「親分、大變ツ」
八五郎の大變が、神田明神下の錢形平次の家へ飛び込んで來たのは、その晩もやがて
「何んだ八、お前の大變も聞き
これから寢ようとしてゐた平次は、口小言を言ひながら
「それどころぢやありませんよ、大變も唯の大變ぢやねえ。お膝元の佐久間町で、花嫁が一人、
「よしわかつた。繩にも
平次は氣輕に支度をすると、八五郎と鼻面を並べて、夜の町を飛びます。
押し詰つた二十七日、寒空一パイに星を
「ところで、そんなに驅けて大丈夫ですか、親分」
「お前ほどは達者ぢやないが、あんまり寒いから、お
「佐久間町二丁目の伊勢屋、||親分も知つてるでせう、
「
「娘が二人、姉のお君に若い番頭の彌八を
「なるほど、それは大變だ」
「でせう。殺す相手に事を
八五郎はまた八五郎相應の義憤に燃えるのです。
暮の二十七日と言つても、眞夜中近い町々は、さすがにひつそり寢靜まつて、平次と八五郎の足音だけが、
佐久間町二丁目の伊勢屋は、物々しさにハチきれさうでした。恐怖と不安と
「これは、錢形の親分、飛んだお手數をかけます」
老番頭の品吉が、寒空の冷汗を拭きながら、よく禿げた頭を店口に持つて來ました。
「飛んだことだつたね」
平次は多勢の眼に迎へられて、明るい店に入りながら、一應八方へ氣を配つて見ましたが、唯もうこの事件に
「こちらでございます」
老番頭の案内で、二階家の奧、取澄したやうな六疊の間に平次と八五郎は通されました。其處には、
「ひどい事をするぢやありませんか、親分」
「傷は、左の首筋へ一カ所、||聲くらゐは立てられた筈だが||」
平次は死骸の傷口の、
「二階の騷ぎが大變で、聞えなかつたのかも知れません。何しろお開きになつた後まで、呑む方が殘つて、藝づくしまで始まりましたから」
椽側の暗がりから口を容れたのは、中年輩の夫婦者、それは當夜の
「私は小用に立つて、戻つて來るとこの有樣でございました。ほんの一寸で」
彌八は恐る/\顏を擧げます。
「刄物は?」
「それがその、床の間に置いた、私の
彌八は益々小さくなるのです。
「お前さんは、何んにも氣が付かなかつたのか」
平次は障子の外を覗くやうに、仲人佐兵衞に聲を掛けます。
「お盃事が濟んで、お二人を此處へ案内したのは私と女房と、下女のお富さんの三人。それからお二人を床に入れ、上からそつと押へて、私と女房は隣りの部屋へ引下がりました。暫らく樣子を見るのが、仲人の務めでございます。萬一に間違ひ事があつてはなりません」
「で、何事もなかつたといふのだな」
「あるわけもございません。今晩祝言したばかりの婿と嫁と申しても、同じ屋根の下に住んでゐて、氣心をよく知り合つた二人でございます。何んか、靜かに話し合うのを聞いて、私と女房は安心しきつてそつと二階へ戻りました。二階はまだ、呑めや歌への大騷ぎで」
「それつきりだな」
「暫らくすると、
「灯りは點いてゐたのか」
「
「その時彌八さんは」
「お孃さん||いや、嫁のお君さんを抱き起してをりました」
「外には」
「私が
仲人笹屋佐兵衞は斯う話し終つて、これも寒空に冷汗を拭くのです。
「親分、誰が斯んな
隣りの部屋||
その後ろから、そつと覗いてゐるのは、十七、八の娘、これはお君の妹で、お糸といふ評判の美しいのと||八五郎が囁きます。ちらと見ただけでも、非凡の綺麗さと、透き通るやうな清潔な感じの娘です。
「お内儀さん、お力落しでせう。ま、待つて下さい。下手人はこんな
「どうぞ、お願ひいたします」
「ところで、お内儀さん。お孃さんのお君さんは、今晩の祝言をどう思つてゐたでせう」
平次は場所柄も考えずに、突つ込んだことを訊ねます。
「それはもう、今日といふ日を待ち兼ねてをりました」
さう言ふお常の顏には、凄慘な空氣の
「彌八さんの方は?」
「この人も異存がある筈はございません。彌八は亡くなつた主人の遠縁で、十二の年から引取り、二十四の今年まで育てました。娘とは、主人が生きてゐる時からの
年の内に春が來て、十九の
その時、八五郎は、平次の
「お内儀さんと、お君さんは義理ある仲だと聞いたが」
八五郎の乘出すのを、眼顏で押へて、平次は斯う訊ねました。
「ハイ、それはもう、誰知らぬものもございません。お君は先の
この問題は、内儀のお常をひどく刺戟したらしく、顏を眞つ直ぐに擧げ、ピタリと膝に手を置いて、ハツキリ言ひきるのです。
「他に、お君さんには縁談などはなかつたのかな?」
「彌八と許婚といふことは、町内で知らぬ者もございません」
さう言へばそれつきりのことです。
平次は内儀との問答を切上げて、もう一度死骸を調べました。祝言の當夜と言つても、言はゞ奉公人の彌八との祝言で、お君の氣持にも充分の
「あ、口の中に、何んか入つてゐるぢやありませんか」
八五郎は目ざとくも何にか見付けた樣子です。
「噛み切つた夜具の袖の布だよ、||下手人はお君の
「これだけの
「いや、直ぐ夜具で押へたからたいしたことはあるまい。||兎も角、
「八、夜も更けたやうだ。手分けをして一人々々の話を聽いた上、兎も角も、一應歸すことにしようか」
「そんな事をしても大丈夫ですか」
「大丈夫とも、花嫁を殺すやうな人間は、身近なものでなきや、騷ぎに
「||」
「ほんの少しの
「さうでせうか」
平次と八五郎は、二つの
さて、多勢の客を歸した後で、平次と八五郎と老番頭の品吉は、店の隣りの、長四疊に
もう
「番頭さん、隱さずに話してくれ。本當に内儀さんとお君さんの仲は好かつたのか」
平次は靜かに、だが退つ引させぬ膝を進めました。
「それはもう、町内の評判でございました。八五郎親分も御存じでせうが、あんな仲の好い繼母に繼子といふものはございません」
「妹のお糸さんとは?」
「世間並の御姉妹でございます。いさかいをなさることもありませんが、それかと言つて、格別仲が好いといふわけでもなかつたやうで、氣風が違ひすぎましたから」
「どんなに違つてゐたのだ」
「お姉樣のお君さんの方は、まことにおとなしいが、根が確かりした方で。お妹のお糸さんは、氣性はさつぱりして居ますが、
「お君さんに言ひ寄る男とか、仲の好い男はなかつたのか、||彌八の外に」
「それはないとは申されません。これだけの
彌八の男つ振りは、平次も歎賞の眼で見ました。質、兩替の番頭といふよりは、歌舞伎役者にありさうな、柔かい
「立ち入つた話だが、お君さんと彌八は、祝言前から親しくしてゐたことだらうな。今晩のお客樣方も、前々から二人の仲を薄々知つてゐるやうだが」
「へエ、何分、お若い同士のことで」
老番頭は自分のことのやうに恐縮して
「ところで、この伊勢屋の身上は、お君と婿の彌八が、皆んな繼ぐことになつてゐたのか」
「それがその變なことで||」
老番頭は一寸言ひ澁りました。
「何が變なんだ」
「二年前に亡くなつた大旦那樣が、
「?」
大きい身上を二人の娘へ半分づつ分けてやるといふことは、この頃の町人には考へさうもないことです。長子相續といふ封建的なやり方が、家の財産を保護する上の、一つの道徳のやうに思はれてゐたのです。
「何んと申しても、お姉さんのお君さんは、今の御内儀の生んだ子ではなく、その方に
「成程ね、その遺言状は何處にあるのだ」
「何處かにあるには違ひありませんが、私共奉公人は拜見したこともございません。唯旦那樣の亡くなる少し前、私と御内儀を枕許に呼んで、妹娘のお糸が可哀さうだから、有金、地所、家作など身上は半分わけてやり、店の
それは後添ひの女房に對する、主人忠右衞門の氣兼ねであつたにしても、世間にはよくある例の一つでした。
「その妹のお糸さんには、まだ縁談の口などはないのか」
「あの通りのごきりやうで、隨分人樣に騷がれますか、まだ定まつたお話はないやうで。何んと申しても十七では」
老番頭は斯う言ひきるのです。
その時、二階の方から、騷がしい人聲が聞えます。何んとはなしに聞き耳立ててゐた八五郎が、
「親分、見付かりましたよ」
深夜の家中を掻き立てるやうに
「どうした、八」
「刄物が見付かりました」
平次も腰を浮かしました。
「二階の窓の下の
「どれ」
八五郎が持つて來たのは、
「あれは、誰の品だ」
「今夜の
「誰が見付けたんだ」
「小僧の佐吉が、彌八どんに言ひ附けられて、雨戸を締めようとして、屋根の上に光るもののあるのを、見付けたんださうです」
「二階の窓から捨てたのかな」
「そんなことでせうね」
「何んだつて死骸の側に捨てて來なかつたんだ」
「さア、其處まではわかりませんね、下手人に訊かなきや」
ケロリとして、斯んな呑氣なことを言ふ八五郎です。
平次が明神下の自宅へ歸つたのは、もう曉方近い頃。一と寢入りして起きるともう晝近い日射しで、お勝手口へは、疲れを知らぬ八五郎がやつて來て、平次の戀女房、何時までも若々しいお靜と何にか話してをります。
「何んだ、もう八が來てゐるのか」
「お早やう||と言ひてえが、もう晝ですぜ、親分」
「それを言ひたくて來たんだらう。まア這入れ、豆ねぢで朝茶でも入れよう」
「ところで、面白いことを聽きましたよ」
「何にか、新しい聽き込みでもあつたのか」
「殺されたお君の産みの母親がわかつたんで」
「フーム、誰だえ、それは」
「三味線堀の手踊りの
「フム、十八、九年も前の話だな、俺達が知らねえわけだ」
「伊勢屋を追ひ出されてから、紀久榮のお菊は川崎あたりへ流れて行き、十五、六年も姿を見せなかつたが、伊勢屋の主人忠右衞門が死ぬと、娘の顏でも見たくなつたのか、手踊りの師匠に化けて三味線堀に住みつき、それからもう一年くらゐになるといふことですよ」
「亭主はないのか」
「伊勢屋を追ひ出されたのは、男のもめ事だつたといふから、いづれ筋の良くねえヒモが附いて居たんでせうが、その男とも死に別れたらしく、近頃は一人つきりで居るさうです。
「フーム、逢つて見たいな」
「放つて置いても、向うからやつて來ますよ。今朝あつしが乘込んで行つてお君が殺されたことを話すと、目を廻して内弟子に
「よく手の廻ることだな」
八五郎のこの報告は、事件の解決に一つの
「お客樣ですが」
女房のお靜が、師匠の紀久榮を取次いだのは、それから間もなくでした。
「親分さん、お初にお目にかゝります」
入口から見透しの六疊ににじり入つて、
「お師匠は、昔伊勢屋のお内儀さんだつたさうだね」
平次も居住ひを直しました。
「何も彼も八五郎親分からお聽きのことと存じますが||」
「昔の話で、この私も知らないが、何んだつてまた、お前はあの結構な家を飛び出したんだ」
「若氣の
「と、いふと?」
「私には伊勢屋へ嫁入りの前から、男があると||伊勢屋の方では申すのです。そりや一人や二人、親しく口をきいた男がないでは御座いません。その中には私の嫁入り先まで附き
「お前さんにも
「
「で、お前さんは、どんな用事で私のところへ來なすつたのだ」
平次は少し開き直りました。紀久榮の調子から、何んか斯う激しいものを感じたのです。
「娘の敵を取つて頂きたいのです、親分」
紀久榮は到頭
「そいつは無理だよ。私にはまだ、お前さんが生んだといふ、あのお君さんを殺した下手人がわからないので」
「そんなことはございません。錢形の親分さんにはとうにわかつてゐる筈です」
「いや、それは無理だ。俺には何が何やら、少しもわかつては居ないのだ」
「錢形の親分さんに、わからない筈はございません。私の娘お君を殺したのは、伊勢屋の
「女?」
「伊勢屋の後家のお常さんに間違ひはありません。お君をさへ殺してしまへば、伊勢屋の大きな身上は、自分の生んだ、お糸といふ娘に、間違ひもなく轉げ込んで來るぢやありませんか」
紀久榮はグイと膝を乘出します。
「そんな手輕な推量、人殺しの下手人は
「そんな事を仰しやるけれど、あの女は狐のやうに
紀久榮の聲は次第に
「ま、ま、師匠、さう夢中になつちや」
八五郎は立ち上がつて留めました。が、その丸い肩に載つた手は、
「錢形の親分は、もう少し物の道理のわかつた人かと思へば、何んだえ、これ程わかりきつた惡人を縛らなきや、十手捕繩は、
「師匠、無理だよ、お前さんは」
「止しておくれ、畜生ツ」
後ろから抱きしめた八五郎は、踊りのこつで身體を一つ揉むと、見事に前に泳がされてしまひました。
「あツ、危ないよ、師匠」
「何を言つてやがんだ、女の子に抱き附いて役得の氣で居やがる」
「女の子も四十幾つとなれば、抱附きばえもしないよ。まア、氣を
「そんな申しわけや逃げ口上を聽いてゐられるものか。伊勢屋の身上に恐れて尻尾を卷くやうな岡つ引に用はない、娘の敵は私が討つから覺えて居やがれ」
十七年前に

「お師匠さん。待つて下さいな、お師匠さん」
後から追つて行くお靜、手には
「八、あの女を見張つてゐろ。半氣違ひになつて居るから、何をやり出すかわからない」
平次は八五郎を
半日八方に飛び廻つた八五郎は、平次のところで腹を拵へて、
「八、お客樣だよ」
「へエ?」
「女のお客樣だよ」
叔母さんの聲は妙に
「そんな筈はないんだがなア」
「お前に覺えがないのに、若い女が夜中ノコノコやつて來るものか。下でうんと
「狐と間違へてやがらア」
八五郎は苦笑しながら、馴れた梯子を足早に驅け上がりました。二階は
が、
「お前は?」
「八五郎親分、お待ち申して居りました」
「あ、伊勢屋のお富さんか。恐ろしく尋常だぜ、
顏を擧げたのを見ると、まさに顏見知りの間柄。
「濟みませんね。でも、私は是非八五郎親分に聽いて頂きたいことがあつたんです。伊勢屋の方は人目が多いし、散々迷つた末、お湯へ行くことにして、此處までやつて來ました。惡く思はないで下さいね」
ちよいと首を曲げて
「何を話したいといふのだ。聽かうぢやないか、え?」
八五郎はその前へ、火鉢を挾んで
「ま、そんなに開き直られると、うつかり
「?」
八五郎は
「ね、八五郎親分、驚かないで下さい。私は母親の代から伊勢屋に奉公して、何も彼もあの家のことを知つてをります。母親は五年前に
「どんな事を打ち明けたといふのだ」
「早い話、殺されたお君さんは、伊勢屋の本當の子でないと言つたことなど」
「な、何んだと」
「ね、驚くでせう。伊勢屋の先の内儀はお菊さんと言ひましたが、伊勢屋に嫁入りする前から、深く言ひ
「フーム」
「でも、それが世間に知れると、伊勢屋の
「それは知つてる」
「まア、さすがは御役目柄ね」
「それからどうした」
「大旦那樣が死ぬ時
「||」
八五郎も默り込んでしまひました。この女は思ひも寄らぬ事を知つてをりますが、それにしても何んの目的があつて、斯んな事を教へに來たのでせう。
「大旦那樣が亡くなつてしまへば、お内儀さんとしては、何處の子か
「ぢや、お前は、お君さん殺しの下手人は、伊勢屋の内儀だと言ふのか」
「飛んでもない、私はそんな事を言ひに來たわけぢやありません」
「では?」
「八五郎親分に、手柄をたてさせたいばかり。まア、これほどの氣持がわからないのかねえ、親分」
お富は何時の間にやら火鉢の角を廻つて、八五郎の側にピタリと寄ると、肩に
「八や、茶を上げなよ」
「へツ」
顏を擧げると、あのミシミシする
「びく/\しなくたつて宜いぢやありませんか、話はこれからが大事」
「よし、性根を据ゑて聽かう。それからどうしたといふのだ」
八五郎はお茶盆を引寄せて、照れ隱しに澁いのをガブリとやりました。
「お君さんが伊勢屋の子でないといふことは、皆んな知つてるわけではなく、お内儀さんと番頭さんと、お糸さんくらゐは知つてる筈です。でも、その中でも、自分に轉げ込んで來る伊勢屋の大身上を半分横取りされる上、何年越し戀ひ
「誰のことだえ、それは?」
「まア、八五郎親分の察しの惡い。手代の彌八の男つ振りに、心も身も打ち込んで、火のやうに焦れてゐるのは、妹のお糸さんぢやありませんか。あの人はもう十七、子供ぢやありませんよ。それどころか、氣の多い彌八どんは、間がな
「そんな馬鹿なことが」
「これが馬鹿なことでせうか、妹のお糸さんの方は、姉のお君さんの、百層倍も綺麗なんですもの。浮氣な彌八が、何時までも眺めて居る筈はありません」
「それぢやお前は、あの可愛らしいお糸さんが、姉殺しの下手人だといふのか」
「言やしませんよ、私はお奉行でも岡つ引きでも何んでもないんですもの。唯、ちよいと、八五郎親分の手柄になつて、人一人蟲のやうに殺した、||何んとか言ひましたね、それ、外面如菩薩内心如夜叉の下手人が縛られたら、さぞ
お富の
「八、もう遲いよ。明日の御用に差支へないのかい」
「あれ、叔母さんが氣を揉んでるぢやありませんか。||いつそのこと、此處へ泊つて行かうかしら。ね、ね、八五郎親分」
「冗談言つちやいけねえ、布團は一と組しかないぜ」
「まア嬉しい」
いきなり八五郎の首つ玉に
「覺えていらつしやい。若い女に恥を掻かせたわねえ、フ、フ、フ」
含み笑ひが木枯しを縫つて、町の向うへ消えて行きます。
「八、
翌る日の朝、平次の方から、向柳原の八五郎の巣へ聲を掛けたのです。年の暮によくある素晴らしい冬晴れ、江戸の町は、少し高いところへ登ると、坂の上からでも、火の見
「へエ、叔母さんにうんと
八五郎は
「あの娘はなか/\のきりやうぢやないか。松葉燻しにされちや、お富の方が役不足を言ふだらう」
「あつしもさう思ひますがね。叔母さんと來たら、色つぽい娘が大嫌ひで」
「お前とあべこべだ」
「ところで、今朝は何處へ行くんです。||實はあつしの方にも、ちよいと心當りを搜つて見たいところがあるんですが」
八五郎は路地の外に足を淀ませました。
「わかつて居るよ。叔母さんの眼の光らないところで、伊勢屋の下女のお富に逢つて見たいといふ下心だらう」
「どうしてそんな事が」
八五郎は
「わかるぢやないか。
「でも、あの女は何んか大變なことを知つてるに違ひありませんよ。先代から母娘二代の奉公人だつていふし」
「わかつてゐるよ。あの女が夢中になつてゐるのは、お前ではなくて好い男の
「へエ、そんなわけはないんだが」
「いづれ伊勢屋へも廻つて見るが、その前に一寸、三味線堀の師匠に逢つて行きたいのさ。附き合つて見るか、八」
二人はそんな事を話しながら、三味線堀の師匠の家へやつて參りました。
小女に取次がせて、二人の顏を見ると、師匠の紀久榮は昨日の劍幕とは、打つて變つた愛想のよさです。
「ま、錢形の親分。もうお目にかゝれないかと心配をしてをりましたよ。昨日はすつかり
「いや、飛んだお邪魔をするぜ、師匠。昨日の劍幕ぢや、今日は噛みつかれるのを覺悟でやつて來たが」
「ま、親分」
「風向きが變つて何よりだ。ところで、打ちとけて師匠に訊きたいことがあるんだ。隨分突つ込んだ話だから、斯んなことを言つたら、又腹を立てられるかも知れないが、これも伊勢屋のお孃さんを殺した相手を搜し出して、師匠に敵を討たせたい一心からだと思つて、このことばかりは嘘も隱しもなく、正直
「それはもう、親分。娘の敵が討てるものなら、どんな事でも」
紀久榮は膝を乘出すのです。昔は
紀久榮は小女を外へ出して、座に戻つて來ると、さてと改まるのです。
「外でもない、||これは人から聽いた、ほんの噂なんだが、師匠は二十年前に伊勢屋忠右衞門のところに嫁入りして、娘のお君を生んだのは、その翌る年の夏、
「それですよ、親分」
紀久榮はこの恐ろしい問ひに對しても、
「ま、聽いてくれ。お君さんが月足らずの兒とわかつて、師匠が伊勢屋に居にくゝなり、嫁入り前からの男があつたとかで、それと一緒に、到頭飛び出したか追ひ出されたか、生れて間もない娘のお君さんを殘して、大阪とかへ駈落ちをした||と聽いたが、それは本當かえ。何しろ二十年も前の話で、俺も見當はつかねえ」
それはその頃の女に取つては、致命的な問ひでした。平次の言つたことが皆んな本當なら、紀久榮のお菊は伊勢屋に對して、何んの權利もなく、今更文句を言へた義理でもなかつた筈です。
「親分、私もその言ひ譯がしたいばかりに、二度目の亭主に死に別れると、恥を忍んでこの土地に舞ひ戻り、伊勢屋の居廻りをウロウロして、
「||」
「聽いて下さいな、親分。私の生んだお君は、間違ひもなく、嫁入りしてから丸九ヶ月以上も經つた兒、その間に
「||」
「一體、腹の中の兒は
「そんなわけがあるのに、どうして師匠は、他の男と大阪などへ突つ走つたのだ」
「死んだ人の惡口になりますが、伊勢屋の旦那には、私が嫁に來る前から、言ひ交した女があつたのです」
「何んだと」
「その女といふのは、今でも伊勢屋に下女奉公をしてゐる、お富の母親、お徳と言ひました。二人は二、三年前からの仲でしたが、若旦那の
「それから」
「亭主に死に別れて、昔戀しさにこの土地に舞ひ戻り、三味線堀に住みついたのは二年前。幸ひ伊勢屋の旦那に逢つて、昔のことを散々詫びもし、娘の行末も頼んだとき、伊勢屋の旦那は、『よしわかつた。お前も
「||」
「これだけ深いわけを聽いたら、親分だつて、私の娘のお君を殺したのが、誰だかわかりさうなものぢやありませんか。ね、親分」
「敵は取つてやるが、||さう手輕にきめてしまつては、俺の役目が勤まらねえよ。ところで、二十年前の下女のお徳には子供があつたと言つたが、それが今のお富か」
「それは私にもわかりません。一度や二度はお徳の娘といふのを見たこともある筈ですが、二十年も前のことですし、その頃お徳は隣り町に
「それも調べさへすればわかることだらう。イヤ、飛んだ邪魔をしたね、お蔭でいろ/\の事がわかつたよ」
平次は八五郎を
「親分、こいつは矢張り、あの尤もらしい内儀が、繼娘殺しの下手人ぢやありませんか」
道々、八五郎は、何やら考へ込んでゐる、平次の氣を引いて見るのです。
「それは、わからねえよ。師匠の言ひ分を、そつくりその儘受取ると、下手人は繼母のお常さんといふことになるが、あの内儀は見かけは
「さうでせうかね」
「あの内儀は、生涯人に文句を言はせない女だよ。お君の氣持を察して手代の彌八と一緒にしてやり、遺言状を破りも燒きもせずに||おや、俺達はその遺言状をまだ見なかつた筈だね」
平次は急に道を變へて、佐久間町二丁目の伊勢屋に向ひました。
「へツ、あの娘は眼が早い。裏口から顏を出して、ニツコリしてゐますぜ」
「何んだ、下女のお富か。デレリとしてゐると、又叔母さんに
平次と八五郎が、わざと店口を
「ま、親分さん、店から入つて下されば宜いのに」
などと丁寧に迎へてくれました。
取つ付きの四疊半に通された平次は、
「内々で少し訊きたいことがある。お内儀さんだけ殘つて下さい」
番頭とお富を追つ拂つて、その足音の遠のいた頃、靜かに口をきりました。
「ところで、あの晩は聽き落したが、先代の忠右衞門旦那の書いた遺言状、||この家の身上を、娘二人に半分づつ分けてやるといふ書面は、お内儀さんの手許にしまつてあることでせうな。それを一寸見せて貰ひたいのだが」
平次は切り出します。
「困つたことに親分、それが見えなくなつてしまひました」
「どこで、何うして?」
「あの晩、||お君の部屋で」
「それは?」
平次もあまりのことに、暫くは二の句が繼げません。
「聽いて下さい、親分さん。私はあの遺言状を、身に代へて守り通しました。私とは
「||」
「あの晩、私の役目も濟んだやうな心持で、三々九度の盃の後で、父親の遺言状を、娘のお君に手渡し、『私はもう、これで隱居をする氣持だから、この遺言状を、明日とも言はず、今夜のうちに
「||」
「あの騷ぎのあと、遺言状は何處へ行つたか見えなくなつてしまひました。死んだ娘が隱す筈もなく、||婿の彌八も一向知らないと申します。これは一體、どうしたことでせう、親分」
「念入りに搜したことだらうな」
「それはもう、あの部屋は申す迄もなく、家中
「ところで、遺言状がなくなれば、この身上はどういふことになります」
「遺言状があつてもなくても、私の心持に變りは御座いません」
「遺言状の通り運ぶにしては、お君さんが
「||」
内儀のお常は默つてしまひました。
「兎も角、遺言状は何處からか出て來ることでせう。今となつては、お糸さんの他に、跡取りはないのだから」
「さうでせうか、親分」
「ところで、もう一つ訊きたいが、下女のお富のこと」
「||」
「あの女の母親のお徳といふのは、もと伊勢屋に奉公したことがあるさうぢやありませんか」
「それは私もよく存じてをります」
「亡くなつた主人と好い仲になり、子供まで出來たといふことだが、それがお富ではなかつたのかな」
「さア、その邊のことは私にもわかりません。二年前に亡くなつた主人の忠右衞門も、それを氣にしてをりました。お徳といふのは心掛けのよくない女で、誰の子ともわからぬ娘のお富を、主人の子といふことにして、押しつけようとしたのではあるまいかと、
お常は斯う行屆いたことを言つて、靜かに
「おや、お富さん、八五郎が何んか用事があるさうだよ」
「あら、さう、嬉しいわねエ」
さう言つて、一陣の
「へエ、何んか御用で?」
中肉中背で、あまり陽に當らない蒼白い顏もお
「あの晩のことをもう一度
「へエ、お内儀さんからも、お君さんからも、さう聽いてをりました」
「その遺言状はどうなつたのだ」
「枕許の
その時のお君の死を見た驚きを思ひ出したのか、心持顏が
「すると、遺言状の中は一と眼も見なかつたわけだな」
「見る前にあの騷ぎで、氣の付いたのは大分經つてからでした。はつと氣がついて小箪笥の上を見ると、何んにもありませんでした」
「その時、多勢の人が部屋の中へ入つてゐたあとだらう」
「私が大きい聲を出すと、皆んないつぺんに入つて參りました。||尤もお君さんの死んでゐるのを見て、私も氣が
「部屋へ入つたのは誰が先だつた」
「最初はお内儀さんで、次はお富どんのやうに思ひます。それからお糸さんに、
それが後から
「ところでお前さんは、一番ひどく血を浴びてゐたさうだが、俺が此處へ來た時は、平常着に着換へてゐたやうだね。他の人は多かれ少なかれ、血だらけになつてゐたと思ふが」
「それが私の性分でございます。
「もう一つ訊きたい。これは突つ込んだ話だが、||お前さんは、殺されたお君さんより妹のお糸さんの方が好きだつたさうぢやないか」
「||」
「こいつは大事なことだが」
「そんな事も申し上げなきやなりませんか」
「是非打ち明けて貰ひたいな」
「でも、私は奉公人でございます。十何年もお世話になつた」
恐ろしい屈從です。その
「その癖お前は、下女のお富などにちよつかいを出したのはどういふわけだ。あれは義理も何んにもなかつた筈だぜ」
「||」
平次の容赦のない言葉に、彌八はハツとうな垂れました。眞つ向
「忠義面もほど/\が宜いぜ。姉妹三人に手を出して、兼合ひの色事を樂しむなんざ、よくねえ心掛けだ」
「||」
平次は默つて立上がりました。いかにも胸が惡さうです。
「親分、下手人の見當はつきましたか」
其處へヌツと顏を出したのは八五郎でした。
「まるつきりわからねえのさ」
「あの野郎ぢやありませんか」
八五郎の長い
「いや、そんな氣もするが」
「ちよいと小耳に
「あれは男つ振りが良過ぎるよ。飛んだ罪をつくるわけさ」
「あつしとは大變な違ひで」
「遠慮するなよ、お前の方が好いといふ人もあるぜ」
「有難い仕合せで」
それから平次は八五郎を助手に、家の中から庭へ、精一杯調べ始めました。が、平次が搜してゐた、先代伊勢屋忠右衞門の遺言状は何處にも見えず、彌八を始め奉公人達の荷物の中にも、何んの
「親分、あつしは矢つ張り、養子の彌八が、下手人のやうな氣がしてなりませんが||」
二階の方を調べてゐるうち、人の姿のないのを見すまして、八五郎はそつと平次に囁きます。
「お富がさう言ふのだらう」
平次は先を潜りました。
「お富は、下手人は妹娘のお糸に違ひないといふんです。でもあの可愛らしい小娘を見ちや、縛る氣がなくなりますよ」
「どうして、お富はお糸が下手人だといふのだ。證據でもあるのか」
「證據は山ほどあるんださうで。第一に、お糸は姉のお君が
「それは誰が言ふんだ」
「お富の言ひ
「首つたけは彌八の方で、お糸は氣のない顏をしてゐるぜ。何んと言つても、まだ十七だから」
お糸の清らかな美しさが、平次の眼にも申し分なく可愛らしく映つてゐるのです。
「それから、先代の遺言状も、お糸が持つてゐるに違ひないと言ふんで」
「はてね」
「姉のお君への嫌がらせに、新夫婦の部屋へ忍び込んで盜んだか||」
「そんな事は出來なかつた筈だ。現に彌八は小用に立つ前には、
「でなきや、騷ぎの後で多勢飛び込んだ時、そつと隱したに違ひないと」
「それは出來ないことではあるまいが、姉のお君が死んでしまへば、伊勢屋の身上は、嫌も應もなく丸ごと妹娘のお糸に轉げ込むのだから、父親の遺言状などを隱すのは、馬鹿氣たことぢやないか」
「其處がそれ、女の淺ましさで」
「淺ましさなら、お富の方がどうかして居るよ。嘘だと思つたら、あの色つぽい年増のお富と、
「さう言へばさうかも知れませんね、||兎も角お富は、お糸さんに直々話し込んで、今晩のうちには、遺言状を取り上げて見せると斯ういふんです」
「まあ、當てにしない方がよからう」
調べは綿密に進みました。が、番頭の品吉が、しこたま溜めてゐた外には、何んにも變つたことがなく、平次の骨折りも、全くの徒勞になつたかと思つた時、
「親分、妙なことに氣がつきましたが」
八五郎はまた題目を出しました。
「何んだ、八。お糸が
「いえ、若しかですね、妹のお糸も内儀のお常も下手人でないとすると、外にあの部屋へノコノコ入る奴もない筈だから」
「ひどく手輕に片付けるぢやないか。世の中にはお前のやうなたしなみの良い人間ばかりはないぜ」
「でも、花嫁花婿の
「お前が遠慮するくらゐだもの、誰が入るものか」
「だからあつしは、下手人は思ひも寄らぬ人間、お君さんなどを殺しさうもない人間で、あの部屋に平氣で居られる奴に違ひないと思ふんですが」
「早い話が、その晩の婿の彌八が、花嫁を殺した下手人だ||とお前は言ひたいんだらう」
「圖星ツ、
「お前が考へるほどのことを、俺が知らずにゐると思ふか。俺は、あの晩現場を見た時から、それを考へてゐたよ」
「それぢや、どうして」
「彌八を縛らないか||といふのか。お君を殺した脇差が、婿の彌八の婿入り道具だつたんだ」
「そんな事だつてあるぢやありませんか。わざと自分の脇差で殺して、疑ひを他へ向ける
「ところで、その脇差が、二階の窓外の
「嫁のお君を殺して置いて、直ぐ
「良い
「へエ」
「その上、庇の脇差は、投り上げたのでなくて、上から滑り落したのだ。二階の窓の敷居に、少しばかり血が付いてゐるし、屋根のトントン
「へエ、成程ね」
「ほかに、彌八に疑ひがあるのか」
「お君を抱き起して、血だらけになつた彌八が、それから間もなく、あつしと親分が來た時は、もう手足も綺麗に洗つて、
「俺も、それを變に思つたから、彌八に訊いて見たよ。すると、彌八は自分で『私は
「へエ、圖々しい野郎で」
「ところでな、八。お前には覺えのないことだらうが、人間が甘く出來てゐて、男つ振りだけが好い若いのは」
「さう言はれると、あつしにも覺えがありさうで」
「まア聽け、あの彌八のやうな人間は、たしなみが良いと言へばそれに違ひないが、どんな騷ぎの中でも、身づくろひだけは忘れないものだよ。男つ振りが何よりの身上だから、長い間の馴れやうで、何時でも、どんな場所でも、身綺麗にはしてゐるものだよ」
「成程ね」
「花嫁が殺された後、うつかりすると自分に疑ひが來るかも知れない中でも、血だらけになつた着物を脱いで、眞新しいものと着換へることは、少しも不思議ぢやないかも知れないのだよ」
「へエ、そんなものですかね。あつしなんかは、生れ變つても色男にはなれつこはありませんね」
「まア、諦める外はあるまいよ」
二人の調べも話も、それでおしまひになりました。そして平次は、八五郎だけを伊勢屋に殘し、何やらくれ/″\も言ひ
明日は
「お、
八五郎は
「待つて居たよ、八。其處を開けて入るが宜い」
平次の聲を聞くと八五郎は急にいきり立ちます。
「あんまり寒いから、もう向柳原へ歸つて寢ようと思ひましたがね」
「まア、寢るのは夜が明けてからでも
「何んにもありませんよ。少しなさ過ぎましたよ。お糸坊はチンマリと綺麗に
「お前は若い女のことばかり氣にしてやがる」
「それから親分に頼まれた、あの晩の人の動きを、事細かに訊き出しましたが、何しろ祝言の後の酒盛りで、まるで人間が
「内儀は何處に居たんだ」
「少し離れた自分の部屋に、妹娘のお糸と一緒に、疲れきつて横になつてゐたんですつて」
「フーム」
「それから、腹の立つのはあの野郎ですね」
八五郎はまた、妙な事を思ひ出した樣子です。
「何をまた腹なんか立ててゐるんだ」
「あの色男野郎の彌八ですよ。許嫁のお君が殺されて三日目、
「相手はまさか、お糸ぢやあるまいな」
「お富の
「||」
平次は何やらひどく驚いた樣子です。
「その上惡いことに、二人の話を聞いたのは私ばかりぢやなく、もう一人女の人が||誰ともわかりません。お富と彌八が向うへ行くと、チラリと動いて何處かへ消えてしまひました。樣子合ひでは若さうで綺麗で、どうも妹娘のお糸さんぢやないかと思ふんだが」
「そいつは大變なことになるかも知れない。今は何刻だ」
「先刻
女房のお靜は隣りから聲をかけました。
「それぢや一と走りだ。八、酒も用意してあるが、歸つてからにしよう」
「へエツ、お預けか」
さう言ひながらも二人は、もう霜夜の街を、佐久間町へすつ飛んでをりました。
「あ、親分。ありや火事ぢやありませんか」
「佐久間町二丁目か、あの見當だ。八、急げ」
「一體これはどうした事でせう、親分」
八五郎はスタートに並んだまゝ、鼻ばかりふくらませてをります。
「さア、わけは後で話す。手つ取り早く言へば、お君殺しの下手人は、お前がひいきのお富だよ」
「エツ」
二人は眞に
鳶の者と彌次馬と、近所の衆とが力を
「お富は、お富は?」
平次は斯う言ふのが精一杯です。
「居ない。何處へ行つたんだ、お富は」
その間に町の人達が驅け付け、物置一つを燒いただけで、火は漸く消しとめましたが、驚いたことに物置の蔭の、土藏と接した少しばかりの空地に、手代の彌八が、紅に染んでこと切れてゐたのです。
翌る日、お富の死骸は兩國の
× × ×
曉方近い街を、明神下の家に
「お富は伊勢屋の先代の
「恐ろしい女ですね」
「その時、これも口惜し
「あんな顏をして居て、惡い女ぢやありませんか」
「いや、惡いのは先代の伊勢屋と、手代の彌八だ。金のあるに任せて女を
「あつしなどは極樂行の方で」
「それもこれも親の恩だと思へ」
二人は聲を合せてカラカラと笑ふのでした。