江戸開府以來の捕物の名人と言はれた錢形の平次が、
「親分、近頃は暇ですかえ」
「なんて挨拶だ。いきなり人の前へ坐つて、
平次は
「錢形の親分が、この結構な日和に籠つて、寢そべつたまゝ煙草の
「馬鹿だなあ、だからお前はまだろくな仕事が出來ないのだ。斯う寢そべつて煙草の烟を輪に吹いてゐる時こそは、こちとらが一番忙しく働いて居る時なんだ」
「へエ||」
「クルクル動いて居る時は、ありや遊びさ。斯う呑氣さうにして居る時こそ、ありつたけの智慧を絞つて、惡者と一騎討の勝負をして居る時だよ」
「へエ||、一體その惡者は何んな野郎なんで?」
「大層感心するぢやないか、あんまり眞に受けられると引つ込みが付かなくなるが、なアに、そんなたいした相手ぢやない。お前も知つての通り、深川島田町の
「實はその事なんですがね、親分」
「何んだ、いきなり膝なんか乘り出して」
「その佐原屋の騷動とは、一萬兩とかの金の行方が
八五郎の眼の色は少し變つてをります。
「それがどうしたといふのだ」
「あつしは古いことはよく知りませんが、何んでも五年前に死んだ佐原屋の主人甚五兵衞が隱して置いた、一萬兩といふ大金の
「フーム」
「先刻お神樂の清吉の野郎が眼の色を變へて飛んで行きましたよ。『千兩の褒美はこの清吉がきつと取つて見せる、濟まねえが八
「馬鹿野郎」
「へエー」
いきなり馬鹿野郎を浴びせられて、八五郎は首を縮めました。この時平次は三十を越したばかり、子分と言つても八五郎は二つか三つ歳下といふだけのことですが、智慧も
「金を目當の仕事なんぞ、眞つ平御免蒙るよ。お上の御用は勤めてゐるが、褒美の金なんかに釣られてウロウロするやうなそんな野郎は大嫌ひだ。さつさと歸つてくれ、歸らなきや野郎ゴミと一緒に
平次は以ての外の機嫌でした。尤もこんなことをポンポン言ふ癖に、寛々と
「驚いたなア、あつしは褒美の金が欲しくて言つたわけぢやありませんよ。眼の色を變へて飛んで行く、お
「それが餘計だよ。馬鹿だなア、俺は醉狂で貧乏して居るんだ。お前なんかに
「それからもう一つ。佐原屋の後見で、先代の義理の弟小豆澤小六郎といふ浪人者は、あつしとは懇意なんで」
「浪人者とお前がかい」
「浪人者といつても、すつかり町人になり濟まして居ますよ。二三年前から品川の
「竿先三尺の附合ひといふ奴があるかい」
「へツ、
「馬鹿だなア」
「これは二た月も前のことなんですが||小豆澤小六郎といふ浪人者が言ふんですよ。先代の主人が隱した一萬兩といふ金が出て來ないうちは、佐原屋に騷動が絶えない、金の
「フーム」
「その金が祟つて、又支配人の專三郎が殺されるやうなことになつたぢやありませんか」
「||」
「だから親分、ちよいと出かけて行つて||」
「まア止さう。一萬兩なんて金は、天井裏や床下に隱し了はせる代物ぢやねえ。いづれ時節が來れば出るだらう。||が支配人殺しは俺も考へて居るんだ。あんまり手際がよくて、下つ引を二三人やつたくらゐぢや下手人の見當も付かないが、これは放つて置くわけに行かない」
「だから親分」
「斯うしようぢやないか、今まで俺が聞き出した事は皆んなお前に話してやつた上、何も彼もお前に任せて俺は手を引く。その上下手人を縛らうと、千兩の褒美を取らうと、お前の腕次第といふことにしてはどうだ」
「本當ですか、親分」
「誰が嘘を言ふものか、褒美が附いて居なきや、俺がやらうと思つて、隨分念入りに調べさせてあるよ。これだけのことをしてやつて、それでもお神樂の清吉に負けたら、坊主にでもなるが宜い」
「勝つたら、親分」
「千兩の褒美で長屋でも建てるんだね、岡つ引よりは
「誰です、親分。良い心あたりがありますか」
「
「止して下さいよ、親分」
二人はそんな冗談を言ひながらも、仕事の打合せは進行させました。
深川島田町への道すがら、錢形平次は八五郎のために、事件の
「佐原屋といふのは、深川の材木問屋でも一二と言はれた家柄で、店の株、諸國の山元への貸金、材木置場に積んである材木などの外に小判で一萬兩以上も持つて居るといふ評判だつたが、今から五年前、主人の甚五兵衞は何を考へたか、その現金を一人でコソコソと隱し始めた。多分六十を越しても子供のない甚五兵衞は、自分の命や金を誰かに狙はれて居ることに氣が付いたのだらう」
「金持も樂ぢやありませんね」
八五郎は無駄を言ひました。
「默つて聽け、お蔭樣でこちとらは十兩と
「違げえねえ」
さう言ふ江戸の町はもう秋でした。赤とんぼのスイスイと飛ぶ
「その佐原屋甚五兵衞は、五年前の秋||丁度今頃だ、永代の下から、水死人になつて引揚げられたんだ。
「念入りですね」
「佐原屋甚五兵衞は、時々曲者に附け狙はれたらしいが、それが、二人の甥の何方かに似て居たんだらう。||兎も角、甚五兵衞が死んで見ると下手人の疑ひは眞正面から專三郎と彦太郎に
「へエ||」
「
「變なお
「お上のお情けだよ。遠島にして置けば、萬一
「成程ね」
「ところが、その船が三宅島へ着いて間もなく、彦太郎は死んだといふ
平次の話が次第に佳境に入る頃、二人は丁度永代橋を渡つてをりました。ガラツ八は
「それから何うしました」
昔話を聞く子供のやうに續きをせがみます。
「それつきりさ。それから何しろ五年も年月が經つて居るが一萬兩の金は相變らず出て來ない。||其の邊のことは小豆澤とか言ふ浪人者からお前も聽いた通りだ」
「
「五年經てば罪のなかつたもう一人の甥の專三郎が、佐原屋の跡取りになるわけだが、いよ/\先代の命日が明後日といふ日、あの騷ぎが始まつた」
「
「それを話す前に、先代の主人甚五兵衞が死んだ後の佐原屋のことを少し話して置かなきやなるまい。先づ島流しになつた甥の彦太郎には十二になる娘が一人あつた。親は親でも、小さい者まで憎しみを掛けては非道だといふ小豆澤小六郎の計らひで、親類の反對を押しきつて佐原屋に引取つて育ててゐる。さすがにもとは武士だけのことはあるよ。その娘はもう十六くらゐだらう、お筆とか言つて飛んだ綺麗な
「綺麗でさへあれば島流しの娘だつて獄門の娘だつて宜いぢやありませんか」
「お前はさうだらうが、世間がさうは行かないよ。それは兎も角、佐原屋は後家のお由||これはもう五十七八だが、それが女主人で後見は義弟の小豆澤小六郎、
「へエ||」
「ところが近頃支配人の專三郎が急にソハソハして、女房のお倉に近い内に大金が入るやうな事を言つて居たさうだ||多分一萬兩の隱し場所を嗅ぎ付けたんだらう。それを取出すのに手間取つて居るうち、||一昨日の晩、忍び込んだ曲者に
「下手人は、親分?」
「まるつきり見當もつかないよ。兎も角行つて見るが宜い」
そんな事を言つてゐるうちに、二人は島田町の佐原屋の大きな構への前に立つてをりました。
「八、家中の者に一と通り逢つて見るが宜い。俺は此處からすぐ歸るから」
「そんな事を言はずに、親分」
八五郎は少し心細くなつた樣子ですが、平次は何にか口實を設けてこの日當りのよくない子分に一とかどの手柄を立てさせたかつたのです。
「千兩の褒美が怖いわけぢやあるめえ、お
さう言はれると、強ひて平次を引留めることも出來なくなりました。
「おや、八兄哥、錢形の親分も一緒ぢやなかつたのか」
ヌツと店に顏を出したのは、お神樂の清吉でした。
「いや、今日は俺一人だ、||ところで何うだい下手人の當りは?」
「まア行つて見るが宜い。俺はそれより先に一萬兩の方を
清吉はさう言つて、
「親分さん、御苦勞樣で御座います」
代つて八五郎を迎へてくれたのは、老番頭の藤六といふ六十男でした。乾し固めたやうに
「あつしは神田の八五郎だが、飛んだことだつたね。ところで、支配人の專三郎が死ねばこの身上は誰が繼ぐことになるんだ」
「左樣でございます。いづれ御親類方の御相談の上といふことになりませうか、後見人の
「それとも||」
「彦太郎樣の娘のお筆さんといふことになりませう」
島流しになつて死んだ彦太郎の娘のお筆が佐原屋の跡取りになるといふことは、八五郎には想像も出來ないことですが、老巧な番頭の藤六が斯う言ひきるのは
「專三郎の殺された部屋といふのを見せて貰はうか」
「斯うお出で下さいまし」
店を通つてお勝手や納戸や女中部屋を左右に見て行くと、廊下續きながら
さすがに商賣の良材をふんだんに使つて、少し手が混み過ぎて下品ではあるが、一應も二應も
專三郎夫婦の部屋といふのは裏の中二階になつて居て、五六段の廣い梯子段を踏まなければ入れず、その梯子段の下には、伜の專之助の部屋や、後家のお由の部屋があり、母家から廊下傳ひに來たにしても、誰にも氣が付かれずに、そつと忍び込むことは容易ではありません。
「戸締りは?」
「この
老番頭の説明を聽きながら中二階に上がると、
「これは/\」
一番先に顏を出したのは、浪人者の小豆澤小六郎でした。その爲に武士を
「おや、小豆澤樣、飛んだところでお目にかゝります。御災難で」
「全く災難だよ。だから私は前から一萬兩の金を探してくれるやうに頼んで置いた筈だが今となつては仕樣がない。||ところで錢形の親分は?」
「參りません、||
八五郎は淋しい作を入れました。
「いや、八五郎殿で不足を言ふわけぢやない。が、錢形の親分が一と肌脱いでくれさへすれば、五年越し探し拔いた一萬兩の金も、すぐ見付かるだらうと思ふが||」
そんな事を言ひながら、八五郎を案内してくれました。
專三郎の殺された部屋といふのは中二階の六疊で、その前は危ふい
「お神さんは、その晩何處に居ました」
「專三郎の女房か||、日本橋の親類へ泊りに行つたよ、||尤もよく專三郎と喧嘩はするが、亭主を殺すほどの大それた女ではない。ハツハツハツ」
小豆澤小六郎は場所柄も
「刄物は?」
「出刄庖丁さ。殺風景な代物だよ」
二本差の小豆澤小六郎から見れば、出刄庖丁は如何にも
「
「その通りだ」
「此處からは忍び込めませんか」
八五郎は椽側から危ない手摺に
「私もさう言つて居るよ||清吉とかいふ男は手摺が
「||」
小豆澤小六郎の説明は、如何にも要領の良いものでした。ガラツ八の八五郎は妙に職業的な
「おや、又あの乞食が來て居る、||おい、誰か居ないか、おい」
小豆澤小六郎が呼ぶと、二三人の男達が驅けて來ました。小六郎が指した木戸の外、この中二階から五間とも離れてゐない路地を、お勝手の方へ蟲のやうに這つて居るのは、見る影もない
「殘り物をやるから、時々晝過ぎに來いと御隱居樣が御親切に仰しやつて下さいましたよ。ハイ歸ります。打たなくたつて歸りますよ。南無、ブツブツ、ブツ」
何やら獨り言をいひながら
「あれは?」
ガラツ八はさすがに見逃しませんでした。
「八幡樣の境内に十年も前から居る乞食だよ」
「十年も前から」
それでは何んの意味もありません。
裏の
「あれが專三郎の伜の專之助」
小豆澤小六郎は苦笑ひをしてをります。八五郎にはその苦笑の意味が解り兼ねましたが、やがて眼が廊下の暗さに馴れると、その後ろに寄り添ふやうに立つて居る、若い娘の姿を見付けました。小六郎の苦笑ひの種はそれだつたのです。
「あれは?」
「お筆といふのだが、||彦太郎の娘の」
八五郎は何も彼も一ぺんに解つたやうな氣がしました。この敵同士のやうな若い男女||
「お前は專之助といふのだな」
「へえ」
若い男は間の惡さうな顏を擧げました。少し
「親が殺された晩は何處に居た」
「自分の部屋にをりました。||御隱居樣の隣りの部屋でございます」
「近頃父親の素振りに變つたことはなかつたのか」
「へエ||」
「お前の父親を
「一向氣が付きません」
「あの晩、何んか物音でも聽かなかつたか」
「へエ||、私の部屋の前を通れば氣が付く筈ですが||私は寢付の惡い方ですから」
これだけ言ふのが精一杯、あとは何を訊いても一向頼りがありません。
「お前はお筆といふのだね」
「え」
八五郎の問ひが娘の方に轉ずると、これは小氣味の良いほどハキハキしてをりました。丸ぽちやの色白で、大きい眼、ほのかなエクボ、愛くるしさが一切のものを救つて、何んとなく
「專之助と何を話してゐた」
八五郎はツイこんな事を訊いて見たくなりました。『この大野暮奴』自分でそんなことを自分に言ひ聞かせながら。
「何んにも話しやしません」
「その手に持つてゐるのは何んだ」
「私の部屋にあつたんです。專之助さんが捨てた方が宜いつて仰しやるけれど||」
「一寸、見せろ」
八五郎は精一杯の
「これを何處から出した」
八五郎は急に
「私の部屋にありました」
「何時からあつたのだ」
「今朝まではなかつたんです」
「誰が持つて來た」
「解りやしません」
「これが何んだか知つて居るだらう、お前は」
「いーえ」
お筆は大きく眼を見張つたまゝ頭を振るのです。
「お前の部屋を見せて貰ひ度い。宜いだらう」
「え」
不承々々のお
一と通り葛籠も
一應押入の中を調べて八五郎は、そのまゝ唐紙を締めようとして、フト氣が付きました。押入の天井の隅の板が一枚づれてその間に何やら
裏板をハネ上げて、それを引下ろすと、手に從つて猛烈な
「あ、斯んなところに」
一番先に口を利いたのはお筆でした。
「この袷はお前のものか」
八五郎は
「えゝどうして斯んなところにあつたんでせう。||まア、氣味が惡い」
血の色を見ると、お筆の顏色はサツと變ります。
「來い、お前にはいろ/\聞きたいことがある」
八五郎の手は、お筆の肩にピタリと掛つてをりました。温かいふくよかな肉が波打つやうに
「八五郎殿||それは少し殺生だ。お筆はその通り顫へてゐるではないか」
取りなしたのは小豆澤小六郎です。
「いや、これだけ證據が揃つちや」
繩を打たないのが、まだしもこの八五郎の情けだつたのです。
「だが、曲者は外から
小豆澤小六郎は手摺ばかり氣にして居ります。が、八五郎はもうあの腐つた手摺などを問題にしては居ません。
その時驅け付けて來た下つ引の市助といふ男に、お筆の見張りを頼んで、八五郎はなほもこの調べを續けました。
專三郎の女房||專之助の母親のお倉といふのは、三十七八の身分柄としては少し取濟した口やかましさうな女で、
「あの娘は、父親の彦太郎を島流しにしましたのは、私の
立てつ續けに
先代の
「あの晩、何んか物音を聽きませんか」
「何んにも聞きませんよ。私はこの通り少し耳が遠いので||」
これでは八五郎と
窓から外を見ると、ツイ鼻の先の材木置場で、四五人の人足を指圖して居たお神樂の清吉は、材木の山の側にある、古井戸の蓋を取つて一生懸命覗いてをります。
「あの材木置場も念入りに搜したが、ことに古井戸は今年になつてからでも二度も井戸替へをして居る、あの中には小判どころか古釘もありはしない」
小豆澤小六郎はさう言つて苦笑ひをして居るのでした。
「これだけ證據が揃つても、可哀想であの
ガラツ八の八五郎は、その晩
「俺にも解らないよ。だが、
「さうでせうか」
「それから、袷の血はどんな具合だつた」
「どんな具合と言つても||斯うベタベタとあちこちに附いて居ましたよ」
「フーム」
錢形平次はすつかり考へ込んで居ります。
「何處か變なところがあるでせうか」
「變なところだらけだよ||ところでその浪人者の小豆澤といふのは何處に寢て居るんだ」
「これは
「番頭は」
「女中部屋の隣りで」
「小豆澤といふ浪人者は、中二階の
「腐つて居ますよ、あの手摺は||北向きですから」
「でも丁度土の上の跡に合ふ踏臺はあるだらう、物置かなんかに」
「そんな物はありやしません。一應は搜して見ましたが」
「少し心細いな」
「踏臺くらゐあつても、あの手摺へ這ひ上がるのは、猫でなきや子供ですよ。大の男の出來る藝ぢやありません」
「フーム、まあ宜い、暫くお前に任せて置くとしよう。ところでお靜||酒はあるだらうな、千兩の褒美の前祝ひに一本つけないか」
「ハイ」
若い女房のお靜は次の間から立上がつて、お勝手に行つた樣子でしたが、何んに驚いたか、
「あれ||ツ」
恐ろしい悲鳴を擧げて、二人の居る部屋に轉げ込んで來ました。
「何をしたんだ、騷々しい。
「でも||水を汲むつもりでお勝手口を開けると、闇の中から
お靜は餘つ程驚いたらしく、まだ
「怖い顏||冗談ぢやないぜ、暮の家主の顏より外に、俺は怖い顏なんぞ見たこともない」
平次は口小言をいひながら、お勝手へ行つて見ました。
「お前さん、氣をつけて下さいよ」
「何をつまらねえ、何處かの野良犬かなんかを見たんだらう||おや變なものがあるぜ」
「何んです、親分」
「手紙らしいよ、
平次は何か白いもの持つて來て、灯りの下に
「達者な字ですね、||こちとらには讀めさうもない」
「||何、||何」
平次は讀み下して眼を見張りました。手紙といふのは、半紙一枚に達者な
そなたの子分八五郎殿は、佐原屋の甥專三郎殺しの下手人として、娘筆を擧げたが、それは飛んだ間違ひであるぞよ。娘筆は潔白 で何んにも知る筈はない。證據となつた石見銀山も身に覺えがないからこそ手に持つて居たのだ。血染の袷も天井に隱してわざとらしく端だけ出して置いたのは不思議ではないか。眞の下手人ならあんなことはせずに、何處かへ取捨てる暇もあつた筈だ。血潮も飛沫 いた血ではなく、染付けた血だ。娘筆が眞の下手人でない證據はまだ/\あるが、このくらゐにして置いても、明智の錢形親分ならわかるだらう。すぐ娘筆を許して、惡人の策略 の裏を掻くが宜い。夢々私の言葉を疑ふまいぞ。
斯う書いてあるのです。ひどく人をお筆の父 彦太郎の幽靈
「親分何んでせう、これは?」
「三宅島で死んだ彦太郎の幽靈が、江戸へフラフラ來るわけはない。いづれは足のある幽靈の仕業だらうが、それにしちや恐ろしく眼が屆くね」
「でも親分」
「今から飛んで行きたいが、それ程のこともあるまい。明日は暗いうちから飛び起きて行くとしようよ」
併し、さすがの平次も、この時ばかりは恐ろしい
「親分方」
平次とガラツ八の顏を見たのか早速飛んで來ました。
「何うした、何にか變つたことが||」
「あの娘が見えなくなりましたよ」
「えツ」
「お預けのお筆が、夜中に煙のやうに消えてしまひました。八方へ手を廻して見ましたが、何處へ行つたか見當もつきません」
「親分、娘を隱したのは、父親の幽靈ぢやありませんか」
八五郎は其處までは氣が付きました。佐原屋の内外を、一と通り搜し拔いた上、平次と二人、椽側に腰をおろして顏を見合せたのです。
「さうかも知れないが、さうでないと困つたことになる」
「?」
「娘の命が危ないのだ」
「へエ||」
八五郎には何が何やら少しも解りません。
「ところであの手紙は||番頭に見せたのか」
「見せましたよ。島流しになつて死んだ彦太郎の
「そつくりだとは言はなかつたか」
「少し違つて居るやうでもあるといふことで||帳面馴れた字は誰のもよく似て居ますからね」
「フ||ム」
二人は又顏を見合せました。
「錢形の親分さん」
庭先へチヨコチヨコと入つて來たのは、十三四の
「何んだ」
「この手紙を置いて行つた者がありますよ」
「お前は何んだ」
「
平次は忙しく手紙を開きました。昨夜のと同じ半紙が一枚、矢立の墨らしい
娘筆は惡者にそゝのかされて姿を隱したぞ。これはあらぬ疑ひをかけて、娘の心をかき亂した八五郎親分の罪だ。幸ひまだ永代橋を渡つた樣子はないから、遠くへは行かない筈だ。一刻も早く搜し出せ、手遲れになると娘の命が危ないぞ。早く、早く。
斯う讀めるのです。今度は文字も亂れ、口調も荒々しく、少なからずあせつて居る樣子で、早く、早くと重ねたあたり全く居ても起つてゐられない筆の父 彦太郎の幽靈
「八、お前がひどく
「へツ、幽靈に怨まれるのは始めてで」
八五郎は
「女の子に怨まれるのと違つて、こいつは怖いよ」
「
「だが、これでお筆を隱したのは幽靈でないと解つた。が、さうなると一刻も放つては置けない」
「何うしたものでせう」
「あせつても駄目だよ。斯んな時は精一杯落着くことだ。お前は深川中の下つ引を集めて、これだけの事を調べてくれ」
「へエー」
平次の聲は次第に小さくなりました。
「佐原屋の
「へエー」
「それから店中の者の身持、貸借の樣子、わけても番頭の藤六と、死んだ專三郎と、後見人の
「親分は?」
「俺は今晩此處へ泊るかも知れない||店に小僧達と一緒に寢かして貰ふよ。||お筆の行先が判らないうちは、一刻も此處を離れるわけに行かない」
「あつしは?」
「俺が頼んだことを手配すれば、歸つても構はないよ。||あ、待つてくれ。永代橋まで一緒に行かう」
平次はガラツ八と肩を並べて、永代橋の方へ注意深く歩き出しました。色の淺黒い顏がすつかり緊張して、少し
「あれは何んだ」
「
平次が指さしたのは、昨日佐原屋の裏へ來てゐた、
「何處に住んでゐるんだ」
「八幡樣の裏に小さい小屋を
「何時も此處に居るのか、橋番に訊いて來てくれ」
「へエー」
ガラツ八が飛んで行くと、平次は
「親分」
間もなく戻つて來た八五郎は、平次を片隅に呼んで聲を
「解つたか」
「晝のうちは大抵此處に居るやうです。橋番とすつかり心安くなつて、昨夜遲く若い娘が通らなかつたか、そればかり氣にして居たさうで||」
「あの
平次は引返しました。八幡樣の裏と言つても少し遠く木立の中に、さゝやかな掘立小屋が建つて居ります。
「家搜しするんですか、親分」
「大名屋敷へ踏み込むのと違つて、氣だけでも樂ぢやないか。入つて見るが宜い」
「此處からでも一と眼に見えますよ」
「その
平次は容赦しませんでした。莚の下も、
「此處でお家の家寳でも見付かると面白いんだが||」
と八五郎。
「馬鹿ツ、無駄を言ふな。相手は手剛いぞ」
平次は以ての外の機嫌です。
念のため、橋の
「あの乞食が此處へ來てから本當に何年くらゐになるのかなア」
平次は幾人かに同じことを訊きましたが、その答へは
その晩平次は佐原屋の店の次の間に泊りました。奉公人達と一緒ではといふので、
「いや此處の方が氣樂で宜いから」
と、小僧や手代達と一緒に面白さうに話し更けて、
翌る日一日、何事もなく過ぎました。夕方近く飛んで來た八五郎は、
「いろ/\の事が判りましたよ」
「どんな事だ」
「先づ、この五年の間に佐原屋がすつかりいけなくなつたといふ噂は嘘ですよ。佐原屋の商賣は主人が死んでいけなくなつたが、
「殺された專三郎は?」
「少しは拵へたでせうが、たいしたことはありません。思ひの外正直者ですね」
「ゆく/\佐原屋の身上は自分の物になると思つて取込まなかつたんだ」
「成程ね」
「小豆澤さんは?」
「あれは恐ろしい
「フーム」
平次は考へ込みました。が暫くすると、
「もう一度八幡樣の裏へ行つて見よう。あの小屋に見落したところがある」
「へエー、又御大名屋敷へ行くんで」
「無駄を言ふな」
街はもう薄暗くなつてをりました。八幡樣裏の小屋に
「フーム、こんな事だらうと思つたよ」
中に隱してあつたのは、持ち重りのする
「何んでせう、それは」
「段々判つて來るよ、默つて居るが宜い。それから今度は佐原屋だ」
平次は茣蓙や莚をもとの通りにすると、八五郎を
その晩平次は、後見人の小豆澤小六郎だけを呼び出して、八五郎と三人膝を交へて話し込みました。番頭も女主人も遠ざけたことは言ふ迄もありません。
「小豆澤樣、一つ考へて見て下さい。あつしの智慧ぢや及びませんが||」
「何を考へるんだ。錢形の平次に判らないことが、この俺に判るわけはないと思ふが」
小豆澤小六郎は柔和な微笑を浮べて二人の御用聞を見比べます。
「一萬兩の隱し場所でございますよ。五年の間天井裏から床下まで||いや材木置場から
「さア?」
「私の考へぢや、先代の主人||六十を越した人が、一人でそつと持ち出して隱せる場所で、雨風に
「?」
小豆澤小六郎はゴクリと
「さう考へると私は、一生材木を
「フーム」
「例へば裏の物置の一番奧に立てかけてある二三十本の大きな材木、あれは床柱などに使ふ結構な銘木で、
平次の言葉は奇想天外でしたが、それは
「では、すぐ行つて見るとしようか」
「いえ、夜はいけません。灯りをつけては人の目に立ち過ぎます。この儘そつとして置いて、明日の朝番頭や家中の者立ち會ひの上で調べるとしませう」
平次ははやる小豆澤小六郎を押し留めて、兎も角その晩はきり上げました。
が、事件は翌る日の朝を待ちませんでした。
「親分」
「シツ」
互ひに警しめ合つた平次と八五郎は、その晩もう二た刻も佐原屋の物置の隅に隱れて居たのです。中は塗りつぶしたやうに眞つ暗な上、
やがてもう
「誰も來やしませんね」
「||」
宜い加減しびれをきらした八五郎の腕を掴んで平次は注意しました。その時丁度物置の戸が開いて、月の光と共に、一人の怪しい者が滑り込んで來たのです。
曲者は月の明りに透して中へ入ると、いきなり材木の山を渡つて、一番奧にある巨大な銘木の上に
サーツと水の如く流れ込む月光、その光の中に曲者は、三間あまりの高さにある
「曲者ツ」
平次は
「御用だツ」
續いて八五郎、二人は暗がりから飛び出すと、左右に別れて
「神妙にせいツ」
サツと飛び付いたのです。
「何をツ」
曲者は併し
辛くも八五郎の馬鹿力で取つて押へ、月の明りの中に引出すと、
「あつ、小豆澤||」
八五郎が
「平次、無禮だらう。浪人しても武士の端くれだ、その拙者を
「へエ、これは/\小豆澤樣で、御勘辨を願ひます。私と八五郎は、宵に申し上げた一萬兩の金を守護して居ただけのことで惡氣があつてやつたわけぢやございません」
平次は
「佐原屋の後見人の拙者が、その一萬兩の隱し場所を覗いては惡いといふのか」
「飛んでもない、||毛頭そんなつもりぢやございません。唯私はあの三間もある高いところへ這ひ上がつて、
「默れ/\、言はして置けば放圖もない奴だ。それでは拙者が專三郎を殺したと言はぬばかりではないか。無禮な奴ツ、岡つ引でも目明しでも、無法な言ひがゝりは許さんぞ。證據があるなら言へツ」
「||」
「言はなきや
柔和さうに見えた小六郎が、打つて變つた
「飛んでもない。證據などと、||尤も、お筆が生きてゐさへすれば、何も彼も一ぺんに判つてしまひますが」
「そのお筆は何處へ行つた、此處へ伴れて來い。一時のがれの言ひ譯は許さんぞ。さア、お筆を出せ、それともこの小豆澤小六郎の成敗を受けるか」
斯うなると小豆澤小六郎は、
「親分、お筆さへ居れば、白い黒いが判るなら、そのお筆を搜し出さうぢやありませんか」
親分平次の智慧に
「待つてくれ、八。俺は昨日からそればかり考へて居るんだ。||あの手紙に、永代橋を渡らない||とあつたらう。身を隱したにしてもこの近所では、あの掛引も細工もない娘が自分で進んで逃げ隱れする筈はない。||あの娘を
平次は獨り言を言ひながら、物置の前をフラフラと歩き始めました。
「親分」
その後ろから間の惡さうに跟いて來るガラツ八、家中の者はこの騷ぎに驚いて飛び起きたか、とり/″\の
「||判つた八、今まで搜し拔いた場所だ。一萬兩の金を搜して散々掻き廻した場所に娘を隱したのだ。||小豆澤樣、暫く立ち會つて下さい。八、お前も來い」
「おウ、何處までも行くぞ、逃げも隱れもする拙者ではない」
小豆澤小六郎は八五郎に見護られながら、それでも肩を
「
錢形平次は提灯と鍵を受取ると、土藏の戸前を開けて入つて行ました。
「親分、あつしは入口に張番して居ますよ。逃げ出す奴があつたら、畜生ツ只では置かないから」
八五郎は有合せの天秤棒を
「さア小豆澤樣」
平次は丁寧に小豆澤小六郎を迎へて、土藏の中の
側に立つてニヤリニヤリと笑ふ小豆澤小六郎。
「どうだ平次、お筆は消えてなくなつたか」
冷たい言葉を平次の背に浴びせます。
平次はそれには應へず、遠く八五郎の方に聲をかけました。
「八、材木置場の古井戸は、今年になつてから二度も井戸替へしたと言つたな」
「へエ、そのご浪人が言ひましたよ」
「それぢや其處だ。一萬兩の小判の代りに、可哀想に娘が沈められてゐるかも知れない、急げ」
「合點」
平次を先頭に、多勢の人と提灯はドツと店の前の空地||材木置場の方に流れます。
井戸の
火を起して身體を温めて、町内の本道(内科醫)を呼んで氣付け藥を呑ませると、お筆は
その時丁度八五郎は、逃げ出した小豆澤小六郎を、八幡樣の裏手で押へ、
× × ×
八五郎と一緒に小豆澤小六郎を引立てて來た
「お筆ツ、よく無事でゐてくれた、||俺だよ、お前の父さんだよ、||判らないか、この姿ぢやなア、||お筆、俺は生きてゐたんだ。五年越し
乞食の述懷は際限もありません。言ふ迄もなくこの男はお筆の父親||三宅島で死んだと言はれた佐原屋の
後で判つたことですが、五年前伯父殺しの無實の罪で、三宅島に流された彦太郎は、島に着く前の晩の大嵐で、波にさらはれて船から海に落ち、そのまゝ行方不明になつたのを、役人達はどうせ助かる見込みはないといふので、彦太郎は島に着いてから死んだといふことにして江戸の役所に屆けたのでした。自分達の手落ちになるのを恐れた、役人根性の
ところが當の彦太郎は、岩にさいなまれて大怪我はしましたが、九死一生のところを、運よく通りかゝつた漁船に助けられ、それから半歳經つて

五年の間||それは驚く可き辛抱でしたが、彦太郎は到頭それをやり遂げましたが、小豆澤小六郎が縛られ、お筆が危ふい命を助かつたと聽くと、前後の見境ひもなく、
尤も佐原屋の内部の細々したことや、お筆の日常の樣子などは、小僧の留吉を買收して毎日のやうに聞き出し、お筆が危ないと見ると、幽靈の手紙まで飛ばして、平次を索制したことは言ふまでもありません。
一件が落着いてから、八五郎の問ひに對して平次は斯う説明してやりました。
「小豆澤小六郎は恐ろしい奴だよ。義兄の甚五兵衞を
「へエー、太てえ奴ですね」
「義兄の甚五兵衞を脅かして甥二人が怪しいと遺書を書かせたのも小六郎の
「親分は最初から小豆澤小六郎が下手人と判つて居たんでせう」
「最初から判つたわけではないよ。尤も現場を見ると、一應
「成る程ね」
「もう訊くことはないのか、||何?
平次はさう言つて靜かに粉煙草の