春の夜である。
今、活動がハネたばかりで、人浪は、帝劇から丸之内の一角を通つて、銀座につゞく。
「一寸、つき合へよ、アロハ・オエを一枚買つて行くんだ」
三人連れの海軍青年士官の
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春の夜の、コンクリートの建物の並んだ、丸之内の裏通りのごみ箱一つ見えない、アスフアルトの往来に、ふと、野菜サラダのにほひを感じたと芥川龍之介は書いてゐる。
この通りには、ところどころに西洋料理店はあるし、大方は、地下室が、料理場になつてゐて、ほ道とすれ/\に通風窓があるから、野菜サラダだらうが、かきフライであらうが、鼻が悪くない限りごみ箱を連想し、その所在を気にせずとも、それより遙に新鮮なにほひを感じるのは当然である。
当時、このあたりに洋食屋が一軒もなかつたと、好意的に解釈するとして||
今僕の前を行く、これも帝劇の帰りの慶応の学生も、洋食に関して極めて博学を示してゐる。
「日本の海老はラブスターとは、いはないんだね」
春の夜の丸之内の裏通りに、ふと洋食を感じるのは、どうやら春の夜の定式らしい。
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相似形的二重露出
曇天の、丸ビルは大きな水さうに似てゐる。中に、無数の目高が泳いでゐる。
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丸ビルは、とても大きい愚鈍な顔をしてゐる。
殊に、夜が明けてから、朝のラツシユ・アワーになる迄の数時間の表情と来ては、早発性痴ほうよだれだ。よだれは敷石をぬらしてゐる。
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ドーナツツに穴のある様に、もつと現実的にいつて、便所の防臭剤に穴のある様に、丸ビルの内側にも、通風と採光の穴があいてゐる。
丸ビル、八階||
窓、窓、窓、窓、東向き||
一階、コーヒーを沸してゐる。
二階、女店員とコンパクト。
三階、ポマード頭。
四階、ヨーヨーをしてゐる。
五階、ヨーヨーをしてゐる。これはニウトンの戸惑ひをした表情だ。
六階、丁字形定規が動いてゐる。
七階、空室。
八階、窓硝子をふいてゐる。陸のカンカン虫。
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窓、窓、窓、窓、南向き||
一階、飯びつが乾してある。
二階、狸が狐を背負つてゐる。美容院。
三階、タイプライターをたゝいてゐる。
四階、手巾が乾してある。
五階、泣いて文書く人もある。これはうそだ。給仕が靴を磨いてゐる。
六階、盛に、お辞儀の連発だ。あれは借金の言訳をしてゐる。
七階、途端に、サイレンが鳴つた。
午砲のサイレンに変つたのは偶然ではない。これはまだしも空き腹に、応へない。
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この界わいの、ビルデングのボイラーたきは大方、らんちうを、その屋上に飼つてゐる。
暖かくなつて、ボイラーの方が暇になると一方は、食ひが立つて急がしくなる。
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極めて早朝、この界わいを、神田あたりの店員が、皆ユニホームを着て、皆自転車に乗つて、日比谷あたりに野球の練習に通るのを見かけたことがある。
これは僕の見た都会の情景の中での、好ましいものの一つである。
(「東京朝日新聞」昭和8年4月21日朝刊)