「親分は、戀の
ガラツ八の八五郎は、たいして極りを惡がりもせずに、人樣にこんなことを訊く人間だつたのです。
素晴らしい秋
相變らず椽側に腹ん這ひになつて、不精煙草の煙の行方を眺めてゐた平次は、
「あるとも、風邪を引くと、ツイ
何んといふ平次のさり氣なさ||
「その聲ぢやありませんよ。戀
「馬鹿野郎ツ」
「へツ」
「耻を掻かせまいと思つて、よい加減にあしらつて置くのに、なんて言ひ草だ。俺は戀患ひをする
「へエ、さうですかね、||あつしのやうな呑氣な人間でさへ、思ひ詰めると、鼻風邪を引いたくらゐの心持になるんだが」
「
「たんとはやりませんね、精々月に一度か二度」
「間が拔けて挨拶も出來やしない。月に三度も戀患ひが出來るかよ、馬鹿々々しい||見ろ、お靜は到頭たまらなくなつて、腹を抱へてお勝手口へ飛び出したぢやないか」
この掛け合ひの馬鹿々々しさは、まさに女房のお靜を井戸端まで退散させてしまつたのです。
「ところが、その戀の病ひで、死にかけてゐる人間が、あつしの知つてゐるだけでも、五人はあるんだからたいしたものでせう」
八五郎はおめず
「なるほど、世の中は廣いな」
「ね、驚くでせう」
「あとの四人は何處の誰だえ」
「四人ぢやない五人ですよ」
「そのうちの一人は八五郎だらう」
「冗談ぢやありませんよ、あつしなんかの相手になるものですか、
「大層むづかしいことを知つてゐるんだな」
「これも小唄の文句で」
平次と八五郎の掛け合ひは、危ふく脱線しさうになりながらも、巧みに筋を通して行くのです。
「ところで、その死にかけてゐるのは誰と誰だ、人の命に
「第一番は
「第二番は?」
「無宿者、
「無駄が多いな、第三番は?」
「五丁目の尺八の師匠
「五人目は?」
「金澤町の地主、江島屋鹿右衞門の養子
「六人目がお前か、五人ぢや數が惡いな」
「六
「ところで、それだけの男を病みつかせる
「疫病神ぢやありませんよ、江戸一番のピカピカする娘で、このまゝ放つて置いたら、講中がふえるばかりだから、戀患ひを
「言ふことが馬鹿々々しいな」
「その惚れられ手は、親分も聽いてゐるでせう、この半歳か一年の間にメキメキと綺麗になつた、金澤町の大地主、江島屋鹿右衞門の一人娘お
「何んだ、||あのお艶坊か||俺はまた何處のお姫樣の話かと思つたよ」
「ね、親分だつて驚くでせう。あれは毛虫が蝶々に化けたやうなもので、||その蝶々だつて、並大抵の蝶々ぢやありませんよ」
「蝶々にも並出來と
「
などと、八五郎の話は他愛もありません。
「ところで、その亡者どもが、どんな騷ぎをやつたと思ひます、親分」
八五郎の話は第二段に入りました。
「俺は知るものか、戀の病ひと血の道は、
「錢形の親分が暗いのはその道ばかり||世間ではさう言つてゐますよ」
「餘計な心配だ」
「何しろ金澤町の居廻りは、薄寒いのに
「それは何んの
「何んかの
「厄介だな」
「町内の湯屋は大變で、お艶が來る日を心得てゐて、その日の男湯は
「||」
平次は默り込んでしまひました。
「それから江島屋の通りは、宵から夜中へかけて、のど自慢が押すな/\ですよ。歌ふの吹くの||」
優にやさしき
「||」
「時々は喧嘩が始まつて、怪我をする者もある騷ぎで||訊いて見ると、お艶さんに二度振り返つて見られた野郎が、三度振り返られた果報者を毆つたんださうで」
「もう澤山だ、八。俺はもう胸が惡くなつたよ」
平次はやけに
「もう少し聽いて下さいよ、親分。これからが面白いんで」
「勝手にしやがれ」
「その揚羽のお艶が、今度一枚繪になつて賣出されたんだから、たいしたものでせう」
「
平次の顏は酢つぱくなるばかりです。『美人崇拜』は昔も今も變りはなく、名ある美人が一枚繪になつて賣出される例は、隨分古くから行はれたことですが、それは殆んど悉く遊女とか
「素人娘の一枚繪でも、賣れ行きはたいしたもので、吉原の名ある太夫の一枚繪にも負けないだらうといふ噂で」
「誰がそれを買ふんだ」
「岡惚れ筋は皆んな一枚づつ買ひますよ。戀患ひの口は、一人で十枚二十枚と引受けるから、それだけでも大變で」
「お前は?」
「へツ、へツ、一枚買ひましたよ」
八五郎はニヤリニヤリと
「持つてゐるのか」
「持つて來ようと思ひましたがね、
「正直でいゝな、お前は。毎日その一枚繪を抱いて寢るのか」
「抱いてなんか寢やしません、枕の下へ敷いて寢るんで」
「まるで寳船だ」
「あまり結構な夢も見ませんね」
「當り前だ」
話は際限もなく馬鹿々々しい調子になります。が、この
八五郎の『大變』が、つむじを起して舞ひ込んだのは、それから十日くらゐ經つてからでした。
「さア、大變、親分」
井戸端で顏を洗つてゐる平次は、猿屋の房
「惡い陽氣だ||今時分から、お前の『大變』が降るやうぢや」
「
「何處へ行くんだ、俺はまだ顏も洗つちやゐないぜ||袖を引張つたつて、無理だよ八」
「でも、今直ぐ行けば、揚羽のお艶の顏が拜めて禮のひと言くらゐは言はせますよ」
「止さないか、馬鹿々々しい。俺は今朝
無駄を言ひながらも、平次は手早く顏を洗つて、さてと向き直ります。
「本當に大變なんですよ、親分」
「あわてた野郎だ||揚羽のお艶がどうしたんだ、俺は腹を
「殺しですよ、親分。江島屋鹿右衞門の塀の上で、
「江戸開府以來の殺しは大
さすがに平次でした。そのまゝ朝飯も忘れて、手早く出かける支度に取りかゝるのです。
「親分、腹拵へは?」
「もういゝよ」
「お大名に取立てられても、||と言つたぢやありませんか」
「お大名に取立てられても動かねえつもりだが、仕事は別だ」
「て、へツ、有難てえな親分」
八五郎は額を叩いて、ペロリと長い舌を出すのです。自分もまだ朝の
金澤町まではほんの一と走り。
「あ、これは大變な騷ぎぢやないか」
江島屋の裏、狹い路地を埋める彌次馬の群れに、平次は先づ
「親分に見せるまで、放つて置くやうに、やかましく言つて置きましたよ」
八五郎は心得たことを言ひます。
彌次馬の群をかきわけて、江島屋の裏口近くまで行くと、平次がもう一度驚いたほどの、それは不思議な殺しでした。
「成程こいつは、江戸
金澤町は言ふまでもなく、神田から下谷へかけて、五本の指に折られた大地主、江島屋の構へは町人にしては
その裏口の切戸近く、
八五郎がこれを『
「八、手を貸せ||いや、二人ぢやむづかしいだらう。
「待つて下さい親分」
八五郎はその用意に何處かへ飛んで行きました。
その間に平次は、江島屋の庭からかけた九つ梯子を登つて、死骸の側まで行くと、下から、上から、横から、念入りに調べ始めたことは言ふまでもありません。
忍び返しの一本は、三之助の帶に引つ掛り、次の一本は背中から胸の一部をかすり、袷を破つて前へ突き拔けてをりますが、忍び返しで受けた傷は、ほんのかすり傷で、人の命を奪る程のものでなく、三之助を忍び返しに留めて置いて、その命を奪つたのは、背後から深々とゑぐつた左胸元の傷、||心の臟を破つた一と突きでなければなりません。
やがて八五郎が集めて來た三梃の梯子と四人の人手で忍び返しの上の三之助の死骸は江島屋の庭に降されました。江島屋の主人鹿右衞門は、この死骸を
「困つたことで、錢形の親分」
などと、この五十年配の、氣の弱さうな中老人は、積極的にそれを斷わる力もなく獨り言のやうに
手傳つてくれたのは、養子の
その騷ぎの中に、見廻り同心、折村小右衞門が、檢屍に立ち會ひましたが、錢形平次の顏を見ると、
「拙者は外にも用事がある。萬事よきやうに」
と、平次と町役人に任せて引揚げてしまひました。
平次はその寄託はなくとも、事件の異樣な形相に興味を持つたらしく、恐ろしい熱心さで調べ始めます。
死骸の懷中には、腹卷に突つ込んで、
塀と
「親分、あの庇に登つてゐるところを突き飛ばすと、一寸忍び返しの上に落ちはしませんか」
八五郎は早くも、この江戸開府以來の變な死から『可能』を嗅ぎ出さうとしてをります。
「庇の上に足跡があるかないか、あの窓の格子が外せるかどうか、||それを
平次は直ぐにはその假定に乘りません。
「親分」
「何んだ、八」
「あれを、||後ろですよ」
八五郎に横つ腹を小突かれて、平次は何心なく後ろの方||母屋の椽側を振り返りました。
ハツと、平次も息を呑んだほどの素晴らしさ、柱に
娘が年頃になるとかうも綺麗になるものか||平次が、眼を見張つたのも無理もないことです。十年前まで、それは、眼ばかり大きくて、青黒く薄汚れた、唯の小娘だつた筈です。何時の間にそれが脱皮して毛虫から揚羽の蝶になつたか、想像を絶した造化の奇蹟といふ外はないのです。
薄桃色の羽二重に、銀粉をまぶしたやうな皮膚や、端正な眼鼻立、わけても少し大きい眼や、ポツチリ咲いたやうな
『美人禮讃』では、決して人後に落ちない江戸つ子達が、急に騷ぎ出したのも無理のないことでした。五人、六人と若い男を
「お孃さんですかえ」
平次はかう訊いて見たい衝動をどうすることも出來なかつたのです。並外れた美しいものに對する、平次の好奇心の、さゝやかな現はれだつたかも知れません。
「||」
娘は默つてうなづきました。
「
「いえ、少しも」
娘は自衞的に表情を
「殺された三之助を、お孃さんは知つてゐることでせうな」
「よく知つてをります。でも」
お艶は言ひ難さうに、可愛らしい顎を襟に埋めました。
「でも?」
「あの人は怖かつたんですもの」
お艶が答へるのは、それが精一杯でした。平次が次の問ひを用意する前に、娘の姿はスルスルと、障子の蔭へ隱れたのは、せんすべもないことでした。
「あの通り、年は十九でも、まだほんの子供で」
振り返ると主人の鹿右衞門は、
「心當りはありませんかえ、江島屋さん」
平次はこの父親から先づ
「心當りと申しますと」
「
「それはもう、困つたことでございました。物を言つてわかる人間ではありませんし、こればかりは金づくで追つ拂ふわけにも行かず、私も娘も、閉口いたしてをりました」
鹿右衞門はツクヅク言ふのです。
「ところで、お孃さんへ絡みつくのは、二人や三人ではなかつたといふことだが、三之助と張り合つて、一番うるさくしたのは、誰で?」
「さア、誰と申して」
一向に要領を得させません。五十年配の苦勞人らしい遠慮でせう。
「ところで、江島屋の跡取りはどうなるんです」
「與茂吉と申す養子でございます」
それははつきりしてをりました。
「いづれお孃さんと祝言させることでせうな」
「さう言ふことになると思ひますが、何分娘が
女の十九の厄年が、どんな重大なものか、徳川時代の空氣に觸れて見なければ、これは呑込めないほどの意味を持つのです。
「早く祝言させて、世間へも
「さうでせうか」
娘の美色は、セレナーデを奏する塀外の
平次はこの
「飛んだお世話で||」
などと、この
「お前さんも、昨夜何んにも聽かなかつた方の口かな」
平次は諦めた調子です。
「いえ、
「妙な音?」
「何處かで人間の悲鳴を聽いたやうに思ひます。それから、どたりといふ恐ろしい音と」
「待つてくれ、人間の悲鳴の方が先だつたのかな、確かに」
「間違ひございません、||私はよつぽと[#「よつぽと」はママ]起きて見ようかと思ひましたが、若い者の喧嘩は毎々のことですし、つい、そのまゝねてしまひました」
「お孃さんは、大變な評判のやうだが、お前はそれをどう思つてゐなさる?」
「さア、どう思つたところで、致し方もございません」
與茂吉は諦めきつた姿でした。さうかと言つて、この家から飛び出しもならず、怪しい
「今朝、忍び返しの上の死骸を見つけたのは?」
平次は話題を變へました。
「下女のお六でございました。大きな聲を出したので、あつしが飛んで出ると」
それは側にゐた下男の幹助の説明です。赤黒くて武骨ですが、話の筋も通り、物の役にも立ちさうな男です。
「お前はこの家へ長く奉公してゐるのか」
「三年になります」
「
「私は何んにも聽きません。尤も私の寢てゐるのは家の向う側で」
そんな話をしてゐるところへ、八五郎は飛んで來ました。
「親分、あの
「何にか變つたことがあるかえ」
「庇の上は
「それから?」
「格子窓は恐ろしく頑丈な釘づけで近頃
「よし/\、さうわかると、調べが樂だ。ところで、お前はお勝手から下女のお六といふのを呼んで來てくれ」
「あの女は大變ですよ、親分」
「何が大變なんだ」
「慾の深い四十女で、お孃さんへ手紙を頼むと、駄賃に三百文から一朱二朱まで取るさうで、相手の
八五郎までが腹を立てるところを見ると、これも何百か只で取られた講中の一人かもわかりません。
「それで、お孃さんから返事は來るのか」
「滅多に手答へがないんださうで、||尤も返事を貰つてくれたら、一分くらゐは
これも八五郎自身の經驗かもわからないのです。
が、江島屋の娘をめぐる、これが最初の事件で、戀患ひの一味にはこれをきつかけに、思ひも寄らぬ變事が、次から次へと起るのでした。
金澤町江島屋の忍び返しに、
尤も平次は外に手の離せない南町奉行所直々の御指圖の仕事があつて、金澤町はツイ、八五郎任せになつてしまつたせゐもあつたでせう。
「親分、何んとかして下さいよ。あつしぢや何うにも眼鼻がつきませんよ」
八五郎が
「意氣地のねえ野郎だ、||人間が空を飛んで、忍び返しに引つ掛るわけはねえ。それに江島屋には、
平次は、せめてこれだけでも八五郎の手柄にしてやりたいと思つたのか、ツイかう言つた激しい言葉を浴びせるのでした。
「洗ひましたよ、一人々々
「その男に怪しい素振りでもあつたのか」
「尺八吹きのくせに大男で力も並々ぢやないから、三之助を手玉に取つて、忍び返しの上へ投げ上げるのは、戀患ひの講中では、竹童の外にないといふのですよ」
「成程ね」
「その上、あの晩は尺八のけえがあつて、
「待つてくれよ、八。忍び返しを乘越すところを突き上げたといふなら、たいした力が要らないわけぢやないか」
「そこがそれ、三輪の親分の考へで||」
「それは、それとして、三之助を突き上げた刄物はどうしたんだ」
「どつかの
「忍び返しの上にゐる人間を突くのはむづかしいぜ。それに、うんと返り血を浴びるわけだが、竹童の家を搜して見たことだらうな」
「年寄の
「兎も角、
「隨分骨を折りましたよ、五日の間といふもの、夜の眼も寢ずに||」
「嘘を吐きやがれ」
「夜は思ふ存分寢ましたが、陽のあるうちは隨分働いたつもりで||」
「第一番にどんなことに氣がついたんだ」
「江島屋の娘||お艶といふ女は、見れば見るほど綺麗だといふことですよ」
「それつきりか」
「その綺麗なのが
「そも/\と來やがつた、近頃はどうも、お前の話を聽いてゐると、
「でもね、親分。あんな良い美女の娘は、ザラにある
「美女の娘は嬉しいな、そいつも學のせゐだらう」
「色白||と言つたつて、あんな底光りのする色白は滅多にありませんよ。白羽二重に
「もう澤山だよ||その次は、鼻の穴が二つあつて、耳が間違ひもなく二つで||と來るだらう」
「あつしはもう、親分の見立てぢやないが、いよ/\六人目の戀患ひに取つかれたかと思ひましたよ。あの娘を見ると、胸がドキドキして、眼がクラついて、無暗に腹が減つて||」
「まさか喰ひつきやしまいな」
「兎も角も、あんな女は眼の毒ですね。御奉行樣にでもお願ひして、江戸
「五日の間に
「へエ、それつきりで」
「馬鹿野郎、夜の眼も寢ずに、お艶の後ばかり追ひ廻してゐたんだらう」
平次は怒る張り合ひもありません。恐らく江戸一番のフエミニスト八五郎は、役得の氣で江島屋に乘込み、朝から晩まで娘お艶の人相ばかり調べてゐたことでせう。
「それぢや親分、どんなことをやりやよいんで」
「暫らくの間、お艶と顏を合せたら、眼をつぶるんだよ、
「外を?」
「戀患ひの講中がまだ四人殘つてゐるだらう、その身許から、
「へエ」
「それから江島屋の内輪の樣子、暮し向き、養子の
「||」
「それくらゐのことがわからないお前ではあるめえ、今後お艶の顏ばかり見て、デレリとして歸つて來ると、笹野樣にお願ひして、島送りの役人につけて、八丈島へやるから、さう思へ」
「やりますよ、やりますとも。それくらゐのことなら、わけはありませんよ」
八五郎はまことに
「親分、今日は」
その翌る日でした。八五郎はひどく上機嫌で、泳ぐやうに狹い路地を、平次の住居の格子に
「どうだ、島送りの役人について行く氣になつたか」
「冗談で、||三宅島や八丈島に、好い新造がゐるとわかれば別ですが」
「あんな野郎だ、
「ところで、親分に言ひつけられたのを、一と通り調べて來ましたよ。尤も、合間々々に江島屋へ行つて、あの娘にも逢ひましたがね」
「又、デレデレと顏ばかり見てゐたらう」
「ところが、今度は、親分に教はつた通り、首から上は見ないことにしましたよ、物を言ふんでもソツポを向いてね、||お前の
「そんなことが出來たのか」
「胸が惡くて
「汚いな」
「すると、
「で?」
「きりやう自慢の女に逢つたら、その顏を見てやらないに限ると思ひましたよ。時々つまらなさうな顏をしたり、胸が惡さうにして唾を吐くのは、なか/\きゝ目がありますね」
「で、何にか氣のついたことがあるのか」
「ありますよ、||あの娘の顏ばかり見てゐちや氣がつきませんが、||あの手の美しいといふことは」
「||」
「細くてしなやかで、指が一本々々笑くぼが寄つて、爪が櫻貝のやうだ」
「馬鹿野郎、||水仕事一つしないやうな、
「でも、若い娘の手が、あんなのは惡くありませんね。尤も、左の手に少し怪我をしてゐるやうで、手の甲から手首にかけて、
「お前の調べは、相變らず、あの娘のことばかりぢやないか。三輪の親分に鼻を明かされるのも無理はないぜ」
「まだ澤山調べて來ましたよ」
「詳しく話して見な」
「戀患ひの第一番、
八五郎の話は奇つ怪でした。
「家の者がそんな話をするのか」
「飛んでもない、家の者は伜は大病だからと言ひ張つて、あつしにも逢はせやしません。そのフラフラのトボトボは、近所の衆の噂ですよ、||お隣りの若い者が、宵から見張つてゐて、練塀町から金澤町まで
「恐ろしく達者ぢやないか、それで晝は人に逢へないほどの大病だといふのか」
「あつしも不思議でならねえから、いろ/\訊いて見ると、枕のあがらぬ大病も本當なら、時々夜中に脱け出すのも本當ださうですよ、いやになるぢやありませんか。尤も横町の
などと、八五郎の脱線振りは際限もありません。
「無駄はよい加減にして、お前の調べはそれつきりか」
「まだありますよ。尺八吹きの竹童は三輪の親分に縛られましたが、あの男はお月樣の良い晩なんか、江島屋の裏へ行つて尺八を吹くんださうですよ、||
「お前の話を聽いてゐると日が暮れるよ、もう少し先を急げ」
「御家人の
「面白かないよ、それがどうしたんだ」
「
「||」
「その上、返事を書かせれば二朱、お艶の身についた物を、そつと持つて來てくれると一分、||鼻紙の濡れたのが一分になるんだから、たいした商法ぢやありませんか」
「それから?」
「江島屋の養子の與茂吉は、いづれお艶と一緒になる約束でせうが、この騷ぎを見せつけられて氣が揉めない筈はありません。それにお艶と同じ屋根の下で暮してゐるだけに、このお預けは骨身にこたへますよ。薄つぺらで、男のくせにおしやべりで、ちよいと好い男でもありますが、近頃は少し氣が變になつてゐるんぢやないか||と、これは下女のお六の見立てですがね」
「何にか變なことでもあるのか」
「
「物騷なことを考へる奴だな、お前は」
「大丈夫ですよ、あつしには許嫁も何んにもありやしません」
「それつきりだつたな」
「もう一人、江島屋の下男の
「性分だらう」
「そのくせ、あつしなんかには當りがよくて、最初から馬が合ひましたよ。何んだつてそんなにお孃さんに素氣なくするのかと訊くと、女の高慢なのと坊主の腰の低いのは大嫌ひだつて言やがる」
「それぢや、お孃さんを綺麗だとは思はないかと訊くと、||梨でも桃でも、虫がつくと不思議に綺麗になる||つて言やがる、皮肉な野郎ですね」
「生れは?」
「あんなのは間違ひもなく
「下女のお六は」
「
「外には?」
「主人の鹿右衞門は、上へ馬といふ字のつく方」
「何んだえそれは?」
「馬鹿右衞門とね、
「ところで、そのうち、誰が一體三之助殺しの下手人だと思ふ」
平次は八五郎に訊くのではなくて、以上の報告から自分の結論を引出さうとしてゐる樣子です。
八五郎の『大變』が舞ひ込んだのは、それから又三日も經つてからでした。
「サア、親分、御輿を上げて下さいよ。今度こそ本當の大變、||
「何がどうしたてんだ、相變らず騷々しい野郎だ」
南町御奉行指圖の仕事も一段落になつて伸々と煙草にしてゐるところへ、八五郎が
「
「何? 自分の刀を尻から、||何處でそんなことがあつたんだ」
「金澤町の江島屋||この間
「成程そいつは厄介だ、行つて見よう」
平次はかうして二度目の出動になりました。やくざの三之助が、忍び返しに引つ掛つて死んだのと、侍の子の金太郎が、
江島屋の裏路地は、相變らずの彌次馬の人波で一杯、こいつは蠅と同樣、追つても怒鳴つても、たいしたきゝ目にありません。
金太郎の死骸は、この前の三之助と同樣、江島屋の主人の嫌がるのも
「錢形の親分、又困つたことになりました」
江島屋の主人鹿右衞門は泣き出したいやうな顏で平次を迎へました。椽側に取込んだ伊保木金太郎の死骸は、町役人が二人、迷惑さうに番人をしてをります。
「伊保木樣へは知らせてやつたことでせうな」
平次は町役人へ話しかけました。
「もう四半
町役人の一人は、いかにも苦々しいと言つた調子です。家名を救ふためには、
「でも、知らぬ存ぜぬでは濟むまいよ。これが佐久間町の伊保木樣の跡取りといふことは、路地へ入つた來た、何百といふ彌次馬が皆んな知つてゐるから」
もう一人の町役人は口を尖らせます。
平次は
伊保木金太郎は二十一二、まだ
兩刀は
「長い方でやられたんですよ。一應
町役人の説明です。
「いかに華奢な身體でも、兩刀を腰に差してゐちや、あの犬潜りの穴は脱けられない、||そこで、腰の兩刀を鞘ごと拔いて穴の傍に置き、穴の中へ身體が半分潜つて、途中でつかへて前へも後ろへも行かなくなり、聲を立てることもならずに、
もう一人の町役人、金澤町の家主で、外神田では顏の通つた大川屋五郎兵衞といふ中老人が、見てゐたやうに説明するのです。
「持ち物は?」
「
五郎兵衞は、
こんや、うらぐちの、犬くぐりからおいでをまちあげます||
とたつたこれだけ、恐ろしく「この手蹟は?」
「||」
平次は四方を眺めました。二人の町役人の外に、主人鹿右衞門、養子與茂吉などがをりますが、誰も
「御主人、この手に見覺えは?」
「一向見たこともない字で」
「お孃さんの手に似ちやゐませんか」
「飛んでもない、お艶さんは字が上手で、町内の手習師匠の折紙つきですよ」
養子の與茂吉は憤然として答へました。
「お孃さん、この手紙に覺えはありませんか」
平次の調子は穩かですが、言葉には妥協を許さぬはげしさがありました。
伊保木家から死骸を引取りに來る樣子もなく、暫らくの事件の空白を利用して、平次は急所急所に釘を打ち込む氣だつたのです。
主人に頼んで、問題の娘お艶を呼出してもらつたのは、お勝手に近い裏の四疊半、多分それは、下女のお六の部屋でせう。
「いえ、少しも」
お艶は肩を
「でも、見當くらゐはつくだらうと思ふが」
「||」
「お孃さんの手紙と思ひ込まなきや、二本差の立派な若侍が、犬潜りから這ひ込むやうな、
平次は伜の手紙を疊の上に置いて、なほも詰め寄るのでした。
「でも、私、何んにも知つてはゐません」
お艶は追ひ詰められた兎のやうに、部屋の隅に少さくなつて、
「
「私は、私は何んにも知らないんです。皆んなは、どうして、あんなに騷ぐのか||」
お艶は到頭泣き出してしまひました。長い
それは言ひやうもなくいぢらしい姿でしたが、平次は日頃にもなく
「お孃さんは、あの伊保木金太郎樣から、毎日手紙を受取つてゐるさうですね」
「||」
「それに返事を書いたことがあるでせう、||お六にせがまれるか何んかして?」
「書きました、二度か、三度。もうこれからは、こんな手紙を下さらないやうに||と」
「昨日も書いたことでせう」
「||」
「その文句を聽かして下さいな、お孃さん」
「||お覺召しは有難いけれど、身分の違ひもあり、人目もうるさいことですから||と書きました」
「すると、この
「そんな失禮なことを、書くわけございません」
お艶は必死と抗辯するのです。涙は
「その手紙は、下女のお六が取次ぐのでせうな」
「||」
お艶はうなづきました。
「八、其處にゐるなら、ちよいと下女のお六を呼んでくれ」
平次は庭のあたりに、ウロウロしてゐる八五郎に聲をかけました。
「あつしも
「何んだと?」
平次は椽側に飛び出しました。
「荷物もそのまゝだし、三十兩といふ大金は主人に預けてあるといふから、逃げも隱れもする筈はありませんがね」
八五郎の言葉の裏には、何やら重大なものが匂ふのでした。
江島屋の下女お六の行方不明は、事件を急角度に展開させました。
「八、お前一人では手が廻るまいが朝つから誰も外へ出た者はないか、外から來た者はないか、第一番にそれを調べるんだ。一人も出入りした者がなきや、下女のお六はこの家の何處かにゐるに違ひない」
「そんなことなら、あつし一人で澤山で」
八五郎は氣輕に飛んで行きます。
その後ろ姿を見送つて平次は、養子の與茂吉に案内させて裏木戸の方に廻つて見ました。
裏木戸の近く、板塀の
「これは何時頃から出來てゐるんだ」
平次は與茂吉を振り返りました。
「この春までは犬を飼つてをりましたが、さかりがつくと、どんなに嚴重に
與茂吉の話は、よく筋が通ります。尤もこの男は多辯で輕薄らしささへなければ、立派に若旦那で通る男前です。
平次は念のために、穴を
「この釘は、誰が打つたんだ」
「少しも氣が付きませんでしたが」
よく見ると、その穴の方へ

一歩退いて見ると、路地の方には、穴から一尺ほど離れた下水へかけて、
丁度その時でした。
「親分さん、伊保木樣から、死骸引取りのお使ひの方が見えましたが、お渡し申して宜しいでせうか」
江島屋の主人鹿右衞門は、恐る/\顏を出します。
「あつしが立會はう」
平次は氣輕に庭の中へ入ります。相手は武家それも小祿の御家人だけに、うるさいことを言ひさうで、江島屋鹿右衞門少なからず恐れをなしてゐるのです。
「さう願へれば||」
平次の蔭へ隱れるやうに、金太郎の死骸を置いてある部屋の前へ引返します。其處では、
「それでは御主人、若樣お遺骸は引取つて參る」
などと、少し
「これは伊保木樣御使ひの方で、あつしは町方の御用を
平次は丁寧に挨拶しました。
「あ、錢形の親分か、いろ/\手數をかけたさうだが」
「飛んだことで」
「私は用人の川村左馬太と申すものだが、伊保木家も
川村左馬太は、當り前のことを言ふ調子でヌケヌケとこんなことを言ふのです。
「あつしは町方の御用聞で、別に武家方の内輪事に立入る筋はございません。が、御覽の通りの彌次馬で、何處からどう御目付の御耳に入らないものでもございません。その時うるさいことのないやうに、ありのまゝお屆けになつては如何でございませう。||飛んでもない、あつしにお禮など、そんな物をお受けするわけには參りません」
「まア、さう堅いことを言はずに。頼むぜ、平次親分」
などと、川村左馬太は、平次の肩をポンと叩くのでした。
「では、一つだけ伺ひますが、御屋敷では金太郎樣が江島屋の娘のことで夢中だつたことを、御存じはなかつたのでせうか」
「いや、薄々は知つてをられた。相手は町人とは申しながら、大地主の江島屋のことでもあり、その娘とあれば、世間への聞えもたいして惡い筈はない。いづれは
悲劇の原因はその邊にあつたのでせう。用人川村左馬太は、年配の者らしく、主家の總領の無分別さが、苦々しくてたまらない樣子です。
「恐れ入りますが、そのお腰の物を」
平次は死骸の側に進み寄ると、其處に並べてあつた大小を取上げ、先づ長い方を先に拔いて見ました。
それは反りの少ない新刀で、一應
もう一つ、短い方のを手に取つて、平次は何心なく拔いて見ました。
「あ」
一應拭き清めてありますが、それにもまた
「御用人樣、金太郎樣
平次は押して尋ねました。
「左樣」
「お屋敷にお歸りになりましたら、金太郎樣の部屋と、お風呂場などをお調べ下さいませんか、萬一血に染んだお召物でもあつたら、そつと御知らせを願ひます、||金太郎樣御最期のことは町方からは何事も申上げないことにいたします」
平次は明かに交換條件を持出したのです。
「左樣か、
「金太郎樣は御病死と決れば、少しばかりのことは、御係の方も御聞流しのことと存じます」
「いかにも、では萬事お頼み申すぞ、錢形の親分」
などと、川村左馬太は急に態度を變へると、二人の折助に金太郎の死骸を運ばせ、待たせてあつた駕籠に乘せて、追はるゝ者のやうに退散したのです。
「親分、下女のお六が見つかりましたよ」
ドタドタと飛んで來たのは八五郎でした。
「何處にゐたんだ」
「後ろ手に縛られて首を絞められ、眼を廻して鼻汁だらけになつて、
「生命は?」
「息は吹返しましたが、まだ正體はありませんよ。あれは絞められたくらゐで死ぬやうなやはな女ぢやありませんが、何しろ半刻近く布團の中で蒸されたやうで」
「よし行つて見よう」
事態容易ならずと見て、平次は家の中に飛び込みました。大納戸といふのは、大町人の家などによくあつた夜具部屋で、お六の部屋の丁度眞上に當り、その隣りは娘のお艶の部屋になつてをりますが、お艶は朝から取込みで、
平次が行つた時は、下男の幹助と養子の與茂吉に介抱され、口に水を注ぎ込まれたり、脇腹を
「どうしたお六、飛んだ目に逢つたぢやないか」
平次は一應皆んなを次の間にやると靜かに
「あ、親分さん私は、私は」
「誰がそんな目に逢はせたんだ」
平次が顏を持つて行くと、お六は夢から覺めたやうに、眼ばかりパチパチさせながら、
「押入へ首を突つ込んだところを、背後から不意に首を紋められて、フラフラと氣が遠くなつてしまひましたよ、||誰が絞めたかわかるもんですか、振り返つて見る
と、自分の喉をさすりながら、言ふこともしどろもどろです。
「良い匂ひ||といふと、どんな匂ひだ」
平次は重大な鍵を掴んだのです。
「香油の匂ひ||いえ、
「相手の頭のあたりが匂つたのか、||それとも顏」
「いえ、私の頭は、相手の懷中のあたりに
お六の言葉から、これ以上のことを
「お前は、何にか大事なことを知つてはゐないか、||お前に口を開かれると、ひどく困る人がある筈だが」
「||」
お六は默つて首を振りました。
「お前は
平次はなほも突つ込みました。曲者はこの女の口を
「私は何んにも知りません。
「それをお前の手から、相手へ
「私は外へ出られないんですもの、それは無理ですよ」
「すると」
「外の方は、幹助さんが取次いでくれました」
「駄賃は二人でわけたのか」
「あの人は馬鹿正直で、恐ろしく堅いから、私がわけてやつても取りやしませんよ」
「その手紙をお前は一々見ることだらうな」
「見たいことは山々ですよ、||四十にはなつても獨り者の女ですもの、でも、
四十女の頬には赤黒い
「字が讀めないといふのだらう」
「手習ひをさせなかつた、親が惡いんです」
妙な話になつてしまひました。
「ところで、あの納戸へ何んの用事で入つたんだ」
「季節の變り目には、布團を入れ換へなきやなりません。取込みはあつたところで、この天氣ですもの」
その邊はまことに忠實なものだつたのでせう、平次はその辯解をよい加減に聽いて、納戸の窓から首を出して見ました。
「?」
其處で平次は、思ひも寄らぬ發見をしたのです。窓は一間の腰高ですが、格子はなくて二枚の雨戸があり、その一端に
見下ろすと、
平次はお六を家の者に任せて、お勝手から飛び出すと、その邊にウロウロしてゐる八五郎と、養子の與茂吉を
「あ、矢つ張り此處だ」
平次が歡呼をあげたのも無理はありません。二階正面の柱が一本、中程がひどく
「八、其處の押入を見てくれ、綱がある筈だ」
「よし來た」
八五郎の引開ける手に從つて、空つぽの押入の中にとぐろを卷いてゐる、逞ましい綱が一本。
「それだよ、八。出して見てくれ」
平次が聲をかける迄もなく、八五郎はもうそれを手ぐり出してをります。
「あ、この綱は、家の物置にあつたものですが、何うして此處へ」
與茂吉は
「あ、痛ツ」
八五郎は飛び上がりました。何んかにさゝれでもしたか、無闇に左の手を振つてをります。
「どうした、八」
「綱に
「そんな馬鹿なことが」
平次は八五郎の手繰り出した綱を、丁寧に調べ始めました。
「成程、これは大變だ。針だよ、八。それも三本や五本ぢやねえ」
綱の中程のところに、一寸では見えないやうに刺し込んである針が五本、十本、それは
「
平次は與茂吉に向つてつかぬことを訊きました。
「へエ、
與茂吉の答へには、日頃の
「この家の締りは恐ろしく嚴重な樣子だが、誰がそれをやるんだ」
平次は新しい問ひを持出しました。
「父親と私がしてゐます。恐ろしく念入りで、店の方は父親が見廻り、裏の方、勝手口から裏木戸は私の受持で、一々錠をおろした上、
「すると、夜中裏木戸からは入れないわけだね」
「
「有難う、そんなことでよいだらう」
「へエ、何分宜しく願ひます」
與茂吉を歸すと、平次は少し離れて待機してゐた八五郎を呼びました。
「八、いよ/\むづかしいことになるよ。お前は家中の者を嗅ぎ廻してくれないか、相手に氣がつかれぬやうに、それとはなしにやるんだ。突んのめして抱きついてもいゝし、後ろから肩を叩いてもいゝ、兎も角良い匂ひをさせてゐる奴を搜すんだ」
「女にやつても構やしませんか」
「よいとも」
「有難てえ、天下御免であの娘にかじりついて見せますよ」
「天下御免といふ奴があるものか、手荒なことをするな」
「ところで親分は?」
「一寸外へ行つて來るよ」
平次が行つた先は、
「若旦那に逢ひたいが」
といふと、主人の嘉七が、
「
と、いふのを振りきつて、無理に嘉三郎の病間へ通ると、奧の四疊半に寢てゐた嘉三郎は、
「あ、錢形の親分か」
と、豫期したことでもあるやうに、あわてて床の上に起き直ります。年の頃二十一、二、少々
「氣の毒だがお前さんに、今日は八丁堀まで行つて貰はなきやならねえ。江島屋のお艶のことで、人が二人まで殺されたことは知つてるだらう、戀患ひの仲間を、一人々々調べることになつたんだ」
「親分、私はこの通りの病人で、一と足も外へ出られませんが」
嘉三郎は手を合せて拜まないばかり。すつかり
「何を言ふんだ、お前は戀患ひだつて言ふぢやないか。大の男が戀患ひで死ぬ氣遣けえはねえ。それに、夜中にそつと拔け出して、金澤町のあたりをフラフラ歩くことまでわかつてゐるんだ」
「親分、私は||」
嘉三郎はまさに追ひ詰められた鼠でした。平次は滅多にこんな手は用ひないのですが、相手が戀患ひの
「お調べは八丁堀へ行くまでもなく、正直に言ひさへすれば、此處でも濟むことだ。お艶に附き
「申上げます、親分、||私どもは何時の間にやら敵同士になつて、お互に爪を磨いでをりました。この間殺された
「||」
平次は默つて次を
「伊保木金太郎はお武家で、身分が身分ですから、お艶さんも心引かれてゐる樣子です。
「||」
「そこで、考へたのはこの戀患ひでございます。力も金も智慧もない私は、命がけの戀患ひでもして、お艶さんに可哀想だと思はせる外は
嘉三郎は感慨無量な聲を振り絞つて、平次を相手に掻き口説くのです。
「良い心掛けだよ、『私は患ひました』||と聽かされちや腹も立たねえ、精々患つてこがれ死をするがよからう。兩親は蔭で泣いてゐるぜ、馬鹿々々しい」
平次は珍らしく激しいことを言つて立ち上がりました。
江島屋へ歸つて來ると、伊保木家の折助が、用人の川村左馬太の手紙を持つて來てをりました、開いて見ると、
||平次殿の仰しやる通り、風呂場には強 かに血のついた、袷が一枚、盥 につけてありました。これは御厚志に酬 ゆるために、密かに申し上げる。萬事御内分に||
と、これだけ書いてあつたのです。素より署名も何んにもありません。「御主人、御店にゐる者で、無筆は下女のお六だけでせうな」
平次は川村左馬太の手紙を讀むと、何やら思ひついたやうに主人鹿右衞門を
「いや、下男の幹助も、無筆同樣と自分で言つてゐるが」
「その幹助の部屋を見せて貰ひませうか」
「どうぞ」
家の反對側、物置の隣りに下男幹助の部屋がありました。幸ひ本人は留守、搜して見ると、押入から、矢立が一梃と、紙が少しばかり出て來たのには主人鹿右衞門を驚かしました。丁度其處へ、
「親分、||良い匂ひをさせてゐるのがわかりましたよ」
相變らず、飛び込むやうに八五郎がやつて來ます。
「誰だ」
「お孃さんのお艶さん。滑つて轉げるやうな恰好をして、首つ玉へかじりついてやりましたが||」
「ひどいことをするぢやないか」
「天下御免で||良い匂ひでしたよ」
「それだけか」
「下男の幹助の懷中も匂ひました。嫌がるのを無理に押へて取出させると、あの野郎親の
「それだよ、八」
「何が、それで?」
「伊保木の伜を殺して、下女のお六を絞めたのは、矢つ張りあの野郎だ」
「大丈夫逃げはしません。裏でお孃さんと話をしてゐるから」
八五郎は飛んで行きました。お艶の見てゐる前で、それは難儀な捕物でしたが、兎にも角にも、下男幹助に繩を打つて引立てたのです。
「野郎、神妙にせい」
× × ×
一件落着の後、
「あの幹助といふ下男は、
と、八五郎は平次の説明を引出しにかゝります。
「いや、薊の三之助を殺したのは幹助ぢやない。三之助はお艶を一枚繪に描かせる世話をしたので、それを恩に着せて口説き廻したことだらう、|||お艶はまた、綺麗に生れついたのが災難で、きりやう自慢が嵩じた果て、何んとかして自分を江戸一番の美人と言はせようと思つたことだらう」
「たいした望みですね」
「魔がさしたのだよ。そんなことで薊の三之助と
「この節の娘は物好きなんですね」
「ところが、下男幹助がそれに氣がついた。幹助は熊の子のやうに不意氣で
「ひどいことをやつたものですね」
「戀の怨みだよ、||其處へ、その晩も人目を忍んで、お艶の樣子を見ようとして來た、伊保木金太郎が通りかゝり、逢引の
「あとで綱の始末は?」
「多分、幹助に始末をさせたことだらう。その時手傳つて、馴れないお艶も、荒い綱で左手を
「あくる日の晩、伊保木金太郎を殺したのは?」
「お艶から金太郎へやる手紙をお六に頼まれたのは幹助だ。幹助は無筆と言つてゐるが實は
「ひどい野郎ですね」
「綱の始末をする時、幹助は裏木戸の鍵をどうして手に入れたか、そればかりはわからないが、多分晝のうちに錠前へ仕掛をして、與茂吉が鍵をかけたつもりでも、實はかゝらないやうに細工をしてゐたのかも知れない」
「へエ?」
「もう聽くことはないのか」
「あの娘はどうなるでせう」
「氣がもめるか、八」
「少しはね」
「きりやう自慢も、あそこまで行くと怖いよ。娘の綺麗なのは嬉しいことだが、江戸一番になりたかつたり、五人も六人も夢中になり手を拵へたりするのは、淺ましいことだな」
「一番馬鹿を見たのは養子の與茂吉で」
「いや、あれは馬鹿ぢやないよ。お艶の
「へエ?」
「一番氣の毒なのは和泉屋の
「それぢやあつしも、戀患ひだけはよしませうよ、||ちよいとやりたい氣になることもあるが||」
面白さうに笑ふ八五郎です。