墓地へゆく道は、ずっと国道に添うて走っていた。その目的地、つまり墓地に達するまで、ちっとも国道を離れずに走っているのである。その道のもう一つの側には、まず人家がある。郊外の新築の家々で、まだ職人の入っているのもある。それから畑が来る。
それは春だった。もうほとんど夏だった。世界は微笑していた。ひろやかな青大空は、一面に小さいまるい濃密な雲の断片で
国道には馬車が一台、隣村から町へ向って静かに走っていた。馬車の片側は鋪石のある上を、片側は鋪石のない上を、半々に進んでゆく。馭者は両脚を
墓地へゆく道のほうには、たった一人の男が歩いているだけである。ゆっくりと、うなだれて、黒い杖にすがりながら歩いている。この男はピイプザアムあるいはロオプゴット・ピイプザアムと呼ばれる。そのほかに名はない。ここにこうして名前をはっきりことわっておくのは、今にこの男が、すこぶる変った振舞をするからである。
男は黒いなりをしている。愛する者たちの墓に詣でる途中なのである。けば立ったいびつなシルクハット、古さで光っているフロックコオト、きちきちでつんつるてんのズボン、それからはげちょろけた黒の革手套を着けている。頸は、大きな喉仏の飛び出た細長い頸は、ささくれた折襟から、にゅっと突き出ている。まったくこの襟は、もう折り目のところがもじゃもじゃになっているのである。男は時々、墓地までまだどのくらいあるか見ようとして、頭を挙げる。するとそのたびにあるものが見える。一種異様な顔が、確かに一度見たら、ちょっと忘れられない顔が見えるのである。
きれいに剃ってあって、色は蒼白い。が、くぼんだ両頬の間には、さきのほうで瘤のようにまるくなった鼻が隆起していて、思いきり、不自然なほど赤く輝いている。しかもおまけに、一面にぶつぶつした腫物が||不健康なできものがあって、それがこの鼻に変態な空想的なおもむきを与えている。実際この鼻は、その真赤な輝きが、顔面のくすんだ蒼白さと、きわどい対照をなしているせいで、なんだか嘘のように思われる。描いたもののように見える。どうも取ってつけたような、仮面の鼻のような、陰気な洒落のような観がある。だが、もちろんそんなわけではないのである。||男は口を、両端の垂れ下った大きな口を、固く結んでいる。それから、上を向く時には、きまって
ロオプゴット・ピイプザアムの姿は、どうも嬉しそうではない。この朗らかな午前には、ちっと釣合いかねるし、また愛する者たちの墓を訪う人として見ても、あんまり陰気すぎる。しかしこの男の内心を見たら、こんな様子をしているのもまったく無理はないと、誰だって思うに違いない。この男は少しつらい目に逢っているのだ。ええ?||どうも君たちのように陽気な人たちに、こういうことをわからせるのはむずかしいな||つまり少し不仕合せなのだね。ちっとばかり虐待せられたのだ。ああ、ほんとうをいえばちっとやそっとではない。うんとひどくなのだ。この男は誇張なしにみじめな境涯にいるのだ。
第一に彼は飲む。が、まあそのことはもっとあとでいおう。第二にやもめで孤児で、世の中からまるで見離されている。愛してくれるものが、この地上にただの一人もないのである。旧姓をレエプツェルトといった細君は、半年ばかり前、子供を産むと同時に拉し去られた。それは三番目の児だったが、死んで生れたのであった。ほかの二人の子供も
以前にはピイプザアムも、その情熱に少しは敵対することができた。もっともときおりは、ひどくそれに耽ったこともあるが。しかるに細君も子供もうばい取られて、杖も柱もなく、孤影悄然として独り地上に立つことになると、あの悪徳は彼の上に君臨して、魂の抵抗を次第次第にくじいていったのである。ピイプザアムはある保険会社に勤めていて、筆耕に毛の生えたくらいの役をしながら、まさに九十マルクの月給をもらっていた。ところが、責任を負い得ぬような状態の時に、とんでもない失策を招いて、幾度も幾度も戒告を受けた末、とうてい長くは信用の置けない人間として、
こんなことの結果が、決してピイプザアムを、道徳的に高めることにならなかったどころか、彼が今やまったく破滅の中に陥ってしまったのは、明らかである。つまり、不幸は人間の品位を殺すものだということを、君たちは知っておかなければならない||こういう事柄に多少の洞察を持つのは、ともかく悪いことではないからね。ここには、特殊な戦慄すべき事情がある。人間は、自分自身に向っていくら自分の
サッドルにまたがっているのは、若い男である。少年である。気楽そうな遊覧者である。いや、彼は決して、この世の偉大な華々しい人たちの中に数えられたいというような望みなんぞ、なにも抱いているわけではない。彼の乗っている車は普通の品で、どこの工場でできたものやら、値は二百マルクで、まったくいい加減に買ったものである。そうして今彼は、その車でいささか郊外を乗り廻している。たった今町から出てきて、ぴかぴか光るペダルを踏んで、広々した自然の中へ、景気よく乗り込んでゆくところなのである。はでな色をしたシャツの上へ、灰色のジャケツを重ねて、軽いゲエトルと、それから世にも思い切った鳥打帽とを着けている。茶がかった格子柄で、てっぺんにぽっちのついた、すこぶる奇抜なやつである。しかもその帽子の下からは、ふさふさした明色の髪の毛が、どっさりはみ出して、額の上に逆立っている。眼は黒味がかった青である。若者は生命そのもののごとく飛ばして来た。そうしてベルを鳴らした。ところがピイプザアムは、髪の毛一筋ほどでも道を開けようとしない。そこに突っ立ったなり、頑固な顔つきをして生命を睨みつけている。
生命は彼にいまいましげな一瞥を投げつけて、ゆっくり彼の傍を通り過ぎた。するとピイプザアムのほうでも、やはりまた歩きはじめた。しかし自転車が自分の前になった時、ピイプザアムはゆっくりと重々しい抑揚をつけて、こういった。
「九千七百零七号。」
それから彼は、生命の視線が呆れたように自分の上に注がれているのを感じながら、唇をぎゅっとかみ締めたまま、じっと足もとを見つめた。
振返った生命は、片手でサッドルのうしろをつかんで、車をごくゆっくり走らせながら、
「なんですって?」と訊いた。||
「九千七百零七号。」とピイプザアムは繰り返して、「いや、なんでもありません。私はあなたを告訴するのです。」
「あなたが私を告訴する?」
と生命は訊き返した。いっそうからだをねじ向けて、いっそう速力をゆるめたので、いきおいハンドルと一緒に、一生懸命、あっちへふらふら、こっちへふらふらやっている。||
「その通り。」と、ピイプザアムは五六歩離れたところから答えた。
「どうしてです。」と生命はそう訊いて、自転車を降りた。立ち止ったまま、ぜんたいなにごとだろうという顔つきをしている。
「わけはあなた自身よく御承知のはずです。」
「いいえ、知りませんよ。」
「御承知に違いありません。」
「知らないといったら知らないのです。」と生命はいった。「それにどうも、僕にはまるっきり興味のないことですからね。」
そのまま彼は自転車に寄り添って、ふたたび乗りかけた。ちっとも凹まされなんぞはしない。
「私はあなたを告訴します。あなたはあっちの国道のほうを走らないで、こっちの、この墓地へゆく道を走ったからです。」とピイプザアムがいった。
「だけどあなた、」と生命はいまいましそうに、じれったそうに笑いながらいうと、さらに振り向いて立ち止った。「自転車のあとはこっちの道にも、ずうっとどこにだってついているじゃありませんか。||みんなこの道を通るのですよ。」
「そんなことは、まったくどうだってかまわないのです。」とピイプザアムはいい返した。「私はあなたを告訴します。」
「そうですか。そんならどうなりとお好きになさいましだ。」と生命は叫んで、自転車に乗りにかかった。彼はちゃんと乗っかった。乗り損なうような醜態は演じなかった。たった一度足を
「こうまでいってもまだこの道を、この墓地へゆく道を走る気なら、そんなら私は、もうどうしたって間違いなくあなたを告訴しますよ。」と、ピイプザアムはたかまった震え声でいった。しかし生命は、そんなことなんぞ微塵も意に介しないで、いよいよ速力を増しながら走りつづけた。
もしもこの瞬間にロオプゴット・ピイプザアムの顔を見たとしたら、諸君はずいぶんおどろいたことだろうと思う。唇をあまりひどくかみしめているものだから、頬っぺたも、それから例の灼熱した鼻さえも、まるで妙な風にゆがんでしまっている。そうして眼は、不自然に高く挙げられた眉の下から、気違いじみた色をして、遠のいてゆく乗り物のほうをじっと見送っているのである。突然彼は、ころぶようにかけ出した。と、自転車までの短かい隔たりを走り尽して、サッドルの革嚢をつかんだかと思うと、両手でそれにかじりついたなり、すっかりぶら下ってしまって、相変らず唇をおそろしくぎゅっとかみしめたまま、ものもいわずに眼を怒らせながら、進もうとしてゆれもがく自転車を、必死のいきおいで引きとめにかかった。もし誰かこの様子を見た人があったら、いったいピイプザアムは、悪意からこの若い男を、そのうえ走らせまいとしているのか、それともまた、曳船をしてもらってから、後ろに飛び乗ったうえ、一緒に走って、しばらく郊外を乗り廻したい、同じようにぴかぴか光るペダルを踏んで、ひろびろとした自然の中へ、景気よく乗り込みたいという願望におそわれたものか、どっちともきめかねたかもしれない。||このすてばちな重荷を、自転車はとても長くは背負いきれなかった。停って傾いたかと思うと、ばたんと倒れてしまった。
さあこうなると、生命もおとなしくしてはいない。片足立ち上るやいなや、右腕を挙げて思いきりピイプザアムの胸を突いたので、ピイプザアムは五六歩たじたじとうしろへよろけた。それから生命は威嚇するように声を高めながら、こういった。
「酔っ払ってるんだろう、この野郎。妙な奴だな。もう一ぺんおれをとめようとでもしてみろ。ずたずたに切りこまざいてやるぞ。わかったか。骨まで叩き割ってやるからな。いいか。覚えていろ。」||それなり生命は、ピイプザアム君にくるりと背を向けて、癇癪をおこしたように、帽子をぐいと深くかぶり直すと、ふたたび自転車にまたがった。どうしてどうして、一向に凹まされなんぞはしない。乗りかたも前と同じく鮮かなもので、やっぱりただ一度ふんばっただけで、もうサッドルにしっかりと腰を据えて、たちまち車を征服してしまった。その背中がぐんぐん遠ざかってゆくのを、ピイプザアムは見ていた。
彼はそこに突立って、はあはあ、あえぎながら、生命のうしろ姿をじっと見送っている。生命は別に倒れもせず、平穏無事だった。タイヤアも裂けず、石一つ道をさえぎることもなく、はずみながら疾走してゆく。それを見ると、ピイプザアムはどなりはじめた。罵倒しはじめた。あるいは吠えはじめた、といってもいいかもしれない。もうとうてい人間の声ではないのである。
「もう走ってはいかん。」と彼は叫んだ。「そんなことをしてはいかん。この墓地へゆく道でなく、あっちのほうを走るんだというのに、聞えないのか。||降りろ。すぐに降りろ。おお、おお、おれは告訴する。訴えてやる。おお、ほんとになんたることだ。やい、おっちょこちょい野郎、倒れやがったら、もし倒れやがったら、踏んづけてやるのに。靴で
こんな光景は空前である。墓地へゆく道の上に、ののしりわめく一人の男がいる。男はのぼせ上って吠えている。ののしりながら躍る。飛び上る。手足を目茶苦茶に振り動かす。無我夢中になっているのである。先刻の乗り物は、とうの昔に見えなくなってしまったのに、ピイプザアムはまだ依然として、ひとつところで狂い廻っている。
「とめろ。あいつをとめろ。あいつは墓地へゆく道を走っているのだ。なんたることだ。やい、このならず者。横着者。猿面野郎。青黒い眼の玉め。ひどい目に会わせてやるぞ。野良犬め。大ぼら吹きめ。間抜けめ。物知らずの阿呆め。||降りろ。たった今降りろ。誰もあいつを投げ倒す奴はいないのか。あの畜生を。||乗り廻すとはなんだ。墓地へゆく道を乗り廻すとは。あいつを引きずり下せったら、あのとんちき野郎をよ。ああ······ああ······どうかして貴様をつかまえてやりたいなあ。なあ、おい。さあ、もっということはないかな。やい、悪魔に眼玉をえぐり出されろ。物知らずの、物知らずの、物知らずの阿呆者め······」
ピイプザアムの使う文句は、もうここには書き現わしきれなくなってきた。彼は口から泡を吹きながら、破裂したような声とともに、下品きわまりない悪口雑言を吐き出す。と同時に、からだの狂乱もだんだんはげしくなってくる。そこへ籠をさげた子供が五六人、テリヤアを一匹連れて、国道のほうからやって来た。溝を越えると、子供たちは絶叫する男を取りまいて、そのねじ曲った顔を、さも物珍しげに眺めている。うしろのほうの普請場で、仕事をしたり、またはちょうど昼休をはじめたりしていた職人たちも、やはりピイプザアムに気がついて、男も
「やって来い。みんなやって来い。」とピイプザアムは吠える。「お前たちだけじゃない。そっちのほうの奴らも、鳥打をかぶって青黒い眼玉をしている奴らも、みんな集れ。おれはお前たちの耳に、本当のことを叩き込んでやるのだ。それを聞いたら、未来永劫がたがた慄えていなけりゃならんぞ、このろくでなしの抜け作めら。······にやにや笑っているな。首をすくめているな。······おれは飲んでいる。もちろん飲んでいるとも。お望みなら浴びているといったって差支えない。しかし、それがどうした? まだ幕がおりたわけじゃないぞ。今に見ろ、役にも立たんがらくたども。今に神様がわれわれを残らずお裁きなさる時が来るのだ。······ああ······人の子は雲に乗って現われ給うだろう。このおめでたい野郎どもめ。人の子の
ピイプザアムはもう今では、山のような群衆に取り囲まれてしまった。声を立てて笑う者がある。眉をしかめながら見入っているのがある。普請場からは、さらに大勢職人や漆喰運びの女がやって来た。馭者が一人、馬車を国道にとめると、鞭を握ったなり降りて来て、これもやはり、溝を越して歩み寄った。一人の男がピイプザアムの腕をつかんでゆすぶった。が、なんの効能もなかった。一隊の兵士が通り過ぎた。みんな笑いながら、ピイプザアムのほうへ首を差し伸べてゆく。例のテリヤアは、もうとても我慢ができなくなって、前脚を地面に突っ張って尻尾をまるめながら、真っこうからピイプザアムに吠えかかった。
突然ピイプザアムは、もう一度声を振りしぼって、「降りろ。すぐに降りろ。物知らずの阿呆者め。」とどなって、片方の腕で大きく半円を描いたかと思うと、ぐしゃりとつぶれてしまった。それなりばったり口を利かなくなって、物見高い群衆の兵中に、黒い塊になってよこたわっている。いびつなシルクハットは、ひょいと飛んで、地面で一つはずんだ後、これも同じくそのままそこへよこたわった。
左官屋が二人、身動きもしなくなったピイプザアムの上にからだをかがめながら、職人らしい律義な分別くさい調子で、この場の処置を相談し合った。まもなく片方がからだを起すと、速足でどこかへ見えなくなった。居残った人たちは、人事不省のピイプザアムに、なおあれこれと手当を施してみた。一人が桶から水を掬ってぶっかければ、もう一人は、自分のブランデエの壜を掌のくぼみへ傾けて、その掌でこめかみをこすってみるといった調子である。しかしどの骨折りも、一つとして成果を収めることができなかった。
こんな風でしばらく経った。が、やがて車輪のひびきがして、馬車が一台、国道をこっちへ走ってきた。見ると、衛生隊の馬車である。現場に来ると、馬車はとまった。きれいな小柄な馬が二頭つけてあった、箱のどの側にも、厖大な赤十字が描いてある。よく似合った制服の男が二人、馭者台からするする降りてきた。と思うと、一人が馬車の後ろのほうへ行って扉を開けて、取りはずしの利くベッドを引き出そうとしているあいだに、もう一人のほうは、墓地へゆく道のほうへ飛び移って、弥次馬を払いのけると、大勢の中から一人を加勢に頼んで、ピイプザアム君を馬車まで引きずって来た。それからピイプザアム君は、例のベッドの上にねかされて、まるでパンをパン焼き
やがてまもなく、彼等はロオプゴット・ピイプザアムを運び去った。