっていた。一学は自分の部屋へ入ると、ごろりと横になり、そのまま
しんしんと更ける
浪士の一隊は、小林平八郎以下の護衛の武士に防ぎとめられて、まだ玄関口から中の間の廊下へ踏みこんできたばかりの所だった。
奥の寝所ではさすがに上野介は達人らしく敷布団の上に正坐していたが、十六になったばかりの左兵衛は
そこへ、用人の鳥居理右衛門が躍るような足どりでとびこんできた。
「殿、こちらへ」と、引きつるような声で叫びながら、上野介の身体を抱えるようにして台所の方へつれていった。
咄嗟のあいだに一学の頭には、左兵衛を逃がさねばならぬという考えがチカチカと
裏庭を突っ切って植込をぬけると、すぐ隣りの土井邸の塀につづいている。一学はもう夢中だった。
「此処からお逃げ下さい、||お父上は一学が引きうけ申した、必ずお逃げ下さい、吉良家の血につながる大切なお身の上をお忘れてはなりませぬぞ」
無理矢理に、力にまかせて肩にかつぎ、えいっという掛け声もろともに、小柄な左兵衛の身体を石塀の中へ投げおとした。
これでやっと自分の役目がすんだと思うと、宿酔にしびれた全身にあたらしい血が燃えあがってきた。そのまま、引き返して、中庭へ廻ろうとすると、矢庭に
一学を目がけて斬り込んでくる浪士の数は五人、十人とふえてくる。眼も
よき死に場所だという気持が、はなやかな思いを湧き立たせるようである。血にまみれた彼の両刀に月の光がキラキラと映った。一学はふたたび敵の重囲の中へおどりこんだ。もう盲目滅法である。彼は腕のつづくかぎり根のつづくかぎり斬りまくった。乱闘乱撃の中で一学は横から来た敵に足を払われたと思うと、間一髪で、声も立てずにぶっ倒れた。
「手ごわいやつじゃった、清水一学に相違あるまい」雪の上に両刀をしっかりと握りしめたまま倒れている一学の死骸を土足で踏みつける男は一人もいなかった。
江戸からの噂は連日のように横須賀村へ流れてくる。村から選抜されて吉良邸に仕えていた百姓の娘や青年たちが
老人たちは話に聴き入りながら、手を合せたり
「それで、どうした、藤作は?」
威勢のいい男が腕まくりをして気色ばんだ。「藤作だけは、まさかおめおめとやられはすまい」
「惜しいことをなされました、前の夜の酒で、ぐっすりと寝込んでいなされ、寝巻の上から袴をはいたままとびだしてゆかれましたが、あの晩、敵を正面から引きうけて闘われたのは藤作様と小林様くらいのものでございましょう」
清水一学を子供の頃からよく知っている四十すぎた女中が悲しそうな声でいった。女中たちはみんな押入の中や縁の下でふるえていたのだ。清水一学の働きぶりについて彼女たちが知るよしもなかったが、あとからの噂によると一学だけは小林とならんで吉良家のために気を吐いた勇者であることが江戸市中にも知れわたった。しかし、上野介に浴せかける
「あいつは吉良だよ」
という声が、一歩村の外へ出ると、どこからともなく聞えてくる。忠臣蔵が方々であたらしい感動をよびおこすにつれて横須賀村の住民たちは肩身の狭い思いをしなければならなかった。しかし、いつまでも息をひそめていられるものではない。他領へ嫁にいった娘や、養子にやられた青年たちが吉良出身という理由で破談になり、村へ帰ってくると、彼等は、徐々にすくめていた肩をそびやかした。
「吉良領がどうしたんだ、忠臣蔵のへっぽこ芝居にたぶらかされている奴等におれたちの気持がわかってたまるもんかい、よし、ひと口でも吉良上野の悪口をたたいてみやがれ、そのままにしておくものか」
青年たちは三人五人と肩を組んで、祭礼があるごとに他領へ押しかけていった。可哀想なのは上野介よりも彼等自身の姿である。
ある晩、岡崎の町までいって、こっそり忠臣蔵の芝居を見て帰ってきた男が、
「
二百五十年間、横須賀村は門戸をとざし、節をまもりとおした。誰れひとり藤作に会った男なぞはもういる筈もなかったが、しかし彼等は同じことを同じ調子で語りつたえていた。赤馬にまたがった上野介の姿はもう彼等の記憶にこびりついてしまっている。高原にかこまれた黄金堤には秋風の立つのが早い。今年も、もうそろそろ秋の夜祭の季節が近づこうとしている。