嘉吉は山の温泉宿の主人だった。この土地では一番の物持で、山や畑の広い地所を持っていた。山には孟宗の竹林が茂り、きのこ畑にきのこが沢山とれた。季節になると筍や竹材を積んだトラックが、街道に砂埃をあげ
嘉吉はまだ三十をちょっと越したばかりの若い男だった。
別段にする事もなく、老人を集めては、一日、碁を打っていた。余っ程
嘉吉は人が好くて、大まかで、いつもにこにことしていた。小作人が、時折、畠の
ただ、久助だけは、ちっとばかり、度が過ぎやしめえか、と心配していた。久助はもう五十に手がとどく、先代からの雇人だった。
先代の在世中には
その男は、来るときまって、嘉吉さんや、と甘ったるい声を出しては、幾ばくの金を借りて行った。今度沼津へ草競馬を始めようかと思ってな、そりゃお前、ど偉い儲けだ。それでその少しばかり、運動の
叔父は沼津の芸者を
ブリキの鑵へ印刷する工場を作りたいのじゃがどうだろう、え? 嘉吉さん、······
主人と沼津の男の会話が、開け放たれた二階の窓から洩れて来る。と、久助は
この土地は低い山の懐に抱かれていた。その底を、石の多い谷の河原に、綺麗な水が瀬をなして流れていた。久助は片手にひっかけ鉤をつけた釣竿を持ち、片手に
久助は先代の時から、毎日この鮎だけを釣るのが仕事だった。この村で鮎を釣るのは一番だと云われていた。多い日には二十本もあげた。
久助は今、岩に腰をかけて、
向う岸の竹藪に夕陽がわびしくさしているのを眺めながら、久助はぼんやりと考えていた。
あんなお人好しで、人を信じる事だけしか知らない若主人じゃ、今にあの竹藪もなあ、と深い溜息を
その時、
川べりに生えた栗の大木の梢に、釣橋がガタガタと揺れている。青白い女の顔が、山と山で細長く区切られた夕暮の空の中で、晴れやかに笑っている。
久助は煙管をぽんと岩角にぶっつけて、おしまかと云った。
釣橋のたもとに一軒家があった。土地の曖昧宿で、久助は給金を皆んなそこで飲んでしまった。おしまはそこのお酌だった。久助は惚れていたが、おしまは何とも思っていなかった。
久助さんにゃ、鮎は釣れてもおしまは釣れめえ、と朋輩がからかった。久助は怒って、三日も口をきかなかった。
久助はどうしても今晩おしまに会い度いと思ったが、まだ給金を貰っていなかった。水を入れた木箱の中の鮎を数えると、彼は立上った。そして岩を飛び飛び、憂鬱な顔をして宿へ帰って来た。
開け放たれた二階の窓からは、ブリキの鑵へ印刷する工場の話がまだ続いていた。大分お酒がまわっているらしく、陽気な男の笑い声が聞えていた。久助はグビグビと咽喉を鳴らした。
流れを引いたいけすに鮎を放つと、板場の註文だけに網にいれて台所へ渡し、自分の部屋に帰って着物を着更え、冷えた身体をお湯に浸かした。釣橋の上から笑ったおしまの身体が、そこの湯気の中から白く浮んで彼を招いた。
ぼんやりと部屋に帰った久助はぼんやりと朋輩の
夜中。||ぐでんぐでんに酔払って帰って来た久助は、宿の裏口で、いきなり朋輩の男に殴られた。何をするんでえ、と云うと又殴られた。そこへ主人が起きて来て朋輩の男を
翌朝、ケロリとした顔をして、久助は主人の前へ呼び出された。
主人は、人間の性が如何に善であるかを、
その通りです、と久助がぴょこんと頭を下げた。眼の中に一杯涙を溜めていた。
そうだろう、そうだろう、私しゃお前を信じている。お前は私の信頼を決して裏切るような男じゃない。その証拠をお前はきっと見せてくれるだろう。||そして主人は日頃読んでいる、トルストイの「ポリクシュカ」と云う小説を思い出した。
彼は立上って、やがて帳場の金庫から財布を持って出て来た。中から十円札を三十枚数えると、それを久助に渡して、云った。それじゃわしは、お前に今日、大切な用件を頼むよ。昼から、孟宗の荷を三島へ出すから、お前が
主人は出来るだけ優しい言葉を使った。そうやって久助の良心の中に、しっかり監視をつけてやった。
久助は涙をぽろぽろと流し
竹材を一杯積んだトラックが、川に沿った街道をガタガタと走って行った。
代金を受取った久助は、丸久の店を出るとそのまま、銀行の前をさっさっと通り越して、真直ぐに駅の方へ歩いて行った。彼はそこで東京行の切符を買った。
箱根の山が、車窓の外でグルグル廻っていた。
俺が無事に今日の役目を果して帰れば、あの若主人の信念はますます固くなるばかりだ。これであの人も、人を信ずる事の愚かさを知る事が出来ただろう。そう思えばこんな三四百の金なんか安いもんだ。これであの竹林も、山葵畠も、皆んな無事に済むのだから。
そして久助は、出がけに彼の